海市

海市

Suimy ZENSAN7参加作品

少年のいきさつ

街にはどの影すら認めることはできなかった。少年は母親のかいなのもとから無邪気に離れて、アスファルトのあいまあいまに健気に咲くタンポポの黄色い花を摘むのに夢中だったことを後悔した。「おかあさん」。間歇に訴える少年の声はただうつけたやちまたを通り過ぎるだけで、聞くものをのもたなかった。少年は頼りになりそうな目印を探しては駆けていった。彼のポケットからは摘んだタンポポの花がころころと、走る少年の関節にあおられて落ちていくのも気にせずに、ひたすらにしていると、不意にひらけた場所にでた。そこにあったのはざざんと嘯く大波小波と、はたはたと轟かすものを孕んだ曇り空だった。波瀾に乗った多くのとめられた船が上下に揺れている。ついには波がこちらの船着場の上を飛沫をあげながら脅かすようになると、恐ろしい予感に身を縛られていた少年はようやく金縛りから抜け出し、慌てて近くのビルを囲むフェンスをよじ登り、外についていた鉄製の非常階段を駆け上がった。今の今までの滄溟はいまや真っ黒になり、うねうねと動くさまは、眠りを妨げられたかの神さびた大蛇が、苛立ちげにとぐろを巻き直しているようだった。
「おかあさん」。少年は生気のまったく消え去ってしまった街影におおきく叫んだ。しかしその声も今や勝るものなくした津波の轟きにことごとく掻き消された。さらにそれは少年の躰までをも取り込んでやろうと、ずずずと、少年の真下に迫った。少年はそうなるものかと懸命に階段を駆け上がった。子供がそのビルの屋上にたどり着いたときには、街の家々は既に大津波にのまれ瓦礫となってその表面を慌ただしく行き交っていた。雨がどうどうと降った。津波は、本当に黒かった。塵埃を表面に際立たせ、火柱の上がる瓦礫をこれでもかと抱え込んだそれは見る間見る間に水位を上げてゆき、とどのつまりには少年のいる屋上まで脅かした。少年は波に打たれて屋上から飛び出しそうになったが、わずかに細い欄干がそれを食いとどめた。少年は荒れ狂う波間にそれを両手でぎゅっと掴み、なにくそ流されてたまるもんかと力の許すかぎりそうしていた。大小の瓦礫が彼をかすめ、彼のひばりぼねの躰をかまいたちにあったかのような擦り傷だらけにした。
少年は泡を吐きながら、どうして母親は自分を置いていったのだろうとかなしく思った。母親はどこに行ったのだろう、この下にある街にまだ居たのなら、罰があったのだと思った。自分を置き去りにするような母親は黒い波にのまれて死んでしまって当然だと思った。しかし、たとえそうだとしても、親に棄てられた不幸な自分は何を考えたってここに居るのであって、彼の思案のめぐりはめぐり回ってその事実を突きつけるのみだったので、少年は渦の中で声もなく泣いた。背後から大きな尖った角材が彼の背中をどついたので、彼は拍子に欄干から手を離してしまった。どのくらいの距離を漂流したのかは分からなかったが、彼が偶然ボートに引き上げられたときには、大水を食って真っ白く、冷たくぐったりしてしまっていて、人々は不幸にも事切れたものだとばかり思いこんでいたので、彼がふと水を吐きながら飛び起きた時、たいそうに驚いたそうだった。

霊山

彼の意識がようやっと周りを確認できるまでに回復したとき、彼は誰から貸してもらったのか大人ものの外套を羽織って震えていた。知らない人の、たばこの匂いがした。小さなボートには同じように寒さに震える人々がすし詰めになっていた。雨は止んでいた。彼の横の太った中年の女性が、目をつむったまま大きく疲れたようすで息をするたび、彼の肩を押した。目をめぐらすとどうやらボートは海の上を漂っていた。
「いや、まさにそのときだったんです」ボートのどこかで、男の人がひそひそ声で話す内容が、ボートに波打つ音のすきまに聞こえた。「観光の人から雇われて、金を出すからあの島まで連れて行ってくれっていわれていたんです。……そうです、日が暮れる前には迎えに来てくれっていうんで、ちょうど、その舟を出す準備の途中だったんですよ。確かに新聞には、今日は一日中晴天と書いてあったんですが、全くひどいお天気雨にあたったもんですよ。島にあがったあの人たちもたぶんのまれてしまったでしょうな。……この舟?いいや、その顔は見なかったです」
「本当、貴方にはこれから一生償っても償いきれません。……ここに乗ったみなさんは正に不幸中の幸いというやつでしょう。冥加であります。貴方の舟がまさか西洋に聞く伝説の箱舟だったなんて、一体今まで誰が考えたことでしょう」
「箱舟だなんてよしてくださいよ、それに、まだ生き残ったのが私たちだけというのも納得したくありません。この津波にものまれないような高台にゆけば、まだ誰かが避難しているかもしれませんよ。そうですね、この辺で言えば西方の流破山は、雲海をいつも笠帽子のようにして聳える天険の中でも特にそばだっていると言います。人々はそこを霊山と畏れ崇めておりまして、これを嘗天の山と言うそうです。天を嘗めるほどの高さなら、この大津波にも耐えていることでしょう。今この舟は、幸いにも波も浅いことでそちらに順調に渡っているのです。まるで霊峰が向こうから大縄で私たちを引っ張ってくださっているように。今さっき、殊に深く青々とした海淵を渡りました。あれはきっと、私たちの街の背嶺が抱えている青龍湖でしょう。あそこは小さい頃、私はよく叔父に湖は龍が背伸びしても底に尾がつかないほど深いので、絶対に入ってはならないと注意されたものです。ですから今あの湖を超えたとしましては、この調子であと半日もすれば嘗天の山に着くでしょう」
「嘗天山!」彼らの反対の人混みのなかから、老人のような皺れ声が上がった。「あそこの麓にはわたしの先祖代々の墓があるのです。うからはらから、あそこに墓を立てたのを長年誇りとしてきたのです。この頃腰をこわしてしまってからは、長らく参拝できていなかったのですが、まさか津波にそそのかれて行き着く先が嘗天山だなんて、わたくしなんとこの感激を言葉にしたらよいのでしょう。ご祖先の方々がわたくしをお呼びになってらっしゃるらしい!」
「ご老人、これも天の巡り合わせであるでしょうな。それにもまずこの船旅を耐えてください。じきに夜がきますともっと冷えます。だれか、余裕がある方はこのご老人にコートを貸してやってください。わたしは先ほどの子供に与えてしまった」
「……しかし、本当に海のようでおどろきだ。津波というものは、もちろん波であるからいつかは引いていくかと思ったら、そんなことはないらしい。あれから何時間も経ったが、まったく引いていく気配がない……」
少年は人々の背中のあいまから海を見た。海は地平線が見えた。その地平線にお椀をかぶせたような丸い太陽があった。上の空な空に、少年は少し興ざめた。
あれからしばらくもしないうちに少年は眠りについたのだが、人々の尋常ならない話し声でふいに起きた。次に、誰かが立ち上がったらしく舟が少し揺れるのを感じた。二人、目をこすって様子をみると、わずかな月明かりに二人の男が大荷物を一緒に抱えている光景が写った。この舟はたしか人でいっぱいいっぱいで、梱など積んであったかしらと疑問に思っていると、二人の男はそれを掛け声で放り投げてしまった。どぶんと音がして、人々の服の上に飛沫がぽたぽたと飛びつく音がした。そしてごそごそと二人がしばらく話したのち、それっきりまた、舟の上はしんとしたのだった。彼が記憶していたのはここまでで、次に目覚めた時には朝だった。
空は相変わらず雲ったままだった。彼はしばらく船底の板のささくれをいじくっていたが、あるとき隣にいたはずのあの肥えた中年の女性が居ないことに気が付いた。それを後ろにいた青年に尋ねると、本当は土に返してやりたいのだが、死気が広まっては困るので、やむなく水葬したと告げた。少年はこんどは恐ろしさで身が震えた。自分もあの女性のように熟睡してしまったら、いったい帰ってこれるかどうか分からないとなると、眠気にも正直になれなくなった。舟の上はしだいにそういった空気につつまれていった。船頭らしき白髪の男が、必死にみなを鼓舞していた。少年は恐ろしさか寒さかでぶるぶる震え、先ほどの青年は涙を噛み締めて静かにこれを諌めていた。もし気まぐれに大波がこの舟を襲ったら、みな呆気なく死んでしまうだろうと少年は思った。そして為す術もなく水を飲んで息絶えてしまうであろう自分が滑稽でなさけなくて辛かった。しかしそのような雰囲気も、進行方向から島影が雲の中より徐々に浮き上がってくると、たちまち消え失せて歓喜の声があがった。人々の涙は嬉し泣きに変わった。
「太古より流破山には山伏が住み着いていると聞きます。もし無事であったならば、是非とも連絡を取りたいと思っている。この事態を説明すれば、必ず救いの手を差し伸べてくださるはずだ」
流破山の大きな切岸に舟は留まった。そこは背の高い木々はどこにもなく、わずかに蘚苔植物が地面にはびこっていて、あとは齋津磐群が遥かなる山峰にまで霧に紛れて延々とあるのみだった。船頭が矢たけびを上げると同時に人々はこぞって舟を降りた。するとそのさんざめく人々の中から悲鳴が上がった。とある少女がむせび泣いているようだった。
「おお、おじいさま、ご覧ください!嘗天の霊峰が私たちを迎えてくださいました。だのに、ああ、幼少のころにあなたさまが嘗天の墳塋に連れ出して下さったことを今でもわたくしは覚えております。幼いわたくしが大事にあなたさまに抱えられて、隘路を下ったことも、墓前で唱えました経も、全て昨日のように思い描くことができます。おじいさまがかの時指差した遠景に霞んだこの嘗天の山を、今これほどまでに近くで拝めるというのに、このような仕打ちが、一体、誰が不束にも慟哭するのを我慢できましょう。おお、皆様お許しください。船頭さま、船頭さま!わたくしは昨晩のうちに感づいておりました。しかし、あのような仕打ちを見てしまっては、臆してかばってしまったのも、どうか見計らって大目に見てくださいまし。祖父は偉大なお方でした!床に就いてからは、口癖のように墓参りを悔やむことを言うので、わたくしもつらく思っていたのです。それが今日等で突然にも願い叶うときたものですから、祖父は自らの運命を悟ったのでしょう。どうか、偉大な祖父をこの山に埋めるのを、許してください」
敬虔な少女に船頭が感心した様子で言った。「なんということだろう、いや、よくぞありていにここまで語ってくださった。貴女の言葉を聞いて誰が反対するものがおりますか。山伏に会う前に、この哀れな老人の今わを見届けようではないか。さあ、あすこの岩の横に窪地がございます。さあ、さあ。」
一行は老人を担いで簡単な埋葬の儀式をした。少年は無言にそれを眺めていた。寥々とした流破山に、似つかわしくない波音が静かに流れた。少年は上を見上げた。霧がかった岩肌がどこまでも続いていて、この調子では天を嘗めるどころか貫いてしまうだろうと考えた。葬儀はすぐに終わった。少年は少女を見た。自分よりも4、5歳上のように思われた。彼女はもう泣いてはおらず、下唇をきっと噛んで、凛々しく背を伸ばして祖父の墓を見下ろしていた。大人たちは伝説の山伏のことについて、あれやこれやと慌ただしく話していた。
すると、上方から「こらこら、この嶮阻な懸崖を登り切ったのは常人らしからぬ偉業であるがしかし、ここは神聖なる流破山であるとは見通せなかったのか。大声が過ぎる」と、恐ろしく低い声が一行に威嚇するように響いた。音源を顧みると、巌の上に、鈴懸を着た、大男がきっとこちらを睨んでいた。彼は錫杖で足元をかつんと突いた。「山伏さま!」船頭がその下に駆け寄って言った。
「端緒は昨日の大雨でございます。それはたいそうな驟雨でございまして、降り止んだときには、私たちの街や背嶺さえも飲み込んでしまったのです。ほとんどの人は流され、死に絶えてしまいました。私は舟を持っておりますので、これで懸命に人々を助け出しましたが、これしか生き残ることはできませんでした。全ては海に沈められてしまいましたが、かの霊峰ならあるいはと思いここまで一晩漕ぎ続けてきたのです。俗世の泥にまみれたこの靴で霊山を踏みにじることをお許しください。真偽のほどは、少し下ったところに繫いでおりますわたくしの小舟をご覧ください。そしてその小舟は、あろうことか波に揺れているのです!」
山伏は目を丸くした。「ほほう、また下界が波に浸かってしまったというのか。じつは、何百年も前にも、お前たちのように漂流していた者を助けたことがある。人屋につなげられたものだった、老人であったな。あの時は大沼澤に住む大蛟が起こした洪水と聞いておったが、こんどもそれであるのだろうか。いや、また大津波が襲ったなど驚きだ。さあ、こちらにおいでなさい、儂の寝床は褥が一枚敷いてあるだけのものだが、じつは昔恰幅のいい商人が建てた館がその岸を辿ったところにある。そこならこの大人数も雨風ぐらいは凌げるだろう。他の難民?残念ながらあなた方しかこちらにたどり着いていないようだよ」
果たして嘗天山には、洋館が岩群のあいまにひっそりと建っていた。いったいこんな霊峰に洋館を建てるなど不躾にもほどがあるのではないだろうか。洋館は細工を多様に施し、輪奐の美を極めていたが、風化が激しかった。その館に追い打ちをかけるかのように、目前にまで潮水は迫っていた。一行は館の大きな扉を開き、暖炉のついた大きな部屋に入った。
「儂は常人よりも呼吸を整えることに長けておるから、この山の山頂にまでのぼれるのだ。あそこは空気が少ないので、練達のものでないと息が詰まって死んでしまうからな。……この流破山が霊山と崇められるわけには、この頂上がちょうど天とぶつかってあるから、この山を伝って天人が下界に降りてくると考えられていたからだ。儂は何度も天辺に登っておるが、天人の姿は見たことないがな。だが、そんな信仰を信じた律儀な商人が、天人がこの山に長逗留してもらえるよう、宿を作った。それがこれであると聞いていたが、彼が死んでしまってからは誰も手をつけないので、こうも荒れ果ててしまったのだ」山伏が暖炉に薪をくべながら言った。
「本当に天人さまはこちらにいらっしゃったのでしょうか」あの利発な少女が言った。「祖父も申しておりました。嘗天山の近くに眠れれば、天人がすぐに天の門前まで導いてくれるので、此岸でたむろすることないと」
「さあ、儂は随分とこの山に居る。その間こちらに登攀してくるような物好きは、先ほどの商人のようなよっぽどの敬虔なものくらいだ。しかもあの懸崖の下を覗いてみるといい。不幸にも足を滑らせて逝ってしまったもののされこうべが砂利にまじって溜まっているだろう。敬虔で、とりわけ運のめっぽうによいやつがこちらまで登ってこれるのだ。しかしこのせり出した巌の真上に据えられた館は、それこそ羽衣を羽織った天人くらいしか下からは行きつけないのだよ。商人が建設のために穿ったここまでの裏道も、館が完成すると彼は岩を落として通れなくしてしまった。このように、山頂から下ってきたものにはやすやすと館のまえにまで来られるのだが、麓から汗かきよじ登って来たものはこの真下で立ち往生してしまって、絶対にこちらまで上がってはこれない。彼らはこの館の下で引き返すしかないので、この館に出入りできるのは、儂だけのはずなのだ」山伏がふうっと息を薪に吹きかけると、炎がぶわっと広がり、室内はとたんに暖かくなった。
「しかし、儂はよく見るのだ。煙突からけぶりがもくもくと雲海にまじってゆくのを。慌てて確認しに行っても、この館には誰もおらんのだ。ただ、誰かがこちらに椅子をよせて今の今まで薪をくべていたかのように、部屋は暖炉の炎でぽかぽかしておったわい。食器が窓辺に並べて置いてあったこともある!市井の人々は、この館には辿り着けない。それこそ、今日のような大津波が起こらん限りだ。しかし、館にはよく気配を感じるのだ。この山の山伏は儂ひとりだけだ、そしてそうとなれば天人以外に何の可能性があろうか」
「いやしかし、危ないところでしたな。もう少しこの館が下にありましたら、先の洪水で波に飲まれておったでしょうに」船頭が白髪頭の水滴を払いながら言った。
「いいや、この館を惜しく思った天人さまが、水位をあそこでとどめて下さったのかもしれないよ。そのおかげで、私たちはこうやって暖を取れておりますから、何と感謝の言葉を述べたらよいの分からない」他の男がかじかんだ手を火にあてながらありがたそうに言った。
少年は大人たちの言葉をうつろ聞きながら、壁によりかかっていた。壁には植物の紋様をこしらえた素晴らしい細工がほどこされてあった。「坊や、寒くない?」例の少女が少年に近づき語りかけた。
「かわいそうに、まだこんな幼いのに膝下を離れて、たいそうに辛かったでしょう。山伏さまも優しいことだし、安心してお眠りなさい。あたしもあなたくらいの時に、母親を亡くしているからよくわかるの。今頃きっとあなたを必死になって探してらっしゃるわ……」
ああ、かなしいことに少女は自分の境遇の仔細を知らない!自分の境遇を知りながらそんな言葉を語りかけることができようか。哀れでどうしようもない自分!たといこの海が霧のようにすうっと引いてゆき街がまた元に戻ったとしても、自分を抱き寄せてくれる両親も家もないのだ。少年は涙を流した。そんなことを露知らない少女は、少年が母親をこいしがっていると思ったのか、抱き寄せてハンケチで彼の頬を拭いた。「あたしだってまだがんぜない子供なのかもしれないけれど、あなたのおもりくらいはできるわ!さあ泣くのをおやめなさい。せっかく乾かしたお顔がまたふやけてしまいますよ」彼は少女の腕にすがったまま、眠りに落ちた。
彼はそこで夢を見た。ハレーションしたような光景が一面に広がっている。水平線が見える。自分は空を飛んでいた。どこまでも海が続き、まるで青いタイルのようだった。空には、おおきな入道雲がいくつも浮かんでいた。再び海に目をやると、青い青いの中に、ぽつん、ぽつん、と何やら異物が浮かんでいるのが分かった。なんだろう、黄色いブイかなにかのようだ。もっと近づこう、少年がそう念じると視界はそれに狭まって行った。
あれは、少年には見覚えがあった。あれは、懐かしい、黄色い花だった。タンポポが、不幸にも花柄から上だけになった、梟首刑に処されたような哀れなタンポポが、ぷかぷかと、海の上に線状に浮かんでいる。少年は自分のポケットをたたいた。ポケットには何も入っていなかった。あれだけたくさん摘んでいたのに、気づかぬうちに全部いざこざのあいだに流されてしまったのだろう。そしてそのタンポポの列は、遠くに白く霞んで見える、大きな島にまで続いていた。……ああ、誰か、これを辿って僕を見つけて!このひとりぽっちの惨めな自分を!しかし、少年の叫びに答えるものはいなかった。はるか真下でざぶんざぶんと波音が聞こえるばかり。そうだ、お母さんだって僕を棄てたんだ。いったい誰が僕を探してくれるのだろう。誰が知っているのだろう。少年はまた泣き出した。そして海面に近づきそこに揺れるタンポポを飛沫と一緒に蹴っ飛ばした。花たちはちりぢりになって、ついには役目を果たさなくなってしまった。しかし、なんということだろう、少年はあの霧に霞んだ島の海岸に誰かが降り立つのを遠目に見た。
少年は急いで島に向かった。海岸には、真っ白な羽衣を着た美しい人が波打ち際を眺めていた。天人はすっと伸びた白い腕を伸ばし、岸に打ち上げられたタンポポの花を拾って、それについた砂を払いながら、しばらくそれを愛おしそうに眺めていた。すると、海岸の真ん前に建てられた館の大きな扉が彼女の後ろで開いて、同じように羽衣を羽織った男が現れた。天女のもとまで男が寄ると、彼女はその男に、仲睦まじげに話しかけるのだった。天女は下げた手の指先で花をくるくると転がしていたが、ふいに吹いた海風にタンポポは攫われてまた、真っ白な海岸にぽつり落ちたが、彼女は相手に話しかけるのに夢中で、もう花が地面に落ちたことなどどうでもいいのだろう。二人はしばらくすると足首まで海につかって、じゃれあいはじめた。
少年は恐ろしいものを見てしまった気がした。心臓の一拍一拍が満腔を飛び上がらせるくらいに強まった。見られてはいけない、あの男女に自分は決してみられてはいけない。あの霧がかった島から遁走するあいだ、彼らに向けた背中に視線が集まってくるようで、冷や汗でびっしょりになった。子供が起きた時も、同じようにたいそうに汗をかいていた。周りを見渡すと、皆が集まっている暖炉からすこし離れたところにある幅の広いソファに少年は横になっていた。横の一人掛けのソファには、あの少女が行儀よく寝ていた。ほそぼそとした話し声が、薪がぱちぱちと燃える音に混じって聞こえてくる。まだ大人たちは、暖炉で話をしているようだ。今はいつだろうと見上げた、炎できらめく天井のあいまにある曇り硝子は、真っ暗だった。少年は寝返りをうった。ソファは、古ぼけた赤色で、埃の匂いがした。表面には花の図案がびっしりと描かれていた。
結局少年はあのままずっと起きていた。気がつくと朝になっていたようだったので、伸びをして館の中を歩き回ることにした。暖炉の部屋のドアを、いつのまにか寝てしまっていた大人たちの妨げにならないようにゆっくりと開けて躰をすべらすと、廊下にでた。右にいくと昨日入ってきた玄関であったのは知っていたので、左手の奥へ少年は忍び足で渡った。廊下の絨毯は冷たく、踏みしめると埃の舞うのが窓から差し込む朝日でちらちらと見えた。廊下の突き当たりには綺麗な彫刻のある扉があった。扉はぎりぎりと軋みながら開いた。その先は、厨房のようだ。大小の鍋や器具が壁一面に掛けられていたのだが、不思議なことに、そのうちのいくつかは、まるで今さっき水で濯いだかのように、表面はぴかぴかしていて、水が底辺からしたたっている。あの大人のだれかが使ったのだろうか。いや、先ほど厨房のドアノブを握った手を少年は確認した。もし厨房をつかったのなら、ここの出入り口は今自分が入ってきた扉一つしかないので、このドアノブを握る筈だ。しかし自分の手はたまりにたまった埃で薄汚れていた。窓にさえ櫺子が付いている。少年は扉まで戻りドアノブをじっと見た。外側のドアノブには、自分の小さなたなごころがぎゅっと握りしめた後がくっきりと残っていたがもちろん、内側の厨房の側は誰も触っていないのが塵埃のつもり具合でわかった。間も無く不気味な気配を背中に感じた少年は一目散に厨房を出て暖炉の部屋に向かった。もしかしたら天人と同じ部屋に居たのかと思うと、子供は唯ならぬ恐怖を感じたからであった。
「本来はあの方達のものであるから、さしあたりそうであったとしても、無礼のないように」慌てて部屋に駆け込んできた少年に、みかねた山伏は言った。「好奇心を埋めるものなら、館を出たところにいくらでもあるだろうよ。幸い、そばだった切岸も、今となっては海岸となっているのだから、足元に気をつけていさえばいいだろう。館の裏庭の奥に、蘚苔に塗れた巨大な人面石がある。それを吟味するのもいいだろうし、猿に似たものや蛇が巻き上げたような奇怪な紋様のやつだってあるぞ。すべて商人が100人近い奴隷を引き連れて俗世のあちこちからかき集めた奇岩だそうな。……ほら、あの娘っ子が目を覚ましたようだ、彼女についていってもらいなさい。決して、館の影が見えなくなるまで離れてはいかんぞ。それに、この霊峰の頂の近くにある岫にも入ってはならん。あそこからは絶えず真っ白な雲が靉靆と吹き出でているので、お前のような身の軽い坊主は枯れ草のように吹き飛ばされてしまうかもしれん。まあ、その前に山頂の息苦しさに耐えられないであろうがな」

雲の吹井

ちょうど正午のころあい、洞穴を穿ってこしらえた閨に帰ったとされる山伏が、例の少女を抱えながら館に戻ってきたので、人々は恐ろしさのあまり震え上がった。魂を抜き取られたかのように気を失った少女を床に寝かせ、介抱しながら山伏は言った。
「儂が偶然通りかかった岩根の陰から拾い上げたときには、既にこうなっておった。もしやどこか躰を大きく打ったのかと思ったが、そのような痕もない。息もあるからそのうちには目覚めるだろうが、あの坊主が、一緒に連れ立って行ったはずの坊主がどこにもおらんのじゃ。儂は辺りを何度も探し回ったが、結局坊主の影は見当たらんかった。濃霧のこともあり、先に少女だけ連れ帰ったのだ。あれほどの注意をしたのにと儂も最初は業腹だったが、もしや天人に魅入られてしまったのかと思うと、そうも言ってられまい。こら、余裕のあるものは、今すぐにでも坊主を探しに行こう。儂が先導しよう。残るものは、この娘っ子の看病をつづけておくれ」
すると不意に息を吹き返した娘が、山伏の太い腕にすがりながら苦しそうに訴え始めた。「山伏さま、お待ちください。あたくしの話を、皆様がたに話さねばなりません。……天人さまが現れたのです」少女が必死にたばかるように言った。「申し訳ありません、わたくしのせいでございます。裏庭で坊やと遊んでおりましたとき、坊やが気づくとぶつぶつひとりごちておりますので何かと尋ねると、誰かの呼ぶ声がひんぱんにすると言うことで、気味を悪くしたあたくしが周りを確認しておりますと、彼方遠景に霞みます峠に人影を拝見いたしたのです。途端疾風(はやて)がびゅうと吹きそれにそそのかれたかのように坊やは、いきなり頂に向かって登攀しだしたので、山伏さまの言い付けを忘れたのですかとさんざん折檻したのですが、聞く耳を持たないのです。坊やをひたすらに追っていると、気づけばあたしたちは寂寞とした、ひらけた磐群の隙間にやってきたのでした。辺りは尊い天の(サンズイに景に頁)気に覆われて、ひとつ息をすうたびに喉が凍りついてしまうようでした。坊やは瞠目したようすで立ち尽くしておりましたわ、ええ、そうです、天人さまがその広場の片隅にいらっしゃっていたのですから!真っ白な羽衣がとてもまばゆく、直に拝見することは耐えられませんでしたが、目の端で捉えましたところお三方おりましてそのうちのお一人がこう仰ったのです。『人間が天界で生き死にを決められないように、天人も俗世では穢れを吸い込んで生き死にの際限がないのだ。異界で事切れてしまったのを気づくのは、いつだって故郷に帰ってきたときなのだよ。自分が死んでしまったことを知らないで、惨めに異郷で困り果てるのは人ならともかく、天人には許し難く、沽券に関わるものなのだ。この嘗天の頂は俗世にも天界にも数えぬ天淵の境目に聳える霊山である。ここならば我々も融通がきくので、あのわたつみの大波小波をたぐらせて此方まで来てもらったのだ。不幸な子だ、私はあの子の親があまりにも打ち打擲するのを見兼ねて注意したこともあったが、まさか天人とあろうものどもがこうも不徳の行いをするのは、見逃すことはできなかったのだよ。恣意なことに居心地が悪いのを理由に、情夫は相手の連れ子が可哀想にも溺れていくのを助けてやらず、塵界に取り残してしまったのだ。見玉え、こちらがその割った水盆の欠片であるよ。天人長者が重宝しておったたいそうに美しいものであったのに、全く台無しにしてくれるものだ。お陰で今この霊峰は首元まで水盆の水に浸かってしまっておる。下界も不幸に海底となっておるだろう。あの姦通した者どもの奸計であろうから、彼等に罰として腹がはち切れるまで飲ませるつもりだ。それまでは、干上がるのも暫く待ってほしい。……ああ、このような醜態を下界に晒し続けるものならば、市井の人々から段々と信仰されなくなってゆくのも当然であろうな、この霊山に登ろうとするものも、日に日に減っているがいい例えじゃないか』そうおっしゃいますと天人さまは唖然とした坊やの手をつつみ、いらっしゃいと優しく語りかけておりました。そして天人の皆様に連れられた坊やは、少し上にある山伏さまがおっしゃっておりましたあの白雲の吹井のような岫に連れて行かれてしまったのです。坊や坊やとあたくしは何度も呼びかけたのですが巌の隙間を縫うように吹き荒れる疾風や、岫から恐ろしい勢いで出でる雲海になにもかもの、躰も音でさえも吹き飛ばされてしまいまして、あたくしはまるでしんとした無音のうちに坊やの末期の姿を見ました。天人さまの白く輝く手を不安げに握り、気が向かないように歩いておりました坊やの背中は、岫の奥深くに一歩、また一歩と脚を踏み出すたびに、可哀想に弱っていってしまっているようで、十歩も歩かないうちに、坊やは冷たい岩の上に倒れこんでしまいました。哀れな孤児(みなしご)の今際の際をいたわるように天人さまは、やさしく麗しい腕で少年を抱きかかえ、更に岫の奥へ奥へと踏み入っていくのでありました。あたくしは居ても立ってもいられず、 天人さまたちの背中に追いつこうと峰を駆け上がりました時、ぶわっとあたしの躰を掬い上げられるような心地がしたあとは、もうなにも覚えてはおりません。こちらが哀れな坊やの顛末でございます」

海市

海市

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-30

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 少年のいきさつ
  2. 霊山
  3. 雲の吹井