小説私。
お暇なら、お時間ください。
読んでほしいです。
レポート『物語性現実論への反駁』 学籍番号○○ 大貫陽介
私はきっと小説の中のキャラクターのはずだ。
あなたは今、ページをめくり、文章を読んでいる。
ただの女子大生の私に何を求める?
どんなストーリーを期待する?
望みがあるなら、考えるよ。
小説は読者のためにあるからね。
たとえばそう、恋愛ものがいいかな。
恋人達が同じ場所に行きたいのに、すれ違いなんかしちゃって。
たとえばそう、探偵ものがいいかな。
私が逃げている泥棒で、他の誰か探偵役が、追いかけてきたり。
だけど、全部の要望を聞いていられるわけじゃない。
きっと、これはどうしようもない小説。
無理やりに、ストーリーを転がそうとするしかない。
日常からの脱却とか(笑)。
手始めと言ってはなんだが、大学を辞めようと思う。
とくにこれと言って理由はなかった。大学が特別に嫌いだったわけじゃない。人間関係に疑問を持ったわけでもない。ただ単に、体がこっちの方向に向いただけだ。
現実的にみれば、大学中退というのが、決して格好良いものではないことくらい知っている。だが、もう決めてしまったから仕方がない。もともと自分の借金で通っていた大学だ。誰にも迷惑をかけていないつもりではいる。
現状を諦観めいた言葉で表現するのは好きじゃない。もっと明るくありたい。
夢見がちな娘と笑われることは多いけれど、私の願望をありていに言ってしまえば。
ストーリーの登場人物でありたいのだ。
東京の大学に入学するのは、それはそれは大変なことだった。勉強も人並み以上にやったし、第一に両親が乗り気じゃなかったのが大きかった。
――あんた一人暮らしなんて、絶対無理だから。家から通える大学にしなさい。
今思えば、結果的にお母さんの言った通りになってしまった。
正直合わせる顔がない。
「だって、もうしょうがないじゃん。再履修は決まったし、萎えちゃったんだから」
昨日の必修のテストを休んだことで、留年にリーチがかかった。今日のテストは一限だけだが、それも欠席した。
電車を待っていると、アナウンスが鳴った。
『電車が着ます。黄色い線の内側に――』
「お、駅員さんの声、かわいいな」
花澤香奈みたいな声だった。
気分がよくなったところで、私は当面の目的を設定しようと思った。
幸い電車の座席には座ることができた。平日の昼間では当たり前か。
「そうだな、行きたいところは……」
私はカバンのタブレット端末を取り出した。
検索欄に最近みたアニメのタイトルのあとに「聖地」と入れて、虫眼鏡マークにタッチした。
「ここから、広島だから、うわっ、そんなに時間かかるのかー」
明日の朝出発する方がいいかもしれないか……。
――いや、それはだめだ。家に帰ると課題とか教科書とか、そういうものが私をいじめる。
雰囲気だけで気が滅入る。
「正直にしたいと思っていることをすればいいじゃないかなって」
あのキャラも言っていたし。
今行こう。そうしよう。
張り切って、携帯で時刻を見直すと、メールが届いていたことに気が付いた。
「お母さんと大貫(おおぬき)からだ」
お母さんからは、お米と野菜を送ったこと、それと夏は実家に顏を出せとのことだった。
お母さんにメールの返信はしない。親しい人間に対して、私は肯定の意志を無言で伝える癖があるらしい。大貫に言われて、自覚したことだが、嫌なことは返事をし、それ以外は「はい、それでかまいません」という意味か、「勝手にして結構です」という意味を込めて、返信しないことが多い。
大貫は大学の男友達だ。地元の中学で同じだったが、高校で別れてしまった。
高校の時は一度も連絡したことはないし、会ったこともない。
だから運命的な再会と言える。
私の人生は恣意的な巡りあわせがあるようだ。同じ大学の同じ学部で、中学の友人と再会するなんてドラマチックじゃないか。
向こうもきっと驚いているだろう。嬉しいだろうな。
これからもう会わなくなるだろうが、またいつか会えるだろう。
だから、今は大貫からのメールは見るつもりはない。どうせ大学のことだ。私にはもう関係ない。
今だけは大学の連中には会いたくない。友達と顔を合わせると、決心が揺らぎそうだ。大貫なんかは私のこと大好きだし、引きとめようとするに決まっている。
「とりあえず、広島の尾道(おのみち)市に行こう。そこでいろいろ考えよう」
今は考えないようにしよう。将来とか、そんな煩わしいこと、いつでも考えられる。
私は、区間急行新宿行きの優先席に座り、予定表を書きだした。
それから、新宿に着き、山手線で品川まで行き、新幹線で福山まで行くことにした。目指すは広島県尾道(おのみち)市。一人旅では、深夜バスや電車なんかで、泥臭く苦労しながら進んでいくイメージを私は持っていたが、それに従う必要もない。雰囲気を味わうことは好きだが、苦労が伴うのなら話が別だ。楽と楽しさだったら、楽を選ぶのだ。
新幹線はもちろん自由席だ。私はこれから、三時間半この車内で揺られることになる。暇つぶしはなくはないが、少し無粋な気がする。ここまできて、ソーシャルゲームで時間をつぶすのはいかがなものだろうか。ここは読書でもする方がいいだろうと、新宿駅内の本屋で見繕った一冊を袋から出して、読むことにする。
福山に着くころには読み終わっているだろう。
本を開いたところで、携帯が鳴った。
「なんだよ……」
また、大貫からだった。しつこい。私は文面を見ることなく、携帯を閉じ、電源を切った。
さて、読書の時間だ。
本のタイトルは『プレーンソング』。保坂和(ほさかかず)志(し)という作家。知らない。
読書は嫌いじゃない。特に一人称小説は大好きだ。本の世界に飛び込んで、とても他人事ではいられなくなる。そしてもう一つ、物語の展開も私にとっては超重要だ。恋愛小説だろうが、格闘バトルものだろうが、ホラーだろうが、ストーリーさえしっかりしていれば、私はおいしく頂ける。伏線が巧妙で、最終章でアッと驚くようなギミックがあると尚よし。ピタゴラ装置のような感動を味わえる。だからミステリーだって大好き。
『プレーンソング』のあらすじは、主人公の「ぼく」が自分の家に、友人たちを招き入れて、一緒にダラダラ暮らすというものだった。ただ、ダラダラ暮らす。主人公とその仲間が、猫にご飯をあげたり、競馬の話をしたり、近所を散歩したりする。
「なに、この話」
物語性もあったものじゃない。読み始めて半分までいったが、これと言って事件が起きるわけではない。しかし、小説というのは終盤に盛り上がると相場が決まっている。私は期待を捨てずに読み続けた。
二時間ほど経ち、私は最後のページをめくった。
「主人公が、まず彼女に振られて……、同僚と競馬の話をして、……同居人たちが出てきて……同居人たちと猫の餌付けをして……みんなで海にいって……終わり?」
最後まで何も起きなかった。ただただ二百ページ強の文章量を割いて、日常を描写しただけの小説だった。っていうか、最初に主人公を振った彼女の再登場すらなかった。
「なんだこれ。つまんない」
そろそろ夕方と言っていい時刻になりつつある。新幹線で揺られて、お尻が痛い。
ストーリー性の乏しい小説を読んでも気持ちはいくらもスカッとしない。
「文学っていうのか……? 気取らずライトノベルでも買えばよかったよ。秋にアニメ化する作品あったし」
私は『プレーンソング』を鞄に仕舞い、新幹線の残りの十キロ程度を、景色をみることでやり過ごすことにした。
本を読んでいるときよりは、建物が増えてきたように思う。本を読んでいる最中は山かトンネルで、単調なものだった。
退屈も、日常も嫌いではないが、それだけでは、物足りない。
私の人生にも、因果や、因縁や、伏線回収があってもいいと思う。ドミノ倒しのような物語があってもいいと思う。
日常は得てして、断片的で、物語とは程遠い。私が作家だったら、新幹線での移動中の描写なんかしない。読者が飽きるに決まっている。
もちろん、私の人生は誰かに見せるためのものじゃない。
しかし、「どうでもいい」イベントだけじゃ、生きている感じがしないのだ。
『プレーンソング』は私になにを伝えたかったのか。
考えてもわからない。
ただ、私はあの小説に価値を見出すことができなかった。
それでも、窓の外は、周期があるような単調さで、流れ続けていた。
福山駅のJR側ホームである。
私は山陽新幹線からの乗り換えで、JRで三原行きに乗り換える。この時点で運賃が一万円超えてしまった。金銭的には打撃だが、それは勉強もせずにせっせと塾講師のアルバイトした甲斐があったというものだ。それなりの貯蓄はあった。
『間もなく、各駅停車糸崎行きが到着します。黄色い線の内側で……』
福山は駅のホームから臨むと、幾分都会であり、どうにも見覚えのある景色だった。
不動産屋の広告があるビル。湯気をこもらせるラーメン屋。どこにでも見かけるコンビニエンスストア。自分もよく利用する大型古本屋の店舗。
夕方に帰宅しようとする人々の息遣いは東京のそれと同じだった。
何がみたくてここまで来たのだろう。
何をしたくてここまで来たのだろう。
「東京と変わらないよ。これじゃ」
それが駄目というわけではないが、なぜだか私はこの時、とても残念そうに言ったのだ。自覚的ではなかった。落胆とさえ見えるその振る舞いに、気が付いたのは声をかけられたからだ。
「あの……大丈夫ですかー?」
「え、はい」
私は相手の顔も見ずに愛想笑いを反射的にして、そのあとに、声をかけた人物を認識した。私服の女性だった。年は私よりも十くらいありそうな雰囲気の人。主婦というイメージが最初に浮かんだ。
電車が来た。これに乗らなければならないが。
「待っていてくださいね。ここに座って。いいから。私飲み物買ってくるから待っていてね」
女性は優しい口調で、体で逃げ道をふさぐようにして、私をベンチへ移動させた。言い方とは裏腹に穏やかでない様子だった。彼女は小走りで自販機まで行き、ガコンと、缶ジュースを二つ購入して、ベンチまで戻ってきた。
「あのね……困っているなら、私に話してみないー?」
女性は包み込むような口調で言った。
「な、何をですか?」
「え、だってあなた、もう少しで落ちてしまいそうだったから……」
「あ」
事情が掴めた気がする。あんまり、不幸そうな面持ちでいた私を見て、女性はなにか勘違いしたのだ。人見知りしたまま私は口を開いた。
「あ……あの、私そういうんじゃないです……はい」
と、無愛想に私は言うのだった。
「やっぱりー? 私、あなたが自殺しちゃうんじゃないかって、心配になっちゃってー」
女性は笑いながら、手をひらひらさせて、言った。照れている様子がかわいいなと思った。
缶ジュースはうれしいくらいに冷えていた。七月の気温にちょうどいい。
女性の気遣いで、私はすっかり機嫌を直していた。先の事などすっかり吹き飛んでいた。それは、しばらく誰とも話していなかったからか。
「なんか、すんません。ほんと」
へらへらしながら言うと、
「よかったわー」
と心底安心したように返してくれた。いい人だ。
「でも危ないわよー。ほんと落ちそうだったんだか。自殺じゃなかったら事故死よ。ぼーっとしたまま、ふらふらーっと飛び込んじゃって。気を付けないといけないわー。あなた学生さん?」
「はい」
ジュースの缶を口に当てたままだったので、声がくぐもった。
「大学生ね。どこの方?」
「東京から来ました」
「新幹線?」
「はい、もうお尻が痛くって」
「大変だったわねー。なに? ここに来たのは帰省かしら?」
「いえ、尾道まで行こうと思ってですね」
「ああ、旅行ねー。いいわね旅行」
ジュースで機嫌をよくした私は、このフレンドリーな女性の態度も相まって、敬語を忘れそうになる。
気が付けば、乗るはずだった電車も発車するようだった。
ドアが一度閉まりかけ、再び開いた。誰かが駆け込み乗車でもしたのだろうか。
私も慌ててでも乗るべきだろうけど、目の前の女性をないがしろにするようで憚られた。急ぐ用もないので、このまま少し話してもいいだろう。
「あなたは、地元の方なんですか?」
「ええ。都会に比べたら何にもないでしょ」
「そんなことないですよ。そっくりです」
それは本当のこと。本音だ。
「もう夏休みなの?」
「私は……もうです」
笑って言ってみた。これからしばらく夏休みかな。
「それはいいわねー。青春してくださいね。若いんだから」
女性も笑って返してくれた。含みが伝わったかどうかはわからない。
「ところで、尾道になにか目的でもあるの?」
ああ。そうだ。目的があったのだ。言われて思い出した。
「あるアニメの町のモデルになった町が尾道なんです」
「あー、聞いたことあるわ。最近は来なくなってけど、八、九年前くらいはすごかったわ。大きなカメラ持った人が電車に乗ってるの」
「はい、私も行きたくなって」
私はリアルタイムで見たわけじゃない。ゴールデンウィークに一気に見て、好きになったアニメだ。大貫に勧めまくって、無理やり見させた。
「そう。あなたがそんなに笑顔で話するんですもの、きっと面白いんでしょうねー」
「はい。そりゃもう」
「あー。あなたは幸せそうにするのがいいわね。笑ってなさいー。いいことあるから」
随分お姉さん口調なひとだ。やさしいけれど、気になった。
「あのー、失礼ですが。何歳ですか?」
「あははは。ほんとに失礼。私ー? 二十一歳よ」
私は中身のある缶ジュースを地面に落とした。
しばらくして女性は、電車に乗らず、改札の方へ去って行った。
「同い年かよ……」
若いんだからとか言われたし。そんなに私幼く見えるか。中学生に間違われることはあるけど。大学生ね、と確認までされたのに。謎だ。
私は電車を一本乗り逃したので、次の三原行きに乗ることにした。
尾道はここから二駅でつける。一本乗り逃したところで、時間は大して変わらない。
電車の中から見る景色は、一方は海があり、もう一方は都会が広がっていた。対象的だった。この食い違いが、なんだが、嬉しかった。この違和感に似たものを求めていた気がする。外はまだ明るい。
人と話して、感じたことは、大学やバイト先の外側にもきちんと世界があるということだった。そんな当たり前のことを見失っていたのだと思う。
鞄の中の『プレーンソング』を捨ててしまおうか。
服を脱いでしまおうか。
裸足になってしまおうか。
人が少ない車両の中でうずうずしている怪しい私がいた。
とうとう目的地、尾道市に着いた。午後五時前。季節柄、まだ日は沈んでいない。
駅の改札を出ると、潮の香が少し強くなった。近くに海があるのがわかる。改札を超えて、そこには道幅の広い道路があった。
私はタブレットを取り出し、振り返った先の「尾道駅」と書かれたJRの看板を撮った。
着いたぞ。着いた。
私の求めていた感覚。断片的な日常に対する微かな違和感。
それがあるはずなのである。なければ探す。探す場所はこの地。尾道市。
「まずは、神社いくぞ」
日はまだ出ている。私はタブレットで地図を検索する。ここから北に百メートルほどにある艮(うしとら)神社を目指す。少し歩くと、コンクリートでできた、公道なのか怪しいほど急な坂に見覚えがあった。キャラクターの通学路だ。
「おお、あそこかー」
私は興奮気味にシャッターを切った。主人公たちが、駆け上った姿、影を見ようとするも、見えない。初めはそうだ。作品のリアリティを感じるのは、まだまだこれからだろう。着いたばかりだ。焦る必要はない。
町は大通りから少し逸れると、高低差の激しい狭い道になった。アニメの作中では、民家の塀や階段の手すりに、たくさんの小さな「神様」が腰を掛けていて、主人公に呑気に話しかけたりしていた。当然私には「神様」見えないが。
艮(うしとら)神社についた。作品内において、ここは重要な土地。主人公たちがいつもたむろしている場所であり、一話中にかならず登場する場所なのだ。鳥居をくぐったすぐ左にある手水舎も印象的だ。私も手に水をかける。少し進むと、多くの絵馬が飾られた大木があり、アニメのイラストに「奉納」と書かれたものを見かけた。
ところ構わず写真を撮る私は不審者のようだったかもしれない。
それと、「聖地」とは関係なく、神社に来たのだから、お参りしたほうがいいだろう。こちらもアニメで見慣れた神社の鈴を呆けるように見上げてから、お賽銭を入れ、手を合わせた。
「――どうか……私を『そちら側』に連れて行ってください」
私は渾身の念を込めて手を合わせた。
そして、尾道市を概ね一周した。写真を撮り歩いた。
フェリー乗り場。学校。商店街。見たことあるような風景が、絵ではなく、現実の三次元でそこにあった。物語の登場人物が駆け回ったり、笑いあったり、ドラマを繰り広げていたあの場所。
私は艮神社に戻ってきた。夕方に相応しい暗さになっている。日の光は赤い。
神社の真ん中で、最後のあがきのように叫んだ。
「かーみーちゅー!」
両手を上げて、精一杯の伸びをして、声を張る。
人はまばらだったが、彼らは私を一瞥して、そそくさと退散した。自分が馬鹿なことをやっているのはわかっているつもりだ。
何も起きないことを確認して、私は力なく手を下した。
残響。
それに応えるものはなく。いかなる超常も起きはしない。
初めからわかっていたことだった。
探し求めるものはありえなかった。
私はドラマがほしかった。
アニメでも小説でも漫画でも映画でも、何でもよかった。
ただ、自分も物語の中にいるという安心感がほしかったのだ。
アニメの「聖地」に来た。
そこに行けば、物語の中に入れると思ったから。脇役でもいいから、ストーリー性のある世界には飛び込めると思ったから。
だが、そこにアニメの主人公はいない。登場人物もいない。フィクションだ。何も起きない。ちょっとした不幸の後に、知恵と勇気を使う。そして解決し、ちょっとした幸せに笑いあう。そんな世界があってもいいと思っていた。退屈でも予定調和でもいいから、無意味でない何かがあってもいいと思っていた。
「なんにも変らないじゃんか。私が居たらダメじゃんか」
ここに来なければよかった。
なまじ、ここはアニメの世界に似ているから。
アニメの世界に似ているが、ドラマはない。私はそれが、アニメの中の世界を侮辱したような気さえして。私がここにいることで、あのアニメの中の世界は、私の日常まで貶められている。
地面でひざを抱えた。
大学を辞める理由は、私の生活に意味があるとは思えなかったから。
私の日常にストーリー性がなかったから。断片的で、不連続で、寝て起きたら記憶が途切れていて。因果関係もあいまいで、伏線も回収されないことの方が多い。真相が解明されることもなく、現状を打開するひらめきも訪れない。
私の日常は、とんだ三流小説だ。
こんなもの、誰が面白いと思うだろうか。
大学生が主人公の日常ものだって世の中たくさんある。私はそのどれよりも劣等だ。
物語には意味と教訓が必要で、私の生活にはそれらが一切ない。
私はそれが我慢ならなくて、ここまで来たのだ。
精巧なピタゴラ装置のような、伏線の美しい、物語の一部になりたい。
そうしないと私に価値はない。
こんなに意味のない生活じゃ、きっと何も感じないまま死んでしまう。
「はぁー」
いや、泣いていない。私は全然泣いていない。
これくらいで泣いては私の「読者」に愛想をつかれてしまう。
「なに、泣いてんだよ」
肩をトントンと叩かれた。
背後の気配に、私はそれまで気が付かなかった。
私は振り向く。
そこには大貫がいた。
とにかく、私は全力疾走で逃げた。顔を見せないように、今は二重の意味で合わせる顔がない。
なんでここに大貫がいるんだ。この旅は誰かいると意味ないんだ。
「コラーっ! 逃げるなー!」
後ろから大貫の声が聞こえる。
高低差のある道は体力的にこちらの不利か。大通りにでて直線で振り切ろう。高校の時は私、バスケやっていたし。
飛び降りるように大通りにでた。着地したときに、自転車に乗っている警察官がいた。
「うわっ」と警察官は声を漏らした。彼はバランスを崩す。
「ごめんなさい! 急いでるんで!」
彼が自転車を直立に戻したところで、私の後を追うように、また大貫がそこに着地した。
「お巡りさん。目の前のちっこいの捕まえて! 万引き中学生です!」
「誰が万引き中学生だーっ!」
「え、なにお宅ら」
私も負けじと叫ぶ。
「お巡りさーん。その男痴漢ですよーっ!」
「痴漢じゃねー!」
大貫も叫んだ。
警察官はあきれた様子で、「人に迷惑かけるなよー」くらいに言って、反対側に自転車をこいで行ったようだが。大貫の足は思ったより速かった。
「まてよ。コラ」
あっという間に追いつかれた。
私は地面にしゃがみ込む。それを見下ろす大貫。
私たち二人とも息が上がっていた。
「なんだよ。ついてくんなよストーカー」
「……うるせえ」
「どうしてここがわかったのさ。私、別に何も言ってない」
セリフは、呼吸で途切れ途切れだ。
追いかけてくれと、頼んでもない。
「五月から、ずっとお前『かみちゅ』の聖地行きたいって言っていたじゃん」
「そうだったっけ?」
「そうだったよ」
「それにしても、お前さ私が好きなの? 追いかけてくるとかさ」
運賃も決して安くない。私はここで少なくとも一泊するつもりだったから金はあったけれど。
「……どうしてテストさぼったんだよ」
「……」
私は質問に答えない。大学を辞める決意を大貫にはまだ話していない。
「はあ。……俺、お前と同じ新幹線に乗っていたんだぞ?」
「マジで?」
「メール見てないのかよ」
私は携帯電話を開いて、大貫からのメールを見た。全部で五通もあった。
『お前なんで昨日休んだんだよ。サボりか?』
『まさか、尾道に行くつもりかよ?』
『新宿の本屋でバイトしている友達から聞いたけど、お前をみたって。どこにいるか、教えろ』
『品川でみつけたー!』
『人込みかき分けて、なんとか一緒の新幹線に乗ったぞ。車両は違うけど。福山で降りるとき、ホームで待っていろよ』
こいつ、私の彼氏か何かか? ストーカーかもしれない。
「大貫」
「なんだよ」
「一つ聞いていい?」
「おう」
「どうして、ここがわかったんだよ。私メールすらみてないのに」
「今に始まったことじゃない。そう判断したんだよ」
「は?」
「無言の肯定。お前は親しい人間には、イエスで返事をしない」
「あ」
「俺は、お前がメール見たものだと思って、ここまで来たんだ。新宿で目撃情報があって、すぐ来たよ。俺の家、笹塚だからな」
「あー」と自己嫌悪の波に流される私。
自分の間抜け加減が浮き彫りになった。足跡を消すつもりだったのに。大学の知り合いとは、もう会わないつもりだったのに。
「今度は俺の質問だ。俺は尾道(おのみち)に来たとき、お前に会えるもんだと思っていた。というか、山陽線の中で、車両を移動して会うつもりでいた。ところが、あの車内にはお前はいなかった。尾道で降りても、ホームにお前は見当たらない。俺とお前、同じ新幹線で福山まで来たのに、なんで福山の乗り換えで山陽線の同じ電車に乗ってなかったんだ?」
「ちょっと、まくし立てるなよ。考えるから……。お前はすぐに乗り換えたんだよな。新幹線から」
「うん」
「ああ……ああ。私その時、電車一本乗り逃しているわ。変なお姉さんに絡まれてた」
「え、そうだったの?」
「でも、私もお前も福山駅の山陽線ホームで待っていたんだよな。その時、あえなかったもんかね」
私があのお姉さんに絡まれる前、同じ新幹線からの乗り換えだったら、同じホームで待っていてもおかしくない。
「うんと……俺その時、新幹線と山陽線との乗り換えの合間に、駅でトイレしてたわ。んで、ぎりぎりになって慌てて、乗り換えるはずの電車に駆け込み、間に合った」
「あー、だけど、それに私は乗っていなくてえ」
「そう、入れ違いになったんだよ。ほんと、俺が尾道でどれだけ不安な気持ちで待たされたと思う。待たされたというか、探し回ってさっきやっと見つけたんだよ」
――そして、お前に逃げられたんだよ。と面倒を嫌うような口調で大貫は続けた。
「はははは、おかしいな。なんか」
すれ違ってばっかりだ。私は笑った。
「笑ってんじゃねーよ」
大貫は不機嫌になる。
まるで大学の講義がない間の時間だ。
「さてと」と大貫。
「お前がテストをサボって、ここまで来た理由、そろそろ教えてくれてもいいじゃないか?」
私たちは、追いかけ、追いかけられ、汗もかいたので喫茶店で話をすることにした。
「大学辞めるだぁ?」
「……うん」
「どうしてよ」
「言ってもわからないよ」
そうなのだ。私の悩みは、他人に引かれること請け合いだ。第一他人に話す内容じゃない。これは私の世界観の問題だ。ここまで生きてきた、私だけの気持ちの問題だ。
「話してみろよ」
大貫は、憐れむでもなく、怒るわけでもなく、ただ言葉の意味だけ切り取ったような、なにげない口調で言った。そういうところは好感が持てる。大貫は簡単に人に共感しない。
「私はきっと、小説の中のキャラクターだと思うんだ。うまく言えないけど……そうあるべきなんだと思う。私にとっては、大貫も小説のキャラクターだ」
私たちは大学で再会できたじゃないか。これが物語でなくてなんなのだ。お前もそう思うだろう、大貫。
「ふーん」
頬杖をつきながら彼は相槌を打つ。
「この世界はきっと、文章か絵で出来ていて、インクの一滴一滴が私たちを作っている」
「それで?」
「痛いやつだなって思ったでしょ」
「続きは?」
「……まあ、私はそんな気がするんだ。すると、どうだ。私の生活は……物語として価値があるんだろうか。私の物語を読んで意味のがあると思う人はいるんだろうか。そんな疑問にぶち当たる」
「……」
「伏線は? キャラの個性は? 熱い葛藤は? どんでん返しは? ライバルは? 世界の危機は? 切ない恋心は? ……ないんだよ。そんなの。どこにもないんだ」
「どうだかな。俺たちが、尾道ですれ違いながらも出会えたことは、伏線回収的な物語性は感じないわけ?」
「足りないよ。足りない。それくらいじゃ誰も面白がらない」
「瑞(みず)希(き)」
「なによ」
「小説は好きか?」
「うん」
「アニメは?」
「好き」
「漫画は?」
「よく読む」
「映画は?」
「ないと困るよ」
「そっか……」
大貫は微笑んだ。大貫との付き合いは長くはないが深い。これらの質問は、認知されていることのはずだ。確認する必要はあるのか。
「俺は……アニメにも小説にも漫画にも映画にも、物語性はなくてもいいと思う」
「それじゃ面白くない」
「まあ、聞けよ」
「うん」
「お前、ご都合主義の物語は好きか? 根性で倒す。愛で救う。思いが勝つ。とか」
「好きじゃない。ハッピーエンドになる理由がほしい。まあ、ハッピーじゃなくてもいいんだけれど」
「なんでさ」
「現実味っていうか。リアリティがないよ。物語に入っていけない」
「うん」
大貫は納得したように、頷いた。
「俺は、それが一番大事だと思ってるんだ」
「それって?」
「リアリティさ。お前が思うように、リアリティのない小説には入っていけない。じゃあ現実味ってなんだ? 現実ってなんだよ。伏線が回収されることが現実か? 教訓があることが現実か?」
「……」
「そうじゃないんだ。現実っていうのは、もっと乱雑で、理解できることの方が少ない。解釈は山のようにあり、なおかつ流動的なんだ。現実味っていうのは……物語性なんかより、ずっと大事だ」
「じゃあ、なんで物語があるんだよ! そんなのが好きなら、小説なんか読むなよな! 空想なんか価値がないって私の前で言ってみろよ!」
喫茶店には私たちしか客がいない。外はもう暗い。
「物語性っていうのは、そうだな、読者を作品に引きつける道具のひとつだ。すべてじゃない」
「物語がすべてだよ。一から十まで、作りこまれた展開に価値があるんだ!」
それは私の自己否定。大貫の言葉は、私を大きく揺さぶった。
「俺も小説は好きさ。嘘っぱちってわかってるけどな」
「だからなんだよ」
「瑞希。俺たちは、誰かの目線を気にして生きなくてもいいんだ。別にその誰かは、お前のことなんか見ちゃいない。だからお前は、格好良くなくていいし、可愛くなくていい、勇気を振り絞らなくていいし、仲間思いでなくていい」
「……」
「その『読者』とやらにこびる必要はないんだ。そいつらを楽しませる意味なんかない。どこにでもあるような、陳腐な葛藤の一人語りなんか、意味はないんだよ」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
誰も楽しませられない私の物語が、それでもいいなんて。
死刑宣告。打ち切り連載終了。そして誰にも思い出せない活字の海に消えていく。
「俺たちは、誰一人、ドラマの中にいないし。ドラマなんてものもない」
「う……う」
泣いてない。私は泣いてない。
「現実には価値がない、なんて言うなよ。別に言ってもいいけどさ。読者にとって意味がなくたって、お前は別に不幸じゃないだろ?」
――幸せなときがだらだらと続く小説があってもいいじゃんか。
と、大貫は言った。
大貫と私。喫茶店。
読者はいない。誰も見ていない。
それが私の人生。私の日常。
物語がないこの世界で、私は不幸だったろうか。
どうでもいい「イベント」ばかりだった。
それが不幸なのかな?
駄目なものだったかな?
――大貫と会った中学時代が。あのどうでもいい大学生活で。
誰を楽しませればいいのかな?
読者?
――ああ、私はそこらへんを間違えていたんだ。
読者は私だ。
取り繕っても、仕様がない。
「うぅ……っず……」
現実の私は、格好良くもなく、可愛くもない、ただ泣き虫な女子だった。
「これからどうすんの?」
「俺に聞くのか」
「うん」
「深夜バスで帰るか。東京」
「ええ」
「なんだよ」
「一泊しようよ」
「え!」
「変な意味にとるなよなー。変態」
「……」
「今日はもう疲れた」
「そっか……」
「ラーメン食いたい」
「駅前にあったな」
「おごれ」
「……てめーで払え」
「私は泣いてる女子だぞ。ラーメンの一杯くらい、おごっても罰は当たらない」
「そんなこというやつは女子じゃない」
「馬鹿じゃないの? 童貞」
「……」
「痛い痛い痛い」
「……」
「ごめん。離してって……」
「一つ、衝撃的なことを言ってやろう」
「離せつってんだよぉお」
「俺には彼女がいる」
「はあ?」
「二か月目だ」
「ふっざっけんなよ! てめえ!」
「はははははは」
「死ね! この! 死ね!」
「軟弱な蹴りだな」
「ああもう……」
「ふふん。法学の娘だ」
「黙れよ、お前」
「ああ、テストだがな」
「話聞けよ」
「有機化学のテストと、無機化学のテストは再テストしてくれるから、単位はとれると思うぞ」
「マジで! やった」
「まあ、勉強くらいしろよな」
「はー。なんか疲れたわ。寝たい」
「おい、ここで寝るなよ」
たぶん、この現実はあと六十年は終わらない。
それでも、このどうでもいい、意味のない、三流物語の主人公は、そこそこ幸せでしたとさ。
小説私。
読んでいただき誠にありがとうございました。
どんな感想でも、最高の学習材料となります。感想待ってます。