難破船
Title: 難破船 (Nanpasen)
Title of the original story: Derelict
Author: Albert Berg
Translator: Kiyotoshi Hayashi
This Japanese translation is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License.
The original story DERELICT by Mr. Albert Berg is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License. This license doesn't allow users to change the work in any way, but upon my request, Mr. Berg generously gave me the permission to translate the work and distribute it under the same creative commons license. I express my warm appreciation to the author.
The original English text is found in Amazon.com, ManyBooks.net and Smashwords.com.
難破船
エアロックから暗い通路に足を踏み出した瞬間、ウォーリックは何かを感じた。それをはっきり名指すことは難しい。不吉な予感、と言えば言い過ぎになるだろう。しかし何かそういうものだ。強いて言えばかすかな既視感、前にもここに来たことがあるという淡い感覚だった。彼はその感覚が消えるのを待って船に無線を入れた。
「見たところ誰もいないようだ」その声はヘルメットの中で大きく不自然に響いた。
「間違いないか?」ジョーンズの声が無線を通して聞こえてきた。
ウォーリックは前方の暗い通路、垂れ下がった蜘蛛の巣、制御装置が発する薄暗い光を見た。「間違いない。ここには誰もいない」
「乗組員はどこにいるんだ?」
ウォーリックはその問いに対する答えを知らなかった。本当のことを言えば今度の事件は何もかもが薄気味悪くてしかたがなかった。七日前、火星の軌道飛行管制局は軌道に進入してくる一隻の宇宙船に気がついた。通常行われるべき航行目的の連絡はなかった。大抵の場合、そうした振る舞いは密輸などの違法な活動を示唆している。しかし今回に限ってそれは考えにくかった。
表層スキャンによると宇宙船はEクラスの上級船だ。密輸入者がそんな大きな船を使うなど聞いたことがない。大きすぎて姿を隠すことがあまりにも困難なのだ。
いつものように地球に問い合わせると、多少くわしい情報が得られた。この奇妙に寡黙な宇宙船はペルセポネ号という貨客船で、乗客と採掘用機材を満載して火星へ定期航行中なのだという。少なくともウォーリックが属する軌道関税捜査支部が受け取った報告によるとそうらしい。
はじめのうち当局はこの奇妙な船を無視した。しかし一週間経っても一言の説明も、目的の報告もないため、ウォーリックの班が偵察に送り出されることになった。
「ヘンダーソンがもうすぐ装備を完了する」とジョーンズの声が返ってきた。「一分でにそちらへ行く」
「わかった。急いでくれ」
待っているあいだ、ウォーリックは事態を振り返った。彼は迷信深いたちではない。しかし何かがひどくおかしいと思った。乗船する前からその感じを抱き、船内に入った今は……。彼はゾクッと身震いした。ますます募る不安な気持ちが思わず外に出てしまった。
はたしてこの暗闇の中に生きている人間がいるだろうか。どう見てもそれはありえそうになかった。難破船の空気清浄装置は稼動していなかったが、ヘルメットのセンサーは明らかに周囲の空気が呼吸可能な酸素レベルにあることを示していた。この船に生存者がいるとしても、きれいな空気はほとんど使い尽くされてしまっているだろう。それでも彼は、小さな虫けらでもいいから何かがこの謎めいた船の中で生きていてほしいと願わざるをえなかった。その可能性が信じられるなら、前方の暗闇に立ち向かうことも、いくらか楽に、容易になろうというものだ。
その時、彼は突然、閉所恐怖にとらわれた。自分が安全スーツに閉じ込められたも同然であるという、恐ろしい事実に不意に直面させられたのである。気が狂ったように首の横のラッチをつかみ、留め具をはずした。ヘルメットがシュッという音とともにはずれ、ウォーリックはほっとしながらすえた空気を味わった。それが愚かしい行動であることは百も承知だ。これまでのところ、この難破船の船内に生き物がいる気配はない。しかも乗務員と乗客を皆殺しにしたかもしれないものが何なのか、まるで判らないのだ。空気感染する新種のウイルス、あるいは毒素かもしれない。ありとあらゆる可能性が考えられる。
しかしある種の感染病が原因であるなら、死体はどこにあるのか。このクラスの船なら千人近い客を乗せられるはずだ。豪華船というにはほど遠い設備だが、混雑した地球を脱出したい人には十分なものと言える。
デッキはすでに隅から隅まで調べた。しかし指一本見つからなかった。
べつに期待がはずれた、というわけではない。もしもこの船に死体があるとしたら、それらはとうに腐敗の最終段階に入っているだろう。彼はどろどろに溶けた顔や、眼球のない窪みを必死になって思い浮かべまいとしたが、それは惨めなくらい失敗に終わった。彼はもう一度ブルッと身震いした。スーツ内の温度は常に快適な二十五度に保たれているというのに。
「ヘンダーソン? ジョーンズ? まだ来られないのか?」
束の間のあいだ、誰も答えなかった。無線の雑音とともに応答が返ってきた。「あせるな、ウォーリック。もうすぐそっちへ着く」
「早くしろ。気味の悪い場所だぜ」
数分後、エアロックの鋭い空気音が聞こえ、ドアが開いて、他の二人が入ってきた。
「ここで何があったんです?」ヘンダーソンが低く口笛を吹いて言った。「ゴースト・タウンみたいだな」
「ゴーストなんてやめてくれよ」ウォーリックが言った。「こっちはそうでなくても充分びびっているんだ」
「どうした?」とジョーンが訊いた。「怖気づいたか?」
「やめろよ」とヘンダーソン。「ここはおれだって気味が悪い。さっさと仕事を片づけてしまおう」
「そうは問屋がおろさんよ」とジョーンズが言った。「念入りに調べないとな。このサイズの船には隠れ場所になるような隅っこや奥まった箇所がごまんとあるんだ」
ウォーリックはいったい何が隠れているのかとジョーンズに説明を求めたりしなかった。かわりに彼は言った。「それじゃ行くぞ」
ジョーンズはヘルメットをはずし、深呼吸した。次の瞬間「悪くないな」と言った。
「何のためにヘルメットをつけたんだ? エアロックを抜けて五秒後にはずしてしまうなんて」ヘンダーソンがぼやくように言った。
「おい、ぶつぶつ言うのはやめてくれ。自分の面倒は自分で見る」
ヘンダーソンは肩をすくめた。
「で、どういう手はずでやるんだ?」ジョーンズが訊いた。
「手分けしたほうが早いでしょう」とヘンダーソンが言った。
「いや」とウォーリックが答えた。「誰に何と言われようと、ここは危険を避けて行動する。この船は何か変だ。お前たちもそう思うだろう。みんな固まっていくぞ」
ヘンダーソンが肩をすくめて言った。「おっしゃる通りにしますよ、隊長。先導してください」
ウォーリックは喉のかたまりを呑みこんだ。彼は手を上げてヘルメットの照明を「強」にした。
ライトが前方を鋭く照らし、通路の床に光の輪を描いた。
「このタイプの船の構造を知っているのか?」とジョーンズが尋ねた。
「いいや」とウォーリックが答えた。「こいつは新しいモデルだ。トヨタの軌道組み立てラインから出てきたばかりさ。君はどうだ、ヘンダーソン?」
「知りません。でも情報部がヘッドアップディスプレイに基本構造図をダウンロードしてくれましたよ。この廊下は船の腹の下を通って船倉へ通じています」
「よし。ゆっくり進もう。こんな船の中で迷子になりたくはない」
「ここに突立ってるだけなら死人のほうがおれたちより速く進むぜ」
「ああ、その通りだ」とウォーリックが答えた。「じゃ、いくぞ」
最初の一歩がいちばん困難だった。行ってはいけないと虫が知らせるのだ。子供じみていることはわかっていたが、こんな任務は放棄して安全でぬくぬくした自分の寝台に戻りたいと願わずにいられなかった。しかし最初の一歩を踏み出せば、二歩目はさほど難しくはなかった。三歩目はほとんど自動的だった。その後、引き返すなどという考えはどこかへ消えてなくなった。
最初の通路に興味をひくもの、この船が無人のまま暗黒の虚空を漂っている理由を示すものは何もなかった。
ライトの光が前方に上り階段をとらえた。船倉に通じているに違いないと彼は思った。階段の下で足を止め、上を覗いたが、彼のライトでさえ向こう側の闇を貫くには十分でなかった。躊躇していることをジョーンズにからかわれるのではないかと思ったが、驚いたことに二人とも口をつぐんでいた。やつらも感じているんだ、と彼は思った。何かが確かにおかしいということを。
彼は自分の恐怖に蓋をして、階段を一段一段上がっていった。そのあいだライトが前方の暗闇の中に何かの姿を浮かび上がらせるのではないかという気がずっとしていた。何もあらわれないとわかると、いっそう不安に駆られた。もう少しで階段を上りきるところまで来ても、ウォーリックは最上段から完全な虚空の広がりを目にするのではないかという感じを拭うことができなかった。しかし上にたどり着いたとき、ライトが捉えたのは、暗闇の中を延々何マイルも広がる、灰色の金属の床だった。
「ここですよ」とヘンダーソンが言った。「船倉です」
「船荷はどこにあるんだ?」とジョーンズが訊いた。
「たぶん運び出したんだろう」とウォーリックが言った。
「誰がです?」とヘンダーソンが訊いた。
ウォーリックは返事をしなかった。答えを知らなかったのだ。船倉は船の中でもっとも広い空間である。当然のことだ。それならなぜここには何もないのか。梱包用の箱ひとつない。長々と列をなす棚もない。粘板岩のような灰色の床にはホコリの玉すらないのだ。
「次はどこだ?」と彼はヘンダーソンに訊いた。
ヘンダーソンはしばらくヘルメットの内部を見つめ、それから指をさした。「あっちの方……じゃないかと思います」
「確認しろ」
ふたたび短い間があった。「ええ、間違いありません。船員の居住区を抜ける廊下があるはずです。その先にはブリッジがあります」
「ちょっと待てよ」とジョーンズが言った。「このまま行ってしまうのか? 船荷はどうする?」
「船荷?」とウォーリックが言った。「ここに船荷があるか?」
「まさにそこが問題だぜ。船荷はどこへ行ったんだ? 探さなくてもいいのか?」
「どこを探すと言うんだ?」とウォーリックが訊いた。「ここから四隅がだいたい見渡せる。空っぽじゃないか」
「落ち着け、ジョーンズ」とヘンダーソンが言った。「いずれ答えは分かるさ。あわてるな」
「ああ、そうかい。わかったよ」
ウォーリックは詫びにならない詫びの言葉を何も言わず受け入れた。ジョーンズにはもう堪忍袋の尾が切れかけていたが、しかし彼がなぜそんな態度を取るのか、その理由は理解していた。この船のせいだ。この船が彼ら全員に取り憑こうとしている。心の隅々にまでもぞもぞと侵入し、脳みそのまさしくそのヒダに巣くおうとしている。
彼は二人の部下を従え、船倉の空っぽの床を横切った。ヘンダーソンが言った「答え」のことをずっと考えながら。彼らは、すべてを解き明かす説明、今まで見たものすべてに秩序を与える隠された枠組みをつかむかもしれない。しかし彼は心のどこかでそうはならないことを望んでいた。子供の時に読んだ推理小説のように、すべてがきれいに結論づけられ、すべての人に裁きが下る、というわけにはいかないのじゃないかという気がしていた。これはそういう種類の謎とは全く違う謎なのだ。未解決のまま残しておいたほうがいい謎なのだ。最後には血が流れるだろう、と彼は感じた。いや、そんな結末はおかしい。どこかがおかしい。
船員居住区へ通じるドアがあるはずの場所へ来た。ところが目の前にあるのは何もない隔壁だった。
「間違いないと言ったじゃないか」とウォーリックが言った。
「そのつもりだったんです」とヘンダーソン。「ちょうどここのはずなんですが」
「そのセリフは壁に言ってやれよ」とジョーンズが言った。冗談のつもりで言ったことは明らかだが、彼自身も笑わなかった。かわりに全員がしばらくその場に立ち尽くして壁を見ていた。凝視することで隠れているドアのありかをあばこうとするかのように。しかし何も起きなかった。
「歩いているうちに進む方向が狂ったのか、どうかしたんでしょう」とヘンダーソンが言った。「すみません、隊長」
「いいさ」とウォーリックは言った。しかし、いいなどとはとても言える状況ではないと、心の中で何かが警告していた。「どっちへ行く?」
ヘンダーソンはしばらく黙ってから彼らが来た方向を指さした。「きっとあちらでしょう。頭の中で図をひっくり返して見ていたんだと思います」
「誰にでもあることさ」とウォーリックは言った。「行こう」
船倉の壁は一辺がほぼ三分の一マイルあり、反対側に行くのに五分ほどもかかった。その間、ウォーリックは暗闇のことを考えないようにした。そこは暗闇ばかりだった。ライトが照らし出すことのできない空間があまりにも多かった。暗闇は未知なるもの、チョークを持った誰かを待っている、何も書かれていない石版のようだった。彼らはそこに何を描こうとしているのか。花の絵だろうか。ドアと二つの窓がついた風変わりな家、そしてその上に昇る美しい日の出だろうか。ウォーリックにはそうは思えなかった。
反対側もただ一面の壁であるとわかったとき、彼はパニックを感じはじめた。
「すみません、隊長」とヘンダーソンが言った。「こっちで間違いないと思ったんですが……」
「気にするな」とウォーリックは言った。「たぶん図面のほうがおかしいんだ。ここのどこかに別のドアがなきゃならん。そうだろう? 壁づたいに探してみよう」
ジョーンズが嫌味を言うかと思ったが、二人の部下はただ頷いただけだった。
船倉の壁に沿って最初の角に達したとき、ジョーンズが言った。「何か変だな」
「今年一番の控え目な表現だな、ジョーンジィ」とウォーリックが言った。
「いや、そうじゃなくて、床のことだ」
ウォーリックは床を見たが、別に関心をひくものはなかった。「床がどうした?」
「きれいだろう。きれいすぎる。隊長は貨物船で働いたことはあるかい?」
ウォーリックは頭を振った。彼は青春の真っ盛り、十九歳の時に軍隊に入ったのだ。
「おれは一度、夏休みのアルバイトで荷役をしたことがある。信じられないくらい暑かったぜ。しかしペイはよかった。とにかくこういう船倉じゃ、とてつもなくでかくて重い荷物を扱うことがあるんだ。それを天井まで積み上げる。報告によるとこの船は十年も運行しているというが、そんなことは考えられない。本当に貨物船だったら、床がこすれ、使われた跡が残るはずだ。こんなふうじゃなくて」
ウォーリックはもう一度床を見て、今度はあるべきものがないことに気がついた。ジョーンズの言うとおりだ。灰色の床は清潔で、すべすべしていて、使われた跡がない。
「つまりこれは本当は貨物船じゃないということか?」ウォーリックが尋ねた。
「わからない。ただこの場所は何かが変だと言っているだけさ」
「ヘンダーソン、われわれが受けた情報が間違っているということは考えられるか?」
「考えにくいと思いますね」とヘンダーソンは答えた。「情報によるとこの船は積荷を満載して地球を出発しています。それから火星の軌道にのり……それから何もなしです。無線通信もどんな連絡もなし。だたもしも……」
「ただもしも? 言いたまえ」ウォーリックが命令した。
「ただもしもすべての情報がわれわれに伝えられていないとしたら話は別です」
「そんなことがあると思うか?」
ヘンダーソンは肩をすくめたが、その動きは身体を閉じ込めているスーツによって幾分阻害された。「そんな話を聞いたことがあります。公式に発表があったわけじゃありませんよ、もちろん。おおやけに認められはしませんが、いろんな噂が飛ぶんです。不十分な情報しか与えられず任務に送られた連中とか、上層部の人間が都合の悪い事柄を隠すために平気で誰かを犠牲にするとか」
「何だと。軍の実験の失敗した結果がこれだとでも言うのか?」ジョーンズが訊いた。彼はそりかえって笑った。「本が書けるぜ」
ウォーリックは頭の中で今の話を検討してみた。ありうる話だ。高級将校が秘密を秘密のままにしておきたがることは知っている。自分のような兵士を消耗品と見なしていることも。そのことに対して今彼ははっきりした意見があるわけではない。上層部から何も知らされないのはイヤなことだが、しかし実はすべてに論理的な説明があるのだと考えると、なんとなく安心し、心の拠り所が与えられる。
「わかった。それならわれわれはこれから計器飛行をする」と彼は言った。
「どういう意味だ?」ジョーンズが訊いた。
「われわれが今知っていると思っていることは何一つ信じないということだ。直接知り得たもの以外、すべての情報を無視しろ。与えられた情報のいくつかは正しいのかもしれないが、しかし確実に正しいと言えるかどうかは分からない。頼り切らないほうが安全だ」
二人の部下はわかったとばかりに頷いた。三人は船倉の内壁に沿って歩き続けた。半ばほどまで進んだとき、ヘンダーソンが床の上の何かを指さした。
「ほら、さっき床の跡がどうとか言っていたな」
ウォーリックはヘンダーソンの指の先を見た。船倉の鋼鉄製の床に何かが溝を掘っていた。長い三本の溝で、そこ以外、表面には傷ひとつなかった。彼は爪を思い浮かべまいとした。
ジョーンズはその跡を指でなぞり仔細に調べた。「ありえない」と彼は言った。「これは特別丈夫な合金なんだ。削岩機を使ったって引っかき傷もつけられないんだ」
「じゃ、床の跡がどうとかいう話は何だったんだ?」ウォーリックが訊いた。
「引きずった跡だよ。パレットから落ちたゴミ屑とか……」彼はぼんやりと手を振った。「そういうものさ」
そういうものか、とウォーリックは思った。なるほど。
彼は言った。「ここにいても何も判らない。前進しよう」
彼らは二つ目の角に来たが、途中に奇妙なもの、異常なものは何もなかった。
ウォーリックは彼らが置かれた状況を何とか理解しようとあれこれ考え続けていた。彼は船倉を見ていた。それはジョーンズによると一度も船荷を積み込んだことがない船倉だ。ほとんど処女航海をする前の、製造現場から出てきたばかりの船に入り込んだようなものだ。しかし無論そんなことはありえなかった。火星にはまだこの大きさの船を建造する能力はない。それに船荷を積まず地球からはるばる貨物船を飛ばす人間もいない。それでは彼が目にしているものはいったい何なのか?
しかし答えはまるで判らない。そのとき彼らはそこにないはずのドアにぶつかった。
「馬鹿な」とヘンダーソンが言った。
「おれもおなじことを考えてたぜ」とジョーンズが言った。「この壁はさっき見たんじゃなかったか?」
ウォーリックは答えることなく長いあいだドアを凝視していた。何の変哲もないドアだ。隔壁によく作られる、何度も見たことのあるタイプのドアだ。ただ一つの問題は、それがそこにはなかったということだ。
「見逃していたんでしょう」とヘンダーソンが言った。「そうとしか考えられない」
「そうだ」とウォーリックは言ったが、内心では最初通ったときドアを見逃すはずがないことを知っていた。絶対にそんなことはありえないのだ。しかし何よりも彼を狼狽させたのは、ヘンダーソンもおなじことを考えていることが判ったことだった。
「ああ、もちろんさ」とジョーンズは皮肉っぽく言った。
「開けてみよう」とウォーリックは言った。
「本気か?」ジョーンが尋ねた。「冗談は抜きで、隊長、さっきこのドアを見逃したはずがないんだ。ここはそれほど暗くはない」
「引き返したいか?」
ジョーンズは頭を振った。「そんなことは言ってない。ただ……気味が悪いぜ」
いきなりドアが現れたことは「気味が悪い」なんて生ぬるい言葉で表現できるものじゃない、とウォーリックは思った。「君はどうだ、ヘンダーソン。引き返すべきだと思うか?」
ヘンダーソンは首を横に振った。「確かに得体の知れない事態です。でも正直に言って、見れば見るほど、真相を知りたくなりますね」
ジョーンズが言った。「好奇心は猫をも殺す、っていうじゃないか」
「好奇心を満たせば生き返る、とも言うな」とヘンダーソンが返事をした。
「よし」とウォーリックが言った。「じゃ、こいつを開けるぞ」
船に動力がきていれば、ドアはボタンの一押しで開くのだが、現状では手動で操作を行わなければならなかった。ジョーンズはドアの横のパネルのなかにクランクハンドルを見つけ、折りたたまれたそれを引き出した。最初のうちハンドルを回そうとしてもドアはいうことをきこうとしなかった。が、装置の内側で何かががくんと動き、ハンドルが少し回った。内部のギアがひどく人間じみたうめき声をあげ、ウォーリックはスーツの中でぎくりとした。
ドアは勢いよく開き、その向こうには大きく口をあけたような廊下が延びていた。
「変な匂いだ」とジョーンズが言った。
ウォーリックはほとんど無意識のうちに頷いていた。ドアが開いた瞬間、何かの匂いが、黴臭いような匂いが、彼の鼻孔を襲った。必ずしも嫌な匂いではない。実際それはかすかにシナモンを思い起こさせた。しかし違う。シナモンではない。何かが違う。
気に入らない、と彼は思った。
「ヘルメットをつけなくていいんですか?」とヘンダーソンが訊いた。
「この空気の計測値は出てるか? 毒性はないだろうな」
「じゅうぶんきれいです」とヘンダーソンが答えた。「特に目立った病原菌も毒素もありません。安全のはずですけど、ただし……」
「ただし? はっきり言え」
「何でもありません。なんだか不安で落ち着かないだけです」
全員がそうじゃないだろうか、とウォーリックは思った。全員が不安を感じているんじゃないのか?
ジョーンズが先頭に立って暗い廊下を進んだ。スーツのライトは前方をわずかに照らし出している。しかしその向こうは墨を流したような暗闇だ。明かりの向こう、ちょうど光に接する闇の中に何かが隠れているのではないか。彼らはそういう想像にいとも簡単に捉えられた。とんでもないところに牙や触手を生やした化物が次の食事を待ち構え、よだれを垂らしているのではないか。
そんなのは空想にすぎない、とウォーリックは自分に言い聞かせた。ただのつまらない空想だ。おまえは恐怖小説を読みすぎているんだ。さあ、これよりひどい仕事をこなしてきたじゃないか。しっかりしろ。
廊下の両側にはほぼおなじ形のドアがずらりと並んでいた。長いドアの列を見ると、ウォーリックは合わせ鏡の無限に退いていく像を思い出した。子供の時はその写り込みの効果に魅了されたものだ。数限りない自分の複製に満たされた、どこまでも続く通路をのぞく、魔法のような感覚。しかし今それは彼の心を取り乱す。どういうわけかこの場所では、複製が繰り返され永遠に続くということがとてつもなく恐ろしいことのように思えた。
彼らはすべてのドアを開けて中をチェックした。それらは乗客用の寝室で、気味悪いくらいおなじ寝台が何列も並んでいた。ベッドはきれいに整えられ、どこにも人影はない。
「みんな、どこへ行ったんでしょうか」薄気味悪い部屋を五つ調べても、居住者の痕跡が一切見つからなかったとき、ヘンダーソンがいぶかるように言った。
「はじめっからいなかったんじゃないか」とジョーンズが言った。「ひゅう~どろどろ」
「黙れ」ウォーリックが怒鳴りつけた。怒鳴るつもりはなかったが、空っぽの部屋が彼から平静さを奪いつつあった。「この船はいったいどうなっているんだ?」
「どうもなってはいないようですがね」とヘンダーソンが言った。「なにもかもちゃんと動きますよ。ただ人間がいないだけで」
「いや、君にも分かっているだろう、そんなことを言っているんじゃないってことは。おかしすぎる。なにもかも」
「マリーセレスト号みたいだな」
「ジョーンズ、わたしが今いちばん聞きたくないのは幽霊話だ。わかったか」
「言ってみただけさ。隊長だってとっくにそのことに気がついていただろう?」
公正を期して言えば、ウォーリックはジョーンズに言われるまで、この伝説的な船のことを思いつきもしなかった。しかしいったん思い出すと、頭から追い払うことができなくなった。
マリーセレスト号の話はもう何年も忘れていた。子供の頃、本で読んだ記憶はある。父親が「事実は小説よりも奇なり」とかそんな感じのくだらないタイトルの逸話集を持っていたのだ。海の怪物とかサイキックの宇宙飛行士とか、どれもこれも建前は実話ということになっている話がいっぱい載っていた。そこにマリーセレスト号のことも出ていた。ある日、乗組員を揃えて出航した船が数日後、もぬけの殻となって発見されたのだ。テーブルには食べかけの食事が載っており、船長の航海日誌は中途で途切れていた。どういうわけか食べかけの朝食のことを考えると、彼はいつもゾクゾクした。彼はキャビンに入る自分の姿をほとんど目の当たりに思い浮かべることができた。陶器の皿の上の卵は黄身を血のようにあふれさせ、湯気を立てている。その話を読んだ晩、ベッドに入る前に彼は考えた。席についてその卵を食べようとしていた男を連れ去り、現実のページから消してしまったのは何ものだろうか、と。
「おなじじゃないですよ」ヘンダーソンがウォーリックの物思いを遮るように言った。「これはマリーセレスト号のケースとは違います。どちらかというとあの話の反対です」
「どういうふうに?」とジョーンズが訊いた。
「あの船では食べ物も航海日誌もすべてがつい先ほどまで人がいた可能性を示しています。この船には人がいた証拠は何もありません。問題は、乗組員に何が起きたかではなくて、はじめから乗組員なんていなかったように見えるということなんです」
「わけがわからん」とウォーリックが言った。「船はひとりじゃ飛ばないからな」
「自動操縦ですよ。火星を植民地化するために送られた最初の宇宙船は無人飛行でした。いろいろな蓄えや膨張型住居を積んで。考えられないことじゃ――」
「いや、考えられない」ウォーリックが口を挟んだ。「乗組員も乗せずにこんな船を宇宙空間に送り出す人間はいない。金がかかるからな……君やわたしが一生お目にかかることができないような金が。コンピュータの故障のせいでせっかくの投資がどでかい、ひしゃげた鋼鉄のパンケーキになるかもしれない。そんな危険は犯さないさ。君が言っているのは昔の話だ。数学者がパルス駆動のアイデアをテーブルナプキンよりもうちょっとましなものを使って説明していた頃の。今ではありえないことだ」
「可能性はありますよ」とヘンダーソン。「隊長も可能性は認めるでしょう」
「ああ、理論的には、な。しかし理由は? なぜ乗組員なしで船を宇宙に送り出すんだ? 乗組員に払う給料なんか、宇宙飛行にかかる投資額に比べりゃ、微々たるものだ。目的は何だね?」
「目的なんかなかったとしたら?」とジョーンズが言った。
ウォーリックがじろりと彼を見た。「そんな質問には答える価値もない。とにかく乗組員はいたはずなんだ。搭乗者名簿を見たじゃないか」
「隊長は、今まで言われたことは忘れろ、われわれが直接見聞きすることに集中しろと言いましたよね」ヘンダーソンが静かに言った。「わたしは言われた通りにしているだけです」
ウォーリックは出かかった言葉を呑み込み、頷いた。「そうだ。確かにそう言った。今でも事前に与えられた情報は実際とつじつまが合わないと思う。しかしそれはともかく君の説明に戻ろう。どうしてそんなことをするんだね? どうして乗組員のいない船を火星に飛ばすんだ? たいした金の節約になるわけじゃない。それどころか大きな危険を抱え込むんだよ。今だってコンピューターは軌道に接近するとき計算を間違える。パイロットはそうした万が一に備えて必要なんだ。単純に保険として」
「べつに議論するつもりはありませんよ、隊長」とヘンダーソンが言った。「ただ柔軟に発想するべきだと思います」
「そいつは忘れない。じゃ、行くぞ。調べるべき場所はまだまだたくさんある。すべてを説明する手がかりが見つかるかも知れない」
「よし、行こうぜ」とジョーンズが言った。「ハーディー・ボーイズみたいにな。宇宙大冒険の巻!」
ウォーリックは彼をにらむと廊下を歩き出した。ところが百フィートも行かないうちに、照明の光は堅固な灰色の壁にぶちあたった。行き止まりだった。
「ずっと続いているはずじゃなかったのか?」壁に到達した時、ウォーリックはヘンダーソンに訊いた。
「図面ではそのはずなんですが」
「ああ、何しろ信頼できる図面だからな」
「嫌味を言うのがおまえの人生の目的か?」ウォーリックがかみついた。「建設的なことが言えないなら、黙っていろ!」
ジョーンズは一歩退き、突然の激高に心底驚いたような様子をした。「別に悪気はないぜ」と彼はつぶやいた。
「わたしがもらった資料によると、この廊下は機関室を通って制御室へ伸びています」ヘンダーソンは返事を待つかのように短い間を置き、こう続けた。「何が間違っているのかわかりません」
ウォーリックは行く手を遮る金属の壁を見て、お前の秘密をさらけだせと念じたが、何の効果もなかった。「わかった。もう調査は充分だ。ここから出るぞ」
「任務はどうするんです?」
ウォーリックは頭を振った。「忘れろ。われわれはここで何が起きたのかを突き止めるよう命令された。しかし与えられた情報はどれも意味をなさない。どうも裏がありそうだ。完全な情報をもらうまで言いなりになるのはやめだ」おまけにおれはこの場所が本当に怖くなってきた、と彼は心の中でつけ加えた。
廊下を戻りながらウォーリックは長々と続くおなじドアの列を見てゾッとした。この均一性には何か異様なもの、何か不自然なものがある。彼は木でも石でも何でもいいから、くっきりと外形の縁どられていないものを見たいと思った。彼は混乱を望んだのだ。
事態はますますおかしな方向に進行している。
もと来た道は数分で引き返せるだろうと思っていた。入ってきた時は、この迷路のような謎を解く鍵が見つかりはしないかと、ほとんどすべてのドアを開けるために立ち止まった。当然、帰りはそれよりも時間が短くなければならない。
しかしそうはならなかった。
一歩一歩歩きながらウォーリックは心の中に膨れあがっていく恐怖と闘っていた。ヘンダーソンにもう一度図面を確認しろと言おうかと思ったが、やめた。彼は黙り続けた。彼らが置かれた状況のとてつもない非常識さを指摘する役を演じたくなかったのだ。自分が何を考えているのか、それはよくわかっている。しかし言葉に出して言うのは……考えられない。そこで彼は、よどんだ深みに溺れる男が頭の上の一本の藁をもつかむように、一筋の輝かしい思考にすがりついた。これには必ず合理的な説明があるはずだ。
数分後、またもや行き止まりにぶつかった。
彼らは特徴のない灰色の金属壁を見ながら立ちつくした。今度は誰も言葉を発しようとしなかった。
いたずらだ、とウォーリックは思った。いたずらに違いない。
そう思った時、新しい考えがひらめいた。「これは何かのテストだ」と彼はつぶやいた。
ジョーンズが不意に壁からウォーリックに目を転じた。「テスト? 何のテストだ?」
「心理テストさ。おれはそう思う」
ヘンダーソンが頷いた。「ありえますね」
「お二人さんには敬意を払うが、いくらなんでも気違いじみている」
「そうだ」ウォーリックが考えこむように言った。「気違いじみている。まさしくそれだ」
「われわれを限界点に追いやろうとしているんですよ」とヘンダーソンが言った。「通常の現実的枠組みを取り払い、われわれが個人として、チームとしてどう対処するか観察しているんですよ」
「迷路に放り込まれたネズミ」とウォーリックがつけ足した。「それがおれたちさ」
ジョーンズは首を振った。「いいや。おれは賛成しない」
「なぜだ? それしか考えられないじゃないか」
「そんな変な話はないぜ。そりゃ、火星にいるんだったら、考えられるかもしれない。しかし今は軌道上にいるんだ。おれたちは関税の仕事について三カ月になる。そいつはごまかしのきかない事実だ」彼は一息ついて話し続けた。「手が込みすぎている。わからないか? こんな実験をやるなら軌道上以外でやるだろう。費用だけでも……いくらなんでもやりすぎだ。誤解しないでくれよ。おれは人並みにシニカルだし、普通の人の二倍もまずいツラをしている。しかしそんな話は信じられない」少なくとも今回ばかりはジョーンズの言い分にも一理ある、とウォーリックは思った。しかしそれを認めたくはなかった。いや、認めることはできなかった。認めると他のもっと異様なことを考えなければならなくなるからだ。彼は不気味な難破船の食事室でいまだに湯気を立てている食べかけの卵を思い浮かべまいとした。
「そうとしか考えられない」彼はもう一度言ったが、誰かに対してというより自分に向かって言ったようだった。
「計画を立てる必要がありますよ」とヘンダーソンが言った。「事態がどうあれ、先々何をするか、予定を立てなければ」
ウォーリックは両の拳で正面の壁をたたいた。壁は少なくとも一インチか、おそらくそれ以上の厚さがあるようだ。「ともかくここは通り抜けられない。つまり選択肢は一つだけだ。戻ろう」
「一人だけ反対意見を言うのはイヤなんだが、しかし隊長の意見が正しいとして、おれたちが得体のしれない何かのテストに使われているとするなら、なんて言うかな、いちばん予想されやすい行動をとるのはまずいんじゃないか」
「もっといいアイデアがあるのか?」とウォーリックが訊いた。「拳骨で壁を壊すというなら、自由にやってくれ」
「そんなことは言っちゃいない。おれはただ相手の言いなりになって小突き回されるのがイヤなんだ。相手のいいように動かされている感じがするんだ」
「ここに留まりたいのなら、それも結構だ。わたしは戻る。この迷路を早く走れば走るほど、真ん中のチーズは早く見つかる」
彼はもう振り返ろうともせず、通路を戻りはじめた。しかしジョーンズがこうつぶやくのが聞こえた。「そうさ。でも見つかるものがチーズじゃなかったらどうするんだ?」
彼らは長い通路を移動した。これが三回目だ。しかしウォーリックの歩き方は、まるで彼には目的があるかのようだった。少なくとも今、彼はこの事態を理解していた。彼がつかんだ藁はフルサイズの救命具にまで成長していた。少しだけ自信も取り戻していた。大丈夫だ、と彼は心の中で思った。われわれは無事にここを抜け出せる。
彼は宇宙船からの脱出を必死に願っていた。
心理テストという自分の説を細部まで検証することに我を忘れるくらい没頭していた彼は、もうちょっとのところでそれを見逃すところだった。もしかしたらその横を通り過ぎていたかもしれない。実際、通り過ぎそうになったのである。しかし彼はそれに目を止め、立ち止まった。
「このドア」と彼は指をさした。「開いているじゃないか」
「閉めるのを忘れたんでしょう」とヘンダーソンが言った。
「ああ、そうかもしれない」
カビの生えたプラスチックの取っ手をつかんでドアを閉めろと、彼の中の何かが命じた。それは必死になって言っていた。決して開けるな……。
しかしすでに遅かった。軽くドアのほうに寄りかかると、彼はそれを開け放った。向こう側には暗闇が広がっていた。
ウォーリックは照明を最強にしてぽっかりと開いた(まるで口みたいだな、と彼は思い、そう考えたことを後悔した)ドアの中を照らした。しかしそれでも何も見えなかった。
「最初に来た時、どうしてこれを見逃したんでしょう」とヘンダーソンが訊いた。
「見逃すものか」とウォーリックが答えた。「見逃すはずがない」
ジョーンズもドアに近づいて、どこまでも続く闇に向かって自分の照明を最強にした。それでも暗黒が延々と広がっているだけだった。それは強力な光線をあたかもロウソクの炎よりも頼りないものの如く呑み込んでしまった。
「こりゃ普通じゃないぜ」とジョーンズが言った。
「普通のものなんてあるか?」とヘンダーソンが訊いた。
「な、何もない」ウォーリックは愕然としてつぶやいた。「虚ろな空間。究極の底なしの裂け目だ」
「おっと、待ってくれ。誰かさんの詩人の魂が今生まれ出ようとしているぜ」
魂か、とウォーリックは思った。ああ、その通りだ。おれの内部が引き裂かれていくような感じだ。魂の中が。
「おかしい」とウォーリックは言った。「ここにこんなものがあるわけがない」
「おかしくないかもしれませんよ」とヘンダーソンが言った。
ウォーリックは気温とは関係のない寒気を感じた。「どういうことだ?」
「何かのトリックかもしれません。目の錯覚のような」
ウォーリックの動悸はヘンダーソンの言う意味を理解してやや収まった。「なるほど。そうかもな。どうやったら確かめられる?」
ヘンダーソンは収納パックに手を入れ、小さな黒い箱を取り出した。開けるとコンピューター・スクリーンと取り外し可能な車輪付き小型カメラがあらわれた。「狭い場所で使うやつです。必要になるとは思わなかったんですけど……」そう言って彼は肩をすくめた。
「何をするつもりだ?」とジョーンズが訊いた。「ただそこに放り込むのか?」
「いいや」彼は説明もせずに廊下の反対側にある一室に飛び込んだ。ドアが勢いよく開いたとき、ウォーリックは思わず息を呑んだ。しかしそのドアの背後は全てがまったく正常のようだった。中に入ると、ヘンダーソンはベッドの一つに上がって、壁から突き出したブラケットに支えられている長い棒を取ろうとしていた。
「何をしている。余計なことをしている時間はないぞ」ウォーリックは口に出して認める気にはならなかったが、しかし本当は問題のドアからできるだけ離れたかったのだ。
「ちょっとだけ待ってください。すぐわかりますから」
ヘンダーソンは服をかけるための棒を取り、ケースからテープを取り出すと、棒の先にカメラを固定した。
「どうしてカメラを自分のほうに向けるんだね?」
「あれが視覚的なトリックだとしたら、外側にカメラを向けてもわたしたちが肉眼で見るのとおなじ結果になるでしょう。でもあのドアの向こう側には何かがあるはずです。それがいちばんわかるのは、あのドアのまわりがどんな構造になっているかを見ることです。もちろんわたしたち自身がドアを抜けて調べることができればそれがいちばんでしょうけど」
ウォーリックはやめろと言おうかと思った。そんなことをしても何もならない、と。先ほど、ドアを開けるな、と必死になって訴えていた心の一部がいまだに叫んでいた。その暗闇にかまわず遠くへ離れろ。
ジョーンズがウォーリックの思考を遮った。「それじゃ、おしゃべりはこのへんにして、何が見えるか、さっそくやってみようぜ」
好奇心は猫をも殺すか、とウォーリックは思った。愚かな、愚かな猫を、な。
ヘンダーソンはしばらくスクリーンをいじっていた。「よし、準備完了です。やるだけやってみましょうよ」彼は虚空にカメラを突き出した。
ウォーリックは憑かれたようにスクリーンのすぐそばに立っていた。恐怖感は膨れ上がって、他の感情とは別個の、独自の存在と化していた。スクリーン上に何を見ることになるのか判らない。しかしそれが何であれ、彼の恐怖を鎮めることはないだろう。
スクリーンの映像は、ヘンダーソンが棒を安定させようとしているあいだ、小さく揺れた。しばらくは小さいスクリーンのまわりに集まる自分たちの姿しか見えなかった。しかしカメラが暗闇の中に押し出されるにつれ、真実が見えてきた。全ての真実、真実そのもの、他の何ものでもない……いや、何ものもなかった。
こんなことはありえない。ウォーリックは最悪を覚悟していたつもりだった。しかしこれは……
ドアはいまだスクリーンにくっきりと映っている。しかしその境界線の向こう側には……何もないのだ。それはあらゆる理屈に反して、ただそこに浮かんでいるだけだった。暗黒の虚空にぽつんと浮かぶただ一つの四角い光。
ウォーリックは一言「ばかな!」とつぶやくと、スクリーンから退き、目をそらした。目の前の映像を見ることに耐えられなかった。
一方ヘンダーソンはまるでそれが世界に残された唯一の物であるかのようにスクリーンを凝視していた。彼は何かしゃべろうとした。少なくともウォーリックは彼の唇が動くのを見た。しかし声は出てこなかった。彼はさらに暗闇の奥にカメラを突き出した。正しい視角を見つけさえすれば、目の前の恐るべき不可能が説明可能な何かに変貌すると考えているかのように。
そのときウォーリックは彼がしようとしていることを見て叫んだ。「ヘンダーソン、やめろ!」
おそらく警告を発するのが遅すぎたのだろう。ヘンダーソンのほうも夢中になりすぎてその声が聞こえなかったのかもしれない。しかし理由はどうであれ、彼は棒と一緒に手をドアの向こうの虚空に突き出したのだ。
ウォーリックは彼の叫び声を聞いたが、それは彼の耳にははるか遠くから響いてくるように思えた。暗闇には何も存在していない。少なくとも目に見えるものは何もない。しかし、それにもかかわらずヘンダーソンはあがき、苦痛に叫び、底なしの深みから手を引き戻そうとしていた。ウォーリックとジョーンズは肩をつかんで彼が手を引き戻すのを助けようとした。ウォーリックは、目に見えない、しかし確かに存在する何かが、暗闇に伸ばしたヘンダーソンの手を引っ張っているのを感じた。その力はヘンダーソンをたちどころに虚空に引きずり込むことができるはずだ。ウォーリックはそう確信した。しかし見えない力は彼らにむなしい綱引きをつづけさせ、もてあそんでいるかのように思われた。
それでもウォーリックは戦いをあきらめなかった。「引っ張れ!」彼はジョーンズに向かって怒鳴った。「くそっ、引っ張れ!」
ウォーリックはそれがまさしくヘンダーソンの喉笛を鳴らし、その口から出ているのを聞かなければ、到底人間のものとは思えないような音を聞いた。そのとき三人は突然後ろにひっくり返り廊下に投げ出された。ドアが恐ろしい勢いで閉まり、ウォーリックの耳にはその音が銃声のように聞こえた。しかし次の瞬間、ヘンダーソンがたてている音、恐怖に震える苦痛の叫びがほかの全てを圧するように響き渡った。
彼はずたずたに裂けた宇宙服の袖から突き出ている腕の残り、血まみれの肉と骨を必死につかんだ。怪我をした子供のように、それを胸に押し当てながら。ウォーリックは恐怖に呆然としてただ見つめることしかできなかった。しかしジョーンズはすぐさま自分の収納パックから救急箱を取り出し、流血している腕の先端に手際よく止血帯を巻きつけた。最悪の流血を止めてしまうと、彼は手早く包帯を巻いた。パックに入れた包帯を二巻とも使い尽くして手を止めた。手当を終えたとき、彼はウォーリックのほうをじろりと見た。「まだ心理テストだと言うつもりか?」
ウォーリックは頭を振った。目の隅に涙が溜まりはじめていた。べつの時なら泣くことを恥と思っただろう。しかし今は恐怖しか感じていなかった。彼はもう一度子供になりたかった。膝から血を流し、痛みよ、飛んでいけと願いながら、きっと彼を守ってくれるはずの母親のところへ駆けていく子供に。母親はキスで涙をきれいに消してしまうだろう。全てを癒してくれるだろう。
しかし難破船に母はいない。
「しっかりしろ」とジョーンズが言った。「彼は怪我をしたが、あんたはそうじゃない。赤ん坊じゃあるまいし、泣くのはやめて手伝ってくれ」
ウォーリックは頭を振った。「そんなことをしても無駄だ。何もかも無駄だ。全員死んだも同然なんだ」
「いいや、おれたちは死んじゃいない。まだな。とにかく移動しようぜ」
どこに行くんだ? とウォーリックは思った。どこに行こうと、船は彼らを逃してくれはしない。逃がすわけにはいかないのだ。しかしいくら彼が疑っても、ジョーンズの声には無視できない強烈な確信がこもっていた。ジョーンズはここから脱出できると信じている。彼は信じている。今のウォーリックにとってはそれで充分だった。
彼は涙を拭き、ヘンダーソンに焦点を合わせた。彼は床の上に丸くなって横たわっていた。切断された手をまだ胸元で押さえている。「ヘンダーソン」とウォーリックは言った。「聞こえるか? 意識はあるか?」
ヘンダーソンは何も言わなかった。しかしウォーリックは彼が頷いたような気がした。
「進むしかない。立てるか?」
反応はなかった。
「そら、手を貸せよ」とジョーンズが言った。
ジョーンズがそんな意味で言ったのではないことをウォーリックは知っていたが、彼はその言葉を文字通りの意味に取り、けたたましく笑い出した。自分を抑えることができないかのように。
おれは気が狂いつつある。彼は頭の片隅で思った。その片隅だけは彼を呑み込もうとして忍び寄る狂気からなぜか超然として冷静を保っていた。
「いい加減にしろ!」ジョーンズが耳元で怒鳴った。「しっかりしろ。さもないとこの場で撃ち殺すぞ」
怒りの爆発はウォーリックにもう一度現実の感覚を取り戻させた。「そうだ。その通りだ。先に進まなければ」
彼はジョーンズがヘンダーソンを床から抱き起こすのを手伝った。ヘンダーソンはいまだショック状態にあったが、ウォーリックにはその目に落着きが戻りつつあるように感じられた。
「大丈夫だ。われわれはこの魔窟を出る。君は助かるぞ。約束する」
それは言っても意味のないことだった。彼らの一人でも生きて脱出できるか、彼にはわからなかった。それにだいたい彼は約束できるような立場にはない。それでもその言葉を口にすると、彼は少し気が楽になった。もしかしたらジョーンズが正しいのかもしれない。希望があるのかもしれない。それでいて心の一部では、彼がヘンダーソンに言ったことは単なる気休めにすぎないことを知っていた。
「さあ、こっちだ」ジョーンズは廊下の先を指さした。
三人はぎこちなく、ゆっくりと歩いた。しかしともかくもあの呪われたドア、その向こうの暗闇から離れたのだった。いったいどのくらい廊下を移動したのか、ウォーリックにはわからなかった。何マイルもあったのかもしれない。ただの数百フィートだったのかもしれない。時間はすっかり狂ってしまっていた。奇妙なイメージが頭に浮かんだ。時間が発作的に進んだり停まったりしているイメージだ。気味の悪い黒いヘドロ、神の血が詰まり、ゴボッ、ゴボッとあふれ出る泉のようだ。いったいこのイメージはどこから来たのだろう。ウォーリックは不思議な気がした。しかしそんなことはどうでもいい。
彼らは三人の老人のようによたよたと進んだ。歳月に生命を盗まれ、大人にならぬうちに若さを無駄になくしてしまったようだった。
とうとう彼らはドアを見つけた。
「これだ」とジョーンズが言った。「わかっていたんだ。ここにあることは」
しかし、もちろんそんなはずはない。ジョーンズがそんなことを知っているはずがない。おまえもわたしも迷子という点ではおなじだ。しかし少なくともジョーンズはまだ戦おうとしている。その勇気がウォーリックに希望を与えた。彼らはおなじ恐怖を見たが、しかしジョーンズはなんら痛手を受けていないようだった。われわれは脱出できる、とウォーリックは自分に言い聞かせた。嘘じゃない。嘘のように聞こえるけれど。
ジョーンズがドアを開けたとき、ウォーリックは小さくあとじさった。またもやそこに恐るべき暗黒が広がっているのではないかと半ば予想していたのだ。しかしかわりに彼が見たのは多種多様なサイズのパイプと、等間隔に配置された垂直に伸びる巨大な鋼鉄製のシリンダーだった。しかし何となく様子がおかしい。最初のうちは、照明を床に当てていたためにわからなかった。しかしジョーンズが自分の光を絡まり合うパイプとバルブに当てたとき、ウォーリックはそれらが黒く滲み出たような何かに覆われていることに気づいた。それは天井から垂れ落ち、パイプにひっかかっているのだ。おまけにそれはかすかに動いているように見えた。まるで独自の意識を持っているかのように。
「なんだ、あれは」とジョーンズが訊いた。
「神の血だ」ウォーリックがつぶやいた。
ジョーンズの目が細くなった。「何だって?」
「何でもない」
「ここを通り抜けなきゃならないぜ」
ウォーリックは黒い物質に光を当てた。見たところエンジンルームを一分の隙もなく覆っているようだ。胸が悪くなった彼は目を閉じ、吐きませんようにと一瞬祈りを唱えた。彼はブーツを通してすらヘドロに触れたくはなかった。しかしジョーンズが正しい。ここを通り抜けるしかないのだ。
「まず右足から行こう」と彼はつぶやいた。
彼らは部屋の中に足を踏み入れた。ブーツが黒い滲出物にめりこむのを感じたとき、ウォーリックはまたもや猛烈な吐き気に襲われた。奇妙な物質の感触は言葉では言いあらわせない。足の下で潰れて、じくじくと滲み出す感触は、生きているのではないかという先ほどの印象をいっそう強くした。巻きひげのようなものが床から伸びてきて、首にのまわりにしがみつき、歯をこじあけ、口の中に入り、舌の上に腐ったキャベツのような味を残すのではないかと彼は考えつづけた。そうしたこと全てをぞっとするほどの確実性とともに頭に思い浮かべた。ほとんどすでに起こったもののように。
しかし最悪の想像にもかかわらず、彼らは何事も無く部屋を渡りきった。
「ほらな」とジョーンズは反対側のドアを通り抜けながら言った。「たいしたことはなかった」
「よく見ろ」ウォーリックは絶望に突き落とされた。「振り出しに戻ってしまったぞ」
こんなことはありえない。しかし今はそんなことすらどうでもいいように思えた。問題なのは可能性ではなく現実なのだ。滲出物に覆われたエンジンルームの恐怖を抜けたと思ったら、再び入り口に立っていたのだ。ウォーリックは両側にドアが並ぶ、長くて白い通路を見て叫びたい気分になった。
「おなじに見えるだけじゃないか?」とジョーンズが言った。「これは別の廊下じゃないか?」
「違う、違う、違う! おなじだ。まったくおなじだ。どこまで行ってもおなじだ!」
「隊長? 進まないわけにはいかないぜ」
「進めるものか! われわれは死ぬんだ!」
「約束する、あんたは死なない」とジョーンズが言った。彼の声には何か、ウォーリックの心の深い原初的なレベルに訴えるものがあった。変だ。しかし彼のほかの部分は溶けていく現実の壁を支えることに必死だった。
「どうして約束なんてできるんだ?」ウォーリックは叫んだ。「約束なんてできない! みんな嘘だ!」
彼は突然走って逃げたいという衝動に駆られた。それにあらがう気力はもう残っていなかった。彼はヘンダーソンの肩を放り出し、廊下を駈け出した。人だろうが、物だろうが、一切のことにかまってはいられなかった。生き延びるんだ。そうとも。おれは生き延びるんだ。おれを止めようとしてもムダだ。生き延びるんだ!
何時間も走り続けたように思われた。脇腹が痛くなり、呼吸が鋭い、うなるような喘ぎに変わるまで。心臓の鼓動がドラムのように耳に鳴り響くまで。もはや走ることはかなわないというところまで走り、それでも何とか走り続けた。両側にドアが次々と現れては消え、ついにはおぼろげにしか見えなくなった。しかしいくら走っても神に祝福された終わり、自由へと彼を導くあの輝かしい開いたままのハッチは見つからなかった。そしてとうとう心臓が胸の中で破裂寸前になったとき、彼は力を失い床に沈み込んだ。
「どこに行こうというんだ?」
ウォーリックは飛び上がって首を後ろに回した。ジョーンズが奇妙に馴染み深い笑顔を浮かべてそこに立っていた。その背後、せいぜい十フィートのところに、エンジンルームへ通じるドアが、巨大で虚ろな目のようにぽかりと開いていた。
「馬鹿な」とウォーリックが小さく言った。「こんなことはありえない」
「そうか?」とジョーンズが訊いた。「自信があるか?」
「こんなこと、あるわけがない」
ジョーンズは前進し、ウォーリックに顔を近づけた。ウォーリックはその息に含まれる、ある匂いを嗅ぎ取った。シナモンの香りだ。いや、そうじゃない。シナモンではない。「証明してみろよ」とジョーンズに似たものは言った。「これが現実じゃないというなら、証明してみろ。拳銃を引き抜いて自分の頭をぶち抜け。もしも夢を見ているだけなら、もしもこれがすべて悪夢だというなら……たぶん目が覚めるだろう」
「彼はどこだ? ヘンダーソンはどこだ? ヘンダーソンをどうした?」
ジョーンズは笑った。声高に吠えるような動物的な笑いは、周囲の堅い非情な壁に反響し増幅された。「ここにはいないぜ、ウォーリック」
「どういうことだ? どこにいる? 何をしたんだ? この場所は何なんだ?」
「ここは特殊なところなんだよ、ウォーリック。感じないか、この場所の力を?」
「いったい何の話だ?!」ウォーリックは怒鳴った。「ヘンダーソンはどこだ?」
「言っただろう。ここにはいない。今までもいたことはない。しかしあんたは……何回もここにいるんだ」
ウォーリックはまた叫び声をあげ、ホルスターの拳銃をつかみ、ジョーンズの頭に狙いをつけると引き金を引いた。弾丸は頭蓋骨の左上部を粉々にし、左目をもぎとっていった。傷跡から何かが出てきたが、それは血ではなかった。どろりとして黒く、それ自身の意志で動いているように見えた。ジョーンズに似たものは残った片目でウォーリックを見下ろし、ニヤリと笑った。「こいつは何回やっても楽しい」と彼は言った。「何回やっても」
「だ……誰なんだ、おまえは」
ジョーンズに似たものは腕を広げた。「隊長、おれがわからないんですか?」
ウォーリックは頭を振った。「おまえはジョーンズじゃない。おまえは……何か別のものだ」
「観察眼がするどいな」
「なぜだ? なぜこんなことをする?」
一瞬ジョーンズに似たものは戸惑ったような表情を浮かべた。「楽しいからだよ」と彼はとうとう言った。「……愉快だからさ」
ウォーリックは呆然と目を見張り続けた。しかしショック以外の何かがうごめいていた。恐怖以上の何か、この呪われた船に入り込んだ瞬間からじわじわと判りはじめた何かが。
「どうした?」ジョーンズに似たものが訊いた。「憤りすら感じないか?」
「以前にもおなじことをやったことがある」とウォーリックは言った。「何もかも前に起きたことだ」
「ほほう。ようやく全体が見えてきたか」
記憶がウォーリックの心にどっと押し寄せてきた。それが百万の異なる恐怖、口ではいえない無数の戦慄でもって彼を襲い、彼の脳みそを喰いちぎり、正気のかけらを鴉のようにずたずたに引き裂いた。
「ここなんだ」とジョーンズに似たものは陶酔したように言った。「いつもここがおれのお気に入りの場面なんだ」
「違うぞ」とウォーリックが言った。「二度とそんなことにはならない」
死にかけていく意識の中で、彼は拳銃を取り、自分の顎の下に当てて引き金を引いた。
狂ったような笑い声が耳にこだましたとき、世界は白くなり、そして消えた。
次の瞬間……。
エアロックから暗い通路に足を踏み出したとたんに、ウォーリックは何かを感じた。それをはっきり名指すことは難しい。不吉な予感、と言えば言い過ぎになるだろう。しかし何かそういうものだ。強いて言えばかすかな既視感、前にもここに来たことがあるという淡い感覚だった。しかしもちろんそんなはずはない。来たことがあるわけがない。彼はその感覚が消えるのを待って船に無線を入れた。
難破船
この作品はアルバート・バーグ氏の短編「難破船 (Derelict)」を翻訳したものです。バーグ氏は恐怖小説を書いていらっしゃり、そのいくつかをクリエイティブ・コモンズのライセンスをつけて無料公開しています。わたしはこの作品を読んで一驚しました。素人作家ながら、たいへんな筆力の持ち主だと感じたからです。その後作者に連絡を取り、日本語に翻訳し、原作とおなじCCライセンスのもとに無償公開してもよいだろうかとお尋ねしました。バーグ氏から快諾をいただき、わたしは才能豊かなホラー作家のごく初期の作品をはじめて日本に紹介する栄誉をたまわったわけです。
この作品のいちばんの特徴を一言で言うと、atmospheric ということでしょう。つまり、異様な雰囲気が実に巧みにかもしだされている。怪物があらわれたり、異常現象が起きてなくても、なんとはなしに不気味な感じが活字から立ち昇ってくるのです。わたしは最初の段落から一気に物語に引き込まれ、読み終わるまでテキストから目を離すことができませんでした。バーグ氏のほかの作品も同様です。スプラッター映画のように、血や内臓が飛び散るわけではないのですが、薄気味悪さが強烈なサスペンスとともに読者に迫ってきます。これだけの語りの技術を持っている人は商業作家にもなかなかいません。
確かにこの短編には、映画を含めたSF作品の影響が色濃くあらわれています。(The Beach Scene という別の短編はあきらかに日本のホラー映画の影響を受けています)ループ状の物語構成も珍しくありません。物語の細部に関しても、わたしにはちょっとわかりにくいところがある。文章も想像力の質も、いまだ荒削りです。しかし作家には習作期というものがあり、先達の真似をして作品を書き、修練を重ねて自分の独創を獲得するものなのです。だから作者の初期の作品にたいして、独創的ではないとか、細部に瑕瑾があるとか難癖をつけるのは筋違いでしょう。それよりも作家の卵が、既製品を使いながらここまでサスペンスフルな物語を構築したことを評価するべきです。
わたしは作者への手紙の中でこんなことを書きました。「この物語を読んで、退役軍人が繰返し戦争の恐ろしい夢を見る、という話を思い出しました。彼らは、合わせ鏡の内部に閉じ込められたように、思い出したくない過去の記憶の反覆の中に閉じ込められてしまいます。精神分析学者はその理由を『死への慾望』に見出します。わたしにはジョーンズの頭から顔をのぞかせる黒い、意志をもったような物体が、タナトスの肉化したもののように思えます」このような解釈の妥当性はともかくとして、わたしは「難破船」に知的な興味もそそられたことを書いておきます。
バーグ氏が近い将来、作家として大輪の花を咲かせることを期待しています。