He&Iの食事
数年前に一度連載というのをやってみようと思い某SNSサイトで知り合いに向けて発信していた小説を発見したのであげてみます。すでにこれを書こうと思った動機は覚えていませんが、一度このタイプ(人称が変化する)のものを書いてみたかったのだと思います。
He 1
彼は電車に乗った。都市部にある大型家電量販店へ向かうためである。
車両の扉脇の手摺と座席に挟まれた窮屈な空間。そこに身を寄せ、ほくそ笑む。車両を埋め尽くす人間の多さにほくそ笑んだ。
彼の目的は、冷蔵庫を買うことである。彼の家に冷蔵庫がない訳ではない。しかしそれは、単身者を購買対象に製造されたものであり、今後を考えると明らかに力不足であった。
彼の欲する理想の冷蔵庫像。それは純粋に貯蔵量の多い物。機能性などは必要としない。デザイン性も必要ない。ただただ、食品保存機能を有する大容量の箱でさえあれば良い。
彼の要求を満たす冷蔵庫は、地元の家電量販店には存在しなかった。容量条件を満たすものは存在したのだが、家庭での使い勝手の良さを考え細分化された収納スペース。それが気に入らなかった。繰り返しになるが、彼は冷蔵機能を有する巨大な箱が欲しかったのだ。それゆえの本日の外出であった。
彼を乗せた列車は約三十分間走行し、乗客の全てを吐き出した。そこには、他にも数多くの列車が停車している。空の彼方から望めば、この駅は心臓のように映ることだろう。この場所に各地から、はたまた各地へと線路は延びている。それらの路線はさらに随所で、さらに細かく毛細血管のように分岐して行く。まるで動脈のように、静脈のように張り巡らされている。
この地方を代表する都市に降り立ったのだ。
人波に流されながら改札へと歩みを進めた。改札を通り過ぎた後も変わらず流される。彼が足を止めることを許されたのは、横断歩道の手前であった。赤信号である。
慌てて人込みを掻き分け脱出。しかし、抜け出した先にも人波はある。この街はまるで海流のように複雑に人が動き回っている。幸いにも新たな流れは緩慢なものであったので、何とかそれを泳ぎきることができた。縦横無尽に流れる人波から外れたこの街のデッドスペース。建物と建物が作り出す僅かな空間へと泳ぎ着いた。
彼の様子が証明しているように、彼はこの街に慣れてはいない。彼は焦っていた。ここまで流される間に、すっかり現在地を見失っていたのである。まだ、自分が駅の周辺にいることは分かっていた。だが、いつも使っているルートから外れてしまった今、量販店に辿り着ける自信はもはや存在しない。それどころか、改札にすら辿り付けないかもしれない。
駅構内は他施設との融合を果たし、さらに地下は蟻の巣の如き複雑な地下街で構成されているのだ。彼の脳裏には『ラビリンス』の文字が浮かび挙がった。想像は想像を呼び、彼はその場に蹲り、頭を抱えて震え始めた。妄想の翼は遂に世界の終りにまで達し、思わず叫びかけた瞬間。
「大丈夫ですか?」
声が彼に降りかかった。
彼はビクリとし、恐る恐る顔を上げる。見下ろす視線と見上げる視線が交錯する。彼は声の主と思しき巨大な存在に怯えた。身を動かすことは叶わず、声を出すこともできなかった。
「大丈夫ですか?」
再びの問い掛け。恐怖を抱かせる声。まるで怪鳥のような高音。長く垂れ下がった髪。
大きく見開かれた双眸から視線を逸らすことができない。彼の鼓動は次第にテンポを上げていく。それに伴う大量の発汗。頬を伝い顎に達した水滴が音も無く滴り落ちた。
彼は叫んでいた。緊張の糸が音を立てて切れたのだ。彼は駆け出していた。彼に声をかけた少女を突き飛ばし、人海に飛び込んだ。
彼が落ち着きを取り戻したのは、トイレの個室の中だった。どこをどう来たのか、彼には皆目見当が付かない。しかし、彼はこの場所に覚えがあった。目的地、家電量販店地下一階。彼はこの店舗を訪れる度に、ここで用を足していたのである。
彼はおっかなびっくりトイレを後にした。
フロアーガイドを確認し、生活家電売り場の位置を把握。エスカレーターを使い、ぐるりぐるりと三階まで昇る。相も変らぬ広々とした売り場に圧倒されつつも、そぞろ歩く。その内に冷蔵庫を専門に扱っている区画に辿り着いた。一通り冷蔵庫を見て廻る。だが、ここにも彼の欲するものはなかった。どれもこれも中を仕切られ、折角のスペースが台無しだと彼は思った。
彼は理想とする形状を思い浮かべてみた。直方体。家庭で使われているように縦長に設置するのではなく、横長に設置するもの。内部に間仕切りは存在しなく、保存方法は冷凍。寸法は、横一七〇〇ミリ・奥行き六〇〇ミリ・縦……縦にはそれほど拘りはない。保存するものは、分割するであろうから、融通は利く。
彼はここまで考えた時に気が付いた。どうやら、自分が求めているものは家電と言う括りには入らないであろうことに……。
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I 1
ブラウン管テレビの電源が入る音が聞こえた。薄っすらと目蓋を開き、部屋を見回す。十畳の部屋に疎らに配置された家具。それらに一通り視線を向け、壁に掛けられたカレンダーに目を留めた。さて、今日は何日だっただろう? と考える。
「――五月十七日――」
答えに行き着く前に、今日が月曜日であることを告げられた。今日の天気は聞くまでもなく雨。取り込み忘れた洗濯物が雨曝しになっているのを見れば一目瞭然だ。
時刻は午前七時と数分。時計を見ずとも分かる。テレビは毎朝ちょうど七時に目を覚ます。タイマーをかけ忘れる事が無い限り、正確に私を起こすのである。
習慣通りに玄関とキッチンを兼ねるスペースに移動し、トースターに食パンを放り込みスイッチを入れる。焼きあがるまでの時間を利用して身支度。あらかたの準備が整う頃には、芳ばしい香りが部屋に充満していた。
テレビをBGMに食事を始める。料理本を開き、ラムステーキウンブリア風のページを眺めていると自然と心が沸き立つ。グツグツのワクワクである。
私はこれまで料理という物をほとんどしたことがない。そんな私がどうして料理に興味を持ったのか? 何故かその答えが出てこない。本当に唐突に料理を作りたくなったのだ。さらに不思議な事に、脇目も振らずに目が向かうのは、特定の分野なのである。それは、和洋中などのジャンルというよりも肉料理。それも一般に臭みの強いと言われている獣の肉料理なのである。
「――八時――」
夢中でレシピに目を通している内に、アパートを発たねばならない時間が近づいていた。食パンはまだ三分の一ほど残っている。私は慌てて、残りを胃袋に押し込んでから扉を開いた。
スーツを着込み、電車に揺られて向かうは株式会社ソウカイ。私の務め先である。目的地に電車が到着するまでの三十分間を無為な思索にあてる。満員電車の中でできるのは、これぐらいのものであるからだ。本を開くには窮屈だし(とは言え新聞を読む剛の者もいるが)、携帯を弄り回すのも趣味ではない。であるから私は無意味に考えるのだろう。
車内に満ちる不機嫌そうな顔。どうして誰も彼もが、こうも難しそうな顔をしているのだろう。ちらりと車窓に視線を向ける。私の表情は幸いにも、その例に漏れていた。しかし、溌剌としているかと言えばそうでもない。端的に言えば無表情である。……周りから見れば、やはり私も不機嫌な顔の一群に属しているのだろう。このような顔の原因は雨の所為だろうか? はたまた、月曜日だからだろうか? 後者の比重が大きいような気がする。再び労働の時間が始まることが辛いのだろう。私の場合は辛いというよりも退屈なのだ。七日間という期間を一括りにして、同じように繰り返す。まるでネズミになり、固定された車輪を回し続けているかのような気分。まるで進んでいる感じがしない。確かに細部には変化はある。しかしそれは結局、履いている靴の色が変わったようなもので本質は同じように感じるのだ。
馬鹿げた事を考えている間に三十分は過ぎ、何の面白みもなく勤務時間十分前にタイムカードを押していた。
この会社に勤め始めて恐らく三年になる。そして我社は、たぶん繊維を扱っている。商社ではなく、メーカーだと思う。曖昧な表現が続いているが、実際に曖昧なのだ。これは私が職務に不忠実な訳ではない。別にこれらのことが曖昧であっても仕事に支障がないからである。
私が属する部署は経理部である。持ち込まれる書類を精査し適切に処理する。その過程において、あれらの情報は曖昧であっても問題ない。ただ、適切に処理すればいいのだ。そう、まるで機械のように。
十二時半。つまり昼休みが始まった。
社員食堂でいつも通り日替わり定食を食べる。日替わり定食を選ぶのは、新鮮さを求めてというよりも、社食のメニューに興味がないから、最初に目に入るこれを注文するのだ。そもそも、ここの日替わり定食は月曜日は月曜のメニュー、火曜日は火曜のメニューといった感じで固定されている。新鮮さなど皆無である。
食事を終え一息。有り体に言えば、ぼーっとしていた。
「鏑木さん、どうしたんですか? 難しい顔をして。何か悩み事ですか?」
呼びかけに応じて振り返ると、見覚えのある顔がそこにあった。職場の同僚である。
「ああ、鈴木さん」
実は名前が出てこなかったのだが、口を開くと自然と相手の名前を呼んでいた。
「大したことじゃないんだけど、新しい冷凍庫を探しているんだ。でも、なかなか好みのものが見つからなくてね。それで、どうしたものか? と悩んでいたんですよ」
私は別に悩んでいた訳ではないのだが、これまた自然と言葉が出てくる。すると不思議なことに、私は冷凍庫について悩んでいたのだという気になっていた。
「駅前の大きなお店には行ってみました? あそこなら気に入る物が見つかると思いますよ」
「行きましたけど、見つかりませんでした。どうやら僕の探している物は業務用の部類に入るようで」
「業務用ってことは、大きな物が欲しいんですか? でも、どうして? 鏑木さん一人暮らしですよね?」
「そうですよ、一人暮らしです。僕はこれまで無趣味だったんですけど、最近無性に料理がやりたくなってね。それで、どうせ始めるなら本格的に材料を揃えてやりたい。それで手始めに設備を整えようと思ってるんですよ」
矢継ぎ早の質問に私は、スムーズに応じることができた。が、これも先程同様に、舌が自然と回ったのだ。考えながらだと、こんな風には喋れない。私は基本的に口下手なのである。
「それだったら、ネットなんかで探してみたらどうですか? 最近は何でもありますから……」
鈴木はまだ何か言っているが、私は、鈴木との会話に意識を向けるのを止めた。しかし、この提案のお陰で今後の行動の指針が立った。鈴木に感謝の言葉と笑みを送りながら、豊かな食生活に思いを馳せた。
帰宅するとすぐに押入れを開き、捜索を開始した。埃の舞う中を引っ掻き回し、上半身をすっかり汚した頃に漸く目的のダンボール箱を発見したた。箱を再度確認する。『VAIO』の文字。間違いなくこの箱である。
箱の中身はノートパソコン。大学の入学祝いにと両親に貰った物なのだが、たまに課題を片付けるためにワープロソフトを使ったぐらいでほとんど新品同様だ。すでに生産から七、八年が経過しているが、WindowsXPと液晶モニターに浮かび上がり、Windows特有の音と共に無事に起動した。
ブラウザーのアイコンをダブルクリック。待つまでも無く、画面に表示される『Internet Explorer ではこのページは表示できません』の文字。その段になって、プロバイダーと契約をしていなかったことを思い出した。
仕方がないのでネットを諦め、夕食を摂ろうとコンビニのビニール袋に手を伸ばした。袋を開くと、豚生姜焼き弁当の上に一枚のチラシが乗っている。
『インターネットカフェ 一時間280円!!』
帰りに道で渡されたチラシである。内容も見ず、袋に放り込んだ物だ。チラシによると、この店はチェーン経営をしており各所に店を出しているようだ。しかし残念ながら、私のアパート近辺には出店していない。だが、私は思い出していた。最寄り駅の近辺にもインターネットカフェがあることを障害が除かれたので、ゆっくりと夕食を摂ってから外出することにした。
その店舗は、雑居ビルの三階で営業していた。ビルの前に看板が出ているが、申し訳程度の物でほとんどの人に気付かれていないのではないだろうか。私自身、今度のことがなければ記憶の底で眠っていたことだろう。よく引揚げたと自分を褒めたくなった。
薄汚れたガラス張りの扉には『インターネット・漫画喫茶』と書かれている。その門構に排他的な印象を受けつつ、扉を潜った。すると、すぐそこが受付になっていた。
「……いらっしゃいませぇ。えーっと、当店の利用は初めてっすか?」
やる気のない顔つきの店員が、投げ遣りな態度で応対してくれた。私が初めての利用である旨を告げると、彼は店のシステムについて教えてくれた。
「料金は最初の一時間が四百五十円でぇ、後は延長十五分毎に百円になります。……ああ、それと今の時間からならナイトパックっていって、朝の七時まで千五百円でいけますけど、どうっすか?」
話し方はさておいても、仕事はきっちりとこなすようである。朝までこの場所にいる気はない、さりとて一時間で目的の物が見つかる保証はない。そこで、私はとりあえず二時間程いるつもりであると受付に告げた。すると受付は、レジに何かを打ち込むとレシートを渡してきた。
「帰る時に渡して下さい。精算しますんでぇ。あ、お客さんの部屋は二八番ね」
カウンターテーブルに張られている店内見取り図で部屋の場所を確認する。それによると、店内には五六の個室があるようで、それらは四列に分けられ、さらに各列を中心で区切られ、左右に七室ずつ配置されていた。入り口から向かって右奥手前から一号室、二号室と連なっている。私に割り当てられた二八号室は右から二列目、左側の一番奥に位置していた。
部屋とは名ばかりのせせこましいスペースに潜り込むと、早速パソコンの電源を入れた。ブラウザーを起動すると、見慣れない検索サイトのような物が表示される。内容を少し読んでみると、宣伝も兼ねたこの店独自のサイトであることが分かった。そのサイトにもWeb検索機能がついているようなので『冷凍庫 業務用』と打ち込んで検索をかけてみる。すぐに大手検索サイトの検索結果表示画面へ移動した。よく分からないが、そのようになっていた。
ずらりと並ぶ冷凍庫・冷蔵庫・業務用の文字。それらを一つ、また一つと覗いて行く。時々、検索ワードを入れ替えながら、多くのページを巡り、漸く満足のいく通信販売サイトに辿り着いた。
そして発見した理想に近い品。内寸、横一四六〇ミリ、奥行き五〇〇ミリ、縦六八〇ミリ。冷却温度マイナス二十五度。有効容積四六四リットル。価格は送料無料の十七万一千五百円である。
さて、問題は注文方法であるが、メールによる注文・ファクスによる注文・電話による注文が可能であるようだ。
しかし、私に選択できる方法は電話による注文しかなかった。私は会社に貰った仕事用のメールアドレスしか持っていない。それを使うのは不適切に思えたし、何よりも何時でも自由に使えるパソコンを持っていない。そして、ファックスも持っていなかったからである。
電話をかけようかと思ったところで、本日の電話受付が終了していることに気が付いた。残念ではあるが、明日の昼休みでも回すことにしよう。そう思うと明日が愉しみで仕方がない。
私はただネットカフェで時間を過ごしただけであるのに、何故か、ちょっとした冒険をしたような高揚感に包まれていた。
次の日の昼休み。早速業者に連絡を入れ、目的の品番を告げた。
「数日中に注文書と振込み用紙を送付致しますので、内容に誤り御座いませんようでしたらお振込み下さい。確認が出来次第、商品の方を配送させて頂きます」
待ち遠しい時間が流れ、問題の封書が届くとすぐに料金を振り込んだ。それから、再び冷凍庫が届く日を今か今かと待ち望みながら過ごした。しかし、その間をただ無為に過ごしていた訳ではない。様々な料理本に目を通し、必要と思った調理器具を次々と買い込んでいった。
冷凍庫が到着する頃には、閑散としていた私の部屋はすっかり物で溢れ、料理人の部屋と化していた。冷凍庫を筆頭とする趣味の品々に関する出費は馬鹿にならない額になっているが、これまで無趣味で出費という出費がなかったので何とか払いきることができた。
私はその時初めて、仕事をしていて良かった。今まで趣味を持っていなく良かったと思えた。
さて、問題の冷凍庫であるが、こいつを部屋の中へ搬入するのには苦労させられた。狭い玄関を通すことができなかったのだ。この事態は、玄関ではなく窓から入れることで解決した。窓というのは洗濯物を干すための庭――庭と呼べるほどのスペースはないのだが他の呼び方を知らない――に面している大きな物だ。しかし、それでも二枚の窓を取り外さなければならなかったし、目隠しのための植木に擦れ、冷凍庫・植木を共に傷付けることになってしまった。もっとも、外観には興味がないので問題はなかった。ただ、枝が折れた植木は、私の物ではないので大家から文句を言われるかもしれない。
それはさて置き、この解決策を示唆してくれた運送業者にはいくら感謝しても足りない。そして、アパートの一階に部屋を決めた自分自身をも褒めたくなった。
料理を始めようと決めて以来、自分の金銭面を初めとする生活習慣、過去の選択に至るまで、前向きに捉えられることばかりだ。あまつさえ、他人に感謝までしてしまった。料理を始めようと思ったことによって全てが良いように転がりだしたようだ。そう感じる。
そんな私ではあったのだが、一つ重大な問題が発生した。そう、一つにして致命的な問題である。
準備は全て整った。しかし、どうしても料理をする気分にならない。冷凍庫の中も未だに空。スーパー、果てはデパートにまで繰り出しにも関わらず、並ぶ食材の全てに興味が持てなかった。理由は分からない。どうしても手が伸びないのである。
それでも私は考えた。そして、不毛とも思える結論が出た。食材捜索の範囲を広げようと。
私は手始めに、手頃な値段で中古のワンボックスカーを購入した。捜索の足とするためだ。
週末毎に車を駆り、市内市外を問わずに巡り、次には県外にまで足を伸ばした。二ヶ月間ほどの捜索も虚しく、満足の行く食材を発見するには至らなかった。
そんなある日のことである。私は冷凍庫に電源が入っていることに気が付いた。満足のいく食材が見つからないので電源を切っていたはずなのだ。蓋を持ち上げてみるが、もちろん中身は空であった。蓋を閉じ電源を切ろうとして思い留まる。もしかしたら、これは良い食材が見つかる前触れかもしれないと思ったのである。
He 2
逢魔が時。夜の闇が日の光に取って代わる時の間断。消え入りそうな西日の中に、一台のワンボックスカーが人気の無い路上に駐車されている。車の中には無表情の彼が息を潜めていた。まるで何かを待ち構えるかのように。
この道路は街と街を繋ぐために存在しているのだが、所謂旧道と呼ばれるもので、新道が開いて以来ほとんど交通がなくなっている。しかし、そんな道路を好んで使う者もいる。例えば今、彼の視界に入った自転車の運転手がそうだ。
彼女は高校に通うために、このルートを選択していた。一つには、自動車が通ることが稀であるので、安全のためにと両親にこの道を使うよう勧められたこと。また一つには、距離的に新道とそれほど差がないこと。さらに、彼女自身この緑の多い通学路を気に入っていたのである。
彼女が車の側を通り過ぎようとした瞬間、彼に声をかけられた。
「すみません! ちょっと助けて貰えませんか?」
大きな声ではあったが、その響きは柔らかで彼女に不安を抱かせる物ではなかった。そのため彼女は、思わず自転車を止め振り返る。するとそこには、如何にも人好きのする笑顔を浮かべた青年の顔があった。先程の彼の表情を知っている者がいたとすれば、きっと同一人物だとは思えないことだろう。
「実は車が故障してしまいまして、おまけに悪いことは重なるもので携帯の電池も切れてしまいました。この辺りはほとんど人が通らないから本当に困っていたんです」
彼は車から降り、彼女に近寄りながら弱弱しい苦笑を浮かべている。
「それで、もし良ければ携帯貸して貰えませんか? もちらん、お礼はしますから」
「え、あ……はい」
彼女は、疑うことなく視線を落とし携帯を取り出そうとした瞬間、鋭い放電音と共に首筋に衝撃を感じ倒れてしまった。悲鳴はない。痛みと眩暈、それに吐き気が重なる。何が起こったのか解らずに、ただただ低い呻き声が漏れる。しかし、すぐに呻き声すら聞こえなくなっていた。口腔内一杯に布切れを詰め込まれ猿轡を噛まされたのだ。手足も動きが取れないように縛れ、目隠しまでされてしまう。そのまま車に放り込まれ連れ去られた。後には一台の自転車と携帯電話だけが残されていた。
彼に出会ってしまったことはもちろんだが、彼女の不幸は意識があったことである。それから何時間もの間を暗闇の中で、理不尽な状況に怒ることもできず恐怖に震え過ごすことしか許されなかった。
彼女が最期に感じたのは、喉元に走った鋭い痛み、血の匂い、そして溺れるような息苦しさ。言い換えるなら、恐怖であり絶望、そして、死である。
He&Iの食事
両腕が重かった。
その日は筋肉痛と共に始まった。原因に心当たりはない。不思議な疲労感。しかし、不快感はなかった。むしろ気分が良い。
冷凍庫を開くことが、冷凍庫に電源が入った日からの日課となっている。今日もいつも通り冷凍庫を開く。すると、庫内が肉で満たされていた。
思考の停止。身に覚えのない光景が視界を支配する。白い靄の中に浮かび上がる肉の色に震えが止まらない。綺麗に解体されているとはとても言えない肉の山。これは一体何なのだろうか? 分からない。だが、とても美味しそうに見えた。これこそが私の捜し求めていた食材だと思った。
そう理解すると、肉の出自に関する疑問は頭の隅へと追いやられた。そして、冷凍庫の蓋を閉じると、急いで最前より所有していた小さな冷蔵庫を開いた。まるで憑かれた様に。
そこには、大皿に乗せられた一キロ弱の灰白色の塊があった。うねうねぐにゃぐにゃとした印象を受けるそれは、脳である。
鮮度が大切。
脳内のレシピ帳をパラパラと捲り辿り着く。
『セソス・エン・アグルラ』
スペイン料理の本の中にあった料理である。日本語では、『羊の脳みその油かけ』となっている。この脳が何の脳であるかは知らない。だが、脳であることに違いはない。この調理法でいけるだろう。
脳を水につけ、洗いながら薄皮を剥ぐ。不気味な感触に震える。次に酢入りの水を使って水から茹で上げる。その様子はどこかSFのようで現実感に乏しい。透明なカプセルの中で脳髄だけで生きる人のような印象。ボコボコと浮かび上がる気泡がより一層強調している。可笑しくなってクスクス笑いが漏れてしまう。そうしている間に脳は茹で上がった。皿に載せた脳にオリーブオイルとレモン汁をかけ、ニンニクとパセリの微塵切りをトッピングして完成。
見事なまでに食べ物には見えなかった。きっと私が日本人だからであろう。
私は意を決してスプーンをそれに入れた。驚くほどに抵抗を感じない。震える手で口へ運ぶ。酸味と各種調味料の香り、特別な味はなかった。何故か涙が零れる。止め処なく流れるそれが、どんな感情に由来するのか分からない。ただ、恍惚とした感覚に任せて匙を進める。たっぷりと時間をかけて完食。腹は限界に近いまでに満たされ、瞳は乾き、満足感に満たされていた。
何かが終り、始まったのだと思った。
私は会社に行くのを止めていた。
それどころではなくなったのだ。
料理!
料理をしなければならない。
彼が調達した食材を美味しく頂く義務が私にはある。
作っては喰らい。喰らっては作る。しかし、ルーティンではない。蓄えたレシピを頼りに、この肉に最適な調理方法を求め続けた。試行錯誤し結果を吟味する。それ以外の時間が私には存在しない。
私は求道の士だった。
ところで彼とは誰だろう?
ある日、ふと疑問が浮かび上がった。肉を手に入れた時には、さほど気にもしなかった肉の出自が気になる。もう、随分この肉を食べ続けているが、未だにこれが何の肉であるのかが分からない。次の物はどうすれば手に入るのだろうか。
ところで彼とは誰だろう?
何時の間にか私は、肉をくれた人物を彼と呼ぶようになっていた。何もない所に肉が生まれる道理はない。ならば誰かが与えてくれたのだろう。この世には、神も悪魔も存在しない。そう、肉を与えてくれたのは『彼』以外にありえない。彼女と呼んでも良さそうなものだが、やはり彼がしっくりくる。なぜなら、彼は『彼』だからだ。
ところで彼とは誰だろう?
私には、彼が彼である以上のことは分からない。所在も連絡方法も、それどころか姿形・筆跡・声色も。彼が肉をもたらす事以外、付随する全てが不明。
ところで彼とは誰だろう?
しかし、私は不安に思っていない。親切な彼は次もまた、肉を届けてくれることだろう。根拠のない堅い信頼に揺らぎはない。ただ、そこはかとない恐れがあるのだ。
ところで彼とは誰だろう?
彼とは……。
彼とは……。
彼とは……。
思索が先へ進まない。この思考に混じるノイズは何だろう? と意識を外へ向ける。
電子音が聞こえる。二度三度と響く呼び鈴の音。
取留めのない思考の流れが塞き止められた。鳴り止まない電子音を止めるために重い腰を上げる。イライラと玄関へと向かう。
扉を寸前にある可能性が浮かび上がった。
ひょっとすると、彼が来たのではないかと言う可能性。
感情は転換しワクワクと扉を開き、落胆した。一目で彼でないことが分かったのである。派手すぎず地味すぎずの服装をした女性だった。スカートをはいているのだからまず間違いないだろう。彼ではない事実に呆然と扉を閉めた。
すかさず、扉が叩かれる。それも激しく叩かれた。叩きながら声を上げているようだ。だが、ノック音に所々掻き消され判然としない。辛うじて、私の名前・一週間・各種罵倒などの単語のみ聞き取れた。ただ、それらを繋ぐ言葉が分からない。それでも、相手が私に怒りをぶつけているのだけは確実のようだ。
このまま、騒ぎ続けられても敵わないので扉を開くことにした。
開くと同時に、何かに衝突し扉は弾かれ閉じ、短い悲鳴が聞こえた。が、それどころではない私も額を扉に強かぶつけていたのだ。実際、悲鳴を上げたのは自分だと思ったほどだ。どうにか立ち直り、扉を再度開く。すると眼前には女性の姿はなかった。
呻き声に釣られ視線を下ろすとそこにいた。後頭部を押さえ、地面に転がっている。恐らく、私が扉を開くと同時に扉を蹴っていたのだろう。
しばらく、その様子を見ていると女性に見覚えがあることに気が付いた。なかなか名前が出てこない。
「大丈夫ですか? 鈴木さん」
とにかく、助けようと声をかけて見ると自然と名前が出てきた。そうだ、この人は会社の同僚の鈴木だ。
どうやら後頭部に出血があるようだ。救急車を呼ぶにせよ、何にせよ、このまま放置して置く訳にはいかない。
私は彼女を部屋へと運び入れた。
まだ温かい肉を左手で押さえつけ、右手に持った包丁をそっと乗せる。少しずつ力を込めながら右手を引く。切り離された部位を白い皿に載せる。幾度も繰り返す内に皿は赤黒く染まる。血抜きが足りなかったのか、じわりじわりと血が染み出す。
新鮮な肉を刺身で食べる。最高の贅沢。そんな中でも臓物は新鮮でなければ食べられない。特に私の食べる出処不明の謎の肉ともなれば、そうそう食べられるものでもない。
ごま油に軽く絡めて、口へと運ぶ。レバーの在るようで無いような食感。油と血が交じり合った香りと味。美味しい。
やはり、肉は生食に限る。
私は最高の食べ方を発見した。
しかし、悲しいことに一人でこの大量の肉を食べきることはできない。やはり、冷凍しなければならないだろう。私の調理法の探求はどうやら終わることがないようだ。この最高品質を共に味わってくれる人でもいれば別なのだろうが。
そう言えば、鈴木はどうしたのだろう。
部屋に運び込んだ後、どうしたのだろう? いつの間にか鈴木は消え、代わりに新鮮な肉が届けられていたのだ。全く彼の勤勉さには頭が下がる。
肉が鮮度を保てる時間は限られている。私はあらゆる部位を可能な限り試す。
少しずつ食べては、味を記録し残りは冷凍する。その作業は、痛みやすい内臓から始まり各種部位に進んだ。もっとも、どこがどの部位なのかは、ほとんど分からないのだが。何故かここが腕、こっちは頬肉だなと直感的に理解はできた。
また、幾日かが過ぎた。
また、電子音が私を呼んでいる。
ノックの音。電子音。ノック。電子音。繰り返される音。
のぞき窓を覗くと上下を紺色で固め、これまた紺色の帽子を被った二人組の男が立っていた。
私は慌てて扉を開いた。不審そうな視線が私に向けられている。
「忙しい所すみません。警察の者ですが、少しよろしいでしょうか?」
言葉とは裏腹に、肯定以外の返事を認めないと言う雰囲気を漂わせていた。そして、私の答えを聞くよりも早く内容を切り出してきた。
「実はですね。お宅の元同僚の鈴木さんが行方不明になっておりましてね。会社の方が仰られるには、お宅の様子を確認しに行ったのを最後に消息を絶っているそうです。何かご存知ありませんか?」
「ええ、確かに来られました」
私の答えを聞いているのかいないのか、一人の視線は室内に向けられている。
「それではその時、様子を教えて頂けますか? 何か手がかりになる様なことは言っていませんでしたか?」
「いえ、分かりません」
会話をしていない方の目が何かを見つけたかの様に見開かれた。
「あそこ、あれ。血じゃありませんか。何かあったんじゃありませんか」
料理時に零した血を見つけたようだ。私は必死に事情を説明しようとするのだが、二人は聞く耳を持たず部屋へと踏み込んでくる。そして、ギャーギャーと騒ぎ始めた。
私はなすすべなく立ち尽くすよりなかった。呆然としながらも、思う、掃除はきちんとしなければならないと。そう思っていると、一人の手が浴室の扉にかけられた。その様子を見ながら、顎に手を当てる。伸び放題の髭に阻まれ皮膚に指が届かない。
頭を触る。脂ぎった感触がする。
身体を触ってみる。全身を垢が覆っているように感じる。
ふと、自身の体臭を感じた。
はて、最後に浴室を開いたのは何時だっただろうか?
扉が開かれる。
澱んだ生暖かく、生臭い空気が流れてくる。
二人の警官は怯み息を詰めている。そんな中私は、不快にも感じず平然としていた。
そろりそろりと、浴室に視線を向ける警官に追随するように移動する。
「ひっ」
空気の抜けるような悲鳴が聞こえる。ゆっくりと警官の顔がこちらへ向いた。その表情は驚きだろうか、恐れだろうか、憎しみだろうか、判断に困るものだった。
浴室を覗き、私は警官の表情を納得した。なるほどこれは訳が分からない。
視線を最初に飛び込んで来たのは、便器の貯水槽の上に置かれた二つの頭蓋骨。頭蓋骨と言っても綺麗なものではない。頬肉や髪は綺麗に取り払われていた。しかし、所々皮膚が残っている。因みに二つとも額の位置で切断されていた。次に浴室を見ると骨で埋まっている。足首より先、手首より先は、骨ではなくその原型を留めていた。つまりは、蟲の楽園。
混乱するより他にない。
そうこうする内に、理性を取り戻した警官二人。一人は何処かへ連絡をしている。一人はこちらに向かってきた。
用心深くジリジリと近付きながら、叫ぶ。
「手を頭の後ろで組み、うつ伏せになれ!」
私は、言われるがままに行動した。
警官が一歩、また一歩と近付いてくる。
私は訳が分からず混乱していた。しかし、何故か恐怖はなかった。
ただ、機会を待つ様に息を潜めていた。
警官が私を拘束しようと、手を伸ばすのを感じる。今、まさに触れる瞬間。
身体が自然と動いた。
ぐるりと身体を返して、警官の手を掴み引き倒す。そのまま流れるように喉元に喰らいつき、引き裂いた。
血と肉の味がする。
良く覚えのある味。
ああ、これが肉の正体か……。
私はその瞬間、消滅した。
He&Iの食事
私はカニバリズム的嗜好を持ってはいませんし、推奨もしておりません。
日本の人口はこれから減って行くと言われていますが、それでも国土にたいする人口の比は当分トップクラスでしょう。つまり、人・人・人です。ですが、沢山いるし人間にとって必要な栄養素を持ち手軽に狩れるからと言って人狩りは止めて下さい。世界(オーストラリアなど)から鯨を狩るなと非難を受けている昨今、これで人まで狩るとなるとどんな目で見られることか……。
狩ると表現したところで人殺しは人殺し。とにかく人殺しはよくないので止めておきましょう。身内と被害者の身内に不幸と悲しみ、怒りに憎しみなどの様々な負の感情与えるばかりで良いことなどありませんからね。もし、そんな感情を抱いたのなら、上手く自分を誘導して別のものに変化させて下さい……スポーツとか?
それでは、もし読んでくれた人がいるのならありがとうございました。