言葉の魔力――言い換え――

犬の散歩をしている時に本文の内容がグルグルと頭の中を回り出し、寝つきが悪そうだったので、安らかな眠りのために書き出すことにした愚考である。

※注意1 私は専門家ではないし、また、何かを十分に調べてもいない。ここに書いたことは、今まで頭に入ってきたことを適当に組み合わせた全くの私見であるので無批判に受け入れないようにして下さい。下手に引用等すると恥をかくかもしれません。

※注意2 殺伐とした部分もあるので気を悪くする人もいるかもしれませんので、先にお詫びしておきます。

 先日、新聞に集団的自衛権に関する意見広告が掲載されていた。その内容について深く述べるつもりはありません。しかし、その文章を読んでいて思うところがあり、それを基点として、言葉について少々考えて見ようと思います。
 まず初めに、気になった部分(記憶頼りであり不正確の可能性あり)ですが、日本が戦争に巻き込まれる可能性を否定する部分で『今、世界では戦争というものは存在しない。なぜならば、戦争行為は国際法で禁じられており、行うことができないからである。現在行われうる行為は、不法な侵略行為とそれに対する防衛行為のみである。だから、日本が戦争に巻き込まれる可能性はない』というような内容です。もしかすると、広告主の意図とは違うかもしれませんが、私にはこのように伝わりました。
 確かに、世界中の至るところで二つ以上の対立する勢力による戦闘行為が行われていますが、戦争(War)という言葉より紛争(Incident)と言う言葉が良く使われているように思います。しかし、言葉は違えどその内容に違いはないように思えます。もちろん、国際法等の専門家に言わせれば違うのでしょう。彼らは頭を悩ませて色々と考えているのでしょう。それでも私が重要だと思うのは言葉による定義ではなく、お互いがお互いの集団的な利益のために殺し合っており、その被害が当然、民間人にも及ぶという事実だと思います。そして、言葉を自己欺瞞を超える欺瞞に用いるのは良くないのではないかと考えます。
 言葉による自己欺瞞とは、分かり易い例を挙げるなら、おみくじです。大抵の人は吉を引こうが、凶を引こうが良いように解釈します。吉ならば、素直に良いことが起こるに違いない。凶ならば、ここで凶を引いたのだから後は良い事が起こるに違いないと。このように言葉に出したり、考えたりすると、本当にそんな風に思えてきて気持ちが楽になります。
 この凶を引いた場合のような解釈。言葉の言い換え――結婚式においてはケーキを切るとは言わず、ケーキにナイフを入れると言うなど――や漢字の読み換え書き換え――葦原(あしわら)ではなく吉原(よしわら)など――などの験を担ぐようなものは好きなようにやると良いと思います。そもそもの事実や行為を歪めるようなものではなく、精々が縁起の善し悪しを左右する程度のものであるからです。
 しかし、個人の気分を左右することを超え、事実や行為を歪め多くの人は導くような言葉の使い方には注意が必要だと思います。
 最初に挙げたもの以外に例をあげるなら、太平洋戦争時の大本営発表では撤退を転進と言い換えています。これにより敗北という事実は伝わり難くなりました。
 また、噂などもこの類であろうと考えます。これまた古い話ですが、関東大震災のおり、朝鮮人が混乱に乗じて悪事を働くと言う噂が出回りました。もちろん全く一切、朝鮮人が犯罪行為をしなかったと言うつもりはありません。朝鮮人と大きく括ることで朝鮮人の全てが犯罪者であると言う認識が広がったのでしょう。もちろん、大惨事の混乱による影響、普段からの文化の違いとうから来る不審もあるのだろうと思います。
 不審が広がった結果、罪の無い朝鮮人はもちろん、中国人、果ては方言を話すもの聴覚障害者までもが、自警団による暴行を受け殺されたそうです。
 イジメと言う問題がありますが、これも言葉によって起こる事実の歪みが原因にあるのではないかと思います。
 イジメの対象となる人物。その人の行動で少し変わった所があるとします。少し変わった所は少しですので、多くの人は然程気にしません。しかし、気にする人がいて、それを話題にし始めると、気にしてない人も気にし始めます。言葉を交わすと言うのは一種の娯楽なので、少しでも面白くしようとするものです。だから、差異は強調され尾鰭がついて行き、少しの違いだったはずが排斥の理由に変化します。そうなると、外から見れば屁理屈に過ぎないものであっても、その集団内では正統な理由になるのです。例え下らない話を通してであっても、自分たちで言葉を費やして作り上げた概念であるのですから影響力があるのでしょう。
 また、些細な行動から重大な行動まで言葉の影響を受けるのではないかと考えられる。なぜなら、思考は言葉によって行われるからです(もしかすると言葉によらない思考と言うのもあるのかもしれないが、言葉を持つためかそれを認識できないのでとりあえずはこう定義する)。
 例えば、殺すという行為を直接的、または間接的に人は毎日行っている。しかし、そのことを普通は認識しない。例えをあげるなら、今は夏なので夏らしく蚊をあげようと思う。人は毎日のように蚊を殺します。殺虫剤を使ったり、叩き潰したりして殺します。しかし、あまり殺すと言う表現をすることはありません。シューしてと言ったり、やつけるとか退治するとか言います。蚊のような小さな存在であっても殺すと言う表現は軽くないからかと思います。人と言う存在が避けられない行為である食べると言うのも殺してますね。もっとも、今挙げたどちらも殺すことが目的ではないので、殺すを使わないのは当然といえば当然ですが結果としては殺してますね。もっともそんなことを気にしていたら生きていけないのでさらに当然ですね。
 では、殺人ではどうでしょう。少し前の佐世保の事件では、犯人は人の中を見たかった述べていますね。かなり乱暴に考えると、中を見た結果として殺してしまったのかもしれません。もっとも、腹を裂く前に殺しているので違うでしょうが。ですが、やはり言葉の上では殺すことが目的ではないようにしているように感じます。
 逆に、誰でも良かった型の通り魔ではどうでしょう。殺したかったなどと述べることが多いからにはそうなのでしょう(破滅願望臭くて迷惑極まりありませんが)。ただ、切りつけられた人が全て死んでいる訳ではない所をみると、殺す意志は弱いように思えます。推測ですが、事を起こしている時に頭にあるのは殺すではなく刺す、若しくは切るではないかと思います。
 このように殺すという言葉を別の言葉に置き換えて、初めて人を殺すことができるのではないかと考えます。同時に殺すというのは、自分の行動を受けての相手の死と言う状態を言うのだから、他の言葉に置き換わるのが当然のような気もします。
 何故か殺伐とした話になってしまいましたが、私がここで述べたい事。それは、言葉と言うのは事実から離れたり歪めたりする可能性を秘めているものだから、受ける時も発信する時も気をつけましょうと言うことです。

言葉の魔力――言い換え――

もし、ここまで読む人がいたのならば、ありがとう。そして、我が愚考であっても創作なり普段の生活なりになんらかの役に立てれば幸いです。

言葉の魔力――言い換え――

言葉の言い換えによって、事実は歪む。それによって人は過ちを犯すことがある。だから、言葉は発信する場合も受ける場合も注意を必要とする。というようなことが、なんとなくと書いてあります。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted