考えない

考えない

朝4時50分。
自然と目が覚める。
誰に言われるでもなく自然と
足はベランダへと向かう。
カーテンを開ける。
外は夜と朝のちょうど中間。
「やったね」
心の中でそんなことをつぶやきながら
窓を開けてベランダへと出る。
空気が青白い。
まだ夜の気配も帯びているが
あと少しで朝になる、
この一歩手前の時間が三橋紀子は好きだ。
釣り具屋で買ってきた簡易椅子に腰かける。
いよいよ、今日だ。
やっとこの日が来た。
この日をゴールに今まで人生送ってきたといっても
過言ではない。
いや、それは言い過ぎか。
しかし30代になって常にそのことを
考え、もがき苦しんでいたことは事実だ。
38歳初婚。
世間に対する気恥ずかしさはあるものの、
それでも紀子はこの日を目指してなりふり構わずやってきた。
「そのドレスよりもこういったものの方がお似合いだと思います」
そう言って勧められた純白ではないクリーム色のドレスも、
「やっと、やっとか!俺、軍歌歌うからな!」
そう言って喜んでくれたあまり好きではない叔父のことも、
一つ年下の独身の同僚のことも、
料理があまり得意でない自分自身も、
今は結構どうでもいい。
とにかくここまできた。
その達成感で今は胸がいっぱいだ。
5時10分。
先ほどの空気が一変して朝の世界が視界いっぱいに広がる。
世界は、
世界はなんてすばらしいんだろう。
煙草をふかしながら紀子はそんなことを思う。
三十路をとうに越した自分を、それでもいいともらってくれる人が
いるなんて。
仕事もそのまま続けていいなんて。
子どもはあきらめようねなんて言っていたけど
紀子は全くそんなことは思っていない。
欲しいものは全部手に入れる。
これが紀子の人生の目標でありそのために
色々なものを犠牲にしてきた。
仕事を続けるために友情を、健康を。
彼氏ができてからは自分の時間を。
ふう。
どうしてだろう。
世界で一番幸せなのは間違いなく自分のはずなのに、
なぜかむなしい気分になるのは。
手に入れるまで頑張るのが好きなだけであって
手に入れたらまたいつものように飽きちゃうのかしら。
思考がじわじわとネガティブな方へ押し寄せられる。
そんなことない。
そんなことないとその思考を追い払っても
ひたひたひたとそれはしつこくついてくる。
そして紀子にそっと寄り添う。
「このままでよくないからそうするんだ」
紀子はきっ、と空を睨みながらそう独り言をつぶやく。
世間に対して申し訳ない。
親に対して申し訳ない。
ライフスタイルの差を見せつけられているようで友達と会うのもなにか嫌になる。
そんな気持ちが、今日のこれですべて払拭されるではないか。
私も次のステージへ行くんだ。
皆と同じになるんだ。
そう、皆と同じに。
明けきったすがすがしい朝の空気を胸いっぱい吸って、
紀子は2本目の煙草に静かに火を点ける。



考えない

考えない

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-30

CC BY-NC-ND
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