幽玄館殺人事件 第2章 上陸
第2章 上陸
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8月26日(土) am 10:00 御巫自宅マンション前
八月の終りだというのに朝からまだまだ残暑は厳しい。俺はマンションの玄関近くにある花壇の植え込みに腰かけ、煙草を吸っていた。黒い半袖のワイシャツと使い古したジーパンを合わせたいつものファッションだ。
西岡さんから依頼を受けてはや一ヶ月近くが経った。あの後、一週間ほどしてから現地取材の日程が八月二六~二九日までの三泊四日になりそうだと西岡さんから電話があった(この時初めて知ったのだが、彼女は映画研で副会長を務めているらしく、今回の映画では助監督のポジションらしい)。由梨絵はいつでも暇だし、俺もこの時期はバイトを入れないよう調整していたので、二つ返事で了解した。すると、一時間もしないうちに詳しい日程の書かれたメールが届いた。どうやら俺たちへの確認が最後だったようだ。もし、その日取りは難しいと連絡していたらどうなっていたのだろうか。
初日は午後三時に鬼島行の迎えの船が来る千葉県館山市の布良港(めらこう)に現地集合する事になっていた。ここからはアクアラインを利用して木更津の方に出て、海沿いの一般道を使っても三時間とちょっとで行く事ができる。もちろん、有料道路で南房総の辺りまで行けばもう少し早くつけるが、由梨絵はきっと海が見たいと言い出す。時間はかかるけど俺としてもその方が好みだ。しかし、遅い。本当なら十時にはもう出発しているはずなのだが、俺の腕時計は既に十時を十五分も過ぎていた。まあ、そもそも十時に出発すること自体が少し早すぎるのだが、これは途中で飯を食べる事や、今の様に由梨絵が遅れること、途中で道草をしたいと言い出すことを見越して組んだ出発時刻なので問題は無い。
俺は煙草を携帯灰皿に捨て、携帯電話を取り出し由梨絵に電話をしようとした。これくらいの時間遅れることは彼女にとっては日常茶飯事なのだが、最悪まだ寝ている可能性すらある。前にも午前中に集合する予定で彼女が寝坊したことは多々あった。
「おまたせ」
電話帳から彼女の番号を見つけ、ボタンを押そうとしたまさにその時、後ろから由利絵の声がした。振り返ると彼女は真っ白な純白のワンピースに身を包み、少し大きめの麦わら帽子を被ってほくそ笑んでいた。彼女の黒々とした長い髪と大きな瞳が白いワンピースに良く合っている。
綺麗だ。正直そう思った。
「綺麗でしょ」
由梨絵はワンピースの両端を摘み上げお嬢様のような仕草を見せた。実際、お嬢様なのだが普段とのギャップが面白くてつい笑ってしまった。
「失礼なやつ」
由梨絵はわざとらしく頬を膨らませ、俺の車が止めてあるマンションの駐車場の方に向かって歩き出す。
「おい、お前の荷物は」
「そこよ、よろしく」
由梨絵は玄関の前に無造作に置いてあるピンク色のボストンバックを指さした。そのバックは彼女が遠出でする際に昔から使っている旅行用の物で、パンパンに膨らんでいる。持ち上げると感覚だが十㎏位あるのでは無いかと思う。
俺は勢いをつけてバックを肩に掛けると、駐車場に向かった。車の前に着くと、由利絵は車の助席側のドアに腰を掛けながら空を見上げていた。
「快晴ね。空があんなに青い」
由梨絵が言った。確かに快晴だ。雲一つ無い。しかし、明日の朝くらいから台風が関東地方に接近するらしいことを天気予報で言っていた。上陸は中止になるのではと少し期待したが、今のところ西岡さんからはそういった連絡は無い。
「嵐の前の静けさだな」
俺は車のロックを解除し、ボストンバックを後部座席に投げ入れながら言った。
「そうね。台風が来るのだから、まさにそのとおりよね……」
彼女は助席に乗り込みながら呟いた。どうやら、天気予報はチェックしている様だ。俺は車のエンジンを掛けながら聞いた。
「山が見たい? それとも海が見たい?」
「海が見たい」
即答だ。俺は了解と呟くと車を発進させた。運転しながら由梨絵の横顔を覗くと彼女は車内でも空を見上げていて微笑んでいる。機嫌が良さそうだ。
「ご機嫌だな。事件の真相が分かるから?」
「うん。それもあるけど……」
彼女は目線を下げ、窓の外に見える人通りを見つめた。
「あるけど?」
信号待ちで止まったので、俺は彼女の方を向き、先を促した。
「……孤島、台風、館、痛ましい過去の事件そして探偵と助手。これだけの好条件が整っているのならきっと何かが起きる。起こらないはずがない。ミステリならね」
彼女は俺の方を向き笑いかけた。俺はその笑顔をまともに視ることができず、自分でもよく分からない表情を浮かべ彼女を一瞥すると、正面に向き直り運転に集中する事にした。彼女はしばらくの間、俺を眺めていた様子だったが、再び窓の外を向き、景色を眺めはじめた。
「ミステリならな……」
俺は由梨絵に聞こえないような小さな声で囁いた。冷房をかけ過ぎているためなのか背筋が少し寒かった。
2
アクアラインを越え、海沿いに国道を進み、南房総市まで来た辺りで俺たちは昼食をとった。海の眺めは素晴らしく、空はどこまでも青く澄み渡っている。普段なら陰鬱なだけの長距離ドライブの運転も、今日は不思議と悪くなかった。俺たちは昼食を終えると、再び海沿いの道を走りはじめた。本当ならば、ここからは内陸のバイパスを通った方が早いのだが、自然と海沿いの道に向かってしまった。左手に大山を望む大房岬(たいぶさみさき)を回ったあたりで、海の向こうに目的地の鬼島が見えた。天候が良い為か結構はっきりと見える。
布良港には二時五十分頃に着くことができた。途中で由梨絵が飲み物が欲しいだの外に出て風に当たりたいだのと、色々要望を出してきたが、それらをすべて叶え、約束の十分前に着くことが出来たのは俺の計算が見事だったからだろう。由梨絵ひとりだったら、間違えなく二時間はオーバーしている。
布良港の漁港前にある、だだっ広い広場の様なところに使い古された白いワゴン車が二台並んで止めてあり、その周りで学生と思わしき一団が機材などを漁港に運んでいた。ワゴン車には「K大学映画研究会」と印字されている。俺は作業の邪魔にならない様に、ワゴン車から少し離れた所に車を停めると外に出た。すると、俺たちの車に近い方のワゴン車の助席が開き、中から西岡さんが降りてきた。彼女はピンク色のイラスト付きTシャツにジーンズというラフな格好でスニーカ―を穿いている。遠目では分からなかったが、近づいてくると丸っぽい眼鏡を掛けている事に気が付いた。
「こんにちは。御巫さん、遊馬君」
「「こんにちは」」
西岡さんのあいさつを、俺たちはほぼ同時に返した。
「西岡さん。今日は眼鏡なんだ。似合っているね」
普段の西岡さんはコンタクトをしているので、眼鏡姿の彼女を見るのは初めてだった。
「ありがとう。ちょっと気分転換でね。中学の時にしていた眼鏡だけど、まだ似合うみたいで良かったわ」
「気分転換ね……」
隣で由梨絵がボソッと何か呟いたようだが、俺には良く聞こえなかった。西岡さんは由梨絵の方を向くと一瞬にして表情を緩ませた。
「御巫さん……。その恰好すごくかわいいわ。まるで絵本の中のお姫様みたい」
麦わら帽子を被った白いワンピース姿のお姫様が出てくる絵本なんて有るのだろうか? 俺は少し考えたが全く思い浮かばなかった。だが、由梨絵に対するこの手の比喩は聞き飽きている。つまりは綺麗とか美しい、可愛いという意味合いのその人ごとの最上級系なのである。
「ありがとうございます。西岡さん」
由梨絵は微笑みながら頭をちょこんと下げた。こうして彼女は、同性からはかわいがられ、異性からは好かれる。まさに悪女だ。
西岡さんはまだ由梨絵を見ていたそうな様子だったが、俺の方に向き直ると状況の説明を始めた。
「いま、映画研のメンバーが機材を漁港の方に運んでいるの。もう少ししたら鬼島から高島さんが船で迎えに来るからね。それじゃあ、私たちは先に漁港へ向かいましょうか」
彼女は以前、部室で話した時よりも格段に親しげな口調になっていた。正直こちらの方が話しやすくて助かる。
「車はどうすればいいかな」
俺は後ろの車を指さし、聞いた。
「この辺りにはコインパーキングみたいなものは無いの。でも、特別にこの場所に駐車する許可をもらっているから、このままでも大丈夫よ。ただ、屋根は無いから台風は少し心配だけど……。何なら、ガレージを借りられないか漁協の人に交渉してみましょうか」
「いや、たいして大切な車でもないから大丈夫だよ。風で飛ばされはしないだろうし、物が当たって傷が付くくらいなら全然気にしない」
俺の車は、知り合いからただ同然で譲り受けたような物だから壊れようが盗まれようがどうでもよかった。それよりも、漁協の人にそんな交渉をしに行く方が面倒だ。
「そう、じゃあ行きましょう」
西岡さんが漁港に向けて歩き出すと、由梨絵もその隣について歩き始めた。俺はさも当然の様に自分の荷物と由梨絵のボストンバックを持ち、二人の後ろを少し離れてついて行った。歩いている間、西岡さんと由梨絵は何か楽しげに会話をしていた。内容は良く聞こえなかったが、由梨絵の方も徐々に西岡さんと打ち解けてきている事は分かった。由梨絵が西岡さんの前でお嬢様口調をやめるのも時間の問題かもしれない。それくらい、仲が良さそうに見えた。
布良港は比較的大きな港で、あちら此方に磯釣りを楽しむ釣り人がいる。映画研の荷物や機材は海に向かって伸びている細長い磯の奥に集められていた。そこには二人の学生風の男女がいて、その少し手前にも学生風の男が一人いた。西岡さんはその手前の男に近づいていく。
「水谷君、御巫さんと遊馬君を連れてきたよ」
水谷と呼ばれた男は煙草を吸いながら、磯から海を臨んでいた。後姿からかなり大柄の様だ。彼は西岡さんの声に反応すると、煙草を足元に捨て靴で踏み消しながら振り返った。やはり、がっしりとした体つきで、ラグビー選手の様な印象を受ける。白い半袖のワイシャツとカーキ色の7分丈パンツ を着ていて、妙に渋い顔つきをしていた。
「ああ、歩美ちゃんありがとう。御巫さん、遊馬君。俺が映画研究会会長兼監督の水谷信二です。よろしく」
水谷は右手を差し出し、握手を求めた。
「此方こそよろしくお願いします。水谷さん」
由梨絵はすぐに笑顔で握手に応じた。俺は荷物を足元に置いてから答える。
「いや、想像以上の美男美女だ。これは映像映えするぞ。おーい、奈々枝、森田」
水谷が声を掛けると、荷物の辺りでカメラを弄っていた男と、腕を組み堤防に寄りかかりながら携帯電話を弄っていた女性が近づいてきた。
「紹介するよ、彼女がリポーターの倉谷君」
「倉谷奈々枝です。文学部三年で御巫さんと一応同級生よ。たぶん、今まで面識は無かったと思うけど。よろしくね」
倉谷さんはデニム生地のショートパンツにピンク色のサマーセーターを合わせていた。髪は肩の辺りまで伸びていて、外側に跳ねている。顔立ちはリポーターを務めるだけあって、一般的には美人の部類にはいるだろう。だが、目元が釣りあがっていて、どことなく気が強そうな印象をうける。
「そうでしたか、よろしくお願いします」
由梨絵はわざとらしく驚いた表情を浮かべ(あくまで俺から見てである。きっと他の人には本気で驚いている様に見えただろう)、首を傾げながら言った。彼女はほぼ一年中部室にいる。例え同じ学部の同級生であろうとも、彼女に会う事は難しいだろう。
「で、こいつがカメラマンの森田だ」
「森田和弘です。西岡先輩から聞いているとは思いますが、よろしくお願いします。」
森田君はポケットの多い機能的なズボンと白いTシャツ姿だ。程よく筋肉が付いていて背も平均より高め、顔立ちも良く好青年と言った感じだった。思い返してみれば、経済学部の全学年共通の選択科目で彼を見たような気がする。
「はい、西岡さんから色々とお話は伺いました。森田さんがまとめられた事件の資料も拝見しましたよ。とても分かりやすくまとまっていて参考になりました」
「そうですか、なら良かった。事件の事で何か知りたいことがあったら、遠慮なく聞いてください。分かる範囲の事はすべてお話しますよ」
森田君はさわやかな笑顔を浮かべながら答えた。俺には到底真似出来ない。
「頼りにさせてもらいますね」
由梨絵も笑顔で返した。
そうしてしばらくの間、六人で雑談をしながら過ごしていると、男性二名と小柄な女性一名が最後の荷物を運び終えて合流してきた。小柄な女性が西岡さんに車の鍵を渡して、荷物を運び終えたと伝えると、水谷が俺と由梨絵に彼らを紹介した。
「小さな彼女が高野さん、そして後ろの背が高い方が中村で低い方が田中だ」
「はじめまして高野千佳子です。商学部二年生で演出を担当します」
高野さんはぺこりと頭を下げた。髪型は三つ編みで、顔にはそばかすのある牧歌的な少女だ。綺麗な目をしている。
「高野さんの補佐をしている文学部一年の中村一樹す。よろしく」
「編集補佐の工学部一年、田中俊樹です。よろしく……」
中村は背が高く、元気が良い。タオルを鉢巻きの様にして頭に巻いていて、工事現場の作業員の様な恰好をしている。これで文学部なのだから人は見かけによらない。一方、田中は標準的な身長で小太り、丸顔、おまけに眼鏡まで掛けている典型的な理系人間といった印象だ。彼が工学部なのは納得できる。
三人が挨拶を終えたちょうどその時、入り江の中に船が入ってきた。前方にデッキのついたかなり大きい船で、流線型のボディから速さが出る船なのだと一目でわかる。その船は荷物の置いてある磯の辺りに接岸し、操縦席から初老の男性が出てきた。白髪が目立つ髪の毛はきちんとオールバックで固められ、夏だというのに長袖のワイシャツに蝶ネクタイまできちんと締めている。
「お迎えに参りました。幽玄館管理人の高島宗平です」
宗平氏は軽く頭を下げ、掛けていた銀縁の丸メガネを一回だけ持ち上げると、姿勢を正し、直立不動のまま言った。完璧なまでの執事だ。由梨絵の実家に何でもできる超人的な高村さんという使用人がいるが、彼と比べても見劣りしないくらい優雅な身のこなしと洗練された雰囲気を放っている。数秒の間、由梨絵以外は呆気にとられていたが、西岡さんが切り出した。
「あ、ありがとうございます。K大学映画研究会の西岡です。今回は突然の事でご迷惑かとは思いますが、よろしくお願いします」
「貴女が西岡様ですね。迷惑だなんて、とんでもございません。隆文様からもよろしく頼むと言われていますし、私や妻も普段来訪が無い幽玄館にお客様を招くことが出来て喜んでおりますよ」
宗平氏は優しそうな笑顔を浮かべた。
「ところで、森田和弘様はどなた様でしょうか。失礼ながら私自身、和弘様にはまだ会った事は無いもので……」
宗平氏は俺たちを見渡し、森田君を探す素振りをした。
「はい。僕が森田です」
森田君はやや遠慮気味に腕を上げながら答えた。
「ああ、あなた様が和弘様でしたか、どうぞよろしくお願いします。和弘様」
宗平氏は右手を胸のあたりに置きながら深々と頭を下げた。森田君は恥ずかしそうな表情を浮かべ、小さく頷いた。全員が宗平氏に軽い自己紹介を終えると、映画研の面々は船に荷物や機材を運び始めた。俺と宗平氏は彼らの荷物運びを手伝ったが、由梨絵はひとりで先に船のデッキへと上がり、中央に三列で備え付けてある長椅子の一列目に腰かけた。
そうして、すべて荷物を船に運び終え全員が船に乗り込んだ頃、一人の男が船に手を振りながら近づいて来た。
「悪い。遅れた」
「間に合ってよかった。来られないんじゃないかと思っていましたよ、中さん」
水谷に中さんと呼ばれた男は手を合わせ、謝りながら船に乗り込んだ。その様子をデッキの端で見ていた俺に西岡さんが教えてくれた。
「あの人は四年生の中林先輩よ。去年、会長を務めた人で今回は映像編集を担当してくれるの」
中林は半袖のボロシャツにジーンズ姿で、妙に顔立ちが老けている。そのためか学生には全然見えなかった。あとで本人から挨拶された時に聞いたのだが、彼は医学部の学生で普通は就活などで忙しくサークル活動には専念できない四年生ながら今回の映画に参加できたのだそうだ。
「それではみなさま、出航しますのでお気を付け下さい」
船内に宗平氏のアナウンスが流れた。数秒後、船は大きなエンジン音を立て、滑るように前進をはじめ、入り江を出てからその速度を徐々に上げていった。俺は操縦室の壁に寄りかかりながら、デッキに座る由梨絵を見つめた。彼女は麦わら帽子を膝の上に置き、遠くの海原に浮かぶ鬼島に視線を向けている。由梨絵の黒髪は風にたなびき、彼女は右手でこめかみの辺りを添えていた。そんな彼女の姿を見て俺の胸はざわついた。気持ちを抑えるために空を見上げたが、ざわつきは収まらなかった。
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俺は船の後方に向かいそこで煙草に火をつけた。煙草を口にくわえて思いっきり吸い込むと煙が肺の奥にまで浸み込み、ニコチンが血中に溶けていくのがよく分かる。そんな動作を何回か続けていると、先ほどから感じていた胸のざわつきは収まった。俺は遠ざかっていく布良港を見つめながら二本目の煙草に火を点けた。
「あら、ここは喫煙スペースなの?」
後ろで声がしたので振り返るとそこには倉谷さんが居た。彼女はショートパンツのポケットから煙草の箱を取り出すと、一本抜いて口に咥えた。
「まあ、そんな感じですよ。少なくとも今は此処に喫煙者しか居ませんし」
俺はライターを取り出し、倉谷さんの煙草に火を点ける。
「サンキュー、遊馬君。貴方とは気が合いそうね」
倉谷さんは大きく一回煙を吸い込むと満足げな表情で言った。しばらくの間、俺たちは無言で煙草を吹かしていたのだが、突然、彼女は悪戯を考えついた子供の様な笑顔を浮かべた。嫌な予感がする。
「遊馬君と御巫さんはどこまで進んでいるの」
「……進むも何も、発進してすらいないよ」
「そうなの? お似合いのカップルだと思うけど。由梨絵さん美人だから早く手を打たないと誰かに奪われちゃうよ」
倉谷さんは手招きをすると、前方のデッキに向かって歩き出した。俺はため息をつきながら吸いかけの煙草を携帯吸殻に捨て、彼女の後ろについて行った。
「ほら、もうあんなに悪い虫が集まっている」
倉谷さんはデッキの椅子に座る由梨絵を指さしながら言った。由梨絵の周りには水谷と中村、田中の三人が彼女を取り囲むようにして集まっている。由梨絵が何かを笑いながら話し、それに全員が頷きながら、だらしのない笑顔を浮かべていた。しかし、こんな状況を見ても俺は何とも思わない。いつもの事だからだ。それに、美しい物に惹かれるのは動物の性だろう。ただ、忘れてはいけない。自然界に存在する美しい存在には大抵、毒が有るのだ。俺は彼らの様に由梨絵に迫った男たちを幾人も見てきたが、色々な意味で無事だった奴を見たことが無かった。
「伸二のやつ……。あきれたわ」
倉谷さんは水谷を睨みつけると持っていた煙草をその場に捨て、すたすたと彼の方に歩いていき、水谷の耳を摘まんでデッキの端まで連れて行った。どうやら彼らはそういう関係らしい。しかし、不思議だ。普通なら由梨絵に対しても倉谷さんの怒りの矛先は向きそうな物だが、彼女はあくまで水谷にだけに怒りをぶちまけている。さっきの会話からも由梨絵に対する敵対心は感じられなかった。俺は由梨絵が同性から嫌われる場面をほとんど見たことが無い、これも彼女の才能なのだろうか。倉谷さんが捨てた煙草を拾い上げ、携帯灰皿に押し込みながらそんな事を考えた。
俺は由梨絵の元に近づいた。先ほどの騒動で居づらくなってしまったのか、男たちはみな分散してしまっていて、彼女は一人だった。俺は隣に腰かける。
「何処に行っていたの」
「ちょっと後ろの甲板から海を見ていた」
向かい風が顔にものすごい勢いで当たり、風の音がうるさい。この距離でなかったら会話が成り立たないほどだ。
「煙草はやめなさい。体に良くないわ」
「……努力するよ」
どうやら臭いでばれたようだ。俺は正面を向きながら無気力に答えた。由梨絵が煙草を嫌う理由は俺もよくは知らないが、おそらく彼女の父親がハードスモーカーなのが原因だろう。彼女は父親が嫌いだ。
「ところで、さっきは水谷達に何を話していたんだい?」
「気になる?」
「参考程度には」
「ふ、何の参考なんだか」
由梨絵は苦笑しながら答えた。
「別に大した会話じゃないわ。彼らが好きな食べ物とか好きな動物とか、どうでもいい事を聞いて来たから私は素直に答えただけよ。参考になった」
彼女の好きな食べ物はオクラで、好きな動物はホワイトタイガーだ。どう考えても一般人が共感できるものではない。おそらく彼らには、この風の音で小さな由梨絵の声はほとんど聞こえなかっただろう。つまりはよく分からずに頷きながら、だらしのない笑顔を浮かべていたのだ。
「ああ、とても参考になった」
俺は由梨絵の方を向いて少しだけ口を上げるようにして笑った。
「どういたしまして」
由梨絵も自然な笑みで答えたが、すぐに小悪魔のような微笑を浮かべ言った。
「ところでいくつか情報を仕入れたのだけど聞きたい?」
「事件の事で?」
「いいえ、映画研の人間関係よ」
人間関係か、由梨絵は暇つぶしにその手の情報を集めるという悪癖がある。特に興味は無かったが、他に目新しい話題も無かったので、話を聞くことにした。俺は水谷と倉谷さんの関係に気が付いたくらいだが、由梨絵は他にどんな情報を集めたのだろうか。
「まずは、夕も気が付いていると思うけど、あそこの水谷君と倉谷さんのふたりは付き合っている」
倉谷さんはまだデッキの端で水谷を叱りつけていた。体格のいい水谷がまるで母親に怒られる子供の様に縮こまっている。
「これは船に乗る前に西岡さんから聞いた話だけど、西岡さんと倉谷さん、水谷君の三人は小学校の頃から同じK大の付属学校に通った幼馴染だったそうよ」
「エレベーター組か」
K大学には小学校から高校まで一貫して教育を行う付属学校がある。そこの出身学生である程度の成績を残している者は、希望すればK大に進学できるシステムになっていた。彼らの事を俺たち一般入試出身者はエレベーター組と言う。大体二割くらいの学生がそうだ。
「そう。ちなみに映画研に彼ら以外エレベーター組はいない。倉谷さんと水谷君は高校生くらいから付き合いだしていたらしいの。大学を卒業したら結婚する予定らしいわ」
「そうか……。他には?」
「あとは西岡さんと森田君の関係ね」
西岡さんと森田君が? これは少し意外な関係だ。
「そんなに驚くことは無いでしょ。初めて西岡さんに話を聞いた時から予想していたわ。私、さっき彼女に鎌を掛けてみたのだけどあの反応は間違いない」
いったい由梨絵が西岡さんにどんな鎌を掛けたのか気にはなったが、何だか怖いのでその事は深く聞かなかった。森田君はデッキ右側の手すり辺りでカメラを回しながら、海を撮っていた。その横で西岡さんは何か喋っている。その姿を眺めながら由梨絵は続けた。
「森田君は受験組だから、西岡さんと知り合ったのは映画研に入ってからね。あんな感じで表向きは関係をみんなに黙っているみたいだけど、口ぶりからして倉谷さん達は知っているみたい。
その他の人たちの関係はまだ分からないけど、とりあえず、映画研内での親密な関係は他にはなさそう。男共は真っ先に私に寄ってきたし、高野さんはさっきから風景の写真を撮るのに夢中で、誰かを意識している素振りはまったく無い」
高野千佳子は使い古された一眼レフカメラを片手に、近づいてくる鬼島や、青い海原、船に合わせるようにして飛んでいる海猫などを撮っていた。彼女の長いスカートと三つ編みは風にたなびき、まるでダンスを踊っている様にくるくると回っている。
「相変わらず冷静に観察しているな」
「観察は探偵の基本でしょ」
由梨絵はそう言って立ち上がると、デッキの正面に向かって歩き始めた。俺もその後ろから半歩くらい遅れてついて行く。
「どうやらもうすぐね」
眼下には鬼島がすぐそばまで迫っていた。船はだんだんと減速しながら島の入り江に近づいていく、鬼島は小さな島だと聞いていたが、実際に見てみると大きく見える。
「皆様、もうすぐ船は島に接岸します。接岸の際に衝撃があるかもしれないので、備えて下さい」
宗平さんのアナウンスが流れた。俺たちは近場の手すりに捕まり、衝撃に備える。船は入り江の岸壁に軽く当たっただけで、対した衝撃は無かった。
「着いたな」
「ええ、そうね」
俺は自分と由梨絵の荷物を持ち、船を降りた。その時、由梨絵はすでに岸に降りていて麦わら帽子を被り、幽玄館があるであろう島の高台の方を見上げていた。
幽玄館殺人事件 第2章 上陸