君の手を 第5章
昨日の夜、僕があの娘について考えたこと。なぜ泣いていたのか、という理由はもちろんだけど、それよりも彼女自身についての事だ。
長谷川さんと一緒にいたから、長谷川さんとは友達だろう。少なくとも単純な知り合い以上ではあるはずだ。
だからまあ、長谷川さんに張り付いて、彼女との接触を待つのが一番楽なんだろう。
長谷川さんはバスケ部だ。とりあえず、行ってみることにした。
体育館は下駄箱から一番遠い位置、廊下を抜けて一度校舎から出て、渡り廊下を進んだ先にある。
廊下を抜け、渡り廊下に出て体育館の入り口を見たとき、急に心臓がドキドキし始めたような気がした。緊張? まさか。
音が聞こえた。ダダダっと床を走る音。キュ、という独特の摩擦音。ダンッ、とボールが床に弾む音。そして、人の声。
喉が鳴った。入り口の前にある10段程度の階段を足元を見ながら上っていく。音がどんどん大きくなる。いる。バスケ部は確実に練習している。
最後の段を上りきり、顔を上げた。体育館の様子が目に映る。僕はぎこちなくそこへ入っていった。
長谷川さんはすぐに見つかった。探さなくてもわかる。弾むポニーテール。おでこに張り付いた前髪。はじけ飛ぶ汗。薄く開いた唇からもれる吐息。まとわりつく薄いシャツの下。火照った体。健全な男子中学生なら目を奪われて当然。だが、生憎そのときの僕は違っていた。別の誰かを探していた。しかし――。
(いない)
どこを見ても、あの娘はいなかった。バスケ部というわけではないらしい。まあ、運動できそうではなかったから、あまり期待もしていなかったんだけど。
このままここにいて、バスケ部の練習が終わるのを待ってもよかったが、それまでにはまだ時間があるし、何より長谷川さんが部活の後にあの娘と会うかどうかなんてわからない。それに、ずっとここにいるっていうのはストーカーっぽくて嫌だし。
それならば、と僕は体育館を後にした。
うちの学校はほとんど全員、何らかの部活に所属しているはずである。したがって全部の部を回っていけばそのうち見つかるはずだ。ただし僕はこの学校にある部をすべて把握しているわけではない。文化部が夏休み中も部活をしているかどうかも知らない。
……夏休み中じゃなかったら、話はもっと簡単だったんだけど。
ふう、と息を吐いた。仕方が無い。ひとつひとつ教室を見ていこう。
実はこのとき僕は、彼女はこの学校にはいないのではないか、と思っていた。葬式で泣いた彼女である。悲しみをその胸に抱え、ベッドで泣き濡れているのではないか、というのは大袈裟だが、そんなようなことを考えていた。だから彼女を探す、というよりは、いつもと違う学校の中を暇潰しに見て回ろうか、というような気に変わっていた。もしかしたらノスタルジーなんか感じちゃったりするかもしれない。それはそれで面白い。
そういう意味では、一階にはあまり用が無かった。ここには特別教室と一年の教室しかない。特別教室に思い入れがあるような出来事は無かったし、一年の教室はそういう想いに浸るにはちょっと、遠い過去の場所だった。とはいえ別に急ぐ訳でもなし、一応彼女を探すという目的もあるわけだし、念のため見ていってもいいだろう。
久しぶりに入った一年の教室は、懐かしい、というよりもやはり他人行儀なよそよそしさを感じがした。確かに一年のときはこの教室で過ごしていたはずなのに、今ではその面影をほとんど感じない。たぶん、同窓会で10年後に会うクラスメイトより親しみが無い。たまに他のクラスの教室に入ると感じる違和感と同じ。そう考えると、教室の造りは同じはずなのに、なぜこんなにも印象が違うのか不思議だ。何が違う、と具体的に挙げることはできないけど、確かに違う。全然違う。たぶん、置いてあるものとか、掲示物とか、そういうことじゃなくて、もっと根本的なものだと思うんだけど。そしてそれはたぶん、目に見えるものじゃないんだ。
一年の教室をハシゴして、その謎が解けないかと考えてみたけど、やっぱりわからなかった。
特別教室も見て回ったけど、あの娘はおろか誰一人いなかった。校舎とは別の場所に音楽室があるけど、やっぱり誰もいなかった。こうなると、本当に誰かいるのか疑いたくなる。疑惑を胸に、僕は階段を上がった。
二階は見慣れたものだった。ここには二年の教室があるから。他には職員室、校長室なんかがあって、購買もここにある。まあ、食べ物飲み物を売っているわけじゃないから、あまり意味は無いんだけど。
一階と同じように各教室を回ってみた。感想は特に無い。一階と変わらない。自分のクラスなら何かしら特別な感情でも湧いてくるかと思ったけど、他の教室より何も感じなかった。見慣れてて、目新しいものがまったく無いから。懐かしさを覚えるほど時間も経っていない。ノスタルジーとは程遠い。センチメンタルにもならない。
職員室にはさすがに誰かいるだろうけど、近寄りたくなかったので、すぐに三階に上がった。
三階は三年の教室。声がしていた。外から覗いてみると、補講をやっていた。やはり近寄りたくないので、別の場所を見て回る。
美術室には人がいた。たぶん、美術部だろう。そうじゃなかったらこいつらは何者だって事になる。文科系の部活も、やっぱりやってるんだな。
最後に、図書室に行った。僕にはあまり縁の無い場所だ。夏休みの読書感想文用の本を借りるくらいしか用が無い。だから誰もいないだろうと思っていたのに、意外なことに電気がついていた。ここを使う部活なんて、あったっけ?
ドアをすり抜け、中に入る。目の前に本棚が並んでいる。その奥にある読書スペースには誰もいなかった。本当に誰かいるのだろうか、と少し見回すと、いた。貸し出しカウンターに誰かいる。そういえば、夏休みでも本の貸し出しはやってるんだっけ?
それ以外には誰も見当たらない。念のため、そこにいる人の顔を確認しようと近づいてみる。
メガネをかけていた。オシャレメガネとは違う、いまどきありえないくらいの見事な黒ぶちメガネ。うつむいて本を読んでいる。そのせいで流れた髪が顔を隠してよく見えない。メガネも邪魔だ。でも、その横顔に何故か見覚えがあるような気がしていた。どこだったっけな? 最近、見たような気がするんだけど。思い出そうとしながら、顔の見える正面へと徐々に移動していく。正面。まだ思い出せない。じっと見つめる。見つめる。見つめる。そして――
「げっ」
思わず声が出た。瞬間、僕はライオンを見つけたトムソンガゼルのように飛び跳ね素早く本棚の影に身を隠した。そこにしゃがみ込み頭を抱えた。話が違う。……いや、もしかしたら見間違いかもしれない。
本棚の影からもう一度確認する。――間違いない。
(あの娘じゃねーかっ!!)
どーりで、見たことあるはずだ。っていうか、すぐに気づけよ!
……いや、だって、しょうがないよ。あんなメガネかけてたら。
……いや、でも、それでも、気づけよ。
いやだって――。
ひとしきり混乱し、身悶え、ありえない、と何度もつぶやいた後、ようやく少し落ち着いてきて、もう一度良く彼女を観察した。
髪の長さは肩よりちょっと上くらいで、ふわっとして軽い。黒というにはやや薄い色。メガネの奥の瞳は大きく黒く(願望込み。メガネでよく見えない)、目だけでなく顔全体が丸く、柔らかい感じ。太っているわけではない。全体の印象で言えばむしろ細く、儚げだ。
改めて見て、やはり、と思った。この容姿でバスケ部は、運動部は無いな。やはり、文化部。夏の日差しに照らされて明るく、清涼感の漂うこの図書室がよく似合う。
脳内で、昨日の彼女と目の前の彼女を照らし合わせ、合成する。
うーん。やっぱりこれはもしかしたら、なかなかの、いや、かなりの美人じゃないだろうか。美人っていうか、可愛い系? 男子の間で少なからず噂になるレベルの。
……でも、僕は彼女の噂を聞いたことは無い、ぞ?
その理由はたぶん、深く考えるまでも無い。
メガネだ。あの黒ぶちメガネ。
もし、メガネの彼女しか見たことが無かったら、僕だって素通りして見向きもしなかったかもしれない。いやそれでもちゃんと見ればかわいいってわかるんだけど、先入観みたいなの、あるじゃん?
まあ、もっとも僕はもともとそんなことを話題にするタイプじゃないけど。
それにしても、なぜメガネをしてるんだろう。むしろ、あの時はなぜメガネをしてなかったんだろう。学校にして来てるってことは、普段はメガネしてるんだろ? まあ、どうしても必要ってほど悪くないのかもしれないけど。そして、そんなこと深く考えても、しょうがないのかもしれないけど。
……でも、待てよ。それなら、もしかして彼女のかわいさに気づいてるのって、僕だけか? そう思うと、にやけた笑みが顔面に浮くのを押さえられなかった。
メガネを外すと美少女。古典的だけど、なかなか悪くない。………いい。
いや、待て。葬式の時かけてなかったってことは、あの場にいたやつらはその顔を見てる。知ってしまっている。
でも、葬式の最中にそんなこと考えるかな? ……無い、って言い切れないのが男子中学生の生態。むしろ『喪服って、何かエロいな』くらい考えてるのが正常、正常は言いすぎか。でも、そんなことを考えているやつがいたっておかしくない。全然、おかしくない。そんなやつが彼女の素顔を見たら――。
……見てたら、どうだっていうんだよ?
急に、冷めた。バカな妄想だ。何の意味もない。何テンション上がってんだバーカ、って感じ。
彼女を視界からはずし、その場に膝を立てて座る。本棚に背中を預けた。僕がタバコを吸うんであれば、一服したい心境だった。でも僕は吸わない。タバコは嫌いだ。
ぼーっと、目の前の本を眺めた。赤茶けた分厚い本が並んでいる。教科書に出てくるような作者の全集が並んでいた。時計が鳴った。ここにはなぜか古びた柱時計がある。その鐘の音。何度打ったかはわからない。あまりちゃんと聞いていなかった。
静かだった。ただ、本のページをめくる音だけが聞こえた。彼女がめくるページ。その指は細く白く――。
……またか。やめろよ。ムッツリか。
……。
でも、もう一回、顔を見たい。そう思って、本棚から顔を覗かせようとした時。
「ガラッ」
――えっ?
思わず、ドアのほうを見た。でも、本棚の影になっていて、見えなかった。だから、空耳かと思った。でもすぐにまた、ガラッ、と音がした。聞き間違いじゃない。誰か来た!
わずかに聞こえる床を踏む足音。それだけじゃ、誰だか、女子か男子かもわからない。
出て行って姿を見てやろうか。どうしよう。でも……。うだうだと迷っているような時間はなかった。その人物は既にカウンターのところまで来ていた。
「結衣、帰るよ」
聞き覚えのある声だった。女子の声。ややハスキーで、ちょっと無愛想。僕はそちらを向く。
長谷川さんだった。長谷川真琴。Tシャツにハーフパンツという格好のまま。今は髪を下ろしている。
「うん」
違う声が聞こえた。やや小さめだけど、落ち着いた声。こちらはやや高い。続いてパタン、という音が聞こえて、ズズ、と椅子を引く音が聞こえて、少ししてから同じ音が聞こえて。そして二人は僕の視界を通り過ぎて行った。パチッ、パチッ。ガラッ。ガラッ。カチャリ。
とても自然で、あっという間だった。
明かりの消えた図書室に一人、僕は呆然とし、取り残されていた。目の前で起きたことを理解するのに三回くらい同じシーンを繰り返した。それからようやく、ハッと気づいて慌てて二人の後を追った。
かなり慌てていたので、階段を一階まで下りてすぐの廊下で誰かにぶつかりかけた。ほとんどの部活が正午までなので結構人通りがあるんだ。僕はそれを避けるように飛び上がり、下駄箱へ進んだ。別にぶつかったって大丈夫なんだろうけど、やっぱりまだ人は避けてしまう。
僕が下駄箱に着いたとき、二人はすでに外に出ていて、それが視界の左隅にギリギリ引っかかった。セーフ。何とか見失わずにすんだ。
外へ出て、二人を見失わないようにやや後方の上空5mくらいのところから後をつける。帰り道。やはり結構人がいた。ジャージと制服が半々くらい。校内はあれだけ閑散としていたのにどこから沸いてきたんだろう。制服とジャージが混ざったグループはほとんどいない。しかも二人組となると目に見える範囲では彼女たちだけだった。だから見失う心配はまず無い。そうでなくても、目立つからすぐわかる。
入学当初、長谷川真琴は男子の間では特別な存在だった。例外は彼女と同じ小学校だった奴らだけで、その他すべての野郎どもの噂の的だったと言っても過言ではない。容姿端麗、成績優秀、おまけにスポーツ万能。僕も最初は少なからず興味を惹かれた。ただ、性格が悪すぎた。無愛想、なんて言葉では片付けられない冷淡さがあって、興味のある事以外にはとことん淡白。しかし、それが知れてからもなぜか人気を集めている。特に、女子から。そして一部からはものすごい反感を買っている。それが影響してか(本人に問題があるのも間違いないが)親しい人は多くない。
そんな彼女と、やけに親しげだったってことも、あのユイ、ちゃん? に興味を持った理由のひとつだった。あの長谷川さんとあんなに親しげにするこの娘は何者だ? って。
でも、今は――なんだかぎこちない。とりあえず並んで歩いているけど、微妙な距離がある気がする。何かを話している様子もないし。
駐輪場に着くまでずっとそんな感じだった。長谷川さんが自転車を出すのを待って、それからまた二人で歩き出してからも、それは変わらなかった。
二人が歩き出した方角は僕の家とは逆方向で、でも塾に行くとき通る道だったから、よく知っていた。途中に大きな公園、
というか広場があった。……そこでボールを蹴ったこともある。
交差点の信号待ちで二人が止まった。今まで、ただ前を向いて(もしくはうつむいて)歩いているだけだったのに、ユイ、ちゃんの顔が長谷川さんのほうを向いた。何か話しかけたのだろうか。二人の周囲からはすでにかなり人が減っていたので、声が聞こえる距離くらいまで近づいても大丈夫だろう。
「――じょうぶだよ」
「あんたの大丈夫が信用できたためしがあった?」
ユイちゃんの顔が正面に戻る。後ろからだと表情がわからないから前に移動した。こういうとき、この体は便利だ。後ろ向きに進んでも障害物を気にする必要がない。
「どうせ誰も本なんて借りに来ないでしょ?」
ユイちゃん、苦笑。「でもたまにいるよ」
「たまに、でしょ。いいじゃん。先生にでも任せとけば」
「……そういうわけにも、いかないよ。それに――」
今度は長谷川さんがユイ、ちゃんのほうを向いた。そのとき、信号が変わった。彼女、が歩き出したのを見て長谷川さんも歩き出す。
「家にいても、気が滅入るだけだし」
それを聞いて、2、3歩歩いた後「そっか」とだけ呟いた。それきり二人はまた黙って歩き出した。
その後、僕はずっと後ろ向きで進んでいたんだけど、途中、突然看板が目の前に現れて遠ざかっていったのを見て、また二人の少し後から前を向いて付いていった。心臓止まるかと思うくらいビビった。
やがて二人は立ち止まったのは、白い外壁の二階建ての家。彼女が片手を挙げて「じゃあ――」と言いかけて止まった。長谷川さんはうつむいたままで、何か考えているような表情。
「ねえ」
「何?」
「ちょっと、寄ってってもいい?」
彼女はほんの少し疲れたように笑って、「いいよ」と言った後、家の中へ招き入れた。どうやらここが彼女の家らしい。僕はもう一度その建物を見上げた。
……どうする?
どうする、って――?
勝手に入って行ったって、誰にも怒られない。気づかれない。誰にも見られない。
でも――僕は見ている。
はたから見たらただ突っ立っているだけだったけど、僕の内面はかなりぐるぐるしていた。目の前にエサが置かれて「待て」をしている犬みたいに。
何かキッカケがあれば、僕はそのドアをくぐったと思う。でも、そのキッカケはいつまでたっても訪れなかった。だから僕は入れなかった。だから僕はそこから立ち去るしかなかった。
「ヘタレ」
そんな死神の声を聞いた気がした。
風のように空を漂いながら今日得た情報を整理する。
1. 彼女の名前は、『早瀬ユイ』。
2. おそらく図書室の貸し出し係(文芸部? 図書委員?)。
3. やはり長谷川真琴の友達。
4. 彼女の家の場所(苗字はこのとき表札から判明)。
初日にこれだけわかれば、充分だろ? どこに行けば彼女に会えるのかもわかった。ほかの情報はこれからいくらでも知るチャンスがある。焦ることは無い。
そう言い聞かせながら、僕の心はまだあの家の前に立っていた。あの家の扉を見ていた。その向こうを知りたがっていた。後悔があった。
ただ、誰にも咎められないからといって、欲望の赴くままに他人のプライベートに土足で踏み込んで行かなかったことは評価したい。そんな言葉で自分を慰めた。
でも、真実がそうじゃないことは僕自身、一番良くわかっている。
なんでもいい。気を紛らわせたかった。
君の手を 第5章
≪第5章 終≫