Angel that fell nowhere
贈り物
夏が終わるらしいから、タオルケットを二枚に増やした。
水色の無地のうすいのに加えて、テディベアとリボンが散りばめられた、ピンクの毛羽立ったタオルケット。
窓を閉めてももう、寝苦しくない季節になった。
夕方のチャイムが三十分、早まった。
また過ぎていく。夏が、過ぎていく。
大人になったつもりでも、季節が過ぎていくということは、やっぱり少し、さみしいものだ。
*
「あー、そっかそっか。でもそれって仮歌は誰が録るの?あ、ヒョンがやってくれんの?まじ。うん、ありがと。あ、じゃあ俺弾くよ。こないだくれた譜面そのまま弾けばいいんしょ?」
ドンヘはまるで推理シーンの名探偵のようにぐるぐると部屋を凱旋する。耳に当てたスマートフォンからは、俺とは別の、声が漏れている。そりゃそうだ。俺は別の部屋にいるような顔をして、その声の満ちる部屋の真ん中で、衣替えを続行していた。夏がもうすぐ終わるからだ。
「うん。オッケ。はは・・・うん。何人か連れてくね。じゃ明日ね。うーん。はいはい」
ぴた、と止まった足。俺は衣替えを続行する。そもそもなんでドンヘがここにいるんだ?まあいいか。こんなふうに自分のプライバシーを許せるようになったのは、つい最近のことかもしれない。俺も年とったんだなあ、と、ドンヘを軸に自分の老いを感じている俺。情けないっていうか、しょーもないっていうか。なんだか泣きたくなる。
「ぶえっくしょん」
ドンヘのくしゃみは大げさだった。しゃべっているみたいなくしゃみ。俺は黙ってTシャツを広げては、畳み、段ボールに詰め、を繰り返す。
「ホコリすご。鼻から綿が生えちゃいそ」
ドンヘは鼻から指が生えるような奇妙なジェスチャーをして、けらけら笑う。笑って部屋に張られたエッフェル塔の写真を見ている。
「ドンヘ、」
「はい」
「こっち来て」
はい、と言ってドンヘは来た。俺の隣に正座した。かわいいな、と思う。
「なになに?」
ぐい、と顔を近づけて、溢れんばかりの期待を欲望の眼差しを当てる。そのオーラを振り払うように、俺はそばにあったティッシュ箱でドンヘの頭をポンとたたいた。
「ってー!」
「そんな強く叩いてない」
「んだよー。キスでしょ、ここは」
「手伝え。滞在料だよ」
かたっぽの口角をあげてドンヘにまだ組み立てられていないダンボールを渡した。ドンヘはからだじゅうでやる気のなさを表現しつつも、「へぇへぇ」と段ボールを組み立て始めた。
「ヒョクぅ」
甘えた声でドンヘは続けた。
「下着、やっていい?」
「は?ばかなの?」
怒りの意味を込めた視線を送ると、瞬間にドンヘからのキスが飛んだ。ドンヘはばかだから、俺の心内状況を察することができない。けれどこんな不意のキスだって、俺の想定内だ。ドンヘはいつも、俺の想定内で動く。
「へへっ、ついね」
舌を出した言い訳の仕方も、想定内。全部予測できる範囲。つまらないとは思わない。むしろ快感だ。支配しているという、快感。
「お前さ、どういうつもり?俺の部屋で、俺以外の人と喋って、で、キスするんだな」
「へ?誰と喋って?」
「なにあれ。いくらなんでも外でやれよ。俺にだってプライバシーってもんがあんだよ。わかってんのか、この浮気もんが」
半分本気で、半分空っぽだ。俺はいつもそう。ドンヘに対しては、気持ち半分でしか話さない。嘘を言っているんじゃない。ただ、ドンヘ相手に100パーセントを求めるということがどれほどのエネルギーを要して、そしていかに無力なことであるかを、俺はよく知っているからだ。
「それはさあ、あれじゃん。仕事じゃん。仕事と恋愛は別しょ」
「どうだか」
実際、ドンヘは俺を愛していると言った。その時点でその発言には大きな矛盾が生じているんだというところまで、ドンヘの脳みそは考えが廻らない。
「お前って想像するってこと知ってる?」
「想像?」
「だからさ、たとえば自分が今これを口にしたら相手はこう思うだろうな、とか。自分がしたことによって、こんな影響が出るだろうな、とかさ」
「うーん」
「したことねえよなあ。あるはずねえもん。お前だし。知ってるよ。お前のことならなんだって知ってんだ。俺はさ」
Tシャツをすべてダンボールにしまい終わり、腰を擦りながら立ち上がる。そしてすこしめまいがしたこと。それだって、ドンヘは知らないんだな。俺がドンヘとの将来を本気で考えはじめているってことも、ドンヘはきっと知らない。いつまでもこのままじゃ、確実に失うもののほうが多くなってしまうんだ、ということも。
「ヒョクは想像するの?」
「するよ」
「たとえば?」
「たとえば、俺が好きって言ったらお前は好きって返すだろうな、とか。俺がセックスしたいって言ったらお前はキスから始めるだろうな、とか。俺が違う人と結婚するって言ったらお前は悩んだ挙句ヒョクのためとか言って諦めちゃうんだろうな、とか。そのあと未練がましく歌なんかにしちゃうんだろうな、とかさ」
Yという曲、Still youという曲、Beautifulという曲。どれも誰に当てたのかなんてすぐにわかる。俺が誰よりも、ドンヘを見てきたから。誰よりもドンヘのことを知っていて、多分、誰よりも好きだからだろう。のちのち俺も、その曲のラインナップに並んじゃうのかな、なんて、思ったりする。そうしたら他の女よりも少しだけ俺についての曲の方が多いだろうな、なんて、思ったりする。ドンヘの想像なんかじゃ足りないくらい、俺はさみしいし、苦しいし、胸を痛めてる。ドンヘに愛を捧げられちゃったおかげで、とんでもない気持ちで今この季節を迎えている。そしてその愛にほだされちゃったおかげで、俺はたくさんのものを失う未来が怖くなりつつある。もしもそのひとつにドンヘがいるのなら、と思う。そうしたら俺はまたふつうの、ふつうの人に戻って、恋をして、結婚をして、子供ができて、そんな未来を生きるのだろうか。そんな未来を生きることができるのだろうか。
「お前も、想像してものを言えよ。そうじゃないと、誰かが傷つくかもしれないだろ」
傷つくのが俺ならいいんだ。いや、俺は傷つかないからいいんだ。練習台でいい。でももしも他の人がドンヘからの無意識な愛の刃物に刺されることがあっては困るのだ。その刃先は必ずドンへに返ってくる。
「俺はお前が心配だよ。いつまでもいつまでもさ」
「でもさ、ヒョク」
「あ?」
「あたまばっかで考えてたら、人生つまんないよ」
ドンヘは一瞬だけ見せるダイヤモンドリングから漏れる光みたいな笑顔で笑った。
「想像とか、心配とかも、たぶん・・・大切だけどさ。ヒョクは時間の無駄だーって怒るかもしれないけどさ、無駄なことも、余計なことも、しすぎるほうがいいよ」
どこかで見たことある気がした。その声も、微笑みも。俺はすぐに、こわくなった。
「は・・・なに言ってんだよ。そんなのこわいじゃん。リスクは負いたくないし、負けるのもいやだ。賭け事は、しない」
こわいんだ。分かった。俺はこわい。ドンヘを失うのもこわいし、親に失望されるのもこわいし、メンバーから捨てられるのもこわいし、怪我をして踊れなくなるものこわい。ドンヘとキスをするのだって、本当はすごくこわい。崩れてしまいそうになる。泣いてしまいそうになる。崩れられればいいのに、泣いてしまえばいいのに、それさえもこわくてできない。ドンヘは全部、知っていたのだろうか?
「ほーら。そやってまたむずかしく考える。俺、そんなたよりないかな。ヒョクを愛してんのはほんとだよ。誓うよ」
「また、簡単に、誓ったり、する・・・」
「簡単に誓ってるように見える?だったらヒョクのその想像全部間違ってるかも」
「んなわけないだろ!お前は俺の手のひらの上なの!この俺が、まちがうはず、ない」
「はいはい。じゃ、俺は、ヒョクのもんになれたってことかな」
「お前は元から俺のもんだろ!」
「ははは。だから、ヒョク、かわいいんだってば」
やめろ。言ってもきかないことくらい、想定内だった。ドンヘのなめらかな唇のふちから、湿ったぬくもりの中に落ちていく。巻き込まれるようなキスじゃなくて、あたためるようなキス。背中をポンポンと叩かれて眠った、あの誰にだって優しい幼いころの記憶のようなキス。そんなキスだって、想定内なんだ。いつも。ドンヘの行動すべてをそう言いくるめることで、俺は安心できた。そうこうしているうちに、俺の中の『想定』は、際限なく広がっていってしまった。
「懸けてみてもいいんじゃない?俺、大切にするよ」
どこかで聞いたことのある台詞。へどが出そうに甘い。こわいけど、いいのかな。失うかもしれないけど、いいのかな。あ、キスの味が変わった。懸けてみてもいいかな、と思えた。
「なんで・・・」
「ん?」
「なんでいつも、いつのまにかお前が上に乗ってんだろう」
「さあ。ヒョクがグジグジしてるからかな?」
「俺だってお前を抱ける!」
「うん。今度ね」
「腹立つ!なんでだ!?めちゃくちゃ腹立つ!」
過ぎていく季節がこわかった。いや、今だってこわい。大人になったつもりでも、さみしい。
ドンヘ、ドンヘ。そう呼べる日が今日で終わってしまう気がして、さみしい。
キスだって、俺なんかよりずっと上手なドンヘが飽きてしまったらおしまい。バイバイって消えてしまうかもしれない。ドンヘ、捨てないで。そう縋っているのは俺のほうだ。そしてドンヘはいとも簡単に、さらっていく。北風のように、ひと吹きで俺のすべてを奪っていく。
そんなドンヘに、俺はずっと憧れていたんだ。
「すきだよ、ヒョク」
「うーん。もうわかったから」
「すきだ」
このひとことが今俺たちをつなぐすべてである。うなずくと、笑ってくれる。苦しみは、すこしだけ消える。
証も象徴も与えられない俺からの愛。
懸けてみてもいいかなと思える。
そんな人に出会えたから、たとえなにかを失ったとしても俺はまた、生きていけるんだと思う。
Angel that fell nowhere