怪物の種

金島心が研究室で変死したという一報を聞くと、十時秋生(しゅうせい)はすぐに金島の研究室までとんでいった。金島心は秋生が通う総合大学の教諭の一人で、粒子物理学を主に教えている。秋生とは失踪数日前に二人きりで会っていた。
今日は風が強い。時刻は午後六時二十六分。空は暗みかけ、空気は重さを増している。風は冷たく、湿っぽい……。
秋生には気になることがあった。金島教授の変死に関して……。

大学の3号館、3階、エレベーター脇の物理学科研究室群の長い廊下の一番奥の突き当たり。そのいっとう薄暗く埃っぽい位置に彼の個人研究室はある。怖々しながらノックすると、中から「はぁ〜い」と呑気な若者の声が返事を返してきた。秋生は(こんな声をした教授がいたかな?)と首を傾げながらも、曇った鼠色のノブを回して中へ入った。
「あれ? 学生さん?」
部屋には見たことのない青年が一人、真ん中に立っていた。学生かと思われるほど若く、黒い制服のようなものを着ていて、害のなさそうな顔をしている。
「どうしたの? ここはショッキングなものがあるから来ないほうがいいですよ。どうやってここまで来たんですか? 立ち入り禁止のはずだけど……先輩達はどうしたんだろ」
青年があっけらかんとした表情で近づいてくる。近くでよく見ると、警察関係の人物らしかった。なるほど。事件なのだから、警察が呼ばれて当たり前か。
「すいません、金島先生とは特に親しくて、矢も盾もたまらず……死亡推定時刻がさくじつ六時〜八時と伺いましたが、ご遺体はもう……?」
「いや。特殊な仏さんだから、僕たちも混乱していてね。まだあるよ、そもそも見つけたばかりなんだ。腐臭や血のにおいもしないんで、ここにいることに気づくのが遅かったみたいだよ。今日になって授業に出てこないので、自宅に電話をかけたら誰もでなくて……それでこの研究室のドアノブをなんの気なしに回してみたら、帰宅時に鍵をかけるはずが、開いたんだと言っていたね。そうしたら、あの怪物が……。それにしても君もあの人も、駆けつけるのが早いね」
あの人?
少しひっかかったが、部屋の中には自分とこの青年しかいない。彼が話し終わると、静粛が耳をジーンと圧してきた。なんの気配もない。
「あなたは、警察の方ですか?」
たずねると、青年はうなずいたので、秋生は、
「気になることがあるんです」
と切りだした。
この若い警官に、事情を話してみたくなった。

あまり音のしない、夏の夜だった。普段は構内のどこでも鳴いているコオロギやクビキリギリスも、その夜は声を聞かなかった。外に出れば風の音はする。そんな夜だった。
秋生が金島教授を見た最後のその日、この研究室で、彼は教授に一粒の紫色の種子を見せられた。
「これぞ……」
金島は黒い空の見える窓を背中に、手のひらに乗せたそれを見ながら、冬の夜のようにただっ黒い瞳をさざめかせた。
金島心という男は少し変わっている。真面目というには遠く、人懐こく、人をからかってふれ合うのが大好きで、いつも知識人らしからぬくだけた口調でものを話す。しかし知りあって間もない人間は彼を楽しく、そして少しおかしな男だと思っても、長く関わっていく中でだいたいの人が彼の底深く射すもの悲しい、幻のような影に気がつく。そのどこか謎めいた雰囲気や、見間違えか日差しのかげんか、彼はときどき底意地が悪いか、陰気に見える場合がある。そしてそのせいか、陰で違法なものを発明しているとか、六号館と体育館との渡り廊下に彼が同時に二人存在したことがあるとか、小さな紙きれのようなものを見て思いつめた顔をしていた、とか、この人に関しては変な噂が異常に多い。
「これこそ私と彼との知識の結晶だ。どうだい、これは?」
金島はその小さな種子を人差し指でちょんちょんとつついた。
「なんですかそれは? 彼って?」
真向かいの丸椅子に座っている秋生は胡散臭げに種子と金島とを見比べた。
壺村蔓蜜(つぼむらつるみつ)くんだよ」
金島は嬉しそうに答えた。
壺村……?
すぐにはその人物に思い至らなかった秋生だが、やがて、ああ、と息を吐いた。ぐんと上背のある、落ち着いて大人っぽい植物学者の姿が思い浮かんだ。
「これは彼が南米の山岳地帯で発掘した古代の種子に、私が放射能を当てて復元したものだよ」
金島はそう説明した。外はもう暗いので、秋生はとっとと帰りたかった。しかし、得体の知れない学者が二人で改造した種子となると、いったい何が生えてくるのか気になってしまった。
「……何が育つんですか?」
「気になる? 気になるかい? 育ててみる? じゃ、これあげちゃおっかなー」
金島は子供みたいに笑うと、種子の乗っかった右手を上にあげて、
「はいあげたー、あっはっは」
と一人でおかしそうに笑った。秋生は慣れているので特に何も言わずに、冷たい目をして教授を見ていた。やがて金島は笑いおわると、「……つまらない、真面目な奴だよね、君。知っていたがね」と拗ねるように呟いて、咳払いをした。
「実は私たちにもわからないんだ。どうも不思議な種子でね、一粒しか見つからなかったんだよ。古代人の遺跡群の地下にあってね……知っているかね? 現在発見されている中で、空に最も近い場所にあるといわれる古代遺跡なんだが」
秋生は首を振った。そもそも彼は、歴史や地理の分野は苦手だった。古代都市といえば、メソポタミアくらいしか思いつかない。
「わからないで、どうするんですか」
「育てるのだよ」
「わからないのにですか」
「うん」
「先生が?」
「うん。……蔓蜜くんに任せたほうがいい気もするんだがね、なにせ専門家だから。でも面白いだろう? わくわくするだろ? だから無理を言って譲ってもらったよ。彼も心配性だから、これからは頻繁にここに様子を見に来てくれるからね」
「……え? ここで育てるんですか」
金島はうなずいた。
「部屋の奥に専用の花壇を作るよ。私はここにいる時間が最も長いからね。しかし講義や雑用もあるから、君も手の空いた時は見に来てくれたまえ。君はとても真面目な学生だから安心だよ」
金島は秋生を親しみを込めた目で見つめ、笑った。
秋生は改めて、教授の手のひらに乗った粒を見た。薄紫で、灰色がかって、硬い表皮の種子。別にどこにでもありそうな――。

「紫の種」
刑事は自分の手帳から顔をあげると――彼は秋生の話のあいだずっと、それをメモしていた――目を丸くして、部屋の向こうを振り返った。
部屋の向こう半分は天井から白いシートがかけられていて何も見えない。
「はい。変死と聞いて、どうしてかわからないけれども、その植物のことを思いだしまして……」
刑事は難しそうに唸って手帳をしまうと、秋生をあっさりと白いシートの裏へ手招きした。
「……実はね、発芽しているんだよ。こっちへおいで……あ、君、グロテスクなものは平気? 君の先生がすごいことになっているんだけど」
シートの裏をくぐって、秋生は驚いた。
部屋の奥には緑と紫が混じったような茎の色をした、巨大な植物が壁や床に根を張るようにしてそびえている。高さは三メートルくらいだろうか、一部の葉先が天井に触れている。太さは秋生の胴まわりよりもやや太く、上のほうには力なくだらりとした、今にも落ちかかってきそうな巨大な花がぶら下がっていた。花弁がどす黒い紫色で、枯れかかる……というより、動物のように腐敗しかかっているようだ。
「ま……まさか……これが?」
唖然として立ちすくむ秋生の耳に、水っぽい嗚咽の声が聞こえてきた。低く、時に高く、尾を引く……聞いているこちらまで悲しくさせるような痛々しい泣き声だ。
植物の足元に男が一人、こちらに背を向けて座りこんでいた。
丸まった背中が震えている。茶色の布靴に土がついている――床をよく見ると、長い植木鉢の割れたのと、黒っぽい土が植物の近くに落ちていた。金島の作った花壇の成れの果てだろう。
「壺村さぁん、そんなに泣かないで。なんか、僕まで泣きそうになってきちゃいましたよぅ」
若い刑事が向こうを向いた彼の肩をとんとんと叩いて振り向かせた。
(壺村……?)
秋生は目を見開いて、振り返った壺村蔓蜜を見つめた。確かにそれは以前、一度だけ特別講演で見たことのあるままの、植物学者の顔だった。彼の心まで柔らかいのではないかと思わせるゆるい癖毛に、前髪に埋まるような困り眉。灰色の散った茶の瞳。それも今はぐしゃぐしゃに泣き乱して眉を下げ、鼻の頭を赤くし、引いた唇を震わせていた。
「う、う――す、すいませっ……ん、月並さん――でも、金島くんとは……ぐしゅっ、本当に仲が良うて……本当に……僕心が……心がいないと――」
彼は一度はこちらを向いたものの、秋生と目があうとハッと怯えたような気配をして、恥ずかしいのか、泣き顔を隠すようにまたふいと向こうを向いてしまった。秋生はその言動に呆気にとられた。講演では波立たない湖のように穏やかであった彼だが、それがこんなに情けない顔をして、情けない声をだすのか。
「あ……その方は……?」
彼の伽羅色の前髪の陰からのぞく、血の気の薄い唇がぼそぼそと動いた。
「十時秋生です。ここの学生です。あなたは……」
秋生は簡単に自己紹介すると、座りこんだままの壺村に近づいた。近づいて……彼の目の前の床、今まで彼の背が邪魔して見えなかったところが目に飛び込んでくると、ぎょっとしてまた足を止めた。
「こ、これは……?!」
なにかの内腑のような肉の塊が、猩紅の鮮やかな血の海の中、ぐでり、と転がっていた。子供くらいの大きさがあって、表面がつるりとしている。形はまるで弾力のない、横倒しになった肉の卵のようだ。
「それがどうやら君の先生のようなんだよ」
月並と呼ばれた刑事が困ったような顔をして言った。驚く秋生に、彼は続けて説明する。
「ここをね、この……植物のお腹を壺村さんが切開したんだ。そうしたら消化途中の金島さんがニュルッと出てきた。……あ、でも心配しないで大丈夫だよ。どうやらこの植物は彼の消化途中に枯れてしまったようなんだよね。もう動かないと思うよ」
「この植物が先生を食べたってことですか?」
信じられない。
食虫植物があることは知っているが、哺乳類を……人のような大型の哺乳類を捕食する植物があったのか? それに腹だって? 植物に腹……胃……内蔵? いや、これは二人の識者が共同で栽培した得体の知れないものだったか……?
確かに、肉塊からは粘膜の筋が糸をひくように伸びて、茎の切り開かれた穴に繋がっている。しかし、こんなものが咲くなんて。
「そうとしか思えないよ、僕はね。先輩は犯罪の可能性もあるっていうんですけどね……。あろうことかこの壺村さんが怪しいって言うんです。共同研究なんかじゃなくて、種は彼が独自に発見または開発したもので、彼はどんな怪植物が育つかわかっていて、金島さんに贈ったんだって。殺すためにさ。でも、十時くんのさっきの証言でその可能性は薄くなりましたよ。言ってることが壺村さんとまったく同じなんだもの」
月並はにこりと微笑んで秋生を見た。すごい刑事だ。この奇怪な植物や吐き気を催させる肉塊を前にしてなんてあっけらかんとしているのか。天然なんだろうか?
「先輩は事件は甘くないんだって言うんですよ。他にも可能性が考えられる……つまり、この肉塊は金島さんではなくて、なにか別の人物か、大きさから見て大型犬かなにかで……壺村さんは金島さんを誘拐して隠しているかもう殺してしまったとかね。もしくは……なんだったかな? えー……そうそう、何らかの方法で金島さんを殺して何らかの方法でこういう肉の塊にして、それで何らかの方法でこんな怪植物を作って、こういう怪奇事件に見たてている! とか。何らかってなんだよ、何らかって。でもなんで壺村さんにこだわるんですかね? 彼、優しそうに見えます。僕の目は、ばっちり確かですよ! 他に容疑者いないんですかね?」
容疑者だと言われても、当の壺村はぴくりとも動かない。顔を背けたまま、時々静かに鼻をすする。乱れた呼吸音が聞こえるので、まだ、金島を想って泣いているらしかった。もしかしたら月並の話も聞いていなかったかもしれない。
……彼と金島の仲がいいのは確かだ。秋生は壺村を見たのはこれでまだ二度目だし、金島本人もあまり彼のことは話さなかったが、学生間でささやか程度に知られている噂話は聞いていた。つまり……壺村蔓蜜というのは助手をまったくとらないほどの内気な男で、学生時代の友人である金島以外には、他に連絡を取りあうような人間もいないらしいということ。普段は大人しく控えめだが素行が時として少しおかしく(どうおかしいのかは秋生は詳しく知らないが、ラフレシアをまるまる一つ、煮て食べてしまったことがあるなど言われている)、植物学者たちの間では無害な変人として知られていること。それなので同じ変人同士の金島と異様なほど馬があい、金島が事あるごとに、阿保みたいなでれでれ顔で眺めていた紙切れというのは彼の写真であるらしいこと……等々。だものだから、この壺村が金島を殺してしまうというのは、想像しがたいことのように思える。
「……この植物はきっと地球外のものです……ぐずっ……きっとそうだって……僕はそう金島くんに言うたんです……でも彼は好奇心が強いですんで、聞かなくって……僕が引き取れば良かったんです……う、う……」
壺村が前髪の奥に片手を突っ込み、手の腹でぐりぐりと擦りながら言った。
「いやー壺村さんが育ててたら壺村さんが今ごろ肉の塊ですよ。僕は断然、植物犯人説を信じます。それにいくらなんでも宇宙人なんていませんよ〜? さぁ、もう泣きやんでください?」
月並は微笑みながら壺村の肩を叩いた。壺村はようやくおずおず顔をあげると彼を見上げ、
「すいません、大人気もなく……」
と肩を落としたまま言った。その目元や鼻はまだメギの実のように赤かったが、月並は壺村が落ち着き、少し元気になったことを喜んでにこにこした。彼の平和そうな顔には善意と好意しかない。壺村は秋生の姿を目で探したが、彼はシートの内側にはすでにいなかった。
「あ、あれ……十時くん……?」
立ち上がってシートの裏へ出てみる。
秋生は金島の作業机にいた。引き出しを開けたままの姿で、背中を向けている。右手は引き出しの取っ手を掴み、左手には銀色の小さな板のようなものを持っていた。引き出しの鍵のようだ。
「あの、十時くん、でしたよね……さっきは挨拶もできなくて、ごめんね……。何をやっているんですか?」
「壺村さん……あなたには分かりますか……?」
秋生は引き出しの中をじっと見つめたまま、振り向きもしない。壺村と月並が首を傾げて近寄ると、彼は眉間に皺を寄せた顔を上げた。
「あなたは……これ……本物だと思います?」
「なんですかこれ?」
月並が引き出しの中をひょいと覗きこんだ。
何もなかった。
「十時くん、これは……?」
一緒に覗きこんだ壺村が困惑して秋生を見る。引き出しの中はただ真っ暗なだけで、何も入ってはいない。
「よく見てください。これはタイムマシンですよ」
秋生は宇宙のような暗がりの中に右手を突っ込みながら言った。彼の腕は肩のあたりまで引き出しの中に吸いこまれる。それは引き出しの高さからいって、ありえないことだった。
「え、えっ?!」
壺村が驚いて、前屈みになって秋生の消えた腕のあたりを泣き腫らした目でまじまじ見つめた。
「引き出しにある謎の空間……なるほど、タイムマシンですね! ……って某アニメじゃないんですからぁ」
月並は呑気にも笑っている。
「いや、この鍵を見てください」
二人の眼前に、秋生の指が摘まむ銀の平たい鍵が突きつけられた。
形状的には、普通のシリンダーキーだ。ただ、よく見ると、鍵にはラベルが貼ってあって、ご丁寧に金島本人の字で「タイムマシン」と書いてあった。
「いやいやいやいや」
月並がツッコミを入れるように、秋生の二の腕をぽんぽん叩く。壺村は動揺していて、他の二人よりぐんと高い位置にある頭を頼りなげにふらふらさせている。彼は鍵を見下ろし、やがて困った声をだした。
「確かにこれは心の……金島くんの字であります……が……」
壺村の確認が得られたところで、秋生はうなずいた。
「金島先生に関する噂話に、彼が同時に二人存在したというのがあります。それは彼がこのタイムマシンを……。いや、とにかくこれが本物なら、あの人を助けられるかも……」
「そ、そんなこと信じられません! ただでさえ地球外生命体の種子だの肉の塊だの、突拍子ないのに、タイムマシンだなんて!」
壺村が状況についていけずに、秋生を困惑しきった眼差しで見ている。
「……僕はもうなんでもいいですよ」
月並は呆れたように、目の前のタイムマシンと、肉塊のあるほうとを見比べている。
「やってみましょうよ」
秋生は一度ごくり、と唾を飲んでから、意を決して、鍵を持ったままよいしょ、と引き出しを跨いだ。
「えっ、行くんですか」
「危ないですよ! だ、駄目、十時くん、そんなもの得体が知れないじゃないですか!」
月並と壺村がほぼ同時に叫ぶ。暗闇の底なし穴に、秋生の片足が沈みこんでいる。壺村は狼狽えて、もう片方の足をあげかけた秋生の腕を、縋るような目をして掴んだ。
「やめて十時くん! 行くんなら、僕が行きますから。金島くんの死には僕に責任があります。そ、それに、こんなの、どこにたどり着くか分からない! どうなっているのかすら!」
秋生は微笑んで、指の節の白くなった壺村の手をそっとどけた。
「……いや、あなたに責任はないですよ。うちの先生がいつも不注意なのがいけないんです。うちの先生のことですから、僕がなんとかしますよ。それに使い方はさっき見ましたから。こうするんです」
彼は、シリンダーキーを引き出しの鍵穴に差し込むと、反時計回りに、ちょうど二十四回まわした。
「じゃ、行ってきますね」
そう言うと、彼はひょいと引き出しの穴の中に飛びこんでしまった。壺村がぎょっとして、すぐに両腕を穴の中に突っ込んだが、すでになにものも捉まえることはできなかった。ぞっとするような暗闇の先に、彼の両腕は呑み込まれて、浸かった先からもう見えなかった。
呑気な月並の声だけが、研究室にいつまでも残った。
「行ってらっしゃーい」


秋生が金島の謎めいた引き出しに消えてしまってから、だいぶ時間が経ったような気がするが、研究室には何の変化もなかった。風の音も虫の声もしない。壁かけのアナログ時計の音だけが響いて、この部屋を徐々に無機質にしていく。
もし秋生が過去で金島を助けたのだとしたら、今この現実はどうなるのだろう? 壺村はもうほとんど混乱していた。パラレルワールド……の概念がさっきから彼の頭を占めていた。つまり、秋生が金島を助けたのは別の世界でのことになって、こちらでは何も変わらないどころか、秋生もこのまま失踪してしまうのではないだろうか……と。こんな状況においても、月並という若い刑事は伸び伸びとしている。彼は金島の机をごそごそ物色していた。……ずいぶん肝のすわった刑事だ。
壺村はそんな彼を置いてシートの裏側へ戻り、横たわった金島らしき肉塊の側にそっと跪いた。肉塊は相も変わらずそこにある。植物の腹からは、金島の服や靴も見つからなかった。
「心……ごめんね……」
それでも壺村は、この現実世界で秋生が金島の命を助けてくれることを期待していた。もしかしたら、見ている先でこの肉塊が生きた金島に変わるかも……。
時間はどんどん過ぎていく。アナログ時計がそれを律儀に刻んでいる。それはわかっていても。
「……うー……ん。誰か呼んだかね……?」
どこか近くで声がした。壺村は肩を震わせて顔をあげた。金島の声だ。しかし目の前の肉塊は消えることもなくいまだ何も変わらずそこにある……。
「壺村さぁん、なにか言いました?」
片手に金島のノートを掴んだまま、月並がシートから顔をだした。
「……壺村? よいしょ……あぁ、眠たい……蔓?」
植物の腐った根の絡まった部分がごそごそ動いた。二人が驚いて見つめる先で、白衣を着た片手がにょきっと出てきた。もう片方も……それから黒い後頭部。根っこから顔をだした男は、壺村と月並の二人を目で探しだすと、人懐こく微笑んだ。まだ眠そうな笑みだった。
「やぁ、蔓。えーと、十時くんはどこかな? 実はちょっと大変なことがあってだね、十時くんは僕を助けてくれたんだけど……この植物の唾液は気持ちが良くて、つい眠ってしまったよ。獲物を昏睡させてから食べるんだね、これは。実に獲物思いの優しい植物だね」
金島は生きていた。秋生は金島の救出に成功していたのだ。壺村は嬉しくてパニックに陥りかけたが、ふいに膝の先の肉塊を思いだして凍りついた。金島は生きている。ではこの肉の塊はいったい誰のものだ。そして消えたままの秋生はどこに……。
相変わらず、アナログ時計の音だけが響いていた。

怪物の種

旧題 湿夜の怪

怪物の種

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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