秘薬
それは突然の訃報だった。大学ではあまりにも奇妙な研究ばかり繰り返していて異端者呼ばわりされていた先輩、卒業してから数年、会ってもいなかった。たまたま家が近所だという事で先輩の死を知ったが、恐らく他の同窓生はその死を知る事もないだろう。その遺体は先輩の自宅の一室で、ぼろぼろになって発見されたらしい。無類の猫好きだった先輩の遺体は、その飼い猫に食い荒らされた状態で発見されたのだ。
葬儀に向かうべく玄関を出て、はちきれそうな郵便受けを整理する。不精者なのは先輩譲りだな。するとなんとその先輩からの手紙が来ていた。バス停への行きがけに読んでみようか。『君には我が研究の成果を教えておく。我が研究の事は知っておるな。生命の限界を越える研究、すなわち不老不死への挑戦だ。細胞には分裂できる回数が決まっているが、ガン細胞だけは無限に分裂できる。そこに不老不死への鍵があったのだ。そして』
当時の事を思い出してきた。私と先輩は大学で不老不死の研究をしていたのだ。私は冗談だと思っていたのだが、先輩は本気だったらしい。その後、私はDNA研究所に就職したが、先輩は一人で研究を続けていたようだ。バス停に到着し、バスに乗って続きを読む。『そして、ガン細胞の無限の分裂能力を引き出す方法を発見したのだ。ガン遺伝子を活性化させつつも本来の機能を損なわないDNAを作り出す事に成功したのだよ。ガン抑制遺伝子を無効化したりテロメアを再生させる事も必要だが、こんな事は容易い。あとはこれを人体の細胞に送り込むわけだが、ベクター(運び役)としてウイルスを使う。これを投与すれば』
バスは葬儀場に到着した。先輩は学生時代の冗談みたいな研究をまだ続けていたようだ。誰からも相手にされていないのが気の毒で私だけが付き合ってやっていたのだが、勝手に助手扱いされて内心うんざりしていたのだ。でもいつしか私もその研究に興味を持ち始めていたのもたしかだ。
この地域では未だに土葬する習慣が残っている。辺鄙な片田舎だとはつくづく思うが、習慣なんてものはそんなものだ。
先輩の亡骸は損傷が激しい、飼い猫に食い荒らされるとは、無様な最後だな。
葬儀場には先輩との共通の友人のカーター君もいた。オカルトマニアの彼は、未だに先輩の死が信じられないようだ。彼とも、大学を出てからは一度も会わなかったな。
葬儀が済み、墓地に行き、家族の手で棺が土葬されるのを待つのみとなった。その用意に手間取っている間に先輩からの手紙を読む。『これを投与すれば全身の細胞が無限の再生能力を得る。それは不老などという生易しいものではなく、圧倒的な再生力を得るのだ。すなわち不老不死、不死身の肉体を得る事となるのだ。だがしかし、副作用の懸念もある。投与した後、しばらくは高熱を発して昏睡状態になるであろう。一時的に仮死状態になるかもしれん。これはウイルス感染による免疫反応によるショック状態であるが、これが沈静化した時には不老不死が実現しているはずだ。そしてその秘薬が今、我が眼前にある。もはや躊躇う事などあろうか? とはいえ死んだと』
ついに土葬が始り、棺が土中に埋められていく。土が振りかかる音に混じって何かを叩く音が聞こえてきた。さらに叩く音にまじって呻き声も聞こえてきたように感じる。まさか先輩が生きているのか? 若干の疑念を抱きつつも埋葬は完了したのだった。
埋葬が終わって帰宅する途中で先輩からの手紙の続きを読む。『とはいえ死んだと思われてはかなわんから君にだけは教えておこう。私が倒れたとしても、それは死んだわけではないから埋葬してはいけない』
すると、あのうめき声は先輩の声だったのか?ばかな、先輩はいかなる研究をしていたのだろう。私は先輩の家へと向かった。蔓草が汚らしくまとわりついてじめじめした先輩の家は既に廃屋のようであり、白骨死体を思わせる朽ち果てた雰囲気を醸し出している。用を成さない鍵のかかった扉を開けて進むと、大量の研究資材と書物がある部屋を見つけたので中に入る。
様々なバイオテクノロジーの書物の中に、一冊だけ異様な存在感を発する本がある。導かれるようにその本を手に取る。生娘の柔肌のようでもあり、ただれた老婆のようでもある感触のその本を無造作に開き読み始める。『太古の世界、この地上を闊歩せし旧支配者たち。豊穣なるシュブ=ニグラト、大いなるクルールー、名状しがたきハストゥール。無限の生命力を持つ彼等は旧神の怒りに触れて封印された。生命を構築する暗号の中に、忌まわしき災厄の担い手として押し込められてしまったのだ。その封印を解けば』
フギャ~!
突然背後から毛玉のようなものが飛びかかってきた。振りむきざまに払った腕に痛みが走る。尻餅をつきつつ毛玉を見ると、なんだ、猫じゃないか。びっくりさせやがる。私の腕に噛み疵を作った猫は、すでに私に興味を失ったのかそそくさと去っていった。
すると先輩は旧支配者の封印を解いて無限の命を得たのだろうか? かつて先輩と一緒に読み漁ったクトゥルー神話、これはラブクラフトによる創作のはずではないのか?
確かめねばなるまい。もし生き返るのなら、焼き払うしかあるまい。私は、スコップと灯油を持って、先輩の墓地へと向かうのだった。
先輩の墓地に行き耳をすますと、かすかに呻き声が聞こえる。やはり、やはり先輩は蘇ったのか? 必死になってスコップを振るい、土砂をどける。先輩の棺を掘り起こしてその蓋を開けた。
なんてことだ! 無残なはずの先輩の亡骸はすっかり元通りになり、しかも私を見ているのだ。焼き払わねば! 不浄なものは焼き払わねばなるまい! 何か私に話かけてくる先輩に灯油をかけて火をつける。オレンジ色の炎があがり熱気がぶつかってきた。肉が焼ける嫌な臭いが鼻腔に殺到してきた。
しかし、目の前で炎に包まれている先輩は焼き尽くされるどころか逆に再生しているじゃないか。どういう事なんだ? ついには火が消えてしまった。恐怖に震える私の目の前に立つ先輩は、ところどころ節くれだち、どす黒い箇所や緑色のネバネバした箇所があり、とても人の姿ではなくなっていた。恐怖におののく私に、なにかがからみついた。それは先輩から伸びてきている。振りほどこうにもあまりにも強い力だ。先輩に引き寄せられていく。もはやそれは先輩ではない、なかば不定形のぶよぶよした胴体に複数の口と触手を備えているものが先輩であるものか。その口が目前に迫る。助けてくれ! たす……。
ああ、人の生涯のなんと短い事か。いかに森羅万象の知識を詰め込もうとも、この灰白色のタンパク質の固まりである脳の死とともに全ては潰え去る定めだ。古の権力者達が求めて止まぬ不老不死の達成、誰一人として為し得なかったその頂へと、ついにこの私が到達したのだ。科学だけでは到達できないその扉の鍵を入手したのだから。肌浅黒い男によってもたらされた魔道書に秘鍵があったのだ。
その秘薬を投与した後、しばらくは昏睡状態かあるいは仮死状態になるかもしれん。埋葬されてはかなわないから後輩にこの事を知らせるべく手紙を書いておこう。私の研究を唯一理解できた男だ、きっとうまくやってくれるだろう。我が愛する猫達、ウルサールにバーストよ、しばらくのお別れだ。私が不老不死になれたら諸君等も不老不死にしてやろう。
そして全ての用意をして、ついに秘薬を服用したのだ。するとおもむろに悪寒がし、全身の関節が痛みだし、そして意識が……。
……ここはどこだ? この全身の痛みはなんだ?
暗い、そして狭い。何やら振りかかる音がする、その音に混じってお経が聞こえる。まさか、埋葬されてしまったのか。必死に頭を振り、眼前の板に打ちつけながら叫ぶ。
なんて事だ、後輩は何をやっているのだ。昔からあいつは少々間抜けではあったが、我が研究を唯一理解できた男だ、きっと掘り起こしてくれるはずだ。
酸欠で苦しい、全身の細胞が苦痛に喘ぎ、ネクローシス(外因的細胞死)を起こしている。しかし秘薬によってたちどころに再生していき、それに伴なって感覚が研ぎ澄まされていく。
しばらくすると、土砂を掘る音が聞こえてきた。その音は着実に近づいてくる。そして棺の蓋が開いた。
眩しさに目を細めながら見れば、後輩の姿が見えた。やはり掘り出してくれたのだな。
後輩にこれまでのいきさつを話し始めた時、液体をかけられた。この臭いは……灯油か?
ぐあ! 熱い、何が起こった? 目の前に紅蓮の炎があがる。まさか、焼き払おうとしているのか?
全身の皮膚細胞が熱によってネクローシスしていくのが感じられる。呼吸器も同様に損傷を受けていく。秘薬によって研ぎ澄まされた感覚が、より鮮明に苦痛を脳に伝達してくれる。
それでも、それでもなお細胞は再生をやめない。着実に増殖してついには完全に再生を果たしたのだ。しかし、細胞の増殖はやまない。その勢いは治まるどころかむしろ加速に加速を続けていく。これは、もしや細胞がガン化してしまったのか? ガン化どころではない、いつしか肌は緑色でどす黒くネバネバしたものに変容を遂げ、下顎部に多数の蝕腕が生えてきた。
あの男にもたらされた魔道書ネクロノミコンに記されていた、ガン細胞にのみ存在する無限の再生能力の開放。DNAに編み込まれた太古の記憶の開放。その意味するところとは?
そうか、そうだったのか! ガン遺伝子に封印されていた旧支配者を開放してしまったのだ。私の意識とは関係なく、蝕腕が伸びて後輩にからみつく。ちょうどいいエサだ! 食べてしまえ。駄目だ、食べてはいけない。目の前に迫った後輩にかぶりつきたい衝動をなんとか抑えてみずから蝕腕を引き千切り、後輩を遠くに押し投げ、最後の意識を振絞って叫ぶ。
「私を焼き払え、こんな炎ではだめだ! もっと強い炎が必要だ! 私は旧支配者を、我が身に復活させてしまったのだ。我が秘薬は、ガン遺伝子に封印された旧支配者を復活させてしまうのだ。カーターを呼べ。彼なら、……うほう、いはあ、いあ、いあ、くるうるうふたぐん!」
背中に衝撃を感じて覚醒した私は、先輩の声に驚愕した。オカルトマニアで神秘主義者のカーター君ならあるいは対処法がわかるかもしれない。先輩から逃げながら、彼に電話して事の次第を話すと、カーター君は冷静に答えてくれた。
「落ち着け! 研究所にあった本はおそらくネクロノミコンだ。旧支配者の封印を解いてしまったようだね。目には目をだ、クトゥグァを召還するしかないな。いいか、これから教える呪文を唱えるんだ。這い寄る混沌すら撃退する炎の魔神を召還するんだ。ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅぐぁ ふぉーまるはうと なふるたぐん、いあ、くとぅぐぁ。……、なんだ、お前は、やめろ!」
電話から争うような音と嘲笑と獣の唸り声が聞こえてきた。
「おい、どうしたんだよカーター! 何があったんだ?」
「肌浅黒い男に襲われているんだ! まさか、そんな、お前は……。助けてくれ! たす」
「おい! しっかりしてくれ、カーター!」
私の絶叫に対しても、電話からは反応はないのだった。しばらく呆然として立ち尽くす私に恐ろしい声が聞こえてきた。
「ばかめ! カーターは死んだ」
いったい何が起こったのだ? ふと背後を見ると、かつて先輩であった怪物が巨大化して迫って来ていた。緑色でぶよぶよしていて、多数の蝕椀を備えたそれは、まさしく神話のあの怪物にしか見えない。カーター君が教えてくれた呪文を唱えた。
「ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅぐぁ ふぉーまるはうと なふるたぐん、いあ、くとぅぐぁ」
すると天空から膨張し続ける炎の塊が飛来し、猛然と先輩であった怪物に襲い掛かった。猛烈な熱気が周囲をつつみこんで発火点をこえた樹木や家屋が燃え上がり、熱風が吹き荒れる。熱風を浴びつつかろうじて石の壁の影に逃げ込んで様子を窺うと、先輩であった怪物が今まさに焼き尽くされているのだった。そしてクトゥグァは天空に帰っていった。
終わった、そう思って自分の腕を見ると、猫に噛まれた傷がすでに治っているのに気付いた。背中に受けたはずの火傷も治っている。そして治った場所には緑色の粘液が……。
その様子を嘲笑いながら見ている男がいた。肌浅黒いその男の足元には猫のような獣が二匹いて、彼の手を舐めている。彼は月に向かって咆哮する。
「計画は成功した。封印は解かれた。我こそは這い寄る混沌なれば!」
秘薬