冬が来る前に

(一)

折からの寒風に、男は深くコートの襟を立てて家路を急いでいた。
商店街はすでにシャッターを下ろし、人通りは絶えている。

「おや…」

商店街の出口にさしかかった時、男は一軒の店から、やわらかな光が路上に漏れ出しているのに気付いた。

その光は、照らす、というよりも、降りそそぐ、という表現が似合っていた。
まるで太陽の光が粉末になったように、店から溢れ出しているのだ。

「こんな店があったっけ…」

男は訝しげに店の中に目を向けた。
しかし、店の中の様子を伺うことはできなかった。

暗かったのではない。
滝の正面に立てばその裏側が見えないように、溢れ出る光が視線を遮っているのだ。

男は光の滝をくぐるようにして裏へ回った。
そこには小さな木の扉があり、『忘れ物はありませんか?』と書かれた札が掛かっていた。

…『忘れ物はありませんか』だって? ドアの内側ならわかるが、どうして外側にそんなことを書いているんだろう? いったいこの店は…

男は、少しためらいながら、そっとドアを開けた。



(二)

外に降り注いでいた明るい光とは対照的に、店の中は薄暗かった。
ちょうど、夕焼けが闇に消えようとする頃のようだった。

店の中にはどこにも照明らしきものはない。
それなのに、店全体がほのかな光で満たされているのだ。

まるで空気自体が、蛍のようにはかない光を放っているかのように思われた。


目が慣れてくると、そこが教室だということが分かった。
そしてそれは、自分の高校時代の教室だった。

男は、自分が座っていた席を思い出した。

…真ん中の列の一番後ろ。居眠りするには格好の席だったなあ…

彼は苦笑しながら、ゆっくりとその席へ向かった。

…おっと!

何か丸いものを踏んで危うくバランスを崩しかけた。
彼は足下を見るまでもなく、それがなんであるかを悟った。

…硬球。

三年間野球部に所属していた彼にとって、それは自分の体の一部のようなものだった。

…あの時のボールだ…

彼の脳裏に、30年前のできごとが一瞬にしてよみがえった。

…あの時、俺はこのボールを…

彼は床に転がっていたボールを拾い上げ、両手の中にやさしく包み込んだ。
まるで、それが恋人の手であるかのように。

彼がそっと手を開いたその時、ボールがほうっと薔薇色の光を発した。

光は、硬いボールの中心から外に向かってゆっくりと広がった。
そして、すうっと中心部に吸い込まれては、またゆっくりと広がってゆく。
まるで心臓の鼓動のように、赤い明滅を繰り返すのだった。

彼は自分の席に座り、飽きることなくその明滅を眺めた。

やがて彼は、その光に誘われるように眠りに落ちていった。



(三)

うとうととまどろんでいると、突然、ひんやりとした柔らかいものが俺の顔を覆った。驚く間もなく、背後から「だーれだ!?」と呼びかける声がした。

その瞬間、俺は反射的に「…サチ!?」と叫んでいた。

懐かしいその声は、忘れようがない。

しかし、どうにも言葉が出てこない。
「どうして…どうして…」という思いが頭をめぐるだけだった。

俺は半ば無意識のうちに、自分の目を覆っている手に、自分の手を重ねていた。ほっそりとした小さな手……間違いなくサチの手だ。

その手をそっと握り、ゆっくりと顔から引き離す。

振り向いて、恐る恐る目を開けると、そこにはあの頃のままのサチが、いたずらっぽい笑顔で俺を見つめていた。

「おにいちゃん!」

何千回となく聞いたサチのその言葉が、今初めて聞くかのごとく俺の耳に響いた。


サチとは幼なじみだった。

隣に引っ越してきたのは、俺が小学校3年生の時。
両親に連れられてあいさつに来たサチは、ショートカットの髪にくりくりとした大きな目をしていた。一つ下の2年生だという。

サチは活発な少女だった。
近所の子供たちが鬼ごっこや馬乗りをしていると、「私も入れて!」と、自分から仲間に入って来るような子だった。

上級生も下級生も、男の子も女の子もなく、日暮れまで真っ黒になって遊んでいたあの頃。サチの申し出を断る者などなかった。

サチは、大きなひとみを輝かせ、体を動かすことが楽しくてたまらない様子だった。

帰り道はいつもサチと一緒だった。
サチも俺も一人っ子。いつしか、サチは俺を「おにいちゃん」と呼ぶようになり、俺もサチを本当の妹のように感じ始めていた。


5年生ぐらいになると、男の子たちは野球に熱中し始めた。
俺も毎日のようにバットとグローブを持って公園に出かけた。

そこには必ずサチの姿があった。
サチの目は、いつも食い入るように男の子たちの動きを追っていた。
しかし、その表情はどこか寂しそうだった。

「私も野球がしたい!」

ある日、サチは真剣な表情で俺に訴えた。

「ダメダメ、サチは女の子だろう。野球は男のスポーツなんだから。」
「どうして女の子がやっちゃいけないの!? そんなのおかしいよ!」
「う〜ん…どうしてって、そう決まってるんだからしょうがないだろ。」

サチは不満そうにうつむいた。


俺が中学生になる直前、サチは突然引っ越して行った。
何のあいさつもないままだった。

親に、「どうして?どうして?」と何度も詰め寄ったが、父も母も困った顔で「事情があって…」と言うばかりだった。

俺は自分の部屋から、毎晩のように明かりの消えたサチの家を眺めるしかなかった。



(四)

中学生になった俺は、迷わず野球部に入った。
家に帰るとくたくたになって、宿題もせずに寝てしまう毎日だった。
しかし、胸の奥にはいつも、日だまりのようなサチの笑顔があった。


五月になって、サチから手紙が来た。

…おにいちゃん。だまっていなくなってごめんなさい。
引っ越しの前はとってもつらくて、毎晩泣いちゃった。
でも、おにいちゃんにさよならって言うのはもっとつらかったの。
それに…おにいちゃんに心配かけたくなかったから…

サチは病気だった。
一刻も早く専門の病院で手術をする必要があった。
そして、その後も長く入院して治療を受けなければならなかった。

…手術はうまくいってね、もうすぐ外に出られるの。楽しみだなあ。でも、強い光をあびちゃダメなんだって。だから、朝早くと夕方だけ。もっと元気になったら、おにいちゃんに会いに行くね。そうしたら、おにいちゃんとキャッチボールがしたいなあ。


サチとはその後、何度となく手紙をやりとりした。
サチの返事は、すぐに来ることもあったが、1ヶ月たっても来ないことが多かった。それはサチの病状が一進一退を繰り返していることを示していた。



やがて俺は高校に進学し、相変わらず野球漬けの日々を送っていた。

3年生の新学期を迎えたばかりの頃だった。
野球部の練習を終え、帰り支度をしていると、フェンスの向こうから、
「おにいちゃ〜ん!」
と叫ぶ声がした。

俺は耳を疑った。

…まさか…いや、あの声は間違いなく…

「サチ!」

振り向くと同時に俺はフェンスに向かって駆け出していた。

「サチ、おまえ…」

「えへへ。来ちゃった。」

くりくりした大きな目、いたずらっぽく笑う表情…もちろん背は高くなったが、あの頃のサチとちっとも変わっていない。

ただ、いつも小麦色に日焼けしていた顔は、陶器の人形のように真っ白になっていた。沈みかけた夕日がサチの頬を赤く染めていた。

「大丈夫なのか?」
「うん。ご覧のとおりよ。運動と強い光に当たることは禁止だけどね。」
「それより、おにいちゃん。私がおにいちゃんの後輩になったって知ってた?」
「えっ!?」
「2年2組だよ。」
「……」
「びっくりした? どうしてもおにいちゃんの学校に入りたくて、こっちに戻ってきたの。家もまたお隣さんどうしだよ! 先輩! よろしくお願いします!」

おどけてお辞儀をするサチを、俺はあっけにとられて見ていた。

「ふふふ。おにいちゃん、大きくなったね。ちょっと手を見せて。」

言われるままにフェンスに右手をつける。
すると、サチもそこに右手を出し、俺の手に重ねた。
フェンス越しに、サチの小さな手の感触が伝わる。

「うわー、大きな手! この手で毎日ボールを投げてるんだね。……私も、生まれ変わったら男の子になって野球をやりたいな…」

一瞬、サチの表情が翳った。

「何言ってるんだい! 最近は、女子マラソンとか、女子柔道とか、女の子もいろんなスポーツができるようになってきてるんだぜ。早く病気を直して、まずはキャッチボールだろ。」

「おにいちゃん、覚えててくれたんだ! うん! 約束だよ!」

二人の姿が夕闇に包まれていく頃、俺とサチはフェンスの隙間から互いの小指を絡ませた。



(五)

サチは毎日のように野球部の練習を見にやってきた。
日射しを避けるため、いつも長袖に白い手袋をし、つばの広い帽子をかぶっていた。時には白い日傘をさしていることもあった。

その様子はまるで貴婦人のようで、ほどなくサチは野球部のマスコット的な存在になった。チームメイトたちは、フェンス越しに笑顔でサチに話しかけ、サチも楽しそうに言葉を返していた。

そういう姿を見る時、決まって俺の胸の奥から、ある感情がわき上がってきた。苦しいような、それでいて心が安らぐような…それが何であるのか、自分でもわからなかった。


やがて最後の県大会が終わり、俺は野球部を引退した。

その頃から、サチは学校を休みがちになった。
夏休みに入って間もなく、再び入院することになった。
病状は思わしくないようだった。
面会もなかなか許されなかった。


間もなく冬を迎えようとする11月の末、久々にサチを見舞うことができた。

「おにいちゃん!…来てくれたの!」

ベッドに横たわったままのサチの声は弱々しかった。
しかし、サチの笑顔には、心の底からわきあがる喜びがあった。

「ごめんね…心配かけて…」
「サチ…そんなことを気にするより、しっかり病気を治すのが先だろ。」
「うん。……おにいちゃん、あのね…」
「何?」
「私、ボールがほしいな。」
「ボール?」
「キャッチボールはできそうもないけど、おにいちゃんが一生懸命投げてたボールを持ってたら、病気に勝てそうな気がするの。」
「わかった。今度来る時持ってくるよ。」
「ありがとう……冬が来る前に……」
「え?」
「ううん。なんでもない。」

サチは、またあのいたずらっぽい笑顔を見せた。
しかし、俺はその笑顔のどこかに、サチの寂しさを感じていた。


次の日、俺は野球部の監督に事情を話し、真新しい硬球を一つ譲り受けた。監督もサチのことを気にかけていて、快く承知してくれたのだ。

放課後の誰もいなくなった教室で、カバンからボールを取り出し、机の上にそっと置いてみた。
「サチ、がんばれ。」
思わずそうつぶやいていた。

その時、慌ただしく階段を駆け上がる足音が聞こえ、教室の前で止まった。

監督だ。

俺の姿を見つけると、険しい表情で言った。

「たった今連絡があってな。……サチが亡くなったそうだ。」

俺は一瞬、監督が何を言っているのかわからなかった。

「亡くなった…」

その音の響きが鼓膜を揺らすだけで、言葉の意味が理解できなかった。
いや、無意識のうちに理解することを拒否していたのだろう。

次の瞬間、俺は走り出していた。

…サチ!待ってろ! 今すぐおにいちゃんが助けに行ってやる!

混乱した頭の中で、俺はそう叫びながら病院に向かった。
ボールを教室に残したまま。



(六)

「あの時、おにいちゃん、教室にボールを忘れていったでしょ。」

「私ね、病院で寝てたら、ふわーっと空に浮かんで、いつの間にかおにいちゃんの教室に来てたの。」

「私が『おにいちゃん!』って呼んでも、全然気付いてくれないんだもの……おにいちゃんが教室から出ていった後、私、そのボールをもらっちゃった。」

「だまって持って行ってごめんね。でも、おにいちゃんが私のために用意してくれたボール、とっても嬉しかったの。」

「『忘れ物はありませんか』っていうのは、そのボールのことだったのか…」

「うん、それもあるけど……。」

「……ねえ、おにいちゃん。ボールのお返しに、私からもプレゼントがあるの。」

「え?」

「ちょっと目をつぶっててくれる?」

「あ、ああ…」

目をつぶると、懐かしい匂いがした。太陽の…日だまりの匂いだ。

その匂いが急に濃くなった時、俺の唇にやわらかく温かいものが触れた。

驚いて目を開けると、目の前にサチの顔があった。サチも閉じていた目をゆっくりと開けた。

「あー、おにいちゃん! 目をつぶっててって言ったのにー!」

サチはそう言って、はにかみながらあのいたずらっぽい笑顔を見せた。


その時。
俺の心の底から、今まで経験したことのないような強い感情がわき上がってきた。

「サチ! 好きだ! 俺はサチのことが大好きだ!」

サチを思い切り抱きしめた。涙が溢れて止まらなかった。

「嬉しい! おにいちゃん、やっとその言葉を言ってくれたんだね。私、ずっと…ずっと…その言葉を待ってたんだよ。」

サチの目からも、後から後から涙がこぼれた。


「…おにいちゃん、私は今、光の国で暮らしているの。明るい光をいっぱい浴びて、思い切り体を動かして…とっても幸せ。」

「それに……その光の国はね、おにいちゃんの心の中にあるんだよ。だから、サチとおにいちゃんはいつも一緒だよ。」


どのくらい時間がたったのだろう。
気がつくと、そこは小さな公園だった。
ベンチの背にもたれて眠り込んでしまったらしい。

夢だったのか…

しかし、唇にはまだ生々しくやわらかな感触が残り、腕にはサチの体の温もりが感じられた。

「雪だ…」

白い花びらが暗い空からひらひらと舞い降りてくる。

「冬が来る前に…」

そうつぶやくと、男はコートの襟を立てて再び歩き出した。


(完)

冬が来る前に

冬が来る前に

晩秋の夜、男の胸中によみがえった温かくもせつない記憶。 忘れていたわけではない。 忘れられるはずもない。 ……しかし、僕は大切なことを忘れていたのだ……

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-07

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