君の手を 第4章

 夏の空はいつまでも青い。雲がいくつかあった。意外と近い。飛べばそこまで行ける気がした。じっと見ていると動いているように見えないのに、いつの間にか離れている。形は微妙に変わっていた。そんなふうに幾つか過ぎていった。それだけの時間が経った。

 流石に皆いなくなっていた。でも、僕はまだそこにいた。そこで彼女の事を考えていた。

 彼女は長谷川さんの付き添いで来ただけの人だった。そのはずだった。それなのに。

 最後の最後でついに彼女は泣いた。あまり親しくもない人で、泣いている人は他にもいた。自分が可哀想で泣いている、もしく可哀想に見せるために泣いていた。僕にはそう見えた。でも、彼女は違った。違うと思った。あれはたぶん、僕が死んだから泣いてたんだ。

 葬式場を後にしてからも、その姿は頭から離れなかった。なぜ? 理由を考え妄想したが、いや、でも、まさか、を繰り返して一向に結論は出ない。

 その答えを得るためには、まず彼女が誰かを知る必要があるんだろう。

 ……いや。思い出す、なのかな。

 寝る前、瞼を閉じたあとに始める考え事みたいにとりとめなく、答えのでない問題に悶々としていると、いつの間にか気の長い夏の太陽も痺れを切らして帰ろうとしていた。やべぇ、そろそろ帰らないと。そう思って、でもすぐに途方にくれた。


 ……どこに?


 帰る場所といえばひとつしかない。

 僕の家。

 ただ、なんとなく帰りづらかったんだ。帰ったら怒られる。それが分かっているのに帰らないといけない、そんな心境。……別に、何も悪いことなんてしてないんだけど。

 住宅街の一角。さほど大きくもないが小さいわけでもない。ささやかだが洗濯物くらいなら余裕で干せる庭付き一戸建て。何も変わってない。当然だけど。
二階の僕の部屋はカーテンが閉められ、中の様子はわからなかった。ただ、どこにも明かりは点いていないし、車も無いのでまだ誰も帰っていないんだろう。少しだけほっとした。

 向こう側が見えないので少し戸惑ったが、さほど抵抗感もなくスッと窓から体をすり抜けさせた。

 カーテン越しの夕焼けに薄暗く照らされた僕の部屋は、何ひとつ変わっていなかった。たぶん、僕が出て行ったときのままだ。少し引かれた机のイス、無造作に置かれた教科書、床に投げ出されたカバン、テーブルの上に出しっぱなしになったマンガ。全部あの日のままだ。

 それが、僕には少し不思議だった。なんでまだ片付けていないんだろう。でも、よく考えれば、今日が葬式ってことはあれからまだ2、3日しか経ってないんだ。その間通夜とか葬式の準備とかで忙しくてそんな暇はなかったのかもしれない。

 そうか。まだそれくらいしか経っていないのか……。

 しかも僕が目を覚ましてからは、半日も経っていない。それなのに、僕はもう一週間くらいこうしているような気がしていた。それくらいここ数時間の内に起きた出来事は濃密で、しかもそのほとんどが初めての経験だった。事故より前の出来事が遠い昔のように感じられても仕方無いのかもしれない。

 僕はテーブルの上のマンガを取ろうとした。暇つぶしにちょうどいいと思ったからだ。でも、当然それは僕の手をすり抜けた。ま、そうだよな。わかってはいたけど。でも、もうこの続きは読めないんだろうなって思うと少し残念な気もした。だからといって何が何でも読みたいってわけでもないんだけど。

 僕にはどうしてもやりたいことなんてない。だからこそ、今こうして落ち着いていられるんだ。思い残しも、後悔も無い。

 仕方なく僕はベッドに寝っ転がった。こんな時間がこれから、もしかしたら何日も続くのかと思うと憂鬱になった。とても耐えられそうにない。ただ待つ、っていうのが僕は一番嫌いだ。でも、明日から何をして過ごせばいいんだろう。

 とりあえず、眠ってしまえば時間は潰せると思って、目を閉じた。寝むれるのかどうかなんてわからなかったけど。
目を閉じると、葬式の風景が出てきた。あの娘が泣いているところだった。だから慌てて目を開けた。

 今日はもう、あの娘のことは考えたくなかった。

 ただ、困ったことに目を閉じるとその場面が出てきてしまう。そして考えまいとすればするほどそれに捕らわれてしまう。そのことでいっぱいになってしまう。僕はため息を吐いて天井を眺めた。そこには相変わらず、いつ、どうやってついたか分からないシミがあった。子供の頃、それが顔に見えて怖かった。今ではそれをどう見れば顔に見えるのかもわからない。どう見てもただのシミにしか見えなかった。

 そんなふうにぼんやりしていると、太陽が沈むのと一緒に僕の意識も沈んで行った。眠気が襲ってきたとき、幽霊も眠れるんだ、と思ってほっとした。


 車の音がして、僕は目を覚ました。正確にはドアを閉めるバタン、という音。部屋の中は暗く、ほとんど何も見えない。今何時だ? 時計がある位置を見てみたがまったくわからない。8時くらいかな。カンだけど。

 こんな時間まで何をしていたんだろうか。あの後火葬場に行って、それで終わりじゃなかったのか? その後に、何があるっていうんだ? 

 ……まあ、どうでもいいけど。

 微かに下から音が聞こえる。家の中に入ってきた気配がする。僕は、ここにいてもいいんだろうか。
急に、空き巣に入ったような余所余所しい、居心地の悪さを感じ始めた。なんだ、この落ち着きの悪さは。別に、いいじゃないか。ここは僕の家だぞ。文句あるのか?

 ギシ、と音がした。階段を踏みしめたときに鳴る、軋んだ音。ビクッ、と体が反応する。全神経がそちらに集中する。体の半分が耳になったみたいだ。

 ギ、ギ、ギ、と規則正しく音が鳴る。明らかに誰かが二階に上がって来ていた。誰だ? 姉ちゃんか? まさか、この部屋に来たりしないだろうな。

 軋む音が止んだ。僕は部屋のドアを凝視した。まさかまさかと思いながら、今にもそこが開く気がした。ガチャ、と音がして、ドアノブが回る。ドアがゆっくりと内側に開いていき、廊下からの光が部屋の中に差し込む。そして、そこから現れた人影が僕を見つけて睨みつける。

 だが、実際は他の場所からパタン、とドアの締まる音が聞こえた。どうやら別の部屋に入ったらしい。誰だろう? 2階にあるのは僕の部屋と姉ちゃんの部屋と父さん母さんの寝室。誰が来てもおかしくないけど、音のした方向的に姉ちゃんかな?

 少しした後、またパタン、と音がして、今度は足音が遠ざかっていった。それを聞き、ほっと息を吐いた。やっぱり、今はまだ会いたくない。悲しんでいる顔は見たくない。

 気が緩んだのか、また眠気がやってきた。さっきみたいなことがいつ起こるかもわからない状況で眠りたくはなかったが、睡魔はそう簡単に諦めてはくれない。すぐに負けて、うとうとと寝てしまった。


「ガチャ」

 その音を聞いた瞬間、暗殺者の殺気を感じ取ったみたいに飛び起き、身構えたが手遅れだった。開いていく扉。差し込む光。そこに映る影。僕はそれをベッドの隅で身を硬くし縮こまり見守ることしかできなかった。

 細く開いた扉から現れたのは姉ちゃんだった。制服ではなく、パジャマに着替えていた。ドアを開けたまま、完全には入ってこず、電気もつけなかった。部屋の中を見渡している。

 その視線が僕と合った。気がした。でも視線はすぐに僕の上を通り過ぎて行った。逆光だから表情は見えない。でも、僕にはわかった。大事なものを無くしてしまって、何度も同じところを探している。でもやっぱり見つからない。そんな顔。本人だって、無いことはわかっているんだ。でも、何度も確認せずにはいられない。

 そういうの、止めてくれよ。

 姉ちゃんが去った後も、しばらくジッと身を固めていた。このままこの部屋にいるかどうか、悩んだ。悩んだ末、僕はこの部屋から出て行った。出て行って、でも他に行く当てなんて無いから、仕方なく屋根の上に座った。なんだかとっても惨めな気がして、体育座りで腕の中に顔をうずめた。でも、そうしているとさらに惨めな気持ちになった。

 横向きにパタンと倒れて、子宮の中の胎児のように丸くなる。目を閉じると、泣いてたあの娘と、姉ちゃんが出てきて、僕を責めた。責められている気がした。

 なんだよ。被害者は僕だろ。

 目を開けて、手足を伸ばし仰向けに寝転がった。繁華街から少し離れているとはいっても、街の夜は明るかった。星なんか数えるほどしか見えない。月も輪郭が霞んでいた。

 汚ねえ空だ、と思った。それまで夜空を見てもそんなこと思いもしなかったくせに。

 何でこんなことになったんだ……。

 ……ああ。

 そうか。死神だ。死神のせいだ。死神がさっさと連れて行ってくれないから、こんな目に合うんだ。

 ひとしきり死神を心の中で罵ったが、それも長続きはしなかった。

 空白がやってきた。真っ暗な空白。
 僕はその中に寝っ転がってソラを見ていた。
 風が雲をチリジリに蹴飛ばしていく。
 飛行機がチカチカ飛んでいく。
 タイヤがアスファルトを擦っていく。
 どこかで犬が吠えている。
 狂ったセミが鳴いている。
 僕はここでないている。

 ……。

 ……イタいな。

 センチメンタルに浸るのはキホン的に気持ちいい。落ち込むだけ落ち込んで、何もかもどうでもよくなって、反省することもなく、どーせ、っていじけてればいいから。でも、このときは虚しくなっただけ。苦笑。はーあ。なんでこんなところにいるんだか。ホントさっさとあの世に連れて行ってくれればいいのに。

 眠れない夜。眠ろうとすればするほど眠れなくなってしまう。瞼を閉じると浮かんでくる数々の出来事。今僕の頭の中を紙に印刷したら、水彩絵具を垂らして息を吹きかけて作るアレみたいな感じだと思う。もう、いろんなことがありすぎてゴチャゴチャでわけわからん。

 その中でも、たぶん一番重要なことは――。

 右の手を上げ、手のひらを眺めた。別に透けてるわけじゃない。

(でも、幽霊、なんだよな……)



 眩しさを感じ、目を細めた。目は閉じていたけど。寝返りをうっても明るさはあまり変わらない。不審に思って薄く目を開けた。間近に屋根が見えた。しばし思考停止。

(……あぁーぁ)

 夏の太陽は早朝でも凶悪だ。そこらかしこにまだ夜っぽさも残っていたから朝にはなりきっていないんだと思う。寝起きの不機嫌さを隠さず周囲を眺めた。ほら、新聞配達のバイクがいる。ってことはもしかしたらまだ5時くらいなんじゃ……? 
だとしたら、最悪だ。何の予定もないのにこんなに早く起きてどうするよ?

 目を細め、下唇を少し突き出す感じのふてくされ顔ですぐ下の道路を行き交う人を眺めた。

 新聞配達、ジョギング、犬の散歩。この時間でも人通りは結構ある。中にはスーツ姿の人もいた。こんな時間から会社に? と思ったがすぐに通勤に2時間、なんてよく聞く話を思い出した。そのときは「うわー」と思っただけでリアルな想像はしなかったけど、目の前にそんな人が現れると「マジか」って感じ。僕には考えられないな。いかに限界ギリギリまで布団に入っていられるかが最重要項目な僕には。

 夜から完全に朝に変わって、人通りが極端に少なくなった。しばらく理由を考えたら、あーもしかしたら朝飯食ってるからかなー、なんて思った。そしたら、下にいる人達のことが気になった。この家の人達。

 あの人達も朝飯を食べている頃だ。はたして本当に食べているのか。そんな食欲があるのか。食べているとしたらどんな顔して? 一緒に食べているのか、それともそれぞれ別々に食べているのか。なんてことが気になった。
でも、それを確かめには行けない。そんな気にはなれない。第一、そんなことを気にしてるってのがもう、女々しすぎる。

 そのうち、徐々にまた人通りが多くなってきた。夏休み中だから学生は多くない。ほとんどがスーツ姿だ。でも、これから部活に行きますって格好の奴らはいる。知ってる奴もいた。昨日葬式で見た顔もあった。でも、いつもと変わらないように見えた。何もかも、いつも通り。

 ふっ、と自嘲する。当然だろ? それほど親しくもないのに。僕だって、同じ立場ならきっとそうだ。

 じゃあ、サッカー部は?

 もう練習するんだろうか。さすがに2、3日休むんじゃないか? でも、夏休み明けにはすぐ新人戦がある。そんなに休むかな? もしかしたらもう、今日練習するんじゃね?

 ……くっだらね。はーあ。さっきから変なこと気にしてんなよ。かっこわりぃ。

 自分の足元を見つめて、何か別のことを考えようとした。でも、チラチラと邪魔をする。昨日の記憶が入り込む。否応なく引きずられる。葬式の、あの場面。

「……ちっ」

 ジッとしてるから、ダメなんだ。


 ここに来たのは久しぶりだ。小学校に上がるまでは日曜日に家族で。小学校低学年までは学校の帰り道に。でも、それから徐々に行かなくなって、いつが最後だったかも曖昧だ。たぶん、6年のときも行ってないから5年のときかな。

 記憶の中にあるのとは少し違っていた。足りない遊具がある。確か、誰か怪我をしたとかで撤去されたって聞いた。グルグル回るやつ。そのせいかどうかは知らないけど、今はあまり遊ぶ人がいない。いないって噂を聞いてたから来たんだけど。

 とりあえず、ベンチに座ってみた。平日の朝っぱらから公園のベンチに座っているなんてリストラされたサラリーマンみたいだな。でも、ハトはいない。僕も餌は持っていない。ただ、セミがうるさかった。

 目の前のかつて砂場であった場所にはシートが被せてあった。誰もいないから被せているのか、被せたから誰もいなくなったのか。いまさらそんなところで遊ぶ気にもならないけど、なんとなく寂しい気はした。こんなこと思うなんて、老けたな、僕も。

 住宅街の公園。でも、もう公園とは呼べないかも。誰もいないから。ベンチの周りには木が植わっていて、近くの建物からはちょうど死角になっている。姿を隠す必要はないけど、そのほうがなんとなく落ち着くのは確かだった。日陰だし。

 ……日陰だし?

 僕は自分の頭が言った言葉の意味を探るように木の陰とそうでないところを鋭く観察した。
少し黄ばんだ象牙色の土の上に葉っぱの形にデコボコした影が重なっている。それは完全に光を遮るわけではなく、ところどころ薄く光を通していて、影とはいえ単純な黒ではなかった。

 僕はすっくと立ち上がりその境目まで移動した。光と影の境界線。そこに手を伸ばしてみる。

 ……暑くない。全然、暑くない。

 僕は深いため息を吐いた。今の僕に、暑さ寒さは関係ないらしい。当然といえば当然だ。まだ一日のうちでは気温が高くない時間帯とはいえ、この猛暑の中にいて汗ひとつ出ない。

 こんなことにも、気づいてなかった。

 もう一度ため息を吐いた。やれやれ、って感じに頭も振った。それからうつむき、薄く笑った。それからもう一度ベンチに座った。

 セミの声はどんどん勢いを増しているようだった。この辺りのセミがこの公園の木に密集してるんじゃないかってくらいに。ミンミンとやかましい。

 脱力し、ぼんやりとしているとだんだんセミの鳴き声が頭の中に侵食してきて、それがどこで鳴っているのかわからなくなった。水の中で絶え間なく沸いてくる空気の弾ける音を聞いているみたいだ。

 ふと、目の前に猫がいるのに気づいた。いつの間に来たのだろうか。白地に黒のブチでやたらと目つきが悪い。その目で、僕のことを見ていた。睨んでいた。

 動物は人間より霊感が強いという。猫、狐、狸なんかは特に。実際、目の前にいる猫は明らかに僕のことが見えている様
子で、ジッとこちらを観察していた。僕は少し居心地の悪さを感じた。なんなんだ、コイツは。

「ニャー」

 猫が鳴いた。鳴き声を表すと、「ニャー」としか言い様がないけど、それは「にゃー」なんてのん気な表現では表せない険悪さを含んでいた。たぶん。

 トコトコと僕の足元まで来てもう一度鳴いた。頭の中で閃くものがあった。もしかしたら、ベンチに座りたいのかもしれない。猫は涼しいところをよく知っているという。でも、それならベンチの下のほうが涼しいんじゃないかな?

 そう思って足を上げ、ベンチの下に入りやすいようにした。しかし猫はすぐさま「ニャー」と鳴いた。どうやら違うらしい。やはりベンチの上なのか。

 ベンチの真ん中に座っていた僕は、試しに端まで寄ってみた。これなら充分にスペースがある。しかし猫は動かない。ジッと僕を見てくる。もしかして、どけっていうのか。

 もしかしたらここはこの猫がいつもいる、お気に入りの場所なのかもしれない。僕はさしずめ侵入者というわけだ。なるほどそれならばこの場所を猫に譲るのが筋かもしれない。だが僕は人間様だ。猫に睨まれたからっておいそれと場所を空けることはできない。いつもはお前の場所かもしれないが、今日は僕のほうが早かったんだ。すでに譲歩はしている。これ以上譲る気はない。

 僕は足を組み、お前のことなんかもう知らない、というように正面を見た。もちろん視界の隅で猫の姿を確認している。さあ、どうする?

 僕は猫が空きスペースに陣取ると思っていた。そして僕は勝ち誇り、いい気分で同じ場所を共有できると思っていた。あわよくば触ってみたかった。

 しかし猫はプイ、と何処かへ行ってしまった。

 僕にとって都合のいい妄想は猫君の大人な対応によって打ち壊された。僕の良心にささやかな傷を付けて。自分の人間の小ささを浮き彫りにされてしまった気がする。待ってくれ。退く。退くから。でも、猫は振り返ることもなく何処かへ消えてしまった。

 なんとなくいたたまれなくなって、僕はその場を後にした。……ゴメンな。

 後悔と自己嫌悪でヨロヨロと空を漂う。その姿はクレーンゲームで吊り上げられたぬいぐるみに似ていた。

 ……で、これからどうしようか。

 昨日一晩、眠れぬ夜に充分すぎるほど考えて、わかったことがある。

 葬式で、泣いていたあの娘。

 あの娘のことが、気になる。

 本当は、考えるまでもなく、わかっていた。あの瞬間から、気になって気になって仕方がなかった。でも、考えないようにしていた。知ってどうなる、というのもあった。メンドくさいって気持ちもあった。どうせたいしたことじゃないとも思った。

 でも、やっぱり気になるんだ。それはもう紛れもない事実で。それならばいっそ、知ってしまったほうがいい。知らずにいつまでも引きずるよりマシだ。

 どうせ、暇だしさ。……そう、暇潰しだ。


 僕は学校へ向かった。学校は坂の上にある。坂の長さは400mくらい。それほど傾斜はきつくない。ただ、それは駐輪場までの話。さらにそこからまた約200m登る必要がある。それがキツイ。さすがに今はもう慣れているのでそれほど苦痛に思わなくなったけど、入学してすぐの頃や、遅刻しそうなときは最悪だった。特に遅刻しそうなとき。いっそ遅刻でいいやって思ったね。

 そして運動部なら誰もがここを走ることになる。「せっかくこんないい場所があるんだから使わない手はない」と顧問の奴らは言う。ふざけるな。何のバツゲームだよ。しかも下りは負担が大きいからって上りばかり走らされる。だから運動部の連中は例外なくこの坂のことを呪っているし、怨んでいる。

 ……サッカー部でも、ここを走った。竹本が、上でニヤニヤ笑ってやがったんだ。

 ……。

 別に、意味は無い。なんとなくだ。なんとなく、僕は飛ぶのをやめて、その坂を歩くことにした。とぼとぼ歩いた。

 一度気になり始めたことを、頭から放り出すのは難しい。

 ……僕の後は、誰が入るんだろうか。
 
 僕はトップ下で10番だった。もちろんレギュラーの。サッカーにある程度詳しければこれが特別だってことがわかるはずだ。……いや、違う。確かにそれは特別なことだけど、僕が特別ってわけじゃない。念のため。僕は自惚れちゃいない。自分の実力はちゃんと知ってる。代わりなんていくらでもいるはずだ。

 だから僕が気にすることは無い。あいつらなら、香川と、なにより中野がいるから、僕がいなくても県でベスト4に入る事だって夢じゃない。だから、早く練習を始めたほうがいい。僕のことなんか忘れて、新しいチームを作ればいい。

 坂を上りきるとすぐ正門がある。そこから桜並木が続いている。今は葉桜だが、春にはそれなりに綺麗だ。ただ、その後散った花びらの掃除をさせられるのであまり印象は良くない。メンドクサイほうが大きい。

 その先にグラウンドがある。フェンスのむこう、野球部が何か叫んでいるのが聞こえた。その音量といい、不快指数といい、セミといい勝負だ。そのせいか、他の音が聞こえない。そういえば、吹奏楽部の音も聞こえない。あの、なぜか強く放課後を思わせる音。グラウンドが赤く染まり、影が時計の針みたいに長く伸びる。カラスが鳴いて、チャイムが鳴って、そろそろ帰る時間だって知らせてくる。

 サッカー部の声が聞こえない。僕らだって声を上げる。野球部ほど意味無くわめき散らしたりはしないけど、誰かが失敗したら冷やかしたり、いいプレイをしたときだったり、指示の声だったり、ランニングのときだって、声を出す。それが、まったく聞こえない。こちら側からだと野球部が手前にいるのでかき消されているだけかもしれない。でも、たぶん――。

 すべてがハッキリ見える位置に来た。やはりそうだ。グラウンドでは、野球部がいつもは使えない半面まで勢力を拡大させて、フライの捕球練習をしていた。それを迷惑そうに陸上部が眺めている。強くないんだ、うちの野球部。

 サッカー部はいなかった。

 体の力が抜けていくのがわかった。知らずにホッ、と息をついていた。

 僕はそのまま、いつもサッカー部がいるはずの場所を眺めた。

「ガシャン」

 その音でハッ、と我に返った。フェンスを挟んで向こう側の地面に野球のボールが転がっている。元は白かったのだろうが今は薄汚れて黄ばんだ色をしていた。野球部員が一人走ってきて、それを拾ってまた走っていった。僕には見向きもしなかった。

(行こう……)

 もうここに用は無い。


 30m程度の距離をうつむき歩いた。無意識に奥歯をギチギチ噛んでいた。

 生徒用出入口。ガラスの向こうに下駄箱が並んでいる。人影は無い。扉は閉まっていたが、今の僕には関係ない。向こう側が見えるところをすり抜けるのにはもう全く抵抗を感じない。

 校舎の中は驚くほど静かだった。下駄箱から廊下に出る。窓はピタリと閉められていた。そのせいで外の音が遠い。学校があるときはすべての窓が開け放たれていた。隔離されたような場所にあるので騒音というほどの音はなかったが、それでも絶えず雑音が聞こえていた。こんなに、雪の日の朝みたいな静けさを感じたことは無かった。

 誰もいないのだろうか。そんなはずはない。授業が無くても誰かしら、少なくとも先生は何人かいるはずだ。文化部の部活だってやってるはずだ。……やってるよな? 文化部の活動の実態を僕はよく知らない。気にしたことも無かった。

 僕は近くの教室の中を覗いた。時間を見たかったからだ。家庭科室。中には誰もいない。正面の壁、中央上部に時計はあった。10時39分。

 まあ、そんなものだろう。

君の手を 第4章

≪第4部 終≫

君の手を 第4章

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-20

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