MEMORY-僕等が其処にいた物語-
私立黄林高校二年生が三人相次いで自殺
私立黄林高校二年生、小林由樹(17)、佐野達也(17)、五十嵐綾音(16)が相次いで自殺した。原因は携帯電話からのオンラインプロフィールだったようだ。三人はそれぞれ病院からの飛び降り、頚動脈を切る、学校の屋上からの飛び降りをした。屋上について学校側は職員が鍵を閉めていなかったと供述。三人は中学時代からの友達でとても仲が良かったようで、警察は殺人などの事件性はないと発表した。
どこにでもいる高校生三人がネット社会にのまれていく。自分の大切なものを守りたくて、自分を捨てていく三人。あなただったら、どうしますか?
ありがとう、さよなら。私は幸せ者です。
「おはよー」
私立黄林高等学校の昇降口。
「由樹、いつまでメールしてんの?」
黄林高校では携帯電話の使用は禁止である。
「榊に見つかったらどうするの?」
榊とは生活主任の名前。
「だーいじょうぶ。見つかるわけないでしょ」
「とかいって捕まらないでよね。今日は金曜日だよ?」
黄林高校の生活主任の榊先生は金曜日に補習をさせる。対象は携帯電話を使用したり名札を忘れたりした生徒だ。
ショートヘアの得意そうに笑みを浮かべているのは小林由樹。黄林高校2年。その隣で心配そうにしているのが同じく2年の五十嵐綾音。
「もしかしてまた『たつや』って人?」
「そうだよ」
「顔もわかんないんだよ。怖くないの?」
「怖くなんかないよ。たつやは絶対やさしい人」
たつやとの出会いは数週間前だった。由樹のオンラインプロフィールに絡んできた。由樹が知っているたつやの情報は確かに少ない。二十歳で東京に住んでいる大学生。ただそれだけだった。綾音の言うとおり、怪しいかもわからない。それでもメールしているうちに由樹は憧れと恋心を抱いていた。
「そんなのわかんないじゃん……」
「わかるよ!メールもすごくやさしいんだよ」
オンラインプロフィールを作成している女子高生は珍しくはない。むしろ作成していない女子高生の方が少ないのではないだろうか。由樹はそのたくさんの女子高生のうちの一人なだけだった。
教室に入るといつものメンバーがいる。三つ網で眼鏡の学級委員に坊主でエナメルバッグを持っている野球部員。そこはいつもと変わらなかった。
「おはよう由樹、綾音」
「おはよー」
自分の席にかばんを置いて座った。
「由樹、化学のレポート見せて」
由樹の後ろの席から声がした。
「え、またー?」
「いいだろ?」
後ろにいるのは幼馴染の佐野達也。由樹は渋々かばんからレポートを取り出した。
「丸写ししたらバレるよ?」
「ニュアンス変えるから大丈夫」
得意そうに笑うが、他人のレポートを上手く写す方法が得意でも、自慢できるようなことではない。
「おーい席座れー」
週の終わりである今朝も気だるい担任の声で1日がはじまろうとしていた。
いつもどおりだった一日が変わろうとしていたのは昼ごろだった。昼休みはいつも綾音と達也と三人でご飯を食べていた。昼休みは先生たちも職員室にいるのでほぼ教室には来ない。それはつまり携帯電話の使用できる数少ない時間となっていた。
「うっそ……」
はじまりはこの小さな一言だった。
「由樹、どうしたの」
いきなりの一言に綾音も達也もついていけてない。
「見て、これ……」
大きなコロッケパンをかじりながら達也は由樹の携帯を覗いた。綾音も椅子から立ち上がって、小さな画面を見つめた。
「なんだこのメール…」
事情を知らない達也にはそのメールがなんだかわからなかった。
「由樹、これって……」
「デートじゃない?」
由樹は嬉しそうに声を上げる。反対に綾音は心配そうな表情になる。
「デート?」
「プロフで絡んできた大学生なんだけどね」
そのメールの内容はたつやからのお誘いだった。
『今日は講義が少ないから、もしよかったら会いたいな』
「どうするの、由樹」
「もちろん行くよ」
「……は?」
真っ先に反論したのは達也だった。
「危ないだろ! 相手がどんなやつなのかわかんないんだぞ」
「それは相手も同じじゃん」
由樹は達也の意見も聞かずにたつやにメールしていた。隣では綾音も心配そうな顔をして由樹を見ていた。
「どこに行くの?」
「原宿だって! 連れて行ってくれるみたい」
由樹は幸せそうに笑った。綾音はまだ心配そうな表情で、達也はなんだか拗ねているような顔をしていた。
現地集合ということでJR原宿駅の竹下通りの入り口で由樹は待っている。たつやは由樹の学校が終わるのに合わせて午後6時30分に集合に決めた。そういうところも優しいと由樹は綾音に自慢話のように披露していた。
「もしかして、由樹ちゃんかな?」
そう声をかけられてのは集合時間を4分程度遅れたときだった。後ろから聞こえる声に由樹は振り向く。そこには長身の大学生が立っていた。
「あ、はい」
「よかった。遅れちゃってごめんね」
優しそうに微笑む大学生こそたつやだった。少し長めの黒髪と黒縁の眼鏡が似合っている。白いシャツに黒いネクタイとジーンズというシックなスタイルがさらに長身に見えた。カジュアルなリュックを背負っていて、たつやも大学から直接向かってきたことがわかる。
「いえ、ぜんぜん大丈夫です」
由樹は緊張の所為か、声が少し高くなってしまった。
「じゃ、行こうか」
スッと自然に差し出された手をとって歩き始める。
二人はそのまま竹下通りを歩いていった。歩く速度は速くもなく遅くもなく。たつやは由樹のやや前方を歩いていた。途中でたつやが自分用にシャツがほしいと言って二人で選んだ。その後には女の子の洋服を見始め、たつやは一人でいろんな服を由樹にあてては悩んでいた。それでもすぐに決めて、勝手にレジに持っていってしまった。
「はい、あげる」
「え、でもっ……」
あまりにいきなりな事だったので由樹はあまりついてきていない。
「もらってくれないと捨てなきゃいけないんだけど」
「はぁ……」
笑顔でそんなことを言われてしまうと受け取らなきゃいけない気がした。渋々由樹は茶色に白でロゴが入ったおしゃれな袋を受け取った。渋々、とはいえどかなり嬉しいに決まってる。たつやは少し強引なところもあるみたいだった。その後もアクセサリーを見ては「かわいい」と呟いてそのまま由樹にプレゼントしてくれた。
「お腹すかない?」
たつやがそう言ってきたのは7時30分ごろだった。スライド式の携帯電話を確認すると、すぐにしまった。
「もうこんな時間だったんだ……」
マイペースなたつやは由樹に何も言わずに手を引っ張っていた。
「あの、どこに行くんですか?」
自分のやや前方を歩いているたつやに聞いた。
「あんまりお金がないからファミレスかな」
ファミリーレストランなら高校生の軍資金でも足りるので少し安堵した。
竹下口から出た二人はそのまま明治通りを渋谷に向かって少しだけ歩いた。そしてすぐにあったファミリーレストランに入った。
「いらっしゃいませー」
金曜日の夜の気だるさから出てくる店員の声も気だるそうだった。窓際の席まで案内された二人は適当に注文して座っていた。
「今日は楽しかった?」
「はいっ」
由樹は幸せそうに笑っていた。憧れの大学生とデートができたということだけで女子高生には幸せすぎるくらいだ。
「そう、よかった」
その後すぐに先ほどの気だるそうな店員が料理を運んでくる。棒読みで伝票をテーブルに置いて去っていった。
「あ、そうだ。携帯貸してもらってもいい?」
「はぁ、何でですか?」
由樹は質問しつつもすぐに携帯を渡していた。
「番号も知りたくて。面倒だから赤外線で送っちゃっていい?」
「はい」
もしかしたらそのうちたつやと電話できるかもしれない。そのことで由樹は浮かれていた。お互いの電話番号を赤外線で送信しあっているので、由樹は先に運ばれてきたオムライスを食べていた。
「はい、ありがとう」
携帯を返すとたつやもスパゲッティを食べ始めた。それからは他愛のない会話で盛り上がった。たつやはキャンパスライフについていろいろ話してくれた。由樹も高校での生活主任の話や親友の話をした。
食べ終わった食器をまた気だるそうな店員がさげた。
「由樹ちゃんって面白いね」
優しそうに微笑むたつや。少し顔を赤くする由樹。だがその後の言葉は信じられないものだった。
「オレ、由樹ちゃんに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
たつやはあの微笑みを崩さなかった。
「……はい?」
「ごめんね、オレ、由樹ちゃんをだましたんだよ」
言っている意味がわからなかった。何も答えられなかった由樹だったが、いきなりたつやの後ろの席から数人の男女が顔を出した。
「おい、ネタバレはやくねぇか?」
短髪でピアスをたくさんつけている男に、化粧が濃い巻き髪の女と金髪で口にピアスをつけた女。
「だって、由樹ちゃんがかわいいんだもん」
依然として微笑みは崩れていない。どうやらたつやと彼らは知り合いのようだった。
「あの……」
「ごめんねー。これ、罰ゲームだったのよ」
たつやではなく、巻き髪の女が答えた。
「罰、ゲーム……?」
まだよく理解できていない由樹だったが金髪の女が教えてくれた。
「そう、女子高生にプロフで絡んでデートするっていうのが罰ゲーム」
「本当は部屋まで連れ込むっていう罰ゲームだったんだけどなぁ」
ピアスをたくさんつけた男が言った。つまりそれは女子高生を弄べという罰ゲームだった。
「本当に、ごめんね」
たつやは笑顔を崩さなかった。罰ゲームを課した大学生たちは後ろで騒いでいた。だけど由樹の耳には届かなかった。
「オレのことは忘れてね。アドレスもオレとしたメールも削除しといたから」
先ほど由樹の携帯をいじっていたのはそれをしていたようだ。
「お詫びなわけでもないけど、服もアクセも本当にプレゼントだからね」
「そろそろ9時になるよ。その子、送っていってあげたら?」
髪の毛に指を通してくるくると弄っている女が言った。さすがに行方不明で警察沙汰というのは避けたかったのだろう。
「そうだね。送ってくよ」
立ち上がってたつやは伝票を持ってレジまでいった。由樹もゆっくりと立ち上がって出口に向かった。
暗くなっても人がたくさん通っている竹下通りを、今度は手を繋がずに歩いた。たつやの歩くスピードは変わらず、由樹のやや前を歩いている。
「家、どこだっけ?」
原宿駅に着いた二人。
「あの、一人で帰れますから」
由樹はたつやの顔が見れなかった。
「そう、じゃ気をつけて」
由樹は走るように改札へ向かっていった。最後に見たたつやの表情も優しそうな微笑みだった。
次に学校へ行くのは月曜日だった。土曜日と日曜日を挟んだおかげでなんとか由樹は学校に行けるまでになった。金曜日の帰りの電車の中ではずっと携帯を握り締めていた。アドレス帳にも受信ボックスにも、たつやの名前はない。まるで夢を見ていたみたいだった。何もかもが上手くいきすぎていたことにも気づかずに。綾音や達也にはなんて報告すればいいのだろうか。でもそんなこと、伝えるひまさえ由樹にはなかった。
月曜日だってそんなに元気は出なかった。それほどたつやが好きだったから。
ガラガラ
教室の重たいドアを開ける。いつもなら昇降口あたりで会う綾音とも会えなかった。後ろ手でドアを閉めて前を向いた。
「……」
いつもならみんなが挨拶してくれる。だが今日はなかった。教室内にいるほとんどの生徒が自分を見ているのに。
「おはよう……」
そっと自分から挨拶をしてみたがクラスメートはひそひそと由樹を指しながらしゃべり始めた。何が起きているのかわからなかった。由樹はそのまま自分の席へと歩いていく。
「……何これ」
自分の机を見て絶句した。そこにはチョークで『学校に来るな』、『お前が消えろ』などと乱暴に書いてあった。それを見て固まっている由樹の耳にはどこかで女子生徒がくすくすと笑っているのが聞こえてきた。由樹はすぐに雑巾を持ってきて机を拭いた。元々気が強いほうだった由樹はこれぐらいでめげなかった。ただ、いつもより傷ついているのは金曜日の出来事の所為だった。
「おーい、席つけー」
一週間のはじめだというのに気だるい声を出す担任によってまた一日が始まろうとしていた。
再び事が動いたのは昼休みのことだった。いつもなら綾音と達也と三人で食べるはずなのに。綾音が来なかった。達也は由樹の後ろの席なのでそのままそこにいた。由樹は達也と食べるために後ろを向いていた。ふと視線に入ったのは達也の友達。数人で達也に何かを伝えようとしていたが、達也は気にしていないようだった。昼休み中も周りからひそひそと何かをしゃべっている声が聞こえた。
「あの、由樹……」
声をかけてきたのは綾音だった。
「どうしたの?」
はっきりいって今何が起きているのか由樹にはわからなかった。お昼ごはんを一緒に食べなかった理由でも教えてくれるのかと思っていた。それともたつやとのことでも聞きにきたのだろうか。だとしたら由樹はなんと言えばいいのだろうか、などと思考をめぐらせた。でも綾音の言葉は理解できなかった。
「由樹、ごめんね。私、由樹がそんな風に思ってたなんて知らなくて……」
「……え?」
「ごめん……」
今にも泣き出しそうな綾音。クラス中が由樹と綾音を見ていた。
「な、何言ってんの?」
一体なんのことか聞こうとすると女子が数人、綾音のところにきた。
「あたしたち由樹がそんな人だとは思わなかった」
「綾音、大丈夫?」
それぞれが好き勝手なことを言っている。それでも由樹には何が起きているかわからなかった。由樹の性格からして言われるままに聞いてるなんてことはできない。由樹は言い返そうとした。だけどそれを止めたのは達也だった。
「達也……?」
いきなり立ち上がった達也に困惑する。
「おい、達也、そいつの見方なのか?」
「見方とかそういうんじゃねえよ」
達也も苛立っているようだった。
「じゃぁ、佐野くんも綾音のことあんな風に思ってるの?」
他の女子たちもざわつき始めた。
「由樹、帰るぞ」
「え……?」
達也は自分と由樹のかばんを持つと強引に由樹を引っ張って教室から出てった。後ろからクラスメートの声が聞こえてくる。その言葉を達也はまるで聞いていないようだった。
二人は学校を飛び出して家の近くの公園まで来た。線路沿いにある公園で、砂場やブランコ、バスケットゴールもあった。その公園の東屋でようやく達也は口を開いた。
「お前、本当にあんなこと思ってたのか?」
達也からもわからない言葉が出た。
「ねぇ、あんなことって何のこと。私、わかんないんだけど」
綾音が言っていた『そんな風』だってどんな風かわからない。クラスの女子が言っていた『そんな人』だってどんな人だかわからない。達也の『あんなこと』とはどんなことなのだろうか。
「わかんないって……。プロフ見たか?」
そういえば金曜日からオンラインプロフィールを見る余裕なんかなかった。由樹はすぐに携帯電話を取り出して、自分のプロフィールにアクセスする。小さな画面に写されるのはいつもの自分のプロフィールだった。親指ひとつでスクロールしていくと、いつもと違うものが見えてきた。
「え……?」
そこは『好きな女性のタイプ』の解答欄。
『自分のことをわかってくれる人』
そこまではいつもどおりだったのに。
『綾音ありえない』
書いた覚えのないことが並んでいる。
『仲良くないのに勘違いしてんじゃないの? 本当にうざい。学校来なければいいのに』
思わず携帯電話を落としそうになった。なぜこんなことになっているのだろうか。
「私、こんなこと書いてないよ……」
「やっぱり、由樹がこんなこと書くわけないよな」
だと、すると一体誰が。オンラインプロフィールはユーザー名とパスワードがなければログインできないはずなのに。由樹はユーザー名もパスワードも誰かに教えた覚えなどない。
「なんで?」
由樹は混乱して涙まで流していた。綾音のことをそんな風に思ったことだってないのに。綾音や、クラスの女子が言っていたことも理解できた。
「とりあえず、はやくプロフ消したほうがいい」
「うん」
オンラインプロフィールはリンクからいろいろな人へとつながっている。また、オンラインということで誰にでも見れてしまう。由樹は少し震える指でページを削除した。
「……大丈夫か?」
無言で頷く由樹の頭を達也が撫でた。それからどんどん涙を流す由樹をやわらかく抱きしめた。
まさかこれで事が終わるわけがなかった。火曜日に学校へ行くとまた机にいろいろなことが書いてあった。
『お前のほうがありえないよ』、『勘違いしてんのはお前だ!』
でも由樹はまだめげなかった。綾音が傷ついているのも自分の所為だけど、でも誤解は解きたいと思ったから。
「みんな聞いて!」
由樹は机の前で大きな声を出した。くすくすと笑っていた女子たちも静かになった。胸の前で拳をぎゅっと握る。
「プロフに書いてあったことは私が書いたんじゃないの」
勇気を出して言葉を発した。でもそれはすぐに返された。
「じゃあ、誰が書いたっていうのー?」
「嘘下手すぎでしょ」
再び教室に嫌な笑い声が響いた。
「誰が書いたかはわかんないの。でも本当に私じゃない!」
心臓が押しつぶされそうになるぐらい怖かった。それでも勇気を出して言ったのに、すでに誰も由樹の言葉を聞いてる人はいなかった。たくさん人がいるのに、教室には自分一人だけしかいないみたい。由樹はハンドタオルを濡らしてきて、机上を一生懸命拭った。
昼休みになると数人で机を囲んでお弁当を食べる。由樹はいつものように後ろを向いて達也と食べていた。
「もしかしたら、あの人かもしれない」
「え?」
思いついたのはオンラインプロフィールで絡んだ大学生。一時的とはいえ、携帯を預けた。考えたくはなかったが、思い当たるのはそれだけ。手馴れた手つきで自分の携帯を弄っていた。
「なんのためにだよ」
「罰ゲーム」
由樹は即答した。もしかしたらあの罰ゲームにはそんなことまであったのかもしれない。でもすでにたつやのアドレスもない。連絡はできないのだ。大体、証拠すらない。由樹にはどうすることも出来なかった。ただ、いつか綾音が、みんなが信じてくれるのを待つだけだった。
気が強い由樹でも、どんどんエスカレートする嫌がらせには耐えられなかった。
由樹がトイレに入ると上からトイレットペーパーを投げ入れられた。その間に筆箱の中身をゴミ箱へ捨てられていた。それでも負けずに学校へ登校していたある日のことだった。
体育の後、着替えを隠されたりしていたらどうしようかと考えていた。だが、着替えはちゃんとあった。トイレで着替えてすぐに教室へと戻った。
「え……?」
そこに由樹の机はなかった。この教室に自分の居場所がない。机があったはずの場所で立ち止まると、クラスの女子がくすくす笑っている。また彼女たちの仕業なのだろう。男子たちもにやにやしているのが見えた。由樹は教室を見回した。だがどこにも自分の机らしきものはない。由樹はすぐに廊下へと出た。右か、左か。廊下を見渡すと、ロッカーの隣に机が見えた。もしかしたらあれが自分の机かもしれない。由樹が机の元へ歩き出そうとした瞬間だった。
バシャンっ
由樹は一歩しか動けなかった。ポタポタと髪の毛から垂れる雫。後方から思い切り液体をかけられた。ポタポタと垂れるその液体を見ると真っ赤だった。
「きゃぁぁっ」
思わず目を瞑った。クラスからたくさんの生徒が顔を出して笑っている。由樹はしゃがみこんだ。ゆっくりと目を開く。それは鮮やか過ぎる赤。ただの絵の具を溶かしただけのものだったのだろう。匂いもしない、ただの水。
由樹が振り向くとバケツを持っている男子とその隣で腕を組んでいる女子がいた。由樹は耐えられずにその場から逃げだした。
その日から、一切由樹は学校に来なくなった。クラスの雰囲気はぎこちない。表面ではみんなやっといなくなった、などと言って強がっているが、内面やりすぎてしまったのではないかという気持ちがあるのだろう。由樹が来なくなってからも、達也は由樹の弁解を続けた。あれは由樹が書いたものではないのだ、と。そして達也は毎日、由樹の家に行った。由樹には会えなかったが、インターホン越しにいろいろなことを話した。夜も電話して由樹を説得しようとし続けていた。
人間とは弱いもので、群がらないと生きていけないのかもしれない。また、自分よりも弱い者を見つけないと情緒が不安定になってしまう。群がるくせして一人ずつ蹴落としていく。一人目のターゲットがいなくなると、すぐに二人目のターゲットを見つけ、群がりながら蹴落としていく。
二人目のターゲットは、達也だった。
朝、いつも通りに登校すると達也の机がなかった。達也が未だに由樹を心配するのが嫌だったのだろうか。だが、達也は強かった。くすくすと笑っているクラスメートの間を通り抜けて教壇に上がった。そして思い切り黒板を殴った。
物凄い音がした。クラス中が静まり返って達也を見た。
「お前ら、いい加減にしろよ」
達也は無表情だった。
「綾音、お前だってわかってんだろ? 由樹があんなこと書くわけないって」
綾音は俯いていた。女子は互いに顔を見合わせ、男子は気まずそうな態度をとった。そんな弱い人間というものを前にして、達也は苛立っていた。
「あそこまでする必要があったのか?」
「でも、綾音の悪口書いたのはあっちじゃん!」
「あれは由樹が書いたんじゃない」
数人の女子が立ち上がって達也に対抗した。
「由樹のプロフなんだよ。由樹が書いたにきまってるじゃん!」
「そうだよ!」
クラスのほとんどが、そうだそうだ、とざわついた。それを静かにさせたのは達也ではなく、綾音であった。
「違うよ!」
達也を含む全員が綾音を見た。
「由樹じゃない。由樹じゃないよ。あんなこと、書かないよ」
最後のほうは消え入るような声であまり聞こえなかった。だが、綾音の一言で再びクラスの雰囲気ががらりと変わった。
学校に行かないとここまでつまらないものだとは思わなかった。早寝早起きなど気にせずに自由に過ごせる。だけどその分、一人でつまらなかった。食欲はわいてこないので食事なんかとらなかった。ただ何もしないでいるといろいろなことを考えてしまう。そのうち自分が本当に嫌になる。綾音を傷つけていたのも、結局は自分なのだ。あんなに心配してくれていたのに。どうして自分は……。後悔ばかりが溜まっていく。
そんな考え事をしていると落ち着かなくなる。由樹は少し落ち着くために携帯電話を開いた。暇なときは自分のプロフィールを見たり、掲示板に書き込んでくれた人に返事を書いたりしていた。だけどもうそれはない。小さな画面でサーフィンしているとクラスの女子のプロフィールへと辿りついた。ゆっくりとスクロールしていき、リンクにあったリアルを見た。リアルタイムに更新される日記なら学校のことなどがわかるかもしれない。砂時計のマークが表示されて、すぐに画面が更新される。由樹の目に映ったものはとても残酷なものだった。
『達也うざい。いつまであの女の肩もつんだろう』
そのすぐ下に追記があった。再び砂時計のマークが現れてすぐに消えた。
『机探してる達也最高だった』
そのあとには楽しそうな表情の顔文字が書いてある。由樹はすぐに携帯電話を閉じた。放心状態だったがすぐに目からは涙が湧いてきた。自分の所為で傷ついた人がまた増えた。とても大切な二人を、自分の所為で傷つけている。綾音も、達也も。
ベッドに寝転がり再び携帯電話を開く。目からは留まることのない涙。Eメールメニューを開く。一番上の新規作成をする。宛先は綾音。
『たくさん謝らなきゃいけないことがあります。綾音の言うことをちゃんと聞いてればよかった。傷つけてごめんなさい。今までずっと一緒にいてくれてありがとう。本当に嬉しかった。私は幸せ者です。ごめんなさい。ありがとう。ばいばい』
由樹はメールを打ち続けた。次の宛名は達也だった。『今まで一緒にいてくれてありがとう。心配させちゃってごめんなさい。私のことで傷つけてごめんなさい。綾音と達也と一緒にいれたこと、嬉しかったです。私は幸せ者です。ごめんなさい。ありがとう。ばいばい』
送信ボタンを押すと2秒で送信完了が出た。そして携帯電話を閉じる。それとともに由樹はゆっくり瞳を閉じた。
その日、由樹は精神病院に入院した。いつものように達也が由樹の家へ行くと、由樹の母がいた。由樹居場所を告げたのは由樹の母だった。達也は由樹の家の前で立ち尽くしていた。
「達也っ」
走ってきたのは綾音だった。
「ねぇ由樹は?」
黙ったままの達也に綾音は続けた。
「私、話がしたいの」
「……由樹は閉鎖病棟だって」
閉鎖病棟。そこは患者と会うこともできなければ、携帯電話なども使用禁止だ。つまり由樹とコンタクトをとることはできない。
「このメール……」
二人に宛てられたのメールの最後に『ばいばい』と書いてあった。
「そういうことだったのか……」
行き場のない怒り。それは自分に対してだった。綾音は自分の携帯電話を握り締めて俯いていた。その瞳からは少しずつ涙が流れていた。
「オレたちは、遅かったのか……?」
自分が行動を起こすのは遅かったのだろうか。もっとはやかったら、由樹にこんなメールを打たせなくてもすんだのだろうか。
「遅かったっていうのかよ……」
怒り、悲しみ、後悔。たくさんの感情が身体を渦巻いていた。
それから2日後。由樹は閉鎖病棟の屋上から飛び降りた。
6階建のそこから飛び降りた。それは確実だった。
葬列には綾音と達也の姿があった。何が起きたのかわからず、二人は放心状態で式に出た。涙なんか出ていなかった。遺影にはあの気が強そうな笑みを浮かべた由樹がいた。
その後二人は何も喋らずに線路沿いにある公園へときた。東屋のベンチにはあの時の由樹がいるみたいだった。やがてクラスメートが集まってきた。そこに由樹はいない。
「ごめんなさいっ」
クラスの女子がまるで天に叫ぶようにして崩れ落ちた。静かだった均衡の糸が契れたようにみんな叫び始めた。子どものように大声をあげてなき始める女子。男子も涙をながして唇を噛んでいた。
「ゆきぃ!」
線路の上を電車が走った。だがそれにも負けないくらいの大声で泣いた。綾音もしゃがみこんで泣いた。制服の袖をたくさん濡らしている。
「っ、由樹……」
達也は空を見ていた。瞳からはたくさんの涙が零れている。強く握った拳が震えていた。由樹が最後に綴った『幸せ者です』という言葉が脳裏を過ぎる。こんなことになってしまった由樹は本当に幸せだったのだろうか。もし自分が隣にいてあげるだけで幸せだというのなら、いくらでも一緒にいてあげるのに。それでも今自分にできることは由樹がくれた思い出を忘れないでいるということ。
「由樹がくれた思い出、忘れない」
目を瞑ってたくさんのことを思い出す。つい先日までは隣で笑っていた。隣で泣いて、けんかした。その由樹が自分から別れを告げたのなら、自分は受け取るしかできなかいのかもしれない。
「じゃぁな……」
空に向かって呟いた。それは返せなかったメールの返事。公園からはいつまでも泣き声が聞こえていた。
由樹が閉鎖病棟から飛び降りて四日。達也が自宅で自殺した。お風呂場で、脈を切った。一番最初に発見した母親は、かなりの鬱病になってしまったそうだ。葬列にならぶ綾音の瞳にはもう光が写らなかった。
「綾音、大丈夫?」
「綾音の所為じゃないよ」
クラスメートに何を言われても、綾音の耳には届かなかった。涙も出ない。こんなに眼球が乾いたことはなかった。
由樹は自分のオンラインプロフィールが原因で自殺した。そこには書いてもない綾音に対しての悪口が書いてあったのだ。綾音と由樹は親友だった。だからもちろん綾音だって由樹が書いたなどとは思っていなかった。それでも、本当はいつも我慢していたんじゃないかって心配になって、綾音はなかなか言い出せなかった。由樹が自殺したのは自分の所為だ、そう思っていた。だが、そう思っていたのは綾音だけじゃなかったのだ。達也もだ。達也はすぐに気づいてあげられなかったのだと、気負っていたんだ。
ずっと三人でいたのに、どこから崩れてしまったのだろうか。達也は自分を責めて、責め続けた結果、自殺した。つい一週間前までは三人でふざけて、笑って、普通の高校生だったのに。
ガラガラ、と教室の重たいドアを開ける。クラスはあまりにも静かだった。綾音は静かに自分の席に着く。
「綾音、大丈夫?」
みんな同じことを言う。でも、綾音には何のなぐさめにもならなかった。それどころが怒りが募ってくる。
「どうして? なんで今更そんなこと言うの?」
大きな音を立てて綾音が立ち上がる。
「あの時、由樹には言ってくれなかったじゃない」
「綾音……」
「なんで、由樹に大丈夫って言ってくれなかったの」
長い髪を振り乱している姿は以前の綾音とは全くといっていいほど違った。あんなに大人しく、優しい存在だったのに。
「それともやっぱりみんなも、私が二人を殺したと思ってるの」
静かになった。これはやはり、肯定ということなのだろうか。
「私もいなくなればいいって、思ってるんでしょう!」
「そんなこと思ってない」
「私が殺したのよ、二人のことっ」
綾音は走って教室を出て行った。教室からは何人かの生徒が名前を呼んでいるようだった。それでも今の綾音には何にも感じなかった。
バッグも持たずに教室を出てきてしまった。持っているのは携帯電話だけ。たどり着いたところはあの公園。由樹がいなくなった日、みんなで来て、泣いた公園。
「私、何してるんだろう」
みんなに八つ当たりしたって、誰も戻ってきてはくれないのだ。綾音は携帯電話を握り締めた。携帯電話にはビーズで作られたストラップがついている。それは三人でお揃いにしたもの。そっと指でなぞるけれど、涙はまだ枯れている。
携帯電話なんて作られなければよかったのに。いつもは便利だなんて思っているし、無くなってしまえば困るに決まってる。けれど、全ての原因はこれ。この小さな機械。この小さな機械から大きな世界を毎日旅している私たちにはたくさんの危険が迫っていたんだ。今では携帯電話を開くだけで、手が震えている。
「はぁ……」
しばらくしてから綾音は大きくため息をついて、立ち上がった。いつもでもここにいてはいけない。ちゃんと一歩ずつ前に進まなければならない。それが由樹や達也のためだと思うから。でもそれは本当なのだろうか。自分は今、どこに進みたいと思っているんだろう。ちらちらと見える答え。綾音はそれを全否定することはできなかった。
学校へ戻り、授業へ出ては見たものの、何も頭に入ってこない。教室の空気はおかしい。やりすぎたと思うならやらなければいいのに。どうして人間はこんなにもおろかなんだろうか。失敗だと気づいていても、それを止められないんだ。
由樹と達也の机の上には小さな花瓶が置いてある。それがさらに教室の空気を重たくしている。興味のない授業中は他のことを考えてしまう。由樹と達也と一緒にいたときのことばかり、脳裏によみがえる。二人の笑顔を思い出しながら、もう二人に会えないんだと自分に言い聞かせていた。また、三人で遊びたい。どうすればいい? 私は、どうすればいいの? 教えてよ。じゃないと本当に、狂いそうだよ。
昼休みになり、クラスの雰囲気はなんだか以前と変わらない。少し重たいかもしれないが、いつもの雑談が聞こえてくる。綾音はぼうっと二人の席を見つめていた。小さな花瓶に一輪ずつの花。窓際のあの席。カーテンが真っ白で、なんだかそこだけ病室みたい。二つの花瓶を見つめていると吸い込まれそうになった。
綾音ははっとしたように立ち上がると二人の机の上の花瓶をとった。それから何も言わずに教室を出て行ってしまった。クラスのみんなは綾音を見ていたけれど、誰一人として追いかけようとはしなかった。もう過ちを犯したくないと思うのと同時に、もう、関わりたくないとも思っていたからだ。
綾音が向かったのは屋上。昼休みなのにそこはとても静かだった。屋上の端へ行って足元に花瓶を置くと、ゆっくりとした動作でポケットから携帯電話を取り出した。それから手紙マークを押して新規作成を選ぶ。宛先は二つ。由樹と達也。
『二人ともいなくなって寂しいよ。でも大丈夫! また三人で遊ぼう? すぐに私もそっちに行きます。待っててね』
綾音は携帯電話を高く振りあげた。それから雲が千切れている空に向かって、笑顔で送信ボタンを押した。送信中の文字が消えることはなかったが携帯電話を閉じる。以前の優しそうな綾音の笑顔が、そこにはあった。
「そうだよね、寂しくないよ。私もすぐに行けばよかったんだね」
二つの花瓶と携帯電話を握り締めて、綾音はすぐに屋上から飛び降りた。風を正面から受けて、それはまるで空を飛んでいるようで。綾音は幸せそうな笑顔で。空がすごくきれいだった。綾音の長い黒髪がきれいに靡いている。次はこの空の上で一緒になれる。綾音の涙は空に飛んだ。
「また、三人だね……」
私立黄林高校二年生が三人相次いで自殺
私立黄林高校二年生、小林由樹(17)、佐野達也(17)、五十嵐綾音(16)が相次いで自殺した。原因は携帯電話からのオンラインプロフィールだったようだ。三人はそれぞれ病院からの飛び降り、頚動脈を切る、学校の屋上からの飛び降りをした。屋上について学校側は職員が鍵を閉めていなかったと供述。三人は中学時代からの友達でとても仲が良かったようで、警察は殺人などの事件性はないと発表した。
FIN
MEMORY-僕等が其処にいた物語-
高校二年に上がった春、私の前の席はいつも空席でした。気がついたら退学していて、欠番になっていました。空席に座るはずだった彼女は、ネットにおける問題に巻き込まれて、退学したそうです。その一年はずっと、その子のことを考えていました。どうしてそんなことになってしまったのか、退学するという最後しか残っていなかったのか。そう考えていたときに書いた物語です。ネット社会は楽しさだけでなく、恐怖がすぐそこにあること、考えてほしいです。