超人旋風記 (6)

超人旋風記 (6)

異世界の物語は嫌いではない。
しかし何一つ鍛錬もしていない主人公が、突然異能の力を持ち、大活躍するなんてあり得ないと思っている。
その力が誰かに与えられたものだとしても、使いこなすために血の滲むような訓練が要る筈だ。僕も大して丈夫でもなかった身体を、徹底的にいじめ抜くことで強くしてきた。
だから僕の描く主人公にも、そうさせたい。そうあらせたい。

結構な長編になります。おつき合い願えれば幸いです。

ブラックペガサス軍団掃討後、剣吾とマリアは日本で暮らし始める。
互いに想い合いながらも、その先が踏み出せない2人。そんな中、剣吾は自分がマリアの中に、いつも布由美の姿を見ていることに気づくのだった。激しい自責の念に駆られる剣吾に、マリアは…。

その後、2人を若林が訪れる。彼の口から、モニカとの出逢い、そして別れが語られ始める。

このシーンを描きたいがために、ここまで物語を書いてきました。しかし物語はまだ続きます。決戦の地に向かって。
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第6章 愛する

第6章 愛する

 …………。
 …カサンドラ准将の予想、いや、予告通り、合衆国大統領戦は民主党の新候補の勝利に終わった。11月の8、9日をまたいで、新大統領の就任式がホワイトハウスで賑々しく行われた。
 その興奮も冷めやらぬ11月11日、合衆国の各地で退役軍人の豪華なパレードが、例年通り行われた。
 しかしその前日にチリ沖で発生し、沖合の魚の大量死を招いた核爆発が、メディアの紙面や画像をほんの僅かでも飾ることはなかった。
 12月に入っても、合衆国の失業率は6パーセントの大台を保ち続けた。90年以降、この数値が減少に転じる兆しはなかった。
 チェルノブイリ原発事故、ソ連の崩壊、冷戦の終結…。それはただでさえ危ういバランスで成り立っていた世界経済を根底から揺るがす大事態だったのである。
 特に原子力産業の停滞――原発の老朽化と世界規模での事故の多発、チェルノブイリの恐怖を忘れ得ない人々の拒否反応が原因での――は、大なり小なり原子力発電に頼る各国で、膨大な失業者と電力会社の株価暴落を招いた。
 そしてすぐ後に訪れた冷戦の終結。それは冷戦の最中、膨大な金を国家から搾り取ってきた軍需産業にもかつてない雇用不安をもたらした。6.4パーセントという高い失業率の中には、先に述べた原子力産業、そして軍需産業から放り出された数万人もの労働者が含まれていた。しかしこれでも合衆国はマシな方だった。統一されて間もないドイツでは7.6パーセント、英国では9.8パーセント、EU全体では11パーセントを超える数字だったのである。英国などは失業率がマイナスに転じてもまだこの数字である。
 軍需産業は今、徹底的な再編を迫られていた。
 深刻な不況は、軍需産業の上に立つ、地球規模の金融の総本山とも言える世界財閥を、手段を選ばない金儲けに走らせ始めた。
 11月の半ば、合衆国からの度重なる圧力に負け、日本が遂にコメ市場の部分開放を決定した。上下院揃っての重圧の背景には、合衆国全体に根を張る穀物シンジゲートの暗躍があった。そして彼らの背後に世界財閥の姿が見え隠れしていたのは言うまでもない。何としてでも金のある国に商品を売り捌きたい彼らは、今度は日本の農業を食い物にし始めたのだ。日本の無能な官僚たちがそのカラクリに気づくわけもない。半ば恫喝とも取れる合衆国議会の要求と、各個人に提供された手を変え品を変えの誘惑に負けた政治家や官僚たちは、50年後、100年後の己の国の姿など考えることを止めてしまった。唯々諾々と従うだけだ。
 12月、〈ワシントン・ポスト〉が、北朝鮮が核を保有しているというスクープをすっぱ抜いた。国連は北朝鮮にIAEAの査察団を送り込むことを決定した。しかしそのメンバーの中に、国連に新たに派遣された〈R〉のエージェント、セールスマンが大量に紛れ込んでいることを、ほとんどの人間は知らない。IAEA査察団は第3者国のジャーナリズムを徹底して締め出し、核施設が世界財閥の売り込んだものであることを示す証拠をことごとく隠蔽した。
 年も暮れる中、合衆国海軍予備艦隊の司令官T・ブロデリック少将が自殺したとの報道が地方紙の片隅を飾った。つい先日、中将への昇進を決めた矢先の出来事だった。少将はつい先日起こったばかりの大規模な事故により、予備艦隊の艦船多数と、合同訓練に参加していた特別訓練中の特殊部隊混成軍180余名を失った責任を痛感しており、その責任を取らされることなく昇進したことに対し全く喜んだ様子を見せず、寧ろここしばらくは塞ぎ込んでいる様子だったと伝えられていた。
 年が明けた2月、内戦の続くボスニアに、NATOが介入、軍挙っての空爆が開始された。この不況下、ただでさえ金を遣いたくないNATO加盟国をせっついたのは、内戦を終わらせろと声高に叫ぶ国際世論であった。空爆は世界の人々に概ね是認された。そしてその世論を煽った〈タイムス〉や〈ワシントン・ポスト〉、米英のテレビを始めとするメディアの筆頭株主に、世界財閥、特に〈R〉一族の名が連なっていることを、是認した人間のほとんどが知らない。この大規模な爆撃により、航空機や弾薬の受注を得た軍需産業は一時的に潤ったものの、空爆はすぐに終わり、結果、潤沢も一時的なものに終わった。
 そして今、軍需産業は鵜の目鷹の目で、自分たちに利潤を与えてくれる紛争の起きそうな地域を、世界中に求めていた。同時に世界財閥も奔走を続けていた。
 4月、モスクワの影の大統領と呼ばれてさえいたロシアン・マフィアのナンバー1が、何者かに射殺された。彼と彼の企業がスイスにプールしていた莫大な資金は宙に浮き、ロシアは表沙汰に出来ない経済的支柱を失った。その間を縫うように、世界財閥の操り人形たちが雁首を揃えた主要国経済会議がロシアへの援助を決定した。もちろん援助という名目での、様々な分野に亘る介入だ。目的は広大な国土に眠る石油、純金など、世界最大の埋蔵量を誇る地下資源の搾取である。
 同じく4月、南ア共和国で初の黒人大統領が誕生した。長きに亘って続いた白人政権による人種差別の廃止は、国際世論に大いなる喝采を以って受け入れられた。しかし本来なら即座に黒人たちに開放されるべきであった金やダイヤの鉱山利権は一部の白人たちの握ったままとなっており、それらを追及、非難する前に、黒人大統領に与えられたノーベル賞により、問題はうやむやのまま終わらされた。背後には世界中で通貨不安を煽る一方で、金投機で莫大な利益を上げようと目論む連中の思惑があった。
 5月、初期の合衆国航空業界をリードし、60年代には核兵器とミサイルと宇宙開発事業に力を入れていたマーティン・マリエッタ社が、降雨空気の新型ジェットエンジンを開発しているゼネラル・エレクトリック社の衛星・レーダー・探知システムといった軍需部門を買収した。
 ほぼ同時に、合衆国空軍における三角翼の戦闘機、爆撃機なら必ずその部品が採用され、F18ホーネット戦闘機の開発でも知られるノースロップ社が、同じく航空業界最大手の1つ、グラマン社と合併した。
 しかしいくら再編・合理化を推し進めても、根本的な解決に繋がらないことは、軍需産業やその元締たる世界財閥にもわかってはいたのだ。彼らを救う物があるとすれば、それは再度の冷戦勃発か、それに近い緊張状態の復活しかなかった。それでも世界中を巻き込んでの戦争が破滅への道だとは、彼らとてわかっている。いつ弾けるかわからない、寸前寸止めの状態が彼らにとっての最良のコンディションなのだ。それを作り出す機会を窺いつつ、彼らはその時に売り出す目玉商品の開発に密かに取り組み始めていた。
 そしてこれも5月、公共事業に絡む産業界からの総額10数兆リラに及ぶ贈賄の発覚に、旧社会党や旧キリスト教民主党の議員を始め、1300人もの逮捕者を出すに至った構造汚職の捜査が進むイタリアで、前年に施行された新選挙法に則った選挙では、正解を腐敗の温床と化した旧勢力を駆逐しようとする国民の意思が反映され、相当数の新議員が上院・下院に誕生した。大幅に若返り、口々に清潔を謳う議員たちの中には、よくよく調べれば経歴・素性ともに首を傾げたくなる者も混じっていたのだが、今のイタリア国民にそこまで気を回す余裕はなかったと言ってよい。比例代表区の方ではメディア王率いる新党が大勝し、彼を総理大臣とする連立右翼の新内閣が誕生した。
 6月、ロンドンにて大規模なテロ騒動が持ち上がり、SASに鎮圧されたという報道が流れた。前年の12月にアイルランド政府との共同平和宣言を出したばかりだとは言えど、実務レベルでの双方の合意が一向に見られないところにこの騒ぎである。各国のメディアはIRAの活動再開かとまくし立てたが、英国・アイルランド両政府はこれを完全に否定した。直後に、政府関係者がテロリストに加担していた、或いはテロリスト本人だったという情報も流れたが、それが解明される前に捜査本部は解散させられ、事件は政府によって強制終了されてしまった。
 その騒ぎの中に、2人の日本人らしき男たちがいた。いや、この事件を引き起こしたのは、その2人の日本人だったという報道も一時流れたが、捜査の終了とともにそれも立ち消え…。


 …西陽の弱々しく差し込むフィラデルフィアの安ホテルの1室で、ドロシー・ヘンダーソンは物憂げに上体を起こした。サイドテーブルに置いたフォアローゼスの黒ラベル壜に手を伸ばし、グラスに注ぐ。
 水もソーダも加えず、それを一気に飲み干したドロシーは、これもサイドテーブルに並べた手巻きの煙草を1本咥えた。震える手でマッチを擦る。いがらっぽく甘ったるい煙が薄暗い部屋に立ち上った。裏町で買い込んできたマリファナである。リノリウムの床には既に吸い殻が数十本踏み躙られていた。
 金色の髪はくしゃくしゃ、モデルと言っても通用する美貌だった頬の肉は殺げ、目は落ち窪み、肌も随分荒れていた。
 彼女を見た目も中身も疲れさせてしまったのは飲酒でもマリファナでもない。この6箇月の心労だった。
 2人の相棒を失い、命を擦り減らして手に入れたスクープ映像は、彼女を選ばれし者にしてはくれなかった。NBC、ABCなどメジャーなテレビ局への売り込みはことごとく失敗した。執筆した原稿を持ち込んだ『タイムス』や『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』の反応も同じだった。皆が口を揃えたかのように言った。
“信憑性の欠片もない。”
 無事に戻れた後、マッコイのワゴンから探し出したテープを繋ぎ直し、どうにか見られるものにした。しかしフォートブラッグ基地の周囲から軍人たちを撮ったフィルムはエマーソンのカメラとともに失われ、ドロシーは瓜生の単独インタビューを行わないまま彼と離れてしまっていた。正直、あの時はもう顔も見たくなかったためでもある。インパクトを増すために上空を飛ぶファイティング・ファルコンの映像、グリーンベレー兵士や海兵隊員の惨殺死体も入れてはみたものの、どれも“信憑性”の裏打ちとはなってくれなかった。そもそも合衆国軍のどの艦隊にも出撃記録がなく、合衆国そのものがブラックペガサスなる暴走コンピューターの存在を認めていないのである。如何にドロシーが必死に説明を加えても、どこぞの映像フリークが在り物の映像に特殊加工を駆使して仕上げた、凝った悪戯であると、判で押したように決めつけられた。
 しかも何より悔やまれるのは、ブラックペガサス本体前でカメラを回せなかったことだ。その上致命的だったのは、核爆発による〈賢者の城〉の最期も撮れていなかったことだ。
 何とか売り込めたのは、東海岸の地方局だけだった。だがそこも、ドロシーの力作をズタズタに再編集した挙句の放送しか許してくれなかった。ゴールデンタイムに残虐シーンは流せないというのが地方局ディレクターの言い分であった。付けられたタイトルがまたひどかった。
『衝撃! 連続テロ事件犯人は合衆国政府の造り出した巨大コンピューターだった!』
 言っていることに間違いはないのだが、煽り文句としては最低だ。パルプSFでもこんなキャッチコピーはつけないだろう。売り込みに興味を示していた他局、ドイツやオランダのテレビ局もこの放送を見て、一切連絡を寄越さなくなった。フィクション専門の3流ゴシップ誌やオカルト系SF雑誌が幾度か連絡してきたものの、すぐに音沙汰なくなった。原因はドロシーの高飛車な態度だった。
 諦め切れないドロシーは、遂に意を決して、全米の新聞に広告を出した。“ウリューへ。フィラデルフィアで待つ。D。”
 そう、彼女は瓜生を待ち続けていた。彼がもう一度現れれば、この現状を何とかしてくれるだろうという期待があった。あの島では随分な目に遭わされた。あれ以来、定量の2倍の睡眠薬でも眠れなくなり、好きだったセックスもまともに出来なくなった。この半年の間、何人かの男と寝てはみたのだ。駄目だった。快感は瓜生に抱かれた時の足元にも及ばないし、抱かれている最中、ブラックペガサスやら、マッコイ、エマーソンたちの死に顔やらが立て続けに浮かんでくるのである。その度にドロシーは悲鳴を上げ、彼女を抱いていた男たちを突き飛ばし、払いのけて、ベッドから逃げ出していた。
 何よりも、泉が枯れてしまった。精神の変調がホルモンバランスを崩してしまったのか、どんな愛撫を受けても、ドロシーの亀裂は濡れなくなってしまっていた。もうあたしにはセックスも残ってない…、心底絶望しそうになった。全部、瓜生のせいだった。
 だが、それを全部不問に伏してもいい。望みとあらば、身体も開こう。恐怖と化したセックスでも我慢しよう。彼が自分にチャンスを運んできた男であることは間違いないのだから。瓜生ならあたしのトラウマなんか吹っ飛ばしてくれるだろう。瓜生とのセックスなら、ここしばらく相手をした自信満々な癖にお粗末この上なかった下手糞どもとは違い、巨大コンピューターや相棒の死に顔が目の前をちらつく暇すらないだろう。
 顔を見るのも嫌だった筈の瓜生は、今やドロシーの頼みの綱、最後の希望でさえあった。
 最後の売り込みに失敗してから1箇月、ドロシーはこの安ホテルに泊まり込み、週2回新聞広告を出しながら、ずっと待ち続けていた。
 西陽の照らすベッドに、フォアローゼスをもう一杯呷ったドロシーは力なく横たわった。太陽が弱々しい光を投げかけながら、ビル群の隙間に見える西の地平に沈もうとしていた。
 うとうとしかかった彼女の耳に、ドアのノックの音が届いた。気のせい? いや、ノックは再び聞こえた。ドロシーは跳ね起きた。口臭がひどかった。多分、顔も相当ひどいものになっていることだろう。だが、洗面所に走り込んでいる暇はなかった。
 ドアは三度、ノックされた…。


「…マリア、雨だよ」
 表からの声に、マリア・クリストフは顔を上げた。ポール・モーリア特集を流していたラジオの横、畳の上に繕い物を置く。壁の時計は2時40分を指していた。
 障子を開けるとまた雨が降り出していた。小さく溜息をついたマリアは縁側から、突っ掛けの草履を履いて庭に出た。急いで洗濯物を取り込みに掛かる。
 傘の下からそれを笑いながら見ていた、白いエプロンを腰に巻いた女が言った。「梅雨は初めてなんだってね」
 女を見たマリアは首を傾げた。唇が、ツユ? と呟く。
「そうだよ。日本じゃこの時期は雨ばかり続くんだ」マリアの差し出したメモ帳に、『梅雨』と書き込み、振り仮名も付けた女は上空を仰いだ。「ジメジメするだろ? 洗濯物1つ乾かすのも大変なんだよ」
 マリアは小さく微笑み、ほんと、ですね、と唇を動かした。それも日本語で。家の南側に広がる庭を見渡し、これじゃ、庭の掃き掃除も出来ないわ、と首を振る。
 唇の動きだけでは判り辛かったろうが、吐息での発声はしっかりと、日本語の発音を女に伝えていた。女は化粧っ気のない顔で大きく破顔した。「あんた、本当に日本語が上達したよね。半年前まで一言も知らなかったなんて信じられないよ」
 村上佳代子。齢は40を超えているそうだが、10歳は若く見える。小柄できびきび働き回るのとボーイッシュな髪型、大きく動いて表情を豊かに見せる目のせいだろう。言いたいことを遠慮なしに口に出し、商店街の店主たちをも平気でやり込める。若い店員たちは、地元では相当なヤンキーだったんじゃないかな、佳代子の姉御は、などとよく話していた。日本人にしか見えない佳代子が、ヤンキー(北部アメリカ白人)だなんて知らなかった。それを真顔で本人に問い質したところ、佳代子は笑い過ぎて死にそうになった。今でも思い出し笑いされる。
 彼女は少し高台にある、マリアの今いる家から道1本下ったところに、夫と2人で暮らしている。
 夫は村上麟一という。職業はナイフメーカーだそうだ。注文により、実用鑑賞用を問わず、カスタムナイフを鍛え、研ぎ上げているのだと言う。剣吾が以前言っていたが、ナイフの世界では国際的にも名の知られた存在らしい。子供のいない2人だけの生活には全く困っていないのだと、村上夫人佳代子も笑いながら言っていた。
 その村上麟一がこの地に住み始めたのは、マリアたちの今使っている家の持ち主、剣吾の師匠――井筒兵庫のためなのだと言う。
 村上はナイフメーカー以外に、日本刀の刀鍛冶師という肩書も持っていた。現代に生きる剣の達人井筒先生のことを知り、日本刀の何たるかを教えてもらうために、岐阜からわざわざこの地に移り住んだのだそうだ。
 その井筒先生も既にこの世に無く、彼の暮らしていた面積60坪余りの粗末な田舎家を、現在剣吾とマリアとで使わせて貰っている。
 家族を失った剣吾が唯一頼れるのが、井筒先生だったわけだが、その先生も4年前に亡くなったと聞いた剣吾は落胆した。しかしそれでもこの家を借りられたのは、剣吾と知り合いだった村上の口利きあってのことであった。
 旅行中に家族毎行方知れずとなり、死んだとばかり思っていた剣吾が6年ぶりに、それも金髪の美少女を連れて戻ってきたのを見た村上は、佳代子曰く、“普段表情の乏しい顔を珍しく仰天させていた”とのことであった。佳代子は佳代子ですっかりマリアを気に入ってしまい、折を見ては今のように様子を見に来てくれたり、町を案内してくれたりしているのであった。麓の商店街ではマリアの噂はたちまち広がった。最初の頃は好奇心混じりの視線ばかりであったが、佳代子のお陰で商店街の人々と打ち解けるのも時間は掛からなかった。今ではすっかり商店街の人気者になってしまい、『青い目の若奥様』などとも呼ばれている。
「八百屋の大沢さんがね、若奥様に持って行ってくれってさ」
 佳代子がビニール袋に入った野菜を縁側に置いた。数個の馬鈴薯が転がり出る。慌てて拾い集める佳代子を笑って眺めながら、マリアは家に入った。お茶を淹れる。
 縁側に並んで座り、お茶を啜りながら、2人は本降りになった雨を見つめた。
「剣吾さんは、また、山かい?」
 ええ、とマリアは頷いた。雷を待ってるんです、と言いかけ、止めた。説明しても信じては貰えないだろう。
「雨の日は必ずだね」
 シュギョウ、だそうですから。
「ウチの人が言ってたけど、剣吾さんって相当の達人らしいじゃないの。弟子でも取れば収入になるんじゃないの?」
 それは前にも、村上に言われたことだった。剣吾は笑って首を振ったものだった。自分の剣は人に教えるものではない、という理由で。剣吾は晴れた日には道路工事や堤防補修などの力仕事に出掛け、僅かながらの収入にしていた。
「井筒先生ってのもかなりの変人だったけど、剣吾さんもいい勝負だね」
 佳代子の言葉にマリアは笑った。しかしその笑みには力がなかった。
 それから30分近く、マリアは佳代子の無駄話につき合った。大半は旦那である村上の愚痴であった。ここしばらく、村上は注文の仕事もそこそこに、工房にこもって何かしているらしい。
 剣吾の刀を見てからだという話だった。
「ただでさえ注文抱えてるってのに、目の色変わってるのよ。マル何とかっていう値の張る材料、外国にまで頼んでさあ。カネになる仕事しろっての。まあ、稼いでるのは旦那だからさ、文句言えた義理じゃないんだけどね」
 マリアはまた力なく笑った。ともすれば沈みそうになるその表情を、佳代子が気遣わしげに見つめていた。
「何度も言うけど、雨の日はスクーターで出ちゃダメだよ。それからキャンプ場の方には近づかないこと。ここ数日、ガラの悪いバカ者どもがたむろしてるらしいからね」
 佳代子はそう言い置いて帰っていった。
 マリアは茶碗を盆に載せ、立ち上がった。3時を過ぎていた。そろそろ夕飯の準備に取り掛からないといけない。田舎家の例に漏れず、この家も台所は土間を降りた場所にあった。家の中の床が高くなっており、そこでは靴を脱ぐのだという習慣には、最初マリアも大いに戸惑ったものだった。6月も終わりに近いとは言え、水道から出る水は冷たかった。地下水をポンプで汲み上げているからだそうだ。1、2月はそれこそ手も凍るような冷たさだったが、それを苦にして選択や炊事を嫌がる躾をマリアは受けていない。驚いたのは、水道から出るその水をそのまま飲めるという事実だった。それも、フランスで飲んでいたどのミネラルウォーターよりもまろやかで美味いのだ。余程の郊外を除いて、フランスではあり得ないことであった。
 ラジオの音量を少し上げ、佳代子の持ってきた馬鈴薯の皮を剥き、米を研ぎ、鍋に水を張った。今日は覚えたての芋汁にするか、それとも久々にポトフでも作ろうかと考えながら、風呂場の裏手に回る。風呂の釜焚き場の前の斜面は深い竹藪になっていた。樹々の緑が放つむっとする香りが頬を撫で、生暖かく湿った空気が重かった。ちょっと動いただけなのに、早くも背中や腋が汗ばんでいた。これもフランスでは考えられないことだった。剣吾が大量に割っておいた薪に器用に火を点け、五右衛門風呂を沸かしに掛かる。
 この町――西伊豆の松崎町雲見に移り住んで、半年が過ぎようとしていた。
 マリアの表情は浮かなかった。佳代子や村上に心配を掛けていることもわかっていた。剣吾さんと上手くいってないのかい? と遠慮がちに訊かれたこともあった。当たっているだけに、その質問は堪えた。
 …モンマルトルの隠れ家で剣吾を出迎えた時、マリアは涙ながらに彼の胸に飛び込んでいけた。本当に嬉しかった。この人は絶対に約束を破らない人なんだ。そして真剣に思ったものだ。
 この人となら、一緒に生きていけるかも知れない、と。
 そんな彼女に、剣吾の方から提案があった。一緒に日本に行かないか、と。
 奴らは2度と君を狙わないと約束した。だがそれは所詮口約束に過ぎない。この先どんな手段に訴えてくるかわかったものではない。それだったら君を護るために、僕は君の側にいたい。それもどこから狙われるかわからないこのパリではなく、僕の住み慣れた場所の方が、奴らが接近してきた時に気づき易い。僕の故郷は、外国人がウロウロするだけで目立つ場所だから。
 少し迷いはしたものの、やはりついて行くことに決めた。シニョンの一件もあって、マリアはこのパリに本当に嫌気が差してもいたのだ。ジロンドーの無事は、若林が確かめておいてくれた。未だベッドの上ではあったらしいが。トゥールーズの修道院長マリー・アンジェ・クロイエと、自分の後見人であるマルカーノには、手紙を出しておいた。自分が無事であること、とんでもないトラブルに巻き込まれたが、信頼できる人とともに日本に向かうということを記し…。
 6年振りに日本に帰った剣吾だったが、故郷の御殿場には向かわなかった。帰るのを避けているようにも見えた。
 ――僕の家族はみんないなくなってしまったから。
 剣吾は呟いた。横顔に言い様のない苦衷を湛え。
 帰化申請の受理は早かった。寧ろ生き返った剣吾の戸籍の復活の方が時間が掛かったくらいだった。町役場の話でも、異例の早さだということだった。デービッドが動いたんだろう、と剣吾は言った。僕への褒美の積もりなんだろうな。
 その剣吾も、マリアの言葉の壁だけは心配していた。しかしマリアは驚くべきスムーズさで、日本語を吸収していった。商店街で買った海外童話の翻訳本――昔、自分が読んだもの――を次々と読破していくマリアの向学心の前に、日本語は砂浜に落ちる雨粒以上の早さで吸い込まれていった。モンマルトルのアジトですっかり気に入ってしまったラジオも一役買った。フランスを発つ時に、若林がくれたラジオだ。今では語彙力の不足を除けば、聴くことには何の不自由もなかった。平仮名片仮名、簡単な漢字で手紙さえ書けるまでになっていた。
 自転車に乗ったこともないというマリアだったが、元来運動神経に恵まれていたのだろう。50㏄のバイクの免許まで取ってしまい、麓への買い物の際はいつも乗って出掛けるという活動的な一面も見せ、剣吾を驚かせたりもした。家屋にも料理にもマリアはすぐに慣れ、2人の生活は順調に始まったかに見えた。
 その先が踏み出せなかった。
 自分は剣吾のことが好きなのだと思う。あれだけ男を汚らわしいと思い、気配を感じただけで震えていた自分が、剣吾の手だけは平気で握れた。彼のことだけは汚らわしいとは思えなかった。剣吾も同じ気持でいてくれていると思う。さもなければ自分を日本にまで連れてきたりはしなかっただろう。
 好き合った2人が同じ屋根の下で暮らしていれば、必ずいつかは一線を越える…、そんなことをトゥールーズの修道院で若い尼僧たちが目を輝かせて話していたのを聞いたことがある。そうなのか…、古めかしいを通り越して考えが化石だと笑われかねなかったが、普通の恋愛を経験してこなかった彼女は、それを真に受けた。真剣に信じてしまった。
 庭で刀の素振りをする剣吾の、鍛え上げられた裸の上半身にときめいたりもした。居間の囲炉裏を囲んで2人で食事をし、お茶を飲んでいる時など、どんなに彼の横に寄り添おうと思ったものだろう。
 しかし、出来なかった。
 やはり、怖かったのである。
 ここに住み始めて以来、マリアはかつて剣吾が稽古で訪れた際に寝泊まりしていたという離れを使っていた。戸には内側から鍵が掛かるようになっている。剣吾が気を遣ってのことであった。
 夜になって、その戸を開け、剣吾の眠る寝所に入っていこうと幾度思ったことだろう。庭に面した板敷きの廊下に出れば直ぐなのだ。その足が踏み出せなかった。いっそのこと剣吾が鍵を壊して飛び込んできて、強引に自分を抱き締めてくれればいい…、そんなことさえ考え、鍵を掛けずに布団に横になっていたこともあった。だが、夜遅く、剣吾が玄関の横にあるトイレに立つために障子を開ける音を聞くと、決意とは裏腹に身体が竦んでしまうのである。
 叔父と従兄の刻みつけたトラウマはそこまで深かった。
 そして、自分のところに来てくれない剣吾にも、僅かながらじれったさを感じないではいられなかった。
 剣吾は、私のことを、汚れた女だと思ってるんじゃないだろうか。
 ここに来て間もなく、マリアは自分の過去に起きた出来事を、包み隠さず剣吾に話した。忌まわしい思い出も全て語った。彼には隠し事をしたくなかったからだった。話が終わる頃、剣吾は目を潤ませさえしていた。
 ――君も大変な目に遭ってきたんだね。
 その表情と言葉は、マリアを大いに安心させた。自分が許されたと感じた。それでもその言葉も態度も嘘で、剣吾が私のことを穢れた女だと思っているのだとしたら…。
 そしてもう1つ、ショックなことがあった。
 次第に口数が減っていった2人だったが、それでも表面上は何事もなく過ぎていった。だが、一際大きな雷が落ちたあの日、ふらふらになって帰ってきた剣吾は、駆け寄ったマリアをこう呼んだのだ。
 ――姉、さん?
 それが剣吾の従姉、フユミのことだとはわかっていた。佳代子からも聞かされていた。剣吾を迎えに、何度かこの家を訪れたこともあると言う。その瞬間、マリアの脳裏に、出発の前の晩、剣吾が訥々と語った言葉の1つ1つが信じられない鮮明さで蘇った。日本語をかなり理解するまでになっていた今のマリアには、拙いフランス語では表現し切れず、日本語を交えるしかなかった彼の言葉が、話が、パズルのように全て嵌め込まれ、完成した。
 あの人は、私の中に、フユミさんって人の面影を見ているんだ。
 私がフユミさんにしか見えていないんだ。
 フユミさん。あの人の、愛した人…。
 それが堪らなく悔しく、そして苦しかった。私とは少しも似てないって言ったのに! 私はフユミさんじゃないのよ! 命懸けで守ってくれたあの約束も、私とじゃなくてフユミさんとしてた積もりだったの? 剣吾の胸に飛び込んでいく勇気があれば、それを堂々と言い放つことも出来ただろう。今のマリアにはそれが出来なかった。彼を待つだけの間、先の疑念と、自分は代用品でしかないのではないかという気持ちばかりが膨らんでいった。間違えて呼んだあの日から、剣吾も気まずそうな顔で、マリアの眼差しを避けるようになってしまった。
 あなたの側にいるのは、フユミさんじゃないのよ。
 私なのよ…。
 ここに来たのは間違いだったんじゃないだろうか…、いつしかそんな思いがマリアの中に芽生えていた。思い余った彼女はトゥールーズの修道院と、ローマの後見人の本宅に手紙を出した。帰りたい、と。修道院には2回も。
 だが、帰りたいと思い、手紙に向かう度に、得体の知れない苛立ちが彼女を襲った。どうしようもないもやもやが、彼女の中に膨れ上がった。思いの正体は未だ掴めておらず、手紙の返事も届いていなかった。
 今もそうだ。正体が掴めない癖に、抑えようのない苛立ちが、野菜を切る手元を狂わせそうになった。マリアは包丁をどこかに投げつけたい衝動と戦った。
 手を伸ばせばすぐに掴めそうなのに。
 こんなに好きなのに…。
 ラジオは『シバの女王』を流していた。裏の竹林で雨蛙が鳴き始めた。


 …雲見から東に2キロ少しのところに、その山はあった。
 暗沢山。標高520メートル。中腹にはハイキングコースもあるものの、ルートが狭い山頂に近づく人間は滅多にいない。麓から山頂近くまで、ビャクシンやクロマツの豊かな森に覆われ、野鳥も多い。山頂にはなだらかな斜面が広がり、そこにも灌木林が広く密生している。
 頂上の、海を見下ろせる場所には、大きな窪地があった。今は雨に煙り、水平線までは見渡せない。窪地の中央には大きな松の樹幹が鎮座していた。樹齢数百年という太い樹だったが、地上から80センチくらいのところでへし折られていた。へし折られた幹の数箇所に焦げ跡が見える。雷が落ちたのだ。
 海風を直に受けるせいか、雷雲はこの山の上に湧き立ち、その度にこの山頂にはよく雷が落ちた。ハイキング客が近づかないのもそのためだ。
 松の樹幹の、年輪の真ん中に、長さ1.8メートルの鋼鉄の棒を挿し、剣吾は上空を見上げた。
 今日は作務衣もどきではなく、白の剣道着に身を包んでいた。よく見ると、あちこち継ぎ接ぎだらけだった。腰には村上麟一の手による刃引き刀――刃を砥石で丸めた、居合の稽古用の刀――を差している。胴田貫造りになっている刀身の厚みは従来の日本刀の倍はあり、重さも剣吾愛用のF・カーター業物の2倍以上あった。
 雨脚は強くならなかったが、黒雲はだんだん低く垂れ込め始めていた。晴れていれば緑が眩しいばかりの山も、空が厚い雲に覆われた今は、沈んで見えるばかりだった。湿って重い空気が頬を撫でる。松の樹の濃い匂いが、ここが故郷であることを実感させる。
 上空で雷鳴が轟くのを待ちながら、剣吾は幹のすぐ前で、静かに居合の稽古を繰り返していた。
 一般に知られる剣道の練習とは違い、古の剣術家たちはひたすら『型』の稽古に明け暮れていた。『型』の徹底した積み重ねにより、信じ難い速さを体得できる。剣吾はそれを師である井筒兵庫から教わった。
 最初は全然理解できなかった。だが、いざ木刀を持って対峙してみると、鍛えた若い剣吾の腕力が出す速度が、老齢の井筒先生の速さにまるで追いつけなかったのだ。
 ――型の習得とは、謂わば無駄の排除なのだ。
 井筒先生はそう教えてくれた。
 ――型には先人の練り上げた技の神髄が凝縮されているのだよ。それを身体の芯にまで刷り込むことで、己の動きの無駄を知るのだ。腕や肩にこもった無駄な力、無駄な動きを知り、それを除外していけるのだ。
 今、先生の教えを請えないのが悲しかった。村上の話によれば、先生は亡くなる時も剣吾のことを気にし、悔やんでいたそうだ。
 先生…。
 型を10回繰り返しただけで、額にうっすら汗をかいた。まだ納得行く速さを叩き出せていない。幹に立てた鋼鉄の棒から少し離れた窪地の地面に腰を下ろし、右足を僅かに前に出す形で胡座をかく。刀は腰に差したままだ。雨が髪や額を濡らすが、まるで気にする風もなく、瞼を半眼に閉じる。
 立ち上がった速度は、肉眼で捉えられるものではなかった。
 剣術の用語で、『一文字腰』と呼ばれるその立ち方は、相撲の四股にも似ていた。その立ち方で正中線を崩さないまま、体を斜めに開くことにより、刀を一直線に抜くことが出来るのだ。
 ――腕を使わずに振るのだ。
 刀を振るのに、刀を握る腕を振るなとは何事か。まるで禅問答のようなこの教えの意味を少し理解できたと思ったのは、刀を振り始めて2年過ぎた頃だったろうか。それを動きの中に取り込めた手応えを得たのは、超人兵士になってからだと思う。
 左腰を引くことで、最小限の腕の振りで刀を抜き終えた瞬間、竹を縦に裂いたようなビシッ、という音が響いた。刀身が音速を超えて風を切った音と、衣擦れ音とが合わさった響きだ。そのまま刀を頭上に振りかぶり、正眼の位置にまで振り下ろす。『切附』と後太刀。
 刃引き刀を鞘に収めた剣吾はその場でもう一度胡座をかいた。静かに息を整える。一文字腰に立ち上がると同時に刀を抜き、抜くと同時に峰を返してから下からの斬撃、振り上げた刀を再度返して振り下ろす。『向掛』
『賢者の城』で戦って以来、より速さを増した剣吾の技は、優に音速の数倍に達していた。あまりの速度に、湿った空気中の水滴を集めた刀の尖先が雲を曳いた。重い刀身が風を切る音が、衣擦れの音とともに聞こえたのは、全ての動作が終わってからという速さだった。
 それにも関わらず…、
 ゆっくりと刃引き刀を鞘に収めた剣吾は首を振った。
 まだ遅い。
『賢者の城』で、レーザーに恐怖を覚えた自分自身を、剣吾は未だ許せずにいた。師がまだ健在の頃、教えの合間にこの山に登っては、独りで素振りと型の稽古を繰り返してきた剣吾だった。必ずレーザーを凌駕する、そう誓って戻ってきた暗沢山だった。
 この半年の間、時折力仕事に出掛けながら、素振りと型を繰り返し、雷を待つ日々が続いていた。いくら落雷の多い場所とは言え、毎日落ちるわけではない。雨が降っても雷のない日も多かった。冬など雨そのものが少なかった。山頂のこの場所で、型だけを終えて下山する日がほとんどであった。合計してまだ10回と少々しか、落雷に遭遇していない。しかしそれでも剣吾は待ち続けた。
 まだ動きのどこかに無駄がある。それを克服するまでは、投げ出すわけには行かないのだ。
 雨脚が少し強まってきた。上空の雲も厚みを増したかに見えた。遠方から雷の轟きが聞こえる。今日はどうやら無駄足にならずに済みそうだ。剣吾は鋼鉄の棒の前に立ち、腰の刀を確かめ、胡座をかき、右足を前に出す。
 1立法メートルに100万ボルト以上の電場が発生、それが天と地に生じた際に放電が始まるのが雷である。しかしそれがいつ落ちるのかはわからない。並外れた五感を持つ剣吾だが、電気のセンサーを持ち合わせているわけではない。落ちそうだ、という気配を察するだけだ。
 だからこそ、反射神経を上げるのに役立つ。剣吾はそう思った。『賢者の城』を脱出してからいろいろ考えた頭には、この方法しか思い浮かばなかった。身近な場所に、レーザーに近い速度を出して襲ってくるものを他に知らなかったからだ。
 胡座をかいたまま、半眼で待つことおよそ30分。
 剣吾は目をカッと見開いた。
 視界の奥に赤い光が明滅した瞬間、周囲全ての動きがスローモーションを取り始めた。雨粒が剣吾の周りで静止した。上空の黒雲に閃光が走るや否や、光の帯がくねりながら地上に走り降りた。同時に幹に立てていた鋼鉄の棒からも、眩しい閃光が迸った。
 鯉口を既に切っていた剣吾は、空と地上で同時に発生し、今まさに中空で繋がろうとしている稲妻目がけて刃引き刀を抜き放った。稲妻が繋がった瞬間に、それを斬る――正しくは、金属の刀身に電気が纏わりつく間もない速度で、刀を振り抜く――、剣吾の目論見は物理の常識を超えていた。しかし、求めるスピードが刀に出せれば、可能だ、剣吾はそう信じていた。
 来た。全身に重く纏わりつく、水中で素振りをさせられているようなこの感覚。迸った2本の電撃が、目の前で1つになろうとしている。数十キロを一瞬で駆け抜けるその閃光も、『賢者の城』で新しく何かが開いた剣吾の目には、蟻の歩みにすら思えた。意識と感覚だけは既に光速に迫っているのだ。いや、もう並んでいたかも知れない。だが、身体の方が追いつかない!
 凄まじい衝撃が襲った。剣吾は数メートル後方に吹っ飛ばされ、仰向けに倒れた。
 白い剣道着のあちこちが焼け焦げ、煙を上げていた。刃引き刀の刀身も黒ずみ、柄も焦げていた。剥き出しの腕や首、顔にも火傷を負っていた。空気中の抵抗を受けるとは言え、落雷には数十万ボルトの電圧が掛かっている。それが全身を貫いたのだ。並の人間なら一瞬で全内臓をボイルされているところだ。さしもの剣吾も、しばしの間手足を動かすことも出来なかった。
 鉄の棒を挿した松の株が、薄煙を上げていた。
 駄目だ、剣吾は僅かに目を開けた。回復が始まり、熱くなってきた身体を、雨粒が適度に冷ましてくれた。しかし気分は心地よさとは程遠かった。
 まだ、遅い。
 稲妻は上下が繋がる前に、振り抜いた積もりの刀身に吸い寄せられていた。音速を超えるだけでは駄目だ。光速を出さなければ。もちろん、超人兵士とは言え、僕の肉体はただの物質だ。物質が光の速度を超えることはあり得ない。だがそれでも、感覚は既に光速を手に入れていると思う。後は動きをそこに近づけるだけだ。
 僕の動きには、まだ無駄が多いのだ。
 熱が次第に引いていった。どうやら体は動かせそうだった。だが、剣吾はすぐに立ち上がらなかった。立ち上がれなかった。
 先生、まだ、水月の境地には、程遠いようです。
 僕の心は迷いで一杯です。
 僕は、マリアに、何もしてやれていません。
 そう、剣吾の中に、マリアへの思いが鬱積していた。
 自分の技、体捌きの未熟さをマリアに転嫁するような子供ではない。しかし、何をするにつけても、彼女への思いが常に引っ掛かり、枷になっていたのは確かなのだ。
 パリで出会い、惹かれた。ほんの数日しか一緒にいなかったにも関わらず、彼女のことを、好きになった。特異な状況ではあったが、僕たちは出会うべくして出会ったのだ、そう思った。彼女を守っていこうと決めた。
 だが、その実、彼はマリアを――またしても――布由美と、混同していただけだった。
 姉さん…、そう呼んでしまった時の、マリアの表情は忘れられない。僕はマリアを守ると言いながら、彼女を傷つけているだけだ。
 僕の身勝手だった。
 布由美の面影を求めたばかりに、マリアの意思とは無関係に、ただ引っ張り回し、こんな異邦の地にまで連れてきて…。
 彼女が剣吾のことを嫌っていないらしいことだけが救いだった。それでもこんな状態が続くようなら、彼女とていつ、剣吾を罵り始めないとも限らない。そしていつ、彼を化物と呼んでもおかしくないのだ。布由美、と呼んでしまった時のマリアの表情に、剣吾はあのヤースミーンと同じものを見たような気がしていた。
 それが怖かった。
 彼女をこんな場所に縛りつけておく権利など、僕にはない、そうも思った。
 剣吾はようやく立ち上がった。柄のボロボロになった刃引き刀を鞘に収め、株から鋼鉄の棒を引き抜く。雨脚は大分強くなっていた。山の沈んだ緑が暗く染まってきた。そろそろ帰らなくては。
 でも、帰って何と言おう。
 マリアと何を話せばいいんだろう。
 弱まらない雨の中、剣吾は山の中腹を通るハイキングコースを避け、舗装もされていない山道を、よろめきながら下っていた。歩みには精彩がなかった。担いだ重さ40キロの鉄棒など、普段の剣吾には羽毛の小荷物に等しい筈だったのだが、いつもならすぐに元に戻る筈の不死身の肉体が、今日は妙に回復を遅らせているのだ。道の左右から伸びるイヌツゲやアマギツツジの枝を、いつもなら優しく押しのけるところを、今ばかりは面倒臭そうに払いのけてしまう。
 地下水の滲み出す岩肌と灌木林に挟まれた小径を抜けると、茶を植えた斜面が眼下に現れた。左手にハンノキの高木が見えた。その横をゆっくりと通った時だった。遙か上空、厚い雲の中で閃光が走った。
 ハンノキに向かって走り降りた稲妻が、剣吾の担ぐ鋼鉄の棒に向きを変えた。
 剣吾は無意識の裡に、鉄棒を地面に突き刺していた。左親指は、刃引き刀の鯉口を切っていた。
 腰を一文字に引き、流れるような動きで刀を抜くこtが出来た。
 まさに稲妻より速く、いや、もっと速く、刃引き刀の刀身が、上空と地面に迸った電光を切り裂こうとした。
 その時だった。
 剣吾の切れ長の目が見開かれた。
 もう1歩で、光速をも超えようかとしていた刀が、僅かに速度を落とした。剣吾の身体を自然に最速の型に導いた無心が崩れた。
 マリアをどうしても布由美と混同してしまう理由に、突然思い当たったのだ。
 再び電流に貫かれた剣吾は、斜面の茶畑にまですっ飛ばされた。
 ブスブスと、剣道着が煙を上げた。刃引き刀の刀身は、表面が捲れ、地肌の鋼が剥き出しになっていた。
 そして剣吾は今度こそ起き上がれなかった。
 身体に力が入らない。心拍数が上がらない。全身に血を送り、あちこちの破損を回復させてくれる筈の心臓が、思うように鼓動を打ってくれないのだ。瞼を開くのさえ億劫になった剣吾の顔を、大粒の雨が濡らす。
 そして、冷やす。
 もうすぐ日が暮れる。山道はどんどん暗くなっていく。だが、それより先に、剣吾の意識の方が闇の中に引き摺り込まれそうだった。その闇の入り口で、巨大な蜘蛛が尖端の斬り落とされた脚で剣吾を招いている。その胴体の真ん中で、額を2つに割られたヨハンソンが物凄い顔を浮かべて剣吾を招いている。
 こっちへ来いよ、と。
 その誘いに引き込まれそうになっている自分がいた。このまま行ってしまった方がどんなに楽だろうか、と思っている自分がいた…。


 …湿った空気に、蚊取り線香の煙が低く淀んでいた。
 外で蛙が鳴き交わしている。蛍光灯の灯りが寒々しく居間を照らす中、繕い物をしていたマリアは顔を上げた。土間との境目にある柱に架けた時計を見遣る。8時半。
 遅い。
 卓袱台の、蠅除の網を被せた下に、椀が数個。台の横の板敷きには鍋敷きに置かれた鍋。中の芋汁ももう冷めてしまったようだ。せっかく沸かしておいた風呂も、ぬるくなってしまったことだろう。普段ならどんなに遅くなっても7時前には帰ってくる剣吾が、今日はこんな時間まで戻らない。
 何かあったのだろうか?
 あの人は普通の人じゃない。並外れた肉体を持つ、謂わば超人なのだ。あの人自身、前に笑いながら言っていた――ああ、笑って話せる日もあったのだ――ではないか。崖から落ちようが車に轢かれようが、簡単には死なないよ、と。
 そんな彼が戻ってこない。
 本当に何かあったんじゃないだろうか。
 手出しは2度としないと約束した筈の、アメリカかどこかの組織が彼を狙った? 詳しい話はしてくれなかったが、死ぬような思いで倒したと言っていた、あの超人軍団に、もしかしたら生き残りでも、いた?
 マリアは首を振った。変なことばかり考えてしまう。だが、ここまで遅いと、やはり何かあったのではないかと思ってしまう。
 そう言えば、夕方、暗沢山の方で大きな雷が落ちた。それも、2度も。
 剣吾がどんな訓練を己に課しているのかは知っていた。これも詳しい話はしてくれなかったが、想像はついた。雷が落ちた日に戻ってくる彼の剣道着は、いつもぼろぼろだったからだ。沈んだ顔で風呂に入り、着替えを済ました後、どうにか顔色を回復させ、食事を摂るのが常であった。
 マリアの脳裏に、雷に打たれ、倒れ伏したまま動かない剣吾の姿がよぎった。
 まさかとは、思う、けれど。
 不安が不安を呼び、マリアはじっと座っていることも出来なくなった。立ち上がり、白のカーディガンを羽織り、後ろで束ねていた髪を解く。突っ掛けの下駄を履き、玄関の灯りだけ残して外に飛び出した。
 雨脚は弱まっていた。花がらの傘を差したマリアは、1度だけ通ったうろ覚えの道を、蛙の合唱に送られるように、山の方角に向かって走り出した。


 …富士見台の方角から下りてくる道は流石に舗装も完成している。
 日は既にとっぷりと暮れていた。雨がアスファルトを濡らし、夏の近さを報せる匂いを立ち上らせていた。舗装路とは言え、大して人の通らない道の周囲には、街灯などほとんどなかった。雨脚がほんの少しだけ弱まり、周囲を霧のような靄に包んでいた。
 ほぼ真っ暗な中、アスファルトを金属の引っ掻く音が近づいてきた。
 鋼鉄の棒を引き摺りながら、剣吾が道を下ってきたのである。
 瞼は何とか開いていた。ところが額から流れ込む雨粒を拭おうともしない。瞬きさえしていないのだ。虚ろに前方を見つめるだけのその目は、何も映していないと思われた。歩くだけでも大儀そうだ。茶畑の斜面で倒れた時より、もっと気の抜けた様子だった。その癖、足音だけはさっぱり立てない。まるで幽鬼である。
 今の彼を歩かせているのは、かつて幾度もこの道を上り下りした記憶でしかなかった。梅雨時には行くな、夕立の時には行くなと老師に言われていたのに、隠れて上っていた習慣だけが彼を動かしていた。
 その虚ろな目が、暗い道に1箇所だけ点る灯りを捉えていた。
 道の隅、舗装されていない砂利の上に、古びた缶ジュースの自動販売機と、電話ボックスとがあった。
 数千回にも及ぶ素振りを済ませ、山から下りる時、必ず側を通った電話ボックス。先生宅での稽古が終わる前日には、必ず使った電話ボックスだった。
 剣吾はほとんど無意識の裡に、剣道着の懐を探っていた。飲み物を買うから、と言い訳して、昔通りに懐に入れていた小銭入れを掴む。10円玉を数個握り締め、鋼鉄の棒を放り出して、電話ボックスに入る。腰に差したままの刀の鞘が、ボックスのガラスにゴツゴツと当たる。
 黄ばんだ蛍光灯の光に浮かび上がる、昔ながらの、クリーム色の電話機。変わっていない。誰かがつけた、プッシュボタン横の相合傘も、昔のままだ。
 そう、ここからいつも、この電話を使って、布由美に電話したのだ。
 ――剣ちゃん?
 受話器を取った布由美の第一声は、必ずそれだった。
 ――またそれだ。姉さん、僕以外の人だったらどうするんだよ。
 へへ、と必ず照れ笑いを漏らした布由美は、すぐに声を不機嫌なものに変えたものだ。
 ――剣ちゃんこそ、またすぐに約束破る。聞かれてない場所では、姉さん、って呼ぶの止めてって、あんだけ言ってるのに。
 ――いつ叔父さんに聞かれるか、ヒヤヒヤものだよ。
 ――大丈夫よ。父さん、居間で巨人戦観てるから。こっちの話なんて聴いてやしませんって。
 ――明日、帰るから。
 ――ウン。じゃあ、駅まで迎えに行くね。いつもの時間?
 受話器を上げ、10円玉を入れた剣吾の指先は、自動的に叔父の家の電話番号を押していた。
 呼び出し音が、6回、鳴った。そして、受話器が、外される音が。
 ――剣ちゃん?
“はい、もしもし。”
 聞いたことのない、まだ若いと思われる女の声が応えた。
 剣吾はそこで我に返った。
“もしもし? どなたですか?”
「済み、ません。那智、さんの、お宅、でしょうか?」
“いいえ、ウチは佐藤ですけど。”
 胸の底から、何かをえぐり取られるような気がした。「那智、布由美、さんは、いらっしゃいませんか?」
“どちらにお架けですか? ウチは佐藤ですよ。”
 胸が熱い何かで塞がれた。何か喋ろうとすると、灼熱の奔流が、胸を突き破りそうだった。
“あの、もしもし?”
「済みません。間違えた、みたいです」
 そう言うのがやっとだった。剣吾が受話器をフックに掛ける前に、電話は切れていた。
 全身から力が抜けた。電話ボックスから這うように出た剣吾は、がっくりと膝をついた。
 もう、いないのだ。
 雨に濡れた冷えた頬を、熱い涙が伝って落ちた。そう、もう布由美はいないのだ。優しかった叔父も、叔母も、そして布由美と過ごしたあの家も、もう存在しないのだ。やっとそれを実感した。実感として、受け止めた。
 いや…、
 気づいていたのだ。知っていたのだ。もう、この世に、布由美が存在しないということを。だが、剣吾の心はそれを拒否していた。認めていなかった。彼女を失ったと口では言いながら、心のどこかでは、彼女がちょっと長い旅にでも出ていると思いたがっていたのだ。
 だから御殿場の、叔父の家に戻りたくなかったのだ。多分、叔父の家はもう、ない。残っていたとしても、叔父たちとは全く違う人々が住んでいただろう。もちろん布由美が、そこにいる、筈もなく…。
 それを認めたくなかったが故に!
 剣吾は敷かれた砂利を握り締めた。喉から漏れる嗚咽を抑えることが出来ない。涙も止まらなかった。もしかしたら、両親の葬儀の日、布由美の抱き締められて以来、初めて流す涙かも知れなかった。
 剣吾は今度こそ、立ち上がる気力を失った。力なく膝をつく手足が、だんだん冷えていくのがわかる。凸凹のアスファルトに出来た水たまりに、大粒の涙が波紋を作る。電話ボックスと自動販売機の灯りが、滲んだ視界の中で暗くなる。
 巨大な蜘蛛が、笑いながら手招きする。だが、胴体の真ん中のヨハンソンの顔は、笑いながらも、妙に悲しげで…。


 …見覚えのある山への入り口を探すのに、国道136号線の歩道を1時間近く往復することになった。時期が時期のせいもあろうが、国道を走る車も少なかった。下田方面から、或いは沼津に向かう長距離トラックが、時たまヘッドライトの光を浴びせてくるくらいだ。
 6月ももう終わりに近いというのに、今日は妙に冷え込んでいる。マリアの口から漏れる息が、僅かに白かった。ここに辿り着くまで、剣吾とは行き会わなかった。と言うことは、彼はまだ山だ。
 歩いてきた国道136号線と違い、山に入る道には、街灯がほとんどなかった。しかしマリアは躊躇うことなく、そこに入っていった。
 先に進むことしか考えていない彼女は、ヘッドライトを消して尾けてくる黒いカペラに気がつかなかった…。
 …暗い夜道を延々と歩き続けることまた1時間、マリアはようやく、暗沢山に入る舗装路を見つけた。左手の崖と灌木林を見上げ、頷く。この道にも見覚えがある。晴れた日の昼間だったが、剣吾と一緒に上った道だ。
 でも、本当に暗い。トゥールーズの夜よりも暗い。目が闇に慣れてきたからいいようなものの、それでもマリアは舗装の悪い道に何度も躓きそうになった。そう言えばこの先ずっと行くと、舗装もされていないんじゃなかったかしら。下駄などで来たのは失敗だったかも知れない。
 と、前方に小さな灯りが見えてきた。
 マリアは目を凝らした。あの電話ボックスと自動販売機には見覚えがあった。
 その時、背後でボンッ、という音が響いた。
 改造エンジンが立てる不完全燃焼による排気音だ。同時にフォグランプの眩しい光芒が彼女の目を射た。
 黒いカペラが派手なブレーキ音を立てて、彼女の前で停止した。
 降りてきたのは3人の若者だった。どれも20歳そこそこだと思われた。3人とも髪を染め、ピアスをチャラチャラと鳴らし、ズボンをだらしなく腰骨の辺りまで下げていた。フォグランプに照らし出されたマリアの前に立ち、口笛と歓声を上げる。
「スゲエ!」
「言ったろ。チョ~可愛いってよ」
「チョ~ラッキーじゃん。こんなとこでこんなマブい娘に出食わすなんてよ」
 煙草を咥えた1人がニヤニヤ笑いを浮かべ、マリアの前に立った。腕を掴んでこようとする。顔を嫌悪に歪めたマリアは、そいつの手を振り払った。
 舌打ちしたそいつは、他の2人に目で合図を送った。3人は一斉にマリアを押さえ込んだ。下駄が飛んだ。傘もすっ飛んで、道端の林の方にまで転がっていった。マリアは必死に暴れた。抵抗した。ワンピースが泥だらけになった。しかし男3人の腕力には敵わない。そしてこんな際にも関わらず、やはり声が出ない。
「こいつ、悲鳴上げねえな」
「喋れねえんだってよ。噂通りじゃん。ますますラッキー」
「早く車に乗せろ。足押さえろって」
 マリアは暴れた。出ない声で必死に叫んだ。剣吾!
 助けて剣吾!
 背中からマリアを羽交い締めにしていた若者1人が、ぐうっと呻き声を漏らした。金魚のように口を開閉し、背中を仰け反らせ、膝をつく。えっ、という顔でそいつを見遣ったもう1人の首と肩の付け根に、目にも留まらぬ速さで、刀の鞘が振り下ろされた。肉が潰れ、骨が砕ける音がした。
 マリアの足を抱えていたそいつも、呆気なく昏倒した。崩れ落ちた2人とともに地面に転がったマリアは、打ち据えた尻や二の腕の痛みも忘れ、顔を上げた。
 幽鬼のように、剣吾が立っていた。鞘のままの刃引き刀を右手に提げて。
 残った1人は剣吾の突然の出現――にしか見えなかった――に慌てふためきつつ、さっと背後に下がった。獰猛な顔つきで、尻ポケットからバタフライナイフを抜く。いかにも手慣れた仕草で振り回し、剣吾を威嚇する。
 だが、剣吾はナイフなど眼中にないかのように若者に歩み寄った。
「てめえ!」
 逆上したそいつは、ナイフを剣吾に突き出した。それをするりと躱した剣吾が、そいつの肩口に鞘を振り下ろした。鎖骨を粉砕されたそいつは絶叫を上げ、転げ回った。剣吾が鞘の台尻でその顔を突いた。鼻どころか顔の骨まで潰され、砕かれたそいつは鼻血を噴き出し、白目を剥いてぶっ倒れた。数度、痙攣する。
 マリアは己の目を疑った。
 あの優しい剣吾が、こんな真似をするなんて。
 その剣吾は、転がるマリアに気づきもせず、歩き続けた。どうやらマリアも目に入っていないようだった。左手に握った長い鉄の棒を引き摺り、家のある方に向かって、停まったカペラの横を通り過ぎる。
 立ち上がったマリアは、下駄を履くのも忘れ、剣吾に駆け寄った。袖を掴む。
 どうしたの?
 だが、剣吾は立ち止まらない。マリアに顔も向けない。その様子は明らかにおかしかった。マリアは剣吾の腕を掴み、足を止めようとした。そこで目を疑う。いつもなら巌のような剛直さで彼女をあっさり受け止める筈の腕に、力が全く入っていなかった。
 全身もそうだった。マリアに引っ張られただけで、剣吾はその場にしゃがみ込んでしまった。
 彼の横顔を濡らすのが、雨ではないことに、マリアは初めて気づいた。
 どうしたの…? マリアは座り込む剣吾の前に回り込み、彼の顔を覗き込んだ。肩を掴み、彼女の出せる力の限り、揺さぶる。どうしたって言うの剣吾!
 剣吾はゆっくりと、マリアに顔を向けた。意識は、あるんだ…、そう思って安心した。
 だが、
「姉さんは、もう、いない」
 え…?
「姉さんは、本当に、いなくなって、しまった」
 姉さん? フユミさんの、こと?
 だって、それはもう、わかってたことでしょう? 剣吾、自分で言ってたじゃないの。
「僕は、それを、認めていなかった。心の、どこかじゃ、それを拒否していたんだ。どこかで、姉さんは生きてると、信じていた」
 ………。
「信じていたんだ!」
 叫んだ剣吾は濡れた地面に突っ伏した。喉の奥から絶え間なく漏れる嗚咽に声を塞がれながら、それでも途切れ途切れに呟く。「僕は君を、姉さんの代わりにしか、見ていなかった。君を見ながら、姉さんが、帰ってきた、そんな積もりに、なっていた。でも、違った。君は君だ。姉さんじゃなかった」
 そんなの、当たり前じゃないの!
「僕は、もう、これ以上、君をここに、止めてはおけない」
 それは…、マリアは言葉に詰まった。
「僕は、どうして、ここに戻ってしまったんだ…」
 剣吾…。
「これから、どうやって、生きていけば、いいんだ」
 マリアは力ない剣吾の上体を引き起こし、自分の方に向かせた。あなた、言ったじゃないの、私を守ってくれるって。
「この先、何のために、生きていけば…」
 私のために生きて下さい!
 吐息でそう叫んだマリアは剣吾の両手を握った。そして目を見開いた。冷たい!
 何という冷たさだ。まるで、死人…。マリアは愕然とした。
 剣吾は生きる気力を失ってしまった。
 フユミさんの死を実感し、受け容れたことが、剣吾の生きる気力を奪った。超人とは言え、剣吾とて人間だ。いや、並外れた力と身体を持つ剣吾だからこそ、いざ心を挫かれてしまった今、これまで無理を強いていたあちこちが、瓦解を始めたのだ。
 現に、崩れ落ちようとする剣吾を受け止めたマリアには、彼の鼓動がどうしようもなく微弱になりつつあるのがわかった。
 剣吾が、死んでしまう。
 マリアは剣吾の頬を両手で叩いた。何度か張り飛ばしもした。しっかりして下さい!
 そして雨の中、全身から力の抜け切った彼を背負った。立ち上がる。
 蛙たちが鳴き交わす中、家に辿り着くのに、2時間掛かった。
 下駄を捨ててきてしまった素足には血が滲んでいた。足も肘も痣だらけ、降り続いた雨に体中びしょ濡れだ。だが、気にしている暇はなかった。背負っている剣吾の身体がどんどん重くなる。
 どんどん冷たくなっていく気がする。
 その剣吾を、土間に面した居間に寝かせ、囲炉裏に火を起こした。すぐに風呂を沸かし直す。風呂が沸くまでの間、泥だらけの濡れた剣道着を脱がせた。褌の紐にも手を掛け、彼を素っ裸にする。冷え切ったその体を、目の粗いタオルで擦る。湯加減を確かめに行くのも怖くて仕方なかった。自分が傍を離れている間に、剣吾の心臓が止まりはしないかと、怯えた。
 湯が沸いたのを確かめたマリアは、自らも泥だらけのワンピースを脱ぎ捨て、剣吾を背負って風呂に向かった。彼の体が沈まないように、一緒に入り、寄り添った。
 羞恥心など入り込む余地はなかった。彼女をあれだけ苦しめたトラウマもどこへやら、だった。彼女は湯船の中で、平気で裸の剣吾と肌を合わせることが出来た。首を垂れそうになる剣吾の耳に、必死に囁き続ける。しっかりして、と。
 体の方は温まってきたが、剣吾の心拍数は回復しなかった。
 生きる気力を失ってしまったから…。
 私のせいだ。
 どうにか体温だけは取り戻した剣吾を湯船から引き摺り出し、土間から囲炉裏の横に引っ張ってくる。薪が燃え、パチパチと火花を上げる囲炉裏の側に毛布を敷き、その上にタオルとともに重なり、今度は掌で、彼の胸を擦り始める。私のせいだ。
 私がトゥールーズに帰ることばかり考えていたからだ。
 自分を哀れむばかりで、剣吾の支えになろうとしなかった。彼の姉さん――フユミさんの代わりにされたことで、子供のように拗ねてしまった私が悪い。所詮、私は代わりなんだ…、そんなことばかり考え、好きだ好きだなんて口ばかり、結局何一つして上げていないではないか私は!
 この人にはフユミさんが必要だったのだ!
 その瞬間、ここしばらくずっと、胸の奥に淀んでいたものの正体がわかった。
 私がフユミさんの代わりになってあげる、でよかったんだ。
 あの自動車事故で、両親と姉とともに死んでいてもおかしくはなかった私だ。叔父と従兄の玩具にされていたあの家で、自ら死を選んでいても不思議ではなかった。あのパリでの夜、コルサコフとか言う人に殺されていたかも知れない私だった。
 思えばトゥールーズで、自分の一生はこれから神に捧げていこうと思った私ではなかったのか。
 神様が、剣吾に置き換わっただけではないか。
 これからの一生を、何の見返りがなくとも、この人に捧げて生きれば済む話ではなかったのか!
 それを、私は…。
 すべすべした剣吾の胸を擦りながら、マリアは祈った。誰の代わりでも構いません。もう、そんなことに拗ねたりもいじけたりもしません。我儘だった私をお許し下さい。私からこの人を奪わないで下さい。
 やっと出会えた人なんです。
 パリの隠れ家で、この人が私を見つめて言った――君を守っていきたい――時にわかったんです。この人こそ、私が出会うべき人だったんです。この人と一緒にいたいんです。
 この人のことが好きなんです。
 お願いです神様。何でもします。他のどんなものを私から持って行っても構いません。この人だけは私から奪わないで下さい。
 連れて行ってしまわないで下さい…。
 外では蛙たちの合唱が続いていた。気がつくと、剣吾の裸の胸がびしょ濡れになっていた。知らず知らずの裡にマリアは泣いていた。吹き零れる涙を拭おうともせず、剣吾の胸に落ちるのに任せ、マリアは彼の胸を手で擦り続けた…。


 …蛙の声がいつの間にか止み、代わりにホオジロの鳴き交わす声が聴こえた。
 甲高い声は、モズだろうか。
 障子の向こうの空が白んでいるのがわかった。
 マリアははっと顔を上げた。
 つい、うとうとしてしまったらしい。剣吾を見て…、
 彼と、視線が合った。
 剣吾が薄く目を開け、マリアを見つめ返していた。
 ああ…、マリアの目がもう一度潤んだ。生き返って、くれた。
 帰ってきて、くれたんだ。
 その剣吾が、目を左右に遣り、呟いた。「ここは、先生の、家かい?」
 私たちの、家です。
「君が、僕をここまで、運んでくれたの?」
 マリアは頷いた。剣吾は2、3度目を瞬かせ、微笑んだ。「有難う」
 もう我慢できなかった。マリアは自分がまだ裸であることなど忘れ、剣吾の首にしがみついた。声なく泣き始める。そのマリアの背に手を回した剣吾は、彼女が、そして自分も素っ裸であることに初めて気づき、目を見開いた。日に灼けた顔を目立たない程度に赤らめ、傍らにあったタオルを彼女の背に掛けた。その上から背中を撫でる。
 …障子の向こうで空が本格的に明るくなり始めた。
 ようやく泣き止んだマリアが顔を上げた。
 鼻水、出ちゃいました。
 照れ笑いとともに、涙を指で拭う。横たわる剣吾の厚い胸の上で、乳房が柔らかくひしゃげた。
 それを恥ずかしいとは思わなかった。
 剣吾の眼差しが沈んだ。
 次の言葉はなかなか出てこなかった。散々躊躇した挙句、やっとのことで呟く。「君に、謝らなくちゃ、いけない」
 ………?
「君も、気づいていたと思うけど、僕は君を、布由美の代わりとして、見ていた」
 剣吾はそう言って、マリアから目を逸らした。最初からその積もりだったわけじゃない。でも、僕は君を見ながら、心のどこかでいつも、布由美の面影を追い求めていた。君と布由美とを、いつも混同していたんだ。
「今思えば、随分身勝手なことをしたと思う。君には随分迷惑なことだったと思う」自嘲するかのような口ぶりだった。「本当に申し訳なく思ってる。僕に君をここに引き止めておく権利はないよ。もう少し、待っていてくれるか。必ず旅費を工面して…」
 剣吾の言葉は遮られた。
 マリアの唇が、剣吾の口を塞いだのだ。
 私を返したいんですか?
 呆気に取られた剣吾に、マリアは囁いた。私を守るのを止めて、ここから追い出したいんですか?
「違う、そうじゃない」剣吾は言った。「君を守っていきたいと思っている。今でもだ。でも、僕はそれ以上に、君に済まないことをしていた。布由美の面影を感じていたいばかりに、君をこんな場所まで連れてきて…」
 だから何ですか?
「え…?」
 私、帰りませんからね。
 ただただ唖然とする剣吾に、マリアはもう一度キスをした。悪戯っぽく微笑む。私を追い払おうったって、そうは行きませんよ。
「マリ、ア?」
 私、あなたのことが好きです。
 マリアは決然と言った。もう何も怖くなかった。
 最初に会った時から、あなたのことを信じました。信じていい人だって、わかりました。あなたになら、私の全てを…、そう、命さえ預けても大丈夫だって。だから、ここにも来ました。
 ここに来て、少し迷ったのは確かです。でも、私、決めたの。
 やっぱりあなたと生きていくって。
 多分、今のあなたの目には、フユミさんと私がごっちゃになって映ってる。でも、いいの。いつか、あなたの目に私だけを映して見せるわ。
 だから私は絶対帰らない。ずっとあなたとここにいるの。
 剣吾が何か言おうとした。言葉が出なかった。代わりに綺麗な切れ長の目が潤んだ。唇が震えるとともに、涙が目尻から零れた。マリアは剣吾の頬に頬を寄せ、その涙をそっと吸った。
 同時に固く抱き竦められた。
 2人の体の位置が入れ替わった。マリアは背中に、板の間に敷かれた毛布を敷いていた。タオルが撥ね退けられ、剣吾の目が、彼女の裸身を見下ろした。流石にこの時ばかりは、全身が桜色に火照った。
 でも、やはり恥ずかしい、というのとは少し違っていた。
「布由美のことは、忘れる」
 目を潤ませたまま、剣吾は言った。「すぐには出来ないかも知れない。でも、必ず忘れる。もう2度と、君を布由美と一緒にしたりしない」
 私の、過去も、忘れられる?
「そんなもの、初めから気にしてない」
 ………!
「僕は今日から、君のために生きる。君だけのために、生きる」
 マリアの身体に震えが走った。
 嬉しい…!
 2人は見つめ合ったまま、唇を寄せ合った。3度結ばれた唇は、しっかりとお互いを求め合った。
 鋼と化した剣吾が入ってきた瞬間、マリアは声にならない悲鳴を上げていた。痛みからではない。まだ恐れていた。これまでセックスは、彼女にとって忌まわしい、苦痛の記憶でしかなかったから。だが、
 好きな人と結ばれるって、こんなに気持ちのいいものなんだ。
 …貪り合うような長い愛撫と律動の後、剣吾と見つめ合う彼女の奥深い場所で、彼が弾けた。それを感じた瞬間、マリアはもう一度、声にならない絶叫を上げていた。体がどこかの深淵に落ち込んだようにも、どこかの天空に吹き上げられていったようにも感じた。
 そして夢と現実の境目を飛ぶ意識が、巨大な光の渦を見つめていた…。
 嬉しい…。
 抑え切れぬ痙攣に身体をおののかせるマリアの目から、涙が零れた。喜悦の表情で見上げたその涙を、今度は剣吾が吸った。マリアは力の限り、剣吾の背中と首を抱き締めた。力強い腕が、背中を抱き返してきた。
 2人がようやく眠りに落ちたのは、それから3度、求め合った後だった。激情の奔流が過ぎ去った後も、2人は身体を離さなかった。抱き合ったまま、いつまでもそこを動かなかった。
 そして剣吾は超人兵士として目覚めて以来初めて、心と身体の芯から熟睡することが出来たのだった…。


 …2週間が過ぎた。
 まだ降り続く雨に、バイクを使えず歩きで買い物に出たマリアが家に戻ると、縁側に佳代子が座っていた。
「お帰り。今年の梅雨はなかなか明けないよ」
 マリアはにっこりと微笑み、買い物籠を台所に置きに行った。急いで湯を沸かし、蚊取り線香に火を点け、新茶を淹れる。
 済みません、こんな蒸し暑いのに、熱いお茶しかなくて。でも、こんな時期には、熱いものの方がいいって、剣吾が言うものですから。
 佳代子は笑った。「剣吾さんが、ね」
 さっき、村上さんのところにも寄ったんですよ。
「そうなの? ウチの旦那、ちゃんと穴蔵から出て来た?」
 ええ、お刺身買った時に、魚屋さんから鯵のいいのを頂いたんで、半分…、マリアは首を傾げた。何て言いましたっけ? ソデ? タモト?
「おすそ分け?」
 はい、それです。
 佳代子は膝を叩き、大声で笑い出した。マリアも笑いながら髪を後ろで束ね、縁側に座った。正座もすっかり板についてしまっている。
 横で繕い物を始めたマリアを見つめる佳代子は、いつもならとっくに始めている亭主の愚痴を漏らしもせず、言った。「よかったよ」
 マリアは佳代子を見て、もう1度首を傾げた。
「旦那とも話してたんだ。あんた、明るくなった。見違えるくらいだよ。剣吾さんと上手く行ってるんだね?」
 少しだけ頬を赤らめたマリアだったが、笑顔は内側から輝いて見えた。わかり、ますか?
「そりゃあわかるよ。そんだけいい笑顔してりゃ」
 やっぱり、わかるものなんだ。マリアは頷いた。同じようなことを言われたばかりだった。
 それも、手紙で。
 掛時計の下の手紙入れに、午前に届いた航空便の封筒が挟まっていた。フランスからだった。差出人はトゥールーズのマリー・アンジュ・クロイエ。
 内容は、こうなっていた。

『親愛なるマリア。
 あれから手紙が来なくなったことに安心しています。ようやく彼と上手く行き始めたようですね。あなたがパリを発った後、いつか泣きついてくるのでは、帰りたいと言ってくるのではと思っていました。
 でも、私はあなたを2度と出迎える積もりはありません。
 あなたが自ら選んだ道です。そして、今あなたの側にいる人は、あなた自身が選んだ人なのです。その人について行くと決めた以上、途中で諦めたり投げ出したりするようなことをしたら、それこそあなたは神への裏切りを働いたことになるのですよ。
 しっかりおやりなさい。彼を支えて上げるのですよ。私たちは今度こそあなたが、自分で幸せを掴み取ることを、心から祈っています。
 次の手紙には、あなたの幸せな言葉を記して下さいね。
 上手く行っているようだという話をしたら、マルカーノさんも喜んでいらっしゃいました。次の手紙の、あなたの幸せな言葉を、是非マルカーノさんにも読んで差し上げたいと思います。
 お元気で。
       あなたの母、トゥールーズ ブリュアズール・カトリック修道院院長 マリー・アンジュ・クロイエ』


 …そうだ。修道院長様には、何もかもわかっていらっしゃったんだ。


 …話がいつもの亭主の愚痴へと移行する中、マリアと佳代子は顔を上げた。一際大きな雷が轟いたのだ。
 暗沢山の方角だった。
 耳を押さえてひい、と叫んだ佳代子は、平気な顔で空を見上げるマリアに感心した目を向ける。
「あんた、可愛い顔して、肝っ玉は座ってるよね。雷、平気なの?」
 剣吾が斬ってくれますから。
 マリアの言葉に佳代子も笑い出した。それを見ながらマリアは思った。やっぱり信用してくれてないだろうな。冗談じゃないんだけど。ところで…、マリアはワンピースのあちこちを捲り、覗き込み、何かを探した。
「どうしたんだい?」
 キモッタマ、って、どこについているんですか?
 雷鳴の余韻が消えると、雨が小降りになり始めた。ようやく笑いの収まった佳代子が晴れ晴れと言った。
「今のが合図かもね。やっとこさ梅雨も明けそうだ」
 本当だ、マリアは限りなく澄んだ目で、自分の瞳と同じ色の晴れ間が覗いた空を見上げた。目に映る全てが輝いて見えた。フランスとは比べ物にならないじめじめした風も、今のマリアには心地よい。
 もうすぐ私の剣吾が帰ってくる…。
 同じ頃。
 暗沢山の頂上近くで、自信と、誇りと、喜びに満ちた剣吾の雄叫びが木霊していた…。


 …俺は、モニカを守れなかった。


 俺は、エディスも守れなかった…。


 …僅かに西に傾き始めた太陽が、初秋の海を金色に染めた。
 歩道に並んだ彫刻の少女たちが、その海を右手に眺めていた。動かぬ白い少女たちを風のようにやり過ごし、巨大なバイクが下田方面に向かう道を、南に走っていた。
 カワサキ1500バルカン・クラシックFiだ。
 クルーザー仕様にしたその車体は300キロもの重量がある。4サイクルOHC水冷ツインエンジンは、日本製のバイクとしては破格の62psを叩き出す。普段愛用しているハーレー並の出力だ。
 どちらかと言えば小柄な操縦者だが、その巨大バイクを自由自在に操っていた。もっととんでもない悍馬を操った経験が、彼にはあった。どんなに急なカーブでも、決してスピードを緩めない。のんびり走る家族連れの車を次々に追い抜いていく。東名高速を下りて松崎を過ぎるまで、2時間掛かっていなかった。
 それでも彼にとっては、この程度の操縦は眠気覚ましにもならないのだ。
 雲見まで5キロ、との道路標識を見て、バルカンはやっと速度を落とした。
 入り江に小学校の校舎らしき建物が見える場所にて、小休止を取る。自販機から缶コーヒーを買い、海を見下ろす道に腰を下ろした操縦者は、そこでやっとラパイドのフルフェイスヘルメットを脱いだ。
 柔らかく渦巻く髪が風に揺れた。憂いを帯びた眼差しが、金色の海を見て細められた。
 若林茂はRAVのライディングジャケットを脱ぎ、サイドボックスから出したタオルで首や顔の汗を拭った。義手が剥き出しにならないように、長袖のシャツなど着ているものだから余計に暑かった。腰に差していたコルト・キングコブラを素早くジャケットのポケットに収め、バルカンのハンドルに掛ける。シャツの胸ポケットからキャメルのソフトパックを抜き、1本咥えて缶コーヒーのプルタブを義手の左手で開けた。
 9月に入ったとは言え、まだ伊豆は暑い。
 学校帰りらしい女子高生4人が、向かいの歩道から若林を見つめ、小声で何かを言い交わしてはクスクス笑っていた。しかし声を掛けてくる度胸まではないようだ。バイクを求めに久々に赴いた東京では、女学生たちの格好も物凄かった。股ぐらまで見えそうなミニスカートに、染め上げた髪。まるで一昔前のインチキエロキャバレーの店員だ。しかも、若林の発する生物としての磁気に惹かれたらしい彼女たちは、臆面もなしに自分たちから声を掛けてきた。
 ――ジャニーズ系だよこの人。
 ――チョ~イケてるじゃん。ねえ、今、ヒマー?
 日本も変わったな、と思う。
 2本の煙草を灰にした若林は、ヘルメットを被り直し、バルカンに跨った。
 …日本までは昔の友人に運んで貰った。
 散々な目に遭ったロンドンで相馬と別れた若林は、その足でヨーロッパ各地を転々とした後、久しぶりにイタリアに足を踏み入れた。思い出の地をあちこち回ったが、シチリア島にだけは渡れなかった。渡るには思い出が多すぎ、そして辛すぎた。
 パルミの港で、超人兵士にされる以前に一緒に働いた親方連中や仲間たちに再会した。その1人が輸送船と取引のある会社にいたのをいいことに、紹介して貰った船長に金を掴ませ、偽造パスポートの1通を使って乗組員に成りすましたのだ。2週間掛けて香港などアジア一帯を巡った後、横浜に上陸した。金で成り済ました筈のにわか船員だったが、船長は若林の熟練した働きっぷりにいたく感動し、掴ませた金を全額返してくれた挙句給金まで支払い、正式に雇わせてくれと連絡先まで書いて寄越した。
 それが3日前のことだった。
 東京にあるアジトの1つで骨休めをした若林は、バルカンを購入後――そう、今の彼は資産100億ドルという大金持ちなのだ。バイク1台買うにも懐を気にして右往左往していたのが嘘のようだ――、合衆国での剣吾の別れ際の言葉を頼りに、伊豆まで走ってきたというわけだった。
 雲見のバス停の前にある、ドライブインを兼ねた食堂で、遅い昼食を摂った。片栗粉で無理矢理トロ味をつけたカレーに、脂身ばかりのカツが乗っていた。不味いことこの上なかったが、味噌汁を飲むと、ああ、帰ってきたんだな、という溜息が自然に漏れた。
 食堂のオバサン連中が、これまた愛想が悪かった。注文を受ける時も皿を持ってくる際も、笑顔の1つも寄越さなかった。雲見海岸のコンビニエンスストアでも同じような対応だった。この辺りの人々は実に狷介らしい。
 そんな人たちに剣吾のことを訊いても、まともに答えてくれるとは思えなかった。
 案の定、金髪の少女を連れたサムライ、という聞き方をしたら、実に胡散臭そうな目で見られた。しかし…、
「那智剣吾とマリア・クリストフっていう2人なんですけど」
 と2人の名を出すと、対応が一変した。オバサン連中の愛想が急によくなった。何だいあんた、マリアちゃんと剣吾さんのお友達かい。それを早くお言いよ。どうやら2人はこの界隈では結構な有名人のようだ。マリアに至っては、人気者になってしまっているらしい。
 家までの道程を懇切丁寧に教えて貰い、若林は食堂を後にした。


 …西からの日差しが眩しい庭で、白の剣道着を着た剣吾が、1本の真剣を振るっていた。
 今日は型ではない。素振りだった。しかし、剣道の素振りとは一風変わっていた。
 正中線から両腕を逸らさない、腰を出来るだけ低く落とす。最大の違いは、正眼の構えの際、刀を握る両腕を完全に伸ばし切ること。これだけでもこの素振りが普通のスポーツ剣道とは全く異なった発想で考案されたものだとわかる。
 スポーツ剣道の素振りは、謂わば“叩く”ための素振りである。だからその正眼も、より速く叩くための準備のようなものだ。しかしやはり刀を扱うからには“斬らねば”ならない。振り下ろした両腕が伸展した方が、“斬る”ということだけに関しては有効なのだ。包丁を叩きつけるより、刃を押すか引くかした方がよく切れる原理と同じである。
 しかし両腕が伸び切ることで、胸が後方に引けてしまう。スポーツ剣道ではそれを厳しく禁じている。しかし胸を僅かに引くことで、太刀筋がぶれないで剣を振り下ろすことが可能なのだ。
 刀の振りかぶり方が、普通の剣道とはまた違う。振り下ろした刀を左に倒し、刀身を左腕から肩に擦り付けるように持ち上げる。意識は腕ではなく、胸の筋肉に集中させておく。普通の素振りでは振り上げる際振り下ろす際、どうしても腕を使わざるを得ない。だが、この素振りは違う。
 左に倒した刀を胸を使って振り上げる。腰を落としたまま胸の筋肉で一気に斬り下げる。腕に一切の意識を向けない、そのために編み出されたものだ。腕を使わずに剣を振る、という禅問答のような修行を具現化したものの1つなのだ。
 その名を廻剣(かいけん)素振りと言う。
 もう1000回以上、刀を振り続ける剣吾を、白いワンピース姿のマリアが縁側に座って見つめていた。板の間での正座も全く苦にならない。そして今日はその横に、初老の男が並んでいた。
 短く切った髪は大部分が白髪だ。それをバンダナで隠すように巻き、剣吾も愛用する作務衣もどきを纏っている。カスタムナイフメーカーにして日本刀鍛冶師、村上麟一である。
 ラブレス程の大家ではないが、確かな腕を持つ職人として、日本だけではなく海外でも高い評価を受けている。その傍らには、剣吾が持ち帰ったF・カーターの業物が置かれている。剣吾の注文にデービッドの持ってきたこの特殊ナイフは、村上を大いに刺激したらしかった。
 ――私ならこんな工業製品ではなしに、もっと本格的な刀を鍛え上げて見せるよ。
 そう言った村上は、この2箇月半もの間、注文の品々を拵える合間を縫って、日本刀の鍛造に没頭してきたのである。時たま出来上がった品物を抱えてきては、剣吾に振らせ、試し斬りをやらせているわけだ。
 廻剣素振りを一旦止めた剣吾が、刀を白鞘に収めた。庭の踏石の1つに、太い薪を1本立て、そのすぐ前で、右足を前に出す例の胡座をかく。
 目を閉じたと同時に体が動いていた。刀ではなく、鞘の方を引き抜く、と言った感じで刀を抜き、流れるような動きで袈裟懸けに斬り下ろす。『柄取』。暗沢山の山頂で開眼した剣吾の技は、より動きらしい動きを消し、吹き抜ける風、流れる水のように自然に始まり、自然に終わっていた。もちろん一連の所作が、マリアと村上の目に留まる筈もない。
 薪が少し斜めに、それでも縦に割れ、倒れたのは、剣吾が刀を袖で拭い、鞘に収めた後だった。
「どうだね?」
 剣吾に刀を返された村上が、耳に心地よい低い声で訊いた。
「切れ味は申し分ないです」剣吾が言った。「今使っているもの以上です。ただ、振っている最中、やっぱり…」
「まだ尖先の方が重い?」
「はい」
 わかった、頷いた村上は、白鞘の刀を羅紗の袋に収めた。「打ち直してくる」
「でも、いいんですか?」剣吾は怖ず怖ずと訊いた。「村上さんがそんな時間と手間を掛けた傑作を買うお金なんて、僕にはありません」
 村上は肉厚の頬を撫で、円な目を細めた。湯呑みのお茶を啜り、「確かに、完成したら、いい値をつける買い手も出そうだけどね」
 いい値どころではない。村上の造るナイフはフォールディングのピクシータイプで30万は下らないのだ。
「しかし私は、これを売るために鍛えているんじゃない。使って貰うために、だ。それも、使いこなせる人間に受け取って貰うためだ」村上はF・カーターを見遣り、言った。「飾るために買う連中などには絶対売らないよ」
 村上はF・カーターの手入れもしてくれていた。初めてその業物を抜いた時、見事な出来に感心すると同時に、刀身中についた傷、刃毀れ、剥がれを見た村上は絶句した。刀を扱って長い彼には、それらがどのようにつけられたものかまでわかったのだ。F・カーターと剣吾とを見比べた村上の目が訊いていた。
 ――君はこの刀で、何を斬り、何人の人間を斬ったのだ?
 もちろんここに戻った時に、剣吾は村上だけには、今まで何をしていたか、どんなことに巻き込まれていたのか、その概略だけは話してあった。細かい事実までは全部伝えたわけではなかったが、F・カーターを見た村上には、その話が紛れもない真実だということを知ったのだった。
 その事実に驚嘆しつつも、使い込まれたF・カーターは村上の職人魂を燃え上がらせた。自分の最高傑作を、井筒兵庫先生の後継者たるこの剣吾に持たせたい、振らせたい、その思いが抑えられなくなったのだ。
 時間だけではない。彼の妻、佳代子の話によると、村上はこの刀を打つために、ZDPに匹敵する粘りと硬質を併せ持つ合金マルエージング鋼を自腹で買い込んだのだ。地金の部位には秘蔵していたあるものを使用しているとの話だったが、その正体を教えてくれた時には、村上は少年のように眼差しを含羞ませたものだった…。
「井筒先生亡き今、この刀を使いこなせるのは剣吾君しかいそうにないからな」村上は小さく肩を竦めた。「代金は、そうだな、出世払いということで」
「村上さん本気で言ってます? 今の僕がどうやって出世できるんですか」
 マリアまでもが笑い出した。
 その時、高台にあるこの家に上ってくる道から、大排気量を持つバイクの、ドッドッドッ…、というエンジン音が聞こえてきた。
 巨大なバイクを庭の入口に停めた操縦者がエンジンを切り、ヘルメットを脱ぐ前に、剣吾にはその正体がわかっていた。バイクに近づく顔に、珍しく満面の笑みを浮かべていた。
 ヘルメットをバルカンのハンドルに掛けた若林が、これも笑顔で振り向いた。
 2人はしっかりと抱擁した。最近ようやく剣吾も、この挨拶に慣れてきた。
「探しただろう」 
「そうでもない。お前さんたち、下の町じゃ随分と有名人だぜ」
 と笑った若林に、白いワンピースのスカートを翻し、マリアが飛びついた。固い抱擁に若林の方が驚愕する。まさかマリアが抱きついてこようとは、そんな顔で剣吾を見る。
 剣吾が若林と村上を紹介し合った。若林を見つめた村上は成程、と頷いた。明日も来るよ、と言い置いて、道を下っていく。
 若林は剣吾たちの家を惚れ惚れと見上げた。まさに日本にしか存在しない、見事な田舎家だった。背後にした竹林か雑木林で、鳥が啼いている。メジロだろうか。高くなった青空で。トンビが舞っている。「落ち着くなあ。こんな場所、俺の故郷にも残ってないぞ」
 若林がサイドボックスから出した荷物を受け取りながら、剣吾は笑った。
「僕たちには充分な住処さ」
「ホントだよ。充分、って顔してやがる」
 若林は剣吾とマリアを交互に見た。特に、ニコニコと笑いの絶えないマリアの明るい表情は、パリでの沈んだ彼女しか見ていない若林に取っては驚き以上の何物でもなかった。手を触れられることさえ嫌がった彼女が、若林に飛びつき、手を引いて家の中に誘おうとしているのだ。
 どうやら乗り越えたのだ。トラウマも、何もかも。痩せ細って見えた手足や頬も、目立たない程度ながら肉がつき、張りが出てきたように思える。幸せなのだ。
 剣吾が、この娘の抱えていた嫌なものを取り払ったのだ。
 剣吾の面差しからも、翳りが消えていることに、若林は気づいていた。やっぱり大した奴だ、お前は。約束通り、マリアを守り抜いたんだ。
 それに比べ、俺は…。
 若林の目に浮かんだ陰影を察知し、剣吾が心配そうな顔になった。「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
 若林は苦笑を浮かべ、さり気なく目を逸らした。剣吾が受け取った荷物から紙袋を抜き、「お土産だ」
 イタリア産のハムやソーセージ、ラムチョップの缶詰、イギリスで買ったスコッチの地酒の壜が入っていた。〈ボウモア〉のシングルモルトだ。酒を飲まない剣吾はどうしよう、という顔でマリアを見た。マリアの唇が動いた。村上さんに上げましょう。肉類の方にはマリアが喜んだ。晩御飯はこれで作るわ。
 吐息の囁きが全て日本語であったことに遅ればせながら気づいた若林は仰天した。
 …障子を全部開け放ち、風通しを良くした居間に座布団を敷き、3人は囲炉裏を囲んだ。マリアがお茶を淹れ、佳代子が持ってきた梨を剥いた。
「あれからどうしてたんだ?」
「ほとんど独りでうろうろと」
「狙われたりはしなかったか?」
「アメリカの方からの手出しはなかったな。一応、約束は守ってるんじゃないか? まあ、相馬に言わせれば今は雌伏の時、だそうだが。いずれ絶対、カネを取り戻しに動き出す、だとよ」
「相馬とは会ったんだ」
「イギリスでな。あいつと一緒の時に、ひでえ事件に巻き込まれた」若林は笑った。自嘲的な笑みだった。「こっちでも多少は報道されたんじゃないか? それくらいの大騒ぎだったからな」
 6月の? 剣吾が首を傾げる横で、マリアが唇を動かした。ラジオで聴いたわ。何とか言うテロリストが政府関係者と結託して、政府の転覆を謀った、とか。
 若林が頷いた。剣吾が切れ長の目を丸くする前で、マリアは肩を竦めて見せた。あなたたちと一緒にいたら、大抵のことじゃ驚かなくなっちゃうわ。
「そんな風に報道されてんのか。まあ、あながち全部は間違っちゃいないけどな」若林は4等分された梨を口に放り込んだ。「まあ、おいおい話すよ」
「ゆっくりしていってくれるんだろう?」
「迷ってたけど、お前が構わないんなら、3、4日いさせて貰おうかな」
「話したいこともいっぱいあるんだ。今日は語り明かそう。ここで3人、枕を並べて、ってのもいいだろう?」
 訊かれたマリアは頷きこそしたが、ちょっと不満そうな色も見せた。その唇が、ワカバヤシもここで寝るの? と呟いたのを、若林本人が見逃さなかった。頬張っていた梨を吹き出しそうになる。
 その晩、田舎風の五右衛門風呂に入った若林は、ここしばらくぶりの大きな溜息を漏らした。裸電球が開けた窓から入る風に揺れ、天井に巣を架けた蜘蛛の影を壁に映した。外ではコオロギが泣いていた。
 風呂から上がり、半袖のTシャツを着た若林を見たマリアが目を見開いた。左肘から先の義手を初めて見たためだ。剣吾を守るために左腕を失ったとは聞いていたが、流石に驚きは隠せない。
「よく出来てるだろ?」若林は義手を動かして見せた。「表面はチタン合金だ。軽いし、錆びない。だけど力が掛かったり、衝撃が加わる部分にはタングステン合金を使ってるって話だ。ジョイント部分には軟性プラスチックを使ってる。ゴムより摩耗が少ないんだそうだ。ほら、肘と手首と指は全部動かせる」
 動力には極度に圧縮した代替フロンガスが使われている。握力などは300キロを優に超える。もっとも超人兵士として本気を出した若林の握力は500キロ近いのだが。
 …それに、指の1本には、クルーガーの仕込んだ『遊び』が入っている。その『遊び』のお陰で、若林はイギリスでの大災難を乗り切ることが出来たと言ってもよかった…。
「唯一、生身の感覚が掴めないのは掌かな。ここでモノを包み込むって作業だけは、天才クルーガー博士と言えど、機械じゃ再現できなかったらしい」
「あの人は本当に天才だな」
「専門じゃあないらしいが、昔、精密な義足を造って、それが爆発的に売れたらしい。あの人がカネに困ってないのは、そう言った発明品が山のようにあるからだって話さ」
「羨ましいを通り越して、ただただ凄いよ。その義手の技術も、どこかで売ればいいのに」
「ああ、障害者産業には引っ張りだこだろうな。俺も博士には言ってみた。でも、ダメだってさ。こいつを俺の身体に繋げてる生物化学素子もそうだし、色々表沙汰に出来ない技術も入ってるらしい」
 ああ、剣吾は頷いた。〈賢者の城〉で見た、あのヤングとやらの実験室の光景が脳裏をよぎる。あの悪夢のような実験が生み出した技術だとしたら、確かに発表は出来ないだろう。
「ま、あのクルーガー博士のことだ。そう遠くない日に、人に公表できるモノを造り出すだろうさ。掌の感触の問題まで全部クリアさせちまって、な」
 その後、3人で囲炉裏を囲み、マリアが作った和風ポトフをつついた。土産のハムやソーセージが大いに役に立った。マリアは洗い物に至るまで、若林の手伝いを許さなかった。この前は作って貰ってばっかりだったから、今日は私に任せて。
 あなたは剣吾と私の大事なお客さんなんだから、黙って座ってればいいの。
「達者だなあ。日本語は難しいんだぞ。半年でここまで上達するものなのか? 君の前世はきっと日本人だな」
「うん、本当にいつの間にか上達してた」
 剣吾の言葉に、マリアは膨れて、剣吾をぶつ真似をした。努力だってしたんですから。
「わかってるよ。ゴメンゴメン」
「見せつけてくれるよなあ、全く」
 …夜も更け、3人は板敷きの居間に布団を並べ、川の字に横になった。
 夕方から僅かに雲が出てきていたが、それが夜半から雨を降らせ始めた。バルカンにシートを掛けてきた若林が言った。「女心と秋の空、か。ホントに日本に帰ってきたんだなあ」
 剣吾と若林との間に横になったマリアが訊いた。どんな意味ですか?
 教えてやると少し機嫌を損ねた。私は違います。
 剣吾が笑い出した。「明日には止んでると思うよ」
「いいさ、この時期の雨は嫌いじゃない。一雨毎に秋が深まっていくからな」
 しばし外の雨音と、コオロギの鳴き声に耳を傾けていた若林が、ポツンと言った。「お前は本当に大した奴だ」
「そう、かな」
「後はマリアに声が戻れば万々歳、だな」
「いろいろ試しちゃいるんだけどね」布団の上に手を置いた剣吾が言った。「夏には近場の温泉を巡ってみた。効果はなかったけど」
「やっぱり心因性のものだからじゃないか? いい医者に診て貰ったらどうだ?」
「うん、いずれ専門医に見せる積もりだ。当分、先の話になるけどね。金を貯めなきゃ」
 こいつ、俺を頼ればいいのに…、「そう言えば、ここの海岸沿いも温泉だったな」
「明日にでも行こう」
「そうだな。連れてって貰おうかな」
 頷いた若林が目を遣った先で、マリアは既に安らかな寝息を立てていた。


 …翌日。
 空は完全に晴れ渡ったが、庭には昨晩の雨の残した水溜りが出来ていた。
 その水溜りに己の影を映し、剣吾が今日も村上の前で廻剣素振りを繰り返していた。昨日1晩で刀のバランスを変えたらしい村上は、剣吾たちが目を覚ますのを待ち兼ねたようにやってきたのだ。実は相当眠そうだったのだが、若林の土産〈ボウモア〉をマリアに手渡されると、顔を輝かせた。佳代子も剣吾の友人を一目見ようとやってきて、遅めの朝食はすこぶる賑やかなものとなった。
 朝食の後、縁側に並んでお茶を啜りながら、若林が村上に言った。「いい場所ですね」
「のんびりするにはちょうどいいよ。若者向けじゃないけど」
「俺もいつか引っ越してこようかな」
「それまで私たちがここに住めればの話だけどね」
「?」
「ここら辺一帯は私有地なんだよ。私らは間借り人に過ぎない。地主が出て行けと言えば従うしかない」村上は首を振った。「ここにレジャーランドを建てようなんて話もあるって噂だし」
 …腹ごなしに始めた廻剣素振りが終わった。どうだね、と訊いた村上に、剣吾が頷き返した。
 村上の傍らに置かれた木刀を、ふと手にとった若林が言った。「意外に重いな」
「中に鉄の芯が入ってるんだよ」刀を鞘に収め、村上に返した剣吾が言った。「振ってみるかい?」
「いいのか?」
 言いながら若林は、木刀を提げて庭に降りた。構えてみる。義手はもちろんのこと、生身の右手も力を込めすぎなように注意していないと、鉄芯の外側の木を握り潰しかねない。剣吾が切れ長の目を僅かに見開いた。「剣道をやってたね?」
「高校の時に体育の必修科目でやらされた。お前に比べりゃ初心者さ」
 言いつつ若林は普通の剣道の素振りをやってみた。村上がほう、と声を上げた。初心者にしては肩から力が抜け、足構えにも腰がちゃんと入っている。
 木刀を振りながら、若林は笑顔を浮かべた。「懐かしい感触だ」
 そして、剣吾を見る。「お前の訓練も、これを使ってやるわけか?」
「それは昔の話。今使っているのは真剣だよ」剣吾はもう1振り、木刀を持ち出してきた。
 僕のやっているのは、普通の剣道とは違う。剣術だね。だからほとんどが型稽古になる…、剣吾はそう言って、木刀を正眼に構えた若林と対峙した。「見せて上げるよ」
 若林が僅かに戸惑った。「俺は型なんて知らないぜ」
「知らなくてもいいんだよ」剣吾は右膝を前に踏み出し、半身の姿勢を取った。右手に握った木刀が背後に隠れてしまう。「打ち込んできて御覧よ」
「どれくらい加減すればいい?」
「一切、手加減なしで」
「わかった」
 同時に剣吾が、半身の後ろに隠していたかに見える木刀を前に構え直した。一見、腰が引けてしまっていた。昔受けた剣道の授業では、へっぴり腰と教わった姿だ。これまで実戦で見せた構えとは違っていた。こんな構えで斬り合いなど出来るものか? 若林はそう思った。しかし…、
 自分の喉に狙いを定められた木刀の尖先が、異様な大きさで迫ってくるように感じられた。若林は認識を改めた。
 その剣先が発する迫力が、剣では素人の域を出ない若林の息を呑ませたのだ。
 そうだ。こいつは刀1本であのパリの戦闘、〈賢者の城〉での戦闘をくぐり抜け、帰還してきた男なのだ。
 それでもまだ、打ち込む隙があるような気がする。若林は試しに、摺り足を1歩前に出してみた。剣吾の構えが一層低いものになった。木刀を下げた頭ががら空きのようにも見えた。
 頭目がけて、遠慮なく振り下ろされた木刀を、剣吾はほんの数センチ頭を反らせただけで躱した。
 同時に剣吾の木刀が、今度は若林の側頭部を狙って打ち込まれた。凄い速さだ。だが殺気はまるで感じられない。若林と違って、剣吾はわかり過ぎる程はっきり手加減していた。それでこの速さか。流石だ。
 若林は木刀を立て、その一撃を受けるのが精一杯だった。
 カツンッ…! 庭に2本の木刀が打ち鳴らした音が響いた。その瞬間、若林は剣吾の姿を見失った。えっ…、と思った時には、腋の下に何かが触れ、通り過ぎる感触を得ていた。
 若林の腋の下を木刀で薙いだ剣吾は、いつの間にか彼の背後に立っていた。
 村上がほう、と声を上げた。「見事な演舞だ。しかも速い。若林さん、やっぱりあんた、素人じゃないよ」
「素人ですよ。型の稽古なんてやったどころか、見たこともない」若林は腋を擦りながら首を傾げるしかない。「今のも、ちゃんとした、型になってたわけか」
「そうだよ」
「一体、どんな魔法を使ったんだ?」
「魔法なんかじゃない。腋の下は昔で言う急所の1つなんだ」
「そりゃそうだろう。大動脈だって走ってる。昔じゃ、出血多量は間違いなく死に直結だったろうからな」若林は首を振る。「俺が訊きたいのはそれじゃない」
 俺は無造作に打ち込んだに過ぎない。それをどういなせば、ちゃんとした型になっちまうんだ?
 本心から不思議そうな顔をする若林に、剣吾は笑うだけだ。以前、井筒先生の前に立った時の彼も、全く同じだったからだ。
「言葉じゃ説明が難しいな」剣吾は若林と対峙した。「やってみた方が早い。もう1度打ち込んできてくれ」
「さっきと同じようにか?」
「うん、頼む」
 若林は再度木刀を正眼に構え、ふと思い直し、今度は上段に振りかぶった。
 剣吾も構えを変えた。木刀を右肩に担ぐように立つ。若林からは木刀の刀身が隠れてしまった。見えるのは左手指に軽く握られた木刀の柄尻だけだ。
 このまま木刀を振り下ろせば…、若林は考えた。剣吾は俺の木刀を弾くだろう。或いは同時に振り下ろすかも知れない。問題はその後だ。鍔迫り合いになったら、多分一瞬の隙を衝かれ、また懐に入られる。2本の木刀が打ち合った直後に、手首を返して剣吾の小手を狙うか、それとも最初からフェイントをかますか。面を打つと見せかけて、胴を薙ぎ払う、よし、それで行こう。
 だが、フェイントは最初から失敗した。真っ直ぐ振り下ろすと見せかけて袈裟懸けの軌道を取る寸前の若林の木刀を、剣吾の木刀がいち早く打ち据えていた。
 思わず後退った若林の前で、剣吾の体が前に流れた。またしても後頭部ががら空きになる。打てる! そう思った。
 正しくは、思わされた。
 振り下ろす前に、剣吾の木刀が若林の、またしても腋の下でピタリと止まっていた。
「…型の稽古ってのはね、単に見様見真似の形の踏襲じゃないんだ。駆け引きだって存在するんだよ」
 縁側に座った剣吾が言った。
 マリアが淹れ直してきたお茶を啜りながら、村上と若林はその講釈に聞き入っていた。
「僕も井筒先生によくやられた。先生は僕の型を必ず崩そう崩そうとするわけだ。型通りに打てないように持って行こうとばかりされる。それを崩させないようにするのが、この場合で言う駆け引きだね」
「崩させないように、ってところが、よくわからない」
「そうだね。例えばさっきのあんたとの演舞で言うと…」
 最初の型では、僕があんたの頭の横に打ち込もうとした。あんたはそれを避けるために、木刀を翳した。その隙を衝いて、僕があんたの腋の下をくぐり抜けた。
「まあ、頭に攻撃が来るとわかってりゃ、ああして避けるしかないからな」
「そう、ああして避けるしかないように持っていくんだ」
 2つ目の型も同じだよ。木刀を上段に構えた時、何か企んだだろ? 目の動きでそれは読めた。考えられる手は、面と見せかけてのフェイントだ。じゃあ、あんたにフェイントを掛けさせないようにするしかない。だから、あんたが木刀を振り下ろす前に、あれだけ強打した。案の定、あんたは慌てて下がった。
 そこで前のめりになって、背中に隙を見せれば、あんたはそこにしか目が行かなくなる。足が下がりつつの攻撃になるから、腕だけが前に伸びる。腋の下が空く、という次第だ。
「つまり俺は、お前の型通りの動きに、知らず知らずのうちに追い込まれていたってわけか」若林は頷いた。「成程な。相手を型通りの動きに従わざるを得ない状況に持っていく。お前より腕の立つ井筒先生は、お前にそれをさせないように持っていけるんだ。それが、崩させないようにってことなんだな?」
「そう。どんな誘いが来ても、絶対に崩されないように、体捌きを身体に叩き込むんだ。型っていうのは、それを学ぶものなんだよ」
 それには…、村上が口を挟んだ。「相手の心も読めなくてはいけないね。剣吾さんは若林さんの動きを読めていたわけだろう?」
「そうです。心法です」
「そんなに簡単に読めるものなのか?」
「簡単じゃないよ」剣吾は笑った。「目の動き、足先の向け方、呼吸、それら全てが、相手の次の動きを読むための手掛かりになる。でも、それを読み取れるようになるために、何千回何万回の型稽古と演舞とを繰り返すんだ。次第に先の先が、そしてその先が見えるようになってくるんだ」
「将棋の読みに近いわけかな」
「将棋はお互いに動き回りませんけどね」
「じゃあ、相手が剣道のけの地も知らない素人だったら、どうなるんだ?」
「同じだよ。目茶目茶に振り回させて、当たらないとわからせる。相手が少しばかり慎重になったら、隙を見せていくんだ。少しずつね」
 …昼食時にはまた佳代子も加わった。押しかけてばかりじゃ悪いからと台所に一緒に立ってくれた佳代子に、マリアの方が喜んだ。家族との思い出が少ない彼女には、佳代子は死んだ母や姉の代わりでもあったのだろう。
 昼食が済み、村上夫妻が帰っていった後、剣吾が腹ごなしの素振りを始めた。
 若林がその横で、バルカンに掛けたシートを取った。サイドボックスからレーザーポインターを取り出し、エンジンやらキャブレターやらをチェックする。
 気がつくと、剣吾が素振りの手を休め、若林の手にしたレーザーポインターを見つめていた。「ちょっと頼みがあるんだけど」
「何だ?」
「その光を僕に当ててみてくれないか?」
 わからない顔で立ち上がった若林に、縁側に置かれていたF・カーターの業物を手に取った剣吾が言った。「どこに当ててもいい。僕の体のどこかに当たるようにしてくれ。僕にわからせないようなタイミングでだ」
 剣吾はF・カーターを腰に差し、自然体で立った。若林が訊いた。
「これを、お前に当てればいいのか?」
「うん、頼む」
 そこでようやく若林は思い出した。アメリカでの別れ際に、剣吾が言っていたことを。〈賢者の城〉でどうしても勝てないものが2つあった。1つは藤堂、そしてもう1つはレーザー…。
 ――修行のやり直しだ。
 剣吾の言葉を聞いた若林は、レーザーと競う積もりかと笑ったものだった。あれは本気だったのだ。そして、その訓練を頼まれているのだと察した。
「予告もなしでいいんだな?」
「そうでなくっちゃ、稽古にならないよ」
 その言葉が終わらぬうちに、若林はレーザーポインターのスイッチをONにしていた。剣吾の胸の真ん中に赤い線を当てる積もりだった。
 光線は剣吾の白い剣道着に触れることもなかった。代わりに若林のシャツに、赤い点が当たっていた。
 遅れてやってきた風が、若林の髪を吹き上げた。
 いつの間に抜いたのか、剣吾がF・カーターの刀身を、胸の前に立てていた。赤い光線は、鏡以上に磨き上げられたその刀身に当たり、反射され、若林の腹を照らしていた。
 唖然とする若林に、剣吾は笑い掛けた。「もう1回だ」
 それから20回程、若林は剣吾にレーザーポインターを当てようと試みた。タイミング、当てる箇所、全部不意打ちだった。休憩すると見せかけて、前の攻撃から間を置かず、頭を、足を、手の先を。その度に剣吾は刀を鞘に収め、次の若林の1手を待った。
 決して大袈裟な動きをせず、最小限の体捌きだけで刀を抜き、それでも赤いアルゴンレーザーを、身体にも剣道着にも触れさせもしなかった。
 終わった後、剣吾が大きく息を吐きだした。汗が全身を濡らしていた。軽い動きに見えていたのそれが、どれだけの力を動員して行われたものかが垣間見えた。
「お前、凄いな」若林は、心の底から感に堪えぬと言いたげな顔をした。「とうとう、光を超えちまったのかよ」
「超えてはいないよ」マリアが持ってきたオシボリで汗を拭い、剣吾は笑った。「まだせいぜい、追いついたか近づいたか出来ただけだね」
「軽く言うな。お前、自分がどれだけ凄いことをやってのけてるか、わかってないだろ」
 そうだ。あの藤堂でさえ、光速に近づこうなどとは考えなかっただろう。
「それに、追いついたと言っても、村上さんに磨いて貰った刀の面に反射させてるだけだしね。本当は光だろうが斬らなきゃいけないんだけど」
 目茶目茶なことを言う…、若林はただただ首を振るしかない。「一体、どんだけの訓練をくぐり抜けてきたんだよ」
「大したことはやってない」
 と手を振った剣吾の横で、冷たい麦茶を運んできたマリアが言った。この人、雷と戦っていたんですよ。
「まあ、あの時はあの訓練しか思いつかなかったんだよ」
 そのせいで死にそうになって、大変だったんですよ。
 目を剥く若林の前で、剣吾はマリアに優しい目を向けた。「うん、あの時は心配を掛けた」
 今みたいな訓練を思いついたのは、最近になっての話だ。あの時思いついてれば、あんな目に遭わなくても済んだろうな。あれだけ必死だったのがバカみたいだ。でも、お陰で君との距離を縮められたしね。
「雷と、戦うって…」
「ああ、今は稲妻を斬るまでには速くなったよ」
 事もなげに、剣吾は言ってのけた。
 夏になって、マリアが押入れで探しものをしてた時に、懐中電灯で僕を照らしたんだ。それで思いつけた。
「マリアに懐中電灯で照らして貰っての訓練を始めたんだ。やっと無駄な動きを省いて躱せるようになってきた」
 最初の時は凄かったんですよ。私、この人の起こした風で飛ばされましたもん。その時にお尻と腿を打っちゃって、まだ青痣が少し残ってるんですよ。ほら。
 無邪気にスカートの下を見せようとしたマリアを、若林が慌てて押し止める。
「でも、雷との訓練である程度の速さを身につけていたから、これにもすぐに目と身体が追いついたんだよ」
「お前の話についていけてない俺がバカなのか、それともお前が光よりも常識を超えちまったのか、わからなくなってきたよ」
 …その後、着替えた剣吾に連れられ、海を見に行った。
 国道136号線を越えると、雲見崎に出る。雲見浅間と呼ばれる烏帽子山を右手に、そして千貫門と呼ばれる小島を左手に見渡せる場所に、小高い丘があった。晴れ渡った空と、波間という波間が銀色に輝く海とが、そこから見下ろせた。
 まだ色づくには早いススキの野に立ち、海を目の前にした若林が、小さな嘆声を漏らした。
 人が滅多に近づかないが、海を一番よく見渡せるという空き地に向かった。そこの草叢に腰を下ろした若林は、仰向けに引っ繰り返り、大きく伸びをした。
 剣吾がその横に座った。
 太陽はまだ高く、眩しかった。暑くはあったが、空気は乾いて澄んだものに変わりつつあった。空の彼方で鳶が舞っていた。夏も終わりの、海からの風が心地よい。
 草を踏む音に目を上げると、マリアが追いついてきた。水筒と、冷えた水羊羹を載せたお盆を手にしていた。
「ここは、いい」
 冷たい麦茶とともに、水羊羹を口に運び、若林は言った。
「いい場所だろう?」
「ああ、眺めと言い風と言い、全てが素晴らしいよ」
「今はまだ陽も高いけど、夕陽の眺めもいいんだよ。2人で時たま見に来るんだ」
「その余裕があって安心したよ。生活も落ち着いてきたたみたいだな」
 そうでもない、剣吾は笑いながら首を振った。
「CIAの奴らか?」
「それはない。その代わり、この前、この国の政府関係者とかいう人間が接触を取りたがってきた。この国を護る一員になってくれたまえ、とか言われたよ」
 ああ…、若林は頷いた。剣吾はまさに救国の神にもなり得るだろう。「で、何て答えたんだ?」
「放っといてくれ、と言っておいた」
 若林も笑った。まあ、お前のその力、どこの人間でも欲しがるだろうけどな。
「僕はこの場所でマリアを守るだけの力があれば充分だ」
 周囲を見回し、若林はもう一度頷いた。この場所で、か。
「お前がそこまで言うだけのことはあるよ、この場所は。俺もホントに暮らしたくなってきた。老後と言わずに」
 暮らせばいいのよ、マリアの唇がそう言った。もう逃げまわる必要もないんだから、ここに引っ越してくればいいんだわ。
「そうだな。でもさっき村上さんも言ってたけど、引っ越してきたはいいが、やることがなかったら困るな」
 一杯ありますよ。まずはハツモウデに行きましょう。
「初詣?」
 剣吾が麦茶を噴き出した。わからない顔の若林に言う。「年明けに、村上さんたちと石廊崎に行ったんだ。石室神社っていうのがあってね、そこに初詣に。ちょうど灯台のある岬から、初日の出が見えたんだよ。マリアがすっかり感動しちゃって」
 初詣は今行くもんじゃないんだよ、と剣吾がマリアに説明するのを聞きながら、若林はひとしきり腹を抱えて大笑いしていた。
 マリアが麦茶のお代わりを注いでくれた。若林は眩しげに目を細め、輝く海に目を遣った。本当に眩しい。
「ずっとここで暮らせればいいな、ホントに」
「僕もそう思っている。他人の土地だけどね」
「何か建つかもって話だな? 出て行けって言われたら、どうする気だよ」
「仕方ないね。でも、僕は何とかなるさ」
 そう言った剣吾が自分のコップを寄り添うマリアに渡し、麦茶を注いだ。若林に遠慮したものだろうが、言いたいことははっきりわかった。
 マリアと一緒なら。
 そのマリアは両手でコップを持ち、頭を剣吾の肩に載せた。これも見ていてわかった。彼女は剣吾と一緒にいるだけで嬉しいのだ。彼の側に寄り添っているだけで幸せなのだ。
 その笑顔が、陽光以上に眩しかった。
「でも、まあ、この場所でこの海を眺めながら一生を終えられるなら、それこそ幸せな人生だった、なんて言えそうだな」
「そうだね」
「後はお前たちの子供だなあ」
「うん、マリアも僕も、いつかは、って話はしてる」
「最高じゃないか? 子供とお前たちと、この丘で」
 ほんの少し顔を赤らめたマリアが言った。2人とも、ちょっと話が未来に行き過ぎです。
 3人はそれからしばらく、黙って海を見つめていた。


 …3時を過ぎた頃、若林が突然、ちょっと出掛けてくる、と言い出した。
「ちょいと野暮用を思い出した。少なくとも今日は戻れない。晩飯はいいよ」
「戻ってはくれるんだろう?」
「ああもちろん。用が済み次第にな。戻る時は連絡する。村上さんの電話番号、教えといてくれ」
 マリアからメモを受け取るや否や、若林はバルカンに跨った。来た道を颯爽と走り去っていく。
 その晩、蛙とコオロギの声が微妙に交じり合う中、剣吾はマリアといつもの食事を摂った。ちょっぴり寂しげな剣吾をいたわりながらも、マリアは浮き浮きと落ち着かなかった。まだ夜も更け切らないうちから、さっさと片付けを済ませ、剣吾を追い立てるように風呂に入れ、囲炉裏の間に布団を敷いてしまう。それも1組だけ。
 初めて結ばれた日から2箇月、マリアは女としての悦びに目覚めていた。2人でいる日は毎晩のように剣吾の布団に、それも自ら入ってくるようになった。瓜生が毎日毎晩女を取っ替え引っ替え遊んでいたという話を若林から聞かされた時には、同じことをして飽きないものかと思った剣吾だったが、いざ自分がそうなってみると、少しも飽きないことに驚いた。毎日、しなやかなマリアの体を抱く度に、いつも新しい発見があった。それにどういうわけか、どれだけマリアを抱いても、翌日に疲れが残らないのだ。それはマリアも同じだと言うことだった。
 2人のセックスは、お互いに色々な力を与え合うもののようだった。
 今日もマリアは、剣吾の背中に手を回し、声にならない叫び声を存分に上げた。夜が更けるまで、何度も、何度も…。
 …同じ頃、若林は、東京のアジトから、合衆国オレゴンへの国際電話を架けていた。
「あなたしか頼める人、思いつかなかったんですよ」
“面倒くさそうなことばかり言ってくるな、お前たちは。儂のことを小間使いか何かとでも思っとるんだろう。”
「済みません」
“他に誰かおらんのか?”
「こっちには1人も。何しろ俺は日本じゃ死人扱いですから」
“つまり何か? 儂にBOAへの保証人になれ、と?”
「ええ、額が額ですし、保証人は絶対必要なんですよ。俺と違って、あなたなら社会的地位も名声も文句なしだ。軍団にいた証拠まで全部消し去ったんですってね」
“おお、苦労したわい。まあ、その甲斐あって儂はカナダでは単なる家出人、ただの失踪者扱いで済んだ。誰からの監視もなしの自由を手に入れたのは、お前たちじゃない。今のところ儂だけだ。”
「で、お願いできますか?」
“わかったわかった。お前にはこの家の件で面倒も掛けたしな。現在のドルと円のレート比も調べればいいんだな? しかしあの額の現金を動かすのはそれこそマズいぞ。絶対に目を惹く。それよりもっといい手がある。儂の発明品の幾つかを扱わせている実業家が、これまた結構なワルでな…、”
 その若林が、東京に戻る前に村上宅に寄って、雲見の不動産業者のことを色々訊いたこと、東京への道すがら、それらを回ったことを、もちろん剣吾は知らない…。


 …赤坂ではオレゴンからの連絡を受けながら、手続きに1日潰した。
 巨大なバッグと書類の束を抱え、東京を発った若林が、それを松崎で全部空にして、剣吾たちの待つ家に戻れたのは、翌々日の午後となった。
 夕食前に、マリアを交えて3人で海岸沿いの温泉に入った。露天風呂はなかったが、海と夕陽の見える大浴場は素晴らしかった。若林までもがマリアが急遽丈を合わせた浴衣を着せられた。3人で雲見の町を浴衣姿で歩く。剣吾が似合うのは当然として、マリアの浴衣姿は若林を大いに唸らせた。東京のあの女子高生たちに見せてやりたい。
 帰り着くと、マリアはすぐさま台所に立った。
「野暮用は済んだのかい?」
「ああ、待たせて済まん」
 だが、急な思いつきにしては、2日で済んだのは奇跡的だとも言えた。
 若林は笑い出した。如何にも実力者然としたあの老人は、心臓麻痺を起こしそうな顔で積んだ札束を見ていたっけ。詐欺やら犯罪やらじゃないと明らかにするのに、何百本の電話を架けたことやら…。
「どうしたんだい? 思い出し笑いなんかして。余っ程楽しいことがあったんだな」
「ん? ああ、いずれ話す」
 マリアが茹でたての蕎麦を運んできた。
 御免なさい。まだ切り方が上手くないから、1本1本太さが違うの。
「これ、君が打った蕎麦か?」
「下の方に、蕎麦打ち名人のお婆ちゃんがいてね。この娘のことをすっかり気に入ってくれてるんだ。マリアもお婆ちゃんが大好きで、家事を手伝いにってお邪魔しては、習ってくるんだよ」
 葱と山菜、天然山葵だけをつけ合わせた笊蕎麦が、その晩の食事となった。マリアが若林にだけは日本酒をつけた。村上がウィスキーのお返しにくれた吟醸酒だそうだ。
「…もう行くのか」
「ああ、いつもながらの顔合わせに呼ばれてるんでな」
「そうか、もう少しいて欲しいけど」
「また来るよ。何度だって来る。お前たちが嫌がっても来るからな」剣吾とマリアを笑わせた若林は、キャメルに火を点けた。ふと思いついたように顔を輝かせる。「お前たちも来ないか?」
「どこに?」
「そうだよ。お前たちも来ればいいんだ。何で思いつかなかったんだろう。お前たち、新婚旅行もまだだろ? 一緒に来いよ」
 剣吾はマリアと顔を見合わせた。「だから、どこに?」
「瓜生の奴、今度はラスベガスで会おうとか言ってんだよ。不景気だってのに、新しくオープンする大型カジノがあるんだそうだ。そこで散財しようって」
「カジノで遊ぶ金なんかないよ」
「別にお前らはカジノに来る必要はないんだよ。ベガスには他の楽しみ方も一杯あるんだから。旅費の方は心配するなって」
 しかし、マリアの方がうんと言わなかった。私、乗り物に酔うし。それに、出掛けると、新沼のお婆ちゃんのお家の手伝いが出来なくなっちゃう、というのが表向きの理由だった。だが実は、パリでの1件以来、マリアは人の集まる場所がすっかり嫌になっていたのだ。ここでの生活を知ってしまった今は尚更だった。東京や横浜に足を伸ばすことさえ億劫がるのだ。マリアが洗い物をしている間に、剣吾からそれを聞かされた若林は、諦めるしかなかった。
 しかし、
 行ってらっしゃいよ、マリアは剣吾に言った。
 これには剣吾の方が戸惑った。「いいの、かい?」
 だって、あなた、まだ若林と過ごし足りないって顔してるんだもの。妬けちゃうけど、この際だから若林と心置きなく遊んでらっしゃいな。
「でも、君を独りで留守番させるのは…。それに、そろそろまた仕事にも出ないと、借家の家賃だって…」
 それくらいどうにかしますって。私のこと、バカにしてるでしょ。
 言葉に詰まる剣吾に、マリアは悪戯っぽく舌を出した。私にだってケンヤクくらい出来るんですから。
 これには剣吾は恐れ入り、若林は身を捩って笑い転げた。
 マリアは立ち上がった。神棚の裏に隠した臍繰りの5万円を封筒に入れ、剣吾に差し出す。たまには羽を伸ばすのもいいと思うわ。
 でも、無駄遣いとウワキは許しませんからね、あなた。
 剣吾は正座をし、はい、と頷いた。若林はひい、と悲鳴を上げ、腹を抑えて縁側に逃げ出した…。


 夜が更ける頃、3人は並べた布団に入った。
 オレンジ色の豆電球がほんのりと囲炉裏の間を照らす中、若林はジャックダニエルのポケット壜を湯呑みに注いだ。ちびちびと啜りながら、外を吹き始めた風の音に耳を澄ます。「そう言えば、お前、パスポートはまだ使えるよな?」
「うん、アメリカが出してくれた奴がね。でも、明日出発だろう? こんなに急で大丈夫なものなのかい?」
「ああ、お前これまで民間機で旅したことないんだったよな。アメリカのパスポートがあるなら、ヴィザ申請も必要ない。帰りの航空券があればOKだ。出入国カードは俺の言う通りに書けば大丈夫だ。刀だけは預けなくちゃならんから、心細いかも知れんが」
「ああ、それは別に構わないよ。いざとなったら素手でも何でも使って戦うから」
「お前だったら、清掃モップ1本あれば、どんなハイジャックでも制圧できるだろうな」
 若林は笑った。風が少し強くなってきた。
「…野暮用って」横になったまま、剣吾が小声で訊いた。今日はマリアも起きていた。「故郷にでも帰ってたのかい?」
 若林は湯呑みを退かし、灰皿代わりの空き缶を置いた。キャメルに火を点ける。「俺の故郷は長崎でね。バイクじゃ1日で戻れない」
「そうか」
 それに…、若林は煙の方角を気にした。マリアの方に煙が行かないよう、自分の体の位置をずらす。「あそこには2度と戻らない」
 剣吾も、マリアも、目を見開いた。
「両親がね」豆電球の弱い光に煙が揺れる中、若林は遠い目をした。「俺が15の時に離婚してね」
 客商売をやってたせいもあるだろうけど、俺は家の中で、まともなお袋と顔を合わせた記憶がないんだ。必ず酔っ払ってるか、寝てるかのどちらかだった。
 親父ってのが、これまた何をしてるかわからない男だった。今でも知らない。家にいたこともほとんどない。10歳過ぎるまでに、親父に会った回数は数える程しかなかったよ。
 その親父が、俺が中学を卒業した日に家に戻ってきた。これから一緒に暮らすのかな、なんて思ってたら、3日後に離婚が決まってた。
 でも、それは大した問題じゃなかった。いるかいないかわかんないような親父だったしな。問題はその後だった。
 俺が17の時にね、兄貴が死んだんだ。
 山歩きの最中の転落事故だった。2つ歳上だった。俺と違って、優秀な兄貴でね。結構いい大学の工学部に入学して、お袋の期待を一心に集めてた。だからお袋の悲しみようも凄かった。風邪一つ引いたことのないお袋が、半月店を閉めたもんな。
 俺は言ったよ。これからは俺が兄さんの代わりに頑張るよ、って。
 お袋は俺を、まるで知らない誰かを眺めるみたいな顔で見たよ。で、言われた。
 何を言ってるんだろうねこの子は。いてもいなくても変わらないようなあんたに、マサルの代わりが務まるわけないじゃないの、ってね。
 その時、俺は知ったんだ。お袋にとって俺はどうでもいい存在だったんだ、ってね。
 お袋にとって、大切なのは兄貴だった。あの人の期待を背負えるのは兄貴だけだったんだ。散々泥酔して帰ってきて、俺が布団を掛けてやろうとする度に言われたよ。
「どうしてマサルじゃなくて、お前が死ななかったんだ、とね」
 ひどい…、マリアの吐息が言った。
 若林は自嘲気味に首を振った。「考えてみたら、俺は誰に対してもそういう存在だったみたいだ」
 いるんだかいないんだかわからない。いてもいなくても変わらない。僻みじゃなくて、本当にそうだったんだよ。覚えてる限り、学校だろうが町でだろうが、誰かが何かやるのに、俺が誘われたことなんて一度もなかったしね。
 そんな俺がいなくなったとして、誰も何とも思わないんだろうな…、俺はそんなことばかり考えるようになってたよ。
 で、家を出ようって決めた。
 それでもな、あの当時、まだ自分にも友人がいるって信じたかった。そいつにだけは報せとこうと思って、電話した。もしかしたら止めてくれるかも知れない、なんて期待もどこかにあったんだと思う。でも、言われた。
 ――こげん時間に電話してきた要件がそれね?
 電話の向こうで、聞き知った声が騒いでた。女の子の声もしてたな。卒業前のパーティだったんだろう。俺は呼ばれてなかったんだな。
 工業高校の卒業当日に、俺はバイクで家を出た。
 ここじゃないどこかに、俺が必要とされる場所が、俺が生きてる意味を掴める場所がきっとある。俺自身が何のために、誰のために生きてるのか、いつかわかる日が来る…、青臭くって情けない話だけどな、当時は本気でそう信じてたんだ。
 あちこちに移り住んだよ。休日なんて要らなかった。ただただ働いた。下宿に帰り着くなりぶっ倒れるだけの日が続いた。
 でも、そんな日は来なかったし、日本のどこにもそんな場所はなかったよ。
 俺は日本を出た。
 うん。諦め切れなかったんだな。我ながら思うよ。俺って、実は意外にしぶといのかも、ってな。
 あちこち回った。本当にあちこちな。バイク1台で。まずは東南アジアから、西アジアに掛けて。それからヨーロッパに。
 不法就労で何度も捕まりそうになった。皮肉な話、俺が捕まらなかったのは、あまりに目立たない存在だったから、らしい。嬉しいやら情けないやら。そんな日々を送るうちに、だんだん思い始めた。
 この世のどこかで俺を、俺だけを必要としてくれる誰かが、もし現れたら…、
 俺はその人のために、死のう、ってね。
 …そんな生活を2年続けて、イタリアに辿り着いた。
 南の方を渡り歩いて、パルミって港町で工員として雇って貰った。今でもそこの連中とはつき合いがある。ついこないだも、随分歓迎して貰ったよ。もちろんそいつらは、俺がこんな身体になっちまってるのは知らないけどね。
 そうなんだよ。2年、海外をうろつき回って、俺はようやく友達らしい友達を得ることが出来たんだ。
 俺はパルミの港で働き始めた。作業場の親方連中からも可愛がって貰えた。田舎のイタリア人ってのは、日本人に負けず劣らず面倒見がいいんだ。俺がイタリアの永住権を取るのを勧めてもくれたし、保証人まで引き受けてくれたんだ。3年働き通して、船舶免許も取った。で、親方連中の推薦で、シチリア島のメッシナって町で、船員として雇って貰ったんだ。
 そこで俺は、モニカと出会った。
 モニカ・パラッツォ。近所の酒場の4番目の子供だった。小柄な女の子でね。俺は最初、中学生くらいかと思ってたよ。可愛いとは思ったけど、物凄いはにかみ屋でねえ。誰かに何か言われるとすぐに、顔が赤毛の髪と同じ色に染まるんだ。みんなのマスコットさ。でも、あんまりの恥ずかしがり屋ぶりに、友達も少なかったみたいだ。よく独りで、夕方の港の海沿いを散歩してた。
 あの娘のネッカチーフが風に飛ばされて、海に落ちたことがあってね。俺が飛び込んで、それを拾ってきたんだけど、泣きながらお礼を言われたよ。
 ――有難う。これ、ママの形見なんだ。
 その件のお陰で、打ち解けることが出来たよ。俺も人一倍、人見知りの口だったけど、モニカとは自然に話せたし、笑い合えた。自然に接することが出来たんだ。後で知ったんだけど、モニカはあの件以来、俺のことを、必ずどこかから見ててくれたらしい。気に掛けてくれてたらしい。ある日、パラッツォ酒場で呑んでる最中に、訊かれたよ。
 ――あんたは独りでいるのが好きなの?
 ――どうして?
 ――いつも独りだから。
 ――好きなわけがない。でも、みんな俺のことなんかすぐに忘れちゃうんだよ。
 冗談めかして答えた積もりが、泣きそうな顔になってね、言うんだ。
 ――あたいと、同じだね。
 でも、それからしばらくは、酒場で会って、挨拶を交わすとか、ちょっと話すとか、ただそれだけの間柄だった。それで終わると思ってた。
 クリスマスの日だった。船の作業員がそうそうと引き上げた後、俺は独りで後片付けをしてた。メッシナには一人暮らしの男の方が少なくてね、いたとしてもそんな日は、教会のクリスマス会に出た後、友達同士で飲み歩くような過ごし方が普通だった。俺は俺で、メッシナにはそんな友達がまだいなかったし、下宿に帰っても1人だったし。だから俺はみんなを先に帰して、仕事を片づけてたんだ。珍しく大雨が降った日でね。傘も持ってなかった俺はずぶ濡れで下宿に帰ったよ。
 料理が入ったバスケットを胸に抱えて、モニカがドアの前で待っててくれたんだ。
 ――前に、あんた、あたいの料理、褒めてくれた。美味しいって、好きだって、言ってくれた。だから作ってきたの。ずっと一緒に食べようって思ってて、言い出せなくて、でも、今日こそは、って思って、作ってきたの。でも、冷めちゃった。御免ね、冷めちゃったの…。
 俺のことを、ずっと気に掛けてくれてる人がいた。そんな娘に、初めて出会えた。本当に、天にも上る気持ちだった。
 その翌日から、俺はモニカと暮らし始めた。パラッツォ酒場の親父さんのとこに、殴られるの覚悟で挨拶に行って、その場でジン1本をラッパ飲みさせられたよ。代わりに、モニカに密かに惚れてたらしいファブリッツォって奴には、思いっ切り殴られた。その後、そいつとは随分親しい友達になれたけどね。で、俺の方はパガニーニ親方に頼んで、近場ばかりを回る船に配置を変えて貰った。給料は安くなっちまったけど、モニカと少しでも離れてるのが不安でね。せっかく出会えた世界一大事な娘が、俺のいない間にどこかに消えちまう気がして、怖かったんだ。
 ――あたいね、小さい頃にママを失くしてるんだ。
 ――だからね、あたい、独りぼっちの寂しさを知ってる。兄さんや姉さんはいたけど、寂しさは知ってるんだ。だからあたい、ママになったら、どんなことがあっても絶対に、子供を泣かせたりしない。何があっても長生きする。
 ――あんたも、あたいを独りにしちゃ、嫌だからね。
 ――ずっと一緒にいてね。
 ああ、一緒に生きよう…。
 モニカとは、3年、暮らした。
 その3年間は…、まあ、詳しい話は勘弁してくれ。とにかく幸せだったよ。それまで、俺は、笑ったことがなかった。皆に合わせて愛想笑いはしてても、心の底から笑ったことがない。笑い方を知らない人間だったんだ。俺が今、お前たちの前でちゃんと笑えてるんだとしたら、それはモニカのお陰だ。
 モニカのお陰だったんだ。
 夏の休暇が取れたけど、金がなくてね。どこにも行けない俺たちを、パガニーニ親方が誘ってくれた。持ち船で地中海の外に出るから、お前たちも来い、ってね。同じく金のない若い連中やら、親方の親戚、モニカの姉さんたちまで来た。親方はそこで、俺たちの船上結婚式を挙げてくれる積もりだったらしい。
 でも、結婚式は出来ず仕舞いさ。
 ちょうどその日、ブラックペガサス軍団が、大西洋を航行してた客船を沈めたんだ。超人兵士にするための生贄を集めるために。そして、俺たちの乗るロジーナ号も、その巻き添えを食らった。俺はモニカの手を必死に掴んでたよ。
 だが、目を覚ました時には、モニカは俺の側にはいなかった。
 残されたのは、この身体だけだった。
 あんな形で再会するまで、俺はモニカが生きてると信じてた。信じていたかったんだ。あの娘を失いたくなかった。
 そして、そんなモニカ1人守れなかったら、それこそ俺は何のためにこの世に存在してるのか、わからなくなっちまうと思ってた。
 でも、俺はモニカを守れなかった…。
「…それは、僕だって同じだ」
 剣吾は声を詰まらせた。「僕だって、布由美を守れずに終わったんだ」
 若林は静かに首を振った。「お前は俺とは違う。お前は布由美さんの代わりに、マリアを守り抜いたじゃないか」
「それはマリアのお陰だ。マリアが僕の前に、奇跡みたいに現れてくれていなかったら、僕だって…」
 マリアも目に涙を溜め、若林を見ていた。
 風の音は相変わらず強かった。
「いつかは、あんたにだって…」
「いないよ、もう…」
 私が言うことじゃないかも知れないけど…、マリアの吐息が言った。若林が、そうやって沈んでばかりいるの、モニカさんも喜ばないと思うの。
「ああ、俺もそう思うよ」
 新しい恋をしろだなんて、言えない。でも、歩き出さなきゃ…、
「現れたんだよ」
 若林の声に、微かな力がこもった。驚く剣吾とマリアにちらと顔を向け、若林はもう1本煙草を咥えた。
 これが、マリアやモニカとはエラい違いの女でな、と苦く笑う。「相馬が言ってた。イギリスも最低な国だが、イギリス女ってのはもっと最低だ、ってな。その通りだった。お高く止まって、口から出る言葉の半分は嘘だった。でも、その嘘の合間を縫うように、お互い通じ合えた瞬間も、あった」
 確かめ合ったわけじゃないけど、確かに伝わってきたものも、あったんだ。そして、彼女もその何かを、感じ取ってくれていたと、思う…。
 剣吾とマリアの見つめる中、若林は静かに“イギリスでの事件”のことを語り始めた。
 それもまた、悲しい事件だった…。


「俺は、エディスも、守れなかったんだ」


 …翌日は朝から蒸し暑い曇り空となった。
 庭に出ると、あばら家の背後に繁る竹林の緑が、重く沈んで見えた。やたらと藪蚊が飛んできた。蚊は剣吾や若林ではなく、マリアばかりを狙った。その度に、濃紺の作務衣もどきに飾りベルト、ブーツという出で立ちの剣吾が手を伸ばし、藪蚊を掴んだ。
 あなたがいない間、私は刺されっ放しね。
「なるべく早く帰る」
 若林がバルカンのシートを畳んでいると、村上が見送りに来た。若林の酒の礼を述べた村上は、剣吾に言った。「君が戻るまで、マリアはウチで預かるよ」
「お願いします」
「ああ、それとね、出来たよ。多分、完成だと思う」
 剣吾は頷いた。
 その村上に、若林が近づいた。耳元で何か囁く。目を見開いた彼の懐に、若林が1通の封筒を押しつけたのに、剣吾もマリアも気づかなかった。
 若林がヒラリとバルカンに跨った。その勢いでスターターを踏み込むと、エンジンが咆哮を上げた。ヘルメットを被り、剣吾に合図する。
 剣吾はマリアと固く抱き合った。その耳元に、マリアが囁いた。若林のこと、元気づけて上げてね。
 わかった、と頷いた剣吾はマントを羽織り、ヘルメットを被ってバイクの後部に跨った。
 …2人を乗せたバルカンは、坂道をゆっくりと下り始めた。舗装路に入ると同時に速度を上げ始める。
 遠ざかるバルカンを見送るマリアの顔が、空以上に曇っていた。
「どうしたね? 剣吾君を連れて行かれて、ヤキモチかな?」
 珍しい村上の軽口に、小さく微笑みを返したマリアだったが、その顔は尚も晴れなかった。湧き上がる不安を拭い去れることが出来ずにいた。
 その不安が何なのか、なぜなのかは、彼女自身にもわかっていなかったけど。
 雨が落ち始めた…。
 …剣吾を乗せた若林のバルカンは、国道136号線から135号線に逆上り、伊豆を出た。東名道に乗り、雨に追いつかれない速度で、そのまま真っ直ぐ、成田への道を走り続ける…。

超人旋風記 (6)

超人旋風記 (6)

合衆国の秘密組織《エスメラルダ機関》の研究が、不死の超人をアメコミの世界から現実に引きずりだした。 那智剣吾――彼はアメリカにその肉体を不死身の超人兵士に、その運命を戦う者に変えられてしまった。 最初はテロ事件の解決者として、次は主要国に牙を剥く、『自我を持ったコンピューター』の破壊の使命を負う者として、彼は世界中を飛び回る。 不幸な少女マリアと出会い、彼女の庇護者とならんと決意した時、彼はエスメラルダ機関と訣別する。そして自我を持つコンピューターに作られた超人兵士若林がかけがえの無い友として、彼とともに立つ。 この物型は、生きる運命を誰かに弄ばれることに抗う剣吾の、愛と、血と、暴力と冒険の黙示録である。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-09-01

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