心の竹林

Twitterで以前公開したショートストーリー。熊辺さんのキャラクター、さじ君(@kumabe317)をお借りしました。
夏の一幕。

「近い将来、最も速い新幹線ができたとしたら、名前はきっと『こころ』になるだろうね」
遠い昔、初夏の日差しの中、父の影はそういった。
繋いだ手は汗ばんでいて、日射が刺さる肌は熱をもっていた。
父親は、中国のある昔話が好きだった。「世界で一番速いものは心だ」、とよく口にしていた。
そして夏の気配がそっとすり寄ると、彼は逃げるように中国へと飛び立っていく。
父を奪う夏が嫌いだった。とりわけ、世界で一番嫌いなものは、夏休みだった。
学校が終わるその日のうちに、大嫌いな新幹線に乗って実家に帰ることが、何より苦痛だった。
古めかしい日本家屋は気味が悪くて仕方がないし、田畑と山以外に何もない辺境の地は、幼い子供にとっては退屈極まる自然の牢獄でしかない。
少なくとも、独りきりで緑に取り残された記憶ばかりが残されていることは確かだ。
何より、海の向こうの大きな大陸へ飛び立っていく父が、うらめしくてたまらない。

真綾は大嫌いだった新幹線に乗って、大嫌いだった母の生まれ故郷に向かっている。
隣の席では、さじが船を漕いでいる。目的地への到着まで、約二時間。
真綾はハンカチを出して、恋人の唇の端から垂れた涎をそっとぬぐってやる。
新幹線の中は驚くほど静まり返っている。二人だけの空間だと錯覚しそうになる。
背もたれに身を預け、真綾は鼻を鳴らす。些か大きな嘆息が列車内に響き、咄嗟に口元を覆う。
さじがしゃっくりをあげた。起きただろうかと伺うが、寝惚けているらしい。こちらに頭を預け、再び寝息を立て始める。
真綾はそっと肘掛をあげ、さじの頭を膝に乗せるように優しく引き倒してやる。
乱雑に散らばった赤い髪が、さじの顔を覆い隠している。そっと掻き分けて寝顔を覗く。
可愛い。真綾は一人微笑し、さじの頭に左手をそっと添え、窓の外を見る。
緑一面の景色は、トンネルに突入したことで黒に染まる。
窓に己の顔が映される。数年前の自分と違う、棘のない視線がぶつかる。
私はいつからこんなに人のいい目をするようになっただろう、と見据える。
昔の自分は、果たしてこんなに優しく嫋やかな顔をしていただろうか。
歳を十つ過ぎてから、大凡余裕なんてものは忘れてしまっていた気がする。
数年ぶりに実家に戻るからか、はたまた恋人がいるからだろうか、心は凪のように穏やかだ。
真綾は目を閉じる。

夏を迎えるたび、実家に戻る日々が脳裏に蘇る。
母の実家は緑と青しか色がなかった。山と畑、森と川、そして海があるのみだった。
遊び場なんて気の利いたものはなく、最寄りのショッピングモールは車で二時間もかかる場所にある。
遊び仲間も作らず、一人で真夏の花野を踏みしめていた。
野草をかじったり、カミキリムシを追い回したり、川の石をひっくり返していた。
いつだって退屈だった。持て余した時間は、柔らかな土を踏みしめて潰していた。
海に臨む港に一人で出ては、水平線を眺めた。猟師たちは無口で働き者だった。
友達を作った記憶はない。
一人遊びが好きだった性分ではなかったはずだ。
けれど、いくら追憶すれど、あの緑溢れる広い監獄でひとりきりだった。
港の釣り場にしゃがみ込み、海の向こうを眺める時も、轟々と流れる川を遡る時も、側には誰もいなかった。
なのに、なぜだか、過去の自分は、一人きりという心細さを一切感じていなかった。どうしてかしらん。
追えば追うほど、霞がかったように、離れていく。
待って、おいていかないで、そう呼びかけても、揺れる陽炎の彼方に消えていく。
木陰の湿気ある冷やかさと、照りつける陽射しが肌にありありと蘇る。
幼い真綾は一人、草原を駆ける。
追うように。拙い足取りで、肩まである草をかきわけて、呼んでいる。
待って。行かないで。もっと遊ぼう、もっと一緒にいよう。
草結びに足をとられて転ぶ。彼女が追いかけたものは、竹林へと消える。
擦りむいた左足を庇いながら、真綾も竹の群れの中へ飛び込んでいく。独りにされたくなくて、がむしゃらに追う。
誰を追っているのかなんて、彼女には分からない。
もしかしたら父かもしれなかった。或いは、記憶のどこかに消えた、友かもしれなかった。
林に道はない。真綾より遥かに背丈の高い竹たちが行く手を阻む。
それに足音はない、形もない、ただそこにいるという漠然とした気配だけがそこにある。
空を掻くように手を伸ばし、おいで、戻ってと、彼女は泣いた。
けれどとうとう、追いつくことはできなかった。
中国に旅立った父は戻ってこない。あの山に友と呼ぶ人はいない。
彼女はいつまでも呼ぶ。戻ってきてと姿なき影に呼びかける。
鬱蒼と生い茂る竹林に、未練がましい声がいつまでも木霊している。

「真綾」
強く揺さぶられた反動で、危うく窓に頭をぶつけかける。
霞がかった頭を振り、さじを振り返る。彼は八の字に眉を顰め、真綾の目を覗きこむ。
「ひどい汗だ。悪い夢でも見たか?」
さじの大きな手が真綾の前髪をかきわけ、ハンカチで汗を拭う。優しい手の温もりが、冷え切った肌に心地いい。
ごめんなさい、と真綾は口に出していた。
「ちょっと夢見が悪かっただけ。もう大丈夫」
心配をかけるまいと、微笑みかけてやる。
さじはまだ少し心配そうに顔をしかめているが、肩を抱き寄せて「そうか」と返すだけだった。
電光掲示板が目的地を告げる。時刻はすでに、到着時間の五分前をさしている。
「そろそろ用意しなきゃね」
真綾が立ち上がろうとすると、さじが肩を押さえて押しとどめる。
「私が降ろすから」と手際よく荷物を降ろし、空いた手を真綾に差し出す。
「行こうか」
真綾は目を三日月の形に細めて、大きな手を握り返す。
新幹線の出入り口が開くと、蒸し暑い風が二人の全身に吹きつける。
乗り換えの路面電車には、二人が目指す場所を同じくする者はいないようだ。
二人は並んで腰をおろし、つり革と一緒に揺れる。向かい側の車窓から、懐かしい山が見える。
「お義父さんとお義母さんに顔を出しに行くって、緊張するな」
「大丈夫、私もよ」
汗ばんだ手を握りしめたまま、真綾はそっと大きな肩によりかかる。
そっと目を閉じると、古びた日本家屋の縁側が瞼に浮かぶ。あの竹林は、もう姿を現さなかった。
電車は規則正しく揺れながら、懐かしい田園の中を駆け抜ける。

心の竹林

熊辺さんに感謝。

心の竹林

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-20

CC BY
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