行き先不明の無限バス
一度、過去に公開しかかった作品ではあるが、今回は登場人物の一部変更、名前変更、設定変更がなされ、複雑さを排除し、その分情緒に訴えかける作品になったのではないだろうか。内容に近親相姦的な事や、セクシャル・ハラスメント、小児性愛を取り上げてるので、年齢制限を引かせてもらったが、大人のファンタジーであり、生きる事の大切さを問題提起させていただいてるので、これが、悪い影響を与えるとは思えないが、念のためではある。
第1章
第1章
1 バス
夕闇が家々を縁取っている。やがては墨で塗り潰したように闇に包まれてしまう黄昏時に、一人バス停で来るあてのなさそうなバスを待っている女がいる。20代後半あるいは30前後、女性刑事役で人気の女優に似ていなくもない。
秋の終り、初冬の冷たい風に吹かれながら、着ているものは、今まで部屋にいたかと思うくらいのグレーのルームウェアだったりする。それもショートパンツからはみ出した足は、性的な魅力を放つ以前にとにかく寒そうだ。おそらく自分でもなんでそんな格好で、そこに立っているのか分からないに違いない。どうもバスを待っている事だけは、ぼんやり理解しているようだ。
そこに来る前にどこにいたのか、何をやっていたのか、思い出せない。なぜだかそのバスに乗ることで記憶を取り戻せるような気もしているが、多分数時間そこに立ったままでいるようだし、行き先違いも含めバスは1台も来ない。いや、行き先が問題ではないらしい。とにかく着たバスに乗る事しか考えにないようだった。
夕闇はさらにその深さを増し、予想通り本物の闇に変わりつつあった。せめてコートかジャンパーのようなものがあればいいのだが、そんなことはまるで気にしていないようだった。ヘッドライトが見えたと思うとトラックであったり乗用車であったりして、その都度何かしらため息を付いている。
自分の足で歩き出そうとか、タクシーを拾おうとか、あるいはヒッチハイクでもしようかとは考えないのだろうか。よくは分からないが、きっと記憶を唯一取り戻せる方法が、そのバスに乗る事しかないことをどこかで悟っていたのかもしれない。
夜も更けて日が変わろうかという頃、バスが目の前に停まった。何の変哲もないバスだが、シンプルこの上なく、社名さえ分からなかった。彼女の頬に赤みが差したのは、多少ほっとしたせいかも知れなかった。
近寄ってくる気配を感じないくらい静かに、突然現れたような感じだった。郊外の方で見られる後払い式で後部から乗り込んだ。整理券があり、乗降距離で金額が違うのだろうか。入って右が後部で先客が2名いた。彼女は左側に進んで、出口に近いところを選んだ。運転席側で前から2番目の二人がけの席だった。腰を降ろすと静かにバスは発車して行った。
バスは閑静な住宅街を走っている。因ってうるさいほどのネオン、広告等を見ることはない。車内は適度な温度調整がなされており、外の寒さを感じる事はなかった。どうも彼女の落ち着きから見て、このバスに乗り込むのは初めてではなさそうだった。
それに比べると後部座席の男性二人は、周りにも分かるくらいの声でやたら騒がしかった。一人は白いシャツにネクタイのサラリーマン風で、なんとなく脂ぎった中年男だった。特に彼の声は響いていた。一方の男性は、20前後の学生かと思われた。彼は中年男の話を相槌を打ちながら、時々質問をしているだけだった。
彼女が乗り込んだ際、彼らはそろって彼女の姿を見て緊張したようだった。その緊張が一瞬の静寂を作りかけたが、1分も持たなかった。
「このバスはどこへ向かってるんだ」
さっそくサラリーマンが声を荒げた。
確かに車内も殺風景で何一つ運行に関する情報はなかった。
「ああ、駄目ですよ、そんなに大声を出しちゃ……それよりさっきの話、続きを聞かせて下さい」
「君は、な、なんでそんなに落ち着いてるんだ!不安じゃないのか、このバスがどこへ向かっているのか!」
そう言って、サラリーマンが運転手の方へ歩きだしていた。
それまでまったく静かだった彼女が、前方に向かう彼に声をかけた。
「無駄ですよ。行き先を変える事は出来ないんです」
彼女に声をかけられて、足を止めたサラリーマンは、彼女の方に向き直って言った。
「失礼ですが、そう仰るからには、行き先をご存知なんですね」
サラリーマンは微笑みを取り戻し、彼女からの答えを待っていた。
「その前にいくつか質問をしてもいいですか」と言う彼女は、まるで弁護士か検事のような気迫があった。
そのやりとりを見ていた学生が口を挟んで、
「わあっ、かっこいいですね」
と軽口をたたくものだから、サラリーマンもペースを取り戻した。
「君はさっきから、そんな調子でまるでこの現実を分かってないじゃないか。この方は、なんだか詳しそうだから……」
「そうですよ。きっと僕らの疑問を晴らしてくれそうじゃないですか」
学生の言い方は楽しんでるようで、まるで疑問だとは思ってないようにも見えた。サラリーマンが元の席に戻ってから彼女は話しだした。
「私の経験では、今ここで落ち着いていられる方とそうでない方とは、行き先が違ってくるようなのです」
サラリーマンと学生は彼女の話に引き込まれた。
「そうですね。そうやって大人しくされていたほうが、終点に行かずに済むと思います」
「終点というのは?」
学生が恐る恐る声を出すのをさも聞いていないかのように彼女はサラリーマンに質問を開始した。
質問は彼のここに来るまでの経緯なのだが、直前の記憶がないことや、バス停で何時間かこのバスを待っていて乗り込んだことは、3人に共通していた。
「私の仕事は英語教材の訪問販売です。ノルマがあって、休日でさえも営業しなければならないという日が続いてました。その日も朝からずっと住宅街を廻ってました。なかなか成果が出ず、最後のお宅に期待して呼び鈴を鳴らした時です。高校生らしい女の子がドアを開けてくれました。ここまではいいのですが、用件を話すとたいてい『間に合ってます』と言われるのが落ちなんです。ところがその娘は少し考えている様子だったので、これはいけると内心思いました。実際は親の承諾が必要ですが、子供の気持ちを掴んでしまえばたいていの親はOKします」
サラリーマンは額に汗をかきながら先を続けた。
「どうも家には彼女しかいなかったようです。間もなく帰ってくるという親を待たせてもらうことにしました。それも彼女がそう言うからです。女子高生と二人きりはまずいという意識も働きましたが、とにかく業績が悪かったものですから……」
額の汗を拭いながらさらに続けようとしたが、どうもその先が分からないようだった。
「そのあとの記憶がないんです……。契約が取れたのか。それが昨日のことなら、それからどうやって夜を過ごしたのか。今日の朝御飯は食べたのか。なぜバス停に立っていたのか」
学生もまた、女友達と二人で、動物園でデートをした帰り道、突然記憶が消えて、サラリーマンと同じようにここにいるという話をした。
「バスが停まるみたいですよ」
彼女はバスの前方に停留所があり、バスを待っている人の姿を確認した。ほぼ同時に車内アナウンスが流れた。
「次は四物坂上、四物坂上に停車いたします」
入り口から乗り込んできた少女は、女子高生くらいの年齢だろうか。髪が少し湿っていて、薄い下着を羽織っているが全裸に近い状態だった。そして全員に共通していることだが、どんな格好をしていても、それに触れる事もなければ、自分自身でさえ気にはしてない様子だった。
少女は乗り込みながら、右側後部座席のサラリーマンを見て、顔色を変えたようだった。そして前方に行こうとしてして彼女の姿を捉え、やや感嘆の声を挙げた。
「せ、先生!」
少女は彼女の教え子の高校生であったようだ。であれば彼女は学校教師という事になる。女子高生はそのまま女教師の側に腰掛けた。
「まあ、どうしてこんなところに来たの」
「わからないんです。ただ後ろにいるあの人は知ってます」
女子高生が指を指したのは、サラリーマンの方であった。サラリーマンはサラリーマンで再び忙しなくなり始めていた。
「この娘ですよ。私が最後に訪問したのは。やだなあ、なんでここにいるのかなあ」
そう言って両手で頭をかいた。
「それは私のセリフです」
女子高生は、瞳からポロポロと涙を流しながら呟いた。
二人の間に何かがあったようであり、女子高生の涙の理由が明らかにされようとしていた。
どうもこのバスの中は、嘘を突き通せる雰囲気ではなく、誰もがついつい真実を語ってしまうようだった。
「しょうがないなあ。覚えている事を全部話さないといけないんですね。彼女の家に行って、英語の教材を買ってもらおうとしたわけですね。その後……」
といって女子高生にちらっと眼をやってから、続けた。
「部屋に入ってから応援室で教材を展げてこの娘の見せてたんだ。そして親が帰ってきたらサインをもらう予定だったんだけど、何時まで待っても親は帰ってこない」
「えっ、女の子一人の部屋に上がったの」
学生が突っ込んだ。
「この娘が入って下さいというから入ったんだ。人聞きの悪い言い方はよしてくれよ。それにしても本当に誰も帰ってこないから、出直そうと思ったんだ」
「嘘です。両親が帰ってくるまで、帰らないと言って、私にひどいことを……」
そう言いながらさらに泣き崩れる女子高生だった。
サラリーマンは唖然としながら、
「な、何だって、君は何を言おうとしてるんだ……」
と言って身体をふるわせた。
学生はただ二人を見つめながら、女教師も泣き続ける女子高生を抱擁しながら、サラリーマンの次の言葉を待っていたが、なかなか話さないので、学生がつい口を出した。
「何をしたんです」
「ま、待ってくれ、ちょっと頭を整理させてくれ。」
そうしているうちに女子高生が、涙をこらえながら、少しずつ状況を説明しだした。
「最初に、喉が渇いたというので、冷蔵庫に冷やしてあったサイダーを持っていきました。応接間でサイダーを飲んでる合間に私は自分の部屋に行って、母からのメールの返事を待ってました。でも返事は来なくて……よくあるんです。あの人は私にあまり関心がないから……仕事が忙しいんですね」
彼女が話をしている間、サラリーマンは黙って頭を抱えていた。
「私はベッドで寝転がって、携帯をいじってたんです。ふと視線を感じて入り口を見ると、この人が立ってました」
学生と教師がサラリーマンの方に眼を移した時、サラリーマンがあわてて言った。
「ち、違うんだ。トイレに行こうと思って、うろうろしてたら、分かんなくて……聞こうと思って……」
その合間も涙を流しながら、女子高生はサラリーマンに問いかけた。
「いったい、私に何をしたの!」
「なにを……って……。それはこっちの台詞だよ。覚えてないのかい?」
「私は気を失っていて…気がついたら、ベッドの上で裸にされてました」
「う、嘘だ、嘘だ!」
サラリーマンが激昂するのを学生が抑えた。
「反論は後でして下さい」
学生の言葉を受けて、教師も高校生に先を促した。
「私をそんな風にして、この人はさっさとどこかに立ち去ってしまったようでした。私はもう悲しくて、悲しくて、新しい下着を出して、シャワーを浴びようとバスルームに行って……そこでも悲しくて、悲しくて……私はいつのまにかカミソリを手にしていたようです」
ずっと無感情だった教師もさすがに熱くなったと見えて、初めて感情を露にした。
「あなたは大人として恥ずかしいと思わないんですか?相手は高校生ですよ。将来ある彼女の人生になんてことをするんですか。嘆かわしい」
「ま、まってくれ、私にも言わせてくれ。確かに女子高生と良い事しようなんて、許されない話に違いない、けれどさあ、誘ったのはこの娘なんだぜ」
今度は女子高生が驚く番だった。
「そ、そんなことって……」
「自分のためにこれだけは言っておかなくちゃならないんだよ」
サラリーマンの言い方は、もう後がないという感じだった。
「ベッドの上で君は突然服を脱ぎだしたんだ。さすがにまずいと思ったよ。こっちだって仕事中だし、職場にばれれば、それなりに地位は失う訳だからね。だから眼を背けようとしたんだけど、瞼がなぜか閉じない。君はずっと無表情のままこっちを見てるんだ。身体が引き寄せられていって、多分君の身体に触れたんだと思うが……その先は私もよく分からない。なんだか宙に浮いたような気がして……そこから先は……わからない」
そういってサラリーマンは大人しくなった。女子高生もどうしたものか、顔を両手で覆って黙ったままだった。
「宙に浮いた、って天にも昇る心地よさ、ってことですかね」
学生は言ってみたものの誰も反応がないので、気まずい顔をした。
サラリーマンは、墨を吐くだけ吐き尽くした蛸のようにぐったりとしていた。女子高生は瞳を閉じたまま特に反論しようという気配のないまま、教師の隣に座って身を預けるように寄りかかっていた。
このバスの中では、時間の流れが緩慢なのか、あるいは急速なのか、とても現実とは思われぬ不思議さがあった。女子高生とサラリーマンが言い争っていたことが、すでに数時間も前のように思われたり、あるいはほんの数秒前か、もちろんそれを気にするものは誰もいなかった。
唐突に教師が口を開いた。
「実は今、このバスに乗っている皆さんは、私も含め意識を失っているのだと思います。そして意識を失っている時間が長ければ長いほど死に近づくわけなのですが、多分このバスの終点はそんなところだろうと思われます。以前乗ったときと同じように今日も途中で下りてしまいそうです」
教師の手にした整理券の番号が、進行方向前方にある掲示パネルに点滅した。
「おや、ぼくもでしょうか」
学生が試験に合格したような表情を見せた。
「あら、私も……」
女子高生も自身の整理券を確認した。
掲示パネルは、3つの番号を表示したままだった。
「ぜひあなたには終点を見極めてもらいたいと思います。私たちは次の停留所で失礼いたします」
「なぜ私は降りられないんですか」
教師とサラリーマンの会話の途中で、バスのアナウンスが停留所の案内を告げる。
「次は四物坂下。四物坂下に停まります」
「ヨモツって、黄泉比良坂のヨモツかなあ」
学生が何気なく呟いた。
「私はどうなるんだ」
サラリーマンが最後に嘆いたが、それに答えるものはいなかった。
バスが速度を落としブレーキをかけた瞬間、前方の降車口がスライドして開いた。見た事もない鮮やかな金色の景色が広がっていた。
その景色の中へ3人が降り立った。バスは停留所を出発し、3人が3方向に歩き出していく中、女教師が思いついたように振り返って、学生に声をかけた。
「あなたは、なんだかここに来るべきでない人のように思われましたが……」
それに答えようと学生も振り返ったが、女教師はおろか女子高生も、そして自分も消えていく寸前だった。
2 病院
本郷のとある病院に4人の救急患者が、次々と運ばれてきていた。最初は30歳前後の女性で自殺未遂、大量の睡眠薬を服用した様子であったが、口から少し戻しており、快復の兆しがあった。次はサラリーマン風の中年男性で、頭から血を流して路上に倒れていて、骨折箇所が多数あり、救急車で運ばれる途中、心肺が一時停止して重体だった。三人目も男性で繁華街でチンピラにナイフでさされた様子だった。出血は多いが何とか一命を取りとめて、意識が回復するのを待つだけだった。最後は、女子高生の澤尻麻衣18歳だった。自宅の風呂場で倒れていた所を帰ってきた母親が発見。手首をカッターナイフで切ったが傷が浅かったせいか、意識さえ戻れば命に別状はなさそうだった。
澤尻麻衣以外は、身元確認中だったが、サラリーマン風の中年男性に関しては鞄の中にあった英語教材のパンフレットから勤務先がわかり、進藤健一35才と判明した。現在一人暮らし、中途採用されて3年経つがなかなか成績が上がらず、最近は少しノイローゼ気味だったという。
残る2名の身元もすぐに確認された。ナイフで刺された男性は、警察が持っている資料から副島秀樹という暴力団員であることが判明した。彼をナイフで刺したのは敵対グループのチンピラで、たまたま巡回中の警察官によってすぐに確保された。
「あいつにはウチの組員が二人殺られてるんだ。仇をとっただけさ」
「やった時の様子を詳しく話すんだ」
「御徒町のガード下で奴を見つけて付けていくと切符を買おうとしててさ。そしたら急に辺りが暗くなって、ほんとに真っ暗で、一瞬奴のことなんか忘れちまったんだけど、明るくなったら、奴が改札前でぽつんと立ってたのさ。まるで刺して下さい、って言ってるような感じなのさ。今まで何度も狙い損ねてきたから、もう絶好のチャンスと思って刺したんだけど……急所に入ったはずなんだけど……」
尋問を一通り終えて、上野署の吉田刑事は、病院に電話をした。
「副島、どうですか」
「うん、微妙なところだな。まだ意識不明だよ」
吉田は半年前のある事件で副島を追っていたので、このまま死なせたくはなかった。
「ところで副島が運ばれる少し前に自殺未遂の女が運ばれてきたんですが、誰だと思いますか。志穂崎憂子ですよ。副島の愛人で高校の教師をやっていた女ですよ」
「ほほお、そうか」
吉田も十分耳にした名前だった。
志穂崎憂子は高校教師だったが昨年の暮に休職している。まじめに教職をこなしていたらしいが、なぜか副島が出入りするような盛り場で副島と意気投合してしまったようだった。聖職者が足を踏み入れてはいけない世界だった。吉田は堕天使という言葉を思い出した。
その二人が、多少時間差はあるものの同じ日に同じ病院に運ばれてきたのは単なる偶然だろうか。そこに何か計画めいたもの、あるいは計画崩れの痕跡がないか、刑事としてはもちろん人間としても十分気になるところだった。
吉田は副島に関する資料の中に、志穂崎憂子が働いていた高校で聞き込みした時の記録があったことを思い出した。それは半年前、自分で足を運んだものだったし、その記録は何度も繰り返し目を通していたので、一文一句暗唱出来るほどだった。
桜の花もほぼ散り終った4月の校庭に体操着姿の学生達が縦横無人に走り回っていた。豊島東高校の職員室で吉田は、教頭の塩田から志穂崎の教職員としての資質や能力について話を聞いた。
「まあ若くてきれいな先生ですから男子生徒には人気がありました。女子の中には陰で悪く言うものもいたようです。ずっと臨時で来てもらっていて、いよいよ年明けに正式に採用となる直前、急に欠勤したんです。もう半年前になりますか。それ以降もたびたび欠勤をしていたんですが、急に辞めると言い出すんです……」
「男から電話があったりしませんでしたか」
「そうですね。特になかったと思います。何か事件に巻き込まれたんでしょうか」
吉田は教頭の問いかけを聞き流して、職員室内を見回していた。授業中のためがらんとして誰もいないかと思われた室内に、一人だけ机に向かっている男がいた。
「彼は?」
「三年の学年主任の西尾です」
「彼にも話を伺っていいですか」
西尾は教頭に声をかけられ、すぐにやってきた。なんとなく待機していたような気もする。ただしそれは新しい事実を申し立てるものではなく、教頭の話を繰り返すことで教頭のご機嫌をとりたかっただけであるようだった。
吉田は帰りがけの学校の校庭を見ながら、ここにいるときは、人間一人一人に同等の未来が与えられているのになあ、と思った。ただし高校時代の自分の成績は棚上げしなければならなかった。
吉田が副島の名前を最初に耳にしたのは、浅草のクラブで住田連合の構成員が刺殺された事件だった。当時住田連合は、副島が所属する金龍会と抗争のまっただ中にあった。副島らしい男が、クラブの入口から迷いもせず歩いて来て、二人の前に仁王立ちに刺し殺したという目撃証言があったのだった。
過去に1度も来店した形跡がないことから、どうも店内に手引きをした者がいるのではないかと思われた。ちょうどその翌日から姿を見せない塩田憂子というホステスが怪しかった。仕事に入ってまだ一ヶ月も経ってなかったし、履歴書は全くのデタラメだったが、写真は嘘をつけなかったし、憂子は共通しているし、塩田と志穂崎は似ている。また塩田といえば、彼女が教鞭を取っていた学校の教頭の名前だ。疑うに十分だった。
彼女と副島の関係自体も聞き込みの中で明らかにされた。副島が行き付けの数軒の飲み屋で、今度の女は頭の出来が違うと自慢していたというのだ。クラブの履歴書にあった写真をまず見せたところ、それが副島の愛人という事になった。また別の情報で、彼女の頭の出来が違うのは、元高校教師だったからだという。副島にとってはそれが自慢だったらしく、行く先々で話していたという。各高校を調べ最近退職した教員リストからピックアップし、学校にある履歴書と写真を比較して、塩田憂子と志穂崎憂子が同一人物であると確定した。
さすがに学校の方の履歴書には、嘘は書けなかったと見えて、一つ一つ裏付けを取ることができた。現住所こそすでに引き払っていたが、そこにいた痕跡はあったし、連絡先になっていた兄は健在で、幼少の頃の話が聞けた。両親は少し前に事故で他界していた。
元金龍会出身で現在小料理屋をやっている男からは、もう少し詳しい話が聞けた。
「俺が足を洗って、この店を出せたのも奴のおかげかもしれない。この組織っていうのは、入るのは簡単だが、なかなか抜けられねえ。会長はある条件を出してきた。ここでは言えねえが、やばい橋だ。俺も覚悟を決めたのよ。俺達は兄弟の間柄だったから、奴に話をした。話はしたが、俺一人でやるつもりだった。ところが奴が先にかたをつけちまって……。まあ、おかげでこうしてる訳なんだが……」
「あんたが足を洗ったと聞いて、俺もうれしかったが、そんな裏話があったのかい」
「吉田さんだから、ここまで言うんだよ。だけど奴の不利になることは、あんただって言えねえ。ただね、奴も今度は足を洗いたがっていたよ。あの女には、かなり入れ込んでるなあ。奴もこの世界にいなければ、結構物知りだし、普通に会社勤めも出来る男だよ」
「これも仕事なんで、俺の立場もわかってくれよ。まあ答えなくてもいいさ。今度の事件は聞いてるだろう。その後ここには来なかったかい」
「来てねえな、嘘じゃねえよ」
「分かってる。あとひとつ、その教師だった女に会ったかい」
「うーん、1回連れてきたっけな。奴が妙に気取ってたな。俺の耳元で、組の話は無しだぜ、とか言ってさ。まるでガキのデートだったな」
人生の裏街道を歩いてきた男だけの哀愁というものが漂っていた。
吉田は副島と志穂崎が入院している病院を訪れて、意識を無くして眠ったままの二人の様子を見た。ドクターの話では数時間もすれば二人とも目を覚ますだろうとの事だった。
「偶然にもこんな形で二人を確保できるとは……。意識が戻ればゆっくり話を聞いてみることにしよう」
吉田は二人を部下にまかせて外に出た。11月下旬だったが、汗ばむ陽気で青い空が広がっていた。ぽつぽつと雲の小さい塊が、何かドラマを創りそうな、そんな気配だった。
一夜明けた病院で、3人は前後して意識を回復した。ただ進藤健一だけが生死の境を彷徨っていた。頭からの出血が多く、路面に残された血痕から、強く打ち付けた事は明白だった。多分車に跳ねられて、一瞬宙を舞ったのだろうと想像はついた。ただし疑問点は、いくつかあって他殺の線も崩せなかった。
疑問の一つは、ジャケットは着てなくてもいいとして、下半身は丸出しだったという事実。もう一つは脱いだズボンとパンツが、鞄と靴同様に死体に添えられていたという事実。最後の疑問は場所なのだが、今回、同時に運ばれてきた澤尻麻衣の家の脇道だったという事実だ。
3つの疑問を考えると、いわゆるひき逃げとして決定づけるには早いと思われた。捜査に当たっていた担当刑事は、昏睡状態にあった当人と共に、少し遅れて運ばれてきた、やはり意識不明の澤尻麻衣の回復を待っていた。
麻衣は目を覚ますなり、
「先生は?」
とつぶやいた。
付きっきりだった母親は大粒の涙を零して言った。
「まあ、夢でも見てたのね。良かった、眼を覚まして……ごめんね、ひとりぼっちにしちゃって……」
「お母さん、私……」
「いいのよ。何も言わなくて」
母親は娘の手を強く握り締めた。
刑事が、母親に事情聴取の依頼をしたところ、娘の心理状態が不安定である事を理由に一時は断った。ただどうしても確認しておきたいという一点だけのために、母親を強引にねじ伏せた。
「すぐに終わらせます。1枚だけ写真を見てもらいます」
そう言って、懐から取り出したのは、生存時の進藤健一の写真だった。ベッドの上に起き上がった麻衣は、まだ現実ではなく幻を見ているような眼をしていた。
「どうかなあ、このおじさん、知ってるかなあ?」
「し、知らない、知らない……知らない」
何気なく覗き込んだ写真という世界の向こう側に忘れなくてはいけない現実があった。強力な力を放つお札を恐れる妖怪のように、その場で蒸気となって消えてしまいそうだった。「もう、いいでしょう!知らないって、言ってるんだから!」
母親は全身全霊で娘を守ろうとした。そしてそれは自分も含めて家族を守ろうとしている姿に見えた。
ちょうどその頃他の病室でも志穂崎憂子が目を覚ましたところだった。憂子は、ベッドの脇にいる3人の姿を確認した。医者と、看護婦……そして、もう一人。
医者と看護婦と交互に話しかけられた。自分が助かったという説明を受けた。そしてもう一人が上野署の刑事であると紹介された。
「志穂崎さん、お目覚めですな。お伺いしたいことがあるので場所を移動します」
そう言うと覚醒したばかりの彼女を3人で車椅子に運んだ。
「ところで隣にいる男はご存知ですね」
隣のベッドに横たわっている男を指差して見せた。目を閉じて眠っているその横顔に見覚えがあった。
「なぜここにいるの。なんで」
その声は、煙草の煙のように病室を漂い続けたが、その男が目覚める瞬間には、跡形もなく消えていた。
上野署の刑事吉田は、病院の別室を借りて、志穂崎憂子の事情聴取を行なった。
「あの人とは別れたんです。あの事件のあと逃げるように二人であの人の知り合いを訪ねて富山に行きました。大きな農家で、離れを借り、ほとんど外に出ない生活です。こんな生活、いつまでも続けられないわ、出所するまで待ってるから自首して、って言ったんです。そうしたら、二人とも捕まるんだぞ、って彼が言うんです。結果的に彼の片棒を担いでしまったわけですが、私は彼が殺人を犯すとは思ってなかったんです」
教職を離れ仕事のなかった彼女は、副島の薦めで事件のあったクラブにホステスとして勤めた。副島はただ客のご機嫌をとりながら一緒に酒を飲んでればいいと言っただけで何の計画も話してなかった。事件の数日前になって、写真を渡され、店に来たら電話してくれと言われただけだった。彼女の供述はそんな内容だった。事件には関係ないが、なぜ教師を辞めたのかという質問には、校内の人間関係に疲れたと答えるだけだった。また今回の自殺未遂に関しては、人生に悲観したからと答えたが、それ以上吉田には追求出来なかった。
副島秀樹は、志穂崎憂子に遅れる事1時間後に眼を覚ました。志穂崎憂子に比べ副島の尋問はとにかく思うように捗らなかった。というよりまるで進まなかった。
「今回は何人も目撃者がいるんだ。しらを切っても無駄だぞ」
「……」
「お前にとっては、何の恨みもない奴だろ。誰に言われて殺った」
「……」
副島はただ茫然としているだけだった。吉田は思った以上に手強い相手に業を煮やしていた。ここが病院の仮部屋でなく、相手が普通の状態なら、もっと強硬な態度で臨めるのだがと弱音を吐きそうになるが、確かに暴力団員とはいえ、入院患者には違いなかった。また刺されたときのショックで一時的に精神障害にでもなっているのかとも考えた。吉田のイメージする副島にはあり得ない事だが、実際会うのは初めてではあった。
吉田のイメージが壊れるのにたいした時間はかからなかった。
「僕はそんな名前じゃないです。樺井といいます」
吉田はぐっとがっかりした。
「この期に及んで、そんな嘘は通らんぞ」
少し投げやりになった。
「嘘じゃありません。樺井洋介といいます。25才です。埼玉県大宮出身で、現在江東区大島のアパートに一人暮らし、広告代理店でアルバイトをしています」
樺井と名乗る副島は、淡々と申し開いた。
吉田は、過去に例を見ないケースに遭遇して、これから、どう対処すべきかを考えた。取りあえず、精神鑑定を要請しよう。それに嘘の内容が、あまりにも具体的だったので裏を取っておくことも必要だと思った。
3 夏美と男
手越夏美は、JR御徒町駅の改札でボーイフレンドの樺井洋介と別れた。夏美にとっては二つ年上であったが、未だに定職に就かずフリーターの彼は、どこか頼りなく幼ささえ感じられた。もう秋も終ろうというのに動物園をデートコースに選ぶ感性もどうかと思った。一緒にいてつまらないとは思わないが、最後の一線を踏み切る勇気が持てなかった。門限を口実にしてあまり深入りしないよう距離を置いているのは、そういう理由からでもあった。
ホームへの階段を上りきると辺りのライトというライトが一斉に消えて、大きな暗闇に包まれた。溢れていた人々の間に一瞬恐怖のどよめきが起こったが、1分も立たず元に戻った。アナウンスが流れて、原因不明の停電だという。電車はホームに停まったまま、安全確認のためしばらく発車を見送っていた。夏美は、電気がないとあんなにも暗くなるものかと改めて現代という時代にを感じざるを得なかった。
発車のベルが鳴り終わる寸前に改札で別れたはずの樺井が乗り込んできて、夏美をびっくりさせた。
「樺井さん」
声はそんなに小さくなかった。聞こえたはずなのに返事がない。もう一度呼んでみると、一瞬こっちを見るだけは見た。ここ最近気に入ってるのか、ずっとモスグリーンの同じコートを着ているので多分人間違いではない。それなのに態度や身のこなしが、さっきまで一緒にいたいつもの彼と違って何だか粋だった。
「樺井さんではないですか」
自信がなくなって、ついそんな聞方をしてしまう。
「人違いじゃないですか」
「すみません」
声までそっくりだが、自信たっぷりに否定された以上、引き下がるしかなかった。
神田駅で中央線快速に乗り換えるために夏美は電車を降りた。
「ねえ、君」
夏美は声の方向を振り向くと、電車の中で樺井と間違えた男が、少し怖い顔をして付いてきていた。夏美は何となく不安に襲われて反対ホームに停まっている中野方面行きの電車に飛び乗った。男は一緒になって電車に乗ってきた。
「た、頼むよ。逃げないで」
男は真剣な表情で夏美に語りかけるのだった。その顔を見るとどうしても樺井に見えてしまう。樺井が演技をして他人に成り済まそうとしているのかとも思ったが、そんな器用さがあったら、もっと好きになっていたはずだ。
「さっき俺を樺井って奴と間違えたろ」
「ご、ごめんなさい。良く似てたものだから」
「いや、謝る必要はないんだ。俺こそ勝手に付いてきてすまないと思ってる。ただ……」
「何ですか」
相手の真摯な態度に最初に感じた不安は薄らいでいた。
「ただ、そうだなあ。こんなところで話せることじゃないんだよなあ。よし、俺に時間をくれないか。1時間、いや30分でいいから」
お茶の水の駅からそれほど遠くない距離の喫茶店で二人は静かな声で話をしていた。いや下手をすると大声になりかねない男が無理をしてヒソヒソ話していた。夏美は、時間を気にしながらも、男の話に引き込まれていた。
「俺は君に声をかけられた後、電車の窓に映っている自分に目をやった。そこに俺の姿はなく、俺を見ている変な野郎がいるんだ。秋葉原で降りるはずだったが、体が凍り付いたように動かない。電車が走り出して外が暗くなるとまた奴が現れた。紛れもなくそれは自分の姿だったが、本当の姿ではない。いろいろ考えたよ。自分にだけそう見えてるのか、とかね。神田駅で降りる君が目に入って思ったんだ。俺の知らないこいつを君は知ってるんだってね。とにかくこいつが誰で、どうしてこんなことになったのか。今は君しか頼る人がいないんだ」
夏美は考えた。彼にはここまでの演技力はない。であれば、本当の事を言ってる?いやあり得ない。ただの人違いということにしてこの場を立ち去ることもできる。男が騙そうとしているのなら、なおさらだけど……なんだか悪い気がしない感覚……どうもそんな思いに彼女は包まれていた。
「ポケットとか探ってみましたか」
男はコートやズボンのポケットを即座にまさぐり始めた。コートの内ポケットから財布が出てきた。中身を見ると1万円札が2枚入っていて、男は少しホッとしたようだった。そしてそのお札に紛れて動物園の入場券の半券が出てきた。
夏美が、その日一日の出来事を反芻しながら、男に聞かせていた。
「動物園なんて、ガキの頃に行ったくらいじゃねえのかなあ。おもしろいか?」
明らかに樺井の言い方ではなかった。
「あら、動物って面白いですよ。いろんな表情をするし……結構、人間て理性で縛られて、無理をしたりするじゃないですか。それに比べて素直というか、自由なんですよ」
「確かにな。人間様には柵ってものがあるから、自由とはいえないかもしれないなあ」
この特別な状況で、普通に世間話をしている男を見て、少し怒りが込み上げる夏美だった。なぜ、慌てないの、嘆かないの、泣き出さないの。私だったらきっと気が変になってると思うのだった。
「あっ、まだ名前聞いてなかったな?」
「あっ、ええ、そうですね。手越です。手越夏美……」
「ええっと、彼の名前は、カバ……」
時計を見るとギリギリだった。つい声が大きなってしまった。
「樺井洋介です」
「夏美ちゃんは、彼が好きなんだね」
と、男の声も大きくなり、数名の客が振り向いたので、夏美は恥ずかしくなった。
「わ、私、もう帰らないと……」
「えっ、待ってくれよ、もう少し教えてほしいんだけどさあ……」
夏美は500円玉をテーブルにおいて、立ち上がり、
「ごめんなさい」
といってドアから出て行った。
男は、そんな夏美の後ろ姿を眼で追いながら、カップに残った珈琲を飲み干すとレジで精算を済ませてから店を出た。
「なぜこんなことになってしまったか」
頭の中で同じ言葉が何度も繰り返されていた。取りあえず知人の所に向かってひたすら歩いていた。
「参ったなあ、電話番号くらい聞いておきゃ良かった」
心の中でそうつぶやきながら、夏美と喫茶店にいる光景をそれに似た過去の風景に重ね合わせていた。
それは、ちょうど1年前のことだった。世間が慌ただしそうにしていたので、年末だったのかもしれない。訳があって終電に乗り遅れた者がよく利用するという24時間営業の喫茶店は、ほとんどが酔い覚ましのサラリーマンか学生で、女性客が一人で利用するケースは珍しかった。
カウンター席で、赤いハードカバーの「ノルウェーの森」をよそ見一つせず、頬杖を付きながら一心不乱に読み耽っている女性をこんな喫茶店で滅多に見ることはなかった。誰か一人くらい彼女に声をかけても良さそうなのに、そうさせない何か……。
男はそんな彼女の姿を仲間と一緒に見ていた。肩下まで伸びた黒い髪に時々指を通す仕草がなまめかしい。渋いダークブルーのスーツが隔絶された雰囲気を漂わせ、タイトスカートから突き出した両足が色香ではなく知的な印象を放っていた。
「副島さん、タイプですか。ああいうインテリ」
男は副島と呼ばれていた。
「バカ言うんじゃねえ」
そう言いながらも、いつしか視線が向いてしまう自分に彼自身が気が付きはじめていた。
「邪魔すんじゃねえぞ」
そう言って、席を立ち、彼女のテーブルに近寄っていった。彼の仲間もその様子をうかがっていたが、彼女の斜め横の椅子に座る寸前、男が睨みをきかしたので、お約束通り店の外に出て行った。
男が隣に座ったのは気が付いたようだが、特に姿勢を変えるでもなく、自然体で本を読み続けていた。
「先生じゃないですか。こんな所で。終電に間に合わなかったんですか」
男の言い方は、偶然知り合いに会ったと言わんばかりだった。いわゆるはったりをかます、というナンパの常套手段のようだ。はったりの内容如何によっては、大きな効果を発揮する場合がある。
「どこかで、お会いしましたか?」
と返事が返ってきたので、男は味をしめた。
「そう、そう、私もそれを思い出そうとしてたんです。あっ、そのビートルズの本は面白いですか?」
男は洋楽の知識は多少あったようで、「ノルウェーの森」がビートルズの曲だと分かっただけでもたいしたものだった。
「ビートルズ、詳しいんですか?」
女としては、知人であるかもしれない男に気をつかったようでもあるし、男に対して警戒する要素を感じなかったのかもしれない。
「そうだね、俺、いや私の世代よりはちょっと前の奴ら、いや人たちには人気だったね。奴ら、いや彼らの全盛期にはガキだったからねえ、俺たちが聞きはじめたときは、4人はソロで活躍……」
と60年代から70年代の洋楽の話を楽しそうに話した。また最初気遣っていた言葉遣いも最後には崩れていたが、男は気が付かなくなっていた。
女は半ば微笑みながら、そんな話に耳を傾けていた。言葉遣いには気が付いたけれど、情熱を帯びた話し方になんとなく心地よい気持ちになっていた。
「おすすめは、ブルース・スプリングスティーンかな。奴の出世作『明日なき暴走』はぐっと来ると思うよ」
「今度聞いてみます」
女はやさしくそう答えた。
男は満足そうにタバコを吸ったのはいいが、なんだか一方的に話をしてしまい、女の顔色を今一度確認せずにはいられなかった。
「あー、喋りすぎたなあ。ところで、その本は何が書いてあるの」
女はコーヒーを一口飲んで、遠慮深そうに言った。
「なんで私が先生だと分かったんですか?」その質問がそのタイミングで来て、男の満足感はどこかへ消え失せて、急に何だか寂寞感がおそった。タバコの灰がテーブルの上に落ちた。
「何だよ、分かってたのかい」
嘘を突き通せる相手ではないと思ったのか、素直に女の質問に答えた。
「感だよ。まあ先生出なきゃ、弁護士か、秘書さんか、まあ先生であって欲しいと思ったんだな……って先生なんだね!」
投げやりだったが、当ったことだけはうれしいと思ったか……。
「私、先生に見えますか」
女は真面目な顔で男を見据えた。
「何だ、違うのかい」
さすがの男も呆気にとられていた。
「いえ、正解です。でも私が先生と呼ばれるようになったのはまだ数ヶ月。そして実はまだ研修中なんです。高校生だから、将来の事が現実味を帯びてきます。大学へ進むものもいれば、就職を考えるものもいます。そんな中、私の役割の大きさに責任を感じます」
「そうだろうな……」
男は、タバコに火を付けた。
「教師として、大人として、彼らの見本であるべきだと私は常々考えて指導していたつもりです……」
男は迂闊に近寄った自分を悔いた。あまりにも真剣なのだ。そしてその真剣さは狂気をはらんでいた。ただの真剣ではない何か……。もしかすると本当に惚れてしまったか。
「俺の経験から言わせてもらうと、そんな事を真面目に考えてる教師なんていないような気がするなあ。教師に関係なく、大学に行く奴は行くし、行かない奴は行かない……。でもあんたみたいに真面目に考えてる先生がいても悪くないと思う……」
その優しい言い方に胸を詰まらせたか、これから話そうとする連日の苦悶の日々に思いを馳せたのか、彼女の瞳から零れたものは、
紛れもなく正真正銘の涙だった。
彼がここ数年見てきた女の涙は、必ず打算や欲望といったものに裏打ちされたもので、言ってみれば紛い物であり、まともに取り合う価値のないものであった。
「ごめんな、話の腰を折っちまって……先を続けてくれ」
それから滔々と語られた彼女の話は、醜い大人のやり取りであり、そんな中、志を踏みにじられた女の切実な苦悩だった。
「なぜ、俺にそんな話を?」
「ビートルズの話が面白かったから……かな。私あまり知らないんです」
「それにしちゃ、その本……」
「ビートルズの曲をタイトルにはしてるんですけど、村上春樹っていう人の小説で、直接ストーリーには関係ないんですよ」
男は女から本を渡されると数ページ流してから、すぐに返した。
男は何だか愉快になって、ハハハと笑った。女も釣られてフフッと微笑んだ。
その時の女の微笑みが、夜を彷徨う男の脳裏に映し出されていた。その微笑みに混じりながら、聞こえて来る流行歌が、現実の世界に引き戻していた。
「先ほどはすいません。手越です」
着メロならぬ着歌は男の知らないJーPOPで、携帯の在処は、ファミレスにいた時コートの右ポケットと確認していたが、すぐには分からず、取り出すまでに時間を要した。
「先に帰ってしまってすみません。一応樺井さんの住所がわかったので、お教えしとこうと思って……」
「気にしてくれてたんだね。ありがとう」
手越夏美から聞いた住所にたどり着いた男は、2階建ての木造アパートを目にして呟いた。
「チェッ、ボロだなあ」
財布の中にあった鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。カチャッという音がしてノブを回すとドアが開いた。
中に入ると外観とは違い、今時の作りで小ざっぱりしていたので少し驚いた。トイレ、洗面、浴室が一体となったユニットバスには、さらに驚いた。
「外観をなんとかしようぜ」
一人暮らしの男の部屋というイメージからは、少し離れていて、割にきちんと整頓されていた。
「お前はこの部屋で暮らしながらいったい何を考えていた」
洗面台の鏡に映る男に向かって問いかける。答えは返ってこない。
顔を洗った後でテレビなどをひねってみる。冷蔵庫に気の利いたものはないか覗いてみたが、コーラの1000ミリリットルペットボトルが三分の一程度残っていた。
ビールが欲しかったがコーラで我慢した。テレビは最近のうるさいCMが連続的に流れていたが、ニュース番組に変わった。ただぼおっとその画面を眺めていたが、次第に食い入るような目付きに変わって行った。
「今日午後9時頃、墨田区から台東区にかけて1分程度の停電がありました。このためJRの山手線、京浜東北線に約10分から15分の遅れが発生し、その影響でJR各線もダイヤが大幅に乱れました。比較的停電時間が短かったとはいえ、終電までその影響が残りました」
「またこの停電に因って墨田区の本所から厩橋を通って文京区の本郷までの春日通りを中心とした地域で信号が消え、数台の玉突き事故が発生しました」
男の頭の中で意識が活性化してなにやらめまいを感じていた。あの停電の時に何かが起こったのだ。あれはたしか……。
思い出そうとしている矢先、テレビがまたも彼をフリーズさせた。
「その停電直後の御徒町で、暴力団組員が刃物で刺されるという事件が起きました。刺されたのは、広域暴力団指定、金龍会組員の副島秀樹32才で、犯人はその場で巡回中の警察官に現行犯逮捕されました。犯人の身元は、矢島誠一30才、金龍会と抗争中の住田連合の構成員で、半年前に浅草のクラブで刺殺された住田連合の仲間の仇をうつのが目的であったと証言しているとのことです。なお被害者の副島はその事件の実行犯として警察も……」
「俺が刺されたって。死んだのか。いや、俺は生きている。生きているが他人の体だ。俺の代わりに死んだ。樺井が……」
思考回路がショートしそうな感じだった。
引き続きその後の進展に注目していた男は、まだ刺された男が死んでいないことを知って、少し安心した。
「樺井が生きてて良かったよ。でも俺が痛い思いをしなかったってことは……痛い思いをしたろう」
とても眠れる雰囲気ではなかったが、明け方少しうとうとした。
4 続・夏美と男
手越夏美は、職場に行ってみても特にいつもと変わらない様子にやはり昨日の出来事は夢だったかと思い直した。上司や同僚に挨拶を交わし、ロッカーから制服を取り出して着替える。受付カウンターで来客予定の確認を済ます。
同僚と交代して昼休み、携帯に直接かけるのが怖い。一応彼が出勤していれば、何の問題もない。
「樺井ですか。失礼ですがお宅さんは。ああ、妹さんですか。今日は来てないんですよ。いつもなら連絡くらい寄越すんですけどね。もし、そちらの方で連絡取れたら、会社にも電話しろってお伝え下さい」
やはり昨日のことは……。携帯にかけざるを得ない。樺井本人が出てくれれば……。
「おお、昨日はありがとうな。冷たく見放されたかと思ったが、奴の部屋に泊まらせてもらったよ。なかなかきれいな部屋だ。今度泊まりに来るといいよ。ああ、奴がこの体に戻ってからだな。……あっ、今かい。俺の体が入院している病院の前だ。……えっ、ニュース見てないのかい。社会人失格だな。……とりあえず、何とか会ってみるよ。結構警戒が厳重なんだけどね」
昨日起きたことは夢ではなかったことが確認された。本人が出てくれればいいと思ったが、本人が出ないのはわかっていたし、少なからずどこか期待をしていた伏しもある。彼女自身訳が分からなくなっているようだ。
朝早くから問題の病院近くまで来ていた男は、日頃感じたことのなかった心細さというものを久しぶりに感じはじめていた。
「この軟弱な身体のせいだよな」
ポケットに忍ばせていた携帯電話に手を伸ばしかけたがそれはやめた。この身体を知っている、いやこの身体の持ち主を知っている手越夏美に電話しようと思ったのだ。
「俺と樺井の問題だよ、これは」
そう割り切って、とりあえず病院に入ると受付に行った。
「入院病棟は?」
「ああ、この通路をまっすぐ行くとお見舞い専用の受付があるから……」
そこで名前等を記入するらしいが、少し様子を見て、混んできた頃を見計らって声をかけると案の定バッジだけくれた。ただの見舞い人でございというバッジだが、念のためにだ。たとえなくてもいくらでも言い訳はできそうだ。さて、そうやって簡単に入れるような一般病棟に犯罪者を入院させるわけがないわけで、すぐにバッジは返すことになった。
一応一般病棟を一通り見た後で、それとなく他の病棟を探し歩いた。おそらく本来の彼だったら、すれ違う人は誰もが眼をそらしたり、おどおどして距離をおいたりするものだが、どうもこの姿ゆえにあまり怪しまれないようだった。
旧入院病棟という廃屋に近い建物があり、そこの4階にそれらしい病室を見付けた。私服刑事が入口をかためていて、ここでございます、と言わんばかりだ。予測はしていたが、近寄ることは不可能だった。取りあえず、遠巻きに部屋の入り口に眼をやることにした。
彼のいる階段付近は特に人が通ることがなく、たいがいは例の病室の先にあるエレベーターを利用するのが通例らしい。今そのエレーベーターから一人の男が出てきて病室に入った。
「確か上野署の刑事だな」
病室から、医者と看護婦、それに続いて車いすに乗った患者……女性だ、それに車いすを押す刑事とさっき現れた刑事が順番に出てきた。エレベーターで移動するようだった。エレベーターには医者と看護婦を除いた3名が乗り込むようだ。車いすが回転した際、患者の顔がふとこっちを向いた。
「憂子だ。憂子がなぜここにいるんだ」
予想外のことが起きて少しづつ動揺してきていた。確かにニュースとして流れたのは暴力団に関することだけだったので、彼は知らなくて当然だった。彼は自分でも抑えきれず自然に歩き出していた。彼がエレベーターに近づいてきても刑事は過剰な反応を示さなかったが、エレベーターのドアが閉まる寸前に憂子は、反応した。
彼は憂子が理解したのだと勘違いしていた。「人間、姿、形じゃねえ、こころよ!」
と心の中で感動していたが、憂子がここにいるという事実をどう理解すべきか考えていた。単純にいかない複雑な様相を呈してきて、自分の身体が、すぐそこにありながら、病院を後にする男だった。
神田神保町の喫茶店で男は手越夏美と再会した。入れ替わりさえ気にしなければ、見た目には普通のカップルなのだが……。
「済まないなあ」
「しょうがないですよ。警察が関係してるんじゃ」
男に言われて、御徒町で起きた事件を新聞やテレビで確認した夏美が、恐る恐る慰めた。
「副島さん……でしたね。副島さんは人殺しなんですか?」
事件に加えて、殺された副島の風評なども耳に挟んだ。
男は真面目な顔をしたが、夏美の眼には、樺井が真面目ぶってるようにしか見えなかった。
「そ、そうだよ」
「否定しないんですね」
「事実だからな。ただ理由はあったが……」
タバコに火をつけた男は、一口吸って夏美を見た。
「早めにこの身体を君に返すよ」
「わ、私に返してもらっても……樺井さんと私は何でもないんです」
そう言って夏美は怒った顔をしたが、すぐに笑った。
男は笑顔でそれを返し、仕事の話に触れた。
「暴力団という仕事は、筋を通すために人を殺さなければならないこともある。まあ、その仕返で今回刺されたわけだ……。その時には樺井の体になっていたんだろうな。俺の中で刺された記憶がないからなあ。樺井には痛い思いをさせちまったんだろうな」
夏美にとっては、見た目が樺井であるわけで、人殺しといわれてもピンとは来なかった。
「たしかその事件の前後に停電があったと思うんだけど。それは覚えてる?」
夏美はとっさに駅で樺井に別れたあとの停電を思い出した。男も昨晩テレビで見たニュースを思い出したが、自身が体験した停電そのものの記憶は希薄だった。
「覚えているようでもあるし、そうでない気もするなあ……」
都営新宿線の改札で二人は別れた。
「明日また会えるかなあ」
男の顔が寂しそうに見えた。
「大丈夫だと思いますよ」
夏美は以前の樺井にない雰囲気を心なしか歓迎していた。
第2章
第2章
1 憂子と男
志穂崎憂子は事情聴取を受けたあと、そのまま病室で一晩明かすよう勧められた。自殺を図ろうとした経緯が曖昧だったので経過観察が必要だったし、警察としては翌日、難航している副島の自白を導くための道具として用いるつもりだった。
眠りに就く間際まで、憂子の意識を蹂躙していたのは、自殺未遂に至るまでの経緯でもなく、夢の中の不思議な光景でもなく、病院で眼を覚ました際、側で眠っていた副島の姿だった。刑事に、副島がなぜそこにいたのかを聞いた。彼は刺されたのだった。
〜なぜ、刺されたの?そしてなぜここに運ばれてきたの?もう逢わないつもりだったのに……〜
副島に関して思い出される記憶が錯綜する中、今年の春の出来事が脳裏に鮮明に描き出された。
副島が住田連合の暴力団員二人を殺害したあと、憂子が勤めていた店はパニックになった。警察が来て事情聴取される前に、憂子は客に紛れて外に出た。着てきた服はロッカーに残してきたが、大した服でもなかったので惜しくはなかった。ハンドバッグだけをとりあえず持ち出した。
その頃二人で暮らしていた本郷のマンションに一旦戻ってきた。
「憂子、済まないな。やっぱりこんな風にしか生きられないんだな、俺は。君に最初に会った店、覚えてるか。まずそこに向かってくれ」
二人を刺して逃げる間際に副島が囁いた言葉に急かされて、憂子は普段着に着替えて荷物をまとめた。
「男と違って、体一つでっていうわけにはいかないのよ」
タクシーを停めて乗り込む。
「上野まで」
本郷通りから春日通りに左折すると、いつになく渋滞しているようだった。そして湯島天神を過ぎた辺りからまるで進めなくなった。
「何か事故があったようですね」
ドライバーがさりげなく言った。憂子は料金を払ってそこで降りた。交差点でパトカーが数台止まっていた。事故車が無惨な形で見物人の視線に晒されていた。交通整理をする警官の一人と眼を合わせた彼女は軽く微笑みながら、副島と最初に会った深夜喫茶に急いだ。
〜あの時の私はやはり最悪の状態だった〜
学校はしばらく顔を出せない状態だった。部屋に居ると、余計な事を考えてしまうので、本を抱えて、行きつけの喫茶店に足を運んでいた。
歩いても帰れる距離では合ったが、喫茶店に入り浸る時間が徐々に増えていった。深夜まで営業してるのを良い事に、閉店までいることも多々あった。
その頃彼女は、豊島東高校で教員として働いていたが、人間不信に陥っていたのだ。彼女は教員を続けるかどうか悩んでいるところだった。
そもそも彼女が豊島東高校にいるのは、現代国語の教師として、臨時でやってきたのが発端だった。学生や同僚教師にも受けが良かったので、そのままその年の9月から2年2組の担任となり、授業を行うだけでなく、生徒の進路相談やら指導といった経験のない仕事を抱え込む事になった。
学年主任兼2年1組担任である西尾は、憂子の悩みに対して、真面目なくらい相談に乗ってくれたが、憂子自身は、必要以上に優しく接してくる彼の行いに戸惑いを覚えた。しばらくすると、どさくさに紛れて体に触れたりする回数が段々増えてくるようになったが、彼流のスキンシップなのだ、同じ教師なのだと自分に言い聞かせる憂子だった。
その日、全授業が終わってから学年主任を中心に教頭を中心に年末年始の打ち合わせ会議が開かれた。その中で、志穂崎憂子は来年から臨時ではなく、完全に豊島東高校の教師として採用されることが発表になった。
会議が終わって帰ろうとする憂子に西尾が声をかけた。
「本採用おめでとう。今日は君のために宴席を設けてあるから、少し待ってて下さい。ああ大丈夫ですよ。教頭も一緒ですから。歓迎会もしてなかったしね」
憂子は教頭が一緒ということに決心して同行した。実際本採用は嬉しかったということもあった。
「他の方達は帰られたんですか」
憂子は、3人だけというのも寂しい気がしてタクシーの中で聞いてみた。
「他の先生にしてみればあなたはライバルみたいなものですし……。何より教頭が一番あなたを歓迎しているんですよ。ねえ、教頭」
「ま、まあね」
教頭は一つ咳をして、そう言った後、機嫌良く笑った。タクシーは神楽坂の裏通りにある古風な料亭の前で停まった。
ライトアップされた庭園を横目に座敷部屋に通された。3人が座ると同時に料理が運ばれてきた。ビールで乾杯すると教頭の話が始まった。
「志穂崎君の授業を覗かせてもらったんだが、説明がわかりやすいね。それに生徒の気持ちを把握しているんだろう。間の取り方が絶妙だ」
とにかく一方的にほめまくる教頭だった。西尾は西尾で教頭の話を盛り上げようと大袈裟な相槌をうったり、冗談を言ってみたりしていた。誉めすぎと思う憂子だったが、誉められて悪い気もせず、自然とビールの量が増えていった。
1時間過ぎた頃、教頭はトイレに立ち上がった。正面に座っていた西尾がビール瓶を持って横にやってきた。
「志穂崎さんは、結構いけるくちですね」
「そ、そうでもないんですよ。いつもはこんなに飲めないのに、今日は何だか」
そう言いながらお酌を受けた。
「そうですね。今日は特別かもしれません」
西尾が意味有りげにつぶやいた。
憂子が、注がれたコップに一口つけてテーブルに戻した時、西尾の両手が憂子の両肩を抑えた。そしていきなり唇を押し付けてきた。突然の出来事に体勢を立て直すことができず、西尾の力が意外にも強かったため、憂子は正座したまま抱きすくめられていた。
やっとの力を振り絞って西尾の腕から逃れ出た憂子は慌てて頭の中を整理しようとしていた。
「志穂崎さん、わかってるだろう。最初に合った時から、好きだったんだよ」
西尾の告白は混乱を極めた。頭の中が真っ白になって行く。立ち上がろうとして片膝を付き、立った瞬間よろけて倒れそうになる。すかさず西尾が抱きかかえる。
「触らないで下さい」
思考してではなく本能的に吐いて出た言葉だった。
逆上した西尾は、憂子を力いっぱい壁際に突き飛ばした。憂子に怪我はなかったが、かなり大きな音が、料亭内に響いた。
「大丈夫ですか」
心配して駆けつけた数名の女中に混じって教頭の姿があった。
「西尾君、君は何をやってるんだ。出て行きなさい」
教頭が西尾を叱りつけ、取りあえず場は治まった。
教頭の勧めで、憂子はしばらく隣の部屋で横になっていたが、気分が楽になってきたので起き上がった。途中、店の者が気を利かせて、薬などを用意してくれた甲斐もあった。
「無理をしなくてもいいよ。もう少し横になってなさい」
教頭が襖の隙間から声をかけた。
「教頭先生、すいません。私、何が何だか分からなくて……」
「僕がちょっと眼を離した隙に、こんな目に遭わせてしまってな。西尾君にはそれ相応の処分をしないといけないなあ」
憂子は西尾とのやり取りを思い出してまた不快な感覚が蘇り、その場にうずくまった。
「ほらほら、無理するんじゃない」
教頭がそう言って憂子の横に座り、背中をさすった。
「彼のとった行動は教師としてはあるまじきものだ。ただね。君には問題がなかったかね。彼は今まで真面目にやってきてるし、こんなことをしたことはないんだよ。君が誤解を生むようなことをしたのではないのか」
憂子は教頭の言う言葉の意味が理解できなかった。
「教頭先生。言ってることが分かりません。私は被害者です」
教頭の顔を見据えて訴える憂子だった。教頭は顔色を変えもせず、淡々と語った。
「わかってる。ただし今回に限ってはこの僕に免じて彼を許してやってくれないだろうか。今彼に辞められても学校にとっては大きな損失なんだ」
そう言いながら再び憂子の背中をさすり続ける教頭の手に不穏な力が加わわった。危険を感じた憂子が、その手を払いのける。
「し、失礼します」
入って来た時に見たライトアップされた庭園が何だか薄汚く見えた。
「君の教師としての人生の今日が第一歩だ。今日のことはどうか君の胸にしまっておいてくれ。口外無用だよ」
部屋を飛び出す瞬間に教頭が憂子に投げかけた言葉だった。憂子は悔しさと情無さで目に涙を浮かべながら訳もなく夜道を歩いた。
それから数日、憂子はその日のことを思い出すたびに、自身の無力さを感じてしまうのだった。自分に力があれば彼等を罰することができるのだ。何もなかったと思いたい。西尾に突き飛ばされたときの痛みは消えても、心の痛手は日を増して強くなっていく。私が我慢をすればすべて丸く収まるのだろうか。それは彼らをのさばらせておくだけではないのか。学校教育のためにけしてこれで良いわけがない。正義感が頭をもたげてくるが、その反面、それを許しつつある自分に自己嫌悪の念が浮かんでくる。日が経つうちに、自己嫌悪の方が勝って、次第に消え失せたい衝動に駆られる憂子だった。
見た目には普段通りの日々が過ぎていたが、憂子は教頭と西尾のいる職員室にいることが耐えられなかった。とにかく3人ないしは2人で話はしまいと思ったが、その均衡を破ったのは西尾だった。
「この前のことは悪かったと思ってる。信じてくれないかもしれないが、すべて教頭の指示なんだ……。いや本当だよ。教頭が場所を手配してるし、僕は彼がトイレに立つのを合図にお膳立てをする役目だったのさ」
授業が終わって職員室に戻る途中、呼び止められた憂子は、不本意ながら誰もいない科学実験室に同行した。そして西尾の話しを、悔しさをこらえてただ黙って聞いていた。
「教頭の意にそぐわず、あんな修羅場になってしまったんで、散々しぼられたんだ。これでも柔道をやってたんで君をおとなしくさせるのは簡単だったんだ。ところがいざその場面になると教頭に君を渡すのが何だか惜しくなった、って言うか、君が本当に好きだったんだよ。あの時言ったことは本当なんだ。君がもう少し僕にやさしくしてくれていれば、僕は覚悟を決めて、教頭に逆らうつもりだったんだ。今はもの凄く後悔しているよ。でも悪いのは君なんだ」
憂子は、自分勝手な彼の言い分に腹を立てながら、それを真顔で言うその神経が分からなかった。
〜自分たちのしたことを棚に上げて、私を責めようとするのは狂気の沙汰ね。自分のしたことはどうだっていうの〜
「今回は教頭と同罪だと思われてもしょうがない。僕は部屋を出て行ったがすぐに戻って隣の部屋にいた。君には見えないところで君と教頭の話を聞きながら、君の言い分を素直に受け止めていた。反省してる。だけど教頭が僕をかばうのは、彼にも責任がある証拠だ。いずれにしても今の僕に彼に逆らう力はない。校内の人事権は彼が握ってるんだから。でも彼こそが計画の首謀者だし、彼こそが今まで何人もの新人女性教師を食い物にしてきてるんだ。彼の計画通りに行かなかったのは今回が初めてなんだ。それが、どうしてかは、分かってくれるよね」
回りくどい彼の言い方に腹を立てながら、憂子は言い返した。
「あなたは、教頭先生のせいとか言いながら、結局私をどうにかしたいだけじゃないんですか。教頭の計画に便乗して、あわよくば、自分もって、思っただけなんでしょ」
怒りが込みあげて語句が荒くなり、侮蔑を込めて言い放った。彼はさすがにそこまで言われて、感情を露にした。
「君もはっきり言ってくれるじゃないか。何も分かってないんだ」
腰を引きながら声を震わせて、卑怯者が後ずさりする。そして一目散に逃げていった。憂子が勝利したように傍目には見えたが、彼女に取っては後味の悪い虚しさだけが残ったようだった。
その数日後、彼女は最初の自殺未遂を図った。わざと西尾を部屋に呼び寄せた。
「先生の仰ったように、私を教頭先生から守って下さったんですよね。あのときは誤解して、かなり言い過ぎてしまって、反省してるんです。お詫びという訳ではないんですが、今晩部屋でお待ちしています」
そんな誘いにのこのこと部屋に呼び出された西尾は、ベルを鳴らしても反応がなく、鍵のかかってないドアを恐る恐る開けると、灯りの付いているリビングで、睡眠薬を大量接種した彼女を発見、驚き慌てふためくも、責任だけは果たし、救急車を呼んだ。
カーテンの隙間から差し込む光が、朝の訪れを告げていた。いつのまにか夢の中にいた。それは思い出したくない獣達の愚行だった。そしてそれを糾弾出来ない自身の弱さでもあった。そしてそれを消していったのは昨日の副島の姿だった。それともう一つ何か……。
〜あれは、エレベーターでこの部屋に移動する時、外から覗き込んでいた人の顔……どこかで会った?〜
2 刑事と男
上野署の刑事吉田は、副島の口から出てきた樺井という人物の裏を取るべく、彼が勤めているという広告代理店に連絡を取った。樺井は欠勤でなんの連絡もないという。
「なるほど。樺井の所在が確認できれば、副島の嘘が明らかになる。じゃあ確認できないとすれば……。副島に殺られたか」
吉田は俄然樺井探しに意欲が湧いてきた。早速樺井の住所である江東区の大島に足を運ぶことにした。
男が手越夏美と別れて樺井のアパートに戻ってきたのは、10時を回っていた。
「樺井さんですね」
男が鍵を開けようとした時、後から声をかけられた。男はすぐに相手がわかり、一瞬身構えた。
「夜分にすいません。上野署の吉田といいます。ある事件の捜査でご協力いただけないでしょうか」
「どういうことでしょうか」
「あなたに直接関係があるわけではないんです。いわゆる目撃者探しなんです。この男を知りませんか」
吉田は手際よく上着の内ポケットから写真を取り出し男に手渡した。
「知りませんねえ」
「どうぞ灯りの下でじっくり見て下さい」
「いやあ会ったことも見たこともないですねえ」
吉田はやはり副島が嘘を言ったのだと思ったが、樺井のことをあれだけ知っているからには、何か接点があるはずだと考えていた。
「じゃあこの写真はどうですか」
吉田はすかさずもう一枚を男に渡した。
「きれいな方ですね。でも残念ながら知りません」
「そうですか」
吉田は何となく予期していたことなのに、半日彼の帰りを待っていたことを考えると少し腹が立った。
男が最初に見せられたのは、数日前までの自分の顔であり、後から見せられたのは志穂崎憂子だった。刑事が訪ねてきたのは、奴が何か言ったんだろう。
〜まあ俺と違って、気が付いたら誰かに刺されていた上に、殺人の容疑者とくれば、俺は違うと声を出して言うだろう。ただ誰も信じないだろうなあ〜
そんなことを考えていると吉田が礼を言って帰って行った。部屋のドアを開けて中に入ろうとした瞬間だった。
「ああ、そうそう樺井さん。もう一つ聞いても良いですか。今日は仕事を休まれて、どこかにお出掛けだったんですね」
不意をついた質問だったが、悪意はないようだった。男は自分と樺井に起きていることが理解されることはない、と思っていた。自分でさえ信じられないのだから。だから樺井の気持ちになれば事は簡単なのではと考えた。
「なんか仕事に行くのが虚しくなって、連絡も入れず休んでしまいました。図書館に行ったり、隅田川沿いを歩いてみたり、今日はぼおっとしてました」
そう言ってため息まで吐いてみせた。
吉田は特に興味は示さなかったが、最近の若者らしいなと、つい説教癖を表した。
「若いときは、色々悩んだり迷ったり、考えることがたくさんあるんでしょうなあ。私にも経験があります。ただ社会に出るとそんな事はお構いなしに世の中が動いていて、無数のルールにがんじがらめにされて行くんですよ。まあそのルールを守ることで自分の存在を認められてるわけなんですよね」
男は内心笑いを抑えながら、わざと伏し目がちに、反省している風を装った。
「ああ話が長いですね。申し訳ない。でも明日は仕事、行った方がいいですよ」
吉田は半日、樺井を待ち続けて、副島との接点は見付からなかったものの、若者にうんちくをたれたことで少しすっきりしたようだった。
男は途中で買ってきた缶ビールを開けて一口飲み、テレビを付けて床に座った。
「分かるはずがない」
ぽつりと呟いた。ニュース番組では、今日の衆議院解散が大々的に報じられていて、昨日あったことに触れることなどなかった。
眠りに就く直前、志穂崎憂子の顔がちらっと浮かんだ。日中パトカーに乗せられる憂子と目があった。久しぶりに見る憂子は少しやつれている様だった。
「憂子が奴と話をしたらどうなるだろう」
ふとそんなことを思ったら、ビールの心地良い酔いも醒め、不安が頭をもたげてきた。今にも刑事がやってくるような気がしてきた。それでも身体の疲れが、次第に眠りの世界に導いていた。
副島が自分の人生を振りかえった時、いつも一人の少年の顔がある。それは最初で最後の親友と呼べる男だった。
幼い頃から両親が不在がちだった副島は、兄弟もなく、一人で過ごす日々が多かった。小学校でも無口で内気な彼は友達もできず、図書室で本を読みあさっていた。その頃の誰に聞いたとしても、おとなしく目立たない存在と答えるだろうし、まず名前を言ってもわからないのが大方だろう。
中学に入るとそんな彼にも友達ができた。一人っ子で親が留守がちという共通点があった。同じ路線バスを使っていたが、その子はいつも彼の手前のバス停で降りて行く。ある日、その子から声をかけられた。
「いつも一人でいて、つまんなくないか。家に寄っていかないか」
その子は武下と言って、親は後からわかったのだが、金龍会という暴力団の幹部だった。
武下はマンションの自分の部屋に彼を招くと、親には内緒と言いながら、煙草をどこからか取り出してきて、彼に分け与えた。
「うちの親、暴力団のくせにうるさいんだ。酒とか煙草とか。自分達は好き放題やってるのにね」
副島は時々そこに来て煙草を吸ったり、ウイスキーをもらったりしていたが、その世界に引きずり込まれることもなく、学校生活とうまく両立させていた。行きたくない時は行かなかった。武下もそんな副島の行動を認めることはあっても束縛することはなかった。その辺が二人とも大人だった。お互いが惹かれたのも似た者同士だったからかもしれない。
高校受験を迎え、二人の距離が少し遠くなった。副島は私立の進学校を目指していたが、武下は同じ私立でも平凡な高校で良としていた。
「親父が言うには、これからの暴力団は、大学出のインテリじゃなきゃダメだってさ。でも所詮親父の息子なんだ。親父なんて、中学もろくに出てないんだぜ。俺も高校で十分さ」
副島にしても大学に行こうとまでは思わなかった。ただ何となく勉強をしていた。そのおかげで進学校に行けるというだけだった。次第に二人は顔を合わさなくなった。その後二人が再会したのは、高校を卒業してからだった。
副島が、過去の話をする時、志穂崎憂子以外の知人には、高校時代にぐれてこの世界へ……と話す。彼にしてみれば、大学に行ったことなど、この世界では何の役にも立たないというのか。あるいは彼流の照れ隠しか。
武下の場合は、予定通り、父親のおかげで高校を出てすぐに子分を数人持ついっぱしのヤクザになった。その時点では副島はただの大学生だった。
夏のキャンパスにTシャツ姿の大学生が溢れかえっていた。その中をサングラスをかけ、黒いシャツに黒いパンツ、白いネクタイに金の腕時計を着けた、その場にそぐわない雰囲気の男が一人、真っ直ぐ歩み寄ってきて、壁にもたれて本を読んでいた若者に声をかけた。
「副島か」
「おお。久しぶりだな。なかなか様になってるじゃないか」
「よせよ。あんまり気に入ってないんだ。お前みたいな方が良いよ」
サングラスを外した瞳に中学時代の面影が宿る。そしてその瞳はTシャツにジーンズという姿の副島を眩しそうに見つめた。
「突然電話を寄越すなんてさ。何かあったのかい」
副島がまず切りだした。武下は、すぐには答えず副島を校外に誘った。通りに出ると黒のセダンが停まっていた。武下の仲間と思われる男がさっと出て来て、後部ドアを開ける。先に副島を勧め、武下は後から乗った。
武下が副島に連絡してきたのは、金龍会のフロント企業の一つである金融会社が破綻しつつあり、武下がその業務改革をまかされたが、片腕として副島を率いれたいという理由からであった。
「俺達が実際金融業を営むわけじゃない。働いてる奴に喝を入れる役だ。ただいくらかでも数字に詳しい方がいい。それに俺は取り立てを強化する方に力を注ぎたいから、店の経営を見ることができないんだ。そこで信頼できる片腕が必要なんだよ。今まで頼み事をしたことがなかったが、今度ばかりはまいったよ」
副島は、正直に武下が後戻りの出来ない世界に足を踏み入れている事を悟ったが、彼の性格が親友のために何とかしたいという道を選んだ。結局それがきっかけにはなったのだ。
江東区大島のアパートで男は眼をさました。時々に夢に出てくる友人が、なんとなく樺井と重なって、彼のためにも、また彼の恋人でもある夏美のためにも何とかしなければならないと思った。といいながらも、今二人に起こっているこの不思議な現象が、果たして一般的に理解されるだろうかと考えた。警察が裁ける範疇ではないのではないか。
樺井の部屋にあったコーヒーを炒れながらそんな風に考えると、少し気分が安らいできた。
〜焦る必要はない。逆にこの状況を利用しない手はない〜
透明になる薬を発明した博士のように愉快な気持ちが押し寄せ、たとえ善良な市民であっても、悪巧みの数々が自然に沸き上がってくるように、この男にしてもその例外を免れることはなかった。
元々副島は、何事においても楽天的な考えの持ち主で、悩み苦しむという世界とは無縁の人間だった。だからといって苦しみに無頓着というわけではない。特に他人の悲しみや苦しみには敏感に反応する。それは志穂崎憂子に出会ったときもそうだったし、浅草のクラブで二人の暴力団員を刺殺したときもそうだったのだ。
上野署の吉田は病院に出かける準備をしていた。昨夜は樺井という男に会った。特に不審な人物とも思えなかった。副島がなぜその男のことを知っていたのか、その接点は依然として不明だったが、今日ははっきりさせてやると心に誓った。
病院では、昨日意識を取り戻し、自分の事を「樺井」と名乗った男が、眠りから覚めて朝を向かえたところだった。椅子に座った刑事の姿を確認し、ため息をついた。目が覚めたら状況が変わっているかもしれないとでも考えたのか。
「今日も天気はいいぞ」
刑事が一人言のように男に話かける。男は立ち上がった刑事の顔を見てから窓の方に視線を移した。
「よく眠れたか。傷の痛みはどうだ」
そう言われて起き上がろうとした男は、痛みを感じて、姿勢を戻した。
「まだ無理だろう。しばらくはそのままだな」
刑事があっさりとそう言った。
沈黙を続けていた男が口を開いた。
「刑事さん、僕の身元はわかったんですか」
刑事は一瞬曇った顔をして答えた。
「それは担当の刑事が調査中だ。お前、自分が誰か忘れちまったか」
「僕は樺井洋介といいます。昨日の刑事さんにも言いました」
男はきっぱりと言ってのけた。刑事は吉田から聞いてはいたが、その場面に出くわして、寒気を感じた。
吉田が到着したので、何事もなかったことを引き継いだ。
「吉田さん、気味が悪いですね。あいつ、本当にいかれてるみたいですよ」
「刺激させるようなことは言ってないだろうね」
吉田にそう言われて、彼の部下は少し動揺した。
「いや何、朝の挨拶をしただけですよ」
吉田は、ご苦労様とその刑事に声をかけ、副島がいる病室に入って行った。
男にしてみれば、何がなんだか分からなかっただろう。彼はまだ夢の中にいるものだと思っていた。考えてみれば、始まりが分からない。彼の記憶にあるものは、とにかくバスに乗り数人の連中と出会ったことだった。それ以前の記憶を思い起こすと、友人手越夏美とのデートで、それは動物園……駅で別れて……。そしてバスに乗った。そのつながりが分からない。
バスの中で出会ったのは、まず英語教材の訪問販売をしているサラリーマンだった。彼が訪問した女子高生が後から乗ってきた。二人の間に何かが起こった事は間違いなさそうだった。そしてもう一人は、女子高生が通っている学校の女教師だった。
〜サラリーマンは降りられなかったんだ……彼らはみんな実在する人なんだろうか〜
3 入れ替わり
病室の窓のカーテンの隙間から太陽光が射し込んでベッドの脇の床面を明るく照らしていた。吉田の目には、ぼおっとそれが映っていたが、吉田自身はまるで意識してなかった。改めて事の重大さを感じ始めていて、それを認めることが恐かった。
「君はその部屋にいた男が樺井ではないというんだね」
「あたりまえです。僕が樺井ですから。昨日から言ってるじゃないですか」
そう言いながらも自分の部屋にいた自分を名乗る男の登場で不安を隠しきれなくなっていた。ふと思い付いたように吉田に聞いてみる。
「その部屋にいた男の顔写真はないですか」
「ああ、仕事先で手にいれた履歴書の写真だったらな」
「それは僕が貼ったものだから意味がないですよ。でも刑事さんが見てその写真の通りなんですか」
「少なくとも君よりはね」
言った途端、吉田も男もハッとなって目と目を合わせた。
「け、刑事さん鏡を貸して下さい」
「わかった」
まるで旧知の仲の様に、男二人の共同作業は手際が良かった。洗面台の方にあった小さい手鏡をリレーのバトンのように吉田は手渡す。お互いに何となく心が通ったように思ったのもつかの間、すぐに信じられないことが起こったのだと認識せざるを得ない展開となった。
鏡を見た男は鏡に映る他人の顔に短い悲鳴をあげた。
「僕じゃない」
男の声は絶望に震えていた。何でこんなことが起こったんだ。現実には有り得ない。まさしくこれは夢なんだ。男はそう思いたかった。
吉田もこの男に起きていることが何となくはわかった。それは頭では理解しがたいことだった。第三者の意見が欲しいところだ。吉田はまず志穂崎憂子に面会させて、この事実の裏付けを取ることと昨日彼が話をした樺井の部屋にいた男を参考人として呼び、やはり二人を面通しさせようと考えた。
取りあえず待機させておいた志穂崎憂子を副島の病室に呼ぶ事とした。彼女には特に事前説明をしなかったものの、自分が昨日目を覚ましたであろう病室に向かっている事は、薄々感じ取っていて、そこに誰がいるのかは想像がついているようだった。
彼女の脳裏に、昨日目を覚ました時、隣のベッドに横たわっていた副島の横顔が映し出された。
〜彼に会わせる顔がない〜
ドアの前で一瞬ためらいを見せたが、刑事に促されて中に入った。ドアを開けるとカーテンが引いてあって人の声がした。
「吉田刑事、お連れしました」
「ああ、ありがとう」
中から返事がしてカーテンが開かれた。
昨日事情聴取を担当した吉田が、昨日よりは少し温かみのある顔で、そこに現れた。そして彼の向こうに副島らしき男の影があった。ベッドに横たわっている状態は、昨日と同じだった。
「刑事さん、彼の様態は?」
「後数センチ傷が深かったら、危なかったみたいだが、命に別状はないということだ」
「私、彼に会いたくないんです。勘弁して下さい」
そう言う彼女を吉田が引き止める。
「分かりました。ただ顔を確認してほしいだけなんですよ。本人は副島じゃないと言い張るものですから」
「えっ……」
副島らしくなかった。もし彼が捕まったのなら、今更他人の振りをするとは思えなかった。
なんだか不安に駆られて、顔を会わせる事にした。ベッドに横たわる彼の顔を覗き込んだ。目を閉じていたが間違いなく彼だった。彼だと分かると、なぜ嘘をついているのかが気になった。
「間違いありません。彼です」
「そうですか、間違いありませんか?」
「間違いありません」
「私もそう思ったんですがね……樺井さん眼を開けていいよ」
ベッドに横たわっていた男は、目をゆっくり開けると、小さな驚きの声を上げた。
「えっ、あなたは?」
「なんだ、知ってるのか?」
副島じゃなきゃ、彼女の事は分からないはずなのにと吉田は思った。
憂子は憂子で、副島が記憶喪失にでもなったのではないかと考えていた。
「あ、あなたとバスに乗ってましたよねえ。あと、ほら女子高生と英会話の教材を訪問販売するサラリーマンと……それからヨモツ何とかというバス停で降りました」
男の喋るのを呆れて見ていた吉田は、憂子の顔に視線を移した。彼女は明らかに何かに気が付いたようだった。
男は、彼女の反応に気を良くして、さらに話し続けた。
「あの時の私です。樺井と言います。最初はただの人違いだと思ってたんですが、さっき鏡を見て驚いたんです。僕の身体だけがまったく別人になってしまったんです」
「……っと彼は主張するんですが、志穂崎さんは、樺井さんとは面識があるんですか?」
何か繋がりらしき感触に吉田は興味を持った。
憂子の記憶の糸をたぐり寄せていくと、バス停で一緒に降りた学生の存在を思い出した。そう、彼だけが誰とも関連がなかったのだった。
「あの時の学生さん、ですか?」
そう言ったものの見た目が副島であり、にわかに信じられない上に、副島と彼の接点が見当たらない。
「定職に就いてないし、童顔なので学生って言われるんですが、25歳なんです……って今なら、学生にさえ見えないですよね」
自分の置かれている状況も気にせず、樺井がそんなことを言うので、吉田も呆れていた。
「確かに見た目は副島ですが、中身は樺井さんのようですね……。樺井さんには、去年バス旅行か、何か一緒だったんですよね」
そう言って、吉田に感づかれないように憂子が目配せをした。
「あっ、そうでした。はとバスのツアーじゃなかったですか。そうそう懐かしい」
夢の中で出会った事はさすがに口に出来ないと思った憂子に樺井も同調した。
吉田は、観念したように結論づけた。
「なるほど、ということはここにいるのは、肉体は副島だが、中身は樺井さんというわけだね。ということは、昨日私が会った樺井さんは、もしかすると……」
3人が眼を合わせて、同じことを考えた。
「しかし、なんで、そんなことに……」
吉田は、そう呟いてうなった。
3人は、それぞれ自身の思考の中に埋没した。
「副島が刺されたのが御徒町の改札でしたよね」
憂子は声に出して吉田に確認した。
「いえ、改札の少し前、券売機の辺りだったと報告にありますね」
吉田は詳しくその時の状況を二人に伝えた。
「私も御徒町にいたんです」
吉田の話を聞いていた樺井が、自分とその男が遭遇したのがその時だと確信して、バスに乗り込む前の動物園を出た後の記憶を二人に話した。
吉田は、取りあえず二人の意識が入れ替わっていることは信じざるを得なかった。
〜確保したこの男、見た目は副島だが、意識は全く他人だ。これは副島を捕えたことにはならない。どちらかといえば無実の男を捕えたというべきだ。追うべきは樺井の姿をした副島だ。だがもし学術的に証明されなかったり、技術的に元に戻せなかった場合はどうなるんだろう〜
吉田はそんなことを考えながらも二人の話に耳を傾けていた。
憂子は、未だ半信半疑だったが、驚くほどこの超常現象を受け入れていた。
「多分、相手は副島だと思って刺したのね……。樺井さん、ごめんなさい」
「そ、その副島さんっていう人は、どんな人なんですか。他人から恨みを買うような、もしかしら……」
「……ごめんなさい」
憂子にはそれ以上話せなかった。
「そう言えば、君たちが同時に同じ病院に運ばれてきたのは、意味があるのかな?」
吉田が何気なく呟いた言葉だったが、ふと憂子は思いついたように言った。
「刑事さん、私たち以外にも同じ時刻に急患があったんじゃないですか?」
「そういえば、その時刻に意識不明患者が他に2名いたようだったなあ、確か一人は女子高生だ」
「どうなったか、わかりますか」
男と憂子がほとんど同時に声を出した。調べてくると言って、吉田は部屋を出ていった。普通は一時たりとも眼を離してはいけないのだが、信じきったのだろうか?
憂子は椅子に座ってベッドの上の男を見つめていた。
「不思議ね。黙っていれば、副島だものね」
「あなたと彼は恋人同士なんですか」
男が天井に向かって呟いた。
「一緒に暮らしたことがありました。今では赤の他人です。ところであなたには迷惑をかけましたね。どんな経緯で意識が入れ替わったかはわかりませんが、本来痛みを味わってここにいるべきは彼の方ですものね」
「バスに乗っていたのも副島さんだったでしょうにね」
男は何となく副島に嫉妬していた。
「あの人はヤクザなんですよ。それは見た目でもないし、話し言葉でもないし、普段の行動でもないんです。最初に会った時に普通の人にはない魅力を感じたものですが、それこそがヤクザの本質のような気がします」
「最初疑われていたので、きっと副島さんって、そんな人なんだろうなって思ってました」
「ここであなたを見て思ったのは、そんな彼からヤクザの本質を抜き取ったら、きっとこんな感じなんだろうなってことなんです」
言い終わって憂子は笑った。
「それはどういうことですか?」
憂子の言っていることが理解できなかった男だが、憂子の笑顔を見て、いくらか気が安らぐ思いだった。
そんな様子を隠しマイクが拾ってドアの外の吉田に届けていた。彼らが口裏を合わせてひと芝居打っているわけでもなかった。吉田は、さらに専門家の裏付けを取ろうとある心理学者に連絡をとった。とりあえず電話で意見をもとめた。
「それは興味深い事例ですね。いわゆる人格障害とも違います。多重人格という言い方がわかりやすいでしょうか。人格障害は、ある人が自分の心のストレスをカバーするために自分の中に別の人格を形成し、状況に応じてスイッチングするのですが、それでも元の人格は本人の中に隠れているだけです。意識が外に飛び出す幽体離脱という現象も考えられますが、これとて意識が浮観した状態のまま自身の肉体を見つめるという程度で、他人の肉体に入り込むなどという事例は聞いたこともありません」
一度拝見したいという学者の申し出を快諾した吉田は、もう一つ解決しておくべきことに手を付けた。それは昨日訪れた大島にある樺井のアパートに向かって、樺井に成り代わった副島を確保する事だった。
アパートは鍵がかかっていた。管理人に言って部屋に入り込むが今時の若者の部屋という感じで特に疑わしそうなものはない。仕事に行ったのかと勤務先に電話すると、朝一番で連絡があって、辞めたいということだった。アルバイトなので電話一本で辞められるのだ。
「間違いない。奴が副島なんだ」
副島の肉体に樺井の意識が宿っているなら、当然その逆もあるに違いない。起こり得ないことが起こっているのだから、昨夜の段階で分かるはずがない。それでも何となく悔しい思いだ。
〜俺の話を心の中で笑いながら聞いていたに違いない〜
〜必ず見付け出してやる〜
吉田の中で何かが火を噴いていた。そして彼の手帳の書き込みにある、樺井の女友達である手越夏美に丸をつけていた。
4 続・憂子と男
志穂崎憂子は、翌朝現住所である湯島にあるワンルームマンションに戻った。病院からはさほど遠くない。病院では精神安定剤を処方されたが、自分で管理が出来なければ何の意味もないのだ。昔から思い詰めると、自身の身体を傷つけてしまう癖はあった。
学生時代、学級委員を任された時に、クラスのいじめ問題を議題に掲げた所、教師から「そのような事実はない」という理由で議題を変更させられた。いじめを受けていたのは彼女本人だったのに、教師がその事実を黙認してしまったのだ。その時はクラスで手首を切ったが、穏便に何もなかったことにさせられた。それは教師の言いなりになる両親にも問題があった。
そうやって、大人、特に教師に絶望しつつも、自分と同じ境遇の学生がいたら自分が助けてやれるかもしれないなどという正義感から教師にはなった。もともと勉強することも人に教える事も好きだったからでもあった。
昨年、豊島東高校で、非常勤の職を得たときは、いざ思い切って生徒達に飛び込むことで予想以上の反応が返ってきて、並々ならぬやる気に自分自身が圧倒されていた。その勢いもあって2学期からは、担任という大役を任せられ、年明けからは、いよいよ正式に教師として採用される見込みになっていた。
ところがそんな華やいだ道の影には、思わぬ罠が仕掛けてあって、一夜にして絶望に変わり果てたというわけだった。それが彼女を自殺未遂に追いやったとすれば、同情せずにはいられないが、多くの人は、頑張っていれば報われないこともないと言うかもしれない。
しばらく学校には行けない日々が続いた。退職するかどうか、結論を出さなければならなかった。それでも毎日本を抱えては、学生時代行きなれた喫茶店に足を運んで、読書の世界に逃げ込んでいた。それも部屋に居るよりは落ち着くと見えて、入り浸る時間も徐々に伸びてきて、深夜営業を良い事に閉店ギリギリの朝3時まで居る事もあった。もちろん歩いて帰れる距離なのだ。
深夜ともなると、数人の男が声をかけてきたが、取り合わなかった。誰を見ても教頭や主任に見えた。
「先生じゃないですか。こんな所で。終電に間に合わなかったんですか」
その時、副島から声をかけられたのだった。 副島が彼女に受け入られたのは、副島がサラリーマン風には見えなかったせいかもしれないし、彼独特のアプローチも効果があったのかもしれない。さすがに彼女も一瞬は「誰か知人なのか」と思ったのだ。
副島が知人の振りをしていたことは、次第に分かってきた彼女だったが、彼の話が、意外と面白かったことや、今まで接した事のない雰囲気に何か引き寄せられるものがあった。
ビートルズ、そして60年代、70年代の洋楽、彼のお気に入りのブルース・スプリングスティーンの話等々。洋楽には全く興味のなかった彼女だが、彼の話を聞いていると、何だか耳を傾けてみたい気がしてきた。大袈裟に言えば、これから先の希望のようなものとも思えた。
そしていつの間にか、自然と語り出しているのは彼女自身の話だった。
「生徒の今後を本当に心配している教師は、
あなたが言うように皆無でした。それどころか、自分の欲望を露骨に見せつける薄汚い獣でした。特に教頭は、学年主任と組んで私を騙したんです。本採用という餌で私を釣っておいて、お祝いだと言って、料亭の一室に誘い込み、いたずらを働く計画だったんです」
副島は、その計画が未遂で終わった事に内心ほっとしたが、それだけでは済まないようだった。彼女に去来した強い復讐心が、彼女を鬼にして、学年主任を巻き込んでの自殺の話となった。
「自殺しようと思ったんです。どうせなら、彼らに見せ付けてやろうって……。前日学年主任にその気がある振りをして、連絡を取りました。翌日学校を休んだ私は、部屋にあるものを整理してから、以前から服用していた睡眠薬を、彼が来るであろう数時間前に全部飲みほしました。でも結局は死ねなかったんです。学年主任は、予定時刻前に着いたらしく、急いで通報してくれたんです。憎むべき相手に一命を救われてしまったという情けなさを心底痛感しました。それから学校へは行けなくなって……こんな所で時間をつぶしているというわけです」
それが副島との出会いだった。まだ片付いていない部屋の段ボールの中には、あの時の「ノルウェーの森」が想い出とともに保管されていた。
「怒りを通り越すと無性に泣けてくるんだ。世の中には腹の立つ連中がうようよ暮らしてるのは確かさ。でも自分がどう生きるかなんだろうな。先生が偉いのは、そこで自暴自棄にならなかったことだ。こうやって俺に話せるってことは、きちんと自分を保ってるんだよ」
彼が最後に言った言葉も、彼女の心を温めたが、「ノルウェーの森」同様、しばらくは段ボールを出る気配はなかった。
以前住んでいたマンションも本郷だから、かなり近い距離にまた舞い戻ってしまったのだ。一度は東京を離れたのに……。
彼女が刑事に供述した内容は、ほぼその通りだが、クラブに勤める事を提案したのは、彼女本人だった。それに副島がなぜ殺人を犯さなければならなかったかも熟知していた。それは彼と付き合い始めて、何度となく聴いいていた彼の友人にまつわる話だった。
彼が金龍会に入って最初の頃、親友武下の言った通り金融会社に派遣され、数字を見ながら大人達に向かって発破をかけていた。大学生という立場ではあったが、業務の内容を把握し、参考の文献を読みあさることで経営の知識を身に付けた。メンタルな部分は才能と呼ぶべき彼の資質がそれを可能にしたと言える。武下という後ろ立てがいることもあるが、全員が副島の存在に敬意を表して仕事に取り組んだ。時に大きな決断を要する場面もあったが、彼の采配が、緊迫した空気の中で少しづつ利益を産み出していった。
「さすがだよ。お前に頼んで正解だった。今日は奢らせてもらうぜ」
武下の行き付けの高級クラブで何とかという高いシャンパンを開けた。ホステスが3人付いてお零れに預かっていた。
「副島。気に入った娘がいたら持ち帰りOKだからな」
武下は上機嫌だった。しばらくすると副島の側でおとなしくしていた女が耳元で呟いた。
「私と一緒に外に出ましょうよ」
副島にすれば女など誰でも良かったが、酔いも手伝って言われるまま外に出た。エレベータで1階に降りた時、すれ違いにその筋と分かるような男が二人、上に上がっていった。副島を睨みつけるように見ながら、横を通ったときフフッと笑ったような気がした。気にはなったが女に急かされた。
ホテルのネオンが輝く中、女が急に手を離した。
「ごめんなさい。でも私が命の恩人だからね」
そう言って走り去った。手を離した際の女は、今までの笑顔の裏側にあった真実の表情を浮かべていた。人の心の奥底のドス黒くて醜い部分を露見させていた。言葉の意味を反芻する内、得体の知れない不安に付き動かされて、副島は店に戻った。その不安が現実となって彼の眼に飛込んできたのだった。
自分からはなかなか過去の話をしない副島に憂子が何度かお願いして聞き出した話ではあった。
「今度はあなたが話をする番」
そう言って、副島の瞳を見据えるのだが、さすがの彼も憂子の瞳の輝きには、勝てなかったと見えて、友人の話でありながら、彼がその世界に足を踏み入れていく経緯をごく自然に語り出していたのだった。
最後、彼の眼に飛び込んできたのは無惨なる友人の変わり果てた姿だった。
「彼の分も生きていけばいいのよ。そうすれば彼だって幸せになれるわ」
そう言って強く副島を抱きしめる憂子だった。そうやってお互いを知りつつ、二人の関係は深い絆で結ばれていった。
二人は、憂子の住む本郷のマンションで同居を始めた。時間さえあれば、二人は求め合った。豊島東高校は、本採用を辞退し、年度末で退職することにした。そして桜の咲く季節、憂子は副島の子を身ごもった。
それからまもなくだった。その友人を殺害した連中は、住田連合の構成員であることは明白で、直接手を下した奴らは、別件で数年ムショに入っていたが、最近出所したというニュースが飛び込んできた。チャンスは訪れたのだった。
副島はあの時にすれ違った顔を忘れはしなかった。奴らに間違いない。その二人は今でも行動を共にするようで、浅草のクラブで二人そろってやってくるのだと言う。奴らを同時に手をかけるとすれば、そこでやるしかなかった。
事を成し遂げた後、二人は、初めて出会った深夜喫茶で落ち合った。副島もどこで着替えたのか、スーツを着込んで、似合わない眼鏡をかけていたので、憂子は顔を合わせた途端、吹いてしまった。
「笑うなよ」
「だって……」
「さあ、切符は買ってある。後10分したら発射だから、駅まで急ぐぞ」
ホームには金沢行きの急行能登が待機していた。急いで乗り込むと、ほぼ同時にスタートした。
富山県婦中町で、副島の叔父が農家を営んでいた。取りあえず憂子が安心して出産できるような環境を用意しようと副島が考えたのだった。豪農に見られる広大な邸宅の一部屋を借りようとしていた。。
叔父にはある程度事情を伝えてあった。数年前両親を事故で失い、副島にとって頼れる身内は彼だけだった。両親の葬式をあげるため一度世話になったが、それ以外に頼ったことはない。暴力団に足を踏み入れた直後の事故で、両親には最期まで言えなかったが、葬式の席でその叔父には告白した。
「お前の人生だから、俺が口を出す筋合いのものではない。お前の親父だってそう言うだろう。お袋さんはわからないがな。俺が言えるのは、もし足を洗ってやり直そうと言うんならいつでも面倒をみてやる。今の道で生きていくなら、一人でやり通せ」
厳しい言葉の中に愛情を感じた。農村に生きる朴訥な男だが、若いときは政治運動にも参加して投獄された経験もあり、権力に対しては真っ向逆らうタイプだった。
さすがに二人でいるのは危険なので、憂子一人をそこに住まわせ、副島は単身、場所を転々としながら、捜査を煙に撒こうと考えていた。心のどこかでは、いつまでも逃げていることは出来ないかもしれないと思った。とにかく憂子が無事に子供を産んでくれるまでは、頑張ろうと思った。
二人がここに来る前に金龍会は副島を破門した。それは休戦協定を交していた住田連合の幹部2名を副島が殺害したからだった。組織は抜けられたが、警察と住田連合からは追われる身となった。
婦中町の叔父の家では、生活に必要と思われるものは何でも用意してくれていたので、何ら不自由はなかった。時々は副島も戻ってきて、泊まっていくこともあった。二人でずっといられる訳ではなかったが、彼女は十分幸せだった。
さて、不幸というものは突然訪れるものか、副島が戻ってきたある嵐の晩のこと、階段で足を滑らせた憂子は、流産してしまった。哀しみは二人共有であるのに、副島は一方的に憂子の不注意を責めた。流産の原因としては憂子の体質も考えられたし、意識せずとも心労がたたったのかもしれない。いずれにしても誰が悪いわけではないのに変な空気が流れて、言葉数が少なくなってゆく。
憂子が単身東京に戻ることを決意したのは、夏から秋に変わる頃だった。副島には簡単な書き置きだけを残した。
「気持ちの整理がつくまで一人でやっていこうと思います。憂子」
副島は自分のとった愚かな行動を恥じた。
「子供ならまた作ればいいだけじゃないか。なぜ俺はあんな態度をとってしまったんだ」
憂子が側にいることに慣れすぎて、いなくなることなど考えてもいなかった副島は、親友を失った時とはまた違う空虚感に苛まれた。彼もまた憂子を追って東京に戻った。
戻ってすぐに副島は、憂子の行きそうな場所を探し回ったが、一ヶ月経っても見つけることはできなかった。吉原で小料理屋を営む知人の世話になりながら、二人で暮らした本郷や、彼女が教鞭をとっていた豊島東高校近辺を訪れてみたが、何の状態も得られなかった。
とにかく副島と別れて一人で何とかしようとは思った憂子だった。教師の道を諦めたわけではないが、まだ勇気が出なかった。自殺未遂の件は、豊島東高校の方で塩田が、握りつぶしていた。もちろん塩田が自己保身で行った事が憂子にも幸いしたのだった。
いずれ教職に戻るとして、取りあえず何か始めなければ、と思い悩んで1ヶ月が過ぎていった。そして突然訪れる二度目の自殺未遂なのだが、憂子自身は、なぜこんなことをしたのか、まったく自覚がなかった。まるであのバスに乗るために大きな意思が働いたというべきなのか。知らずに薬を服用し、意識が途切れる寸前に119番もしている。
担ぎ込まれた病院で再会した副島は、身体だけで中身は樺井という、バスの中で出会った学生だった。
〜私にはまだやるべきことがある〜
マンションに戻ってきて、まず憂子はそう思った。それを教えてくれたのは、あのバスの中で出会った澤尻麻衣だった。
〜彼女に会いにいこう。そして彼女以外にも心に傷を負った女性達の話を聞いてあげよう。一人で悩みを抱えないように、悩みを共存することで重荷が軽くなるのだと教えてあげよう〜
第3章
第3章
1 師走の街
千石4丁目の外れにある小料理屋の二階で目を覚ました男は、窓から外の景色を覗いた。この辺りは、吉原といわれる江戸時代からの遊郭の流れを汲む日本でも有数の男の聖地である。もう昼を回っていたが、雨の街にはこれから仕事に入ろうとする女性や、暇を持て余すサラリーマンがぼんやりと歩いているだけだった。
樺井の体になっても、結局追われる身であることに変わりはなく、表に出ることは注意を要した。あのまま樺井のアパートにいれば間違いなく捕まっていたに違いない。
一階の小料理屋をやっている村内は、元金龍会のヤクザで、副島の兄貴格だった。副島がこの世界に入ったのは武下という親友を助けるためだった。その武下が対抗する住田連合のチンピラに殺されてしまって、彼は復讐の道を選んだ。その時に師事したのが、武下と親交のあった村内だった。
「よおっ、起きたかい。朝飯持ってきたから食えよ」
「毎日悪いなあ、兄貴」
「よせやーい。その顔とその声からお前の言葉を聞くと、調子が狂うぜ」
「まだ慣れないか?」
「慣れないなあ。まるで別人だよ。まあ、ほんとに違うんだからなあ。不思議なこともあるもんだ。ところであの娘に連絡はしたのか」
「連絡先がわからないんだよ」
「おかしいなあ。あんなに仲良かったじゃねーか。喧嘩でもしたのか」
「いろいろあるんだよ」
そう言いながら副島は、焼き魚に箸を向けた。ご飯と味噌汁を交互に口に運んだ。独特の音をたてながら味噌汁をすするところに特徴があった。
「面白いなあ。食べ方は変わってないなあ。やっぱりお前だよ」
そう言って村内は下に降りていった。
ここに来て一週間何もせずただ毎日をやり過していた。その間に手越夏美から何度か電話があった。
別人になってしまった樺井のことが、手越夏美は気になって仕方なかった。別れ際の彼の心細そうな顔と彼が言った言葉が耳に残っていた。
「明日会えるかな」
逢いたいのは夏美の方だった。仕事中もぼんやりして小さなミスが重なった。同僚がカバーしてくれたが、誰もが夏美を心配してくれた。
仕事が終わっても携帯を握り締めて、すぐに出られるようにしていた。自宅に戻っても、夕飯を食べず、部屋に篭って携帯が鳴るのを待った。
今まで自分から行動を起こす事はなく、恋愛関係もクールに相手の出方を見極めた。積極的に出てこられると身を引いてしまうくせに樺井のような安心を絵に描いたような男では物足りないと思っていた。かといって自分から「こうして欲しい」とかを言う事はなかった。
そんな彼女が、樺井の声が聞きたくて我慢ができず、ついに自分から電話したのだった。
「もしもし、樺井さん?」
「ああ、外見はね」
「あれから病院に行ったの?連絡がないから」
「こないだ君と別れたあと、アパートに刑事がやってきたよ。自分の写真を見せられて、知りませんと答えるのは変な雰囲気だな」
下手をすれば一触即発の場面を愉快そうに話すので、その場面を想像して夏美も笑った。
「刑事に悟られなかった」
夏美は一応心配して聞いた。
「心配してくれてありがとう。それで思ったよ。奴が何を言っても警察は取り合わないなんて考えてたけど、警察だってバカじゃないし、俺をよく知る奴が一緒に病院にいたようだから、時間の問題さ。それでアパートを出た。君には悪いが、もう少し様子を見ることにするよ」
「また電話していいかしら」
数日後に夏美からの電話があった。特に男が気になったのは、夏美のもとに、あの吉田が顔を出したことだった。樺井との関係を尋ねられ、ただの友達で先週動物園に行ってから連絡を取ってないと答えたと言う。夏美には、世話になったが警察がマークしているとなれば、しばらく会えないと思った。
街がクリスマス一色に塗り潰され、人の流れがにわかに早くなる季節に病院を出て上野署に護送される一人の男がいた。同伴するのは上野署の刑事吉田一人だけで、他にはいなかった。
「君にとっては不服だろうが、上の決定でね」
男はうなだれながら、それに答えた。
「わかりますよ。いざとなったらこのまま僕を副島として送検する手筈なんでしょう」
男は、吉田がまだ入れ替わりの件を吉田自身の胸にだけしまっている事を知っていた。
「そんなことはさせないよ。とりあえず二人を対峙させてみようと思うんだ。とにかく君の片割れを連れてこなくちゃな」
そう自分に言い聞かせるのは、自信のない証拠でもあったが、いざとなったら自分がすべて責任を追う事も考えていた。
「僕のアパートにも行ってみたんですよね」
「ああ、一足違いだったな。それに君の友達の手越さんにも逢ってみたが、君たちが駅で別れた後の事は、何も分からないと言っていた。ところで君たちはただの友達なのかい」
吉田は、手越夏美の様子を見た時にあまり動揺を見せなかった事をやや気にはしていた。
「そ、そうですよ。ただの友達です」
「やっぱりそんなものかな」
そこで会話は途切れた。
志穂崎憂子は、ある寺の墓地の前に佇んでいた。墓標には進藤健一の名前が、ご先祖様の名前に続いて、新しく刻まれていた。
「やっぱり……」
憂子にとっては、ただ事実の確認という以外の意味はなかった。
病院で、進藤健一と澤尻麻衣が同時刻頃、意識不明で担ぎ込まれたことを吉田から聞かされた。澤尻麻衣は、母が迎えにきて翌日退院したが、進藤の方は朝を待たずして息絶えてしまったという。
もちろんあのバス停で彼だけが、降りられなかったからだろうと憂子は思ったが、墓地を後にしてから、彼の死に何か引っかかるものを感じた。進藤と麻衣の間に何が起こったのか。同じ女性として、麻衣をひいき目に見てしまうのは仕方ない。いわゆる男の性の生け贄にされるのは許しがたい事だ。
憂子は麻衣の語った言葉を思い出していた。
「私は気を失っていて…気がついたら、ベッドの上で裸にされてました。私をそんな風にして、この人はさっさとどこかに立ち去ってしまったようでした」
彼が死に至る痛手を負ったのはその後だったのだ。
マンションに戻った憂子は、上野署に電話して樺井との面会予約をした。それから事前に連絡しておいた澤尻麻衣に、学校に復帰する前日自宅を訪ねた。
「先生、明日から学校に出ます。試験もあるしね」
「あなたも偉いわね。御両親も不在がちで、よく一人でやってるわ」
「父は、私が中学に上がる前に他界して、お母さんが外で働かざるを得ませんから、しょうがないんです」
憂子は、麻衣の父が亡くなっていることを知らなかった。
「大丈夫です。もう慣れましたし、私一人でいても寂しいとか思ったことないんです」
そういう麻衣を慰めながらも父親の死を気にする憂子だった。
「先生、私よりも先生の方が心配。先生は何で死のうと思ったの」
まさか彼女の方から、そんな言葉をかけてくれるとは思ってなかったが、素直にありがたいと思った。ただそれに答えられるほど、気持ちの整理が出来ているわけではない。
「そうね。今はバカなことをした、って思ってる。反省しなきゃね」
そうやって弱い部分を見せる事も信頼を得るために必要なのだと思った。
麻衣が何か言おうとしたが、すぐさま急にうつ向いて、おとなしくなった。何を言おうとしたのか、気にはなったがあえて確かめなかった。帰り間際に母親に挨拶をした。麻衣が退院して数日は休みを取って家にいることにしたらしい。
「あの娘が明日から学校に行くと言うんで、私も仕事に復帰するんです。先生のことは娘も信頼しているようです。これからもよろしくお願いします」
麻衣の母は、父親亡き後女手一つで6年間娘を育ててきたにしては、生活臭を感じさせない洗練された感じの物腰のやわらかい女性だった。
この時の訪問で、進藤の死に抱いていた疑問が少しずつ形を表してきていた。もちろん警察も進藤の死に疑問を抱いていたので、澤尻親子の身辺調査を行ったのだろうが、特に事件に関わる事実を発見出来ぬまま進展がないようだった。
次回の訪問を麻衣の期末テストの終わった後に予定していたので、その前に麻衣の父親の死について調べてみようと思った。児童心理学を学んだ時に、女の子に取って父親とどんな接し方をしてきたかで、性に対する意識が決まるという箇所を思い浮かべたのだった。
澤尻麻衣が通う豊島東高校では学期末試験が行われていた。
「今日の試験は以上で終了だ。早く帰れるからって寄り道はなしだぞ。明日も2科目あるからな。しっかり家で勉強しろよ」
3年1組の教室で担任兼学年主任の西尾は、生徒達に注意を促した。そして終礼後に一人の生徒を呼び止めた。
「澤尻。復学していきなり試験はちょっときつかったな。大丈夫か」
志穂崎憂子との苦い経験のあった西尾にとって、大人の女性よりも自身が優位に立てる女子高生の方が、扱いやすいと思った。とはいえ、未成年者に手を出せば、それこそ犯罪になるので、教頭からは十分気をつけるよう言い渡されていた。
「西尾君。志穂崎先生のことが、そんなに堪えたかね。まあ、目の前で自殺しようとしたんだからなあ……。ストイックになるのもいいが女生徒には手を出さんでくれよなあ。大人だったら言い訳が出来るが、生徒だと即これもんだよ」
教頭の塩田は片手を首に当てるポーズをとった。
西尾も気をつけようとは思ったが、近寄ってきたのは澤尻麻衣の方だった。
「分からない所があるので教えてください」職員室にまでやってくるようになり、当然塩田の目にも留るようになった。憂子が辞めた頃から、少しづつ活発になっていった。そして夏休みの夏期講習に参加した彼女は、積極的に質問を繰り返した。西尾もいつの間にか意識するようになっていった。
あの月曜の朝、無断欠席かと思われた時、母親から、体調が悪くなって緊急入院をしたという連絡を受けた。見舞いに行くという彼の申し出は、精神状態が不安なのでという理由で断られた。数日中には復学できるというものの西尾の頭の中では、体調が悪くなった理由を廻って、いろんな妄想が駆け回っていた。
試験前日に復学してきた澤尻麻衣は、以前よりも落ち着いた雰囲気で、何かを吹っ切ったようにも見えた。放課後、帰り際に彼女の具合を案じた。
「先生、心配かけてごめんなさい。今はまだ話したくないの」
「無理に話さなくてもいいよ。でも心配したんだぞ。変なことに巻き込まれたんじゃないだろうな」
「いいえ……先生が思うような事なんて……。それより、私、志穂崎先生と一緒だったのよ、病院で」
西尾の顔がこわばるのを見てとった麻衣は、少し責めるような口調で言った。
「志穂崎先生のことを思い浮かべたでしょ。まだ好きなんですか」
「こ、こら、大人をからかうもんじゃないよ」
「科学実験室でひどい事を言われてたでしょ?」
麻衣が急に恐ろしい存在に思えてきて西尾は、教師ではなく脅えた一人の少年のように震えた。
「先生、誰にも言わないわ。でも志穂崎先生のことはもう忘れた方が良いと思うの」
「そ、それは君には……」
口元に笑みを浮かべながら麻衣は帰ろうとした。
「先生、私だけを心配して」
そう言い残して部屋を出ていく麻衣だった。
2 麻衣の秘密
拘束期限をとっくに過ぎながら、男は上野暑にいた。とにかく見た目が副島のため、外に出せば暴力団同士の抗争に巻き込まれる恐れがあり、保護という形を取っている。彼にしても自分から出たいという気力もなく、ただ自分の身に起きた災いを恨むしかなかった。そんな彼のもとへ、志穂崎憂子が時々面会に来ていた。
憂子にしてみれば、副島の身代わりになって同じバスに同乗していた男だった。本来は副島が乗るべきバスだったのだ。刺されたのは副島の肉体だったが、その時にはすでに意識が入れ替わっていた。結果的に副島にとっては幸運、樺井にとっては不運だったと憂子は、思った。
「おかしいですよね。同じ夢を共有するなんて。おまけにバスに乗って死の淵を彷徨うなんてね」
「実は、私は二回目だったのよ。前にも自殺しようとしたことがあって……。その時も同じバスだった」
「そうか、それで詳しかったんですね。ところで何で自殺しようなんて思ったんですか。副島さんのせいなんですか?何だか許せないなあ!僕が代わりに刺されたことよりも憂子さんを不幸にする方が、ずっと許せないですよ!」
「樺井さん、優しいんですね……ありがとう」
自殺未遂の話には触れず、そっと話題を修正した。
「それより進藤さんは、やっぱり助からなかったわね。この前墓参りに行ってきたのよ。あの人ノイローゼだったみたい」
「そ、そうですか。バス停がヨモツサカシタとか言ってたから、黄泉の国まで行ったんですね。僕らがギリギリ手前だったんだ」
二人にとって共通の話題はやはりバスの話で、自分の身に降りかかった不思議な事実と合わせて、二人の距離を縮める要因になった。最初に憂子と副島の関係がわかった時には、複雑な心境だった男も、憂子が定期的に会いに来て話をしてくれるので、何となく心を許し始めていた。またバスの中で見た彼女の姿が記憶の中で輝いていた。
「進藤さん、悪い人には見えなかったけど、やったことを考えるとしょうがないでしょうね」
「私もあの時は、澤尻さんの言い分に真実みがあって、彼の死はしょうがないと思ったの。ところが樺井さん」
そう言って憂子は男の顔を正面から捉えた。憂子は見た目が副島であっても中身が樺井である事に躊躇してはいなかった。
「そう呼ばれると安心します。ありがとうございます」
「あの時進藤さんは、澤尻さんの方から誘って、彼女から服を脱いだって言ってたでしょ」
「罪から逃れたいだけじゃないですかね。彼女の部屋は2階でしたよね。トイレを探しに2階まで上がっていくなんて……。でも、その後、眼が閉じなくなったり、勝手に引き寄せられていったりとか、言ってましたよね」
「たしかに変な話なんだけど、あなたと副島に起きた事や、皆でバスに乗ったのも変な話でしょ?」
「そうですけど、まさか?」
「それと彼の直接の死因なんだけど、全身打撲と頭部からの出血多量って聴いたでしょ?」「ええっ、急に外に飛び出して車にぶつかったんじゃないかと……言ってましたね……ああっ、それに確か下半身は何も……」
言いかけて止めた樺井を憂子は笑った。
「あらっ、大丈夫ですよ、それぐらい。何も着けてなかったんですよね。昨日実は彼女の家を訪ねたんですが、玄関から道路までは、かなり距離があるし、事故現場の通りは、ほとんど車が通らない路地で、制限速度だと、あんな打撲は負わないらしいんです」
男は憂子の言わんとすることが理解できたが、かといって、女子高生が嘘を言ってる風にも見えなかった。
「何があったんでしょうね」
「ええ、私もちょっと不思議に思って……。あの娘が自殺を試みる理由がわからなくて……」
確かに進藤は死んでしまうほどのダメージを受けているし、澤尻自身も自殺を図って二人とも同じバスに乗ることになった。そして二人は顔を合わせている。そこには新たな真相が隠されているのか。
〜なぜ彼女の父親の死に疑問を抱いたのか〜
樺井には特に言わなかったが、父親の事が気になって仕方なかった。特にどんな亡くなり方をしたのか、それが分かれば今回の真実にたどり着けるような気がしていた。なぜ真実に拘るかと言えば、自分が麻衣の話を全て信じ込んでしまい、変質者の汚名を背負ったまま死んだ男の言い分を聞いてあげられなかったのだ。それがどうしても悔やまれてならないからだった。
とりあえず部屋にあるパソコンに向かって父親に関する記事がないものか、キーワードを検索エンジンに入力してみた。父親の名前からは同姓同名の人がピックアップされたが、まるで関連性はなかった。もう少し情報を仕入れてくるべきだったと後悔するが、詳しい事情を聴くのも躊躇われたのだ。
キーワードが具体的だと該当なしとされるし、検索語句を絞り込まないと無数のリンクが表示される。途方に暮れる憂子は「麻衣」と入力した。他の語句に負けず劣らず多くのリンク先が提示される。それに「父親」という語句を足して再検索するとリンク先の数は10分の1に減った。それでもかなりの数だ。
リンク先の紹介文にざっと目を通していた。あまりにもいかがわしいサイトが多く、ひわいな言葉の羅列に憂子は眉を曇らせていた。気が狂いそうなほどの長時間を費やしていた。午前3時をまわった頃、怪しげな紹介文の中でふと聞いたことのある文面が目に入った。
「眼を閉じる事が出来なくなって、相手に吸い寄せられてゆく」
それはバスの中で進藤が言ったことだった。リンク先のタイトルは「支配と従属」となっていて、取りあえずクリックすると開かれたページは、超能力のコントロールに関するサイトの一部だった。トップページに遡るとすでに6年前に更新されたまま、放置してあるようだった。
「支配と従属」というタイトルの下は、サブタイトルなのか「MAIの成長記録」と書かれてあった。ページ1を開くと可愛い赤ん坊の写真があった。ベビーベッドの上で大人しく眠るこの子がMAIで麻衣なのだろうか?時々挟まれている画像を追っていくと、成長していくに従って、6年前の澤尻麻衣の姿が浮上してきた。最初はただの成長記録だったものが途中で趣旨が変更され、同時にタイトルも変更になったのだという前置きがあった。
「支配と従属(MAIの成長記録)
MAIが普通の子供と違うことに気づいたのは彼女の母であり私の妻でした。生後6ヶ月も過ぎれば、かまってあげれば笑ったり、喜んだりするという感情表現をするものですが、まったくその気配がなく、妻はノイローゼ気味でした。
1歳を過ぎた時、普通の幼児同様言葉を話すようになり、笑顔も見せるようにはなりました。ただし、全く無表情でいる時がないわけではありません。その間は話しかけようが、身体に触れようが、何の反応も示しません。 MAIが4歳の時、妻は軽い鬱病を患いながら、育児をこなしてましたが、反応しない娘をヒステリックに怒鳴りつけていた時に、娘が持つ特殊な力の存在に気が付きました。
その時はテーブルの上にあった花瓶が突然床に落下したのでした。最初は半信半疑でしたが、その後も蛍光灯が突然割れたり、本棚の本が数冊床に落ちたりといった現象が、ちょうど無表情の娘を妻が叱責する時に起こりました。妻の心の病気は度を超してしまい、入院する事になりました。
MAIは、私に対しては従順で可愛い娘でした。妻の育児ノイローゼを横目で見ながら、私は私でMAIを観察しながら、彼女の心のメカニズムを解読しようとしてました。妻の入院をきっかけに私は自身の仮説の裏付けを取るため、多少過酷な事も実施しましたが、すべては科学の発展のためと割り切る事にしました。
心理学者としての私のためにMAIが生まれてきたのだとしたら、やはりそれは運命と呼ぶしかなく、私の人生をかけて取り組むべき課題なのです。
(略)
MAIが多重人格であることは明らかであった。彼女の別人格、無気力で無表情な側面をAIMと名づけた私は、AIMが現れる頻度を調べた。4歳半からほぼ1年のデータを見ると28日周期であることが分かった。それは女性の月経の周期に近く、両者には密接な関係があるかもしれない。
MAIの性格分析だが、かなり内向的である。趣味嗜好を見ると、ぬいぐるみ、花、洋服、アクセサリー等女の子らしい。それでいて同世代の女子からみると性的好奇心が旺盛のような気もする。まだ推測の域を出ないが、精神面の成長が、あきらかに早い。
(略)
AIMからMAIへ戻ろうとする時に、彼女の側にいる事は危険だった。今回はかすり傷程度で済んだが、日を追うごとに発生するエネルギーの強さは増している。さすがにこの期間は学校を休まざるを得ない。彼女に宿るサイコキネシスと呼ばれる超能力の1種類であるが、実際に目にすると感動すら覚える。MAIの父親である事を誇りに思う。
(略)
10歳になって初潮が訪れるとAIMの性格が変わり始める。あるいは3番目のキャラクターなのだろうか。取りあえず名前はMIAとする。MIAはMAIともAIMとも違った内面的には大人の女性で、まるで月経が始まるのを待っていたかのように現れた。話し方は落ち着いているが、性的魅力に溢れた表情と声の抑揚で、父親の私にさえ媚びを売る。そしてMIAがMAIに戻る時も私を空間に浮かせる力を発揮している。
(略)
月経の周期が、ストレスや病気によって変動するようにMIAが訪れる日も彼女のコンディションで変化する事が分かった。特に思春期に入ると外的ストレスに絶えきれず、私の計算通りには行かず、なるべく外に出さないように努めるだけだった。
(略)
私は父親として、被験者としてあるまじき好意をしてしまった。娘であり験者であるMAIに手を出してしまった。正確にはMIAの誘惑にのって、越えてはならない1線を越えてしまったのだ……」
それ以降の内容は、憂子に取ってはおぞましいものでしかなかった。懺悔と言いながら、行為の一部始終を微に入り細にわたり書き記す必要があるのかと思った。それも1度ではなかった。MAIがMIAでいる限りの蜜月……果たして母親は気づいていなかったのだろうか。
そして憂子が考える仮説。
〜父親の死はMAIの能力と関係があるのではないか。MIAからMAIに戻る時に起きた事故なのではないだろうか?〜
学年主任の西尾は、澤尻麻衣が、志穂崎憂子と自分のやりとりをどこまで見ていたのかを気にしていた。それでいて自分に寄せる好意を何となく感じてはいた。終業式のその日も麻衣が時々西尾の顔を見て、うっとりしているような仕草をしているのが、気にはなっていた。
「澤尻君、今年はトラブルがあったにかかわらず、よく頑張ったね。先生に何かして欲しいことがないかな」
西尾は、帰り間際の澤尻の背中に声をかけた。まるで声をかけられることがわかっていたかのように余裕のある含み笑いをして振り返った。
「先生、クリスマスイヴに母が不在なんです。良かったら夕方から家庭訪問に来て下さい」
誘いの言葉は、いろんな意味に感じとられた。きっと今までの経緯がなければ、教え子とはいえ胸ときめかせて、のこのこと出向いていったろう。だけどこの娘の真意がどこにあるのか、わからないうえ、以前の志穂崎憂子の時の経験がだぶってきて、返答につい時間を要してしまった。そんな西尾の複雑な心情を察しているのかどうか、少女はただ笑っているだけだった。
3 イブ前の攻防
麻衣の期末試験が終わった翌日、憂子は澤尻邸を訪れる予定だったが、彼女がMAIだとすれば、もう少し時間が欲しいと思った。それに、副島の代わりに捕まっている樺井が釈放され上野署を出るという連絡を吉田から受けていた。
麻衣に会う前日の晩、澤尻宅に電話をすると母親が出た。
「あら、志穂崎先生。いつもありがとうございます」
母は礼を言った。
「いいえ、こちらこそ。麻衣さんも元気に成られて良かったですね」
憂子が要件を話そうとすると彼女に先を越された。
「明日のことでしょうか。麻衣が喜びますわ」
「いえ。ごめんなさい。明日はどうしても行けなくなってしまったんで、これはお詫びの電話なんです」
麻衣に替わろうとしていた母はそれを聞いて残念がった。
「あの娘には私から言っておきますわ。でも先生、一言だけお礼を言わせてくださいね。先生はもう教職を離れられていると伺ってます。それなのに麻衣のことを気にかけていただいて本当に私何と言っていいか。感謝しています」
麻衣のために……、確かに最初はそうだった、進藤の死に不信を持たなければ……。この母の言葉に他意はなさそうだが、憂子の心には、複雑に絡み合った鎖の束が錘のようにのしかかっていた。
「感謝だなんて……。偶然同じ日に同じ病院にいて、私も他人のような気がしないんです。ところで失礼ですが……」
そこでひと呼吸置いて尋ねた。
「麻衣さんのお父さんがお亡くなりになったのは事故だったんですか」
急に話題が変えられて麻衣の母は慌てた。
「え、ええ、あれは、じ、事故です。麻衣が待ってるんでこれで失礼します」
そう言って受話器は置かれた。
上野暑では、吉田が署長の前で説明に追われて困っていた。何度も入れ替わりの事実を口にしそうになる自分を抑えた。
「副島を何故送検できないのだ」
「いくつかの目撃者の証言しかなく、物証がないんです」
「何とか自白させられないのか」
「記憶を無くしてしまってるんです。専門医の証言も取れてます」
「それじゃあ、拘留しておくわけにはいかないなあ。泳がせてみればいいんじゃないか」
「奴の命を狙っている者がいて危険かと……」
「おいおい、奴にそこまでする義務はないぞ。もちろん危険はあるが、誰か一人付けてれば大丈夫だろう。それくらいしないと奴の記憶はもどらんだろう」
吉田がどう言おうと上の決定には逆らえない。結局吉田の言い分など通るわけもなく、釈放されることになった。
男は吉田の言葉を聞いて、これからどうすればいいのか、途方にくれてしまった。
「樺井さん、私の力が足らず、あなたには暑から出ていただかなければならない」
吉田は、男がうなだれているのを見て、何とかしてやりたいと思った。少しでも彼の不安を軽くしてやろうと明るい材料を見つけ出そうとした。
「そう言えば、あなたの御両親から捜索願いが出されました」
両親と聞いて男は、顔を上げた。彼の両親は埼玉にいて、酒屋を営んでいる。しばらく連絡を取ってない。「便りがないのは元気な証拠」が普通で、何故捜索願いが出たのか不思議だと彼は思った。一瞬、手越夏美の顔が浮かんだ。彼女が両親に連絡を取ってくれたのか。そんなはずがないことは、吉田刑事の報告でわかっていた。
「動物園で会っていらい、顔も見てないし連絡も取ってません」
吉田の質問に答える彼女の声が聞こえてくるようだった。
「私が御両親に、君がバイトを辞めたことと部屋に戻ってないことを伝え、捜索願いを出した方がいいと薦めてきたのさ」
男の心内を察して、吉田が説明した。
「あくまでも副島を見つけて、君を救いたいんだよ」
自分が樺井であることをわかってくれているのは、今のところこの刑事と志穂崎憂子の二人だけだった。二人の存在が心の拠になっていると感じている男だった。
手越夏美は一人で銀座を歩いていた。相変わらず、この時期になるとショーウインドーの飾り付けは見事で、夕刻から夜にかけてのライトアップはロマンチックこのうえない。そんな彼女の耳元で、いや実際には頭の中で聞こえてきた言葉……。
「明日会えるかな」
それは男と最後にあった日の最後の彼の言葉だった。見た目は樺井なのに樺井ではない他人。ましてその人は人殺しだった。だけど、そうは思えない語り口と優しい表情だった。でもそれは外見に惑わされてるだけなのだろうか。
ひたすら電話を待ち続けたものの、いっこうに連絡は来ない。確かに職場や自宅の周りには、刑事の影がつきまとっている。でもどうしても声が聴きたくなって、ついに自分から電話してしまった。
声は優しく相手をしてくれる。その場では温かい幸せに包まれる。かといってどこにも行き先はない。二人の未来というものなど、もうどこを探してもないのかもしれない。
夏美は諦めに近い気持ちの中で、どうしても逢いたいという気持ちを抑えられなかった。まして明日はクリスマス・イブだ。もし自分の願いが叶うなら、もう一度彼にあって、彼に触れたかった。今まで樺井には感じた事のなかった感情の波が静かに押し寄せていた。
男の携帯電話がなった。男は上野署の入り口を遠目に双眼鏡で見ていた。樺井の姿は地味ではあるが、警察には知られている。サングラスと帽子という古典的な変装で、少し距離を置けば大丈夫だろうと考えた。
「悪いなあ、夏美ちゃん、今上野署の側に来てるんだ。奴が病院からこっちに移されてるんだけど、しばらくここに張り付いてるってわけさ」
「今から、そこに行ってもいいですか?」
「いや、それは止めた方がいいな」
「大丈夫です。私はマークされてないと思うんです」
「なぜだい?」
「それは、私が以前の樺井さんを何とも思っていなかったからです。刑事さんの質問に、ただの友達って答えた事は本心からで……それは刑事さんにも伝わったと思うし……私は今の樺井さんだから、逢いたくて……」
半ば涙声になった夏美に男は語りかける。
「心配してくれてありがとう。だが今日の所は無理だなあ。そうだなあ、明日はクリスマス・イブだったっけ?明日また電話をくれないか」
男は携帯の電源をしばらく切っておく事にした。
男は、憂子に似た女性が時々上野署を訪ねているという情報を噂で小耳に挟んでいた。そして3日前から、上野署をいろんな角度から遠目に見張っている訳である。
数時間後、暑内に入ろうとする憂子の姿を見つけて、彼女が出てくるところを待っていた。約1時間後、憂子は出口で所轄の刑事に頭を下げてから駅の方に右折していった。彼女の後方に刑事の姿を見て取って、先回りをする男だった。角を曲がる一瞬のタイミングで彼は憂子にメモを渡した。
男はすぐに憂子の前から消えた。尾行の刑事には何も見られていない。憂子はメモにある通り、横断歩道を渡り上野公園の入り口を過ぎ、不忍池の脇道を曲がって、指定してあったベンチに池を背にして座った。ベンチは2台が背中合わせになっていて、池を向いているベンチにはすでに先客があった。
「憂子、こっちを振り向くな」
背中側から声をかけられた憂子は、相手の次の言葉を待った。
「憂子、マスクか、雑誌で口元を隠した方がいいな。それにしてもおかしなことになっちまったな」
「……」
「でも元気そうで良かった。俺はお前に謝らなければならないんだ」
「……私こそ、急にいなくなってしまって、すべてあなたのせいにして、逃げていたような気がします。悪いのは私です……あっ、そう言えば、彼明日署を出る事になったんです」
「そうだろうな、本人がここにいるんじゃなあ」
尾行の刑事は、憂子の後ろで背を向けている男を眼にはしたが、まさかそんな会話が交わされているとは思わなかった。憂子と男は明日の計画を考えていた。
「とにかく二人が顔を合わせれば、何か起こるかもしれない」
「そうね。元に戻さなければ……」
「憂子と一緒に居たいけど今日は帰る。今捕まるわけにはいかないからな」
そう言って男は、樺井の使っている携帯に憂子の番号を入力して明日を待つ事にした。
憂子と別れて一人になった時、男の頭の中に一瞬手越夏美の顔が浮かんだ。彼女との24日の約束もなんとかしたいと思っていた。出来れば、彼女の元に本物の樺井洋介を届けられれば最高なのにと思った。そして憂子にきっちり誤って彼女を幸せにしたいと強く思うのだった。
部屋に戻った憂子に麻衣から電話があったのは午後9時過ぎだった。
「先生、この前はどうして来てくれなかったの。相談したいことがあったのに……そうよ、無責任じゃない」
すぐに話し方が変わり、教え子というよりは、同世代に近い感覚であった。
「ごめんなさいね。相談って今でも間に合うかしら」
そう言いながら、「支配と従属」にあった多重人格の事が頭をよぎっていた。
「明日西尾先生が家に来るの。クラスの担任よ、志穂崎先生も知ってるでしょう。学年主任の西尾先生よ」
憂子は一瞬西尾の顔を思い浮かべて、嫌悪の念を抱いた。それと麻衣がMAIなら、今話をしている彼女は、MIAと呼ばれる人格かもしれないとふと思った。
「知ってるでしょう。私、去年志穂崎先生が理科実験室で西尾先生と会ってる所をつい見てしまったの」
憂子は一瞬驚いたが、彼女がMIAという人格に支配されてることを認めざるを得なかった。
「そうね、だったら私が西尾先生を嫌っていることも知っているでしょう……」
憂子は、あくまでも大人の会話を続けていこうと身構えた。
「私、西尾先生がその時、志穂崎先生にひどい事を言われて、いえ、きっと西尾先生が悪かったんだと思うけれど、泣き出しそうな顔で逃げていったでしょう。なんだか可哀相で居たたまれなかったわ」
「でも彼がしたことは卑劣だったの。もちろん彼は手先で首謀者ではないのだけれど……」そうだ、けっして可哀相だなどと思ってはいけない。断固悪は糾弾しなければならない。「いえ、私、志穂崎先生に感謝してるんです。私がいくら告白しようとしても、西尾先生はずっと志穂崎先生のことばかり考えてましたから……。先生がお辞めになって、きっと私の事を見て下さると思ってましたが、つい最近まで、引きずっているようでした」
彼女は憂子の言っている事など、聴いていないかのように、勝手に喋り続けていた。
「でも今回は私の身に降り掛かった事件のおかげで、西尾先生の注目を浴びる事が出来ました。あんなに優しくて可愛い西尾先生を間近で見る事が出来ました……」
おかしな話になってきたところで、話の腰を折ってみる事にした。
「教えて!どうして、西尾先生がそこに来ることになったの?」
「それは、私が誘ったから……私が……」
麻衣の様子が何だかおかしかった。
「あなたは誰なの?」
憂子は、勇気を出して問いつめた。
「……私?うーん……変ね……先生……麻衣です……助け……」
突然、電話は切れた。
憂子は、明日の予定を確認した。上野署から解き放たれた副島(樺井)と樺井(副島)を憂子のマンションで合流させるのは、夕方までで終わる。その後は急いで、澤尻宅へ向かおう。
4 クリスマス・イヴ
湯島から春日通りを東に向かうとJR御徒町駅に出る。通りはJRの線路下を抜け、昭和通りの交差点を過ぎ、さらにその先をずっと行くと隅田川に架かる厩橋にぶつかる。樺井と副島が入れ替わったJRの線路下を一台のバスが通り過ぎてゆく。時刻は夜6時を過ぎたくらいで、乗客は家族連れが多かった。クリスマスプレゼントやケーキが入った袋を大事そうに抱えて、微笑みあっているといういつもながらの光景だった。
バスは厩橋を渡って墨田区に入る。とあるバス停で中から降りて出たのは、志穂崎憂子だった。今さっき、二人の男が対峙する憂子のマンションを出てきたばかりの彼女だった。
「あの二人なら大丈夫」
何となくそんな気がするのだった。
一人の男は今朝上野暑から釈放された暴力団員だった。暴力団員は小鳥のように弱々しく昭和通りを左に曲がった。顔は恐怖で引きつっていて明らかに挙動不審であった。
もう一人の男は、一見学生だが25歳のフリーターで、釈放された男の姿を遠目に確認しながら、尾行の刑事を振り切る計画を実行しようとしていた。
JR沿いに歩いていた暴力団員にガードの下で待ち構えていたフリーターが声をかける。
「こっちだ」
その声と姿に暴力団員はびっくりした。自分の姿と声だったからだ。それだけにすべてを理解するのは早かった。
「急いで!」
線路の反対側をさらにさっきと反対方向に曲がり、なおかつパチンコ店に入り込み、別の出口から憂子のマンションに向かった。
一方憂子は、当然マークされているので、まるで男と合流するように見せかけるために池之端方面から上野公園に入り、昨日座ったベンチに腰掛けた。釈放された男と合流するものと思い込んでいた刑事は憂子が一人で2時間も時間をつぶして帰っていくとは思わなかった。
二人の男が、憂子のマンションにたどり着いた時、憂子は不在だった。しかし鍵は開けっ放しになっていたので、大人しく中に入って身を潜めていた。そこに上野公園で囮となっていた憂子が帰ってきた。
そこに小さな火燵を挟んで対峙する二人の男がいた。
「大丈夫ね、気づかれてなさそうだわ。やだ、何か話し合ったの。ずっと黙ったままだったりして……お茶でもいれるわね」
憂子がやかんに火をかけた。
「憂子、俺は二人が顔を合わせれば、何とかなると思ってたんだが、駄目だよ。何も起こらねえ」
「そうですね。僕もそんな気がしてましたが、でも僕の身体がちゃんとしてるんで、少し安心しました」
「お前、呑気な事言ってんじゃないよ。一生このままだったら、どうするんだよ」
「駄目よ、怒っちゃ!刺された痛みを変わりに感じたのは彼なのよ!」
そういう憂子も事が簡単には運ばないことに不安を感じてはいた。
「わかってるさ!悪かったな!」
「あっ、いや、済みません、僕は何だかここに来てホッとしたんで……それで……」
「そうよね、病院で眼を覚ましたら、いきなり入院患者で、ちょっと良くなったとはいえ、刑務所に寝泊まりさせるなんて……」
「でも、この副島さんの身体は回復力も早いし、頑丈ですね。僕だったら、もっと病気が悪化していたんじゃないかと思います。そうだ、副島さんは私と入れ替わった後、すぐに気が付いたんですか」
その答えは憂子も気になった。
「そ、そうだなあ、俺はあの後、普通に電車に乗ったんだ。夜だったから姿がガラスに映るだろ。そこであわてた……。だけど運が良かったんだな。その同じ電車の中で君のガールフレンドに声をかけられたんだ。彼女がいなかったら、そうだなあ……とっくに刑事に捕まってたかもしれないな」
「僕の部屋に行ったのは、彼女に聴いたんですね……なるほど」
樺井はとりあえず納得したようだった。
「なるほどじゃないよ。そうだ、俺は彼女に今日元に戻ったお前を返しにいく約束をしたんだった。何とかならないかなあ」
憂子は取りあえず二人のために簡単な食事を拵えて、外出する準備を整え出した。
「俺たちを置いてどこか出かけるのか?」
「そんな悲しそうに言わないで。元教え子から相談があって、どうしても行かなければならないの。何かあったら携帯に連絡下さい」
「それって、あの澤尻っていう女子高生ですか?」
憂子は軽く頷いて、外から鍵をかけていった。
「お前、憂子の行き先を知っているのか?」「憂子さんの学校の生徒で、ちょうど僕らがこんな事になった時、彼女も自殺未遂を起こして、同じ病院に運ばれていたんですよ」
その説明はさらに続き、澤尻麻衣が自殺未遂をするまでの経緯や、彼女にいたずらをしたことがきっかけとなって謎の事故死となったサラリーマンの話を一通り聴かせた。
「何だか危険な臭いがするなあ。あいつ一人で大丈夫だと思うか?」
「かといって僕らは動けないし……」
尻込みする男をよそに男は携帯で憂子に連絡を取った。
「憂子、君が向かってる澤尻っていう家の住所を教えてくれ。うん大丈夫、念のためだ、ここを出はしないよ」
そう言ってメモを取ると早々に受話器を置き、出かける準備をした。
「副島さん、僕を一人にしないで下さい」
「だったら、お前も来るか。いざとなったら俺が守ってやるよ」
二人はマンションを出た。間際に樺井には内緒で夏美にメールを送る副島だった。
12月24日。この年は日曜日に当たっていて、街中に人々がひしめき合っていた。学年主任の西尾が澤尻宅の玄関前にたどり着いたのは、約束の6時の少し前だった。
「いらっしゃい。先生」
「やあ。本当にご両親はいないのかい」
「ええ、あたしたちふたりきり」
そう言って意味ありげに微笑んだ麻衣は、西尾のコートを預かると応援間に通した。預かったコートをハンガーにかけ、クローゼットにしまい込む一連の動作が手慣れていた。とても高校生とは思えないほど落ち着いていて、その雰囲気に飲まれ西尾は萎縮していた。
「先生。ゆっくりしてらしてね。今食事の支度をしてくるから」
「あっ、いや。構わなくていいんだよ」
「だめよ。私の言うことを聞いてもらいますよ。約束だから」
何の屈託もなく笑う麻衣の底知れぬ不思議な魅力に取りあえず言いなりになるしかない西尾だった。
彼の弱気の源は、あの日理科実験室での志穂崎憂子とのやりとりを彼女に見られているからに他ならないが、それだけでなくこの子が発している雰囲気に何か逆らえないものを心なしか感じていた。
〜まてよ。実際どこまで見られたのか、確認すべきかな〜
憂子一人が騒いだ所で、何の証拠もなく、狡猾な男達の前では無力かもしれない。ただ女子高生とはいえ、その会話を聞いたとすれば、憂子の側にとっては強力な武器になりかねない。
しかし理科実験室で憂子と交した会話を思い返してみた西尾は、あの時の会話を聞かれても、具体的に教頭と僕の行ったことを明らかにはしてないという確信に至った。彼は、少し余裕を取り戻しながら、麻衣の担任であることを自身に言い聞かせ、自らを奮い起たせた。
澤尻宅に到着する寸前に、副島から電話を受けて住所を伝えた憂子は、彼が来ないとは言ったが来るかもしれないと思った。もちろんマンションから出ない方が安全だし懸命だ。そう思いながら、住所を教えてる自分も、どこかで来てほしいと思ってるのかもしれないと考えた。
この数日中に、麻衣の父親の死や母親の仕事などを調べていた憂子だが、所詮素人に出来る事などお里が知れている。父親の死は、当時の新聞でもほんの片隅に数行のっただけで、不慮の事故であることしか分からない。しかし、例のサイト「支配と従属」の更新作業は、死の前日になっている。憂子には、サラリーマン進藤健一の事故死と重なって見えてしまうのだった。
澤尻麻衣の母は、ある婦人雑誌の編集に携わっていて、休日も返上することが多かった。結局今年のクリスマス・イブも、せっかくの日曜なのに、娘と過ごすという選択をしなかったのだが、憂子は納得がいかなかった。娘の事が心配ではないのか。なぜ一人に出来るのかが不思議でもあった。
〜AIMからMAIへ戻ろうとする時に、彼女の側にいる事は危険だった〜
サイトには、そう記してあった。まさか自身の命を守るために帰宅しないのか。しかしそれは娘がどうなっても良いという事なのだろうか。そういえば育児ノイローゼから鬱病を患っていたとも書かれていたが、その後のことは何も記されていない。それに麻衣の中の別人格MIAと父親の関係を母は知らないでいたのか。あるいは知っていて黙認していたのか。
憂子は、とにかく今は西尾が危険だと思った。憂子にとって西尾は許しがたい存在で、無視することだってできた。しかし昨日電話で救いを求めたのは紛れもなく麻衣だったのだ。MIAの圧倒的支配の中で、MAIは戦っていた。
憂子は、マンションを出た時からずっと尾行を続けていた刑事の存在を確認していた。ここはやはり彼の力を借りる事にしようと思った。彼が潜んでいる角までやってくると刑事は、知らぬ顔で立ち去ろうとしていた。
「待って下さい、刑事さん」
刑事は、しまったという顔をしつつも、かくれんぼで見つけられた子供のように笑った。「助けてくれませんか?」
憂子は、まず彼の指揮を執っている吉田刑事に話がしたいのだと告げた。多分この状況を誰よりも理解出来るのは彼しかいないと思った。
「すぐにこっちに向かっていますが、私はどうすればいいですか」
事情が分からない刑事は、吉田を指名されて、不服と思ったか、積極的に前へ進もうとした。
「私の側にいてください」
憂子は、素直にそう言った。
男からメールをもらった手越夏美は、携帯に不慣れな男がメールを使えるようになったことと、そのメールの内容を嬉しく思った。「夏美ちゃん、君へのプレゼントは50%だけど用意が出来たので、これから持っていきます。急だけど30分後に御徒町の北口ガード下まで来れるかな」
プレゼントは予期してなかったが、取りあえず逢って顔が見れるものと思った。その日は、きっと連絡があると信じて、男と最後に落ち合った神田神保町の喫茶店で、午後を過ごしていた。電車でも間に合うだろうが、一刻でも早く逢えるかと思って、タクシーを拾った。
タクシーは、靖国通りを東へ向かい、淡路町の交差点を左折し、昌平橋を渡って湯島方面へ向かう。そして春日通りを右折すれば、すぐなのだが、春日通りが混んでいるので、上野広小路の手前で降りた。
いずれにしても、JRの北口改札はすぐそこだった。交差点の信号待ちが特別長く感じられる。しかし十分予定の時刻に間に合った。夏美は、彼がいったいどこから現れるのか、わくわくしながらその時を待った。
しばらくすると、線路脇の測道から数人の悲鳴が聞こえ、何かしらパニックが起こっているようだった。血相を変えてこちら側に逃げてくるものもいれば、騒ぎを聞きつけ、現場に近づこうという輩もいた。夏美は、嫌な予感がして野次馬に混じって、人ごみをかき分けていった。
野次馬が取り囲んでいる現場は、すでに事が終わってしまったようだったが、二人の男が、血を流して倒れていた。その一人が樺井だった。そしてもう一人は写真やテレビでしか見た事がなかったが、副島という暴力団員だった。やがてサイレンを鳴らして救急車とパトカーが駆けつけ、現場を確保するとともに、二人を病院へ搬送していった。
彼女は現場の警官に恐る恐る声をかけた。「知り合いのものなんですが、どこの病院へ行けばいいですか?」
警官は、彼女のために連絡を取ってパトカーを1台手配した。
第4章
第4章
1 晩餐
応接間で業を煮やしていた西尾は、キッチンにいるであろう麻衣を探した。麻衣はオーブンレンジを覗きながら、料理の焼き加減を確認していた。
「あら、先生。待ってて。もうすぐだから」
「澤尻君。先生は君が困っていると思ったから、やって来たんだよ。何か相談があるならまず話を聴こうじゃないか」
「私そんなこと言いましたっけ」
「頼むから、先生をからかわないでくれ。そ、それにだ、言っておくけど、僕と志穂崎さんの間には何もないんだよ。あのとき振られる所を見てたんだろう?僕だって残念だけど、振られた以上、それまでのことだよ」
西尾はそう言いながら麻衣の反応を見た。西尾が話をしている間、麻衣は瞬きをしないで彼の目を見ていた。そこには目に見えない力が働いているようだった。
「でも……そんな簡単に忘れられるの?」
麻衣の話し方は、恋愛ゲームの様に、元の彼女への嫉妬を混めていた。
「わ、忘れるしかないじゃないか」
西尾は、本気になって答えていた。それを嬉しそうに微笑んで食事の支度に戻る麻衣だった。
西尾は応接間に戻ったが、なんだか釈然としない気分だった。18才の少女に翻弄されている自分の姿を思い浮かべていると、なんだか滑稽に思えてきた。まあ無理に教師を気取る事はない。彼女のペースに合わせてみようと考えると多少楽になった。
ソファーに座りながらほんの短い時間だったがうたた寝をしたようだった。夢の中で志穂崎憂子が西尾を手招きしていた。まだ学校に来てすぐの頃の憂子だった。思えば彼女を変えてしまったのは、無理矢理キスをした時からではないかと西尾は珍しく後悔していた。そう思うと目の前の憂子は消え失せ、一人砂丘を当てなく歩いていた。さらに前へ進むにつれ足が砂に埋もれて行く。動きが取れなくなってよくよく見ると、自分の体はサボテンのような棘のある植物になっている。周囲の風景も砂浜でなく西部劇に出てくる荒野に変わっていた。これが不毛の荒野なのだろうか。そう思った途端、遠くから誰かの呼ぶ声がする。声が段々大きくなってくる。志穂崎憂子ではない。澤尻麻衣だった。
「西尾先生、駄目ですよ、こんな所で寝ると風邪引きますよ」
麻衣は、食事の支度が出来たのだと言い、ダイニングへと案内した。
「さあ、先生。座って」
二人だけの晩餐はシャンパンの乾杯から始まった。
「高校生でアルコールはまずいだろ?」
「こんなのジュースと同じよ。良いでしょ、今日は特別……」
「しょうがないなあ」
「私西尾先生のことがずっと好きだったんです。志穂崎先生が辞めたと聞いたとき、ホッとしたの。だって西尾先生は志穂崎先生が好きだったでしょう。だからさっき『忘れるしかない』って言ったとき嬉しかったの」
そう言う麻衣の瞳に大粒の涙が光っていて、
西尾は何も答えられないままスープを口に運んでいた。
「私の父は、私が12歳の時に亡くなったんです。父は母よりも私を愛してくれました。母は私が生まれてすぐに育児ノイローゼとかで、私を放棄してしまいました。私は誰よりも父といる時間が多かったんです。もちろん幼稚園や小学校に通ってましたが、誰も私には近づかなかったし、今でさえ友達はいないんです。家に帰って父と過ごす時間が、どれだけ楽しかったか、分かりますか」
「そうだったのか。それじゃあ、お父さんがお亡くなりになって、君は苦労したんじゃないのか」
急に生い立ちを聞かされて、西尾は今日の来訪の目的がこれだったのかと思って、少し安心しはじめた。今日はしっかり父親役になりきって、誤解を招かないように帰ろうと思った。
「父にはいろんなことを教わったと思います。学校の勉強だけでなく、学校での過ごし方とか、お母さんへの接し方や、それに……私の知らなかった私自身の事……」
麻衣は、西尾のグラスが空なのに気づいてシャンパンを注いだ。
「ありがとう」
「先生、これから話す事は、先生と私だけの秘密にして下さいね」
麻衣の輝く瞳に見つめられて、西尾は何か嫌な予感がしていたが、すでに引き返す事は出来ない状況だった。
「私は父から、お前の中には3人の人格がいて、周期的に入れ替わるんだと教えられたの。何の力も持たない弱々しいMAIっていう娘とサイコキネシスを操るAIM、そして今、西尾先生のお相手をしてるのが、私、MIA
です。名前というよりは父が付けた記号みたいなものね。アルファベットの入れ替えなの」 西尾は、話がおかしな方へ飛んで面食らったが、この娘特有の冗談という線が固いと踏んだ。
「ミア君は、アルファベットでM、I、Aだから、そうか、AとIを入れ替えれば、マイ君だ。なるほど考えたね。MIA君は、何か能力を持っているのかね」
「私の自慢は私が父から一番愛されたことなんです。そしてそれこそが私の能力……」
そう言うと彼女は立ち上がって、西尾の背後にまわった。
「先生、グラスが減ってないわ。もっと飲んで」
「いや、僕もそんなに強いわけじゃないから」 彼女は、西尾の耳に息を吹きかけるとそれ以上言葉を喋れなくなった。さらに西尾の手は、自身の意思ではなく勝手にグラスを握り、口元に運んでいった。口も意思に逆らうように半開きになり、グラスの中のものをすべてのどの奥に流し込んだ。さらに何か言いかけてもけして話す事は出来なかった。
麻衣だけが自由にその世界を牛耳っていた。
「お父様と食事をしたあとは、決まって私の部屋へいくのよ。そんな時、お母さんは決まって冷たい眼で見ていた。見下したような冷たい眼で……」
澤尻邸を遠巻きに心配して見ていた憂子達は、2階の灯りが点いた事を確認した。ちょうどその時、背後から声がして吉田がやってきた。
「ご苦労様です」
「うむ。それで、志穂崎さん、どういうことなんです」
「吉田さん、驚かないで聞いてもらえますか?」
「今更、何です。大概の事は大丈夫ですよ」
そして大まかな事情を憂子は話した。樺井と副島の入れ替えの件で、大概は許容できると思っていた吉田も、多重人格だ、超能力だと言われて、眼が点になっていた。
そうこうしている内に、2階の灯りが消えた。
「その話が取りあえず、本当なら、今飛び込むべきでしょう。でも本当ですか?」
「わかりました、まず私が行ってみます」
「一緒に行きますよ」
結局部下を待機させて、憂子と吉田は、門扉を開けて、鍵のかかっている正面玄関を諦めて、勝手口にまわった。鍵はかかっていなかった。
「刑事さん、私が様子を見てきます。ここで待っててもらっていいですか」
「大丈夫ですか。危険を感じたら大声で呼んでください」
憂子なら許されるわけではないが、警察が礼状もなく侵入することは、やはり許されるべきではないというのか。
憂子はダイニングのテーブルに残された食事の後を見た。食後に2階に上がったようだった。一度灯りが点いて消えた。なんとなく状況は見えた。憂子は階段を静かに上がって行った。その部屋は、一度訪れた事のある彼女の部屋だった。
憂子が静かにドアを開ける。
そこは父と娘が許されざる罪を重ねていた場所だった。そして今は教師と教え子が罪を犯そうとしていた。いやもうすでに遅かったかもしれない。
憂子の侵入は気づかれなかったと見えて、闇の中の二つの影は、お互いの身体を貪るかのように絡み合っていた。憂子はため息を押し殺し、この儀式を収束させるべく、部屋のスイッチを探し当て、灯りを付けた。憂子はそれによって何が起きるのかは、だいたい予測出来た。
「わあああー」
まず、驚いたのは麻衣だった。続いて西尾が、夢から覚めたように、麻衣を突き放した。
その瞬間だった。
部屋の空気が気流を作って、西尾の身体が中に浮いた。憂子にも力が働いたが、ドアをしっかり掴んで、なんとか耐えた。窓が自然に開いて、西尾の身体が窓枠の外へ抛り出されていった。憂子は、MIAからMAIに戻る瞬間に現れるAIMという人格が持つサイコキネシスという能力だと思った。さらにこれが、麻衣の父やサラリーマン進藤健一を死に追いやった原因だと確信した。
吉田は、悲鳴を聞いてすぐ駆けつけた。
「吉田さん、彼女の事は任せて下さい。それよりも、西尾先生が大変です」
吉田はあわてて2階の窓が面している測道にまわった。幸い、待機していた刑事が、2階の窓が開いて西尾が落下してきた場所にいち早く駆けつけ、救急車を手配していた。
ベッドの上で全裸の麻衣が、ぽつんと呟いた。
「この前と同じです。先生、なんでこんな事に……」
震える麻衣の傍らに座り、両手で麻衣を抱きしめた。
「あなたは悪くないのよ。悪くないの……」
すすり泣く麻衣をきつく抱きしめる憂子だった。
連絡するまでもなく、母親はすぐに帰宅し、家の異変に気づいた。玄関前に1台のパトカーが停まっていて、母の姿を確認した吉田が、車内で状況を説明した。樺井と副島の件を目にしながら、俄に超能力は信じがたく、元教師に現場を押さえられ、動転して2階の窓から飛び出した、というような説明になった。「まあ、未成年者ですから、明らかに西尾教諭が罰せられるのですが、どうもお嬢さんにも問題があるように思われるのでが……」
「刑事さん、麻衣は12歳の時に父親を亡くしていらい、父親のような愛情に飢えてはいたのかもしれません。かといってそれなりの行為に至る時、娘が導いたとは思えないのですが……」
母親の言う事はもっともで、それ以上は引き止められなかった。
「部屋の中で、志穂崎さんがお嬢さんの側にいてくれてます」
「志穂崎先生が……」
西尾の方は、何とか一命をとりとめたと吉田に連絡が入った。その後もう一つの連絡を受けた吉田は、西尾の無事だけを志穂崎憂子と母親に伝え、現場を引き払った。
「志穂崎さんには、もう少ししてから……」
吉田は迷いを吹っ切って、パトカーを走らせた。
麻衣は憂子に手を握られながら眠ったままだった。母親は小声で憂子に礼を言いながら、場所を変わった。
「今晩はここに一緒に居てやります」
「私も一緒にいていいでしょうか」
母は、その申し出に含みを感じたが、なぜか断れなかった。
「先生、ありがとうございます。母親失格でしょうか。いつも側にいてやれなくて……」
しばらくして、そんな風に母親がもらした。
「お父様がいないのであれば、お母様が外に出るのは仕方ないことですよ」
母親の苦労は並大抵ではなかっただろうと同情しながらも、憂子なりの想像をぶつけて見るのだった。
「今回のようなことは、初めてではないんですよね……」
麻衣が静かに寝息をたてる中、憂子は事実の確認をしたいと思った。
「この前もそうでした」
しばらくすると母親が口を開いた。
「この娘は、10歳の時に初潮を迎え、それからすぐに父親と関係を持って、すでに処女ではなく性に関しては立派な大人の女でした。夫の死後、数人の男と関係を持ってきたようです。詳しくは知りません。この娘は生理が始まると同時に性欲が高まるようで、父親のイメージの男性を捜してきては、家に招き入れて自身の欲望を充足させているようでした。私はそれを見ているのがつらくて、その時期、わざと残業して、彼女の自由にさせていました。私は遠い昔に彼女に対して育児放棄してましたから、何も言えません……。それでもこの6年間は特に何もなく暮らしてきたんです。つい1ヶ月前までは……」
そこまでの話は、例のサイトと照らし合わせても十分納得の行く内容だった。母親の話は、1ヶ月前のサラリーマン進藤健一の事件に触れはじめた。
「私は、どんなに遅いときでも9時前には帰るようにしてました。その時間に帰れば、すべては終わっていて、麻衣はいつもの麻衣に戻っていました。ところがあの日に限っては、何だか様子がおかしかった。まず2階の窓が全開でした。これと同じ光景をどこかで見たような気がして、気が付いて脇道に廻ると、下半身を露出した男性が倒れてました。慌てて家に入りました。玄関にあった男性の靴に気が付きました。それから2階に上がりましたが麻衣がいません。そこでは男のズボンとパンツを見つけました。麻衣が心配でしたが、応接間で男の鞄も見つけて、とにかくそれらをまとめて脇道の男の側に置いてきました。それから家の中に戻って麻衣の姿を浴室で発見しました。麻衣が手首から血を流して倒れていました。それは過去に見た事ない恐ろしい光景でした。この娘が自殺を図るとは到底思えなかったんです。その時、ちょうど救急車のサイレンが聞こえてきました。誰かが脇道の男に気が付いて連絡したのでしょう。その時私の頭の中で悪魔が囁きました。このままこの娘を抛っておけばこの娘は天国に行けるかもしれないと……。でも、どこかで血を分けた娘に対する愛情が残っていたのでしょう。先の救急車には間に合わなかったので、自分にむち打って新たに119番しました」
母がそこまで話したとき、階下で吉田の声がした。
「志穂崎さん、こちらはもう大丈夫ですか?」「どうかしましたか?」
何となく胸騒ぎを覚えた。
「副島が重体です」
憂子は麻衣の母親に失礼して吉田に同行した。
2 バス
吉田の話によると、副島と樺井の二人が御徒町の北改札にいる所を住田連合の構成員に見つかって、すぐに数人の仲間に囲まれてしまったという。目撃者の話で、樺井らしき男が優勢に攻めていたが、副島らしき男が刺されそうになったのをかばって、まずひと突きされた。副島らしき男はそれに怯えて動けなかったところ複数の男達に数回刺されたらしい。その後一瞬停電が起き、辺りが暗くなったのをいいことに奴らは逃げていったということだった。
〜やっぱり私の所へ駆けつけようとして〜
部屋に居れば良かったはずだが、副島が麻衣の住所を聞いた時、心のどこかで甘えが生じていた自分を憂子は悔いた。教えなければ良かったではないかと思った。
「まだ手術中のようです」
病院に到着して、吉田に案内され、手術室の側にある待合室に落ち着いた。吉田からは先客を紹介された。
「こちらは手越夏美さん。樺井さんのお友達の方です」
続いて志穂崎憂子を紹介した。
「志穂崎さんは、副島の……」
「副島さんの、私も友達です」
吉田の迷いをフォローするように自分で説明した。そんな憂子の顔を穴があくほど見つめる夏美だった。
三人の男の意識を乗せてバスが走っていた。窓から見える景色は、夜の様に真っ暗だったり、急に明るくなって、海が見えたりした。とりとめのない風景の連続は、何の答えも提示しなかった。
男達は仮の姿なので、一人がほぼ全裸であろうと、胸を刺されていようとお互い気にする事はなかった。車両後部にいた全裸の男は、車両の中程にいる二人組に声をかけた。
「このバスはどこへ向かっているんですか?」
「私は一度乗ったことがあるのですが、多分終点は黄泉の国だと思います。途中の停留所で、掲示パネルに番号が出れば、終点まで行かず、そこで降りられるはずです」
二人組のうち、強面の男ではなく、学生の風貌の方が振り向いて答えた。
「このバスですよ、副島さん。志穂崎さんに初めて逢ったのは……」
「そうか、本当は俺が乗るはずだったんだな」
強面の男が、学生に答えた。
「志穂崎さん、って豊島東高校の教師をしていた志穂崎さん?」
全裸男が共通の話題を見つけて、話に割り込んできた。
「あなた、知ってるんですか?」
「ええっ、もちろん、私も同じ学校だったんですよ。いやあきれいな人でした」
学生に全裸男が答える。強面男が俄に関心を持ってきた。
「あそこは、良い学校らしいじゃないですか。教師が、教育熱心で……たしか教頭が塩田さんでしたっけ?」
「いやあ、そうでもないんですよ。ここだけの話、教頭自らセクハラ三昧で、もみ消しに動くのは結局僕だったりして……」
「ほおっ、それは興味深いですなあ。あなたも大変なんですなあ」
そんな強面男と全裸男のやり取りが、なにやら怪しい雲行きになりそうだった。あきらかに全裸男は調子に乗っていた。
「志穂崎さんが、学校を辞められたのも、教頭に料亭でひどい目に合わせられたからなんです。結局何もない事にするために、僕が志穂崎さんに謝ったからで……ただ、教師として学校に残ってはくれませんでしたが……」「たしか、彼女、その後自殺を図ってますよね……」
「そう、そうなんですよ。様子がおかしかったんで僕が、偶然立ち寄ったら、ドアが開いていて、部屋の真ん中で彼女が倒れてました。急いで救急車を呼びました」
強面男がにやりと笑って、口調を変えて話し出した。
「そうかい……あんたが西尾さんかあ。ここにいるってことは、もう天罰が下ったってことなんだな?」
「副島さん、知ってるんですか」
「ああ、教頭が悪いような事を言ってるが、教頭に言われてお膳立てしたのは、お前なんだよな。にもかかわらず、途中で教頭に横取りされるのが惜しくなって、手を出したんだよな!」
副島は暴力団の片鱗を覗かせるように語気を強めた。樺井もびっくりしたが、西尾も体を震わせながら「すいません」を連発した。
「謝ってすむなら警察も暴力団もいらねえんだよ」
副島が掃き捨てるように言った。
「しかし、憂子が自殺を図った時、こいつが電話してくれなきゃ死んでたんだから、それだけは褒めてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
「それより、お前はどういう経路でここにやってきたんだ」
話が現実に戻ってきた。
「それは、……。よくわかんないんです。気が付いたらバス停に立っていてこのバスに乗り込んだんです」
「覚えている最後の記憶は何ですか」
樺井の質問に西尾が答えようとした。真っ先に思いついたのは、砂浜で足を取られ動けなくなって、サボテンのような姿で荒野に立っていた、という夢の中の光景だった。
「ええっと……それは、夢で……どこで見ていたんだっけなあ。そう生徒の家だ。澤尻君に呼び出されて……食事をしていたんだ」
「何だって、澤尻邸にいたのか!」
樺井と副島は一様に驚いたが、憂子の姿がここにないのは喜ぶべきかもしれないと思った。代わりにこの西尾の身に何かが起こったわけで、樺井は、サラリーマン進藤と同じ経験をしたのだと思った。
「そこで憂子、志穂崎憂子の姿は見なかったのか」
「そう言えば、記憶が途切れる直前に彼女の顔を見たような気がします……何となく」
西尾が、副島の質問にそんな風に答えると頭を抱え込んで、自身の殻の中に閉じこもってしまった。
副島は、樺井の方へ向きを変え、改まった口調で話しはじめた。
「樺井さん。すまないなあ。俺がいながらあんなチンピラにやられちまうとはなあ……。副島は俺の方だって言ってるのになあ、みんなあんたの命を狙ってたな。まあ外見が俺なんだからしょうがないけどな」
「私達は結構やられたんでしょうか」
「俺の方は、つまり樺井さんの身体は、一ヶ所刺されはしたが、たいしたことはない。意識が途切れる直前、あんたが、つまり俺自身の身体が、めった刺しされるのが見えた。とにかく、なんとも不思議な感覚だったなあ」
副島と樺井も、それからなんとなく黙ってしまい、しばし静寂がバスを包んだ。
しばらくすると車内にアナウンスが流れた。
「次は四物坂下。四物坂下に停まります」
アナウンスと同時に運転席の左斜め上にある掲示パネルに2つの番号が点滅した。
「ぼ、僕の番号だ。ここで降りても良いんですね!」
西尾の顔に赤みが差したようだった。
一方、樺井と副島は、たがいの番号を見比べていた。
「副島さんですね、やっぱり僕は駄目なんですね」
「元気を出せよ、樺井さん。俺が降り立って意味がないんだよ。目の前で、俺の体が散々突き刺されるのを見てるんだ。戻ったところで俺の身体がなければ、戻る必要はないぜ」
「何言ってるんですか。この番号は副島さんの……」
樺井が言い終わらないうちに、樺井の手にあった整理券を奪い取って、代わりに自分のを渡した。
「副島さん、そ、そんな……」
「バカヤロー。こんなバスに決められてどうする。俺は、ただ降りないんじゃない。このバスに乗って限界を見届けたいのさ。黄泉の国だか、何だか知らん。でも本当にそこが俺の思ってるところかどうか……」
「副島さん……」
樺井はこみ上げてくる感情を抑えられず、嗚咽を漏らした。
「憂子に伝えてくれれば、きっと分かってくれるだろうと思う。それと夏美ちゃんは、ただの友達にしとくのは勿体ないから、早くなんとかしろ。ただし西尾みたいなやり方は駄目だからな」
矛先を向けられた西尾は、すでに出口付近で待機していたが、それに答えた。
「記憶が少しずつ思い出されてきました。澤尻君にしたことを考えると、僕だってこのまま教職に残れるかどうか怪しいものです」
実際あの場を志穂崎憂子に見られ、西尾は黙って済むことはないと思った。
「先生、あんたが真面目に生きるって言うなら、まず今までしたことを反省するんだな。そしてあいつに詫びるつもりなら、あいつをもう一度教師になれるよう取り計らってくれ。あいつ、本当は教師を続けたいんだよ」
「わかりました。何とかしてみます」
静かにブレーキが働き、バスは幻想的な霧の中で停車した。アナウンスが再度停留所の名前を連呼した。
「助かった」
西尾はどこか思案げな顔で、タラップを降りて外へ走り出た。そのまま霧の中に吸い込まれていくように消えた。
「お降りの方はどうぞお急ぎ下さい」
アナウンスに急かされて樺井も出口に向かう。
「副島さん、ありがとうございます!」
「元気でな……」
樺井が降りると、バスはすぐに走り出した。
手術中のランプが点灯している間、志穂崎憂子と手越夏美は、同じ長椅子に腰掛けながら、ランプが消えるのを待っていた。
「手越さん、こんなことになってしまって、本当にごめんなさい。樺井さんみたいな真面目な人を巻き込んでしまって……」
憂子が先に声をかけた。やはり副島が悪人であり、一般人である樺井を巻沿いにしてしまったと考えるのが、自然かと思った。
「どうして志穂崎さんが謝られるんですか?私は二人が入れ替わった事は知ってましたし……副島さんが、警察からも暴力団からも狙われてる事も聞いてました」
憂子は、憂子のマンションで副島から聞いた事を思い出した。その上で、夏美が樺井でなく副島に何となく抱いている気持ちのようなものを感じ取った。
〜だけど運が良かったんだな。その同じ電車の中で君のガールフレンドに声をかけられたんだ。彼女がいなかったら、そうだなあ……とっくに刑事に捕まってたかもしれないな〜
「そうだったんですね。でもあなたがいてくれて、副島も助かったと言ってました。手越さん、ありがとうございます」
憂子が夏美に抱いた気持ちは、共感だった。憂子に一方的に感謝されて、怒りの矛先を失った夏美は急に立ち上がった。
「私、帰ります」
そんな夏美を憂子は引き止めた。
「手越さん、どうか一緒に二人を見守って下さい。もしかしたら帰ってくるのは、一人だけかもしれないけど……どうか最後まで……お願いします」
いったん立ち上がった夏美は、取りあえず座った。
3 真相
年もあけて、2月の中旬、副島の四十九日法要が営まれていた。昨年末に遺骨となっていた副島の納骨の日でもあった。結局唯一の親戚でもある富山の叔父が喪主になり、すべてを取り仕切ってくれた。
憂子は、昨年末、告別式に参加し、葬祭場で遺骨となった副島を確認した後は、東京に戻ってきていた。副島が死んだ事で、事件は解決したように見えたが、多くの人の心に少なからず暗い影を落としていた。
バスの中での副島の判断が功を奏してか、樺井は、1ヶ月ぶりに自分の身体を取り戻す事に成功していた。傷が浅かったので、翌日には目を覚まし、友人手越夏美と田舎から駆けつけた両親と再会した。数日入院していたが、年が明けて三が日を過ぎた頃には、自分のアパートに戻ってきていた。 澤尻邸の2階から測道に落下した西尾も当りどころが良かったことと、救急車の手配が早かったことで、樺井が目を覚ましたのと同じ頃、やはり目覚めた。彼を待っていたのは、刑事だった。女子生徒との肉体関係と2階からの逃亡という線で事情聴取をするのが、彼らの目的だった。
この件に関しても、吉田は志穂崎憂子から得た知識は、自分の胸の中にしまってしまった。それは実際現場を見たわけでなく、志穂崎憂子の身を案じて、2階に駆け上がった時には、窓から西尾が飛び降りた後だったということもあった。
検査結果、彼の淫行は最終行為にまでは及んでいなかった。そして麻衣の母親からは、西尾の罪を糾弾しない旨の書面が出されていた。西尾の教師としての立場は、危ういところで守られたわけではあった。
傷ついた部分を自己修正する皮膚のように副島を除いては、元通りに修復されつつあった。ただしその副島というピースがないことが原因なのか、元の世界とはまるで違う空気が流れていた。
退院直前に一度樺井を見舞いにきた憂子は、樺井に納まった樺井を見て、微笑んだ。
「樺井さん、体の具合いどうですか」
「私は、刺されたのが一箇所だけでしたし、あまり深くはなかったので……」
深夜に二人が病院に運ばれてきた時に、副島の肉体は散々傷を負っていて、処置のしようがなかった。一方樺井は、一ヶ所刺されただけで、致命傷ではなかった。
副島に思いを馳せる樺井は、バスの中の様子を懐かしそうに語り出した。
「このバスに乗って限界を見届けたいのさ、って副島さんは言ってたんですけど……。憂子さんに言えば分かるって……」
「あの人らしい言い方だけど、多分そこに行けば逢えると思ったでしょうね……」
「誰にですか?」
「彼には、彼の恩人とも言うべき大親友がいて、その人と一緒にいたのに、彼は助ける事の出来ず、亡くなってしまったのね……」
「そうなんですか……。ああ、そう言えば、副島さんの葬式に出たかったんですが、すいません」
「うーん、良いのよ。あなたは副島の最期に付き合ってくれたし、私にとっても恩人ね。あの人はいつかこうなるとあの人自身が言っていたし、本人が望んだように今頃は親友と再会しているでしょう」
憂子は、涙がこぼれないよう、顔を天井に向けた。
「副島さんていい人でしたね」
樺井の率直な感想だった。
「そうね」
そう言って憂子は笑った。
ちょうどそこに吉田が見舞いに現れた。
「志穂崎さん、来ていらっしゃいましたか。どうですか、樺井は?」
憂子に一礼し、樺井に話しかける。
「君のこの姿に一度騙されてるからな……ははは。まあ副島も君がこうやって元に戻れてホッとしてるんじゃないかな」
副島の死をもって吉田にとっての一つの事件は解決した。ただし事件は常に発生し、刑事の吉田にはゴールがないように見える樺井だった。
「刑事さんも頑張って下さい」
「参ったなあ、君に慰められるとは……」
吉田は微笑んで頷きながら、
「これから破廉恥先生にも会ってこようと思うんだ。刑事事件としては扱えないようなんだが……」
そう言って部屋を出ていった。
「そう言えば、ご両親はどうされたの?」
「退院が決まったので、アパートの掃除なんかをしてくれてるみたいです」
「夏美さんは?」
「これから来る事になってます……」
「あら、じゃあ悪いから、そろそろ帰るわね」
「あっ、大丈夫ですよ。彼女、憂子さんにお礼を言わなきゃって……」
「そうなの?でも、ごめん、ちょっと行かなくちゃ……」
「そうですか、残念だなあ」
その後は澤尻邸に行くことになっていて、憂子は病院を後にした。
志穂崎憂子が澤尻邸に訪れたときには夕方になっていた。麻衣は昨年からずっと不在だった。
「先生、先日は本当にお世話になりました」
「お母様は、お一人になって寂しくはないですか」
憂子は母の目を見つめながら聞いた。
「私達は、血は繋がっているとはいえ、決して親子と言える関係ではありませんでしたから……」
「それは麻衣さんがやはり特殊なお子さんだったから……ですか」
「あっ、先生はコーヒーで良かったですか」
「どうぞ、おかまいなく……」
キッチンでコーヒーをいれる母親の後ろ姿は、なんだかすっきりしていた。
「11月にお亡くなりになった進藤さんの件は、警察に洗いざらい申し上げてきましたが、警察としては、事故として処理するということでした」
「やはり、そうですか?超能力に対して否定的なんですね」
「ええ、でも別な所から連絡が来て……」
「別な所?」
「よく知らないんですが、国家公安委員会の下に属する特殊能力開発機構というところなんですが、麻衣を預かりたいということでした。そこでは、普通の学生と同じ教育も受けられて、同じ能力を持った子供達と一緒に暮らすそうなんです」
「なるほど、そんな機関があるんですね。これで麻衣さんに怯えて暮らす必要はなくなった、ということですね」
「先生には嘘を付けませんね。麻衣が離れていき、警察からお咎めがないなんて、何だか出来過ぎてて、逆に不安になりました」
「不安ですか?」
そう言って憂子は、数枚のコピー用紙を取り出して拡げた。
「これは、あるホームページから抜粋したものなんですが……」
そう言って母親に手渡した。
「これは……?」
「多分、お母様が不安を感じてらっしゃるのは、まだ何かご自分の胸にしまってらっしゃるからではないですか?私は刑事でもないし、誰かを裁く事なんて毛頭出来ません。ただこれだけ麻衣さんに自分自身関わってきて、真実が知りたいと思うんです」
「支配と従属」という表紙をめくると母親は次第にその中に引き込まれていった。時に肩を震わせたり、短い嗚咽を漏らしたりした。
「まだ、こんなものが、ネット上に残っているんですか?」
「多分書いていた方は誰にも教えてなかったんでしょうね。そして自分では更新できなくなってしまった……」
母親は涙を手でぬぐい去り、観念したように話しはじめた。
「私が育児ノイローゼから鬱病を患い、しばらく入院していた件は、その通りです。とはいえ母親ですから、食事の準備をしたり、幼稚園に連れて行ったりはしてたんです。時々夫から今日は休ませた方が良い、とかアドバイスはもらってました。それと人格障害という言葉ではないですが、気持ちにムラがあって、しばらくは、何か良くない事をしても叱りつけない方が良いと言われた事もありました。麻衣は図に乗るばかりでした。いつの頃からか、大人の口調で私を馬鹿にするようになりました。でもそんな時は決まって、言い返してはいけない時なので、ストレスは溜まっていきました。私のやっている事は家政婦と同じだ、と思いました」
母親は、それを思い出したのか、かなり激昂していたが、自分でそれに気付き、コーヒーで喉を潤した。
「とにかくあの娘の成長、というか成熟ぶりには驚きました。もちろん普段の麻衣ではなく月に1度現れるもう一人の麻衣、そうね、このレポートの中では、MIAという人格がそれなんですね。でも私は思うんだけど、MIAというのは、ただの中途半端なAIMですよ。確かに普通の麻衣に戻ろうとするときのエネルギーは凄いものがあって、昔は、本棚の本を全部中に浮かべたり、テーブルを庭まで移動させたりしてました。終いには人間を窓の外に放り出すくらいの力も出るわけですからね。それに比べてMIAが出来るのは、男をたぶらかせて、自分の思い通りに操ることぐらいなんですが、その力の半分はいわゆる色仕掛けもいいとこです。その証拠に私には効きません。多分先生にも効かないと思います。でもAIMが現れるとやはり危険です。夫が最後まで研究していたのが、いかにMIAから安全なMAIに戻すか、なんでしょうね。多分それが最後のところで、読み方によっては下手な官能小説と取られないことはないですね……。でも実際この通りだと思います。あの娘は聴きもしないのに、夫がどんなことをあの娘にしたのかをこと細かく話すんです!」
一度落ち着いたように見えた感情の高まりは、夫と娘のただならぬ関係の部分に触れて、しばらく言葉を失った。
「夫への愛情はとっくに覚めてましたが、いざ娘から、そんな話をされる事の屈辱と言うんでしょうか。私も自分を見失っていたんですね。それで私は、いつもなら一人でキッチンにいるんですが、音を立てずに階段を上っていき……たぶん今回志穂崎先生がされたことと全く同じなんじゃないですか?」
母親の瞳が憂子を強く突き刺していた。憂子はそれを自然に躱し、母親に代わって話し出した。
「行為をわざと大袈裟に中断させることですね……多分、そうだと思ってました。いかにMIAから安全なMAIに戻すか、というテーマは、結局オーガズムへいかに到達させるかということだったんですね」
それを聴いて母親は、ふと気が付いた事があった。
「先生は、もしかすると、それを知った上でわざとあのタイミングで飛び込んだんじゃないですか?」
「そう、思いますか?私、自分ではよく分からないんです。確かにもっと早く中断出来たかもしれないし、邪魔をしないで麻衣さんがオーガズムを感じていれば、何事もなく終わっていたかも知れませんよね。麻衣さんが、父親と同じ年代の男性を求めるのは確実なオーガズムを期待するからなんでしょうか?」
「多分、先生の言われる通りです」
「亡くなった進藤さんの同僚の方に話を聞く事が出来たんですけど、普段からたいへん真面目な方だったようです。故人の風評を語るのは控えるべきでしょうが、不能者だったという噂がありました。それが今回災いしたとしたら、彼が哀れでなりません」
「そうですね。そうか、彼は全裸ではなかった。彼なりに抵抗もしたんでしょうね。そしてMIAの性技を持ってしても、万全の状態にはならなかった。彼女のプライドを傷つけたんでしょうね」
真実らしき物は、推測を多いに含むが、少しずつ明らかになって行く。かといって、その先には何も得られる物がないことに、二人は気づきはじめていた。死んだ人間が生き返るわけでもないし、巨悪が糾弾出来るような爽快な結末が待っているわけではなかった。
副島の49日法要が、数人だけで簡素に行われた。そしていよいよ納骨の段という時に、予期せぬ参列者があった。西尾だった。
「西尾さん……」
「ご、ご免。君の前に顔を出せる僕ではないんだけど……副島さんに報告したい事があって、やってきたんだ」
終始無言で納骨式は終わった。西尾はずっと独り言を呟いていた。それが副島への報告らしい。
西尾は、すぐに失礼するからと言って、副島の叔父の誘いを断った。憂子も正直、話をする心境ではなかった。
「面と向かうと何も言えなくなると思って、副島さんへの報告内容と君へのお詫びを手紙にしてきた。後で読んでくれ!」
そう言って、一人駅への道を急いだ。
西尾からの手紙は、謝罪から始まっていた。
「とにかく一連の非礼を心よりお詫び申し上げます。あの卑劣極まりない出来事は絶対あってはならないものです。その決意を固くし、先日、自分と教頭の罪を明白にするべく、教育委員会宛に志穂崎さんの件を含む一連の出来事の内容を書面で送っております。恐らく僕と教頭は懲戒免職となるでしょう。たとえ教頭が否定しても、僕にはいざという時のために証拠になりそうなものが数点あります。罪は免れても、教師として続けていく事は不可能です」
憂子は、いったい何が西尾を変えてしまったのだろうかと思った。あるいはそれが本来の西尾なのか。人間の中には悪も善も均等に振り分けられていて、縁に触れてどちらかが現れるということなのか。そう言う意味では、人は誰もが人格障害で、何人もの別な自分を抱えて生きているのかも知れない。明日の自分は今日の自分とは違うかもしれない。そしてどちらが正しい存在なのかは分からない。しかし、どんな悪い上司の下についても、どんなに悪質な担任の教室に入っても、どんなに変わった両親の下に生まれても、常に正しい自分が選択できる人が、完成された人間で、私も、きっと他の人もそこを目指して歩いていかなければならないのだと、憂子は思った。
憂子は手紙の最後の部分をゆっくりと読みながら自分の未来を噛み締めていた。
「志穂崎さん、豊島東高校は二人の教師を失い、即臨時講師を募集するでしょう。校長には話を通しております。ぜひ志穂崎さんを採用するようにと。そしてそれが副島さんとの約束だったので……
追伸
49日法要の日、僕の進退に関する決定があるので、お墓参りしたらすぐに東京に戻ります。多分その場で言えないと思い、この手紙を書きました」
4 エピローグ
新聞の片隅に、豊島東高校の不祥事が掲載された。教頭の塩田と学年主任だった西尾の教員免許は没収された。二度と教職には就けないし、社会的地位も失う結果となった。また校長は、移動が決定し、他所の高校から新しい校長が赴任してきた。
そんな新しい豊島東高校の布陣の中に、志穂崎憂子もいた。1年以上不在だったこの高校ではあるが、数ヶ月担任を受け持ったクラスの生徒も卒業を前にして、彼女に再会出来た事を喜んだ。彼らには事実は話していない。ただ、西尾と教頭が辞めたあとだったので、観の鋭い子には、大人の事情が理解出来たかもしれない。
校長室で校長に挨拶したときだった。
「あなたも被害者なのに、全く怯まない姿は頼もしく思えます」
「ありがとうございます」
「復帰は、4月からでも良いと思ってたんですが……」
「ええ、でも私が担任をしていた2組の生徒の卒業式を見届けたいと思うんです」
今は未来しか見ていない憂子には精神的被害は被害ではなかった。過去はいろんな形で清算されてしまっていたのだ。
「そうですか、彼らが羨ましいですね……あっ、いや変な意味じゃないですよ」
そう言いながら、口が滑ったとでも言いたげにハンカチで顔を拭く校長だった。
「はい、大丈夫です」
そう言って憂子は笑った。
春の足音がそこまで聞こえながら、ここ数日寒い日が続いていた。
卒業式の準備に追われていた豊島東高校に一本の訃報が届いた。澤尻麻衣が預けられていた特殊能力開発機構の施設内で火事があり、宿泊棟にいた数名が巻き込まれ、麻衣が亡くなったというのだ。
「卒業式には来る約束だったのに……」
憂子は、数日前に電話で話した麻衣の声が明るく澄んでいて、更正の成果を感じたばかりだった。
「麻衣ちゃん、元気そうね」
「先生ご無沙汰しています。先生が学校に復帰したことを母から聞きました。おめでとうございます。そして頑張って下さい」
「ありがとう。あなたもそこで頑張ってるんでしょ」
「ここには私と同じような力を持った子が何人もいて、みんなそれぞれ悩みを抱えながら前向きに努力しています」
「訓練っていうのはたいへんなの?」
「私は、自分の持っている力をコントロールする訓練と人格の統合を図るようにいくつかのプログラムをこなしています。詳しい事は今度会ったときの楽しみに取っておこうと思います」
「あら、会えるの?」
「そうなんですよ。卒業式だけは出ても良いんです、って。先生に会う事を楽しみにその日を心待ちにしていますね」
「そうね、高校の卒業式は、一生の想い出になるから……そう、ほんとに良かったわ」
「……あっ、それと。私には初めての女の子の友達ができたんです。年は3つ下だけど私より頼りがいがあるの。とても中学生には見えないんですよ。あっ今年は高校生だ」
とにかく声が弾んでいて過去を引きずっている様子はまるでなかった。そんな麻衣に会ってみたかったと憂子は強く思った。
麻衣の母親から、葬儀の連絡があった。母親の淡々とした口調に憂子は不快感を覚えたが、彼女の気持ちも分からなくはなかった。もし立場が一緒だったら……麻衣の能力を利用して夫を殺害したかもしれない。きっと西尾を死に晒したことと同じだと麻衣の母は言うだろう。
憂子が駆けつけた寺院は、澤尻家代々の墓があった。父親と同じお墓に入るのをきっと喜んでいるのだと思いたかった。
「志穂崎先生、今日はお忙しい中、麻衣のために来ていただいて……ありがとうございます。昨夜、麻衣の遺体が届いたんです。すでに棺に納まってました。何でも腰から下の焼け方が尋常でないというんです。でも顔なんかはきれいなままで、正直泣く事なんてないと思ってたんですが……」
そう言って母親は、昨日の電話の口調からは打って変わって、世界の終わりが訪れたように泣き崩れた。確かに棺の中の麻衣は、まるで今にも話しかけそうな明るい表情をしていた。この卒業式をどれだけ楽しみにしていたんだろう。憂子もまた母親を抱きかかえるように涙を流した。
それにしても昨年暮れから、墓地や葬儀に縁が多く、もう誰もそんなことがあってはならないのだと強く願った。
卒業式は滞り無く済んだ。教室で一人教壇に立ちながら、制服に身を包み、卒業式に元気で参加している麻衣の姿を思い浮かべた。そして校庭のそこかしこに漂っている春の気配の中で気持ちを切り替えなければならないと思った。
新学期までの準備期間、時々学校に顔を出していた憂子だった。新学期から1年生を受け持つことが決まりそれなりの不安はあったがそれ以上にやりがいを感じ胸が高鳴った。そんな憂子の下に手越夏美が訪れていた。
「樺井さんが教育学部を出てるとはね」
「志穂崎さんに感化されたんじゃないでしょうか」
「そうかしら?もしかすると……副島のせいじゃない?」
「あっ、確かに元の樺井さんに戻ったはずなのに、時々副島さんが入ってたときと同じ話し方をすることがあるんです。それに今までは、私に指図する事なんて、なかったんですけど、何だか煩くなりました」
二人は声をあげて笑った。
「そうかあ、でも良い先生になるかもね、基本的には真面目だもの」
「私もそう思います」
「何だか、上手く行ってて羨ましいわねー」
からかったつもりが、何だか夏美に慰められる結果になった。
「大丈夫ですよ。志穂崎さんみたいなきれいな人、誰もほっとかないですよ」
夏美は言わなかったが、心の中で「だって、あの副島さんが好きだった人なんだもの」と思った。
心の声が聞こえたわけではないのに、
「これから恋愛するなら副島とは似てない人が良いかな」
と憂子が小声で囁いた。それからゆっくり夏美に向き直った。
「どうぞ、お幸せに!」
「あ、ありがとうございます」
夏美は何だか恥ずかしかった。
3月下旬から4月の頭にかけて春らしい陽気に包まれた。校庭の桜が一斉に咲き誇り、入学式を華やかに彩っていた。
校長の挨拶が終わって、各クラスの担任が教頭によって紹介された。壇上で軽く会釈する志穂崎憂子の姿があった。教室で再度、自分のことを生徒に紹介しながら、未来への熱き情熱を語りかけた。
「皆さんと3年間共にすることになると思います。1年生から担任を受け持つのはのは、初めてなんだけど、その分やりがいを感じてます……。私の事を女だからって、甘く見ると後悔するわよ。結構頼りになるんだからね。付いてきてね」
多少フレンドリーな感じを出して、新入生の緊張をほぐそうとした。功を奏したように、誰もが微笑みを浮かべて憂子を見つめた。
「中学までは義務教育だから、自分で意識しなくても先に進めたと思うの。でもこれからは自分で歩いていかなければならないわね。たいへんだとは思うけど、取りあえず試験という扉を自分で開けて入ってきたあなた達だもの、きっと大丈夫よ。そして3年生になるのはあっという間で、さらに進学をする人もいるでしょうけど、そこから社会に飛び立っていく人もいるでしょうね。この3年がいかに大事か、分かるわよね。それをどう過ごすのがいいのか。先生も一緒になって考えてみます」
その後クラスごとに写真撮影があり、その日は午前中で終了した。教室を出て廊下を歩く憂子は、これから彼らと共にする3年という月日を漠然と思い描いていた。
「多分もう何があっても乗り越えられると思う!」
職員室に向かう渡り廊下を歩いていると、それこそ澤尻麻衣を思い出させるような、可愛らしい声で呼び止められた。
「志穂崎先生!」
振り返ると、憂子のクラスの新入生だ。写真を見ながら名前はすべて記憶しているはずだった。名前は、確か……。
「えーっと、櫻井知恵さんね」
「はい」
名前が当って憂子は少しホッとした。少女は名前を呼ばれて、クスッと笑った。3年生と違って1年生は本当に子供のようだと思った。
「どうしたの。家に帰らないの」
「先生にご挨拶しなきゃと思って……。先生バスに乗った事あるでしょ。私もバスに乗ったの。麻衣ちゃんと一緒だったのよ」
もちろんバスと聞いて、思い出したのは、過去に2度乗った例のあのバスだった。唐突ながら、麻衣の名前を出されて、憂子はとっさに思い出した。
「あ、あなた、火事で焼けた……」
「麻衣ちゃんと同じ部屋だったんです。麻衣ちゃんは、3つお姉さんだったけど、私の方がしっかりしてるって言うんです」
「そう。あなたが、麻衣ちゃんが言ってたお友達だったのね。友達が出来た、って喜んでいたもの」
そう言って憂子は少し涙ぐんだ。
知恵は、たどたどしくもバスの中の様子を話し出した。
「麻衣ちゃんは、前に志穂崎先生と一緒に乗った事があるって、私に話してくれたの。私たちの他にもやっぱり同じ寮にいた子も乗ってたようなんだけど、みんな途中で降りていってしまって……最後は二人になって……」 そして最後の停留所に来て、進行方向前方にある掲示パネルに番号が一つだけ点滅したという。
「どうもその番号の人が降りても良いってことなんですよね。あっ、ごめんなさい。先生は知ってますよね」
「うーん、いいのよ。それで麻衣さんはそのままバスに乗っていったというわけね」
知恵はそこでうつ向きながら、恐る恐る声を出す。
「違うの。麻衣ちゃんはそう言ったんだけど……。私が言ったの。二人で手を繋いで降りましょ、って」
憂子は、目を見開いて尋ねた。
「彼女はどうなったの」
知恵は両手を頭に乗せ大きく息をはいた。
「フフフ。私の中で眠ってる」
以上
行き先不明の無限バス
昔、といっても20代頃、京王線沿線に出たいので、どこからかバスに乗った時(詳しく覚えていない)、終点についた事に気づかず眠りこけてしまっていた。一番後ろの一つ手前の二人掛けの椅子に深く座って寝ていたので、運転手も気づかなかったと見える。バスは京王線から離れ環状八号線を車庫に向かいはじめたのだろう。運良く、運転手が気が付いたらしく、車内マイクで呼びかけてくれた。
「ええっ、降りなかったの?ええっ!」
ってなものである。
寝ぼけ眼の僕は、何がなんだか分からず、わけの分からない所で降ろされた。人に道を尋ねながら、かなりの時間をかけて、京王線の芦花公園という駅にたどり着いた。
その時の事がモチーフになっているのだろう。最初に書かれた時は、主人公はフリーターの樺井で、これには僕自身を投影させていたのだが、いつのまにか女教師志穂崎が、主人公のようになってしまって、結局ラストも彼女のシーンで終わる。それならばいっそ、出だしから彼女をメインに持っていこうと考えたわけである。
ちなみに、暴力団員、副島とフリーター樺井の人格が入れ替わるという設定、2011年公開されたドラマ「ドンキホーテ」で使われていて、ちょっと焦ってしまった。まあ、特別なアイデアでもないし、早いもの勝ちであるだろう。ちなみにこのドラマで小林聡美が出演しているのが興味深かった。入れ替わりの元祖は、なんと言っても「転校生」だ。そう言えば、新垣結衣と舘ひろしの娘と父親の中身が入れ替わるというドラマもあった。この手の入れ替わりという手法も古典的と言わざるを得ないかもしれない。
超能力も古典的な念動力(サイコキネシス)を使わせてもらった。また多重人格という設定も、敬愛するロックバンドThe Whoのアルバム「4重人格(邦題)」の影響はある。古くはジキルとハイドという古典もあるが、興味深いモチーフである。
性的な表現は、男性であるがゆえに官能小説の影響はかなり受けていると思うのだが、今回発表するにあたり、かなり抑える事になった。全体のテーマが霞んでしまうほどの表現は、一部の人には受けるかも知れないが、やはり蛇足というものである。
個人的にはいたってノーマルであることを付け加えざるを得ない。