ヒュプノスの城壁

 規則正しい寝息は相変わらずだった。麻酔の注射からもう六時間以上は経過している。事前に聞いた医者の話ではもうそろそろ、目覚めてもいい時間だ。いや、その時間をとっくに過ぎている。
 私は椅子から、彼の眠るベッドに座りなおした。二人分の体重に、ベッドは小さな軋みを上げたが彼は眠り続けている。彼の寝顔は安らかだった。日頃の煩わしさから解放され、休日の前夜に眠りについた人のような顔だった。幸せそうな、と言っていい。

「総統……」

 指先で、彼の頬に触れる。目覚めない。撫でるように掌を添える。何の反応もない。熱もなく、苦痛に喘いでいるわけでもない、ただただ深い眠り……薬物によって極めて不自然にもたらされた、彼を包む安眠……

「もう、いい加減に仕事に戻ってくださいよ」

 手術は終わったのだ。彼に巣食う病は取り除かれた。まだまだ、彼にしてもらわねばならないことがある。この国の為に、我々の政党の為に。ここで眠り続けている暇はないのだ。目覚めてもらわねばならない。

(酷なことだとは思いますがね……)

 あまり身体が丈夫でないことは知っている。今回の手術以前も、体調不良を訴えることはあった。最近はほとんど連日のように働き詰めだった。目覚めないのは、過労のせいだろうか……

(それとも……)

眠っていたい、というのが彼の意志なのだろうか。彼の心は麻酔の奥に引き籠り、眠りを盾に現実に戻ることを拒もうというのだろうか。彼の表情には憂いが無い。喜んでいる、というのではない。満ち足りているのだ。まるで春の陽だまりで転寝をしているような――夢を見ているのだろうか?

(麻酔でも、夢は見る……)

 人は浅い眠りと深い眠りを繰り返し、浅い眠りの時に夢を見るという。でも、それは脳の話だ。麻酔が眠らせるのはあくまで身体で、脳は浅い眠りの状態にあるとも聞いた。つまり、彼は今、夢を見ているのではないだろうか……? だとしたら、誰の? 黒いベールが、ふわりと落ちてきたような不吉な何かが閃いた。
こんな表情の彼を見るのは何時以来だろう……私と抱き合った時? 違う。その時の彼よりも、今の彼のほうがずっと幸せそうだ。まさか……? 彼がこんな顔をした時は、決まってあの女の話をしていた。思い出したくもない、女の名前と顔が脳裏に滲むように浮かんだ。

「総統」

 彼の肩を揺さぶる。さっき頬を叩いた時とは加減が違った。彼の眠りを破りたい、いや破らねばならない。一刻も早く、彼をこちらに――私の元へ取り戻さねば、あの女から。
 眠りは小さな死だ。彼の心は、小さな死を迎えているのだ。普段の生活ではありえない、麻酔による深すぎる睡眠が小さな死でなくてなんであろう。あの女は、それに付け込んで私から彼を――アドルフを奪うつもりだ。

「おい、眼を開けろ。総統――アドルフ!!」

 彼は動かない。呼吸を繰り返すだけだ。帰りたくない、ということか。夢の中であの女といることを選ぶつもりなのか。そして、そのまま死ぬ? 眠り続けて、私を置いて? ふざけている。
乾いた音がする。私は、彼を打っているのだ。この嘘吐き、裏切り者、と毒づく声が聞こえる。私の声だ。息が切れて、続けられない。両手をついて、彼を見下ろす。彼の閉じた瞼が濡れていた。泣いているのか……? 私の為に? 

「アドル……」

 一瞬、喜びが込み上げる。それは次の瞬間に無残に砕かれた。彼は相変わらず、春の陽だまりで転寝をしていた。彼の涙に見えたのは、落ちた私の涙だった。私の叫びは、彼の夢を破れなかったのだ。彼の夢には傷一つ付いてはいないのだ。

「わかったよ……そういう態度なら、私も好きにするさ」

 彼は幸福な眠りに包まれている。今のことで証明された。その眠りの城壁は、一人の人間が与える苦痛では傷一つ付かない堅牢なものだ。彼が夢の中で幸福に包まれているなら、私は現実に取り残された彼の身体で得られるものを得るだけだ。

「せいぜい楽しませてもらいますよ」 

 薄い寝間着のボタンを一つずつ外してゆく。何度も身を預けた胸が現れる。そこに唇を落としながら、右手を彼のズボンの中へ滑り込ませる。そっと指先に力を込め、愛撫を繰り返すとそこは熱を高め蜜をこぼし始めた。

「こんなんでも、感じるんだ……」

 雄の本能か、それとも夢の中ではあの女が同じことをしているのか……眼差しを上げ、彼の顔色を窺う。表情に変化は無い。どうでもよいことだ。お互いに、別々にこの状況を楽しめばいい。唇を重ねる。最初は軽く、次第に舌を差し入れる。反応は無い。無理矢理に舌を絡め、歯列を舐める。眠り続けている彼の口内は乾いていた。自身の唾液を流し込み、潤す。舌の動きと同調して、腰を彼に押し付ける。私自身の身体も、次第に高まってくるのがわかった。

「アドルフ……いい夢を見ている?」

 私を蔑ろにして楽しんでいるね。なら、私もあなたの意志を無視するよ。あなたの一番嫌がっていたことさせてもらう。彼のズボンを完全に下し、露わになった性器を口に含む。今までの動作で張り詰めていたそれは、僅かに舌を動かしただけであっけなく精を放った。彼はまだ目覚めない。

(それでいいよ……終わるまで眠っていてね)

 白濁を右の中指に受け後口にあてがう。力を込め、彼の中に押し入れる。彼がいつも私にしていたことを思い出して「敏感な場所」を探る。この苦痛は彼の夢を砕くだろうか? そうなってもやめる気なんかないけどね。卑猥な水音が、私の耳朶を犯す。いつもの彼なら死に物狂いの抵抗をするだろうが、今日はとても素直な反応を示す。指を二本に増やす。彼の腰が浮き上がる。が、目覚めたわけではない。

「へえ、しっかり反応するんだ。淫乱なんだね」

 そう言いながら彼の顔を覗き込む。蕩けたような表情は消えていた。代わりに僅かに眉間に皺が寄っている。苦しんでいるの? 自分がされていることが分かる? だとすれば、ざまあ見ろだね。

「女はこんなことしないし、できないもんね」

 指を引き抜き、自身のズボンの前を開けた。彼の夢を、私の現実が塗りつぶしているのだろうか。確証は無いが、そう思うことにする。

「アドルフ、ちゃんと感じてね。私の身体」

 私を置いて、一人で夢に逃げるからだ。私と共に夢を現実にすることよりも、夢の中で別の女と居ることを選んだからだ。その夢を今、私で塗りつぶしてあげる。男で良かった、と本当に心の底から思う。そうでなければ、こんなことはできないのだから。彼が一番怖がっていた、彼を犯すことで彼をこちらに引き戻してみせる。

「そんな女のこと、忘れてこっちに戻ってきてね」

 そう言って、私は彼を貫いた。彼の表情が一気に険しいものとなる。苦しげで、泣き出しそうな痛ましい表情。あの女を語る時には決してなかった、苦悶の表情だ。このほうが余程、彼らしい。

「痛いの? 辛いの? ねぇ、アドルフ……? う……ん……すごく、きつい、けど……」

 苦しいのは私も同じだった。快楽とそれを僅かに上回る、苦痛が押し寄せる。こんなことをするのは初めてだったが、女を抱く要領でいけると踏んだ。ゆっくりと押し入り、ゆっくりと引く。先刻使った彼の精と腸液、そして私自身の蜜とが潤滑剤の代わりだ。僅かずつだが潮が引くように、苦痛は引いてゆく。そして、波が高まるように快楽は確実に増してくる。

「は……ん……アドルフ、すごいね……締まる……」

 わざと卑猥な言葉を彼の耳元に囁く。あの女が絶対に言わないであろう言葉を選び、彼の意識に注ぎ込む。もし、まだ夢の中にいるなら私の言葉で引き裂いてあげる。もう二度と、私のいない夢の中へ逃げないように彼の中に私を刻みこむ。私は、この後枯れ尽きるまで彼の中に精を注ぎ込むだろう。そうなるまで彼を手放せないだろうと、自分で分かっていた。

「ねぇ……アドルフ……私が、していること、わからなくても……これだけはわかってね」

 眠り続ける彼は、きっと私の行為に気付かない。それでいい。彼が見ている夢が、誰の夢かも確かめようがないのだ。それでも……

「私は、あなた無しでは生きていけないよ」

ヒュプノスの城壁

ヒュプノスの城壁

  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-08-22

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