ツインズバインド

クダラレイタロウ

  1. prologue・るん
  2. 第一章・笑美
  3. 第二章・涙
  4. 第三章・笑美
  5. 第四章・涙
  6. epilogue・エン
  7. 外伝~清廉な朝
  8. 外伝~無自覚

大学の卒論です。文字数が20000字という制限があったのですが、大幅に加筆修正してこの状態になっています。

prologue・るん

 翳(かざ)された手が頬に触れたその瞬間、そっか、行くんだって悟った。エンは、事前に言葉で何かを僕に伝えた訳じゃない。だけど、分かった。エンはこれから、ここを出ていく。喉に閊(つか)えることもなく、事実が胃の腑に落ちていく。背を向けた気配に従い、目を薄く開けると、肩に大きな鞄を提げたエンの背中が見えた。正しい。その背中を見て、そう思う。この感覚が揺らぐことはきっとない。
 断言する。止めることは、できた。がばり起き上がって、驚いたようにこちらを振り返ったエンをあっという間に捕まえて、行っちゃだめだって耳打ちする。聞く耳を持たないようなら音を立てるか、声をあげて、両親を叩き起こしてしまえば、彼女の計画はあっという間に頓挫する。自分がラストラインだって言う自覚が、意識をはっきりさせた。だけど、僕は動くことすらせず、自分にそっくりな姉の背中を見送った。

第一章・笑美

 夢じゃなかった。そのことに、どうかと思うくらい安心してしまう。

無人駅のプレハブ小屋の前で、青白い街灯の光を浴びているあの人は、寛軌(ひろき)先輩で間違いない。私の、寛軌先輩。思うと、頬がかあっと熱くなった。しなやかで薄いボディーラインに沿う黒い革のジャケットが、街灯の光を鈍く返している。近付いてくと、気配を感じたのか、先輩はくるりとこちらに顔を向け、表情をまるで春を迎えたような笑顔に変えてくれる。安堵したように、私の名前を呼んだ。
「笑美(えみ)」
 とろみのある、男子高校生らしくない声。そこに滲む感情の名前に、心が躍る。すかさず先輩は二枚ある切符の一枚を私に差し出した。東京の名前は印字されてないけど、そこに書かれている藤白(ふじしろ)駅から東京行きの電車に乗れば、午前中には東京に着く。本当にこの人は、私をここから連れ出してくれるんだって思うと、飛び上がりたい気持ちになった。

大島(おおしま)寛軌先輩。私と同じ高校に通う、一個上の先輩。喋ったことは何度かあって、かっこいいなっては思ってたんだけど、地味に人気ある人だったから、まあお付き合いするのは無理だろうなと思って、諦めていた。だけどある時、友達にファンがいなくて、だけど好きすぎて結局、一人で行っちゃったサカナクションのオールスタンディングのライブに、先輩も私と同じような理由で一人で来てて、一緒に観ることになるっていう偶然にお互い運命感じて、つきあうことになった。先輩といると、嫌なことが全部忘れられた。絶妙に邪魔くさい校則と、女子同士の付き合いが苦痛でしかない学校生活とか、意味不明な厳しさをぴしゃりと与えてくる親(よって、先輩とのことはトップシークレット)のこととか全部。でもつきあってくうちに、案外このヒト鈍いくせにナルシストっぽいんだなって言うのにだんだん気付いて、それがちょっとやだなって思い始めてたんだけど、東京に一緒に行かないかって誘われたことで、そのへんが全部チャラになった。
 これもつきあってみてから分かったことなんだけど、私と先輩の共通点は、サカナクションのファンだってところだけじゃもちろんなくって、親とそりが合わないってところがおんなじで、しかも、よくできる兄弟をもったばっかりに、比較されまくってるとこまでおんなじだった。
私には双子の弟がいて、あんまりにもその弟ができた子に育っちゃったが為に「それに比べてどうしてお前はそうなんだ」って何回言われたか分からない。特に父親の保(たもつ)は切実に訴えるような言い方をしてくるから、なおむかっ腹が立ち、関係はひどく悪い。家に居づらいレベルで。先輩にも優秀なお兄さんがいて、大学の薬学部を出た後、今は薬剤師をしているんだとか。先輩はあんまり話そうとしないけど、境遇が似てる分、何を言われてきたかは想像がつく。私たちの高校は、滑り止めとして名高い所謂(いわゆる)バカ校だし。境遇が似ているからこそ、私たちはここまで結束を強めることができたんだ。
先輩が昔からお世話になっているらしい漉磯(すくいそ)先輩っていう珍しい名前の人が東京にいて、その人はすごく先輩の事情に理解があるらしくって、東京に逃げて来られるような態勢を整えてくれたらしい。しかも、私って言うおまけがついてっても大丈夫って言うから驚きだ。二人ともできる限り早くバイトを見つけて出てくことが、住ませてもらう条件らしい。私たちがこの条件を飲まない訳がなかった。今現在三年生である寛軌先輩の高校卒業まで待ってもいいって言う漉磯先輩の言葉も遮って私たちは、冬を迎える前に、と行く意志を示した。私たちが目指すのは、一刻も早い自立なのだ。自立さえしてやれば、さんざん私たちを馬鹿にしてきた親たちを見返してやれる。自立して、いつか二人で幸せな家庭を作る。そして生まれてきた子どもたちには、私たちのような気持ちは絶対に味わわせない。私たちはそれを二人のゴールに決めて、結束を強くして、今日のこの日を迎えた。

 炭酸のペットボトルのフタを、満を持して開けたような音を立てながら、電車のドアが閉まる。ひとまず、その音を止むのをじっと待つ。くん、と電車が動き出す感覚が全身に伝わると、私はふぅ、と濃い息をついた。ここまでくれば、万が一、家出がバレて保が追っかけてきたとしても大丈夫。きっと、逃げ切れる。見慣れきって反吐が出そうな街並みが横にするすると滑り始めると、心配だった気持ちはここから出られるんだって言う実感へと、リトマス試験紙くらい急激に移り変わっていった。駅周辺だってのに、見渡せるのはせいぜい三階建てが限度のがらがらとした建物の群れだけ。これでは、時間帯問わず賑わいというものを寄せ付けそうにない。実際、人が通ることは殆どと言っていいほど、ない。まあ、券売機と改札一台だけが置かれた狭いプレハブ小屋の前に、町が栄えるはずもないよなと思い、私は窓外の光景を鼻で笑い飛ばした。
「名残惜しい?」
 景色を見渡した後、俯いた私を見て、先輩がチョーゼツ勘違いをする。こういうとこが、先輩は鈍い。よくもこんな的の外れたことをどや顔で言えるなあ、と意地悪に感心する。私はもっかい大きく鼻で笑う。
「違う。このしょっぼい町からいなくなれるんだって思ったら、嬉しいの。ありがと、先輩」
 感謝の気持ちを込めて、先輩の左のほっぺたにキスを置いた。先輩の、もちっとした頬の肉と、私のくちびるがふぅわりとぶつかる。始発の電車の中に、人はいない。

 電車は走る。私たちを、家や故郷から引き剥がしていく。私は自由。あの檻には、もう縛られないでいい。きっとこれから、自立するのにいっぱい苦労があることは予想できるのに、出発駅からどんどん離れていくにつれて、胸の閊(つか)えが少しずつ取れていく感覚があった。
 まだまだ旅は長い。私はハンドバッグから、手帳を取り出した。ゴテゴテにゴシックピンクを基調にデコった手帳を開くと、写真が出てくる。持ち上げる為に、淡い水色の台紙を爪でひっかいて、写真の淵をばいん、とさせて写真の裏に指を入れる。そこに映る、私の唯一の心残り。家出する直前に、適当な理由をつけて一緒に撮った写真。わざわざインスタントカメラで撮ったやつだ。写メだったら楽だったんだけど、ドコモのケータイのメンテを代行する下請けの会社に勤めてる保(しかもそこそこ重役らしいからなおさら怖い)のせいで、ケータイは何か持ってるだけで不安になるから、初期化だけして部屋に置いてきた。顔がよく似た私と、不審げに並ぶ弟。るん。
 保の何とも残念過ぎる感性のせいで、涙と書いてルイと読むイタい名前を付けられた可哀想な男の子。それへの反骨精神からかは分かんないけど、ノーテンキで底抜けに明るい性格に育った。小っちゃい頃、私にはそれがるんるんしているように思えたので、私は『るん』と呼ぶようになって、いつしかそのまんま定着した。対抗意識を燃やしたかわいい弟は、当時泣き虫だった私を、エンエン泣くからという理由で『エン』と呼ぶようになった。それを聞いた保が、俺がつけた名前をぞんざいにすんなって怒り狂ったので、保とママの篠美(しのみ)ちゃんの前ではお互い呼ばないんだけど。
県外の地方都市にある進学校で一番を取るような優等生のるんと、地元のバカ高に通う私。親に限らず、親戚だとか色んな人に比較されまくったけど、るんのことは別に恨んでない。イヤミなとこがなくて、天然な明るさがあるるんは、比較されて泣く私をいつも慰めてくれたから。僕は勉強しかできないけど、エンには他に色んないいところがあるのにね、とか言いながら。保や篠美ちゃんともそれなりにうまくやっているみたいだけど(特に篠美ちゃんはるんラブで、るんに超甘く、エコヒイキが結構エグかったりした)、るんは私の味方だった。でも、いい子だからきっと私が駆け落ちすることを知ったら、いい顔はしなかっただろうから、申し訳ないけどるんにも黙って出てきた。私はきっとこの先、この写真を何回も眺めることになると思う。携帯の番号とメアドは写真の裏にメモってるけど、会うのはたぶん、難しくなると思うから。
「わっかんねえ」
 横で寛軌先輩が苦々しく呟いた。顔を向けると、先輩が嫌そうな顔をしながら私を見てた。
「何でお前、弟の写真なんか持ってくんの?」
 先輩と私の、思いっきり真逆なところ。それは、比較対象とされている兄弟と、仲がいいかどうか。先輩は、お兄さんともそりが合わないらしい。小さい頃からそうだからなのか、兄弟同士の仲がいいっていうシチュエーションが、どうも気持ち悪いらしい。何か先輩の偏ったジョーシキを勝手に押しつけられた気がして、ちょっとイヤな気分になったけど、こんな駆け落ちの道中で険悪になるのは良くない。私は手帳をぱん、と閉め、ごめん、と謝った。
感情を押し殺して、ただ謝るのは偏屈で高圧的な保のせいで慣れっこだ。あいつはよく素直に謝れ、と言ってきていた。だけど、素直に自分の気持ちに従っていたら、謝れるはず、ないんだよな、と思う。謝りながら、それを思い出す。
ここに挟んだ弟と会うのは、先輩が見てない時にしよう。それで済む。

 家出をするのは久しぶりだった。
 家出って、親を心配させる為にするものだってよく言うけど、私の家出はいつもちょっと違った。保とは文化や根本的な考え方が違う人間って感じで、不意に諦めのような気持ちが心を支配してしまい、同じ屋根の下にいるのが本当に、本当に馬鹿らしくなるんだ。しかも家を出た私を迎えに来てくれるのは、絶対にるんか篠美ちゃんだ。保は当たり前のように迎えに来ないし、帰ってきて反省しきっている私にも、容赦なく説教を垂れる。
どうしたらこの人は許してくれるのか、放っておいてくれるのか。一時期、本当に悩んだ。

 その気持ちが顕著に現れた家出は、中学三年生の時のことだ。
 私の中学には弁論大会があった。夏にみんなで作文を書く。テーマは縛りがなく、殆ど自由。長さは作文用紙二枚から五枚までのあいだ。みんな書き終わったらクラス内でまず発表して、多数決で一番良かったやつをクラス代表として選出する。クラス代表が決まったら、今度は学年全体で集会を開いて、クラス代表の作文を、みんなで聞く。そして、その中で一番良かったやつをまた学年全体で投票して、選ばれたやつは学習発表会で、学年代表として発表するという、割と大きいイベントだった。勉強もそんな得意じゃない私だったけど、国語の成績は弟ほどじゃないけど比較的良くって、作文を書くのはそんな嫌いじゃなかった。代表に選ばれるのを期待していた訳じゃないけど、自分なりに満足できるものを書きたくて、かなり頑張って書いた。知識が足りないところは自分で調べたり、弟に教えてもらったりして書いてった。そしたら、ありがたいことにクラス代表に選んでもらえた。内容が良かったというよりは、クラスのみんなが、私がこういうので珍しく頑張っているのを買ってくれていたらしかった。
 クラス代表戦のメンバーには、るんもいた。まあ、るんには敵わないよなあ、と思って、集会に臨んだら、なんと私たちはワンツーフィニッシュを飾ったらしい。るんが一位で、私が二位。るんは戦争と人権の話、私は双子の話。社会と理科って感じだね。そしたら、校長先生が学習発表会で二人とも発表しましょうって提案してくれて、三年生だけ特別に私たち二人で発表させてもらった。学習発表会は演奏とか劇がメインで、弁論大会はいつもオマケな感じだったのに、双子でやるって言うのがやっぱり物珍しかったみたいで、町内に貼って回る学習発表会のポスターに双子発表の文字が入るくらい、目玉企画にのし上がっていた。
 篠美ちゃんは隣近所や、同級生のオカーサンたちに鼻をぐいぐい天高く伸ばして自慢していて、ちょっと恥ずかしかったけど、当の私たちも案外、悪い気はしていなかった。
 篠美ちゃんがそんな調子だった一方で、弁論大会の最中、保は名古屋に三か月だけ出張していた。保のいない生活はまさに天国で、篠美ちゃん含む私たち三人はのびのびと生活していたんだけど、保は学習発表会の少し前に出張を終えて帰ってきた。
「ねえ、お父さん、ルイとエミがね」
 篠美ちゃんは、帰ってくるまでお父さんには内緒にする、びっくりさせよう、とうきうきしていた。保が帰ってきて、満を持してと言わんばかりに、久しぶりの家族揃っての夕食だねってタイミングで篠美ちゃんが種明かしをした。もし良かったら、学習発表会の日は有休を取って、一緒に観に行かないか、と誘おうとも考えていたらしかった。
 しかし、保の返答は私たち三人が予想していないものだった。
「あ? お前、そんなことに感(かま)けさせて、受験勉強はサボらせてたって言うのか」
 腹立つくらい保に従順な篠美ちゃんだけど、この時ばかりは顔を凍らせた。その反応を図星と取った保はふざけるな、と罵声を浴びせた。
「その間に勉強させていれば、ワンランク上の高校を目指せたかも知れないだろう! そんな内申くらいにしかならないことを、なんでお前は」
 私たち二人もいる席で、保はそう怒鳴った。でも流石に篠美ちゃんも今回ばかりはやっぱり納得がいかなかったらしくって、珍しく言い返した。
「でも、お父さん。この子たち、頑張ったのよ。二人で、力を合わせて」
 篠美ちゃんが弱々しく、たどたどしくそう言うと、何故か保が鋭い眼差しのまま、くるっと私とるんの方を向いた。視線だけで肩がびくっと跳ね上がるのは、癖みたいなものだった。
「なあ涙、そんなところを助けて何になるんだ。何故、勉強を教えてやらない? 笑美も何だ、そんなことやってる暇あったら、ランクの一つでもあげられるだろう」
 何が頑張っただ。そう言い捨てた保のおかげで、久しぶりの一家団欒は最ッ低の空気になった。信じられなかった。保のことだから、褒めることはしないかも知れない、とは思っていたけど、何故、怒鳴られなくちゃいけないのか。こんな最低な空気に晒されなきゃいけないのか。
 私たちは、私は、あんなに頑張ったのに。
 思うと、はっきりとした舌打ちが出た。イッツ、オートマティック。水を打ったような静けさの中に、その音だけが響く。
「なんだ、その態度は」
 私の舌打ちに敏感に反応を見せた保に、持っていた赤い箸を投げつける。私はそのまま家を飛び出した。こんな場に、家にもういたくない。息苦しい。

 その後、どんな経緯で家に戻ったか、どう保に許されたかは、もうあんまり記憶にない。でもあの日、家に戻った後、保にやっぱり説教を垂れられたような気がする。当然、謝られる訳はなかった。あれから私は一度も、保を許せないでいる。それからずっと家の中にいる私はずっと、ずっとずっと息苦しいままだった。
 今回も、確か、あの時も。心配なんて、して欲しくもない。探さないで欲しい。もう、あれとは関係ない人間になる為に、私は家を出たんだ。

 二人とも早起きが祟(たた)ってうとうとしてた頃、電車が終点に着く。ここまではデートとか、コスメや制服のブレザーの中に着るカーディガンなんかを買いに~とかでよく来るし、保の勤め先の最寄りでもあるし、るんに至ってはここから県を跨いで学校に行く。目が飛び出そうな額の定期を、毎月貰ってるはずだ。こっから私たちは、東京行きの特急に乗る。二時間半も乗ってれば、東京駅だ。そこから山手線に乗り換えて漉磯先輩の部屋の最寄りへ、って流れらしい。すぐ無くすからって理由で、ここでようやく東京の名前入りの特急の切符を渡された。どことなーく抜けた先輩だけど、物の管理はうっかり者の私よりはマシだから、お任せしてる。最初、顔だけ見て釣り合わないよな……と自信を無くしてたけど、今思えば私たちはどっかネジが緩い者同士、お似合いなのかも知んない。
「あ。先輩からだ」
 寛軌先輩が、ぶんぶん鳴ってる電話を取る。これからお世話になる漉磯先輩に、私は会ったことがない。ちょっとの間でも同じ部屋に住むのだから、先に一度は会っておきたかったけど、仕事が忙しいらしくて、結局実現しなかった。だから、はじめまして、と同時に生活が始まる。合わない人だったらやだな、と思うけど、まあその方がさっさと出て行きたくなるってことだからいいか、と楽観視しといた。
「ウス、大丈夫ッス。このままいけば、午前中には。……はい、楽しみにしといて下さい」
 体育の成績は大したこと無いくせに、体育会なノリで寛軌先輩が応えてる。グラウンドで体育の授業でサッカーしてる先輩を、一度教室から眺めたことがあるんだけど、見なきゃよかったって後悔した。勝手に美化してた私も悪いけど、先輩はぶっちゃけ戦力外だった。先輩のクラスはサッカー部も多いらしかったから仕方ないけど、ボールに触ることは殆ど無いし、ボールを追いはするけど、走り方もフォームがなってなかった。そこがちょっとだけ、運動音痴な愛すべき弟、るんとダブる。因(ちな)みにるんはマット運動さえ満足にできない。弟に関しては、可哀想だから勉強だけさせてあげてって思うことが何回かあった。まあ、先輩に至ってはそれも無い訳だけど。
ぶっちゃけた話、先輩は結構、顔だけだ。
電話を終えた先輩の目つきがちょっと変わる。
「お前いま、失礼なこと思ったろ」
 普段は激鈍(げきにぶ)いくせに、こういうところは見抜くんだなあって思うと、ちょっとおかしかった。自信たっぷりなのか、ヒクツなのか。男の人って分かんないなって思うけど、自由への切符をくれたこの人を、とりあえず信じたい。

特急に乗っちゃうと、もうすっかり気が大きくなっていた。こっから、保の行動範囲の外に私は行く。特急一本でつながってしまう線だけど、そっから先は、排水溝から取り上げて丸めた髪の毛みたいに、わしゃくしゃした路線の中に私は紛れてしまう。絶対あいつなんかには見つかってやらない。
目を閉じると、忌まわしい記憶がぐるぐると蘇ってくる。学校で隣の席だったマキちゃんが、聞いてもいないのに次々と他人の噂話を繰り出してくるのに似た勢いだ。
保は古いタイプの親って言うレベルでは語れないくらい、変に厳しい父親だった。受験以外のことを頑張っただけで、あんなに激怒する保は小学校の時からモーイを奮っていて、勉強が苦手な私に、真横で飄々と百点を取りまくるるんと同じように、私も百点以外のテストは許してくんなかった。今時、テストがすべてな訳もないことは、小学生でも知ってる。弁論大会の一件以外にも、いくつかこれまで頑張ったことはある。毛筆で書いた俳句で金賞を貰ったり、運動会のリレーの選手(クラスの中で足の速い子数名だけが選ばれる)に選ばれたりとか。そういうのを保に報告してみると「その労力、勉強に還元してほしいもんだ」って始まって、ひとっ言も褒めてくんなかった。
そうだ、そう言えば保は、私を褒めたことがない。意味もなく、保が私を褒めた瞬間を探してみるけど、思い当たんない。褒めないスタンスなのは別にいいけど、一回もって言うのは流石に親としてどうなの? 褒めたら私がつけ上がるタイプだとでも思ってんだろうか。にしても限度ってものがある。勉強はるんに劣るけど、私だってそんな言うほどダメなコじゃなかったはず。運動はリレーの選手に選ばれたのもその一例だけど、そこそこできたし(て言うか、にも関わらず勉強できないって理由で塾に入れられ、部活に入らしてもらえなかった)、そうだ、実は勉強だってそんなにそんなにできなくない。面倒だし、保があの調子だから腹立ってハンコーしてあんまやんないでやったけど、中学までクラスではさほど飛び抜けて下ではなく、中の少し上くらいだった。保の求めるハードルが高すぎるのだ。よくるんと比較されてきたけど、本来、私を基準にするべきで、特別できるるんを基準にするのが間違ってる。そうだそうだ、結局、本当に言われるのが嫌でしょうがなくって、楽に上位とか百点を取れちゃうって理由で今の高校に入ったんだった(結局、百点とか取っても保は、こんな簡単なテストで得意になるなって鼻で笑いやがったんだけど)。バカ校っつっても就職に希望がない訳じゃ全然ないから(当然、将来はさっさと家を出てやるつもりだったから、進路は県外に就職希望にしてた)、別にいいやと思って。
クソオヤジが。心の中でツイートする。あの檻から出て、冷静に考えてみると、いかに自分がバカげた劣等感を持って生活していたかが分かって、うんざりする。
「お前は器量も良くないし、顔も大したことないんだから、勉強くらいどうにかしろ」
 確か、小学校低学年くらいの時に保から言われた、デリカシーの欠片もない言葉。ざまあみろ。器量もよくなくて、顔も大したことないお前の娘には、東京に連れてってくれるこんなにかっこいい男の子(あくまで顔だけだけど、そこにはタッチしないで!)がいるんだぞー、だ。走り出した特急の揺れと共に、高揚感が私を包む。だけどその高揚感もすぐに薄れた。馬鹿か私は。さっきから。もう二度と会うことのない父親のことで頭がいっぱいだなんて。もういい、保のことなんて二度と考えない。保にただただ従順なだけの篠美ちゃんについても以下同文。あんな女に、私はならない。ゼッタイに。私の家族は今のとこ、るんだけ。これから一緒に自立を目指す寛軌先輩は、予備軍ってことで。

 駅の中なのに、東京駅は見上げるようだった。人が、とにかく目まぐるしい。人に酔うってよく聞くけど、その意味がよく分かる。じっと黙ってこれを見ていたら、確かに酔っちゃいそうだった。だけどこんなに人がいっぱいいるのに、この中に知り合いは一人もいない。その事実が、私の自由の象徴だった。地下鉄なのかJRなのかも分からないさまざまな電車に乗り換えると、おばちゃん二人がさほど大きくない声で話していた。おばちゃんなのに、標準語。私たちの住む地域はあんまり訛(なま)りがきつくなくって、何が方言でどれが標準語なのか線引きがアイマイだったりするんだけど、やっぱり一定の年齢を越えてくると、訛りが目立ってくる。個人差はあるし、偏見がある訳ではないけど、何となく物珍しく聞こえる。うきうきと周りを見渡す私を見て、寛軌先輩もるんの写真の一件は寝て忘れてくれたらしくて、にこにこしていた。特急で爆睡していた私たちは、すっかり元気になってた。
 駅からバスに乗って二十分、そこからまた五分くらい歩いたところが、漉磯先輩のアパートだった。驚くくらい、外観がキレイだった。だけど立地も交通の便もあんまり良くないから、家賃はそんなに高くないらしいぞって言う説明を寛軌先輩から受けながら部屋を目指すと、漉磯先輩は部屋の前で待っていてくれた。外観を裏切らずに、部屋の中もかなりキレイだった。漉磯先輩自体もキレイ好きな人らしい。キレイですね、って言うと、まあ確かにここはキレイな方かもね、って妙に大人びた返しをされた。
「来て早々申し訳ないけど、二人とも適宜バイトは探してくれよ。いつまでも置いとけないからね」
 ちょっとガラの悪い寛軌先輩がなついてるって言うんだから、そこそこガラの悪い人を想像してたんだけど(まあ見た感じはそのイメージで間違いないけど)、何だかかなりスマートな人っぽい。例えば寛軌先輩は『適宜』なんて言葉は使えない。意味も、ニュアンスが理解できてるか、いないか。漉磯先輩を見て、るんを思い出す。スマートなところを見て何となく連想したのと、適宜って言葉の意味を教えてくれたのがるんだったからだ。中学生までのるんは、勉強をあんまりしなかった私の知識とか成績とかを、だいぶ引き上げてくれたと思う。寛軌先輩からは、めっちゃ大人な人、って言うあんまり参考にならない物凄ーくぼやっとした説明を受けていたけど、確かにそれは間違っていないみたいだ。感覚的な印象って、案外馬鹿にできないよな、と思う。顔はあんまりタイプじゃないけど、寛軌先輩よりしっかりしてそうで、何か頼もしい。漉磯先輩の忠告通り、長居しないよう最大限、努力するつもりだけど、ひとまず合わなそうな人じゃなくて良かったなあって思って息が漏れる。
 そんな評価を下していたその時だった。漉磯先輩がしゃっ、とカーテンを引いた。向かいの建物が近いなあ、って思いながら見てた景色が勝手に遮断されてしまう。
「じゃ、始めようか」
 漉磯先輩が、無遠慮な様子で私に近づいてくる。あからさまにきょとんとしたであろう私の顔を強く見たかと思うと、あれって言って首を傾げた。
「もしかしてお前、このコに説明してないの?」
 漉磯先輩の視線を追っかけるように、私も寛軌先輩を見る。ちょっと、ぎょっとした。寛軌先輩がにやっと嫌らしい顔つきになっていた。
「すんません。何か、こいつしか釣れなかったんですよ。断られたら打つ手なかったんで、黙って連れてきました。でも……先輩もこういう方が、よくないすか?」
 声を受けた漉磯先輩の顔も、嫌らしい感じになった。つい一瞬、二瞬前まで、スマートな感じだったのに。その顔つきに釣られたような軽薄な声が、漉磯先輩から漏れた。
「無理やりな、感じ?」
 地獄の始まりだった。


 るん、助けて。
 寛軌先輩に気持ち悪ィんだよ、と引っ叩(ぱた)かれても、私はそればかり繰り返してた。来てくれる訳もない、私の唯一の家族。ひたすら気持ちが悪くて、ひたすら痛くて、目が溺れたみたいに涙を滲ませた。涙を意識した時、やっぱり弟の顔が浮かんだ。まさに名前の妙。涙とはまるで無縁な、屈託のない弟の笑顔。セックスの時に家族を思い出すのは萎えるけど、今回はすごく効果的だった。ずっとるんのことが頭の片隅にあったお陰で、身体が屈しないでくれた。痛くて痛くて、気が狂いそうだったのにも、何とか歯止めをかけられた。物理的じゃないにしろ、るんは確実に私を助けてくれてた。流石、私の唯一の家族。

「……楽しみにしといて下さい」
特急に乗る直前、寛軌先輩が電話で言ってたあの言葉。あの時は気にも留めなかったけど、その意味を今になって思い知る。どうやら漉磯先輩は、部屋に住まわせる条件を、バイトを探すこととは別にもう一つ、寛軌先輩に提示してたらしい。俺ともヤれる女を連れてきたら、ちょっとの間住まわせてやってもいい。別に、私たちの境遇に理解がある訳でもなかった。ただ、サイテーなだけだった。
 別に処女じゃないし、寛軌先輩の前にも恋愛経験はある。十七歳にしては豊富な方だって言ってもいいくらい。変わり種で言えば、アイドルのコスプレだってしたことあるし、これで叩いてくれと鞭(ムチ)を渡されて、言う通りにしてあげたことだってある。けど、これだけは言える。3Pももちろんそうだけど、好きでもない男に抱かれたのは、初めてだ。
コスプレも鞭も、相手のことが好きだからノッてあげた。コスプレの人なんて、かなり年上の人なのに、すっごく恥ずかしそうに、申し訳なさそうに頼んできたのがかわいかったから、してあげたんだ。
先輩の言う通り、その条件を先に聞いていたら、ここには来てたかどうかは疑問だった。元々、寛軌先輩のことは東京に連れてってくれるって言うのを除いちゃうと、若干、倦怠期にかかっていたし、多分そのうち別れていたと思う。鈍ナルシー(鈍いナルシストの略ね)なところの他にも、別の女の子ともちょくちょく遊んでることにも気付いてたし、家にいたくないからって言う理由だけで呼び出されて、何もしてくんないつまんない夜も、この人とは何度かあった。最ッ低なこの条件を知ってたら、私は生き苦(ぐる)しくてもあそこに残ることを選んだと思う。
そこまで思って、気付く。そうだ、私、ついて来ちゃったんだ。何も知らないで、先輩を信じたくて。私はもう、先輩を信じるしかなかったんだ。そう思って、改めて寛軌先輩を見る。横に転がっていた寛軌先輩は旅とレイプの疲れに負けて、気持ちよさそうに寝ていた。寛軌先輩は、どこでも寝られる。夜、私を呼び出した公園のベンチで眠ってしまった時はなかなか起きてくんなくて苦労した。蚊に食われたのを私のせいにされて、ちょっとケンカになった。罪のない風な安らかさをもった、罪深い寝顔を見ていると、げんなりする。私は、こいつと生きようとしてたのか。こいつと、家族を作ろうとしてたのか。
 ここを出てくる時、誓った夢を思い出す。
できる限り相方と対等な関係を保って、子どもには息苦しさを与えない家。それが私の夢だった。一緒に東京に逃げる話が出た時、寛軌先輩との結婚を考えなかった訳がない。先輩は鈍ナルシーかも知れないけど、基本的には優しくて、どことなーく頼りない人だから、保と篠美ちゃんみたいなことにはならないはずだ、って思ってた。しかも、先輩は私と同じで、家庭で苦しめられてきた人だ。やり口は最低だったとは言え、そうまでして東京に出てきたかった気持ちだけは、私だからこそよく分かる。先輩は半年先の高校卒業すら待てなかったくらいだし、下手をすれば私よりもその気持ちは強かったのかも知れない。
 だけど、もう無理。先輩の顔を見ながら、決意する。この人とは、別れよう。私だって、この人を少なからず利用しようとしていたのだ。言わば、その罰がこれなのかも知れない。
かと言って、私はこいつを許せそうには、ない。だったら、私はこいつを徹底的に踏み台にしてやる。ここで、東京で何とか仕事を見つけて、細々とでいいから、生きていこう。仕事を見つけるまでの間、この二人とは何とか住んでやる。利用されたっていい。組み敷かれたっていい。その代わり、こいつらには踏み台になってもらう。仕事と部屋を見つけるまでの間だけ、私もこいつらを利用してやるのだ。
るん、ごめん。お姉ちゃんはちょっとの間だけ、最低な女になります。だけどいつか、必ず幸せな家庭を作ります。うちなんかとは違う、私の理想の家族を。

第二章・涙

 エンは、とうとう見つからなかった。

 エンの家出騒動は、僕の学校に伝えていないし、親しい友人にもまるで教えていない。エンは僕の学校の生徒でもないから、特に必要を感じないし、県を跨(また)いでわざわざ登校しているのだ、空気感の変容が我が家と変にリンクされても困る。だから、地元で家出したエンの捜索を甘んじて請け負いながらも、学校に来てしまいさえすれば、そこにはいつもと変わらぬ時間が流れていた。
「おーはよっ、ルイ」
 だからって、このテンションを同期して応えられるほど、僕もまだ大人じゃない。突如、暗転した視界と、瞼の上に乗った柔らかい指の感触。乱暴に払いのけたい衝動を必死に抑えて何とか、おはよう、とだけ返す。
「どうしたのその傷」
 僕の前にぴょん、と何故かジャンプで移動した史穂(しほ)が言う。額に貼られた絆創膏をじろじろと見ている。目を隠した時に、指が当たっていたから、違和感を覚えたのだろう。反射的に息を飲もうとする身体の反応を遮るように、口を動かす。
「ああ、これ? 地元でね、近道しようと思って、久しぶりにけもの道に入ったら、枝に引っ掛けちゃって」
 垂れる前髪に隠れきらない絆創膏を撫でながら、笑顔を作る。
「最近、成績落ちちゃったからか、他に意識飛ばなくなっちゃっててさー。ほら、見て。これに至ってはどこでやったかすら、記憶にない」
 軽く腕をまくり、うすぼんやりと浮かぶ青痣をわざわざ見せつける。
「えーっ、何それ。青くなってるし。もう、しっかりしてよ。心配」
 史穂が、踊るようにぱしっと僕の腕を捕らえて身を寄せながら、校門を一緒に潜る。たくさんのことを一度にやって凄いなあと、自他共に認めるのんびり屋の僕は思う。
「そう言えば昨日、メールしたのまた無視したでしょー。ひっどいなあルイは。また勉強?」
 夜、メールを返さない弁明は、基本的に、勉強に集中したくて電源切ってた、で通す。せっかく運良くクラストップの成績を取れているのだから、それを利用しない手はない。しかも、このところはエンの捜索に時間を取られている分、成績も少し落ちていた。別段、焦りは無いがこんな時は、多大にそれを利用してやれる。
「うん、そう。ごめんね」
 唇と尖らせ、目線は下に。史穂の得意な顔だ。僕には特異に映る。おどけて見せているうちは、素直に謝っておくに限る。
「もうっ。そしたら今度の日曜日は私に使ってよね」
 上履きに履き替えながら、史穂が言う。僕は外靴を靴箱に突っ込むと、意地悪な思考に支配されてしまい、貼り付けた笑顔から無神経なくらい曇りが晴れてしまう。
「うーん、日曜だと、夕方まで、かな」
 つま先で床を突いた史穂がこちらを振り返り、色を失った目で僕を見る。そろそろ表情に余裕が無くなってきたらしい。高校に入って、とりわけ史穂と付き合い出してから解ったことがある。エンの解り易さは、意外だけど女の子全般に言えてしまう部分もあるんだなあと。
「……日曜って、夕方以降は恵泉(けいせん)の自習室も開いてないよね。家で勉強?」
 史穂が完璧とも言える笑顔を取り戻して言った。一点の曇りもない笑顔で問いかける方が、責める意味合いを持っていると勘違いしているらしい。因(ちな)みに恵泉は、僕らが通っている予備校の名前だ。
「あ、違うよ。日曜は夕方から家の用事。従兄(いとこ)が家に来るんだ」
 史穂は返事をせず、私より従兄の方が大事なのかとでも言いたげな顔をした。頭に用意した筋書きを読み上げるように、且つ、贖罪の気持ちを声に滲ませるのを意識しながら一気に言う。
「ごめん! ずっと前から約束してて。勉強を教えてもらうのと、僕の志望校に通ってる人だから、いろいろ話を聞くために呼んだんだ。なかなか会えない人だから、本当にごめん。今回は許して!」
 謝りながら歩いているうちに、教室に着きそうだった。玄関から程近い僕らの教室はまさに目と鼻の先。いいよ、とだけ言って史穂がぱっと離れる。特進クラスの教室は朝からテキストや参考書を開いている生徒が殆どで、ぴりぴりしていることが多い。だから浮かれたようにカップルで入っていくのは基本的にタブーなので、いつも別々に入っていくのが基本だ。今日はそれを言い訳のようにして、史穂は離れていった。

 日曜。具体的に何をする訳でもない、何が楽しいかまるで解らない昼間のデートを終えて、不満を押し殺してますよというのを存分にアピールした顔の史穂と別れる。史穂は僕の家と逆方向の電車に乗って帰っていくので、改札内で別れることになる。
県を跨ぐ鈍行に乗る。日曜の夕方の車内にしては空いていたが、目的の駅は二つ隣の駅なので、敢えては座らない。手持ち無沙汰になって、従姉から譲り受けた旧式のウォークマンの再生ボタンを押す。エンが出て行く前「ライブ、ちょー良かったんだからっ!」と僕に強く勧めてきたサカナクションが流れる。正直、何が良いのか分からない。雲を射抜く暮れかけの太陽光に支配された窓外に目をやっていると、いつの間にかその殆どを聴き流してしまっていて、印象にも残らないのに気付く。きっと後でこの曲を思い出そうとしても、サビを思い返すことすらできないだろうと、予想がついてしまった。
結局、一曲目が終わらないうちに下車し、改札を出る。二曲目が始まってすぐ、肩に手が置かれた。いつしか作り慣れた笑顔を象(かたど)り、後ろを振り返る。
「先生」
 もしかしたら、クラスの奴らは今の彼女を見ても気が付けないかも知れない。学校には到底していけないだろう、年齢を完全に無視したメイクとファッションで身を包み、レッドフレームの眼鏡をハードコンタクトに変えた僕の担任教師、深川が僕だけに見せる特別な笑顔を携えて立っていた。
「もうっ。先生はやめてって言ってるでしょ?」
 言いながらも、彼女の笑顔はまるで翳(かげ)らない。下から突き上げるように甘えられる快楽を知った、いい年した女の笑顔は、年齢に比例したえぐみを孕んでいる。

「それ、どうしたの」
 汗をかいた身体に、ごわごわした安物のシーツの感触がそれでも心地いい。ベッドで上半身を起こす僕の真隣にある間接照明が、裸の僕の腕を強い光で照らしていた。光源から放たれるちりちりとした熱が、僅かに腕に注ぐ感覚があった。こないだ、史穂にも見せつけた青痣を指して、深川が訊ねてきた。僕は短く、親、とだけ伝えた。史穂には舌先三寸で嘘をついても、この人には話してしまいたくなる。
 予想していた答えではなかったのだろう、驚いたように絶句した深川はしばらく硬直した後で、こちらに近づいてきて僕の隣を陣取り、斑点のような青痣に手をあてがった。小さく、可哀想、と呟く。このところ、全く安らぎを感じていなかったという事実と、その実感がゆるゆるとこみ上げてくると、僕の頭は自然と深川の膝の上に下っていった。まだ汗で湿っぽい肌が、僕の頬に水分を分ける。若い史穂とは違い、年齢豊かな深川の肌には張りが無く、汗として排出した水分を、再度吸ってしまっているようだった。
「……ずっと、こうしてたい」
 柔らかな腿の肉に重心を任せながら言ってはみるけど、もうそろそろ帰らないと、家に着くのがかなり、遅い時間になってしまう。あまりに遅いと、保や篠美に訝られてしまうだろう。きっと、数秒もしないうちに僕は頭を持ち上げて、シャワー室へ駆け込む。それがまざまざと予想できた。無慈悲に物を考える僕の頭に、月光が注ぐように深川の掌が舞い降りてくる。青痣に触れるのとさして変わらぬ手つきで、彼女は僕の頭を撫でた。一本一本が太いけど柔らかい黒髪が、指通り良く深川の手の感触を覚えていく。僕らを照らしている室内の赤い照明は、僕らに何かを警告しているようだった。

「おかえり」
 空を見上げながら、篠美が言う。僕のことは見ていなかった。かなり憔悴しているのが分かる。今日もきっと、ありもしない薄い糸を手繰りながら、エンの行方を探していたのだろう。一日丸ごとの徒労が、面持ちに現れていた。
「ただいま。……今日は、藤白まで手を伸ばしてみたんだけどね、やっぱり、だめだった」
 保の会社(保はそこで、iモードのネットワークを管理する業務をしているらしい)近くにある、この辺りでいちばん大きな駅の名前を出す。そこは僕が普段、乗換をする駅でもある。エンも登校には利用しないものの、買い物やデートをする時に利用していたはずだ。一度、一緒に逃げたのであろう彼氏と歩いているのを見たことがある。――尤も、そのことは篠美にも保にも伝えられないけど。
「そう」
 何の疑念も持たない、弱々しい声だった。結果として、一日中デートしていた今日は藤白には経由こそすれ、改札から外に潜ることはなかった。県外の高校に通っているお陰で、両親やその知人、地元の友達や知り合いに目撃される心配もない。深川に関しては、クラスメイトの目に触れることも許されないので、待ち合わせる駅を変えている。深川については当然のことだが、史穂の存在についても僕は、保はもちろんのこと、篠美にも伝えていない。
 ――この秘密があれば、大丈夫。
 何の後ろ盾も根拠もないのに、ついそう思い込んで安心してしまう。このところの僕の悪い癖だ。
 すぐに部屋に引っ込もうと思った。しかし、タッチの差でそのタイミングは奪われる。
「……私の何が、いけないって言うの」
 脈絡も失ってしまうほど行き詰ってしまっている様子の幕開けにうんざりしながら、それでも振り向く。母のそれは独り言のような物言いだけど、それは確実に僕に聞かせる為の言葉だった。
「あの人の言う通り、やってきたのに。なのに、どうしてあの子はいなくなるの。どうして私が責められなきゃならないの」
 声に、少しずつ力が加えられていく。叫ぶような音量に達する前に、言葉が終わる。黙って二階に上がったって良いんだけど、それをしたら、この人は。そう思うと、足が動かない。
 篠美が立ち上がる。それだけで、息を止めるような気持ちになった。ここからの件(くだり)はもう、終わりを待つばかりのルーティンワークのようなものだったから。
「ねえ、ルイ。答えてよ」
 予見する。今日も僕の身体に、何かしらの傷が残る。けもの道で枝に引っ掛けたと誤魔化した額の切り傷は、頬を打ったこの人の爪が額の薄皮を通り過ぎてついたもの。理由すら解らないことにした腕の青痣も、投げつけられた灰皿が直撃してできたもの。全て、この人の仕業だ。エンが逃げ出したことについて毎晩のように保に責められ、詰られ、それを黙ってただ耐え忍ぶ篠美が後になってから僕に吐き出す、全ての罪の証なのだ。

 虐待なんて言葉を、使う気力も起きない。エンの失踪に起因して、結局は保によって引き起こされている不安定は、止めようと思えば止められる。筋肉に乏しい細身とは言え、もう僕も高校生だ。五十代に差し掛かろうとしている、頭一つ背の小さい母を、抑え込めない訳もない。
 こんな風に篠美が不安定になるのは、実を言うと今に始まったことじゃなかった。幼い頃から、保に何か言われるたびに、この人は殆ど言い返すことなく、ただただ胸の裡から湧き上がっているであろう言葉を飲み込んできた。詰られて俯いた篠美の視線の冷たさを、小ささ故に見上げていた僕はよく知っている。言い返したケースも何度か見たことがあるが、残酷なまでに百倍の勢いで押し返されてしまい、なおのこと篠美の中に多くの言葉を滞留させてしまった。篠美も、それをうまく吐き出せないタイプの人間なので、二人の言い争いは、決まって篠美にとって悪循環を極めるものにしかならなかった。
それが僕に発露する頻度は、そう多いものではなかったが、ある程度僕の中で類型化できるくらいの頻度ではあった。篠美が僕にだけ発露する、心の腑に眠らせていた負の感情。エンは無邪気に、お母さんはるんに甘い、といつも頬を膨らませていた。その甘さの裏で僕が篠美に何をされているのか、エンは知らないのだ。それはまた同時に、エンに発露している様子は、まったくないということでもあった。それを除く篠美への不満も、保に従属していること以外に言及していなかったので、間違いないと思う。僕らは双子なのにも拘らず、何故エンには手が伸びないのか。長いことやられているだけあって、それも何となく解っている。単純にエンが女の子だから、と言う単純なことでは決して、ない。
篠美は、僕が保に似ていると確信しているからだ。
篠美にとって、僕は保の分身。だから、溜め込んでいたものが行き場を見失って発露しているということだけではなく、僕を見ると、条件反射のように保への憎悪が再燃するらしいのだ。
「あなたのそういうところ、お父さんそっくりよね」
 言われるたびぞっとするのだが、僕をただ叱る時や、日常の会話の中でもその言葉は出てきていた。切羽詰まった時も、その意識が呼び起こされてしまうのだろう、決まって篠美は僕の前だけで顔を歪めるのだ。どうして、とこぼし始め、間もなく手を出してくる篠美に、僕は当初、謝ってばかりいた。叩かれるたび、身体を揺すられるたび、ごめんなさい、とそればかり呟いていた。ごめんなさいお母さん。ごめんなさい。ただ謝ることしか、できなかった。身代わりのように、僕を掃き溜めにする母親の醜い弱さになんか、幼い僕には気付けるはずもなかったから。

 涙が落ちるのが合図だった。篠美が泣き崩れてさえしまえば、手は止まる。しゃがみ込んでしまうと面倒なので(一度や二度ではないが為に、知ってしまったやるせないノウハウ)立ち尽くしているうちにすかさず手を引く。嗚咽を漏らしだした篠美を、僕は無言で寝室へ連れていった。ベッドの上に座らせてしまえば、あとはもう知ったことではない。まだ乱れた心が整わないままの篠美を残し、寝室を後にした。
 寝室の戸を閉め、打たれた頬を押さえながら、考える。あくまで無抵抗に母親の責めを受容すること。これは、優しさなどでは決してない。正しさを携えて拒んでしまえば、また篠美のフラストレーションは溜まる一方かも知れないが、別に抵抗したっていい。殆どの子どもがそうすると思う。それこそが、正しい。ただ他でもない僕がそれをすると、保と同じだと言われてしまいかねない。それに、僕は心のどこかで待ち望んでいる。篠美が、やり過ぎてくれはしないだろうか、と。病院にかかるような怪我をさせられるとか。篠美の不安定を目の当たりにして息を止めるたび、決まって心の奥底から浮かび上がる言葉がある。
 ――いっそ、殺してはくれないだろうか。
 そうしてくれれば、と切に思う。殺される義理なんてないし、僕だって人間だから、いざとなれば本能的に抵抗はすると思う。だけど、思ってしまう。それくらいしないと、保は気付かない。篠美も気付かない。
 この家族は、完全には壊れない。
 居間に戻ると、ちょうど保が帰ってきた。舌打ちが出そうになる。今夜はいちいちタイミングが悪い。
「おかえりなさい」
 流石にもう、部屋に戻りたかった。篠美にリモコンを投げられて、被弾した右肩が痛かったし、そもそもその前に二人の女性を相手にしているので、疲れていた。不満を滲ませる彼女、はしゃぐ担任教師、泣き狂う母親。うち二人は自分で選び取って相手しているとは言え、流石に疲労が募っているのは否定できない。だけど、保もまた僕を呼び止める。最後の砦、と意識して対峙する。
「今日、藤白に行ったんだろ。どうだった?」
 うんざりする。芳しい結果があれば、すぐに連絡するに決まっているだろうに、何でわざわざここで答えてやらなくてはならないのだろう。そんなに娘が気になるなら、悠々と日曜出勤していないで、自分で探せ。
「何も、解らなかったよ。遠くに行っちゃったのかもね」
 吐き捨てるように言ってしまったのにすぐさま気付き、心の底から後悔する。表情のなかった保の顔が軽く歪む。
「お前、真剣に探したんだろうな。あ? いいか、元はと言えばお前や母さんがしっかり見ていないからこうなったんだぞ」
 あ? という威圧的な、もはや意図すらない口癖に理屈でない嫌悪感を覚えながらも、同時に吹き出しそうになるのを、必死で堪える。これを本気で言ってくるのだから、本当に呆れてしまう。保を嫌悪し、避け、言葉を交わすたびに僕に泣きついてきた哀れなエンの姿が思い出される。言ってやりたい。全ての元凶は、お前だと。嘲笑ってやりたい。
「ちゃんと探したよ。笑美が行きそうなとこも行ったし、あのあたりに住んでるって言う友達のところも当たった。でも何にも無かった」
 可笑しいのを必死でこらえ、流石に顔は背けながら演技した。裏取りなんてしないだろうし、これまで僕もある程度真剣に映るように協力してきたから、ここまで言ってしまえば保も文句は言えないはずだ。最後まで気は抜けなかったが、今日はそれ以上追及されなかった。
「ったく、家族が一人、いなくなったって言うのに」
 ぶつぶつと、保は最後まで文句を垂れながら寝室に戻っていった。その先はドアが遮って、耳まで届いて来なかった。
 ――知ったことか。家族のことなんて。
 エンのおかげで、完膚なきまで家の中はぎすぎすしている。しかし、正しいのはエンだ。こんな家、捨てて当然だ。この後、また保が篠美に何か言うのかも知れないと思うと、嫌な気持ちでいっぱいになった。
「家族なんて、糞喰らえだばーか」
 保を真似て、僕もひと言吐き捨てて自室に戻った。

 僕にとって、家族とは所謂〝型〟でしかない。保の身勝手な思想によって形成される、がちがちの柔軟さのまるでない型。ほぼ保任せな篠美は、その形成にまるで関わっていないし、子どもと言う役割であるが故に、僕とエンはそこに参加させてももらえない。我が家の型は支配に満ちている。
ご飯を食べさせてくれているから。多大な痛みを伴ってまで産んでくれたから。そう言った誰一人として逃れることのできない理由で、果てしなく感謝を尽くす上に、大きな方針やライフスタイルに至るまで、従属しなければならない、親と言う存在。僕らはその絶対的な縛りを常に意識させられ、自らの運命を否が応でも委ねなくてはならない。弁論大会や運動会のリレーにひとかけらの価値も置かない保に、エンの努力は一つも響かない。だから労いの気持ちも湧かないどころか〝学力〟というあまりに偏った彼の中での絶対的価値を、押しつけるかのように怒鳴りつける。その絶対的価値に見合った能力を、幸か不幸か身に付けることができているだけの僕は、咎められない。但し、咎められないと言うだけで、特段、称賛されることはない。何故なら、僕がやっとのことで果たすこの学力は、彼の中では絶対条件なのだ。価値があると言う言い方には、語弊があるかも知れないほどに。
「勉強ができるからと言って、社会で通用するとは限らないからな。勉強できるくらいで、図に乗るなよ」
 保は昔から、これをよく僕に指摘した。特に百点のテストを報告の為に持っていった時なんかに。頑張ったんだよと、それが結果につながったんだよと純粋な気持ちで伝えたかっただけで、別に図に乗っている訳ではなかった。自分はこんなにできるんだと言うことを誇示したい訳ではなかった。お前は自分の家族だから、親だから。感謝の気持ちを体現する方法は、こういった成果だと思ったから。シンプルな言葉で言えば、お前を喜ばせたくて報告したんだ。飯を食わせてもらっていると言うだけで、己の努力に叱責をぶつけられることにすら僕らは耐えなくてはならないのか? 何をしてやれば、お前は満足するんだ?
 思ううちに、試し悩むうちに、保に容赦なく、そして明確な答えもなく押しつけられる子どもと言う役割に、心の底から辟易せざるを得なかった。そもそも何故、そんなハードルの高いものを求め続けられなくてはならないのか、その背景が何なのかを、そこはかとなく悟ってしまった時は、特に。

 保と篠美、そして僕ら。保の、絶対王政のもと築かれる石野家。保は長男で、親戚を含めた石野家系の中でも、祖父の死後は家長となる位置になる。保自身も石野家を背負っていると考えている様子だし、また祖父母からの信頼も厚いようだ。
未来の家長として僕らや祖父母のみならず、叔母の子どもにあたる従姉妹(いとこ)にまで、自分の子どものように、悪い言い方をすると自分の所有物のように意見する保は本当に失笑モノだ。離婚し、シングルマザーになった叔母は、娘たちから父親を奪ってしまった。その引け目も手伝ってか、結婚について表面上、成功者である保にいちいち相談するから、その文化が助長されてしまった。
従姉妹たちも、いちいち偉そうに口出ししてくる保に呆れ返りながらも、自分の親である叔母が従っている手前、恥をかかせぬ為に、可能な限り受容している。上の従姉である千冬(ちふゆ)に至っては、進学の際、本当はデザイン系の専門学校に行きたかったのだが(たまにしか会わない僕やエンですら認識していたくらい千冬が明言していた希望だった)、安定志向の保が四大に行かせるとのたまったせいで、夢破れた。叔母も千冬の希望を優先させたい気持ちはあったが、千冬を大学や専門学校に上げるには、保の金銭的援助が少なからず必要だったこともあり、強く主張することができないようだった。千冬が最終的に、自分の将来と言う重要な希望に対しても従ったのは、やはり同じ理由による。
長男というだけで、そう言った横暴を全て許しきっている石野家系の人間を、僕はまるで好きになれない。特に祖父は、保の劣化版みたいなところがある。僕らに保がしてきたことに近いことを、きっと保や叔母に強いてきたのだろうなと思わせる発言や態度を、会うたびに感じるのだ。また、従兄弟同士の中で男子も僕だけしかいないので(今さらだが、僕の志望校に通う従兄など、元から存在しない)、跡継ぎを産んだと言うこと、また仕事もある程度成功して重役に就いていることが、保の家系の中での立ち位置をなおせり上げたようだ。
 保が僕らに変に厳しく接する理由の一つは、僕が跡継ぎだからなのではないだろうか。変な平等意識で、エンも巻き添えを喰らっているという、あまりにも古臭くて、くだらない理由。古さをそのまま摂理にあてがう、とんだ勘違いの典型である。保が僕を叱りつけた後、吐き捨てていく台詞の筆頭は『失望させるな』。篠美の捌(は)け口と同様、これも保がエンに向かって言っているのを聞いたことがない。保に見え隠れする僕への妙な期待に、反吐が出る。
 そんな、くだらない期待を背負わされた僕は、入った高校も、その高校で収めている成績もそう悪くはない。iモードのシステム内にあるセキュリティホールを数々見抜いてきたような(携帯をいじっていると、お前が今それを何の気なしに使えているのは……とこの自慢をよくされる)、保の嫌らしいくらい抜け目ない視線につけ入る隙を与えないよう、懸命に意識してきた自負があるから、謙遜もなければ、否定もしない。しかし、それと同時に、僕をミイラ男のように身体をぐるぐるとタイトに巻いていくレッテルは、肌の呼吸を許してくれない。裡に秘められた僕はだからこそ、そのレッテルに反しようと体温を上げていく。誠実さや勤勉さを体現したような日々を、家族や史穂を巻き込んで演出しながら、その裏側で育む深川との不誠実な関係。深川に対して誠実に向き合うのも、一つの僕の愉楽ポイントだった。
 しかし、深川にしろ史穂にしろ、二股しておいて何だが、どちらにもまるで本気にはなれなさそうだった。最初は、担任教師との不貞行為というレールの外れ方に溺れそうになり、深川にかなり入れ込んだ時期はあったが、いつしか彼女の機嫌を取って、掌握して操ろうとしている自分がいるのを感じて、これでは保と変わらないではないか、と気付いてしまうと、彼女への気持ちも水を打ったように萎えた。家族を壊すのを誘爆させる為に、深川の立場と態度を利用しているに過ぎないではないか、と。
史穂に至っても、理由や立場は違えど、利害関係を考えない訳にはいかなかった。深川と付き合い始めて間もない頃、史穂からも告白を受け、僕は二つ返事でオーケーした。史穂は同性の友達を多く有し、ある程度整った顔をしているのに、派手さがまるでないところが男子にも密かに人気だった。進学校ということもあり、恋愛に関するニュースが校内に少ない分、男女どちらにも味方の多い史穂からの誘いを断ることは、教室での居心地を悪くすることに愚かなまでに直結する。告白された時、史穂に生まれた感情は、憎悪以外の何物でもなかった。付き合うにしても、恋愛を禁じて勉強に励んでいる連中に恨まれるし(奇しくもクラス一位と言う立ち位置にいる僕は、その恰好の的になってしまう)、断れば断ったで、史穂の性質上、僕が悪者になる。受験を理由としたところで、それが軽減されるとも思えない。付き合ってくれればライバルが減っていいのに、と言い出す奴はいる。変に頭のいい集団なだけあって、くだらない思考回路の働き方はいくらでもしてくれる。史穂の告白は、百害あって一利なし、ダブルバインドも甚だしい。憎悪が生まれて然りだった。どちらにしろ敵を作ることにつながるなら、こちらが勝ち組になってやる方が、味方を付けやすい。
そんな理由で、面倒ながらも僕は二人の女性を往来しながら、恋愛を禁ずる者たちの冷ややかな視線に晒されながらも、何とか教室で日々を生き抜いている。ただし史穂には、彼女から別れを切り出してもらうように、爆弾を仕掛けながら。深川のこともあるので、面倒は少ない方がいい。学生の恋愛に関しては特に、男が全て悪役を担う運命にあるので、ある程度は覚悟しておかなくてはならないが、できればその傷も浅く済ませたい……とまあ、こんな調子で史穂においても言わば〝保性(たもつせい)〟を存分に活かしながら、曲がりなりにも僕に告白をすると言う決断をした彼女の気持ちを、蹂躙している。篠美を意のまま責め、操る保と、そう変わらない。その気付きが、僕に呪いをかけ、恋愛に対する熱を根こそぎ奪っていった。
でも、いいのだ。僕は既に、家族を壊すという復讐の魅力に、惹きつけられているから。保に縛られながら、同時に追い詰められていく篠美を見て、いつの間にかその欲求は明確なものになっていた。一度頭の中で形になってしまうと、我が石野家は何とも壊しがいのある家に感じられた。篠美が僕にあたるのも、その意味では好都合だった。篠美が感情に任せて、僕を取り返しのつかないほど傷つけてしまえば、それだけで石野家は、終わる。
だからエンが出て行ってくれるというのは、僕にとってこれとないほど好都合だった。崩壊を示すサインであるのは明白だし、何より篠美のこのところの不安定さに対する、これ以外にない程の呼び水になってくれている。感情を吐き出した篠美の相手をするのは消耗するし、酷く面倒だが、家が壊れてくれるサイクルになるのであれば、我慢できる。傷を残す為に相手をしている感覚すら、今はある。深川にも軽くだが事情を話してしまった。いよいよ保の絶対王政の下にある石野家と言うジェンガは地盤がスカスカになってきている。
僕はこの復讐の為に、もはや結婚する気すら失せてしまった。仮に今後、伴侶を得ようものなら、きっとまた保のように相手を掌握しようとする自分がしゃしゃり出てくる。きっとそれは、自分では止められない。そのことに対する自己嫌悪が、僕から男としての自信をきれいなまでに奪っていった。掌握したいと言う欲求は、僕にとってみれば喩え芽ほどの微かなものだとしても、保を肯定することに繋がってしまう。まるで呪いのように。第二の石野家を作ることは是が非でも避けたい。しかも、結婚しないことはそのまま、跡継ぎという期待を裏切ることにも繋がる。結婚しないことが、はたまた子を残さないことが、何よりの復讐になる。石野の姓を引き継ぐのは、唯一の男児である僕だけ。ならば。
僕の手でこの家を絶やしてやろう。あくまで保のせいで、石野家は存在しなくする。保に似ていることを利用して、可能であるなら石野家を壊した上で、何も残さずに消えていなくなる。エンがいなくなった今、あとは僕の細かい一つ一つの選択次第で、この家を壊すことができるかも知れない。篠美の暴力が発覚する、それか僕の傷を知る深川が何かしらの働きを見せる、若しくは深川との関係が明るみに出ることでもいい。家族というタワーを崩すピースは、いくつも用意することができた。衝動に任せ、情報を操作する愉楽に現を抜かしながら、いずれかのピースが抜かれて、保が築いてきたタワーが崩壊する時を、僕は今か今かと待ち望んでいる。
若しくは、と最近、思い耽るのは、どうしたら保が僕を勘当してくれるかを考えることだ。失望させるな、とのたまう保が、懇願するように僕を諭す姿をうっとりと妄想し、そこへ向かうプロセスをじくじくと紡ぐ夜は実に愉快だ。
あの愚かな父親を、いかに惨忍に裏切るか。それを想うことが、僕の人生を楽しませてくれている。

第三章・笑美

「決まったんだ?」
 よろしくお願いします、と締め括った、バイトの採用通知の連絡を聞き終えた私の背筋が凍る。背後から聞こえた声そのものも、ずいぶんとひんやりして聞こえた。ぞっとする。振り向くと、濡れた髪をごしごしとバスタオルで拭きながら、漉磯先輩がこちらを見ていた。私が反射的な防衛本能で電源ボタンを押した携帯を胸に押しつけると、それがゴーサインになっちゃったみたいに、漉磯先輩の腕が覆うように私の両肩に降りてくる。入水するような感覚。息を止める。漉磯先輩のことだけは、当然だけど、どうしても好きにはなれない。嫌悪感からその先、別の何かに発展することは、どこまでもない。だけどもう、このところは私も無抵抗だった。下着を脱がされることに、この上ない絶望と屈辱を味わいながら、唯一の抵抗として、頭の中でるんを呼び起こして、まるで呪文のように反芻させる。
 顔射されながら、バイトが決まったことで、事態が好転してくれることを、切に祈った。

「寛軌? ああ、さっきね、お兄さんが連れ戻しに来て、帰っちゃったよ」
 寛軌先輩は、私の外出時にあっさりといなくなった。戻ってくることもなかった。私をダシに使ってまで、ここにやって来たと言うのに。だけど、寛軌先輩のお兄さんがここを見つけたんだから、私だって危ないかも知れない。寛軌先輩から情報が漏れる可能性がある。冷や冷やしたけど、今のところ、保やるんが来た形跡はない。もしかしたら、本当はもうここに来たけど、漉磯先輩が適当なことを言って、私の存在を隠したのかも知れないけど。
 あっけらかんとそう言った漉磯先輩は、先輩の事情を汲んだって言う体(てい)だったくせに、強制送還された後輩に同情する素振りはこれっぽっちも見せず、いっそ好都合とばかりに私を襲いまくった。このところは、股がひりひりして痛痒い。ヤラれ過ぎだ。性病にでもなっていそうで怖い。
 こんな事態になっても、私はあの家に帰ることを望まなかった。漉磯先輩の横暴は、保の横暴よりも次元が違うにしてもひどいものがあったし、こちらには誰も味方がいないのに対して、向こうに帰れば友達も少なからずいるし、るんだっている。だけど、私にも意地があった。漉磯先輩にレイプされようが、寛軌先輩が帰ろうが、私は保の檻の外で生きたい。戻って、従う従わないは別にして、あいつにいちいち指図される人生はもう嫌だ。あの声が、意識が私に向いていると言う事実が、もはや私には耐えられない。
 無抵抗とは言え、承服した訳ではなかった。抵抗すれば引っ叩かれる。インコーが暴力に変わるだけだ。だから、私はひたすらマグロだった。だけど、当然ながら行為はエスカレートするから、エグいプレイを要求されて、私から手を煩わなきゃいけないこともざらになってくる。拒めば、やっぱり殴られる。その時に思う。私は貝になりたい。映画は観てないし、どんな内容かすらちゃんと知らないけど、CMで見た表情のないジャニタレの顔が浮かぶ。泣いていたのも最初のうちだけ。もう、涙すら出ない。だけど、やっぱり家族萎えを狙って、るんのことを思い浮かべるのは毎回、忘れなかった。

「最近、よく一緒になるね」
 ちゃんとした身分証を持っていない私ができるバイトは限られていた。登録制の、イベントスタッフのバイト。高校生不可と書かれていたから、年齢は十九歳と、二歳サバを読んでいた。
 漉磯先輩といるのはキケンでしかないので、できる限り、彼と一緒にいる時間を短くしたい。その思いが、夜遅くまでのシフトを増やしていた。疲れて寝静まってから帰ることに成功すれば、レイプされずに一日を乗り切ることもできた。
「そ、そうですね」
 社員だと言う宇賀神(うがじん)さんは、どうも食えない。見透かすような目をするから、何となく構えてしまい、きちんと話ができない。余計なことを言うと、ボロが出そうな気がする。漉磯先輩と同様、何か変わった苗字だし、と変なジンクスまで感じてしまう。寛軌先輩や漉磯先輩のせいで、ちょっと男性恐怖症っぽくなってるのもある。
 理由はよく分からないけど、この人は社員の中でも、どちらかと言うと昼からの勤務が多いらしく、夜遅くまでのシフトを選ぶ私と時間帯が重なることが多いようだった。
「石野さんって、俺の日に限らず出勤多いよね。有難いことだけど、いいの? もう少し、休んだっていいんじゃない? 今だって、残業してくれてる訳だし」
 できるだけ居たくないんだよ、あの部屋に。登録制と言うこともあり、勤務時間の線引きがシフト頼りになるから、残業まではシステム化されていないらしい。よって、残業代が弾む訳ではないのだ。本当のところを言う訳にもいかないから、心の中だけで毒づくように思う。登録制だから定着率も悪いし、メンバーも毎日その都度、変わってしまう。そのせいか、特定の同じ立場の人と仲良くするってことを、新人の私はまだできないでいた。比較的多く顔を合わせる人となると、宇賀神さんのように社員さんであったり、ベテランさんになってしまったりするのだ。同じ新人の立場ならまだしも、そんな人たちに、今の私の事情を話してしまったら、クビに繋がりかねない。
今日のイベントは、そこそこかしこまった様子の新製品の発表会だった。配られたかなりフォーマルな制服に袖を通している私は、チョーちゃんとしてるって感じで、東京の人っぽい。広場にかなりの席数を設営されていたものの中から、信じられない数のパイプ椅子を一気に担ぎながら、宇賀神さんは飄々と訊いてくる。漉磯先輩のことが無かったら、好きになってたかも知れないな、と思いながらも、やっぱり踏み込まれるのが怖かった。
「まあ、はい。でも、今はお金が必要で」
 半分は本当で、半分は嘘だった。当然だけど、あの部屋からは一刻も早く出たい。もう少しでたぶん、一人で生活できるくらいの稼ぎと蓄えができる。だけど、漉磯先輩がもはやダッチワイフと化した私を簡単に手放すだろうか、と言う疑問もあった。彼も仕事をしているので、隙を見て逃げようと思えば逃げられるとは思うけど、いざ出て行くことにした時、彼がどう出るかは分かったものではない。だから、完全にお金の為とも言い切れないのだ。もう半分の、嘘にあたる理由は、先輩と一緒にいる時間を減らす為。
「どうして?」
 随分とストレートで率直な訊き方だった。そんな風に訊かれるとは思わなくって、つい動揺して顔を上げ、振り返る。
「えっ」
 私の反応が意外だったらしく、宇賀神さんもまた顔を上げ、私の顔を強く見た。
「えって。どうして、お金が必要なの?」
 そんなに見つめないで欲しかった。私の反応がおかしかったのは認めるけど、今の私には男性の視線が理屈じゃなく、怖い。
「えっと……あの。専門学校に、行きたくて」
 苦し紛れだった。十九歳で、お金が必要な理由なんて、正直よく分からないけど、高校時代、そんなことを言ってる十九の先輩に出会ったことがある。それを思い出して、そのまま答えた。
「……石野さん、それ嘘でしょう」
 つい、身体がびくっとなる。確かに嘘だし、苦し紛れなのは自覚があったけど、そんな風に言われるなんて、思いもしなかった。宇賀神さんはパイプ椅子の束を台車に乗せると、腰に片手を当てて言った。
「石野さんさ。別に今は客商売してる訳じゃないからいいんだけど、自分の顔、鏡で見たことある? たまに、すごい心配になる顔、してるよ。何か絶対、悩んでることとか、隠してること、あるでしょう」
 思わず、頬に手がいく。じんわりと身体が熱くなった。恥ずかしくて。
「……そんなこと、ないです」
 絶対、そんなことなくないトーンで言ってしまう自分がいるのが、心底嫌だった。甘えられるものなら甘えたい。東京の人は冷たいって聞くし、バイトをする中で実際に冷たいなって思ったことも、何度かあった。今のところ、東京の人で強い結びつきがあるのは、同じ部屋に住む漉磯先輩だけ。私をあんな目に遭わせる先輩は、東京で生きることに対する現実の厳しさの象徴にもなっていた。だから、こんな風に言ってくれる人がいたって言う事実だけで、凄く嬉しい。だけど、やっぱり事情を話すのは怖い。怖いし、簡単に人に頼っているようじゃ、一人で自立するなんてことはできない気がしていたし、また騙されるんじゃ、って言う恐怖があった。
「まあ、喋りにくいことってあると思うし、話すのは俺じゃなくてもいいけどさ。一人で溜め込むのは良くないよ。俺、石野さんの笑顔って見たことない。部下が楽しく仕事できてないのかもって思うとさ、すごい気になるし、ヘコむわけ。現場責任者なんかやってる俺としては」
 その言葉が限界だった。迷惑を掛けてしまってるんだなって言うのと、ただのバイトでしかない私を〝部下〟って言ういかにも身内っぽい言い方をしてくれたことが、たまらなく有難かった。
 完全には重なりきらない白いコーヒーカップがからん、と音を立てて傾く。それを乗せる盆に、水滴が落ちたのに気付いた時にはもう、止まらなかった。
「石野さん?」
 異変に気付いた宇賀神さんが、声を掛けてくれているのに、返事ができない。自分の弱さに苛立ちながらも、泣き声が漏れるのを私は、いとも簡単に自分に許してしまった。

 家出のことや、年齢のこと。泣きながらも私は、働けなくなってしまうような事実は伏せて喋った。漉磯先輩とのことだけを抜き出して、何をされているのか全部、話した。台車に乗せた椅子や、私が片付けたコーヒーカップを一緒に運びながら、宇賀神さんは優しい眼差しを向けたまま聞いてくれた。だけど、私の話が進むうちに、その優しい眼差しがだんだんと険しいものに変わっていった気がしたのは、気のせいではなかった。

 身体を起こしたのは、これで何度目だろうか。
 この部屋の中だけは、もうすっかり私のものに埋め尽くされている。実家にいた時に使っていた、消臭効果付きの芳香剤も置いてあるから、匂いだって嗅ぎ慣れたものになってる。だけど、ここは他人の部屋。それも、会って間もない、よく知らない男の人の。その事実が、今も私の意識を途切れさせずにいる。

 振り返ると、ドラマみたいだよなあって、他人事みたいに思った。目まぐるしかった。
 私の話を聞いた宇賀神さんは、驚くべき行動に出た。採用も担当していた彼は、私の履歴書を引っ張り出してきて、履歴書に書かれた住所、即(すなわ)ち、漉磯先輩の部屋に乗り込んできた。戸惑いながらも、ずいぶんガラ悪く応対した漉磯先輩を殴り飛ばし、半ば強制的に私に荷物をまとめさせ、部屋から連れ出した。私が荷物をまとめる間、何度も漉磯先輩は反撃に出ようとしたけど、完膚なきまで宇賀神さんはそれを阻んだ。荷物をまとめながら振り返った時、その光景にぎょっとする。宇賀神さんは、立ち上がろうとする漉磯先輩の頭を、蹴りつけるどころか、もはや踏みつけるようにしていた。いかにも底の硬そうな革靴で。いくら何でもそれは、無慈悲過ぎる気がして怖かった。

 ――東京の男の人は、怖い。
漉磯先輩にしろ、宇賀神さんにしろ、とんでもない冷酷さが裏打ちされているような印象が拭えない。
 漉磯先輩の部屋にいるよりは絶対にマシなんだろうってリクツでは分かっているけど、やっぱり寝つけそうにはなかった。宇賀神さんは、私を漉磯先輩の部屋から連れ出すと、一旦、自分の部屋に住まわせた。正社員と言うだけあって、漉磯先輩の部屋より、キレイさに重ねて広いし、部屋数も違う。使ってない部屋があったみたいで、そこにしばらく住まわせてくれるとのことだった。
「まあ、石野さんくらいの時間数なら、すぐに一人でもやっていけるようになると思うよ」
 何かちょっとしたデジャヴに思えた。これは、漉磯先輩と同じパターンじゃないだろうか。
『適宜バイトは探してくれよ。いつまでも置いとけないからね』
 宇賀神さんに先輩のことを告げて間もなく、給料日が来た。そろそろ一人暮らしできる額に達しそうだって言うのを悟ったんだろう、漉磯先輩は結局、バイトが決まった私を離そうとはしなかった。バイト代は生活費だと言って、ある程度の額を奪われてしまったし、不動産のチラシは破り捨てられた。銀行口座を開設できない私は、給料を手渡しで貰っていて、隠す場所も取り立てて無かったせいで、給料袋を取り上げられた。終いには「これで足りるだろ」と、私が稼いだお金なのに、小遣い制にさせられた。
そのことを思うと、不安がどうしても勝ってしまう。

 ――まだ、十一時か。時計を見て、夜の長さにヘキエキしたのがきっかけだった。
 こっちに来てから新たに契約し直した携帯電話を灯りにして、手帳を開く。電気代を払っているのが宇賀神さんな分、電気を点けるのは憚られた。こういう細かいところにまで余計に気を配ってしまうのは、たぶん、抜け目なく難癖をつけてくる保のせいだった。苦々しい気持ちになるけど、今はそれでいい。手帳は、表紙にデコレーションしていたパーツがいくつか剥がれて、美しくなくなっていた。つい、出てくる電車内で開いて、寛軌先輩に嫌な顔されたのを思い出して、ちょっと嫌な気分になる。そう言えば、必死でここまで生きていたけど、家を出てきてから何だかんだで結構経ったんだな、と実感する。写真を裏返し、そこに書いていた番号を眺める。声が、聞きたかった。
 珍しく九時~十八時の勤務を終えた宇賀神さんは明日も早いらしく、既に寝室で眠っている。物音で起こさないように、私はこっそり部屋を抜け出して、公衆電話を探した。

『……もしもし』
 携帯電話でかけて、新たな番号に保とかから折り返しが来たら、困る。必然的に非通知と出たであろう番号からの着信に、当然ながらるんの声は警戒していた。だけど、その声を聞いただけで、一気に何かが氷解していくような感覚があった。
私の、唯一の家族。
家族の力って、すごい。寂しさも超越して、全身に張り詰めさせていた緊張感が、するすると面白いほどに溶けていく。その並々ならないパワーが災いして、いとも簡単に涙が出てしまう。
「るん、私。エミ」
無言電話と思われて切られてしまわないように、泣き声を隠すこともせずに呼びかけた。昔からるんだけは私の涙を受け止めてくれていた。申し訳ないんだけど、あの子にだけは泣きたい気持ちを隠せないできた。
 るんはすぐに返答しなかった。驚いたのかも知れない。家を出て行ってから、連絡を取ったのは初めてだったから。
「久しぶり。ごめんね、夜遅くに」
 涙が止まらないのに、笑顔が零れる。涙が止まらないのに、ずいぶんと久しぶりに心の底から笑みが零れた実感があった。大きく引いた口の端から、涙が歯茎に伝染していく。おもちゃみたいに大きな黄緑色の受話器を持つ腕が、早くも痺れてきた。首と肩でごつごつとした受話器を一瞬挟んで、持ち替える。押しつけた受話器は冬の冷気に当てられて、同じく冷やされた頬にも冷たかった。そのストロークの間に、向こうからようやく返答があった。
『……ううん、いいよ』
 電話の向こうは静かだった。たぶん、部屋で勉強でもしていたんだろう。時期的に見れば、高校ではテストが近くもあったはずだ。
「元気? るん」
 涙を拭きながら、問う。突然、電話をしたのに、るんがフラットな応対してくれたものだから、深く、深く安堵してしまう。家出の理由(るんには分かりきっているとは思うけど)や、今どこにいるかとか、そういうことを訊いてくる様子が一切ない。声を聞いた途端、保や篠美ちゃんに代わられてもしょうがないよな、とすら思っていたんだけど、そんな様子もない。
『ああ、うん、僕は元気だけど……大丈夫?』
 きっと、泣いているのがバレたんだ。隠すつもりも無かったけど、きちんと気付いてくれたことに喜びを覚える。こんな折にも、私を気遣ってくれているのがまた嬉しくって、せっかく整ってきた呼吸がまだ涙で乱れていく。
 るんは、やっぱり私の味方だ。私を連れ戻そうって言う気概みたいなものは、ここまで聞いていてもまるで感じられない。
「だい、じょうぶ。ちゃんと、生活も……できてるし」
 半分嘘だけど、これ以上変な心配はかけたくない。るんにしても、両親にしてもニュアンスは決定的に違うけど、そこは共通するところだった。
 本当なら、訊いてもいいことはいっぱいあった。寛軌先輩が連れ戻されたって言う情報は入っているか、そのことで漉磯先輩のところまで捜索の手が伸びていないか。私がいなくなったことで、家の中がどうなっているのか。保や篠美ちゃんの様子は。家出したことを、るんはどう思っているのか。だけど、そんなことは全部もう、どうでもいいことのような気がしてきていた。
『でも』
 追いすがるように、るんが声を掛けてくれる。
「違うの。ごめん、るんの声が、懐かしかっただけなの。……家を出ておいて勝手かも知れないけど、私、るんだけは唯一の家族だと思ってるから」
 別にこのまま永遠に別れる訳でもないだろうに、するするとそんなクサい言葉が出てきた。だけど、このタイミングでこれを伝えることができたことを、私はその先一生、後悔しないで済むことになる。
心からるんに想いを吐き出せたことで、明日からまた強く生きていけると、微かな確信が胸を埋め始めていた。東京にいる他人が信じられない状況だからこそ、今は思う。るんがいるから、離れた場所にいたとしても、家族だと思える人がきちんと正しく生きているから、道を外した私もきっと強く生きていける。
『……元気なんだね』
 拍子抜けしたのか、泣いていた私の声を聞いて張り詰めていた様子のるんの声がここに来てようやく緩んでくれる。久しぶりだったからか、るんの声も心なしか震えていた。うん、と首まで振って強く頷く。日本人は電話越しでもお辞儀をする。電話だから、向こうの人に見える訳でもないのに、と不思議がる外国人の話を聞いたことがある。そう言えばそうだねえ、と友達とその時は笑っていたけど、本当は違うのかも知れないって今は思う。声でしか気持ちを伝えられない中で、身振りまでつけるくらいの気持ちで話すからこそ、気持ちがこもるし相手にも伝わるんじゃないだろうか。
 それから、二言三言話して、私は電話を切った。最後まで、探りを入れてくるような様子は無かったし、寂しがるような言い方すらるんはしないでくれた。私にとって重荷になるようなことを、るんは全部避けてくれたんだと、そう感じられた。
 電話ボックスを出ると、ぬっと大きな人影が見えてぎょっとする。目を凝らすと、電話ボックスの微かな光に当てられて、宇賀神さんの顔がぼんやりと見えた。
「……いなくなったかと思ったよ。石野さんって、あんな風に笑うんだね。可愛くて、びっくりした」
学校の教科書に載ってた『走れメロス』のメロスみたいに、私はひどく赤面した。応えられないでいると、宇賀神さんがこの優しい夜闇に似合うふんわりとした手つきで、手招きする。
「このへんは、あんまり治安良くないから、一緒に戻ろう」
 なかなか電話ボックスが見つからなくて、十五分くらい歩いたけど、一人で出歩くのってそうか、危険だったのか。妙に納得しながら、振り返り歩き出した宇賀神さんを追いかける。
 笑ったのを見たと言うことは、同時に泣きながら電話していたのも見ていたのだろう。道中、宇賀神さんが問う。
「電話の相手って、彼氏か何か?」
 弟です、と正直に答えた。何でわざわざ電話ボックスを探したのかは、訊かれなかった。

 戻った宇賀神さんの部屋が、他人の部屋だって言う事実は何も変わらないのに、るんのお陰で、私は東京に来て初めて、ぐっすりと眠ることができた。

 結果を言えば、宇賀神さんは一度も私に手出しをしなかったし、きちんと自立もさせてくれた。

 蓄えがある程度できたタイミングで、私は彼の部屋を出た。当然、不動産のチラシを破られることは無かったし、どころか彼は、部屋探しをアドバイスも交えて、甲斐甲斐しくサポートしてくれた。予定していたよりだいぶ遅くなったけど、私はようやく一人暮らしができた。あ、最初は寛軌先輩がいたから、別に一人暮らしを目指してた訳じゃなかったんだっけか。寛軌先輩とか、久しぶりに思い出した気がする。もう季節は春だから、高校は卒業した? それともあの調子だとダブったかもなあ。もう別に、どうでもいいけど。
 漉磯先輩にしても、宇賀神さんにしても、一部屋の中の一室を借りていたような状態だったから、水回りが自分一人の為だけに使えると言うだけで、嬉しかった。て言うか、きちんと独り立ちできたんだ、私。そう思うとたまらない気持ちになって、ベランダから実家の方向に向かって「ざまあみろ!」と叫んだ。当然、近所から苦情が来て、超恥ずかしくって、謝る時はめっちゃ顔が熱くなった。
 場所は結局、宇賀神さんの部屋からかなり実は近い。るんに電話してからは、必要以上に宇賀神さんに怯えることは無くなった。お世話になる恩義が降り募り、信頼度が増さざるを得なかった一方で、膨らんでいく想いがあった。
 ふと背の高い彼を見上げると、るんとはまた違う安心感がそこに生まれていた。まだ漉磯先輩とのことで怯えていた時のことを思い出す。頼りがいのある彼を見て、思ったこと。漉磯先輩のことが無かったら、好きになってたかも知れない。あの時、私は確かにそう思った。一度思い当たってしまうと、やっぱりダメだった。既に私は、宇賀神さんのことがどうしようもなく好きになっていた。ライブで寛軌先輩と並んで『三日月サンセット』を聴いた時の気持ちが、久しぶりに蘇る。あの曲が収録されてるのは、『GO TO THE FUTURE』って言うミニアルバムだったよね。CDは家に置いてきちゃってるし、タワレコに今度、買い直しに行こうかな。
 窓を開けると(叫ぶためじゃないから! もうしない、もうしないよ)、春風が吹きこんできた。家を出て、もう半年と少し。半年でここまで来れたのなら、上出来じゃないだろうか。私を支えてくれた宇賀神さんと、るんに心の底から感謝した。

 それからまた、三年。保に見つかることもなく、宇賀神さんと仲良く(なっかなかガード固くて、結局まだ付き合えてない)仕事を頑張っていた。気付けば、私も人に教える立場になってた。比較的、早い方らしかったけど、シフトの入れ方が他の人より多かったからまあ、当然っちゃ当然だろう、と調子に乗らないように宇賀神さんから釘を刺されていた。登録制のバイトと言うこともあって、たぶん、私と似たような境遇(家出娘、的な)なんだろうなぁ、って言うコも何人かいた。もしかしたら、宇賀神さんにも気付かれているのかも知れないなあ、とぼんやり思いながら、何とか日々を乗り切っていた。

「Dエリア担当の、石野って言います。今日一日、よろしくお願いしまーす!」
 本日行われるフェアは例年、集客力がいいらしく、エリアが四つに分かれるくらい、大きな会場を押さえていた。一番小さいエリアのリーダーを初めて宇賀神さんに任されて、私は張り切っていた。マスコットキャラクターのグッズの売り子をまとめなくちゃいけなくて、女の子ばっかりぞろぞろといるのに圧倒されながらも、いつもやっている通りの仕事内容を言葉にして、みんなに伝えた。
「開始まであと一時間です。十分前には皆さん、配置についているようにお願いします。今日も一日、頑張りましょう! では、後ほど」
 全員が集まってすぐ説明を始めたのに、もう派閥みたいのができている。このフェアの為に人を募ったせいもあって、メンバーの殆どが新人さんだ。私は私で唯一いるベテランのミチエさんと配置の確認をしようとしていた。ミチエさんは勝手が分かっているだけに、自分が楽な配置になっているのか気になるようだった。ベテランなのだから、集客の多いポジションに付けているに決まっているじゃないですか、と思いながら、偶然ここになりました、みたい顔して、ミチエさんの配置を指差す。そのタイミングで、おしとやかを体現しました、みたいな声がした。
「あの」
 見たことのない顔だ。確か新人の子だ。今日、一発目だったと思う。過剰に仕事内容や立ち回りを確認したがる子は毎回いるので、その類だと思って振り向いたら、全然予想していない言葉をかけられた。
「ルイくんのお姉さんじゃないですか?」
 言葉は疑問形だけど、彼女の中では殆ど確信があるようだった。るんを知っているコなら、そりゃ当然だ。私の苗字と、他ならぬ私の顔。血を分けているのだ、こんなに似ている女はこの世にいない。胸に付けているうちのバイトの登録証を兼ねるネームカードを密かにチェックする。浅田(あさだ)史穂と言う名前の横で、同じ顔がぎこちなく微笑んでいた。

 彼女の説明が要領を得ないのか。それとも、私の理解が追い付かないのか。
 判然としなかったから、仕事終わりに時間を取ってもらった。
「涙が行方不明って、どういうこと?」
 開口一番、私がそう訊いたことで、彼女はがっくりと俯いてしまった。
浅田さんの話を訊いて、まず思い当たることが一つだけあった。三年前のあの日に一度連絡を取った後、しばらくしてからまた連絡を入れたことがあったのだが、電源オフでずっとつながらなくて、しばらくして現在使われておりませんアナウンスになった。おかしいな、と思ったし、連絡が取れなくなってすごく、すごく寂しかったけど、石野家に帰れない私には確かめようが無かった。一度だけ、るんが出そうな日曜の夜を狙って家電に電話してみた。予想はしてたけどやっぱり篠美ちゃんが出たので、すぐに切った。篠美ちゃんの声に理屈でない嫌悪感が胸を占めて、それからはかけられなかった。そう言えばあの時、篠美ちゃんの声、暗かったかも……。
「お姉さん、何も知らないんですね……」
 るんが失踪。私と同じように。失踪直前までるんのカノジョ(るんにカノジョがいたなんて! 報告受けてないんだけど! でも、そんなにオンナの趣味、悪くないみたいでちょっと安心した)だったと言う彼女。高校を卒業して、東京の大学に進学(流石、るんの通っていた高校だけに、進路が違う)して今、こっちに住んでるらしい。失踪のことも気になるけど、そもそも彼女がいたことや、家を出た後のことを私はまるで知らないので、ひとまず外堀から埋めてもらった。東京で家出をしたことを他人に話すのは初めてだったけど、るんのことが気になり過ぎて、まるで当たり前のことみたいに私の事情をするする話していた。
 私も家出していたことを告げると、彼女はなお肩を落とした。やっぱり、私は何も教えてもらえていなかったんだ、と。
 理由を聞くと、結構長い話になった。バイト中に手短に訊き齧っていた情報が、少しずつつながっていく。およそ信じられない話が、いくつも並ぶ。現実にない話ではないと思うけど、それは一般論って言うか、世間にはあるだろうなって言う話であって、少なくともるんがやっていたことととは到底思えない。まるで画が浮かばないし、イメージが何をどうしても重ならない。家族と言う立場を取り払ったとしても、血の繋がりが無くても、それは大差無いのではないだろうか。少なくとも、彼女の話を聞いていると、るんが私をも欺いていたことはあまりにも明らかで、事実も相まってショックを隠せなかった。
 るんが、失踪。原因は恐らく、担任教師との自分とで二股をかけていて、それがバレたこと。
事実が明るみに出て、担任教師は懲戒免職になり、るんは退学となった。しかし、その処分が出る前から、るんは学校に来なかった。彼女は気になって、遠いのにわざわざ石野家を訪ねてくれたらしいのだけど、芳しい答えは得られなかったそうだ。どころか、まともに応対してもらえなかった、と。まあ、それはでもしょうがない気がする。るんのそんな事実を知った上で、且つ、失踪したと言う時点で、あれだけるんラブだった篠美ちゃんの心が乱れない訳がない。石野家から子どもが一人もいなくなったと言うのも、篠美ちゃんにとっては、この上ない痛手のはず。自分のことを棚に上げることになるけど、そう思うと、篠美ちゃんがちょっと気の毒だった。だって、るんがいればあの家は、あの夫婦はきっと大丈夫だった。出てくる時、そんな確信(普通で考えれば虚しい確信のように思えるだろうけど、ここに折り合いがついたから私は迷うことなく出てこられた)があったから。
家出していた私が知っている事実は、一つとしてそこには無い。彼女の力にはなれそうもなかった。
 ただ、大した情報にはなり得ないけれど、あともう一つだけ。時機をしつこく浅田さんに確認したけど、たぶん間違いない。

 失踪したと言うるんと、最後に話をしたのは、たぶん私だ。

第四章・涙

 その機会は唐突にやってきた。

「お前、昨日、深川とラブホに入ってったろ」
 僕の目の前で怪しく笑いながらそう言ったのは、高校のクラスメイトである高野(たかの)司(つかさ)という男子生徒だった。彼と会話をしたのは、殆ど初めて。同じ教室にいるから、当然、存在は知っているし、どんな奴かも何となく知っている。しかし、彼のイメージはこれに尽きる。
 一度、史穂に告白して、フラれている奴。
 別に身の程知らずだとは思わない。史穂なんて、結局は地味顔なんだから、誰と付き合ってもそんなに不釣合いな印象は周囲に与えない。いっそ、史穂がオーケーしてくれたら良かったななんて思いながら聞いていたけど、この話を僕にわざわざ報告してきたのは、他ならぬ史穂だ。
「あたしにはルイがいるって知ってるくせに、わざわざコクってきたんだよ! ちょっと神経疑わない?」
 憤慨しながら言う史穂に、そうなんだ、と無感動に返答すると、ウケる、と史穂は笑った。
「そうだね、ルイからしたら敵じゃないもんね、あんなフランケンみたいなやつ。あたしには、ルイだけだよ」
 彼のどこがフランケンなんだろう。確かに面長で、頭のシルエットは長方形だけど、そんな身体も顔自体も大きくないし、血色もいいのに。
「違うよ、僕は史穂を信じてるから」
 否定するのは面倒なので、腕を絡めてきた史穂に適当な暗号を呟く。予想通り、史穂はその腕をきつくしてきた。
 だけど、彼の虚ろで怪しい表情は確かにフランケンっぽいのかも知れない。こんな表情で告白したんだとしたら、そりゃフラれるだろうな、と妙に納得してしまう。史穂を肯定したくなってきた。
「凄いね。あれが深川だって、解ったんだ」
 昨日の深川と言えば、クレアから抜け出してきたような服装をしていた。深川はこないだ誕生日を迎えて、四十になった。パッと見で無理してるんだろうな、と容易に察しがついた。
 渾身の一撃のつもりだったのだろう。僕の返答に、早くも高野はたじろいでしまった。
「認めんのかよ」
 少しばかり声を荒げた高野は、そう言えば不自然に突っ込んでいたポケットから手を抜いた。
「なに? 写真でも撮ったの?」
 図星だったようで、ばつが悪そうに高野はそれを取り出した。はっきりと僕と深川だと解るけど、明らかに手ブレしている。慌ててインスタントカメラかなんかで撮ったと言う印象がある。
「趣味、悪いね」
 やっぱり、昼間から入るのは良くなかったか、と思いながら、覚悟を決める。わざわざ死刑宣告をしに来てくれたのだ。こいつには感謝しなくてはならない。
「で、それ、どうするの? 史穂にでも見せる?」
 確率は五分だ。史穂が事を大きくしたいタイプかは解らないが、友達が多い分、誰かが問題にしてくれる可能性は充分にある。極端な話、それがこいつだっていい。
「いいのか?」
 さも意外そうに、高野が訊ねる。怪しい雰囲気が表情から消えて、フランケン感が薄れた。
「変なの。じゃあ何で撮ったの?」
 何を要求しようとしていたのかは解らないが、まあ、どちらにしても史穂との関係をのうのうと続けることは困難になるのは、結果として同じだろう。
「どうしてくれたって良いよ。結果はどうせ一緒だろうし。ただ、脅そうと思ってたんなら、申し訳ないけど期待には沿えない」
 写真を持った高野の手が、宙を彷徨う。
「もういい? 史穂を待たせてんだ」
 そう言うと、高野がようやく調子を取り戻したらしく、はっ、と笑った。
「もう、待たせんのは最後になるだろうな!」
 強がりのように響くその言葉に、僕は振り向く。あくまで、微笑みながら。言葉だけ取り上げると、僕の方が強がりのようなのに、とおかしくてたまらなかった。
「最後を惜しむくらい、したっていいだろう?」

 高野が、史穂の机の中に写真を入れると言う、中途半端な手段を用いたせいで、発覚が少しばかり遅れた。
放課後に写真を発見した史穂は誰にも相談しないまま、そのままピロティで待っていた僕を、人のいない廊下に連れ出した。
「これ、机の中に入ってたの」
 昨日見たものと全く同じ写真が、史穂の手にあった。史穂がふるふると小刻みに震えている。
「ああ、それ高野だよ」
 馬鹿みたいに、そう教える。
「どういうこと?」
 予想通りの返答。高野に詰め寄られた時点で覚悟が決まっていた僕は、もはや史穂を怒らせたくてたまらなかった。
「昨日、その写真を俺にも見せてきた」
「だから、どういうこと?」
 イラついたように史穂が声のトーンを上げる。ぼろっと涙が零れる。悪いけど、エンが一つも厭うことなく僕の前で泣いてばかりいてくれたお陰なのか、女の子の涙を見たところで、何とも思わない。史穂が訊きたいのは別のことだろうけど、どうせ頭に血が昇っているんだから、順を追って説明してやりたかった。きちんと、僕の気持ちを理解してもらう為に。それが喩え、彼女のプライドをズタズタにしてしまうとしても。
「未だに史穂ちゃんが大好きな高野くんはね、手段を選ばなくなったんだよ。別れさせる為にわざわざ僕と先生がラブホから出てくるところを写真に収めた。で、俺が言うこと聞かなかったから、史穂の机の中に写真を入れた」
 史穂がすぅ、と息を吸い込んだ。だけど、どう詰ればいいのか解らなかったようで、吸い込んだ呼気はそのまま吐息になった。
「解るでしょ? これは合成でも何でもない。ただの事実だよ」
 もうここまで来て、隠しておきたいような真実など一つもない。きっぱりと言い切る。
「……本当に行ったって、ことなんだね」
 頷いてみせると、史穂は視線をそらして、サイテー、とひと言零した。
「これ、浮気だと思ってるでしょう」
 写真を指差して、言う。他に何がある、とでも言いたげな鋭い視線が飛んでくる。本当にこの子は視線で物を語るなあ、と感心する。本当に気の毒だけど、僕の手に残るカードは一枚や二枚じゃないのだ。
「史穂が告白してくれた時、もう僕は先生と付き合ってた。僕からしたら、史穂との方が浮気なんだ」
 史穂が目を見開く。視線に、鋭さが増すのを変に心地よく感じながら、僕は更に続けた。
「史穂には味方が多いからね。敵に回したら、面倒だって思っただけなんだ。それに」
 これが保への復讐の一部であることまでは、どうせ史穂には理解できない。とすれば史穂に開示できるカードはあと、一枚くらいだろうか。ただこの一枚こそが、史穂を黙らせるにはこれ以上ない切り札だと、確信がある。
「史穂が本当に好きなのはさ、僕じゃないよね」
 史穂に告白された時に、真っ先に思ったことがある。この子は、本当にプライドの塊なんだな、と。
 自分が真に好きな子と付き合うんじゃなくて、恥のかかない相手を選ぶんだな、と。

「史穂ってさ、ゼッタイ松村(まつむら)のこと、好きだよね」
 教室の中から、高い女子の声がする。距離と壁のせいで微かなものだったにも関わらず、耳がそれを抜き出してきたかのように拾った。その声を聞いて、教室に入ろうとしていた史穂の足が止まった。廊下で屯(たむろ)している一団の中にいた僕は、その後ろ姿を見ていた。女子が仲間内の誰かがいなくなると、途端にその仲間の噂を始める習性のようなものがあるのは知っていたけど、それを偶然訊いてしまった場合、どんな行動に映るのか。ちょっと興味があったから、僕を含む一団で繰り広げられているオーラルコミュニケーションと言う授業担当の中崎(なかざき)の発音の話題そっちのけで、教室の女子の顰める様子すらない声の方に耳をダンボにしながら、史穂の背中を見つめた。
「ウチもそれ、思ったぁ! あのコ、プライド高いからさー、『アタマいいから、石野くんが好き』とか言ってたけどさ、ゼッタイ違うよねー」
 教室内にいるあの子たちは、廊下で僕がこれを訊いていることにはまるで気付いていないようだ。耳を向けていたことに少しばかり、後悔を覚える。無駄に恥ずかしい思いをさせられた。
「当たり前じゃん。最近のあのコの口癖って言えば『松村くんってさ……』だし」
 史穂の高い声を真似た声を受けて、女子の嬌声がどっと広がる。教室のドアの手前で立ち尽くす史穂もまた、僕がいることに気付いていなかったみたいだった。
 松村と言う男子は、クラスに一人はいるお調子者タイプの奴で、空気も読まずにAVの話とか、下ネタを大っぴらにまくし立てたりするところが、女子の失笑を買っていた。ルックスはまあまあいいのだが、最近、下ネタや悪ノリが度を過ぎてきていて、人気は右肩下がりだった。
 流石に可哀想だなと思うのと、僕の名前を出していることに恨めしさを込めて見ていると、固そうな拳を作って、悔しそうにぶるぶると震わせていた。
史穂は別の話題に移ったのを見計らってから、教室へ戻っていった。きっと、何も訊かなかったかのように、輪の中に戻っていき、やっぱり彼女もまた、その場にいない女子の悪口で盛り上がるのだろう。女の子のハートのタフさは見習いたいものがある。
僕が史穂から告白を受けたのは、その日の放課後だ。付き合い出してからも、心なしか史穂は松村くんを気にするように目で追っていたし、不自然なタイミングで彼の話題が僕らの会話にまで上ることもあった。最近でさえ、時折そんな瞬間があった。それは、僕が彼女へ罪悪感を持てない理由にもつながった。お互い、実にくだらない理由で利用し合う交際。お互いに、相手も自分をも騙して恋を演出する。僕らがやって来たことはそういうことだ。こんな恋愛に、どちらが〝サイテー〟も何もあったものではないと思うのは、僕だけだろうか。

「最近、受験も近づいてきたからか、松村も落ち着いてきたじゃん。もう、自分に嘘つくの、やめたら?」
 すっかり黙り込んでしまった史穂の表情すらきちんと確認せずに、僕はさっさと恵泉へと向かう。史穂は呼び止めない。くだらない、嘘の恋らしい終わり方だと思いながら、僕はほくそ笑む。今ならまだ、講習に間に合うはずだった。

「これは、どういうことなの」
 恵泉での講習を終え、家に帰ると、篠美は台所にある食卓に座っていた。調味料が中央にまとめて置かれている食卓の上には、例の深川との写真が置いてある。ご丁寧に、横にはうちの住所が書かれた茶封筒まで置かれている。見直した。うちにまで送りつけてくるなんて、あいつもなかなかセンスがある。
「どうしたの、それ」
 至極、穏やかな声が出た。驚いたけど、高野がここまでやってくれたお陰で、崩せるピースが増えた。
「どうしたの、じゃないわよ! この人、深川先生よね? 担任の!」
 意外と皆、この格好でもきちんと見抜くもんなんだなあと感心する。篠美なんて、数回しか深川に会ったことないだろうに。まあ、クレアはケバい感じじゃないから、分かり易いのかな。クレアのモデルの年齢に近づける為に、ずいぶん塗ってはいたようだけど。まあ、どちらにしても、高校生の息子がラブホテルから出てくるところを激写したものなのだ、母親としてはその時点で問い詰めたくもなるのだろう。
「最近、成績が落ちてたのも、このせい!?」
 出た。女の人っていらいらすると、全然議題とは違う不満も次々思い出すんだよね。これ、あるあるだと思わない? どんな風に脳みそを使ってそうしてるのか、ぜひ解明してみたいって思うのは、僕だけだろうか。
「違うよ。エンを探してたから。トップ取ってた時から、先生とはつきあっ」
 頬を打たれる。家事ですっかり乾ききった掌は固くて厚く、流石に涙が出る。写真を見たことで、沸点が低くなっていたのだろう、すぐに半狂乱になった篠美は僕に馬乗りになって、バチバチと頬を叩いた。抵抗するふりをして、シンクに置きっ放しになっていた包丁を見つけた僕は、必死になってそれを床に落とす。狙い通り、それが篠美の目に留まってくれる。今日という今日は、篠美の理性のリミッターも、完全にぶっ飛んでくれているようで、あまりにも簡単に、篠美はそれを掴んだ。
「あんたなんか……っ」
 おいおい、流石にそれは怖いよ。包丁を掴んだ両手を押さえる。じゃないと、顔に振り下ろされるところだった。刺すならせめて腹とかにしてほしい。
――その時。
篠美が暴れる以外はしんとしていた家の中に、微かに別の音が響く。玄関の重いドアが開き、閉まる音。その音を聞いた僕に、悪魔が宿った。いや、でもどうなんだろう。篠美にとってみたら、天使が宿ったのかも知れない。

「おい……何してるっ!?」
 保が仕事から帰ってきた。最高のタイミングで。状況が状況だから声にはできないけど、笑顔でおかえり、と言ってやりたい。お前にしては上出来だ。
光景にたじろいだ保が叫ぶ。
「やめろ!! ルイ」
 保が玄関から、居間に移動するまでのストロークで、僕は身体にぐっと力を込めて、篠美からあっさりと包丁を奪い取り、逆に僕が馬乗りになった。今まで篠美に対して本気で闘ったことはなかったが、殆ど一瞬のうちに形勢逆転するのは、やっぱりそこそこしんどかった。
子どもの頃から胸に留めていた殺意が、ここに来てようやく昇華される。僕は認める。自分に対して手を出す母親に対して、やりきれない気持ちがあるのと同時に、殺意もきちんと生まれていた。
 保の制止の声もろくに聞かず、僕は抵抗する篠美を切りつける。無理な体勢だったせいで、刃は脇腹を掠める程度になった。五十近くにしてはなかなか甲高い、悲鳴を上がった。

「敦美(あつみ)さん、僕だよ。開けてくれない、かな」
声を掛けると、深川はすぐに開けてくれた。ファーストネームで呼ぶのは、言うことを訊かせる為の切り札なのだ。
「どうしたの、こんな時間に。……入って」
 隣近所を気にしたのか、深川はすぐに部屋に僕を招き入れてくれた。実はそれもちょっと狙って、声の大きさを調節していた。ドアが閉まるのを確認してから、僕は俯いて言う。
「親と喧嘩して、出てきちゃった。頼るとこ、他に無かったんだ」
 わざわざ、最終の特急に乗って、この部屋まで来たこと。その事実が、彼女の心を浮つかせる。きっと、この人との逢瀬も多分これで最後になる。だったら、完膚なきまで甘え抜いて、愛し抜いてやろう。確実に自分の中にある〝保性〟のおかげで萎えているとは言え、やはり深川への気持ちは、史穂とは一線を画す。甘える僕の頭を抱き寄せる、罪のない彼女をとびきりピュアな気持ちで想い慕う。
「どうしたの」
 気付いたら、涙が出てきた。この人に縋れるのは、今夜だけ。覚悟はできていたはずなのに、するすると同じ軌跡を辿っていく涙が止まらない。理由はよく解らない。どんなに若作りが功を奏さなかろうが、生徒に手を出すような不届き者だろうが、僕はこの人が好きだ。両親への復讐の気持ちばかりが、この人との恋へ走らせた訳ではないのだと、この段になってようやく気付く。

 それは、深川が担任になって、最初の進路相談の時間だった。この時からトップを取っていた僕の進路希望は殆ど定まっていて、話し合いはいち早く済んだ。向かい合わせにしていた席から深川が立ち上がったので、僕も次の生徒を呼びに行っていいのだと判断し、立ち上がった。言われたのは、その時だった。
「私と、付き合わない?」
 最初は、何を言っているんだろう、と、当然、思った。他に人のいない教室の中で、僕を凝視する彼女の視線にただならぬものを感じた僕の全身に、ざわざわとした恐怖心が注がれていく。
 それまで、恋愛なんてしたことが無かった。石野君は真面目だから、塾とかで忙しいから恋愛なんて興味ないよね。向けられる無言のイメージに抗う気持ちや嫌悪感を持つこともまるでなく、僕は僕を貫いてきた。深川にこれを言われた時はまだ、非婚や子どもを作らないと言う信念にも辿り着いていなかったし、恋愛をする自分のことをうまく想像できていなかった。
「何を言っているか、解ってるんですか?」
 正気ではあるだろうと思っていたけど、思い直すことがあるなら、これを否定と取ってくれるならそれがいいと思って、ありきたりだけど答えた。
「解ってるって言ったら?」
 困らせているつもりなのだろうか。馬鹿げている、と思った。
「じゃあ、僕が生徒で、先生が、教師だってことは」
 言うと深川は、馬鹿ね、と口角を引いて嘲笑った。
「解ってるに決まってるじゃない。らしくないわね。そんな頭の固いコじゃないって知ってるから、言ってるのよ?」
 正直、ドキリとした。昔から、クラストップの座を恣(ほしいまま)にする僕のことを、頑固だとか、真面目でお堅いと安易に評価する者が殆どだった。果てしなく高い成績を取り続けなければ殴られるような環境に置かれれば、喩え真面目でお堅くなんてなくても、クラストップなんて夢じゃない。少なくとも、それが可能な能力を備えているなら、特に。それに僕は、柔軟さが無ければ、好成績は保てないと考えている。ガチガチの頭に、閃きや応用力は育たない。石のように固い土に、植物が育たないように。しかし、もはや安易に頭が固いと決めてかかる相手に、そんな思想を押しつけても無駄だと言うことも気付いているので、別に否定したことはなかった。それこそ、自分は頭が固くない、と思い込むこと自体、頭が固い証拠のような気もする。
 しかし、頭が固くないなどと言われてしまうと、ズバリ言い当てられたように感じてしまうのは禁じ得なかった。ハッとしてしまった事実はもう、覆せない。間違いなく、黙り込んでしまった自分がそこにいた。
「好きか、どうか。付き合えるか、どうか。それだけを考えればいいの」
 そう言い切る深川の言葉に呼応するように、僕は目の前にいる、春の、色濃い斜陽を浴びた彼女を強く、見た。自分と相手の立場、年齢差、自分の中にある〝付き合う〟と言うことに対する、現実的なイメージ。そう言ったものを全て自分の中で取っ払うことが、僕にはできた。頭の固さを否定されることは、そのまま柔軟さを指摘されたも同然だったから。その評価に、応えたい気持ちがあった。
学校と言う場所に合わせた化粧では隠しきれない豊齢線が走りながらも、まだ衰えきらない甘い顔。その後に、メリハリのある蠱惑的なボディーラインを順に、視線を撫で下ろしていく。そして紺のスカートから下に伸びる、少しばかりくたびれた様子の足に目を走らせていた時には、何となく見てはいけないものを見ているような気持ちになり、思わず目をそらした。顔が、熱くなっていく。
 しかし、最後に立ち返ったのは、自分のことだった。深川に見初められる理由が、自分のどこにあるのか、それが解らない。この上ない程、素直さに絆(ほだ)されてしまった僕は、あまりにも率直に、その疑問を投げかけた。
「……何で、僕なんですか。僕、女性と付き合ったこととか、無いですよ」
 目をそらしたまま問いかけてしまってから、気付く。深川を、拒めなかった。僕のその気付きを嘲笑うかのように、ふふ、と深川は微かで技巧的な声を漏らした。
「知ってる」
 勝利を確信したらしい深川は、僕の目の前まで迫り、両耳にかかった僕の髪をかき上げ、手を止める。頭蓋骨を掴まれているような格好になった。向き直させられたお陰で、視界が深川の顔の大写しになる。目を、そらせなかった。
「恋を、女を知ったら、きっとあなたは完璧な男の子になる。そう確信したの。青田買いよ。完璧な男の子を、私は手に入れたいの」
 まるで僕に欠点など無いかのような、断定的過ぎる物言いなのに、深川の目には迷いがひとかけらも無かった。
「謙遜はナシよ。その完璧はあくまで、私にとっての完璧なんだから」
 後から考えてみれば、何てことはない、要は僕のことがタイプだ、と言うことに過ぎない。その後、キスをされたのにも関わらず、しばらく動けずに深川をただ見ていたのは、そんな歪曲的な物言いが、現実感を失わせていたせいだ。たぶん。
 長かったのか、短かったのかすらも解らないキスを終えた僕の脳裏には、家族が浮かんでいた。エンは中学の時点で、付き合って別れて、と言う恋愛を繰り返していた。自分の分身とも言えるエンは既に、こんな気持ちを味わっていたのか。自らの気持ちが揺れ動くたびに、出し抜かれているような感覚が後からついて来る。別に、競う意味なんてないのに。担任と恋愛するなんて、保や篠美が知ったら怒り狂うだろうな。保からも、篠美からも、きっと殴られるだけじゃ済まない。そう思った時に、僕の気持ちはようやく深川へと大きく傾いた。そうだ。僕は今、初めて、両親が望まないことを自ら進んでしているのだ。
 気付いた時には、遅かった。――嬉しい。バレたらどうしよう、なんて言う不安や恐怖には駆られなかった。レールから外れてやったことに対する快感、高揚感が、暴発する。
 捕らえるように、目の前の深川を抱きしめる。僕から初めて仕掛けた、決定打と言える、はっきりとしたモーション。この人なら、僕を保や篠美が支配する僕の全てだった世界の外を魅せてくれる。両親の存在が、僕の何かを圧迫していることには既に気付いていたけれど、そこから解放されることが、こんなにも快感だと言うことには、この時まで気付けていなかった。意味もなく両親に反発して泣いていたエンを馬鹿にしていたところが無いかと言えば、嘘になる。しかし、この時は彼女がきちんと本能に従っていたのだと言うことを理解し、敬服した。驚いたように一瞬、身体を強張らせた深川から、間もなく微笑む声が、身体を通したように響き、籠もって聞こえた。

がむしゃらに、若さに任せて深川を抱いた。今日は普通に学校もあった。高野も流石にこの人にまでは写真を提示しなかったらしく、彼女は何も知らないままの様子だった。テストが近いこともあって、彼女もここ何日かにかけてはかなりバタバタしていたはずだ。行為が済むと、彼女はすぐに眠ってしまった。急に泣き出した僕に理由を問うこともなく、かと言って察する訳でもなく、不安定な僕を解らないなりに身体で受け止めてくれた。その真摯さが、胸を打つ。
 だからこそ、僕は何も話せなかった。不透明を極めるこの先に対する不安や、事の重大さが、何度も僕を圧し潰そうとして、短い夜の隙間隙間に、言葉が落ちそうになった。そうやって何度も、全て洗いざらい話したいと言う気持ちに呪われたのにも関わらず、だ。
史穂や高野、両親が深川との事実を知って、どう出るか。少なくとも一人くらいは、事を大きくしようとするだろう。きっとこれから、深川には想像もつかないような日々が待っている。事情を話して、一緒に逃げたっていい。深川への気持ちに正直になろうと思えば、非人道的とは言え、その選択が一番だ。しかし、僕はこれ以上、深川を自分に巻き込みたくなかった。深川は、史穂の存在すら知らない。別に気付かれてしまっても、事情を話すつもりだったけど、その必要が無かったし、わざわざ僕から言い出そうという気は起きなかった。でも、その時点で、僕は深川を裏切っていたことにはなる。ここまで来てなお、深川に全て受け止めてもらい、一緒に逃げてもらうだなんて甘え方ができる程、僕はこの人に対してだけはドライになれない。好きだと気付いてしまったからこそ、今、最悪の形で裏切って、先生には一生、僕を憎んで欲しかった。

この部屋にはよく来ていた訳ではなかったけど、ある程度、勝手は知っていた。シャワーを使わせてもらい、身体を拭いていると、携帯が鳴った。非通知だった。保からだろうか。病院の公衆電話から? どちらにしても、携帯はこの部屋に置いていくかこの近くに捨てるつもりだったので、よく考えずに出てみた。多少、身構えながらも。
「……もしもし」
 相手はすぐに答えなかった。保ならまくし立ててきそうなものなのに、と思っていると、予想だにしない声がした。
『るん、私。エミ』
 紛れもなく、姉の、エンの声だった。そのひと言、二言だけで、泣いているのが分かった。同時に、それを隠すつもりもないのだ、と言うことが。自分の感情を隠そうとは露とも思わない、どこまでも素直な声だった。かけてきてもおかしくはないけど、心底驚いた。まさか、このタイミングで。
『久しぶり。ごめんね、夜遅くに』
 すぐに返事ができず、先にエンが続けた。天井を仰ぐ。ぽっかりと間抜けに開いた口が、どうしても閉まらない瞬間があった。ああ、と声と涙が漏れるのを必死でこらえるのが精いっぱいだった。
「ううん、いいよ」
 ようやく口を引き結び、答える。何事もないかのように装うのに、必死になりながら。本当にもう、何も知らないのはエンだけだった。保も、篠美も、史穂も。皆、既に僕の本性を知っている。今、寝室で眠っている深川だけは何も知らない、と言えなくもないが、それも今夜だけと言う時限爆弾付きだし、そもそも彼女との関係が僕の悪意の全てと言っても過言ではない。
『元気? るん』
 泣いて震えた声のまま、エンが続ける。気丈だと思った。泣いている理由は解らない。だけど、今まさに呼吸を整えて何でもない風を装おうとしている僕とは大違いだ。
「ああ、うん、僕は元気だけど……大丈夫?」
 エンが出て行って、二ヶ月以上が経っていた。それまで実家を出たことのないエンが、この二ヶ月、自分の力で生き抜いたのだ。そこに多少とは言い難いであろう軋轢があったことは想像に難くない。泣きながら連絡してきたと言うことは、やはり何がしかつらいことがあったのかも知れない。心配だった。
『だい、じょうぶ。ちゃんと、生活も……できてるし』
 凄いな、と思った。この二ヶ月で、生活が回るようにまでなったのか。きっと僕もこれから、彼女と同じような、若しくはそれよりも厳しい生活を強いられる。覚悟はしていたけど、自分にもできるだろうか。殺人未遂(しかも尊属殺人)で、刑務所に入るのも悪くはないけれど、両親にはもう、会うつもりがなかった。

 篠美を切りつけた後、出血に気が動転した篠美は地べたを這うように僕から逃げようとした。僕はすかさず篠美を捕まえ、首に包丁の刃をつきつけた。これを思いきり引けば、篠美は死ぬ。殺せる。殺せるのだ。
「よせ、ルイ」
 こんなに慌てた様子の保は初めて見た。背広にコートを羽織ったままの保は、顔面に貼り付いているその表情以外が、あまりにもいつも通りで、脳の混乱を深めていく。
「そこ、どけよ。どかないと、殺す」
 保はどかなかった。どうにかできると思っているのかも知れない。だけど見縊(みくび)らないで欲しい。僕は篠美の首に包丁の刃を喰い込ませてみせる。所詮は包丁だから、それだけでは首の皮に傷が走ることはない。しかし、僕に躊躇いがないことを察してくれたらしく、篠美はがくがくと信じられないくらいの振動を起こして震えあがった。
「やめろ!!」
 悪夢でも見ているかのような。そんな表情を、保はしている。保にも、僕の本気度は伝わってくれているらしい。しかし。
くだらないことで激昂してきてばかりいたくせに、こんな時に浮かぶ表情は、困惑。怒りではないのだ。そこに、保がいかに利己的な人間かが解る。実の息子が、最愛の妻に刃を向けているにも関わらず、この男は怒れないのだ。困っていると言うことは、損得勘定が生まれていると言うこと。こんな状況なのに。保は、本当に篠美を愛していたのだろうか。愛してきたのだろうか。ここに来て、それが曖昧になる。この夫婦を思い浮かべると、保の、尽きることのない無遠慮な言葉を、ただ飲み込む篠美、と言う画ばかりが浮かぶ。家族と言う型に、神経質に全員を填(は)めようとしていた保、それに盲信するように、隷属する篠美。仮面夫婦、と言う言葉が脳裏をよぎる。この夫婦は、なるほど最初から壊れていたのかも知れない。
「やめてほしかったら、早くどきなよ!」
 騒ぐ篠美を必死で押さえつけながら、保に訴えかける。
「落ちつけ、ルイ。話を、しよう。なあ、何でこうなった」
 泣き笑いのような表情を浮かべ、保が窘(たしな)めてくる。
「見ろよ、この血。話してる暇なんて、あると思うか……?」
 篠美の脇腹に広がる大きな傷からは、服越しからでも計り知れるほどの勢いで出血が続いている。早く手当てしないと、たぶん篠美の命が危ない。仮面夫婦かも知れないと思ったばかりだったので、少し心配だったが、これには保も素直に従った。僕の様子を窺いながら、ドアから離れる。僕も保に集中しながら、ゆっくりとドアに近づいていく。
「最後に教えてやる。僕がこんなことをしてるのも、エンが出てったのも、全部、お前のせいだ」
 こんなことを言ったって、きっと保には到底、理解できない。言葉を尽くしている暇なんてなかったけど、きっと僕が言葉を尽くしたところで、あいつは到底理解できなかっただろう。
篠美がしてきたことについては、話すのをやめた。かばって消えてやることが、篠美への復讐だった。保に己の過ちを話すかどうかを、篠美自身に投げつけてやること。保が帰って来たのに気付いた僕が、とっさに思い及んだ復讐はこれだった。篠美に手をかけていることを見せることで、保への復讐にもなる。これだけで、どちらにも重い復讐を遂げることができたのだ。
開いたままのドアまでたどり着くと、僕は保に向かって篠美を突き飛ばした。包丁も投げ出して、僕は振り向きもせず、全速力で逃げた。靴を履こうとする時に、保が顔を出したので、保の靴を保に向かって投げ、家を後にした。
僕は石野家のジェンガタワーの、どの辺りのピースを抜くことができただろう。それは解らないけど、この家族(タワー)が完全に崩れたのは、間違いないはずだった。

「でも」
 電話で話しているだけだから、望みは薄いけど、もし僕が涙の原因を拭えるのなら、と思った。泣いているエンを慰めるのは、昔から僕の仕事だったから。何が彼女に涙させているのかをまず、知りたかった。
『違うの。ごめん、るんの声が、懐かしかっただけなの。……家を出ておいて勝手かも知れないけど、私、るんだけは唯一の家族だと思ってるから』
 拍子抜けした。呆れかえってしまう程に。心配して損したと、そう思うのに、今度は僕が泣きそうだった。こんな言葉をかけてくれる人が、家族が、僕にもまだいたんだ。今まさに、家族をかなぐり棄てようとしている僕には、あまりにも勿体無い言葉だった。エンが何かに悲しんでいる訳ではなかったことに安堵しながら、僕は言う。
「元気なんだね」
 言いながら、落ちていく涙の熱さを地肌で感じていた。エンに倣い、僕も泣いている事実を隠さずに、声を漏らす。僕の唯一の家族に対する、唯一の素直さ。涙が何に由来するかまでは、勇気が出せず、語れなかった。このままの調子で、電話を切りたい。最後の最後、僕はエンに甘えてしまった。涙の粒は、道筋を作りながらも、顎から落下し、薄い胸を経由して、軽く突き出していた膝にまで落ちていった。シャワーから上がり、一糸纏わぬままに電話を受けていた僕の身体は、いよいよ冷え始めていた。

 電話を切り、また制服に着替えた僕は、一度、寝室に戻った。疲れからか、深川は裸のまま、いびきをかいて寝ていた。年齢を無視した格好ばかりしていた深川のそのいびきが、いかにも年相応に思えて、初めて自分よりずいぶん大人の彼女を可愛く思えた。暖房が利いているとは言え、季節は冬だ。布団をしっかりとかけて、最後に頬に触れる。家出する時のエンに倣ったつもりだ。姉に倣ってばかりの弟。僕。そんな風に思うのも、状況も初めてだった。あの時の僕と違って、深川が起きている様子はない。
殆ど手ぶらの僕は、そのまま深川の部屋を後にした。

epilogue・エン

「章義(あき)よし)くん、よろしくな」
 ビールを注ぐ保の目は探るようなニュアンスをまだ含んでるけど、大方認めてくれてるようで、改めて安心した。
「ああ、はい、こちらこそ。お世話になります」
 気圧されるようなふりをしながら、宇賀神さんがそれを受ける。その演技が、保にバレていなければいいな、と切に願う。なかなか食えない人だけど、この様子ならそれなりにうまくやっていってくれるのではないかな、と私は楽観的に考えた。篠美ちゃんにはかなりの高評価を与(あずか)っているし。

 比較的、シフトを多く入れていた浅田さんから、るんのことをいろいろ訊いているうちに、彼女と同い年だって言うのが何かの拍子でバレてしまい、高校生不可のバイトだったのと、嘘ついてたのが契約違反だからって言う理由で、私は宇賀神さんから直々にバイトをクビにされた。今はもうオーケーな年なんだからいいじゃないかと食い下がったら、じゃあ俺が食わせてやると言われた。それまであんなにガードが固くって苦戦していたので、いい意味で、きゃあああってなって、まじでもうドラマみたいと言うか、チョー私に都合のいい展開に驚きっ放しだった。……と思っていたら、世の中うまくできていて、宇賀神さんは私の両親に許可を貰いに行くとか物凄ーく困ることを言い出した。年バレした時点で私が家出少女なのは明らかだったから。どうも宇賀神さん自体がかなり家族をうまいことやっているらしくて、私と保みたいな関係を理解できない人らしかった。でも許可とか無理くね? だって私、家出してきたんだよ? って言ってみたり、保の底意地の悪さや頭の固さを説明するとかして説得しまくったけど、折れてくれなかった。私に気があるくせに、じゃないと別れるよ? って笑顔で言うものだから、結局私が折れた。不満げな私を見ながら、宇賀神さんはこうも言った。
「俺に嘘ついてた罰だ」
まあ私の最終目標はうちの家族みたいな家族を作らないことだから、別に認めてもらうのは絶対避けなきゃならないイベントって訳ではないなって思って、私も腹を括った。
……それに、るんのこともずっと気になっていた。あの人たちは、るんの失踪をどう思っているのか。その話を訊く為にも戻ろう。そう、思った。

 久しぶりに実家に帰った私を、篠美ちゃんが出迎えた。浅田さんが嘘を吐いているとは思えなかったけど、るんがいないことにやっぱり違和感を覚える。どこかで、帰って来たんだ、と底抜けに明るい笑顔で迎えてくれるような気がしていた。
 るんのことを訊くと、篠美ちゃんも保も、一瞬、口を噤んだ。自らを抱きしめるように脇腹を押さえながら、篠美ちゃんが俯いてしまう。すると、保が篠美ちゃんを庇うように、肩を抱いた。保が篠美ちゃんを気遣うようなその仕種に、面食らった。家を出て行く前では、およそ見られなかった光景だ。妻である篠美ちゃんにすら、ひたすら冷たかったからこそ、私はこの人のことが信じられなかったのだ。驚く私を見上げた保の目も、弱々しく翳っていて、私はなお驚いた。
「その浅田さんって言う子の言う通りだよ。あいつは、逃げたんだ。どこにいるかも、分からない」
 やっぱり、るんにまで居なくなられて、相当応えたのだろうか。パッと見で年を取ったなとは思ったものの、相変わらず冷え切った印象は健在だった。だけど、何一つ寄せ付けないようなあの頃の保は、そこにいなかった。
「ところで、笑美。宇賀神くんとのことだけど」
 都合が悪そうに、保が話題を変えた。宇賀神さんとのことを追求する時、保は少しだけ冷血なあの感じを取り戻した。そう言えば、付き合っている男性のことを、この人と話すのは初めてだ。ひやっと癖のように背筋が凍ったのに、私はその様子に心のどこかで安心してしまった。あんなにも嫌だったのに。上京してすぐ、あんな目に遭った時にすら、帰ってきたくないって思ったのに。ここに帰ってきてから、何だか驚きっ放しだ。保にも、自分にも。

 結局、篠美ちゃんどころか保にまで認められた宇賀神さんと、更に四年、東京で同棲して私たちは結婚した。会社からだという電話を終えた宇賀神さんが私に近づいてきた。
「異動願、正式に受理されたみたい」
 その声を受けながら、私は二階の自室から窓の外を眺める。宇賀神さんが、この町に来る。違和感が拭えないし、まだ何となく納得できていない私は、それにはきちんと応えない。
窓の外には、私が嫌いだった田舎の景色が広がっている。しかし、ここ数年でこのあたりも少しばかり発展を見せたようだ。窓から掠める程度に見える最寄り駅は、無人駅ではなくなっていた。プレハブしかなかった場所にきちんと駅らしい建物が建っていた。
 別に、ここでもいいか。苦しみながら必死で生き抜いてきた、東京での目まぐるしい生活を通して見えてきたのは、月並みだけど両親への感謝の気持ちや、この町の良さだった。
「ごめんねアッキ」
 付き合い出したことで、呼び名も〝アッキ〟と気安いものに変わっていた。彼はお安い御用とばかりに、うちの両親が出した条件を飲んでくれた。だけど、本当にいいのだろうか。家族と仲がいいと言っていたのに。いや、寧(むし)ろ仲がいいから許してもらえたの?
「いいよ。正直、俺この苗字嫌いだったから」
 イシノアキヨシかぁ、と嬉しそうに呟いたのを見て、その言葉に嘘がないのは確認できたけど、やはり私は少し不満だった。るんがいない今、もはやそれは、仕方がないことなのかも知れないけど。
「そう言えば、結婚式の写真、現像できたんじゃなかったっけ?」
「ああうん。そこにある。見よっか」
 写真映りが悪いものはハネてから両親に見せたかったので、隠して二階まで持ってきていた。篠美ちゃんあたりが、見たいって言い出しそうだったし。懸念した通り、何枚か酷いものがあったので、二人でげらげら笑いながら、マジで無理、マジで無理、と束から取り除いていく。
「あ」
 私とアッキが両方写っていて、笑っている写真。高校時代の友人、マキちゃんが撮ってくれた写真だ。手ブレもないし、映りも悪くはない。いい仕事をしてくれる。だけど、それをそっと、ハネの束に置く。
「あれ? これそんな悪くないじゃん」
 アッキが目敏く見つけるけど、いいの、と次の写真を上から重ねてしまう。
「うっわ、もうこれとか最悪」
 言うと面白そうにアッキが、私が持っている写真に意識を傾けてくれる。半目だった私の顔を見て吹き出したので、肩をばちんと、叩いた。叩きながら、後であの写真はこっそり抜いて取っておこうと思う。

 野外のチャペルでライスシャワーを浴びる私たち二人が映っている、更にその向こう。物陰に身を隠しながらこちらを見ている一人の男性の姿があった。少し遠くて表情とかは読めないけど、誰かはすぐ分かった。だって、彼は私とよく似ているから。性格や頭の出来はゼンゼン違ったけど、やっぱり私たちは、顔だけはよく似ている。普通に、出席できたらよかったのに、どうしてこうなっちゃったかな。私もアッキも、こんなにいい笑顔ができているのに、あんたのせいで見せられないじゃない。ねえ。

 ねえ、るん。帰ってきてよ。

外伝~清廉な朝

「お父さん、大変」
 清く、静かで穏やかであることが望ましい朝。朝は私がもっとも愛する時間帯だった。己がしっかりと余裕を持って目覚めれば、朝はそのままの美しさを伴って、私を迎え入れてくれる。今日も小寒いながら、朝の空気は美しかった。一日の始まりなのだ。総てがリセットされ、まじりっけのないこの時間帯。それを堪能してから臨めば、仕事など苦ではない。
それが、妻の篠美によって破られ、私はうんざりした。どうしてあいつはすぐ、こんな金切り声をあげるのか。連れ添ってからというもの、この女のここだけはどうしても受け付けない。昔から、子どもたちにも悪影響なのではと思い、都度注意してきているというのに、全く治らないから困ったものだ。素直で聞き分けのよいところは唯一認めているのだが、少しでも予想外のことが起きると、こんな風に脳に直接響くような声を上げる。脳に障害でもあるのではないかと疑ってしまう。
「なんだ騒々しい」
 余計なエネルギーを使いたくないので、妻が居間に降りてくるまで待ち、近寄ってきてから問うた。私の朝を邪魔するほどのことでなかったなら、ただではおかない。
 私の座るソファの前で立ち止まり、息を一つ飲む。無駄な時間だと思った。二階から降りてくるだけの短いストロークで、息を切らすなんて。自分の年齢と体力を計算に入れることもできないのか。もはや馬鹿としか言いようがない。
「笑美が、いないの」
 意味が解らなかった。篠美は下階から呼びかけても一向に起きてこない、愚かな我が娘・笑美を起こしに行っていた。こんな風にいつも篠美が呼びかけても自分から起きてこないくせに、鍵をつけろなどとのたまっていた。聞かされた時は娘の想像力の乏しさに嘆いたものだ。
 どういうことなのか聞くと、ベッドが空なのだという。いつもは私が出勤する時間にあの娘は起きてきて、ばたばたと準備を始める。清廉な朝を汚された気持ちになり、苦言を呈する気も起きず、私はため息を一つついていつも出勤する。
 それなのに、今日に限って、いない?
「早い登校だな」
 答えを先に行ってしまうと、愚かな娘はこの朝、家出をしたのだが、私はそんな感想しか持てなかった。そう、娘が残した手紙を見るまでは。
 私に篠美が一枚の紙を差し出す。幼稚なデザインのメモ用紙に、きれいとは言えない丸い文字が並んでいた。
「もうガマンできない。私はよそで生きていくので、さがさないでください」
 意味を咀嚼する前に、私の娘ともあろう者が「我慢」や「探す」も書けないのかと思い、情けない気持ちになった。
「家を出てったのよ! クローゼットを開けたら、服もないし。靴も、学校指定のが残ってて、遊びに行く時のがないの!」
 また金切り声だ。うんざりする。金切り声をあげたところで、問題の解決にならないとどうして気付けないのか。
 それにしても愚かな娘だ。今までぬくぬくとこの家に育ち、ろくに家事も手伝ったこともない十七の女が、よそでやっていけるわけがない。おおかた友人や男が手引きしているのだろう。
 娘は残念ながら、出来損ないだった。双子の兄である涙は、県外の国立高校に合格しており、まだ何とかなるかもしれないが、あの娘は偏差値の極めて低い公立校に進学し、私に恥をかかせてくれた。
 時計を見上げて、一考する。ただの家出だ。前にもあった。どうせ数日どこかに泊まってくる程度のものだろう。大したことではない。
それに、そろそろ出勤しなくてはならない時間だ。
「落ちつけ。あれものろまだし、まだ近くにいるかもしれないから、探せ。俺はもう出ないといけないから」
 私がそう言うと、篠美は愕然とした。うんざりする。何分何秒、あとこの女に時間を使わなくてはならないのだろう。
「心配じゃないの!? クローゼットにあった大きな鞄もないし、こんな置き手紙までしてったのに。携帯も置いてってるのよ!」
 いつもは従順なくせに、妙に反抗的な口調だった。頭に血が昇っているのは明白だった。いつまでも聞いていたら、きりがない。うんざりして顔を背け、私は立ち上がる。
「どうせすぐ帰ってくるだろ。そんなに心配なら、お前が責任を持って見つければいいだけだ」
 心配させたいだけだろうし、騒げば娘の思うつぼだ。私は立ち上がり、玄関へ向かう。どうして皆、こんなにも私の朝を乱し、邪魔するのだろう。こんなことが無かったら、もう少し居間でゆっくりできた。気持ちをリセットするために、朝の気配を外でしっかり浴びたい。それだけだった。

外伝~無自覚

ベッドがきれい過ぎる。そう思ったのが最初でした。
 それ以外は、いつも通りの朝だったんです。ええ、お父さんは気難しい顔をして、新聞を読んでいて、娘の笑美は呼びかけても起きてこない。食卓に並べておいた焼き魚は冷め始めていました。一気に焼きたいのに、娘だけが降りてこないから、いつも一人分だけ遅く作ってあげるのに。まるで反抗して私を困らせようとしているのではないかと思うくらい、娘はいつも私の作った朝食が冷め始めてから降りてきました。その上で、おいしくない、食べられないと、ほとんど食べずに出ていく。娘の分が残るか残らないか、それを確かめてから私は自分の朝食を作るようになっていました。お父さんも、息子の涙もだいたい同じ時間に起きてきて、一緒に食べてくれるのに。あの子さえ同じ時間に降りてきてくれれば、朝も一家団欒で食卓を囲めるのに。早起きのお父さんや、県外の高校に通うために早く起きる涙ほど早く起きる必要がないというのは承知していますが、私の苦労も考えてほしいと思ってしまうことが、ありました。
 そういう気持ちが、もしかするとあの子に伝わってしまっていたのかもしれません。

 ぎりぎりまで眠っているせいで、慌てて布団を飛び出すことも多く、慌てていなくてもあの子は布団をきれいに直していくことなんてしません。呼びかけても返事もなければ、降りてもこない。だから部屋に直接起こしに行く。ここまではよくあることでした。そしてベッドが空なのも、あまりないですがこれもないことではありません。お手洗いは居間を通らなくても行けるので、私たちが気付かないうちに起きてきて、お手洗いに降りていることがあるからです。だけれども、そんな時は当然、布団は乱れたままです。たいてい私がそれを直すのですが、寝相がよくないのかひねり揚げのようにねじれていたりします。こんなところにも、私は恥ずかしながら娘の反抗を感じてしまっていました。
 だからこそ、違和感があったのです。掛け布団が、きれいに敷かれていることに。
 まれに部屋に様子を見に行って娘がいなければ、そのまま部屋には入らず、お手洗いに降りているのか見に行きます。それで娘が見つからなかったことはありませんでした。しかし、ドアのところから見える布団の様子を確認し、私は部屋の中に入りました。子ども部屋ですから、そう大きくはありません。入って、ひとしきり見渡してしまえば、いないことは分かります。娘はもう高校生なので、押し入れの中に入るなんて幼稚なことはしないはず。しかもこんな朝早くから。もっとも、押し入れの前に娘の制服がかけられていて、それは乱れた様子も無くそこに垂れ下がっています。ブラシがかけられているのか、一見して皺もありません。すぐに視線を切り替え、ようやく私は机の上にある書置きに気付きました。
「もうガマンできない。私はよそで生きていくので、さがさないでください」
 雷が落ちたような気分でした。直感で分かりました。娘は、帰ってこないつもりだと。女同士だからなのか、お腹を痛めて産んだ我が子だからなのか、その境目すらもよくわかりませんが、いつも答案やメモなんかに書く文字を見ている私には、すぐにわかりました。少しだけ字がかしこまって角張っていることに。
いつもならもっと書くということの煩わしさがあらわれている小ささと、そして緊張感のない丸さ。それがその手紙の文字には欠けているのです。これは、明確に意図を伝えよう、読ませようとしている文字でした。
私はそのまま急いでクローゼットを開けました。いなくなるつもりなら、制服は置いて私服を持っていくだろう。鞄に詰めるだろう。一瞬でそう考えたのです。
案の定、最近着ているところを見ていない服と、古い服だけが残されていました。そして、最近よく着ているなと思うもの、気に入っているのだろうと踏んでいたあらかた服が消えていました。ここに収められていた、修学旅行用の大きなバッグが、そこについ最近まで詰められていた跡をはっきりと残したまま消えていました。
私は本当に家出したのだと確信し、夢中で階段を駆け下りました。階段の近くにある玄関を一瞥すると、あの子の学校の指定された黒い靴が置かれたままでした。靴箱を開けると、ぽっかりといつもプライベートで履いている靴だけが一足無くなっていました。荷物になると思ったのか、それとも玄関で靴を漁ると、一階で眠る私たちに気付かれると思ったのか、他の靴やブーツはあらかた手付かずでした。
昨晩、娘は何の前兆も見せずに、見事に私たちの前から姿を消していました。同じく二階で眠る涙も、二階から降り、準備をして出ていくまでのストロークで、きっと何も気付かなかったのだと思います。気が付かないまま、涙はもう登校してしまったのですから。双子の姉が出ていって、あの子はどんな気持ちになるだろう。血を分けたあの子は、娘が出ていく前兆に気付かなかったのでしょうか。涙からも何か前兆らしきものを感じませんでした。娘がずっと、お父さんやこの家に不満を持っているのは知っていましたが、まさかこんなに何の前兆も感じさせずにいなくなるなんて。私は自分が娘を見くびっていたことに気付かされました。
 まずはお父さんに伝えなければ。気付けなかったこと、出ていかせたことを詰られるだろうと考えましたが、伝えない訳にはいきませんでした。
 しかし、お父さんの反応は私の予想を超えていました。
「落ちつけ。あれものろまだし、まだ近くにいるかもしれないから、探せ。俺はもう出ないといけないから」
 信じられない気持ちでした。もともと、情緒が薄い冷静な人なのは覚えがありました。そういったところを頼れると思い嫁ぎましたが、この反応はさすがに予想外でした。
「心配じゃないの!? クローゼットにあった大きな鞄もないし、こんな置き手紙までしてったのに。携帯も置いてってるのよ!」
 普段ならありえないことでした。夫はいつも冷静で、正しい判断を下すので、私が指摘をしたり、責めるような場面はほとんどありません。納得いかないこともないわけではありませんでしたが、嫁いだ身なのだから従うのが当たり前でしたし、最終的にはやはり家長であるお父さんの言い分が正しいことがほとんどだったからです。
 ですが、手紙を見た上でもこんなに反応が薄いだなんて。信じられず、責めるような口調になりました。そんなことをしたら、倍以上になって返ってきて、自己嫌悪に陥るところまで責められるので、恐れもあって自重するのですが、この時は夢中でした。
 しかし、私の訴えにお父さんはうざったそうな反応を見せ、顔を背けました。向き合うことさえを拒むかのように。
「どうせすぐ帰ってくるだろ。そんなに心配なら、お前が責任を持って見つければいいだけだ」
 新聞をそそくさと畳み、お父さんは玄関に向かってしまいました。あっさりと出ていってしまい、私は呆然とそこへ立ち竦むばかりでした。
 どうして。どうしてどうしてどうして。整理もつかないほど、疑問があふれていきます。どうして娘は出ていくのか。どうしてお父さんはこんな時にいつも通り出勤できるのか。どうして息子も何も気付かなかったのか。どうして。
 どうして私は何も気付いてやれなかったのか。ぐるぐると疑問があふれては回っていきます。気分が、とても悪かった。
 すがるような気持ちで、涙の携帯に電話をかけますが、電車の中なのでしょう。電源が入っていない様子でした。仕方なく、メールを送っておくことにしました。はやる気持ちが、もともと不慣れな携帯でのメールの作成を鈍らせます。

 メールを送信し、私はお財布と鍵だけ持って、家を飛び出します。こんな朝から、友だちの家ということは無さそうなので、娘の友人宅にかけるより先に、私は外に出ることを選びました。娘が出ていったのはいつだろう。そもそも、涙が登校してからもう三十分は経っています。私やお父さんが起床したのはもっと前、靴箱を開けている様子でしたが、靴箱の開ける音は大きいので、居間にいれば気が付くはず。ということは、私たちが起きる前に、娘は。
 近くにはきっといない。どこに行ったのか、見当もつきませんでした。娘は世間的に見れば、派手な部類です。私の知らない友だち、恋人だっているかもしれません。どこかを探そうと思えば思うほど見当がつかず、娘のことを何も把握していないという事実が押し寄せ、私を責め立てます。私は五分もしないうちに、情けない気持ちに押しつぶされ、道にへたり込みます。
お父さんはあの瞬間でこそあんなに冷静でしたが、きっと帰って来ない日々が続くほど私に怒りをぶつけてくるはず。そして、娘はきっとこちらが見つけ出し、引っ張ってでもこなければきっと帰って来ない。お父さんは高を括っていましたが、あの子がいかにこの家が嫌いか、私は知っています。反抗期も終わってもおかしくない時期のはずなのに、あの子の心が離れていくのを私は肌で感じていました。あの子が家族の中で心を許していたのは、涙くらいなものでしょう。私にも反抗的でしたし、お父さんのことは毛嫌いしてなるべく会話しないように立ち回っていました。
娘がそんな態度だったのに、何故あんなにお父さんは高を括れるのか。あふれる疑問と自責の念に心が少しずつ剥離されていくようでした。
娘がどうするつもりかまったくわかりませんが、騙されて連れていかれたなら身の危険があるかもしれない。物言わぬ状態で帰って来てしまったら。どんな状況であれ、娘が不在となった状態で家の中がどうなっていくか。容赦ない不安も尽きること無く襲いかかってきました。
……そう、私はあの時、全く娘の身を案じていませんでした。母親なのに。自分を含め、出ていった娘を、お父さんを、涙を責めました。母親としてではなく、先のことをあれこれ予見して怯えていただけなんです。だからきっと、あんな、あんなことに……。

(ここから被害者、石野篠美は錯乱状態となり、聴取はやむなく中断。再開は後日、経過を見て。医師に都度相談。)

ツインズバインド

ツインズバインド

双子(姉弟)の話。 姉が駆け落ち同然で家出をして受難に立ち向かい、弟はよい子の仮面を被りながらタブーを冒す。 自分がしてきた思いを糧に、素敵な家族を築こうと奔走する姉と、家族が壊れることを狙う弟が織り成す家族小説。

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