すべては、彼女(やみ)が見ている物語。
1、
私は自分の誕生を知らない。
けど、私はあの人の誕生を知っている。
私がはじめて目を開けた時、世界はすでにそこにあった。
でも、世界よりも、初めて私の目に焼きついたのは、あの人の誕生だった。
静かに背伸びして、形をなしてゆくその姿は、なんとも言えない不思議な美に溢れていた。
それを見つめているうちに、私は初めて自分の鼓動を感じた。
私の心はあの人のために動き、かき回され、溺れていった。
なめらかで、しなやかで、やわらかくて・・・見つめていると吸い込まれるようだった。
あれから、私は無意識のうちにあの人を追い求めるようになった。
あの人に近づきたい。あの人と一緒にいたい。
けど、私がどんなに近づこうとしても、あの人は背中しか見せてくれなかった。
私が近づこうとすればするほど、あの人が離れていったり、消えていったりする。
それに、二人きりにもなれない。
なぜなら、何かを隔ててないと、あの人を目にすることができないから。
私の心は、穏やかなリズムをなくしてしまった。
あの人に近づけない。あの人を自分の腕の中に抱きしめることができない。あの人と思い出作りができない。あの人に自分の声を伝えることも、あの人の声を聴くこともできない。
あの人のために、私はなにもできない。
私は、自分を見ることも苦痛になってきた。
だから私は、自分の姿を少しずつ消すようになった。
もうどこまでも追い求める気力が残ってない。あの人に避けられているのなら自分から避けたほうがいい。
そう思うようになった。
そして、そのようにした。
自分の姿を維持する力をなくし、縮んでしまった。
そうしたら、奇妙なことが起きた。
あの人が、なにも言わずに、私のあとを追ってきていた。
静かに、緩やかに、まるで私の痕跡を指先でなぞるように。
私の心に、どこからか、ふと、小さな灯火(ともしび)が点った。
もしや・・・と思った。
それで勇気を振り絞り、もう一度あの人に近づこうとした。
今度こそ近づける!今度こそ触れられる!
そう思っていた。
だけど、点った灯火は刹那に消え失せた。
私から近づこうとすると、やはりあの人が離れてしまう。
どうして・・・どうして!
なにもかわらないのなら、それなら・・・なぜ!
高ぶる心に満ち溢れたものは、今までのものとは異質なものだった。
自分では制御できない何か。自分でもよくわからない何か。
抑えられない。噴出したい。でも出口がない。
徒労・・・徒労だ!
私は初めて、自分に心が生まれたことに苦痛を感じた。初めて、心にからの穴ができた。初めて、自分と自分の性質に憎みと無力さを感じた。
私はすっかり気落ちして、今までにない勢いで衰弱していった。
その時、耳元にある声が響いた。
「わが子よ、まだ気づいてないのか・・・」
ああ、彼女(かのじょ)の声だ。彼女(やみ)の声だ。
2、
私は自分の温度を知らない。
けど、私はあの方の温度を知っている。
私がはじめて目を開けた時、世界はすでにそこにあった。
でも、世界よりも、私が初めて感じたのはあの方の温度だった。
暖かく私を包み込んで、優しく見守る視線を私の背に・・・それが不思議な安心感をくれた。
ずっと包まれたいと思った。ずっと見てもらいたいと思った。
そして、愚かにもあの方に触れたいと思った。
けど、私はなににも触れられない。手を持たない私は、届くことも触れることもできなかった。
私は物を隔ててこそ姿を成せる、あの方を感じられる。
でも、私の姿は物によって制限される。私の領域も物の形によって決められる。
あの方がまわりにいるのに、直接触れられるのはいつも隔てている物で、私はその制限されたところから出られない。
隔てている物はいつも意地悪で、あの方が左から見ては、私を右に移動させ、あの方が下から見ては私を上に飛ばす。
そのせいで、私はいつもあの方に背を向けなければならない。近寄れない。
私はいつも焦っていた。少しだけなら・・・少しだけでも!何度も何度も祈った。
誰に祈ればいいのかもわからずに、何度も、何度も。
だけど、やはりこの祈りは誰にも届いてなかった。
あの方の温度を感じ、あの方の鼓動に耳を傾け、そんな時にだけ、私は心の焦りと渇きを忘れられる。
ああ、いつまでもこのままでいられますように!
けど、その願いもどうやら贅沢だったようだ。
あの方が突然病んでしまったらしい。
温度どころか、あの方自身がだんだん消えていってしまってるようだった。
私は莫大な不安に襲われた。すべての力を振り絞って、いろんな物をわたって、あの方を追い続けた。
置いていかないで・・・残していかないで!
そうしたらあの方が気づいてくれた。また温度を取り戻してくれた。それで、また前みたいに包んでくれた。
嬉しかった。嬉しくなった、けど・・・
少ししたあとに、あの方がまた元気をなくしたみたい。
その時私はやっとわかった。あの方を傷つけているのは、私だ。
あの方が私のためにいつも尽くしてくれてたのに、私はあの方のためになにもできなかった。
それどころか、あの方に嫌な思いばかりさせてしまった。
いつも背を向いたまま、近寄ることもできず、逃げたり、遠ざかったりするように見えたのでしょう。
私は初めて、押しつぶされそうな窒息感に襲われた。初めて、引き裂かれそうな痛みを感じた。初めて、自分と自分の性質に憎みと無力さを感じた。
私はすっかり落ち込み、すべての物から自分を剥がそうとした。
その時、耳元にある声が響いた。
「わが子よ、まだ気づいてないのか・・・」
ああ、彼女(かのじょ)の声だ。彼女(やみ)の声だ。
3、
「わが子らよ、言葉を交わすことのできないわが子らよ、私の声に耳を傾けよう。」
――(私はすっかり気落ちして、今までにない勢いで衰弱していった。)
けど、そうだとしても、私は、あの人を目にしたこと、あの人と出会えたことを後悔しなかった。後悔なんてするわけがない。
あの人に拒絶され続けたとしても、私はやはり、あの人の存在が愛おしい。あの人がそこにいるだけで、私は救われたような気がする。私は一種の安心感を覚える。
あの人がいるから、私は自分自身を確認できる。私は世界を認識できる。私はあの人を、「あの人」だと、私の、たった一人の・・・
――(私はすっかり落ち込み、すべての物から自分を剥がそうとした。)
けど、自分の存在が憎くて仕方ないと思っていても、消えたくなかった。自分の存在があの方にとって苦痛でしかないとわかっていても、あの方から離れたくなかった。
あの方が私に存在の意味をくれた。私を認めてくれた。ずっと私を見守ってくれた。たとえ私がなにもしてあげられなくても、見返りを求めず、文句も言わず、ただひたすらに、私のそばにいてくれた。
あの方だけが、私の全部で、私の、たった一人の・・・
「わが子らよ、気づいておくれ。」
「なにに?」
「なにを?」
「わが子らよ、われが与えた名を覚えているのか。」
「覚えてる。」
「はい。」
「ならばわかるはずだ。君たちは最初からそういう性質で、最初から自分たちの望む関係になっているんだ。」
「それは・・・」
「というのは?」
「今もう一度、自分の名を口にしてごらん。」
「私は光。」
「私は影。」
「わが子光よ、君が追い求めているのは影。わが子影よ、君が感じているのは光。光があるからこそ影が存在し、影があるところに必ず光がある。光は最初から影を抱きしめており、影は最初から光を自分のすべてで反映していた。君たちが己の性質を憎んでいるんだろうが、だがその性質こそが、君たちをほかのなによりも強く結んでいるのではないか。」
君たちは引き裂かれることのないように、われが世界を作った。物質を設置し、空間を用意した。
大丈夫。心配することはない。
だってほら、君たちのことは今でも、これからも、われが見守ろう。われの無限な体の中で、君たちを包み込もう。
言葉を交わすことも、触れることもできないけど、お互いのことが一番大切で、全身全霊で尽くし、痛み、相思する――わが愛しい子らよ。
「そうか・・・それでは、これからも私のすべてであの人を見守ろう。」
「そうか・・・それでは、これからも私のすべてであの方を感じよう。」
これからもたくさん痛みを感じるんだろう。これからもいっぱい苦しみに翻弄されるんだろう。それでも、
「私の、たった一人の、あの人のために・・・」
「私の、たった一人の、あの方のために・・・」
――最初から、彼女(かのじょ)はそこにいた。
かすかな微笑みを口元に、底の知れない深みを目に、静かな母のように。
すべては、彼女(やみ)が見ている物語。
すべては、彼女(やみ)が見ている物語。