ドーナツ売りの少女
熱帯夜だった。アスファルトがところどころ汗をかいたように溶けた日の夜のことだ。夜になっていたが、哀れな少女――これから死ぬ――は外をほっつき歩いていた。確かに、夜中になってもウロウロしているなんて死んでも良いという観点もあるが、少女が父親にDVを受けているという情報が加わるとむしろ外に出ても仕方ないかなと思う。
少女の手には今しがた買ってきたドーナツの箱が握られている。中身は全てチョコファッションだ。少女はドーナツのセンスがある。
少女は残念ながら靴を履いていない。アスファルトの温度は一向に下がらず、彼女は歩いているためにすでに足裏の皮は血で汚れている――これから死ぬのであまり関係はないが。
彼女はドーナツを売ろうとしている。売って少しのお金を稼がねば、彼女は家にいる父親に殺されるだろう。生活保護のセーフティネットはすでに破られている。道には人はほとんどいない。彼女が辿るべき運命のパターンはほとんどない。県道のなんと広く、そしてなんと疎なことか!
さて、少女は一人の男を見つける。ワイシャツを着た中年だ。面長細目の壮年である。彼女は走り寄ろうとするが、足の痛みに耐えかねて、五歩と走ることはできなかった。「すいません」とかれた声で話しながら少女は歩み寄る。道路を横断する。車は来ない。壮年は一瞬ぎょっとした顔をしたが、憐れむような目を見せた。
「あの」
「何歳だい? そんな年から花売りか? 親御さんは?」
壮年は疲れた顔をしてやさしく言う。おそらく彼なら買ってくれるかもしれない、と彼女は思って、ドーナツの紙箱の取っ手の感触を確かめた。
「そうではなくって、私、ドーナツを買ってほしいんです」
「ドーナッツ?」
壮年はいぶかしげに聞いた。頭上から街灯に照らされて、彼の顔には深い影が落ちていた。彼の顔は見えなかった。彼女――はもう死すべき運命にあるのだが――は、疲れた声を振り絞って声を出した。水を飲んでいないせいである、ひどくざらついた声だった。
「ドーナツです!」
「え」
「何? ドーナッツって? ふざけているの? 私が子供だと思って『ドーナッツといってもどうせ同じにしかとられないだろ』とか思っているんでしょう! その促音は何? ばかにしているの? 私が売れない娼婦だと思ってからかっているんでしょう。 私は! 私はドーナツ売りだ!」
彼女がそういって足を一歩壮年に向けて踏み出す。先ほどまで彼女が立っていた場所は黒く濡れている。血だ。もはや彼女の足裏の感覚は残っていない。
「い、いや、全然そんなことはないよ、すまなかった。申し訳ない」
「じゃあ……買ってくれませんか……ドーナツ……」
壮年はしばらく考えていたが、観念したように手を後ろのポケットに伸ばした。
「じゃあもらおうか、その、ドーナッ――あ、ド」
「トーラスでいいですよ」
「円環体……」
彼はそういって財布から何枚か紙幣を取り出して、ドーナツを買うと、歩道の縁石に腰かけて、鞄からペットボトルを取り出して、彼女に渡した。その紙幣も、おそらくは彼女の父親にわたり、明日にはどこかに消え去っているだろう。壮年は慈悲深かったが、彼女は死ぬ。
「ペットボトルですね」
「飲むといい」
彼女は驚いた顔をしたが、のどの渇きに負け、ペットボトルの中身を一度に飲んだ。壮年は少し笑った。真夏にチョコファッションを食べる壮年と、足の裏から血を垂れ流しながら水を飲む少女の組み合わせは、相当おかしかった。
さて、そのおかしい彼らが次にしたことは、壮年の家に少女が住み着くことだった。しばらくは彼女は歩くこともままならない状態だったが、そのうちに回復した。壮年は不況にも、国レベルの併合にも屈せず、一商社マンとして人生を終えた。少女――その時はすでに少女の歳ではなかったが――は、壮年が死んだ二年後に自宅で静かに息を引き取った。彼女は予見通りに死んだ。
彼らの墓は作られずに、共同墓地――海――に遺灰が放り込まれることになった。けれど、今でもチョコファッションは食べられ続けている。
ドーナツ売りの少女