春雷の如く
春雷の如く
「春雷の如く」
「やあ、今朝も調子はどうだ。春雷」
「ブルルル……」春雷もそれに応えるように嘶いた。
張遼は朝起きると、必ず愛馬「春雷」に声をかける。そして念入りに手入れをしてやる。飼葉を与え、体を拭く。この事だけは、決して従者にはやらせなかった。
「春雷がいてこそ、我が国最強と言われる騎馬隊を率いて行けるのだ」と張遼はひとりごちた。
春雷は、かつて中国史上最高の馬と称された、「赤兎」の子供だ。
赤兎の最初の子供を、張遼がもらいうけた。それが春雷だった。昔から春先に起きる雷は縁起が良いとされていたし、なにより戦場では、早く走り、力強い馬が重宝された。
雷のように素早く走り、そして雷のようにすべての者を恐れさせて欲しいと、春雷と張遼が名づけた。
「張遼将軍。呉軍が攻めてまいりました」と館の方から小走りに近づいて来た李典が、静かにそう言った。
この男は、どんな状況でも焦ったり、戸惑ったりしない。いつも冷静に事態を掌握し、そして的確な判断を下す。
「又、性懲りもなく呉軍が攻めてまいったか。してその数はいかほどか」張遼は溜息まじりに、そう問いかけた。
「その数、約十万人」
「十万だと!孫権め、遂に本腰を入れて、この合肥を攻略せんと立ち上がったか!」
張遼は城壁から、李典の指さす方角を見た。
そこには数えきれないほどの兵が、見渡す限りの大地を覆い尽くしていた。それはさながら黒い波が、こちらに向かって打ち寄せてくるように感じた。
合肥は戦線を維持する上で、重要な拠点だった。もしここが攻略されるのならば、呉軍はその勢いで、首都「許昌」をも落としてしまう可能性も大いにあった。だからこそ、勇将の張遼と、冷静に彼を補佐する李典が、この重要な拠点の守備を任されていたのだ。
だが、この時合肥の守備兵は、わずか七千人ほどだった。十万対七千。数だけで見たら、勝ち目はほとんど無い、いくさだった。
「李典、おぬしならいかがする」
李典は少し逡巡していたが、やがて静かに口を開いた。
「籠城し、味方の援護を待ちまする」
李典らしい。と張遼は思った。
「籠城か。勿論それが一番の策かも知れぬ。だが援軍がもし間に合わなかったら、おぬしどう言い訳するつもりだ」
さすがの李典も次の言葉に詰まっているようだった。
「のう、李典。人をどうやって殺す」張遼は全く関係の無い質問を李典に投げかけた。
「人をですか……それは首を落とすか、心の臓を一突きでしょうな」
「そうだ。つまり鈍器では人は死なんと言う事だ。鋭い槍の一突きで人はあっけなく死ぬ」そう言って張遼はニヤリと笑った。
「まさか……張遼将軍、それだけはやめられよ。いかに貴方が勇猛だと言っても、相手は呉軍の精鋭十万人ですぞ!みすみす命を落としに行くようなものですぞ!」
さすがに李典は、張遼の考えをすぐに見抜いた。
鈍器とは全軍でぶつかり合う事を指していた。そしてそれでは数の劣るこちらの軍では呉軍は死なない。つまり倒す事は難しいだろう。だが、槍で一撃を食らわす。つまり張遼は自分の直属の騎馬隊八百騎だけで、呉軍に槍の穂先のように切り込み、孫権の首を取るつもりだった。
大将の首が取られれば、呉軍は浮足立ち、兵達はちりじりに四散するだろう。だが、もしも孫権の首を取る事が出来なかったら……それは張遼の死を意味していた。
「もし我が騎馬隊八百騎がことごとく散ったとしても、李典、おぬしは城から出てはならん。堅く守備を固め、殿の援軍を待つのだ」
「見殺しにしろと」
「うむ。これは総大将の我が命令である」屹然と張遼は言い放った。
もしも一戦も交えず、合肥を突破されれば、恐らく責任を取って自分達は首を刎ねられるだろう。
だが、もしここで一戦交えての敗北であるのならば、李典以下、合肥にいる全ての将軍達は命を助けられるだろう。
つまり張遼は自分の命を捨てる事によって、他の将軍を救おうと言うのである。その気骨のある精神を汲み取った李典は、それ以上反論を述べる事をやめた。
「行くぞ。春雷」
張遼は春雷にまたがると、颯爽と城門に向かって行った。
「この合肥を落とせば、次は許昌ですな。殿」
「うむ。このままこの小城を落とし、その勢いで、突き進むのだ」
孫権は今まで、合肥に何度も攻め入ったが、ことごとく張遼によって退却させられていた。
だが、この十万という兵ならば、さすがの張遼だったとしても、手も足も出ぬだろう。このいくさは、孫権にとっても国の威信をかけた物だったのである。
孫権軍が、城まで後数キロと言う所まで来た時、突然城門が開き、黒い塊が飛び出して来た。
黒い塊だと孫権が思ったのは、実は数百頭の騎馬隊だった。だがその騎馬隊は統率が取られており、皆が同じ方向に動き、ある時は扇のような陣形になり、ある時は円陣に変化しながら、孫権軍に迫って来た。その様はさながら、大きな一個の生命体が、意思を持ち迫ってくるようだった。
「囲め!取り囲んで、一気にせん滅するのじゃ!」
孫権の命を受け、孫権軍十万が一気に張遼の騎馬隊を包み込んだ。
ある者は槍で突き、ある者は剣で切りつけたが、一個の生命体の前に立ち塞がった者は全て蹴散らされた。
十万の黒い波を、その一個の生命体は速度を落とすことなく、突き進んでいった。一里、又一里と、孫権の居る本陣に近づいてくる。
「何をしておるのじゃ!早く、早く取り囲んで殲滅せよ!」
だが孫権の激は、一般兵には届かなかった。
兵達は張遼の騎馬隊のあまりの凄まじさゆえに、皆浮足立ち、揃って「張来!張来!」つまり「張遼が来たぞ!張遼が来たぞ!」と言って、四散して行った。
「貴様ら!何をしておるのじゃ!」
「孫権様、ここは危険でございます。もっと奥にお逃げ下され」
部下の一人がそう言った時、すでに張遼はその表情が見える位の位置にまで近づいていた。そして孫権が一つ瞬きをし、次に目を開けた時、すぐ目の前に張遼が仁王の様な表情で孫権を見下ろしていた。
ブゥン
空気を切り裂く鈍い音を立て、張遼が、通常の数倍の太さはあろうかと言う槍を、小枝の様に振り回した時、孫権の身辺を保護する者達の首が数個吹き飛んだ。
孫権は咄嗟に身を屈めたため、首元を狙っていた槍先は的を外し、孫権の被っていた冠に当たって、冠は弾け飛んだ。
「殿を、殿をお守りするのじゃ!」
無様に地面に尻もちをついて張遼を見上げていた孫権に、覆い被さるかのようにした部下たちが、身を呈して孫権を守った。
張遼はその姿を一瞥した後、ここまで来た勢いのまま、遙か彼方へと走り去って行った。
「よし、ここまでで良い。引き揚げるぞ!」張遼が部下達に命じた。
「張遼様。我が隊の数十騎が……」
張遼が部下の指さす方角を見ると、数十騎が隊列から離れ、敵に取り囲まれているのが見えた。
「お前達は、先に城に戻っておれ」
「張遼様はどうなされるおつもりか?」
「わしは一騎で、あやつらを救い出す」
「そ、それはいかに張遼様とはいえ、危険でございます。私達もお供致します」
「ならぬ、これは命令だ!」
張遼は部下を誰一人死なせたくなかった。
「……分かりました。張遼様もご武運を」
「うむ」
部下達を見送った後、張遼は再び呉軍十万の中に飛び込んで行った。
「我が前を阻む者。全て斬る!」
張遼が天に向かってそう吠えると、呉軍の兵士達は恐れに駆られ、大した抵抗もせずに道を開けた。中には、張遼と春雷を阻もうとする者達もいたが、ことごとく張遼の槍の餌食となり、春雷に蹴り殺された。
張遼と春雷の通り過ぎた後には、無数の屍が山のように築かれた。
「おい!お前達大丈夫か?」
「張遼様!危険を冒してまで、何故我々の為にお戻りなされた!」
「おぬしたちは、我が手や足じゃ。自分の手や足が切られようとしているのに、ほっておく者はおるまい」張遼はそう言って笑った。
「張遼様……」
「何をしておる!このまま合肥の城まで走り抜けるぞ!皆の者、我に続け!」
そう言って、張遼と春雷は走り出した。
縦横無尽に戦場を疾駆する一人と一頭は、まるで春の稲妻のように、爽やかで、風流だった。
春雷の如く