幽玄館殺人事件 第3章 鬼島の夜
第3章 鬼島の夜
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「皆さん、よくお越しくださいました。宗平の家内、高島由美です」
入り江には割烹着姿で小柄な初老の女性が立っていて、俺たちにニッコリと挨拶した。彼女が宗平氏の妻、高島由美さんらしい。宗平氏と同様、高齢のはずだが、まだまだ若々しい雰囲気を放っている。
「よろしくお願いします。K大学映画研の西岡歩美です」
西岡さんが代表で由美さんに頭を下げてあいさつした。どうやら西岡さんは映画研の中で外交も担当しているようだ。会長である水谷はボーっとしているだけで、何もしようとしない。
「まあ、まずはみなさん疲れて御出ででしょう。お部屋まで案内いたしますのでどうぞ」
由美さんは屋敷の方へ向けて緩やかな坂道を登り始めた。入り江は島の低い位置にあるため此処からでは目的地の屋敷を望むことは出来ない。
宗平氏は入り江の岸壁に船を固定する作業を行っていた。普段、どのようにして固定しているのかは知らないが、ロープで何重にもして縛り付けていて、いつもよりも厳重に固定している様に見える。おそらく台風が迫っているからだろう。俺たちはひとまず大型の機材関係をその場に残し、手荷物だけ持って由美さんについて行った。
夏の暑い日差しの中、坂道を登っていく事は普段、運動を全くしていない俺からすると体力的にはかなりきつかった。だが、周りの緑豊かな風景や高台から望める青い海などを眺めていると、気分は否応なしに高揚していった。五分くらい歩くと坂道は終り、左右に大きな樹木が植えてある平坦な道に出た。その道を真っ直ぐに進むと、大きな屋敷が目の前に現れた。
「これが幽玄館の本館ですよ」
由美さんが屋敷を指しながら言った。幽玄間の本館は二階建ての洋風な作りで、大きな玄関を中心に左右対称の作りになっている。館の奥には、これも左右対称に高い塔が2本そびえ立っていた。屋敷の前には立派な花壇があり、どの花々も生命力にあふれている。
「いや、思っていたよりも大きいすね」
中村が首にかけていた手拭いで汗を拭いながら言った。
「素敵なお屋敷と花壇ですね」
高野さんは両手を胸の前で結び、祈るようなポーズで目を煌めかせている。
「そうでしょう。事件から色々とありましたが、この館や花壇は毎日欠かさず主人と手入れをしていますから」
高野さんに褒められ、由美さんは誇らしげに語った。
「そういえば、ここで事件があったんですよね……」
田中が少しずれた眼鏡を片手で直しながら呟いた。すると数秒の間、なんとも言えない沈黙が流れた。唾を飲み込む音さえ意識してしまう様な静寂が辺りを包む。
「西岡先輩。私達ここに泊まるんですか……」
高野さんは西岡さんを見上げて乞う様な視線を送る。西岡さんは片手を腰に当て、もう片方の手で高野さんの頭を撫でながら子供を宥めるような感じで言った。
「大丈夫よ、高野さん。私たちは幽玄館の別館に泊まる予定だから」
西岡さんが由美さんに目くばせをすると、由美さんは頷きながら言った。
「ええ、そうですよ。ご安心下さい。お食事は本館の食堂になりますが、お泊りは別館の方にお部屋を用意しています。では、別館へご案内します」
由美さんは本館正面の道を右折し、本館の端の方まで進むとそこを左に曲がった。そこから、一分ほど奥に進んだ所に別館は有った。別館は本館同様、二階建ての洋風な邸宅で正面から見ると幅は本館の五分の一程の大きさだったが、かなり奥行きのある建物だった。面積にすれば俺の実家の五倍以上は有ると確信する。
「此処はゲストルーム兼使用人室として使われていました。事件以来、本来の機能を果たすことは今日までありませんでしたが、一日も欠かさず私たちが手入れをしてまいりましたのでご安心下さい」
由美さんは玄関のドアノブに手を掛け、俺たちの方を向き微笑みながら言った。しかし、その視線は正確には俺たちではなく、森田君に向けられている様に見えた。おそらく、隆文氏の跡を継ぐことになる森田君に自分たちがしっかりと仕事をしている事をアピールしたかったのだろう。事件から七年間。高島夫妻はどんな心境でこの孤島に住んできたのだろうか。不吉な事件があったこの場所に彼らが住み続けているのは、本当に住み慣れているから離れたくないという単純な理由からなのだろうか。俺は急に由梨絵がどう考えているのか気になり、後ろに居る彼女の方を振り返った。
由梨絵は無表情だった。その視線の先は確かに由美さんをとらえているのだが、彼女からまるで生きた感じを受けない。白く細かい肌の色合い、筋の通った形の良い鼻と大きく黒々とした眼、そして真っ黒な長い髪。そのどれもが作り物のような造形美を放っている。おまけに、今の彼女の格好は真っ白な純白のワンピースと麦わら帽子だ、等身大の人形の様にしか見えない。
異常だ。だが、彼女がそのような雰囲気をまとうことはよくある。彼女は深い考察をする際、いつもこのような状態になる。俺と同じように高島夫妻の事について考えを巡らせているのだろうか、それとも、何か別の事を考えていてたまたま視線が由美さんに合っているだけなのか。いずれにしろ、彼女の思考に自分が追いつけるはずはない。子供のころからその事は自明の事実だった。
しばらく間(と言ってもきっと数秒の間だったろう)、そんな状態の彼女を見つめていると突然、彼女に生きた人間の雰囲気が戻っていった。人形の様だった体に血が通い、視線が動いて俺の方に軌道を合わせる。由梨絵は顔を少しだけ傾け、微笑した。俺はその姿を網膜に焼きつけ、頭の中の磁気ヘッドにしっかりと記録しながら、ゆっくりと正面に向き直った。
由美さんはドアを開け、俺たちを別館内に招き入れた。大きな玄関ホールは二階まで吹き抜けの開放的な雰囲気で、天井のガラスから採光される明かりがホール全体を優しく照らしている。正面には大きな両開きの扉があり、玄関から入って右側には使用人室と書かれたドアがあった。左側には二階に上がるための階段があり、その階段は途中で右側に大きくカーブしている。
「正面の扉の奥にラウンジがあり、さらに奥には男性用の客室があります。女性用の客室は二階になります。各お部屋のドアには皆様のお名前が書かれたプレートが付いていますので、皆様そちらのお部屋をお使いください。また、各お部屋は施錠する事も出来ます。島に滞在しているのは私達だけなので大丈夫かとは思いますが、使われる方は各お部屋の机の引き出しに鍵を入れてありますのでお使いください。また、各お部屋のマスターキーは私どもが管理していますので、万が一、紛失などされた場合はお申し付け下さい。ここまでで何かご質問はございますか」
みんな一様に首を横に振った。
「私はこれから夕食の準備に本館へ向かいます。しばらくの間、手が離せなくなりますが、もうすぐ主人が帰って来ると思いますので、何か有りましたら主人に遠慮なく仰って下さい。主人は夕飯までの間、こちらの使用人部屋に居ますので」
由美さんは使用人室のドアを指さした。
「それでは夕飯の準備が終わりましたらお声掛け致します。夕食は七時頃を予定していますので楽しみにお待ちください」
由美さんは深々とお辞儀をすると玄関を出て、本館へと向かっていった。俺たちは靴をスリッパに履き替え、西岡さんを先頭にとりあえずラウンジへと向かう事にした。
両開きの扉を開けると、そこには想像以上に立派なスペースが広がっていた。テニスコートよりも少し大きいくらいの面積があるラウンジの壁は白を基調とした落ち着いたデザインで、床は全面フローリング張り、天井には立派なシャンデリアが下がっていて高級感に溢れている。部屋の右奥には大きなブラウン管テレビとそれを囲むように高そうな白いソファが一式有り、その手前には全自動の麻雀卓とビリヤード台が一台ずつ置かれ、おまけに部屋の左側は本格的なカウンターバーになっていて、様々な種類の酒がところ狭しと並べられていた。
直線で二十メートルほど離れていた対面の壁には入り口と同じ両開きの扉がある。おそらく、その扉の向こう側が男性用の客室になっているのだろう。
俺を含め、由梨絵以外の面々はこの豪華な装いに興奮を隠しきれない様だった。俺たちはラウンジの様々な物に触れてはしばらくの間、感嘆の声を漏らしていたが、その間、由梨絵はひとり、入り口の所で天井のシャンデリアを見つめていた。
「はい、それじゃあ、みんな各自部屋に荷物を置きに行きましょう」
西岡さんは手を二回パンパンと叩き、よく透る声でみんなに指示を出した。
「水谷君、撮影は明日からでいいんだよね」
カウンターバーの酒瓶をニヤニヤしながら眺めていた水谷は、突然、西岡さんに話を振られた事に少し驚きながら答えた。
「あ、ああ、撮影は明日、明後日を中心にやるよ」
「それじゃあ、今日は各自、自由行動で良いわよね」
「かまわないよ」
水谷は片手に酒瓶を持ちながら、何かを迎え入れる様なポーズで言った。
「そう言うわけでみんな、荷物を部屋に置いたらとりあえず夕食までは自由行動でいいわ。ただし、七時頃になったら由美さんが呼びに来ると思うから、十分前くらいまでにはこのラウンジに集合してね」
周りから、小さな歓声が沸き上がり、みんな各々の部屋に向かって行った。俺は腕時計の時刻を確認した。針は午後四時半を少し回った時刻を示している。
「二時間以上も時間が有るわね。どんな有効活用をしましょうか」
振り返ると由梨絵がすぐ後ろにいて、俺と一緒に腕時計を覗いていた。俺は彼女の気配に全く気が付かなかったので、心底驚いた。
「お前は物の怪の類か、気配を殺して近づくのはやめてくれ」
「別に、気配なんて殺してない。夕が鈍いだけよ」
由梨絵はクスクスと面白そうに微笑む。彼女にからかわれる度に少し強い口調で注意しようかと思うのだが、そういった場合、由梨絵は滅多に見せない素の笑顔を見せてくれる(俺がそう思っているだけかもしれないが)。その笑顔を見た数秒後には俺の闘争心はほとほと消え失せてしまうのだった。
「二人とも、ちょっといいかな」
西岡さんが俺たちの方に近づいてくる。
「ごめんね、邪魔しちゃって」
彼女は舌を少し出し、頭を傾けながら言った。ふと、辺りを見回すとラウンジには俺たち三人以外もういなかった。
「別に全然邪魔なんかじゃないよ、むしろ助けてもらった気分だ」
由梨絵に睨まれている気がするが、気が付かない振りをする。
「はは、そう…… ならいいんだけど」
西岡さんの顔は俺の方を向いていたが、その視線は俺の後ろにいる由梨絵の様子を伺っているようだった。さすがに気になり、俺は恐る恐る後ろを振り向いた。
由梨絵は目をつぶりながらすまし顔をしていた。俺が彼女の様子を伺うまでの間、彼女はどんな形相をしていたのだろうか、由梨絵は良い意味でも悪い意味でも切り替えが早い。
「それで、どんな御用ですが、西岡さん」
「ああ、うん、えーとね。事件について気になる新情報を掴んだの。その事について御巫さん達に相談したいから、荷物を部屋に置いたらこのラウンジまで来てもらえるかな」
事件についての新情報か。西岡さんの口ぶりからしてその事は事件に深く関係していそうだった。
「分かりました。それでは直ぐに荷物を置きに行きましょう」
由梨絵は俺からボストンバックをひったくると、それを引きずりながら二階の部屋へと歩き始めた。その後ろ姿は疲れたサンタクロースの様で滑稽だった。西岡さんは声を殺しながら少しだけ笑い、俺に軽く会釈すると由梨絵の元に駆け寄り彼女の荷物運びを手伝った。
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客室は十畳くらいの洋室で、左側にベッド、右側に机が置いてあり、正面には大きな窓が付いていた。カーテンや絨毯、その他の調度品はすべて落ち着いた色合いの物で統一されていて、居心地は悪くなさそうだ。おまけに部屋にはトイレとバスルーム(勿論、別々に)が備え付けてあり、これでキッチンさえあれば、十分に人が生活できる。
一階の客室は全部で六部屋、ちょうど男性陣の数だけある。各客室は廊下を挟んで左右に三部屋ずつ配置されていて、部屋割はラウンジから見て左側の近い順に俺、森田、水谷、右側は中村、田中、中林の順になっていた。俺は荷物をベッドの上に置くと窓を開け、机の上に置いてあった灰皿を持ってきて外の景色を眺めながら一服する事にした。窓の外には青々とした背の低い草木が生い茂っていて、その向こう側に深そうな森が見えた。鬼島の中で開拓されているのは幽玄館があるこの辺り一帯だけで、後の地域には全く人の手が加えられていないらしいので、島の地理に疎い俺のような人間が、あの森に足を踏み入れたら戻ることは容易ではないだろう。
その時、一瞬の閃きがあった。ひょっとしたら、七年前の事件の犯人はあの森の中に予め潜んでいて、犯行の機会を伺っていたのではないか。いや、考えてみればあの森以外にも隠れられそうな場所はこの島にはいくらでもあるだろう。もしも、その内のどこかに犯人の隠れ家の様な物があれば、そこに工具を持って潜み、隙を見て屋敷の玄関や部屋の合鍵を作ることが出来なくは無いだろう。
しかし、煙草の煙を二、三回吸い込み、冷静になって考えてみると、その閃きは無意味な物であったと気づかされた。警察が事件の捜査を行った際、当然、島の中を徹底的に調べあげたはずだ。その中にはあの森も含まれていただろう。でも、西岡さんからはそのような隠れ家が見つかったとは聞かされていない。それに、仮に隠れ家があったとしてもそんな苦労をしてまで密室を作る意味が全くない。なぜ密室を作ったか、これはおそらく由梨絵が今も頭を悩ませている問題だが、まったくもってその通りだ。そういえば由梨絵には事件が内部犯の犯行による物だとする自信のある仮説があるのだった。彼女が自信があると言った仮説で外れたものは、俺の記憶では一度も無い。つまり、俺が今さら外部犯がどうこうと言った所で由梨絵に鼻で笑われてしまうだけなのだ。
そんな事を考えながら何気なく携帯を開いてみた。電波は全く入っていない。圏外だ。孤島なのだから当たり前か。俺は煙草を灰皿に押し当てると、窓の鍵を閉め、ラウンジに向かおうとした。しかし、そこでふと思い出し、机の引き出しを開けてみた。そこには金属製の鍵が一本入っている。由美さんが言っていた部屋の鍵だ。俺は部屋を施錠するか少しだけ悩んだが、鍵を掛けることに越した事は無いだろうと結論づけ、その鍵を取り出し、部屋を出た。
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廊下を背に部屋の鍵を掛けていると、後ろの部屋のドアが開く音がした。振り返るとそこには中村がにやけ顔で立っている。彼は百九十くらい身長があるので、百八十の俺は彼の顔を見上げなければならない。自分よりも背の高い人間と話すことはそうそう無かったので新鮮だった。
「遊馬さん。聞きたいことが有るんすけど、ちょっといいすか」
「なに?」
ろくな質問で無い事は彼の口ぶりから予想できたが、とりあえず先を促す。
「遊馬さん、御巫さんとはやっぱり付き合っているんすよね」
「いや、よく勘違いされるけど、俺と由梨絵は単なる幼馴染の腐れ縁だよ」
もちろん、俺は彼女に何かしらの特殊な感情が無いわけでは無いと思う。そうでなければ、ここまでただの腐れ縁が長続きするはずが無い。ただ、その感情は非常に単純かつ複雑なもので、説明するのは億劫だった。
「マジすか! じゃあ、御巫さん行き合っている人はいないんすか」
「ああ、いないよ」
「じゃあ、俺にもアタックのチャンスがあるわけすね」
中村は少年の様に目を輝かせ、握り拳を作り胸元にかざした。どうやら彼は大方の予想にもれず、由梨絵に好意を抱いてしまったらしい。俺は哀れな若人の行く末を二秒くらいの間、案じたが、すぐに頭を切り替えた。
「中村君はこの後どうするんだい?」
「特にやる事ないすから、ラウンジで本でも読んでいようかと思っていました」
彼の右手には大手書店のブックカバーが付いた文庫本が一冊握られていた。
「遊馬さんはこの後どうする予定なんすか?」
「僕はこの後、西岡さんから事件に関する新しい情報を聞くことになっているよ。ラウンジでね」
「もしかして御巫さんもいらっしゃるんすか!?」
「もしかしなくても来るよ。俺は由梨絵の助手で、事件を考えるのはあいつの役目なんだから」
「じゃあ、早くラウンジに行きましょう」
やや興奮気味の中村は足早にラウンジへと進んでいく。俺は彼の後ろについて行った。
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中村がラウンジの扉を勢いよく開けた。だが、そこにはまだ誰も居なかった。
「御巫さんたちまだ来ていないすね」
「ああ、そうだね」
中村は、はた目から見ても分かるくらいに残念がっていた。豪快かつ純朴、それが彼に対する俺の第一印象となった。
俺はテレビ近くのソファに腰かけると、彼にも座ったらと手で進めた。
「御巫さんは俺の初恋の人にそっくりなんすよ」
中村は俺とちょうど対面の位置になる場所に座りながら言った。
「初恋って、誰だったの?」
俺は彼が話がっていると判断し、合いの手を入れた。
「恥ずかしい話なんすけど、実際の人間じゃないんです。小学生の頃に学校の図書館で読んだ童話の主人公なんすよ」
中村は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「しかも、なんてタイトルの本だったのか覚えてないんです。でも、その主人公の描写は鮮明に覚えていて、それが御巫さんそっくりなんす。もう、今日初めて見た瞬間、心臓が飛び出すかと思いましたよ」
「なるほど、それは驚いただろう。中村君はたしか文学部だったね。子供のころから本が好きだったんだ」
「はい、そうなんす。自分、体動かすことも好きではあるんですけど、それよりも本を読んでいる方が好きで……」
そうしてしばらくの間、中村と他愛のない会話をしていると、玄関ホール側の扉が開き西岡さん、高野さん、由梨絵の三人が入ってきた。由梨絵の姿を確認すると、今まで饒舌に話していた中村は突然、俯きながら黙り込んでしまった。分かりやすい奴だ。
「ごめんね、遊馬君。時間かかっちゃって、待ったよね」
西岡さんが謝る。どうやら、降りてくることが遅かった事に対して謝っているらしい。俺は立ち上がり、首を横に振りながら言った。
「別にそんなに待ってないよ。僕らも今きたばかりだから」
「そう、それなら良かったわ。中村君、他の皆はまだ部屋に居るの?」
「え、ええ、多分いますよ。呼んできましょうか」
突然話を振られて、中村は少し動揺しながら答えた。
「そう、まあいいわ。どうせ後で、また話せばいいんだし。とりあえず、私達も座ろうか」
西岡さんは後ろの高野さんと由梨絵に言うと、真ん中のソファに座った。西岡さんが座った場所から見て左側のソファに俺が、右側のソファに中村が座っていて、由梨絵は俺の隣に、高野さんは中村の隣に座った。由梨絵を目の前に完全にノックダウンしてしまったのか、中村は目の焦点が合わず、少し挙動不審だった。そんな中村の様子を由梨絵は不思議そうに見つめている。
「それじゃあ、私が新しく仕入れた事件の話をするわね」
西岡さんが一同を見渡しながら言った。中村は相変わらずうわの空と言った様子だったが、さすがに少しだけ真剣な表情になって西岡さんの方に向き直った。高野さんは最初から西岡さんの方を見つめている。
「昨日、島に向かうための確認事項を由美さんと電話で話したんだけど。その時に、御巫さんに頼まれていた質問を由美さんにしてみたの」
「質問?」
俺が聞くと由梨絵は目を閉じて澄まし顔で答えた。
「一週間くらい前、電話で西岡さんと少しお喋りした時、事件の関係者と話す機会があったら、犯人が密室を作った理由について思い当たる節があるか、質問してほしいと頼みました。……それで、由美さんが何か話してくれたのですね」
「う、うん。由美さんは鬼島の伝説と関係しているかもしれないと教えてくれたわ」
由梨絵は片目を開き、西岡さんを真っ直ぐに見つめた。西岡さんは彼女の雰囲気に少しだけたじろぎながら答えた。
「鬼島の伝説? 聞いた事ないですね」
高野さんは頭を少しだけ傾け、疑問符を浮かべながら言った。中村も頷きながら同意する。
「どんな伝説なのですか」
由梨絵が西岡さんに先を促した。
「要約すると、鬼島にはその昔、おそろしい鬼が住んでいて、その鬼が定期的に島民を襲ってきた。耐えかねた島民たちは一致団結して鬼を退治し、島の奥にある祠に封印したていう話なの。ただ、島の人々に口伝で伝えられてきた伝説だから、どの時代の話なのか、どうやって鬼を倒したのかみたいな詳しい所は由美さんも知らないみたいだった」
よくある民話みたいな話だ。もしかしたら、その伝説が島の名前に由来しているのかもしれない。でも、その伝説がどう事件と関係するのだろうか。西岡さんはみんなを一瞥すると続けた。
「……鬼島の伝説は一見するとよく有りそうな話なのだけど、一つだけ変わった所があったわ。なんでも、その鬼島に住んでいた鬼には特殊な力が有ったらしいの。それが、物を自在に出したり消したりする力なんだって」
物を消したり出したりできる力? 確かに鬼にそんな力が有る話は聞いたことが無い。
「おまけに、彼らは自分自身も消すことも出来たみたいで、島民たちが家に頑丈な施錠をして、立て籠もっても、簡単に中に入ってきて島民を虐殺したそうよ。もちろん、出る時も消えてしまえるから完全な密室が作れたみたいね。鬼島から人が居なくなった理由は諸説あるらしいけど、一説によればこの様な事件が多発した事が原因らしいの。由美さんはこの鬼の力が事件の状況と酷似していたと言っていたわ」
「なるほど。たしかに、そんな力を持った鬼が実在すれば簡単に密室殺人が行えますね」
由梨絵は髪を弄りながら言った。
「おいおい、つまり、この事件は鬼島の伝説に則った見立て殺人なのか? 犯人は鬼島に住む鬼が犯人だと思わせたかった。だからわざわざ密室殺人を行ったわけか。ずいぶんとまあ幼稚な発想だな」
俺は頭に手を載せながら言った。
「たしかにそうすね。鬼なんて所詮は伝説なわけだし、常識的に考えて鬼のせいにしたところで誰も信じないすよ」
「そうかしら…… そんな怖い話を聞いてしまっていたら私、信じてしまいそう」
高野さんは両手を胸の前で組み、両目を閉じて祈る様なポーズをとった。この子の動きは見ていて飽きない。思わず笑いそうになってしまう。
「その話、みなさんご存じなのですか」
由梨絵の口もとは微笑んでいたが、目の奥は氷の様に冷たい。彼女の真剣さが伝わってくる。
「えーと、ここにいるメンバー以外に知っているのは水谷君と森田君だけだよ。昨日きいたばかりの話だから、とりあえず部長の水谷君には伝えたけど、その他の人には今の今まで話してなかったの…… 森田君にはさっき船の上で話したばかりだわ」
西岡さんは少しだけ俯いた。どうやら照れ隠しの様だ。先ほど由梨絵から聞いた情報が無かったら、俺はどんな推測を立てていただろう。
「いえ、そうではなくて……。すみません。私の言い方が悪かったですね、七年前の事件当事者の方々が、その伝説を知っていたのかを尋ねたかったのです」
「ああ、そういう事ね。どうかしら、高島夫妻が知っていたのは間違えないと思うけど、他の人たちが知っていたのかは由美さんに詳しく聞いてみないと分からないわ」
まさか、由梨絵は本当にこんなよく分からない伝説に見立てて殺人が行われたと思っているのか? たしかに、密室を作った理由は説明がつく。でも、わざわざ見立てる意味が無い。もちろん、高野さんの様に素直に鬼が居るかもと考える人はいるだろう。そういう人には効果があるかもしれない。しかし、それは絶対的に少数派だ。大部分の人間は科学的な先入観から、ろくに考えず、そんなことはありえないと切り捨てる。
もし、犯人が本当に島の伝説に見立てて、密室殺人を行ったのなら犯人は何を考えていたのだろうか。
「……遊んでいたのかもね」
背筋に悪寒が走る。由梨絵は隣にいる俺にしか聞こえないような声で呟いた。彼女の小さな唇が言葉を発した瞬間、頭の中で何かが破裂したような感覚に襲われた。きっと俺にはそんな発想は出来ないだろう。狂っている。正直にそう思った。犯人が? それとも由梨絵が? たぶん、どちらもだ。
「事件の日に居た方々は皆様ご存じだったと思いますよ」
突然、後ろから男性の声がした。ゆっくり振り向くと、そこには陶器製の高そうなコーヒーカップを五つ載せた白いトレーを持った高島宗平氏が立っていた。
「すみません。立ち聞きするつもりは無かったのですが、お話が弾んでいる様でしたのでお声掛けできませんでした」
宗平氏はテーブルに珈琲を配膳しながら言った。宗平氏の動きは全く持って無駄が無い。俺は目の前に置かれた珈琲の香りに誘われ、一口それを含んだ。口から体中の血管に心地よい苦味が広がる。俺は自身で少し落ち着いたと自覚できる程度に回復した。
「ありがとうございます。いただきますね」
由梨絵はテーブルの上に置いてあった透明なシュガーポットに入っている角砂糖を四つほど珈琲に入れて溶かすと、一口飲んで満足そうな表情を浮かべた。俺と宗平氏以外は驚いた様子でそんな彼女を見つめた。宗平氏はトレーを抱えながら無表情に前だけを見つめている。その視線は目の前の窓の外に向いているようにも見えるし、何か他の者に向けられているようにも思えた。
「宗平さん。鬼島の伝説を事件の関係者の方々が皆さんご存じだったというのは本当なのですか」
由梨絵は体を宗平氏の方に向けながら聞いた。
「はい、この島に住んでいればその話は自然と耳に入ってくると思います。特に誰かが積極的に話しているという事は無いのですが、地元の人に島から来たと言えば必ず一度は伝説の話になりますから」
「有名な話なのですね」
高野さんは両手でカップを持ちながら言った。
「ええ、この地方の方は皆様ご存じかと思います。ただ、実際に信じている人はほとんどいません」
当然だ。そんな話を本気にするなんて子供くらいだろう。
「そうですか……」
由梨絵は髪を弄るのをやめた。そうしてまたコーヒーを一口飲み込む。
「宗平さんは事件の事や島の伝説についてどう考えていますか」
西岡さんが質問する。すると、宗平さんは少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「……事件の事についてはあまり思い出したくないので、今まで深く考えたことは有りませんでしたが、伝説については…… そうですね、やはり、鬼なんて居ないと思います。お恥ずかしい話、妻は少しだけ信じているようですが」
「あ、ごめんなさい。私、変なことを聞いてしまいましたね」
「いいえ、とんでもございません。事件についての取材で来ていただいたのですから、当然の質問でしたよ。私がきちんと事件について自分の考えをまとめておくべきでした」
宗平氏は無駄のない動きで頭を下げた。西岡さんは困った様子で自分が悪いともう一度頭を下げる。そんなやり取りをふたりが何回か繰り返していると、客室側のドアが開いて水谷、森田、田中の三名が入ってきた。
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「歩美ちゃん。みんなで何を話していたの」
「鬼島の伝説について御巫さん達に話していたのよ」
宗平氏との謝罪合戦に敗北したばかりの西岡さんは疲れた様子で水谷に言った。
「ああ、そうか話しておいてくれたんだね。サンキュー」
そう言うと水谷はカウンターバーに向かい、また酒を物色し始めた。よほど好きなのだろう。西岡さんは大きなため息をついた。
「あれ、中林先輩はまだ来ないんすか」
中村がドアの前に並んで立っている森田と田中に問いかけた。二人は同時に首を横に振った。分からないというジェスチャーである。
「中さん、今日の朝方まで課題のレポートを仕上げていたらしいから、今頃、ベッドに倒れているんじゃないかな」
水谷は気に入った酒が見つかったらしく、その瓶を抱えてこちらに戻ってきながら言った。
「そういえば、奈々枝はどうしたんだ。トイレか?」
「奈々ちゃんは少し汗をかいたから、シャワーを浴びてから降りてくると言っていたわよ」
「そう」
西岡さんは頬を膨らまし、信じられないといった様子で語尾を強めながら言った。水谷はつまらなそうに答え、西岡さんの左隣に腰かける。すると、さりげなく森田は西岡さんの右隣に座った。最後に残ってしまった田中はどうしたら良いのか分からず、しばらくあたふたしたが、高野さんと中村が席を詰めてくれたので、中村の隣に座った。
「お待たせいたしました。どうぞ」
いつの間にか、宗平氏が水谷達の分のコーヒーを配膳し終えていた。彼がコーヒーを淹れるために部屋を出入りした事に気が付いた者がこの中にいただろうか、おそらくいなかっただろう。すくなくとも俺は全く気が付かなかった。
「それでは、私は一度失礼させて頂きます。何か御要りようがありましたら管理人室までお願いいたします」
宗平氏は柔らかな微笑を浮かべながら言うと、分度器で測ったかのように正確な角度で頭を下げ、玄関ホールの方に消えて行った。
「ところで御巫さん。鬼島の伝説を聞いてどう思いましたか」
「面白い話だと思いました。……水谷さんはどう思われましたか」
水谷は抱えていたボトルをテーブルの上に置くと、大きな体をくねらせ、足を組みながら由梨絵に言った。由梨絵はカップに口を付けながら素気ない態度で返す。
「俺は映画に使える最高の素材だと思いましたよ。悲惨な事件があった島に伝わる不気味な伝説。これを使わない手はない」
「ちょっと待ってよ、水谷君。伝説を使うのは良いと思うけど、まさかそれをメインに話をまとめる気じゃないよね。そんな事をしたら作品の質に問題が出るし、何よりわざわざ事件を推理しに来てくれた御巫さん達に申し訳がないわ」
西岡さんは水谷を睨みつけながら言った。彼女の言い分は最もだ。事件をこのような島の伝説に結び付けすぎれば、それはもはやドキュメンタリーではなく、ホラー映画に近くなる(そのような形態のドキュメンタリーもあるのかもしれないが、素人考えではあまり美しくないような気がする)だろう。
「おお、こわい怖い。何もそんな事を考えてはいないよ。ただ、演出には持って来いだしさ、それに保険にもなるだろ」
「保険ってなんすか?」
中村の問いに、数秒間の沈黙のち由梨絵が答えた。
「私が事件に対して、何らかの解答を得られなかった場合の保険ですね」
彼女は目を少しだけ細め、ゆっくりと優雅に喋った。
「いや、御巫さんなら俺も大丈夫だと確信しているんだけど、これだけの人とそれなりの金を動かしているんで、万が一、何も収穫が無かったんじゃ採算が合わないんですよ」
水谷は片手でカップを持ち、一口それを含んだ。
「水谷君! 御巫さんに失礼だわ。謝って!」
西岡さんは立ち上がり、真剣な顔で水谷に言い放った。水谷はニヤニヤと笑うだけで答えようとしない。険悪な雰囲気になってきた。
「西岡さん。良いんです。水谷さんが仰っている事は正しいですし、要は私が、皆さんが納得するような仮説を一つ提示すれば済むことです」
「さすがは御巫さん。ご理解が早くて助かります。俺としても、ちゃんとした人間が犯人で事件がまとまればそれに越した事はないよ」
俺は由梨絵の雰囲気から、彼女の仮説がほぼ完成した事を感じ取っていたので、この後水谷が少なからず恥をかかされる事が容易に想像できた。西岡さんは水谷をしばらくの間睨みつけたままでいたが、やがて諦めたかのようにゆっくりと腰を落とした。その後、長い沈黙ののち、今まで話を聞いているだけだった、田中が小刻みに震わせながら片手を上げた。
「あ、あの……」
その場にいた全員の視線が田中に向けられる。
「ひとつだけ聞きたいことが有るんですが……」
ほぼ全員が同時に頷き、田中に先を促した。田中はこの世の終わりを垣間見た様な表情で言った。
「鬼島の伝説って……、何のことですか?」
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西岡さん達が田中に再度、鬼島の伝説について話し終えた直後、二階から倉谷さんが降りてきた。彼女の服装は先ほどまでと変わっていなかったが、髪がまだかすかに濡れていてシャワーを浴びてきた事が一目で分かった。倉谷さんは水谷の後ろに立って、何の話をしていたのと彼に問いかけた。水谷は半笑いで周りの面々を見渡すと、食事の時に話すよと言って席を立ち、酒瓶を持って自分の部屋に引き上げてしまった。
それから各々、食事の準備が整うまで、自由な時間を過ごした。俺はソファに座りながらボーっとテレビを眺めた。テレビはこのラウンジに有るだけで、客室には無い。由梨絵と西岡さん、倉谷さん、高野さんの女性陣は真ん中のソファに詰めて座り、楽しそうに何かお喋りをしていた(たまに聞こえてきた話題はどれも事件に関係するものでは無かったと思う)。中村、森田、田中の三人は宗平氏から軽トラックを借りて、入り江に置いてきた大型の機材を運びに行った。俺も手伝うと志願したのだが、ゲストにこんな仕事をさせるわけにはいかないと断られてしまった。機材をラウンジに運び終えると中村は俺の対面に座り、本を読み始めたが、落ち着かない様子でたまに由梨絵を盗み見ては顔を赤くしていた(おかげで彼の本は十分で二、三ページという驚異的な速度でしか捲られなかった)。森田と田中は別館内を歩き回りながら探索していた様子で、彼らが何回かドアを開け閉めして館内を歩き回っているのが観察できた。
俺の腕時計が七時を二分ほど過ぎた時、紺色の上着を羽織った宗平氏が夕飯の準備ができたと伝えに来た。
「食事は本館の食堂になります。私が案内いたしますので、皆様ご準備下さい」
俺がリモコンでテレビの電源を落し、立ち上がると同時に客室側のドアが開き、水谷と中林が出てきた。その後ろから森田と田中が続いてくる。どうやら彼らが二人を呼びに行っていたらしい。水谷は飯だ、飯だと元気が良さそうだったが、中林はまさに寝起きと言った感じで(実際にそうだったのだろう)、少し機嫌が悪そうだ。
俺たちは玄関で外履きに履き替えると、日が沈んでうす暗くなってしまった本館への道を宗平氏について歩いて行った。先ほど見た天気予報の予定進路を見る限り、鬼島は明日の昼頃には台風の強風域に入り、夕刻には暴風域に入る予定だったが、そんな様子は微塵もなく、空には点々としたうす黒い雲と、それらを含め、夜の世界を照らしだす月がポッンと浮かんでいるだけで風もほとんど無かった。本当に明日、台風がこの島を飲み込むのだろうかとつまらない疑問が湧いてきた頃、本館の玄関前にたどり着いた。
本館は月明かりに照らされ、昼間見た時とは明らかに異なる不気味な雰囲気をまとっていた。宗平氏は上着のポケットから鍵の束を取り出すと、その内の一つを鍵穴に差し込んで回した。玄関はカチと乾いた音を立てて開き、弱々しい光に照らされた薄暗い本館の玄関ホールが姿を見せた。
「どうぞ、少し暗いのでお気を付けてください」
吹き抜け構造のホールは中央にある横幅の大きな階段を中心に左右対称な作りになっていて、一、二階には廊下がそれぞれ左右に伸びている。天井には半分ほどの電球しか点灯していない立派なシャンデリア吊るしてあり、そのシャンデリアがホール全体を薄暗く照らしていた。
「私、こんなに大きなシャンデリア初めて見ました。すごいです」
高野さんは必要以上に目を輝かせ、両手を大きく前方に開き、何かを受け取る様なポーズで言った。
「それは大旦那様がこの屋敷を建てられる際、外国のご友人に頼んで作ってもらった物です。すべての電球が点灯しているとそれは壮観な装いなのですが、電球の付け替えが少し手間でして、今は半分以上切れてしまったままになっています。皆様が上陸されるまでには何とか付け替えようと思っていたのですが、その他の諸用に忙殺されてしまっていまして、手が回りませんでした。申し訳ございません」
宗平氏は頭を軽く下げると、では此方ですと言って、一階の左側にある廊下へと進んでいった。いつの間にか玄関は閉まっていて、きちんと鍵まで掛けられている。おそらく、宗平氏が閉めたのだろうが全く気が付かなかった。
廊下の進行方向右側には等間隔で嵌め殺しの大きな窓があり、中庭の様子が伺えた。すでに日は落ちてしまっているので、薄暗く、良く見えなかったが長方形型の建物がちょうど中庭の真ん中あたりに見える。たしか、西岡さんが持ってきた平面図にはボイラー棟とあったはずだ。廊下を二度ほど右折してしばらく進むと、左側に両開きの大きなドアが現れた。右側には中庭への出入り口がある。どうやら、ここが食堂のようだ。
「どうぞ」
宗平氏はドアを開けると俺たちを招き入れた。食堂には、赤いテーブルクロスの掛かった高そうな木製のダイニングテーブルと何脚かのイスがあり、そのテーブルの上に銀食器が人数分きちんと並べられていた。シャンデリアの光にそれらの食器が反射して鈍い光を放っているのが印象的だ。
俺たちが宗平氏の指示でテーブルに着席すると、食堂の右奥にある厨房の扉が開き、由美さんが大きな配膳車を押して入ってきた。
「お待たせしました。すぐに配膳いたしますね」
夕飯はどうやらフランス料理のフルコースのようだった。前菜やスープに続いて魚料理、メインの肉料理等が出てきた。テーブルマナーに疎い俺たちは(由梨絵以外全員)はじめ四苦八苦していたが、高島夫妻が微笑みながら普通にお食事して下されば良いですよと言ってくれてからは、和気あいあいと食事が進んだ。
「とてもおいしい料理でした」
デザートのケーキと紅茶を楽しみながら西岡さんが高島夫妻に言った。西岡さんの隣に座っている高野さんもやや大げさに頷きながら同意する。
「そう言っていただけると私共も嬉しいです」
宗平氏はテーブルの右端に由美さんと一緒に立ちながら満足そうな様子で言った。この老夫妻はたった二人だけで、十人分の料理を準備しただけでなく、その配膳までも完璧にこなしたのだ。全く、頭が下がる。
「ところでみなさん。もしも、宜しければこの後、海岸までいらっしゃいませんか? 竹岡家のプライベートビーチがあるのですがとても美しい砂浜です。本来ならば昼間にいらっしゃって頂ければ一番良いのですが、あいにく明日からは台風で荒れてしまいます。今宵でしたら幸い、まだ月も出ていますし、良い思い出になるかと思いますよ」
「いいですね。ぜひ行ってみたいです」
宗平氏の提案に西岡さんが答えた。他の面々も異存ないようだ。
「そういえば、使うかもしれないと思って念のため花火を持ってきているんすけど……」
中村が多少、申し訳なさそうに手をあげて宗平氏を見つめながら言った。
「ええ、もちろん。花火で遊んで頂いても結構ですよ。ただし、ゴミだけは持ち帰って下さいね」
「マジすか、ありがとうございます」
中村が嬉しそうに大きな声で言った。
「それでは、皆さん。海岸には私がご案内いたしますので、いまから二十分後、別館のラウンジに集合して下さい」
この場はそれで解散となり、俺たちは一度、別館の各部屋へと引き上げ、準備をして集合する事となった。
7
俺は特に準備をすることも無かったので、部屋で一服すると直ぐにラウンジへ向かい、テレビをつけて天気予報を確認していた。すると、バケツいっぱいに入った花火を抱えた中村が意気揚々とラウンジに入ってきた。
「やっぱり、夏の合宿と言ったら花火すよね」
中村が持ってきた花火はどう考えても、念のため持ってきた量ではない。もし、許可されなかったとしても強行するつもりで持ってきたのだろう。
中村が花火の魅力を語るのに適当に相槌を打っていると、他の面子も準備を終えて、次々とラウンジに集まりだした。そうして、ちょうど集合時間になったとき、宗平氏がラウンジに入ってきた。
「皆様、お集まりでしょうか」
「あれ、中さんがいないわ」
倉谷さんが言った。
「中さんはやっぱり体調がすぐれないから、もう少し部屋で寝るって」
水谷がやる気のなさそうな声色で答える。
「それ以外の人はみんな居るわね」
西岡さんは周りを見渡しながら言った。
「それでは、参りましょう」
外に出ると宗平氏は手持ちランタンに火を入れ、海岸に向かって歩き始めた。俺たちはその後について行く。海岸は俺たちが島に入ってきた入り江とは反対方向にあるらしく、別館よりもさらに奥の方へ、緩やかな下り坂を五分ほど歩いていった。すると木々が生い茂っていた道の視界が突然開けて、海岸沿いに広がる砂浜へと出た。意外と月明かりだけでも明るく、波の穏やかな綺麗な砂浜であることがよく分かった。風も適度に吹いていて気持ちが良い。
「よし、じゃあ花火をしようか」
西岡さんが号令を掛けると、真っ先に中村がバケツを持って海へと海水を汲みに行った。その様子を見て、映像研の面々は苦笑していた。どうやら毎度の光景らしい。俺は花火にそんなに魅力を感じなかったので、みんなから少しだけ離れ、煙草の火を点けた。
「夕は子供の時からあんまり花火好きじゃなかったね」
気が付くと由梨絵が傍にいた。煙草を吸っている俺に彼女から近づいてくることは珍しい。彼女は麦わら帽子を被っていないところ以外、昼間と同じ装いだ。月の明かりに照らされて白いワンピースが僅かに発光して見える。
「別に嫌いて訳じゃないよ」
「だから、あまり好きじゃないって言ったのよ」
「……そうだね。あまり好きではない」
花火は綺麗だ。間違えなくそう思う。ただ、あまりに早く消えて無くなってしまうのが嫌いなのだ。一瞬で無くなってしまう儚さが良いと言う人も居るだろう。だが、俺はその形の残らない美しさが恐ろしい。
「お二人は花火をされないのですか」
宗平氏が俺たちの方に歩いて来た。映画研の面々はすでに花火を楽しんでいる様子だ。中村が激しく火の粉が噴射する棒状の花火を両手に持ちながら走り回り(危ない)、他の者はその様子を苦笑しながら見守っている。
「僕はしていますよ、花火。ほら」
俺は二本目の煙草を手に取り、宗平氏の前で火を点けた。
「ははは、若いというのは良い事ですね。頭の回転が柔軟だ」
俺の答えに老紳士は微笑んだ。ジョークが予想以上に受けたので俺も悪い気はしない。すると由梨絵が俺の前に出て来て、宗平氏に言った。
「宗平さん。場違いですが少し質問をしても宜しいでしょうか」
「なんでしょうか。お嬢様」
「まず、すでにご存じでしょうが、私達は西岡さん達映画研の方々に依頼され、この事件を推理しに来ています」
「……そうだったのですか。いえ、初めて聞きました。私はてっきりあなた方も映画研究会の方なのだと思っていましたよ」
「私たちはミステリ研究会の者です。その事を踏まえて宗平さんには事件についての質問に答えていただきたいのです」
宗平氏の顔に一瞬、困惑の色が浮かんだが直ぐに元に戻った。
「どのよう質問なのでしょうか」
由梨絵の表情が真剣なのは暗がりでも容易に想像できた。一気に空気が張り詰める。
「七年前の事件について、私は西岡さんから時雄君の証言を基にした情報をいただきました。まず、その情報についていくつか確かめたいので質問させて下さい……」
由梨絵は要領よく時雄君の証言を裏付けるための質問をいくつかした。宗平氏もそれらの質問に対し、的確に答えていく。そのやり取りはさながらチェスの対局を眺めている様に理路整然としていた。
「ありがとうございました。では、次にいくつか発展的な質問をさせていただきます」
宗平氏への質問の結果、時雄君の証言の裏が問題なくとれたようだ。だが、彼女は用心深い。おそらく、同じ質問を由美さんにもするだろう。もしくはもう、俺の知らないところでもうしているのかもしれない。
「まず、被害者の部屋の鍵についてですが、本当に現場で発見されたものとマスターキー以外に存在しないと言い切れますか? 特に、紀一郎氏の部屋についてそれは絶対ですか」
「はい、間違いないかと思います。ただ、大旦那様の部屋に関してだけ言えば絶対ではありません」
「それはどういう事でしょう」
「……事件が起きる二か月ほど前の事です。大旦那様が突然、お部屋の鍵を無くされたと仰いました。何でも森の中を散歩していた際に落したらしいのですが、ご覧のとおり森は広く、捜索は困難でした。そこで、その日のうちに本土から鍵職人を呼び、新たな鍵を作らせました。ですから、その無くした鍵を含めれば大旦那様の部屋に関しては絶対では無いと言えます」
「その鍵は現在でも発見されていないのですね」
「はい」
「この事は警察の方にもお話になりましたか」
「もちろんです。きちんとお話しました」
由梨絵は満足そうな笑顔を浮かべた。なぜ、彼女は紀一郎氏の部屋の鍵についてのみ念を押したのだろうか。まるで、その無くした鍵が存在する事を初めから予見していたような口ぶりだった。彼女には何が見えているのだろうか。
「次に、加奈子ちゃんと時雄君についての質問をさせて下さい。彼らは仲の良い姉弟でしたか」
「ええ、とても仲の良い姉弟でした」
「では、なぜ別々のそれも加奈子ちゃんだけ全寮制の中学に通っていたのですか」
「……それは、旦那様の方針としか言えません。詳しい事は私も分かりかねます」
宗平氏は明らかにこの質問に動揺していた。何かを隠している様にも思える。由梨絵はそんな宗平氏をしばらくジッと見つめていたが、あきらめて次の質問をした。
「では、最後の質問です。事件以降、宗平さんは時雄君に会った事はありますか」
「いえ、ありません。事件直後は色々とお会いする機会はありましたが、その後、会った事はございません」
「由美さんも会っていませんか」
「おそらくは」
「そうですか、質問は以上です。長々とお付き合いありがとうございました」
由梨絵はそう言うと宗平氏に軽く頭を下げ、線香花火をしていた西岡さん達の方へすたすたと歩いて行ってしまった。その後、しばらくの間、俺と宗平氏はどうでもよい世間話をしたが、俺は由梨絵がした質問の意味を考えるのに夢中で、宗平氏との会話の内容は全く頭に残らなかった。
そうこうしている内に時間は過ぎ、花火も無くなり別館に帰る事になった。帰り道で俺はどうしても気になり由梨絵に話しかけ、さっきの質問にどんな意味があったのか聞いてみた。すると、由梨絵は微笑みながら言った。
「もちろん、私の仮説をより確かなものにするための質問よ」
「そう。で、どうだったんだ」
「どうも何も、さっきの答えで私は自分の仮説が正しいと確信した」
「……じゃあ、もう事件の謎は解けたんだな。教えてくれ、誰が犯人でどんなトリックを使ったんだ」
俺は由梨絵の方にさらに寄って、周りに聞こえないように小さな声で言った。由梨絵も俺に合わせて声のトーンを少し下げて答える。
「まって、まだ、すべての謎が解けたわけじゃない。たしかにトリックについてはほぼ解けたけど、動機や犯人を特定した事で新しくできた謎についてはまだ、曖昧。私が完璧主義なのは知っているでしょ。それに……」
「それに?」
「たまには夕も自分の頭で考えないとね。私と貴方は同じ情報を持っているのだから、私の解答にあなたがたどり着けないはずはがないでしょ。一晩、ゆっくり考えなさい。そうしたら明日、トリックと犯人だけは答え合わせしてあげるから」
由梨絵は俺の方を向き、無邪気に微笑んだ。月明かりに照らし出された彼女はやはり美しく、綺麗で、儚げだった。
幽玄館殺人事件 第3章 鬼島の夜