第1曲 夕べに ~Des Abends~
夕べに ~Des Abends~
波の音が聞こえる……。
穏やかな波の音。
子供の頃、私がまだ自分を人だと思っていた頃に大好きだった波の音。
でも、今はこの音を聞いても何の感慨も浮かんでは来なかった。
私は空を見上げた。
幾年かぶりの青い空を。
太陽の陽射しが眩しかった。今は夏なのかな。薄着の体に汗がにじんだ。
体がひどく重たく感じる。少し疲れているようだ。私は激しい睡魔に襲われた。
なぜだろう、このまま寝てしまうともう起きることは無いように思えた。でも、それも悪くは無いと躰の中で声が響く。そう、悪くは無い。
ああ、これが自由なのかもしれない。私は自由に死ねるんだ。
1
「…誰?」
日は陰り、辺りはすでに薄暗くなっていた。背後に気配を感じ我に返ったが、いったい私は何時間ここで岩陰に背を預けていたのだろうか。
振り返ると、岩の間から覗く影がはっきりと確認できた。私は視線を離さずに身構え、無言で影を威圧した。しばらくの間その状態は続いたが、影の人物は観念し、その姿を現した。
「驚かすつもりは無かったんだ。ごめん」
出てきたのは少年だった。歳は私よりも2、3歳若く見える。14歳くらいでだろう。伏し目がちで気弱そうな雰囲気だが、四肢には程よく筋肉が付き始めていて体は着実に人間の男へと変わり始めている。どうやら私の追手ではなさそうだ。
「何か用?」
「この場所、よく来る場所なんだ。静かで岩場だから人に見られることもない。落ち着きたい時にいい場所なんだよ。そこに、今日は貴女がいた」
「なるほど」
「貴女はどこからきたの? この辺りじゃ見かけないけど…」
「……」
少年は純粋に興味から聞いているのだろう。しかし、面倒な事になった。嘘をついてこの場を誤魔化すか。でも、私は嘘が苦手だ。それによく考えてみれば、嘘なんてつく必要は最初から無い。
どの道、少年を生かしておく理由はないのだから。
2
「私は逃げて来たんだ」
「…どこから? なぜ逃げてるの?」
完全に日は落ちたが、目はすでに暗闇に慣れていたうえに、月明かりも届いていたので目の前の少年の様子はよく見て取れた。彼は私の雰囲気にのまれてはいたが、それでも真っ直ぐに私を見つめている。
「研究所。どこに有ったのかはハッキリと覚えていないけども、ここよりもずっと遠くの山奥にあったと思う。私はそこから逃げて来たの」
「研究所…」
「なんでそんな所にいたとおもう?」
「…分からない」
私は体を大の字に広げ、少年に聞いた。
「私は何に見える?」
「女の人。僕よりも年上かな」
「うん。私は女で君より年上だと思う。でも、実はもっと根本的なところが君とは全く違うんだ」
「え、…どういうこと?」
少年は頭を捻り、問の意味を必死に考えている様子だった。我ながら意地の悪い質問だ。
「…じゃあ答えを教えてあげる。でも、聞いたら貴方は後悔するよ。それでも聞く?」
「聞きたい」
「どうして聞きたいの?」
「うまくは言えないけど…。貴女の事だから知りたい」
人間の男としては正常な思考なのかもしれない。しかし、私にとっては予想だにしない解答だった。こんな台詞をサラッと言えるのが成長期のなせる技なのか、彼自身の個性なのかは分からなかった。
「分かった。私はね……人間じゃないんだよ」
3
「私は人間の進化系。新しい人類のミトコンドリア・イブなんだ」
「ミトコンドリア・イブ?」
「う~ん。つまりは新人類の一番初めの人だと理解してほしい。私の体内のDNA配列は旧人類のそれとは全く違うんだ」
少年は困惑していた。まあ、無理もないと思う。いきなり理解できる話ではないし、私が彼の立場なら頭のおかしな人に会ったと思うだろう。
「旧人類とどこが違うの? 見た目は同じに見えるけど……」
「うん。外見は何も変わらない。基礎的な身体能力も旧人類より少し向上しているくらいかな」
「それじゃあ…」
「違うのはね、ここだよ」
私は自分の頭を軽く片手で叩いた。
「頭?」
「そう。正確には脳みそが違う。何処かで聞いたことがあるかもしれないけど、人間は脳みそを全然使いきれていない。せいぜい全体の10%くらいしか使えないそうよ。でも、私は違う。私は無意識でも脳の50%を使えるし、意識すれば80%近くまでその力を引き出せる」
「すごく頭がいいて事なの?」
なかなか素直な反応だ。
「そうね。頭はずば抜けて良いと思う。でも、それだけじゃないの。こればかりは実際に見せた方が早いかな」
私は意図を計りかねている少年を横目に、彼の後ろにある幅1メートル程の岩に意識を集中させ、岩を破壊した。
辺りに、岩を内側から破裂させたことによる轟音が響いた。少年は反射的に音のした後ろを振り向く。そこには、先ほどまで存在してた巨石の姿は跡形もなく、粉々に砕けてしまっていた。
「これ、貴女がやったの!?」
私は頷いた。
「人が動くとき、そして考えるとき、体に微弱な電気が流れる。でも、脳の能力が異常に向上した新人類は扱う情報量が膨大になるために、体を流れる電気の量もそれに付随して増えていくの。その結果、体の中でのみで発生させる事の出来る電気だけでは足りなくなるんだ。その足りない電気を補うために、自然界のエネルギを電気に変換して、体内に取り込む仕組みを持っているの。今のはその応用で、取り込む予定の電気を岩にぶつけて破壊してみせたの」
「……それって、人間も壊せるの?」
超常的な現象を前に、少年は異様に冷静だった。その時、初めて私はこの少年の異常さに気が付いた。私はもう一度、彼をよく観察してみることにした。
彼はワイシャツに黒いズボンを着ている。中学生の制服というものだろう。しかし、よく見て見ると、彼のワイシャツには大小様々なシミのようなものが出来ていた。暗くてシミの色合いなどは確認できないが、そのシミが血なのではないかとの考えに至るまで、さして時間は掛からなかった。そして、私は少年の問にゆっくりと答えながら手を彼にかざした。
「殺せるよ。簡単にね」
4
「私はね、最初の新人類としてその生態や力を見分されるために研究所に閉じ込められていた。でもね、実はもう一つ私を幽閉しなくては彼らにとって不都合となる事が有ったの。わかる?」
「……うん」
勘のいい子は嫌いではなかった。私はかざした手をそのままに、無言で彼に先を促した。
「貴女はきっと沢山人を殺してる。そして、それは僕ら普通の人間の感覚とは全く違うんだ。だから、仕方なく閉じ込めるしかなかった。これ以上、犠牲者を増やさないために」
「……正解。私は本能で旧人類を殺すように組み込まれているの。今も貴方を殺したくてウズウズしているわ。でも、その前に幾つか聞きたい事が有る。まず、なんで私が生まれながらの人殺しだって分かったの?」
少年はゆっくりと左手をあげ、人差し指で私を指しながら言った。
「貴女の表情を見たら分かった。今の貴女の表情は、僕ら人間が自分より弱い生き物に向ける憐れみとか優越感とか、色々な感情が混ざったようなものだと思う」
「…なるほどね、もう一つ貴方に聞きたいことがあるのだけど聞いてもいい?」
「うん」
「誰を殺してきたの?」
少年は多少瞳孔を見開いたが、それ以外は驚いた様子もなく淡々と答えた。
「義理の父親を殺してきました。……僕の話を聞いてくれますか?」
私は頷いた。
5
「僕は父を幼いころに無くし、妹と母親と3人暮らしでした。そんなある日、母が再婚相手を連れて来たんです。義理の父は結婚前は非情に良い人で、僕と妹も再婚には賛成しました。でも、結婚してからすぐに暴力的な本来の性格を見せるようになりました。それからの毎日は地獄の日々だった。母は何かあるたびに義理の父親から暴力を受け、中学に進学したばかりの妹はすぐに純血を奪われました」
少年は力なく立ちすくみながら、夜空を見上げ淡々としゃべり続けた。
「そんな状態にあっても、僕は義理の父親から受ける暴力が怖く、二人をかばうことが出来なかった。何時も部屋の隅でうつむきながら、義理の父親の激昂が止まるのをひたすらに待つ事しか出来なかったんです。そして、つい三日前に母が首吊り自殺しました。その時になってようやく決意が固まったんです。義理の父を殺す決意が。多分、それが意気地の無かった兄が妹にしてあげられる唯一の事だと思ったんです」
「そして、今に至るのね」
「そうです。無事に殺せました。こんな事ならもっと早く実行に移すべきでしたよ」
少年は初めて笑った。つい先ほど人を殺した人間の物とは思えないほど、無邪気な笑顔だった。私は少年にかざしていた手を下した。
「もし、ここで私に出会わなかったら、貴方はどうするつもりだったの?」
「これで自殺するつもりでした」
少年はズボンの後ろに手を回し、拳銃を取り出した。
「義理の父は警察官だったんですよ。なので拝借してきました。でも、もうこれは必要ありません」
少年は拳銃を足元に落とした。
「お願いします。貴女が僕を殺してください。こんな拳銃で自殺するよりも、貴女に殺された方が僕は救われると思います」
「どうしてそう思うの?」
「貴女が好きになったからです」
6
思わず吹き出してしまった。今まで、私は道端のアリを殺すかのように人間を殺してきたのに、この少年を殺す気力は全く無くなってしまったのだ。自分でも初めて感じる不思議な感覚だった。
「君、名前は?」
「日野貴志です」
「じゃあ、貴志君でいいか。私の事はカナミて呼んで」
「は、はい」
「どうせ死ぬ覚悟が出来ているなら、私のお願いを聞いてほしいんだけど、どう? 貴志君」
貴志は事態が呑み込めず、ポカーンとしている。私は笑いながら説明した。
「私、さっきも話したように研究所から逃げているの。ちなみにまだ死ぬ気はさらさら無い。貴志君、私のボディーガードになってよ。拳銃もあるし、私の力も万能では無いから色々とサポートしてほしい。勿論、いざとなったら貴方を文字どうり盾として遠慮なく使わせてもらうわ」
貴志はしばらくの間、私の話を咀嚼しながら立ちすくんでいたが、先ほど見せたように無邪気な笑顔で答えた。
「なるほど、僕は好きになった貴女の命を守るために命を捨てられて、貴女は生きるために僕を利用できるわけですね」
「そう。ただ無下に死ぬよりは生き甲斐があるでしょ? でも、私も普通の人間と行動を共にするのは初めてだから、今はそんな気が無くなっちゃったけど、突然、貴方を殺したくなるかも。そしたら無下に死んでくれる?」
貴志はすぐに頷いた。
「うん。そしたら殺してください。貴女の欲求を満たすために死ねるのならば、それは僕にとって無下ではないと思います」
「つくづく君は壊れちゃってるみたいだね」
「お互い様です」
そして、私たちは声を上げて笑い合った。私は貴志の体を手繰り寄せ、その口に軽く唇を重ねた。
「これで契約成立ね。よろしく」
「よろしく」
貴志は体を強張らせ、頬を赤く染めながら言った。
夏がもうすぐ終わる、ある夕べの出来事だった。
第1曲 夕べに ~Des Abends~ 完
第1曲 夕べに ~Des Abends~
読んで頂きありがとうございました<(_ _)>
この作品は、ロベルト・シューマンの幻想小曲集作品12の全8曲のタイトルをテーマに書かせていただく予定です。ですので、全8編での完結を予定しています。要素としてSF要素を挙げてはいますが、SF的な要素よりも二人の心情にテーマを置く予定です。また、作者は漫画家岡本倫先生のデビュ作「エルフェンリート」の大ファンです。作品の随所にその要素が見受けられると思いますが、ご了承ください。
現在はミステリ小説の創作をメインに行っているので、この作品の更新は遅めになるかと思いますが、引き続き読んで頂けると嬉しいです。