安楽C

まえがき


先日、祖母が私に、尊厳死協会に加盟した、ということを告げた。
これはもし、彼女が延命措置を受けることになり、難病によって苦痛を感じながら生かされている場合に、残された家族への負担や、自らの精神的肉体的苦痛を解放するために、穏やかに人生の幕を閉じるためのものである。

もし、自分が難病などで寝たきりになり、意識も虚ろなまま苦痛に耐え、それを支えるのに莫大な時間とお金がかかっていたら、と考えると、私も穏やかな死を望むであろうと思う、いや、必ずそうするであろう。

今までの二年間、「社会保障」という分野の勉強をしてきて学んだことは、弱者の救済であり、精神的、肉体的に苦しんでいる人を“何とか生かそう、生きていれば良いことがあるさ”、的な事ばかりであった。それについて否定することは全くない、しかし、どうだろう、どんな社会保障にも自分以外のお金と時間がかかり、その労力によって新たなる問題が生まれ、さらに弱者を追い詰めているではないか。そしてそれは、「生きる」事の幻想にとり憑かれた歪な社会を生み出している。

寒い冬の日、駅前で凍えながらダンボールハウスで眠る人

人が良いばっかりに陥れられ、最低の生活を余儀なくされている人

一つの失敗で一生周りに取り残された人

小さなプライドのせいで核のボタンを押そうとしている人

自分さえも見失った人

彼らがそれでも生を望むのはなぜなのだろう。
それが「生物だから」だとしたら、なんて残酷なのだろうか。
彼らを最終的に救うのは、「生きる」ことの幻想にとり憑かれた社会からの開放なのではないだろうか。

以上のような点から私は、近い将来における新しい社会保障の形として、死ぬことを認める事によって弱者を救済する「死」という福祉について考えてゆきたい。

現代日本の安楽死

安楽死の定義は一般的には、“肉体的苦痛を伴う不治の傷病者を安楽に死なせること”とされている。安楽死は尊厳死(後に記述)とは違い、第三者が、苦痛を訴えている患者に対して「死なせてあげる」行為である。

安楽死の中にも種類があるが、どのようなものだろうか?
ここにある老人がいたとする。彼は末期のガンを患っており、病院に縛り付けられている。
彼をどうするか?
適量の麻酔薬などで死期を縮めることなく、じきに訪れる死に向かい、その経過での苦痛を和らげること、これを純粋安楽死という。これは治療行為として適法で有る、が、はたしてこれが医療だろうか?
適量ではない副作用の出る量の麻酔薬などを使い、彼の苦痛を極端に減らし、それによって死期を縮めてしまうもの、これを間接的安楽死という。これは現代の日本では、医学的正当性と患者の同意がある場合適法な治療行為として違法性はない。
彼がこれ以上苦痛を長引かせないために、延命措置を断り、それによって死期を早めるもの、これを消極的安楽死といい適法とされている。この場合、彼が状況を理解して延命措置を拒否している場合、医師には回復に役立たない措置をとる義務はない。
そして問題になるのが次の場合である。
彼はこれ以上の苦痛は受けたくないし、医者や家族に負担をかけたくない、死を受け入れる、だから楽に殺してくれ、といった場合である。家族や医師は彼の苦痛を汲み取り、彼を楽な方法で眠らせる。これを積極的安楽死という。
しかし、これがなんと、違法ということになっているのである。

現在、多くの国で積極的な安楽死は自殺幇助として違法となっている。
私がここで疑問に思ったのは、苦しみを感じている人を救うために、手を貸してあげることが、何故違法にならなくてはいけないのか?ということである。
医者は苦しみを感じている人を治療し、治して生かせる。これは医者も患者も、生きる事に向かって同じベクトルで考えるから善行なのである。
では、一方が、よく考えた上で、本当に自分と相手のことを思い、死ぬことに向かって同じベクトルで考えようとすることは何故違法なのだろう。
私はここで、森鴎外の小説「高瀬舟」の登場人物、庄兵衞と同じ気持ちになった。
弟殺しの罪で島流しになる男が乗る船の上、役人がその理由を聞く、それは誠実に生きてきた男が病で苦しむ弟の頼みで自殺の手助けをする、という話である。

以下にこの小説を引用させてもらう。

庄兵衞は其場の樣子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、其疑を解くことが出來なかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、拔いてくれと云つた。それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。

このように、第三者による積極的な安楽死は昔より関心の的であった。
何故、現代日本では積極的安楽死が違法とされるのか、私の考えでは倫理的な問題以外にも「面倒くさいから」という考えがあると思う。警察や裁判所は、一つの殺人に原因を求める。その過程の中で、死人の証言ほど不確定なものはない、つまりそれは本当に安楽死なのか、それとも単なる殺人なのか、その判断をつけるのが面倒くさいと感じているのだと思う。そうでなければ積極的安楽死は認められて当然だと思う。
このことは、今現在の制度で安楽死というものが公的に認められていないということに起因すると考える。つまり、公的に認められた意思表示がありさえすれば、それを違法としなくても良いのではないか、と考えている。

この話を良識的な方に話すとヒポクラテスの誓いを見せられるかもしれない。しかし私がヒポクラテスの誓いを見る限りでは、これには大きな矛盾が潜んでいると思う。それはこの部分である。

私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない、同様に婦人
を流産に導く道具を与えない
I will follow that system of regimen which, according to my ability and judgment, I consider for the benefit of my patients and abstain from whatever is harmful and mischievous.
I will give no deadly medicine to anyone if asked, nor suggest any such advice; likewise, I will not give a pessary to a woman to induce abortion.

この部分にはどうしても賛同できなかった。能力と判断の限りに患者のことを考えたとしたら、頼まれても死に導くような薬を与えない、というのはおかしいと思うのである。

日本の安楽死の変遷

今の日本では、もし安楽死が合法とみなされる場合において、ごくごく限られた場合においての間接的、消極的安楽死であるというのが現状である。
その“限られた場合”とはどのような場合であろうか。

1962年の名古屋高等裁判所判例、
「不治の病のために死期が直前に迫っており、苦痛が耐えがたいほど激しく、もっぱら死苦の緩和の目的でなされ、なによりも患者自身の安楽死への明瞭な意志があり、しかも死を惹起する手段が苦痛を伴わず、医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合にはそれを首肯するに足る事情があり、方法が倫理的に許容し得ること」

平成7年横浜地方裁判所判例

生活保護

最近流行のニートも引きこもりも、共通するのは他者依存であると思う。
ここでは、生活保護について調べてみてわかった、働く意思がない若者の生活保護取得についてまとめてみたい。
ここではあくまで、“働く意思のない”私のような人がどう生活保護をGETするか、についてのみ書いてゆきたい。

第一に、「働く意思がない」ことを、「働くことができない」にどうすり替えて申請するかが問題である。
これについては、“精神的疾患”を理由に生活保護を申請するのが一番である。
何故なら、筋肉や骨の痛みなど肉体的な怪我などは詐称しにくいからだ。
精神障害によるこの問題のクリア方法はひとつ、医者の診断書をもらうことである。
そのために、申請数ヶ月前から医者に通い、「全くやる気が出ない」と訴え続けるか、アルバイトなどをして、わざとミスを繰り返し、失業状態になってから医者に行くのもいい。
生活保護を受ける精神障害者は多くいるらしく、この問題をクリアするのに一番良いのが精神障害による労働不可能状態を作り出すことであるといえる。

第二の問題は、親や兄弟の扶助があっては生活保護が受けられないという問題だ。
ケースワーカーによる質問の中に、親兄弟による扶助の項目があるのだが、これは、親兄弟が、扶助の拒否を申し出ればすむことなのである。それは遠くに住んでいれば書面でも平気だということだ。

第三の問題点は、生命保険や預貯金の存在である。なぜ生命保険がいけないのかというと、貯蓄性があるものだからだ、ということらしい。これはどうしても解約することになってしまうが、掛け捨ての全労災や県民共済は認められるとのことだ。預貯金は基準額である十数万の半分まで認められることになっているが、もし、申請するとき預金がこの数万を超えていたらどうすればいいだろうか、それは冷蔵庫や洗濯機、ストーブなどの耐久消費財を買ってしまうのがいいらしい。普通の家庭に普通にあるもの、であれば贅沢をしていないとみなされて、審査を通ることができるとのことだ。最近では、回復後にパソコンの仕事をしたい、と申し出れば、パソコンなども認められるようになってきているらしい。

これらの問題点を克服した後に、晴れて生活保護を受給することができるようになる。

拡大解釈

今まで日本、世界、安楽死是非の根拠、と見てきたが、私は「安楽死は当然認められるべきである」と思うし、罪に問われること自体がおかしいのだと思う。
そしてそれは、なにも末期患者だけの安楽死だけではなく、日常で精神的に苦しんでいる人たちに対しても、痛みを感じさせず死ぬ権利を与えるべきであると思う。障害者や病人に医療、高齢者に介護や年金、金銭的な弱者には生活保護、など日本では様々な弱者救済の社会保障システムが行われている、が日本の自殺者数は年間3万人を超え、大きな社会問題になっている。なぜこれほどまでに自殺者が出るのだろうと考えると、そこに、精神的に追い詰められている弱者に対する福祉がほとんど行われていない、という問題があったのだった。精神的に追い詰められている弱者とは、日常生活を送れるが、生きるのが辛く、障害者にも病人とも言えずに健常者の世界で健常者として生きなければいけないような人たちである。そして、そのような苦しみを感じている人間を救うのは、健常者たちによって作られた世界から出てゆける権利をあげることだ。オランダでは肉体的苦痛だけでなく、精神的苦痛も認められる、とあるが、その安楽死には医師の判断と多くのチェックが必要になる。自殺を望む人間は今、死にたいのであって、何日も苦しみに耐えながら生きていたくないのだ。私は、日本ではこのプロセスを大幅にシンプルにして、医師の判断も多くのチェックも必要としない、24時間営業の公衆自殺施設を国のいたるところに作るべきであると思う。

この考え方は、生活保護によるセーフティーネットよりも更に下、地面に激突する瞬間の痛みを無くす、最後の社会福祉制度なのだ。
その中に、もちろん安楽死も存在している。末期がん患者は、医療というネットを張ったにもかかわらずネットは破れ、地面に激突し、死ぬことが出来ずに痛みに苦しんでいる。ここでもしも最後のセーフティネットである死を与えてあげることが、誰もがその不安をすることがなく、全力で生きられる世界を作るのではないだろうか?
私が考えている自殺の容認は、医療の網の目にも引っかからず、障害者保険の網の目にも引っかからず、地面にただ激突してしまう人間を救うためにあるのだ。
ただ、こういう風に言うと、医療の網をもっと強いものにすればよい、とか、医療の網の目をもっと細かくすれば良い、とかの反論が来るだろう。だが、いくら網を強く目の細かさを上げたとしても、落下する人間の重さには耐えることが出来なくなるのだ。つまり、人間の生命には限界がある、ということである。そして、一人の人間を救うために網を張り助けても、その横では他の誰かが、地面に激突してしまう。つまり、医療や社会保障制度にも限界がある、ということなのだ。
このように、公的な自殺を社会保障制度の一つと認めることは、患者個人の最後の緩衝材であるだけに留まらず、医療やその他の社会保障制度の網が破れるのを防ぐ支柱になってくれるものである。

もう一つ、公的な自殺による社会保障制度には良い点がある。今は年間3万人もの自殺者が自分の意思で死んでいっている、それは電車への飛び込みであったり、人知れずどこかへ消えたりである。もしこの3万人いる患者が国の管理下に一切の苦痛なしに死に、任意で自分の臓器や血を他人の医療に役立てることが出来る、としたらどうであろうか?
死にたいと思う人のおかげで、生きたい!と思う人が助かるのである。もし、自殺志願者の意識レベルを極端に落とす、あるいは脳死状態に出来るのであったら、現代医療の十八番である、定期的な栄養と呼吸を与える延命措置で、その体は毎日新鮮な血液を作り、いざ必要というときに臓器を提供することもが出来るのだ。

この制度を作るにあたって、一番反対が起きるのはやはり、本意でない自殺が行われるようになってしまう、という「滑りやすい坂」論である。が、この施設は確実な死を約束するものである。このため、リストカットによって気を引きたい人や、狂言自殺をする人がこの施設に足を運ぶことは決してないと思われる。この施設の存在によって、思い悩む人間は、本当に死にたいのか、死にたくないのかの判断がはっきりと自覚できるようになり、今のこの社会よりも本意でない自殺は減るものであると考えられるのだ。

そしてこの制度のもつ一番の良い点は、生きることに対して今以上に意識させることが出来る、という点である。
現代に生きる人間は、自分が何時死ぬかを意識しない。それは何故なら、100歳を超えて生きる人も居れば、60歳までも生きられない人が混在しているからである。人は、自分で始めると決断したわけではない誕生というスタート地点から長い距離のマラソンを走らされているのだ。そしてそのマラソンのゴール地点が後どのくらいなのかはわからない。さらに一度転んでしまったら再び周りと同じペースで走ることが出来ないレースなのだ。この苦しみは順調なペースで走っている人間には分かりづらいものだ。
今の日本はまさにこのような形である。一度ホームレスになってしまうと仕事も見つからない。住所がなければ保証人として信用のある人間として見られない。こんなルールで走らされている人間に、自分で決めることの出来るゴール地点を用意してあげればどれだけの救いになるだろうか?
そして更に、ゴール地点を明らかに越えているのに走らされている人間、これらに対し安楽死を施し、走るのを辞めさせるのがどんなに人道的なことであるだろうか!

このような利点から、私は公衆自殺施設の設置と、安楽死の完全な容認を求めるのである。
では私の考える理想の公衆自殺施設、安楽死法について述べてゆきたい。

公衆自殺施設は少なくとも一県に一箇所、特に人口の多い場所では多くの設置が必要であると思う。
もちろん、予算は新しい社会保障制度の一つとして新しく作られるべきである。終末医療にかかっていた無駄な医療費で十分賄えるのではないかと思う。公衆自殺施設は24時間開かれているべきものであり、どんな時間の自殺要請にもこたえるべきである。また、自分から出向くことが出来ない自殺志願者のために送迎の要求にもこたえられるようにしたい。
まず、国民に年に一度、正常な判断が出来る状態であれば、「自殺を望んだときの判断を、たとえ判断能力が足りないような精神状態であるとしても認める」か否かの決断を残すことを義務付けさせる。
そして、この施設にやってきた自殺志願者は、まず完全に身元の証明となるものを確認、そして残してある意思を尊重するかどうかの書面を確認、死後に自分の体を医療に役立てるかの判断を確認する。身元が確認できたら残された家族へのメッセージや遺書を書き、適切な方法で殺してもらう。
私は何故自殺するのか理由を聞かないことも実際に死の淵に立っている人間には必要であると思う。

安楽死の容認については、先ほどの公衆自殺制度でとられる、年に一回の確認と同時に、リビング・ウィルによる意思を残しておくことを義務付ける。そしてそこに安楽死への同意があった場合、家族の意思より、医師の判断が優先されるべきだ。という制度である。

安楽C

あとがき

安楽C

概要

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2012-01-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 現代日本の安楽死
  3. 生活保護
  4. 拡大解釈