鳥はどこからきてどこへゆくのか

 鳥はどこからきてどこへゆくのか。

 心のお喋りがやむとき、耳の奥ふかくで眠る森から、しずけさがしみだす。

 ――と、

 聴こえてくるはず。かなたから。

 見よ。

 空につぶらなひとみをむけ、螺旋を巻きながら舞い上がってゆく鳥の羽搏きを。

 ――鳥はどこからきてどこへゆくのか。


 ※

 ――鳥の群れが空を覆い尽くし、うねりながら渦を巻く。

 たぶん最初の記憶。

 このエピソードにかんする最初の記憶の起源を突き止めようとするなら、晴れわたった空の下へと辿り着く。アイハラにまつわるイメージもまた、午前中の空の下、鳥とともにはじまり、数日後の鳥の映像とともに終わる。

 だからこそ、ユーリについて回想をこころみる前にまず、アイハラについても語っておかなければならない。

 では、晴れた空の下で起こった出来事について縷々語ってゆくことにしよう。

 その日もやはり、鳥の群れが空を旋回していた。これが今日、ぼくたちに示された符牒なのかなと思い、それをしるしに指定された集合場所にむかって歩いていく。
 ぼくは出会った。鳥のざわめく空の下、ひとり佇むアイハラと。
 指定された場所とは、土手から降りてしばらく歩いたところ。淋しげな場所だった。ぼくらは春の河原にいる。草が芽吹く気配はない。春はまだ寝呆けながら瞼をごしごし擦っている状態だ。それにしても、とぼくは空を見上げる。耳を聾さんばかりに騒ぐ鳥の声。
 アイハラが口をひらき、なにごとかを囁いた。ぼくは耳とともに注意をアイハラにむけ、彼の声を聴こうとした。
 でも、鳥のざわめきに遮られて聴こえない。
「なに?」
 アイハラがもう一度、いう。今度は明瞭な声となって聴こえた。
「何日か経過したあとの鳥だ」
 何日か経過した?
 どういう意味だ?
「なんだ、経過って」
 アイハラはそれにはこたえず、上空で騒ぐ鳥を指で示した。
「鳥よ、去れ」
 呪文をひとこと、発する。たしかにぼくらは風変わりな大学の学生であったが、魔法学校で学んでいるわけではない。しかしアイハラが放った呪文らしき文言の効果は覿面だった。鳥が消えたためか、空はにわかに明るくなった。
 ふと、グリーンの色をした一羽の小鳥がアイハラの肩の上に舞い降りる。
 と、鳥はきよらかな声で朗々とうたった。
「春がきたよ、とうたっているんだ」
 アイハラが無表情な声でいった。
「春がきた?」
「うん。よろこんでいるんだよ」
 そういったきり、彼は口を噤んだ。
 やがて鳥も飛び立ち、ここいらはすっかり静かになった。いよいよ静謐がピークにまで昂まり、きつい。誰かこないかな? アイハラの恋人、ユーリもここにはいない。

 ユーリとアイハラ。

 奇妙なことに彼らは恋人同士だというのに、いつだって一緒にいるところをみたことがない。ユーリがここにいてくれたら救われるのに、とぼくは思った。
 実はアイハラは、ぼくにとって怖すぎる存在だ。アイハラが醸す沈黙が怖いのか? そうかもしれないし、ぼくがたんにアイハラを過大評価しているだけなのかも。
 ここが符牒で示された場所であるなら、ぼくとアイハラは動くことはできない。ユーリはまだ到着していなかったし、他に人がやってくるまでアイハラの沈黙と一緒に佇んでいなければならないのだ。
「この場所でいいのだろうか?」
 符牒が空の上にあきらかに示されていたが、ぼくはアイハラに訊いてみることにした。
 アイハラは黙っている。ぼくはもう一度、口をひらかなければならない。
「今日の教室はここでいいのだろうか?」
 手肢が長く、ほっそりとした草っぽい雰囲気、しかもくっきりした二重瞼のきれいな男子、アイハラがじつにスローな速度でこちらに顔をめぐらせる。
 癖っ毛のつよい栗色の髪の毛のあいだから表情のない眼がぼくのこと、みている。返事がもどってくるまで、ずいぶん待ったような気がする。
「ああ、そうらしい」
 アイハラの言葉は石の礫だ。重いし、そいつで殴られれば痛い。
 でも、あとほんの僅かの辛抱だ。もうすぐ授業がはじまる。ここが今日、大学が出没する場所なら、三々五々、それぞれの日常に顕現するしるしを道案内にし、この荒涼とした河原に人が集まってくることだろう。
 というのも、この場所が本日、空気的な大学になるはずだった。エアな、というのは、校舎が存在しないという意味だ。すなわち、ふいにあらわれては消える幽霊みたいな大学。そうしてこの実態ゼロの大学で、ぼくをふくめ、ここに集まってくるみんなは映画づくりを学んでいる。開講をしらせる符牒に誘導され、集まることが可能なら資格は問われない。誰でも学生になれるし、すぐさまやめることだってできる。
 大学は神出鬼没だ。
 雲や雨などの自然現象としてあらわれるしるしをみて、どこで授業がおこなわれるかを探りあてなければならない。そうして、このようなランダムな出現ぶりにについてこられる者、それこそが敢えていうなら、この大学の学生の資格といっていいだろう。
 授業風景はこんなふう。
 小学校の屋上に大学があらわれたときには、「被聖母昇天」さながらに空中に挙げられる少女を観測する、量子力学的映画の授業がおこなわれたことがあった。また市民プールのプールサイドにこっそり忍び込んだときには、鏡と化した水面に現実の星空を映しだし、ナマなプラネタリウムをみながら教鞭を執った教授もいた。さらに深夜の水族館では、発光するサカナやクラゲを光源にして自主制作された映画が上映される、なんてこともあったり。
 大抵、ふいにあらわれる大学に集まってこられるのは、暇を持て余した二十歳前後とおぼしき映画好きの男女と相場はきまっている。
 けれども時に老人の姿が混じっていたり、それ以外にも、――登校途中なのだろう、小学生の女の子が戸惑いながらも、ぼくら学生の集団に迷い込んでいることすらあった。
 やがて、ポツポツと人が集まりはじめたのでぼくは安堵した。固定メンバーもいたし、新顔もいた。新しいメンバーのなかには、スケルトンになった水鉄砲をだらりと右手から提げた高校生の女の子がいた。
 オレンジの、――柑橘系のにおいが鼻腔をくすぐった。頬をピンクに染め、若々しく華やぐ娘がぼくの横にならんだ。ユーリが遅れて到着したのだ。彼女は恋人のアイハラではなく、ぼくの傍らに寄り添った。
 だからといってアイハラは嫉妬するふうでもない。
 ユーリもまた恋の鞘当てをするといった感じで、ぼくのこと、利用しているわけではなかった。とても自然に彼女とぼくは一緒にいる。これがいつもの彼らとぼくの奇妙な交遊スタイルだった。

3

「さ、今日は映像実習だったね」
 教授とおぼしきひとりが人々の輪の中に一歩足を踏みだすと、みんなの顔をみまわした。メンバーはそれぞれ僅かに顔を俯けたり、眼をそらしたりした。
 輪の中心で声を発したのは小学生の男の子だった。今日はこの子が教授を務めるのだろう。なに、ちっとも不思議なことではない。シュピーゲルモリアオガエが川魚についての映画を撮った話をしてくれたこともあったし、ポケットに入っていたミルク・キャラメルが突然、人語を操って、お砂糖とミルクと映画についた語りだしたこともあった。講義のあと、蝋の包装紙を剥くと、ぼくはそのミルク・キャラメルをぽい、と口の中に放り込んで食べちゃったけどね。
 授業は開始を告げた。男の子の教授は、ぼくを指さした。
「たしか今日はきみから発表する番だった、と思うんだけど」
「えっと、あ、……はい」
 と、言いかけたところでぼくを遮る声がある。
「今日はどんなテーマなの?」
 高校生の女の子はぞんざいな口調で教授役の男の子に問いかけた。彼女は銃口を咥えると水を呑んだ。水鉄砲に充填されているのは、きっとミネラルウォーターだろう。
 教授に対して甚だしく失を失した態度ではあったけれど、誰も彼女を咎め立てたりはしなかった。この子はこの大学に入ってまだまもなく、いろいろなことに馴れていないのだ。  
 ぼくは言った。
「映画を上映せずに映画を演じてみせることが、今日の映像演習のテーマだったかと思います」
 なんなのそれ、と高校性は鼻を鳴らしたが、ぼくは意に介さなかった。ぼくのそばにいるユーリがぼくのこと、しっかり見まもってくれているから気にならないのだ。
「うん、そうだった。で、もう用意はできているのかな?」
 と教授。
「ええ、これです」
 ズボンのポケットからぼくが取りだしたものとは、白くて小さな石だった。
「なんだ石じゃん」
 声の主をたしかめるまでもない。ぷいと横をむくと彼女は水鉄砲のトリガーを引き、宙にむかって噴射した。
 ユーリが「しっ」と指を唇にあて、たしなめる。女子高生は頬を膨らませるとユーリを睨みつけた。
 ぼくはユーリにむかって微笑む。彼女もまた頷いてくれたから、ぼくは安心する。手のひらの上に転がした石に意識を集中し、語りはじめた。
「……えっと、みなさん、こんにちは。ぼく、エグチといいます。えと、さっそく前置きなしに主題に入ってゆきたいと思います」
 学生は全部で十五人くらい居た。視線がぼくに集中し、居心地が悪い。だが、ユーリがそばにいてくれるだけで励まされ、ぼくは喋りつづけることができるのだ。
「これはただの石ころに見えるし、実際そうなのだけど、ぼくにとってふつうにそこらに転がっている、ありきたりな鉱物ではないんです。この石ころはぼくの家の庭からいくらでも掘りだされるものなんですけど、ぼくが子どもだった頃は、なんというのかな、この石ころが小鳥か何かの卵だと思っていたんです」
「たまごぉ? まさか石が」
 女子高生が、からかう。ぼくはそれには取り合わず話をつづけた。
「ぼくは思いました。これはきっと鳥の卵なんだと。形態も楕円形をしているし、色も白い。ちょっと小ぶりのウズラの卵に見えなくもない。色は白いけど。石の卵はいつの日か孵化して、鳥の雛になるのではないのかな、と思います。むかしむかし生きていた、鳥の精霊が化石化したものなんだと思う。だからぼくは庭で丸い石を拾っては、それに耳を傾けるのが好きなんです。さえずりが聴こえてこないかな、って期待するんです。たぶん、このなかには眼には見えないけど秘められたものが絶対確実にある。生命とまではいかなくても、きっと何かがある」
 ぼくはいったん言葉を区切ると、聴衆をみまわした。みな、いちように呆然とした顔をしている。だが、話はもうこれでおしまいだ。
 続きというか、話のオチを待っている人たちに対して申し訳ないが、ぼくはもう一度、言ってやらなければならなかった。
「えっと、これでこの話は終わりです。みんな、最後まで聴いてくれてありがとう」
 ぼくは頭を下げると、みんなもつられた恰好になって軽く会釈した。
「つまんない」
 例の女の子が嫌味をたっぷりとまぶした感想を口にした。
 それを遮るように教授がいう。
「これはもしかしてアニメーションにしようとか、そういう意図、もしくは構想があるのかな? 石が割れ、そこから雛があらわれ、空へと羽ばたく。それをたとえば粘土をつかってクレイアニメにするとか」
「いえ、そういうんじゃなくて」
 少し言いよどむ。心で非言語的に感受していることをメタファーであれなんであれ、言葉に翻訳して相手に伝えることはむずかしい。
 言葉にしてしまうと削ぎ落ちてしまうものが、余りにもおびただしく存在している。つまり言葉だけではいいあらわせないものがあるのだ。だからこそ、映画とか音楽的な表現手段があるのだろうけど。いま、ぼくは撮影するためのフィルムや機材がないので、コトバをフィルムの代わりにして映画をこしらえるしかない。
「えっと、たぶんぼくが思うには、これはもっと大きな循環の物語がバックグランドにあって、それはぼくらの日常のすぐそばにある映像なんだけども、どうしても摑みどころというものがなくって……、あの、コトバによる映画にしたくって……、そ、そうすれば今日の講義のテーマ、――映画を上映することなく映画を上映してみせる、にもつながってくるんじゃないかと思うんです」
 と、まるで要領を得ない話し方をして言い訳がましくまごまごしていると、そこへ突然アイハラが横槍を入れてきたのだった。

4

「あの、教授」
「なんだい?」
 咄嗟に男の子の教授は声のする方に向きなおった。
「ぼくから提案があります」
「ええと、きみは?」
「アイハラといいます」
「ふうん、アイハラくん? では、聴こうか。きみの提案を」
 話の腰を中途でへし折られた感があってぼくは不快な気分になったが、アイハラのする話にも興味があって口を挟むのをやめた。ユーリを窺いみると眼を輝かせながら恋人の方を注視している。ぼくは嫉妬に襲われ、苦しくなった。
 アイハラは淡々と提案について話をした。
「彼のいったことを補足したいんです。つまり、ぼくにはエグチのいわんとするところがよくわかる。でも、彼はすべてを神の視点で把握してはいない。というのも彼が愚者とかそういうことじゃなくて、ただ当事者ではない、それだけのことなんです。そう、彼は知らない。まるでわかっちゃいない。だから、ぼくが彼のコトバによる映像を補足したいと思うのですよ」
 ギャラリーがどよめき、困惑の声が上がった。いっていることが、どうも支離滅裂だ。それにぼくのこと、バカにしている。もとはぼくがはじめた話だというのに、なぜアイハラが引き取らなきゃいけないんだ。アイハラが、ことの全貌を把握しているとでもいうのだろうか?
 でも、教授はちっとも動じたりなんかせず、むしろ優しい口調で問いただした。
「どうするんだね」
 アイハラは頷く。
「ええ、これです」
 みんなは彼の手もとを覗きこんだ。たすき掛けにした帆布製の黒い鞄からアイハラが取りだしたのは、ずしりと重たげなロープの束だった。
「ロープだね」
「そうです、見てのとおり」
「それで?」
「手品ですよ」
「手品? 映像じゃなく?」
「いえ、ですが、やっぱり映画でもある。メリエスの時代から」
 抑揚の乏しい声でアイハラはそういった。ロープを前方に投げだすと、ばさりと重たげなものが落ちる音が聴こえた。そして白い手袋を両手に嵌めた。
 何をするのかな、とみていると、アイハラが右の人さし指を立てた。
 とたん、ロープの尖端が蛇のように首をもたげた。なんだ、なんだという声が上がり、ギャラリーが騒然とする。
 鎌首をもたげていたロープは真っすぐ立つと、するするといった具合に空に伸びていった。まるで雲の上に天使がいて何か鉤のような道具をつかい、ロープを手繰り寄せているかのようだった。
 いくらもたたないうちにロープは空に巻き取られていった。アイハラのすぐ眼のまえにロープのはじっこが垂れ下がっている。
「では、みなさん」
 アイハラはギャラリー全員を眺めわたすといった。まるで感情のこもっていない棒読みのセリフだ。
「行ってきます」
 右手でロープを摑むと、軽く引っ張った。恰も何かにむかって合図を送ったかのようだった。すると上から強引とでもいえる力が働き、思いも寄らない猛スピードでアイハラはロープとともに引き上げられていった。みるみるうちに小さな黒点となってしまう。やがて空の青に呑み込まれてしまい、アイハラは消えた。すっかり消えてしまった。まるでコミカルな映画のワンシーンでもあるかのように。
 映画だったら、ここはもしかしたら笑うところなのかもしれなかった。が、だれひとりとして笑う者はいなかった。
 女子高生が突然、鋭い金切り声を上げ、泣きだすとぼくらは我にかえった。
 いま生じたできごとは夢ではなかった。
 女の子は水鉄砲を枯れた草のうえにぽとり、と落とした。そうして、まるで年端のいかない子どもがそうするように両手を瞼にあてがい、泣きじゃくりながらぼくらのサークルから離れていった。
 よほど、ショックだったに違いない。
 ぼくだって怖い。
 おそるおそるユーリをみた。ぼくの視線に気づくと、にっこり笑った。そしていったのだ。恋人がいなくなってしまったのに、さも平然と。
「鳥を見に行ったんだよ、たぶんね」

 講義が終わったあと、ぼくはいつもそうしているようにユーリをお茶に誘った。
 いつだってぼくらは当たり障りのないこと、たとえば本とか映画のことをとりとめなくお喋りし、夜がくるまえには帰る、といったスタイルの交遊関係をつづけてきた。
 これまでにもアイハラについてや、鳥にかんして話をしたことはない。
 喫茶店で一緒に時間を過ごす機会が多かったから、恋人同士みたいだね、と勘違いされることはしばしばだったけど、ユーリはぼくが彼氏でないとキッパリ否定している。ユーリが彼女であればどんなに良いことか、と思っているぼくだけど。
 ぼくらが行ったのは、Orange Cafeと呼ばれている店だった。
 ガラスがふんだんに使われているからなかは明るい。オレンジが店のシンボルカラーであるにもかかわらず、橙色の配色はむしろ少ない。テーブルクロスの一部分や什器などにワンポイントで使われている程度だった。だからこそ逆に色彩としてのオレンジが香るかのように鮮やかに引き立ってくる。メニューを手にとると開いた。オレンジタルトにパウンドケーキ、いずれも素材にオレンジをふんだんにもちいたスイーツの写真が眼を愉しませてくれる。それからオレンジゼリーにシャーベット、スフレもある。やはりお店で一番人気といえば、搾りたてのフレッシュジュースだ。
 でも、ぼくたちはこの日、フレッシュジュースは注文しなかった。オレンジピールにビターなチョコレートをかけて冷やしたスティック状のお菓子をつまみつつ、紅茶を喫した。
「あのね」
 とユーリはいった。
「あれ、たぶんほんとうのことだと思うよ」
 ぼくはついさっき、自分が目撃した衝撃的現実を、やはり心のどこかで信じることができずにいた。だから、もしかしたら、あのことは真っ赤な嘘だったんだよ、と彼女にはいってもらいたかったのかもしれない。
 でも、アイハラは空に消えてしまった。
 警察に届けなくてもいいんだろうか。でも、届けたところで、この摩訶不思議な現実をいかに説明するべきなのか途方に暮れる。天空から垂直にぶら下がるロープにつかまると、空に吸い込まれるようにして消えてしまった若い男のストーリーをどんなふうに物語ればよいのだろうか。ぼくは頭を抱え込んでしまった。
「行方不明なんかじゃないよ」
 ユーリは紅茶のカップに唇を近づけ、ひとくちすするといった。「だって数日したら戻ってくるもの」
 ぼくは激しく混乱していた。
「戻ってくるって? じゃ、きみはアイハラがどこに行ったのか知っているとでもいうのかい?」
「知ってるよ」
 こともなげにいう。
「どこにいったの?」
「雲の上の国だよ」
「雲の上?」
 ぼくは眉をひそめた。
 ユーリはぼくの恋人ではもちろんなかったが、しかし、異性の友人としてはこれまでにもわりと仲よくお喋りする時間はあったと思うのだ。秘密をシェアしているような、そんなくすぐったい共犯関係めいた感情すら、うっすら芽生えかけていたと思っていた。だから雲の上の国、といった初耳なタームにたいし、淋しさと嫉妬を感じた。結局のところ、ぼくは蚊帳の外に置かれていたことをあらためて実感させられたのだ。
「契約だからね、だから黙っていたの」
 ユーリはさらに思わせぶりなことをいう。
「契約?」
 って、何の契約だ。
「恋人の契約にきまってるじゃない」
 チョコをコーティングしたオレンジピールをつまむと、ぼくとそれとをかわるがわるみつめる。
「え、アイハラと?」
 ユーリは微笑みを浮かべると、こころもち首をすこし右に傾けてみせた。そしてピールのはじっこを少し齧ると、おちょぼ口になる。まるで、――え、もしかしてエグチ、そんなことも知らなかったの、とでもいうふうに。
「知らなかったよ」
 と、ぼくは正直に告げたものの、ユーリがアイハラと取り交わしている契約の内容については皆目、どんなものなのか見当すらつかないのだった。
「うーん。誰が誰を好きなのか、すぐにわかるとは思うんだけどな。うん」
 ユーリはわざとらしく唸ってみせると、腕ぐみをしていった。
 この言い草からすると、――もしかしたらぼくにも希望が、と妄想を逞しくするが、こんなふうな彼女の誤解を招きそうな態度に幾度、煮え湯を呑まされ、糠喜びをしてきたことか。なので、やはりどうしたって慎重にならざるを得ない。
「それってどういう契約なんだよ?」
 ぼくの口調は、とてもぶっきら棒なものだった。
「恋人の契約だよ」
「ほんとうの恋人の?」
「ちがう」
「じゃ、キスとかした?」
「それは言えない」
「で?」
「うん。契約の代償があるの」
 聴きたくないな、契約の代償って。
 とりわけユーリが支払わされたものに対しては耳をふさいでおきたい。だが。彼女も心得たもの。アイハラが何を要求してきたかについては一切語ることはなかった。それはこのあと、まったくの秘密になってしまい、ぼくはだから、これ以降の人生、妄想と詮索の人になってしまうのだけど。
「あのね、アイハラって笛吹き男なんだよ」
「笛吹き男って 、あのハーメルンの?」
「そ。ハーメルンとは実際、何の関係もないんだけどさ。……うん、でも、そう。それとおんなじニュアンスの」
「笛吹き男は、どこへ連れてゆこうとするのさ?」
 と訊いたが、すぐに思いいたった。ぼくの顔色が変化したことをユーリは見逃さなかった。だから、こういったのだ。
「あたり。エグチの考えたとおり、雲の上の国だよ。あたし、彼と一緒に雲の上の国にゆくの」
「なんのために?」
「そんなの、秘密にきまってる」
 彼女はいたずらっぽく笑うと、椅子から立ち上がった。店をでてゆこうとしていることに気づくのに三秒ほどかかった。慌てて伝票をひっつかむと、ユーリを追いかけた。支払いを済ませ、カフェをあとにする。
 迷子になってしまいそうな小みちがうねりながらつづいている。小みちのかなた、視線の消失点でユーリは、今まさに消えようとしていた。

 消える。
 消える。
 消えてしまう……。

 塀をめぐらせた上の空間を、ーーまだ桜は蕾のままだっていうのに、桜色の靄がかかり、たなびいている。この白くハレーションする空間のさらなるむこう、ユーリは消えてゆこうとしている。さっきまでふたりが一緒にいたオレンジ色の店のアトモスフィア、余韻だけをかすかに残し、彼女はぼくの手から逃れようとしているのだ。
 追いつかなければ。
 ふと塀の上をみると、蕾だった桜がいつのまにか花ひらいている。
 風がわたり、花びらがピンクがかった吹雪となって舞い、吹きすさぶ。
 やっと追いついた。ユーリの腕をつかむと、ぼくの方に振りむかせる。
 彼女の赤い唇に花びらがいちまい、張り付いている。そっと剥がす。
 瞳はうるんでいる。
 ぼくは彼女とキスしようとしたが、女の子は涙を流した。
 驚いたぼくは力を緩める。と、ユーリはするりと逃れ、曲がり角を折れると今度こそほんとうに消えてしまった。

 行方不明になったと思われていたアイハラだったが、空に消えたその数日後、ユーリがいっていたように、この地上へと戻ってきた。そうして何食わぬ顔で、映像演習の講義に出席してきたのだった。
 かたやユーリの姿は見えなかった。
 アイハラを一瞥するなり、みな一様に驚愕した。そうして一人が口を開くと堰を切ったように次から次へと質問を浴びせかけるのだった。
「どこで何をしていたんだ?」
「警察に届けようと思ったんだぞ」
「心配かけやがって。でも、戻ってこれたんだな。よかった」
 アイハラは曖昧な笑みを薄く浮かべると、何一つ語ることなく押し黙った。みな、アイハラからはこれ以上、何も引き出せないことを悟った。それほどまでに沈黙は堅固だった。彼がなぜ、ロープによって雲の上に引き上げられたのか、それは決して明かされることのない謎となってしまった。
 しかし、ぼくはそんな謎のことなど、どうでもよかった。
 気がかりはユーリのこと。
 あくる日も、そのまた、あくる日になっても彼女は授業にでてこなかった。
 心配したが、こちらからはどうすることもできない。手も足もでないとはこのことだ。切歯扼腕しながら、ぼくは待つより他なかった。

 ※

 異変は、鳥とともにやってきた。

 やはりアイハラが招いているのだった。
 彼の頭上、遥か上空を見上げる。と、青空が黒く翳ってしまうほどの無数の鳥がゆきかい、騒いでいるのだった。
「孵化したての鳥だ。だが、通常の卵からではない」
「ユーリは?」
 旋回する鳥が気になっていたが、視線はアイハラを捉え、問いただす。しかし、その表情から何か意味のある感情を読みとることはできなかった。
「きみも知っているだろう?」
「ユーリはどこだ?」
 答えがみえてこない苛立たしさに眉をひそめる。
「きみの家は先祖代々、おなじ場所にすんでいるのか?」
 これはアイハラからの質問だった。ぼくの問いかけに対し、こたえるつもりはないみたいだ。
「そうだ」
「なら、わかるはずだ。きみの家の庭からは石が発掘されるのだから」
「それはそうだが」
 事実、家の庭からウズラの卵より少しおおきなサイズの楕円形をした石がおびただしく出てきた。
「鳥よ、去れ」
 またもや、あの時の呪文だ。言葉が不可視の弩となって空にむかって射かけられた。その瞬間、鳥は四方に散らばり、雲散霧消した。
 そして訪れたのだ。舞い降りた一羽の小鳥。ぼくにとっては特別な鳥が。
 ぼくは、アイハラの肩を止まり木にしたオレンジ色の小鳥を嫌でも直視しなければならなかった。
「これがこたえなのか?」
 鈍いぼくにもようやく事の真相がみえてきたようなのだ。
「そうだ」
 アイハラは頷いた。
 捥ぎたての鮮やかなオレンジの色をした小さな鳥は可憐な声で歌った。やがて翔び立つと、ぼくらを一顧だにすることなく、青空のかなたへと消えてしまった。雲の上の国に帰還したのだ。
 ぼくは空から視線を戻した。もうアイハラは河原にはいなかった。

 夜、あまりにも強く柑橘系のにおいが香るものだから眼が覚めた。それに胸が騒ぐ。とても眠ってなんかいられない。ぼくは寝床を抜けだすと、庭を散策した。
 アイハラが指摘したとおり、ぼくらの一族は先祖代々、この土地にすんできた。かといって、なにか遺跡めいたものがあるわけではない。だが、この荒れ果てた庭からは、鳥の卵のような楕円形をした石が無尽蔵に発掘されるのだ。
 庭を逍遥するうち、闇に閉ざされているにもかかわらず、その石だということはすぐにわかった。なぜなら、他の石とはちがい、ここにあるようで「ない」石だったから。たぶん、これは幽霊の石だ。ぼくは膝を屈めると手にとった。拾い上げられた石の方でもぼくのこと、待っていたようなのだ。
 すると。
 石は橙色の焔となり、暗がりのなか、まるく燃え上がった。罅がはしり、メリメリ音をたてて割れ、てのひらの上に雛が踊りでる。火の粉を散らしながらころがり、落下した。雛はいつしか成鳥となり、やがてユーリへと姿を変えた。
「こんばんは」
 彼女は、はにかみながら言う。
「どうしてここに?」
 声が掠れた。こうなることはわかっていたのに、ぼくは激しく動揺していた。ユーリはそんなぼくをみて、くすりと笑った。
「もうあたしはここにはいない。きみだって知っているでしょ。あたしが雲の上の国へとむかって旅立っていったことを。ここにいるあたしは置き手紙のようなもの。きみにお別れを告げるための……」
「どういうことなんだ? ぼくにはわからない。教えてくれないか?」
 だいたいのアウトラインは把握しているつもりだった。でも、ユーリの残像がせっかく、ぼくのためにあらわれたのだ。彼女の口から直接、話をききたい。
 涼やかで甘酸っぱい柑橘系の印象を振りまきながら、まばゆい橙色の残像は石の卵の起源について語りはじめた。

 ……むかしむかしのことでした。魔法つかい同士の戦争がありました。
 火、水、土、風の四元素のうち、空気の精霊シルフを祀る陣営と、かたや土を祭祀する者たち、いわばコボルトを信奉するグループのあいだで、いつ果てることのない戦いがはじまったのです。人々はこの戦いを、風と土の戦争と呼びました。
 エグチ。きみが石が卵じゃないか、と考えたことは正鵠を射ていたよ。
 シルフの陣営が武器としてもちいたのは、だって風にしたしむ鳥類だったから。
 鳥は土の眷属につぎつぎと襲いかかり、めざましい戦果をあげていった。
 でも、コボルト系術師たちだって黙ってはいない。間髪をいれず飛来する武器としての鳥を、彼らの魔法は石の卵へと変えてしまった。
 風と土の戦争は愚かにも千年ものあいだつづけられた。そして或る日のこと、ひっそりと、それが終わったことなど誰も気づかないうちに終熄した。
 戦いは終わり、元素間抗争的な意味あいをもった諍いの記憶は失われる。でも、失われなかったものもある。それが何かわかる?

「古戦場跡だ」
 ユーリの問いにぼくはこたえる。
 荒涼とした庭は、むかしむかしの、今の文明が勃興する遥か以前の古戦場跡だったのだ。だから、少し土を掘っただけでも、石の卵に変えられたそれが、おびただしく発掘される。かの術師たちは、もてる力を存分に揮い、シルフの陣営をさえ丸ごと石に変えてしまった。それでも風の一族は戦いをやめようとはしない。性懲りもなしに鳥を召喚しつづける。しかも千年つづいた戦争だ。どれくらいの数の鳥たちが石に変えられてしまったことだろう。そのことを思うと気が遠くなる。
 つまりはこういうことだ。ぼくはきっと魔法つかいたちの末裔なのだ。それも先祖代々、戦争の記憶を欠いたまま、石の卵とこの土地を守りつづけた一族の最終ランナーなのだ。
「きみは鳥じゃない。人間だろ?」
 ぼくの言葉は弱々しかった。
「ううん、鳥だよ」
「でも」
「あたしは鳥と魔法つかいとのあいだに生まれたハイブリッド。より高度な兵器としてつくられた。戦うことなく、ずっと石の中に保存されてきたの。いわゆるアイノコ、鳥人間ね。でも、人であることをやめ、鳥へと戻る。鳥へと戻るには契約が必要だった。恋の力で縛られていたから恋の力で解放されなくてはならなかった」
「アイハラか?」
 ぼくはやっとのことで言葉を吐きだした。きっと、アイハラもまた魔法つかいの末裔か何かなのだろう。ただひとつ。彼とぼくとの相違点は、彼が何らかの目的をもって活動しており、魔法の力を行使しうるということだった。ぼくにはそれができないし、知識もまた絶望的に不足している。
「そうだよ。アイハラだよ」
「でも、なぜアイハラなんかに?」
「きみはあたしのこと、知ってる?」
 唇にわずかに嘲りの笑みをふくませながら、ちいさく首を傾げてみせる。ぼくは胸を衝かれた。そう、ユーリとどこではじめて会ったのか、思い出すことができない。なぜ好きになったのかも。
「もうあたしはここにはいないし、アイハラとの契約も切れた」
 え、と思うまもなく瞼を閉じたユーリが唇を近づけるとぼくとキスをした。
「ちっちゃかった頃のエグチ、あたし、知ってるよ。君が誕生するよりも先に、石からあたし、孵化しちゃったんだ。この庭から掘り出された石だった。アイハラの家系につらなる者がこっそり、エグチの一族に黙って発掘しちゃったらしい。最初は鳥として生まれ、それからは人としてエグチの知らないところで暮らしたんだよ。エグチは憶えていないだろうけどね。あのね、あたしの方から先にエグチのこと、好きになったんだよ」
 そっ、と離れるとユーリはいった。
 オレンジの焔は消え、ユーリと鳥はどこにもいなくなった。

 だが、とぼくは思った。
 映画はまだ終わってはいない。
 コトバによる映画のエンドロールはまだスクリーンには流れていないのだ。
 ぼくにはまだすることがあった。それをしないうちは映画を終わらせることはできない。

 アイハラとの対決の場所は、やはり河原だった。
 鳥は、――と思い、ぼくは空を見上げる。
 きらめくブルーの光のなかに鳥はいない。いっさいは空に吸収され、雲の上の国へと昇華してしまったのだ。
 音をたてずにアイハラが草を踏みしめ、こちらへと近づいてくる。授業のある日ではなかった。ここにいるのは、ぼくらふたりだけ。河原で会うことをあらかじめ約束していたわけではない。だが、ぼくには、……いや、「ぼくら」にはわかっていた。魔法の戦争はまだ終わってはいない。
 アイハラを睨みつけ、ぼくは言った。
「ユーリをかえせ」
 いいたいことはそれだけだ。
 ぼくの知っていることもあれば、知らないこともある。アイハラがここにきたということは、――情報を、というか、秘密を開示してもよい、というサインでもあった。
 護符的なしるしやシンボルを扱うという点で、魔法つかい同士の戦いとは、ある意味、情報戦といっていい。そして知らないという、ただその一点において、ぼくは劣勢にたたされていたのだけど、でも、そんなことはどうだっていい。
 知りたい。ユーリのこと、ぼく自身のこと、魔法を行使した戦いのこと、そしてぼくとアイハラの先祖のことを。
 大気はあかるい。春の空気は朗らかにぬるみ、笑っているかのよう。にもかかわらず、アイハラの凍てついた表情はこれまでとおなじ、何の変化もみられない。
 アイハラはいった。
「鳥は鳥みずからの意志で去ったのだ」
 鳥とは、ユーリのことだ。
 すかさず、ぼくは訊いた。
「教えてほしい。鳥はなぜ、みずからの意志で雲の上の国へと帰還したのかを」
「きみはどこまで知っているんだ?」
「殆ど知らない。だからきみに負けるかもしれない」
 アイハラの表情が僅かに動いた。
「では、何を知りたい?」
「すべてを」
「なら、失うものは多い。いいのか?」
「もちろん。ぼくが知っていることはといえば、ぼくの家が古戦場跡だということと、ぼくが空気系の魔法つかいの末裔であること、そして今もどうやら魔法がほんの僅かだが、使えるらしい。それだけだ」
「使えるのか?」
「使ったことはない。ただ、そんな気がするだけ」
「……わかった」
 そういうと、アイハラは右の人さし指をふった。それが映画の上映であることはすぐに了解された。コトバによる映画。ぼくにはこれまで明らかにされてこなかった未知の映像の断片だった。これを足して補ってやれば、ぼくがつくろうとしていたコトバによる映画は完成することになる。
 脳の銀幕に魔法つかいたちの歴史をつづった映画が上映された。それも、ぼくが知らなかった歴史的事実ばかり。これの意味するところは魔法つかいとしてはアイハラの方が、ずっと器量が上だってこと。シンプルに悔しい。だが、いまは知りたい。だから、もっと情報を。ぼくは映画に没入した。
 脳が青になる。
 空にいるのだ。
 アイハラのコトバが風になり、飛翔する鳥のシルエットになって語りだす。そして思いだす。ぼくらが風の魔法つかいであったことを。
 アイハラは語った。
 むかしはみんなが喋っていた、いにしえの風のコトバによって。

 ……むかしむかしの魔法つかいたちの起こした戦争により、鳥類は武器として大量に消費され、石の卵へと変えられてしまった。
 むかしはもっとたくさんの鳥がいたのだよ。
 だが、じつのところ鳥の数は古来より一定数しか存在しない。減りもしなければ増えもしないのだ。近年、鳥の需要は増し、しかし、一定の数しかいないため、あちこちで深刻な鳥不足が起こっている。鳥不足は生態系の危機を招く。鳥が原因で人類が死滅することだってあり得るのだ。
 だからぼくの一族は古戦場跡を探し、石の卵を求める旅をしてきた。コボルト系の術師の末裔から、石化の魔法をリセットする方法を学んできた。石の卵を孵し、回収し、雲の上の鳥のすむ国へと戻すために。
 そしてユーリ。
 鳥と人間のあいだに生まれた少女も例外ではない。
 ぼくらはすべてを元に戻す。
 鳥の種子は雲の上で魂と翼を休ませたのち、再びそらの下へと降りてくる。
 鳥は空と地を循環する。それはまた、古代の自然科学的な思考、すなわち魔法大戦以前の循環のただしいあり方の再興といってもいいだろう。
 古戦場跡に眠る鳥は厖大だ。
 石から孵った鳥を導くため、ぼく自身がロープをもちい、雲の上の国に昇っていかなくてはならなかった。ぼくは鳥たちの先導役なのだよ。
 口さがない人たちはぼくのこと、ハーメルンの笛吹き男だと揶揄するけどね。

 アイハラの語りは終わった。脳がアオになるユメの終わり。大気圏上層の夢からさめ、ぼくは再び、ここにかえってきた。
 映画はすべてを物語っていた。アイハラのしていることは、おそらく世界ぜんたいからみるなら善に属することだろう。でも、ぼくは、いった。
「かえせ」
「知っているだろう」
 アイハラはみじろぎもしない。
「でも、かえせ」
「ついてこい」
 そういうと、アイハラは水の流れのあるほうに踵をむけた。
「どこにいく?」
 ぼくの問いにこたえない。枯れたセイタカアワダチソウの残骸を踏みしめ、アイハラは水辺にたった。そして勢いよく流れる河に足を踏みだそうとする。ぼくは驚く。彼は淵に落ち、
 ……しかし、
 アイハラは河の上を歩く、というか軽やかに滑る。水の流れに乗り、みるみるうちに遠ざかる。待て、と叫ぶのも滑稽だ。彼は誘っている。ぼくもまた、水の上に乗ればいいだけの話だ。
 ぼくにそれだけの力があるのだろうか。
 しかし、怖気付いている暇はなかった。アイハラは下流へと遠ざかり、すでに豆粒ほどの大きさになっている。行かねば。
 足を踏みだしたとたん、視界がぐちゃぐちゃになった。
 青の氾濫。
 上下にゆさぶられ、からだが傾く。それと水しぶき。水音が耳の中にあふかえる。しかし、落ちてはいない。
 視点が低くなったが、ぼくは河に落ちたわけではない。なんとか姿勢を保ち、水の上を歩行しようする。しかし、違うな。歩こうとしてはいけないのだ。
 コツはそう、すべること。滑空することだ。空をとぶ。それとおんなじ。空気を操り、水の上を飛べばいい。水の上、すれすれを白い飛沫を上げながらホバリングしている。はじめのうちは夢でもみてるんじゃないかって思った。だって、ぼくに魔法がこんなふうに現実的につかえるだなんて思いもよらなかったから。
 でも、わかってきた。古い血が疼く。ぼくはやっぱり魔法つかいの子孫なのだ。
 空気を操って水上を猛スピードで滑空しているという自覚はある。
 岸辺の風景がうしろにながれてゆくのをみるのは痛快だった。堤防の上でぼくのことを指さし、叫んでいる子どもがいた。思わず笑いだしそうになる。
 愉快だ。すこぶる愉快だった。自然を意のままに操ることが、これほどまでに楽しいことだったとは。
 ユーリのことは、忘れた。このとき、すっかり彼女のことは忘れていた。
 ぼくは魔法つかいの末裔だ。空だってとべるかもしれない。期待に胸が躍る。たったこれだけのことなのに全能者にでもなった気分。
 アイハラの背中がみえる。もっとスピードをだせば追いつける。だが、その時だった。
 何が起こったのか咄嗟にはわからなかった。空が消えた。ぼくは水を呑み、むせかえった。水が押し寄せる。必死になって手肢をうごかす。足が河床についた。思ったより水量が多くなかったらしい。激しく咳き込みながらぼくは身を起こし、岸辺へとざぶざぶ音をたてて水をかき分けながらすすんだ。
 ずぶ濡れになって岸に這い上がり、アイハラを探した。
 彼の姿は、どこにもなかった。

 魔法は今の時代、罪悪なのだ。
 ユーリの哀しげな瞳が眼に浮かぶ。
 アイハラは終わりのない罰ゲームの世界に生きている。

 庭をいくら堀りかえしてみたところで、もう鳥を内に秘めた石を発掘することはできなかった。かくしてぼくもまた、魔法のいましめから解き放たれたことになる。
 そしてコトバによる映画だけが残った。

 映画。実際のところ、コトバに依存するそのフィルムは、かなりの分量、アイハラが撮ったものと混ざりあってしまっている。どこからどこまでがアイハラのもので、あるいはぼくのものなのか、すっかり区別のつかない映画になってしまった。
 ユーリもアイハラもみえなくなった。きっと彼らは世界の外、輪廻するフィルムの外部へと逃れて行ってしまったのだろう。
 だが、残った。コトバによる映画が。
 このコトバによるフィルムさえあれば、ぼくはユーリと会うことができる。さらには、これを読むものはひとしく、脳内で上映される映画のなかで、ぼくとユーリ、それにアイハラと遭遇することだって可能なのだ。
 映画のタイトルは、「鳥はどこからきてどこへゆくのか」。
 パチンと指を鳴らせば、あなたの意識はくらくなり、フィルム内世界へと迷い込む旅人となる。

「じゃ、そういうことならあたしも行かないとね」
 コトバによる映画を見終わった女の子は水鉄砲の引き金をひくと、ぼくの顔めがけて噴射した。ご満悦の表情で、にっこり笑う。大抵は顰め顔をしていた女の子だったから、こうして笑う表情は新鮮だったし、なにより可愛い。
 もう大学はこの街で開講されることはないだろう。かつて学生だった人々もそれぞれの日常へと帰還していった。ぼくもそうだ。でも、帰還できなかった人間もいる。というわけで、この子はここに居るのだ。
「ひどいな」
 手の甲で水を拭うと、ぼくは傍に坐っている女の子を睨みつけた。
 映画を見終わったあと、河原で石を投げる子どもたちの投石フォームをあれこれ品評する女の子だったが、時刻はそろそろ黄昏の時間帯へと近づいてきている。
 だが、空はまだ依然として、きらきらしく、まばゆい光に満ちている。
 土手の草が疎らに生える傾斜にふたりして並んで腰掛けていたが、彼女は立ち上がり、制服のスカートをはたくと、こう言った。
「つまんないと思ってたけど、わりかし映画、おもしろかったよ」
「それはどうも」
「じゃ、行ってくるね」
「どこへ行くのかな」
 ぼくは問う。
「水の魔法つかいたちのいるところだよ」
 彼女は柔らかく笑うと、仄かに空気が夜のそれへと香り、やがて菫色に傾きはじめる方向にむかって歩いていった。

 水と火の戦いが、かつて勃発した。サカナと、火竜ことサラマンドラにまつわる新たな映画のはじまりだった。

おしまい。

鳥はどこからきてどこへゆくのか

鳥はどこからきてどこへゆくのか

遥かな太古、魔法大戦があった。戦争の記憶は失われたが、今なお、戦後処理を粛々とすすめる魔法つかいの末裔がいる。「ぼく」もアイハラも魔法つかいの末裔だが、一人の女の子をめぐって対立する。魔法が失われた時代。にもかかわらず、さいごは魔法で決着をつけようとする二人だったが……。クランチマガジンにも掲載しています。

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更新日
登録日
2014-09-03

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