無人の境目 ‐an Uninhabited of boundary line‐
読んで頂ければ幸いです。このご縁を大切に、日々を過ごします。
なんて幸せなんでしょう…。
(イラストとか考えてくれtら嬉しいです)
第一章・情動的怒火 (じょうどうてきどっか)
/1
十一月の秋分が過ぎた寒い冬始め。
玄関が開く音が聞こえた。外の風の音も聞こえる。
歩く音がし、来訪者が扉を平坦に開けて事務所に入って来たようだ。
「…なんだ…お前か。流(ながれ)」
私は一瞥し、興味無く視線をデスクへ戻す。
「な、なんだ…って俺以外あんまり人来ないでしょう。いやそれよりもう外、く、くそ寒いんですけど」
そいつは小刻みに震えながら、私に外の厳しいだろう寒さを伝えてくる。
「冬の時期が迫ったからだろ。確かに。十一月だからな」
さぞ当たり前のように私は吐いた。
「この事務所、暖房くらい付けてくださいよ。煽(せん)さん」
コートを脱ぎながら文句を言ってくる。
私はその感に触る発言と態度に何故か苛ついた。
「寒く等無い」と吐き捨てデスクにある依頼の書類を見始める。
流は不思議な顔をして、白と黒のチェック柄のスリッパを履いてこちらに歩む。
私の机の前を通るついでか、「なんかすいません」と軽く頭を下げてきた。
そしてコンビニのビニール袋をガサつき、微糖とロゴの入った缶コーヒーを出して私の机に。
そのままこいつは私の机から少し離れた所にあるソファーに真っ黒なコートを丁寧に掛け、腰を下ろした。
流はブラックの缶コーヒーをビニール袋から取り出し手に取る。
今の私に対する気遣いと遠慮から、遠くのソファーに座ったのだろう。
だがこのコーヒーは元から買って来た物だろうから、私の物か。
対して何も言わずに熱めの缶を持ちアルミの音を、この無機質な事務所に響かせて少し飲んだ。
流も私の様子をちらりと見てから、缶コーヒーを開けてぐいぐい飲み始める。
「暖まるなあ。冬はやっぱりホットのコーヒーか、紅茶に限りますね」
恐らく私に言っているのだろうが、こいつの独り言として受け止める事にした。
流は応対しない私に何か礼でも期待したのか、わかりやすい残念な顔をする。
ビニール袋から昼食であろう弁当を取り出しているのを見て、私は思いだした。
「流。煙草をくれるか」
「…何か言いました…?」
聞き取れなかったのか阿呆面の表情をした流が、もう一度と言う。
「……十月の西情(さいじょう)の件の後に、次から煙草を買って此処に来るようにと頼んだ筈だが」
流はふと天井を見上げ口を情けなく開けて、「あっそういえば…そんなこと言っていたな」等とぬかし始めた。
「す、すいません…。あの時だいぶ頭を使われたものですから。しかもあれですよ、俺煙草吸わないので買う習慣も無いし…」
無碍な言い訳が続く。
それに私は呆れて大きな溜息を尽き、机に左肘を付いた。
手の甲に顔を付け、流を睨むように見て言う。
「御託はいい。少し口を閉じていろ。…駄犬」
私がそう言うと主人に従う犬の様に黙った。
この犬の様な莫迦の名は、影平流 (かげひらながれ)。
四ヶ月前の六月。
猛暑と言われた真夏の中、私の依頼中の喧騒に巻き込んでしまった青年が彼だ。
今風の若者だが流行りには乗らず、自分の個性を大切にしている奴で服装は上から下まで黒。
必ず何かしら黒を主色とした、落ち着いた雰囲気の服を好んで着ている。
髪は染めてはいないが多少は手を付けてはいるのだろう。
前髪は少し長く目に掛かっていて、それが邪魔なのか右側に流すようにしている。邪魔なら切れば良い物を…。
顔つきは綺麗な切れ長の目つき、声も低過ぎはしないが低い部類か。加えてがたいもよく、最初は誰でも怖がりそうな印象を放っている。
身長は百七十三センチ程といった所か。平均的身長だろうが私には大き過ぎるくらいだ。
……首がとにかく疲れる。
「あの。黙る前に一つ。煽さんひょっとして怒っています?」
―――怒る?
苛つきはしたが怒るという物まで高ぶっていたのだろうか。
……よく解らないモノだ。
感情等この仕事や私には不要な物であるから。特にそれに意識する必要も無いし意識しているのかも、意識を意識として脳が認識しているのかも難しい。
「はて、お前さ。私が怒っているように感じたのか。流」
肘を机に付いたまま顔だけを起こし、そう私が不思議そうに流に訪ねると。
すると彼でさえ不思議な顔をして、「まあ…」と左手で顎を触りながら答えた。
「怒り…か」
これがその感情だとするなら、何故私はこの青年に対し苛々してしまい―――怒りを募らせたのだろうか。
◇
紅我煽(こうがせん)さんは俺の上司だ。
煽さんの事務所は、ある場所の十一階建てマンション六階の一室の部屋。
玄関のネームプレートは、何故か紅我をロシア語で書いている。
煽さんが言うには一般人は疎か、此方側の者に何かしろの情報でも伝えないばれない様らしい。
広さは1LDKの三十畳。事務所に使っているLDKと、煽さんの部屋の洋室だ。
事務所に入るには玄関から真っ直ぐ行き、扉を開けるとそのまま入れる。事務所の隣の洋室、煽さんの部屋には一度も入れてもらった事は無い。
事務所は煽さんの机と、深紅のデスクチェアー。来るかわからない客用の真っ赤なソファー二つと、大きな木製のワインレッド色の机。
ソファーは俺が毎回使っているから、もはや職員用だろうな。
三十インチのテレビが三台と、壁に六十インチのテレビが1台掛けてある。他は本棚と、依頼書類等のファイルの束。
テレビの多さには最初はビックリしたが、「テレビの量は情報の量に比例する」とのこと。勿論全部つけっぱなしだ。
四台共主にニュースしかチャンネル設定してないが、電気代は馬鹿にならないんじゃないか?
台所は余り本人は使わない様だが、俺が毎回紅茶か珈琲を作っている場所だ。
浴室は普通の広さ。トイレは勿論別室。
洗面室は煽さん専用の台座がある。それでも顔は鏡に映るのに、「服装も見えるくらいじゃないと鏡ではない」って不愉快そうに言っていたな。
鏡は三面鏡。浴槽も普通の広さで…まあ、あの煽さんなら足いっぱい伸ばせるだろう。
煽さんの部屋以外は、俺が三日に一回掃除を担当している。
これも立派な仕事の一環で、「掃除も出来ない奴は何しても駄目」らしい。ただ掃除している煽さんは見たことはない。
俺が帰った後に自分の部屋でも掃除しているのだろうか。
洋室の部屋はどうなっているのだろう。あの煽さんだ全く予想がつかないな。
もの凄く気になるが…何かしら必ず仕掛けてあるだろうから、入るのも怖い。
何でも自分が許可した人間以外勝手に抵抗する仕組みを作っているらしく、事務所の扉にも仕掛けてあった。
事務所の扉までなら許可されている俺は、煽さんの部屋には入れないくらい心の〝許し〟の範囲か。……信頼性の表れだろうか。
此処に勤める四ヶ月前の夏、俺はホテルの従業員で主に受付を任されていた。
その当時の日。学生達の様な羨ましいもう戻らない夏休みや、各色々な会社の会議室のホールの用意や何とかで連日予約がいっぱいだった。
そんな中の猛暑が最低な汗臭い夏。ホテルの従業員だった俺は、紅我煽さんとフロントで受付の際に初めて顔を合わせる。
この人は「一日、二日宿泊するから荷物を部屋まで運べ」と命令してきた。
大きな旅行鞄をフロントのデスクに大勢の人達が見ている中、
鞄をドスンと叩きつけるように渡してきたのだ。
そして煙草のケースを取り出し「喫煙所はどこだ」と言ってきたのが俺は一番驚いた。何故驚いたかって…。
―――低い――――かなり低い―――――洩れなく背が低い。
とても大胆不敵な方だが。百四十センチあるかないか、くらいの女の子。
とにかく小さいので、旅行鞄をデスクに置かれた時は姿が隠れてしまったくらい。
しかし周りで驚いていたホテルの客人達に気付くと、しなやかに振り返りゆっくり見渡し始めた。
そして手を胸に軽く置き丁寧に、大人だと語らずとも分からせる謝罪と立ち振る舞い。
その出来た気品さは、誰もが一瞬魅了されたのではないだろうか。
服装は自分の背に合わしたオーダーメイドなのか。真っ赤なフォーマルドレス姿は襟が崩れる事無く整って清潔感があり、初対面でもきちんとした印象を受けるスタイル。
小さいが子供用の服とは明らかに違っていた。
髪は軽く言えば茶色だが、深い赤みを帯びた赤茶か。傷んだ所は無く、染めた色ではないようだ。寧ろ普通の女性より綺麗な髪の毛だと思う。
指通りも良さそうなサラサラ感。腰より長い太ももまである後ろ髪。
大きめな紫色のリボンで、長い毛先を地面に着かないように臀部辺りで結っていた。
声は高いが落ち着きがあって、真っ当な大人を感じさせる。曇りはまったく無く、思わずどんな話しも聞き入ってしまうだろう透き通るような声柄。
表情の作り方も余裕が感じられ顔立ちも整っており、人形の様な造形美は圧倒的な存在感を醸し出していた。
一言で彼女を表すなら、とても綺麗な背の低い大人な女性か。
この話しだけだとただ俺が、その煽さんの〝魅力〟に大変興味を持ち惹かれただけの内容になるが…。
まさかこれほど―――非常識な世界に入ってしまう出逢いになるとは。
この時は夏の熱さと仕事の忙しさ以外、まだ何も知らなかった。
「黙っていろと言ったが。私の問いには答えてくれ」
「―――え?」
その遠くからでもはっきり聞こえた言葉に俺はサッ、と現実に戻り我にかえった。
そしていったいこの人は何の話しをしていたのだろう?聞き直すとまた気分を悪くしそうだが。
「えっと…なにを話していましたっけ?」
煽さんは眉をひそめ溜息を吐く。机から左肘を離すと、如何にも高級な深紅色のデスクチェアーへ快適そうに背を預けた。
しかしその大きな背もたれに、小さな背丈が合わない。
しかもデスクチェアーに座っても足が届くよう、足下に台座を置いているくらいだ。
それが可愛らしいと言えば、可愛いが。言ったら多分永久に黙らされるのだろうな。
「質問を質問で返すとは、偉くなったものだな。流。…まあいい、もう一度言う。〝怒り〟とはなんだ。お前なりの考えでいいから説明しろ」
ああ、またこういった類の話しだったか。
煽さんは何か自分の感情について引っかかりを思うと、毎度唐突にこんな質問をしだす。
今時こんな事を不思議に思う人は、物好きか心理学者くらいじゃないだろうか。本当によく分からない人だが、その問いに答えなければ終わらない。
腕を組み、怒りについて考える。少し考えを脳内でまとめて、口を開け声に出し話し始める事にした。
「先(ま)ず怒りを説明するには根本的な事、…うん。人は喜怒哀楽、喜び・怒り・哀しみ・楽しみの四つで表現されていますよね」
いきなり〝怒り〟この題材から入るよりは、話しを基本的な事から初めた方が楽なはずと考えた。
俺は自分の指を四回折り、誰もが知る四つの人の表現を出始めに説明する事にした。
「知っている。それで怒りは?」
煽さんはまるで怒り意外には、興味が無さそうに話を割る。
何を焦っているのだろうこの人は。
「…ちょっと待ってください。ちゃんと説明しますから。と言うか、煽さんが言ったんですよ、俺なりに説明しろと」
「……そうだった。すまない、続けてくれ」
煽さんは一瞬キョトンとした顔になったが、すぐにいつもの無表情に戻った。軽く謝りながら話しを続けるようにと右手で諭してくる。
彼女は本当に自分が気になっていること以外は、興味の対象に入らないのだろうか。
とりあえず話しを続けよう。
俺は調子を戻す為に、少し咳払いをしてから話しを戻す事にした。
「う、んんっ!この四つの表現ですが、これは感情・情緒・気分等と呼ばれていますね。まず自分の心の中で感じ表情に出て最終的には行動にまで反映される訳です。そして動揺や息遣い冷汗をかいたりする等、身体的変化にも生じてきます。この様な過程全体を―――」
「情動」
俺が言う前に聞き役だった筈の煽さんが最後のまとめを、指で髪の毛をくるくる弄りながらつまらなそうに口にした。
しかし今日は色んな姿が見れる。
「なんだ。知っていたんですか」
何で説明させたのだとは言わず、俺は肩の力を抜き脱力しながら彼女を見た。
「お前なりに説明しろ、と言ったはずだ。知らなかった訳じゃない。本業ついでに、色々な学識は全て詰め込んでいる。……私は学んだけど感情については、どこか認識も理解も出来ないんだよ」
煽さんは寄り掛っていた背もたれから背中を少し曲げ、俺の目を睨み付け両腕を組んで語った。
言い終わると同時に、先程の睨みが利いた目を急に逸らす。
珍しく自慢かと思って聞いていたが、最後の弱々しい台詞と目付きでわかってしまった。
彼女は頭で感情や表現を理解しているつもりも無ければ、
認識さえもしていないだろう。目つきや口調を、行動と言う形で俺に伝えたのだ。
それはまさしく、彼女だけの―――〝人間情動〟。
「……無意識。そう流。私はね、産まれたばかりの赤ん坊と同じなんだ。人が笑えば泣けば怒ればそれを真似して笑う、泣く、怒る。当たり前の事を私は新生児特有の模倣と同様に行い、そんな繰り返しの中で欠落した感情をまた知らなければいけないと非言語を探っているのだと思う」
煽さんは心理なのか哲学なのか、また独自の学説なのだろうか。難しい内容を途切れず口を動かし淡々と話す姿は、やはり自分の事を無意識だが理解して欲しいという行動故の話しなのだろう。
「…流。煙草を買って来てくれ。一服してからまた話し合おう」
煽さんは喋り疲れたのかまたデスクチェアーにドサッ、と大きな音を出してもたれ掛かる。
喋っている間落ち着きがなかったのは、このせいか。
長く話している煽さんは本来なら、何本も煙草を吸ってはすり潰す。そんな話しのスタイルだから落ち着かなかったのだろう。
「わかりました。急いで行ってきます」
彼女の早く吸いたいだろう心情を悟り、ソファーに掛けて置いた真っ黒なコートをサッと羽織った。
怒りについての説明をまだ詳しく話してはいないが、俺や煽さんにも気分転換が必要だ。
気分をもっと悪くしないよう俺は急いで買いに行く。
そんな素振りと「行って来ます」と、短く台詞を残して事務所を後にした。
一章/情動的怒火
季節は秋。
依頼者から、一枚の書類が届く。
ただ寒いだけだった、退屈な時間を鮮烈な情動へと変えた。
未知な感情を、産み出した始まり。
/情動的怒火 (Saijyou Sirou)
/2
「今月の依頼はこんなもんですかねー。煽さん」
情報屋の竹塚(たけつか)が、電話越しにいつもの依頼の説明を終えたようだ。
「ふぅん。また下らない依頼ばかり集めたな。竹塚。特に、なんだその都庁前の掃除と言うのは。此処はボランティアを勤しんでいる所じゃないぞ」
私は呆れ混じりにそう言った。
「まあまあそんなボランティアみたいなので金が入るんすから、商売上がったりでしょ~煽さん」
竹塚は変に笑いを入れた声で、私を諭してくる。
「まあせっかくの依頼だ、流にでもやらせとくよ。それより依頼書全部とっくに出来ているんだろ?FAXで送ってくれ」
竹塚は枯れたような声で、「OK」と言い電話を保留にした。
保留音等、聴くつもりはない。
受話器を机に置き煙草ケースから煙草一本取り出し、市販の安物ライターで火を付けた。
依頼書がFAXから出てくるのを待ちながら吐き出した煙草の煙りをボウ、と観察。…私にはこれがないとやっていけない。
吸っているときの安心感、高揚感。……なんだろうか、嗜好品として強烈な依存性を含んだのが煙草と名称された商品なんじゃないだろうか。
小さな頃から吸ってはいるが、身体には何も害等無い。しかし〝旨い〟と賞するよりは、〝美味〟なのか。
少しすると、FAXから機械音が行儀悪く鳴った。そろそろ保留も切っているだろうと思い、デスクに放って置いた受話器を耳に付ける。
「遅かったな。……。もしもし?」
「…え―――もしー。やっぱりFAXじゃ時間掛かりますって~。前にも言ったけど良いプリンター教えますから、プリンターとデスクトップのパソコン買いましょうーよ」
またいつもみたくぼーっとしていたやつが、要らん情報をくれる。
竹塚。
流の紹介で知り合った情報屋だ。
表の下らない情報から各面々の一般人なら絡みたくない様な裏事や、表沙汰に出来ない様な内情まで…どこからか解らない所から情報を得ている奴だ。
八月の嘲来(あざらい)の件では、特に世話になった。
私はその多彩な情報力を認め、竹塚を仲介役として通し依頼者からの依頼を受け継いでもらっている訳だ。機械にも相当詳しく特にパソコン等は口煩い奴で、私や流に色々を勧めてくる。
「前にも言ったが機械は苦手なんだ。他を当たれ。…それより例の件を頼むぞ。何かあったら、此方からもかける。……ああ。またな。いつもすまない」
煙草を噴かしつつ以前に言ったことはその時の口で返し、礼を言って電話を切った。どこか抜けている奴だが、何だかんだで依頼と情報をくれるまあ一言で言えば良い奴だ。
「…煽さん。今回の依頼はボランティアですか?先月は夏場のプール清掃…でしたよね」
ソファーで紅茶を飲んでいた流が、電話を終えた私に嫌みタラタラな面をして言う。
「ああ。ボランティアと言ったのは、通称だ。社会貢献的な依頼だが、金も入る。九月は音沙汰無しだったからな。しかしお前も何もしないよりはいいだろう。後、私にも紅茶。いつもの、な」
「はいはい、わかりましたよ。ストレートですね」
気怠そうに流はソファーから立ち上がり、台所のある部屋に向かって早速紅茶を作り始める。
置いてあったポットは、温度低下を防ぐ為にタオルを巻いていたようだ。タオルを解きはだけたポットの中では、茶葉のジャンピングが起きている。
何でも流が言うには、ジャンピングが重要だそうだ。紅茶の成分が輸出されるとか。
流はティーストレーナーを使ってカップに注いで、お湯の入ったホットウォータージャグと一緒に私に持って来た。
こういう所は無駄に丁寧で真摯な奴ではある。
「そう言えばニュース見ました?また同じ場所で、違う人がまた同じような犯行を繰り返したやつ。五回も起きているのに、まだ解決してないみたいですよ」
……もう五回か。
最近に連続して起きている、サラリーマンやOLが起こしている連続無差別殺人。
なんでも不気味なのは関連性だ。
週に一度で〝火・水・木・金・土〟ときている。
同じ駅という〝人が集まる場所〟。
同じ時間〝夜の十九時〟。
同じ殺害動機と言う物。
違うとしたら……〝毎回犯人が別人〟。
正確に火から土まできている曜日、だけ。
九月の終わり頃から始まって以来、未だに繰り返されている不可解極まりない事件だ。
私は灰になりきってしまった煙草を灰皿に潰しながら応対する。
「決まって言う犯行動機が社会に普通に生きるのが、苛々して哀しくなり刺激が欲しくなった。駄(だ)物(もの)な。…最初の犯人の真似事だったら、どんなに楽に解決した事件か」
煙草だけでは、喉が乾く。流が淹れた紅茶で喉を潤さなければ、話し続けるのは酷になっていた。
少しだけ口に含み、味を舌でストレートだと確認してから飲んだ。
「例え真似だったとしても、こんなのやっている奴の気が知れませんがね」
「流。お前がその気になったらどうする」
「―――え?」
犯人達を見下したこいつに、犯罪者達の気持ちになってみろと私は態とぼやく。
流はそれについて驚くが、顎を左指で挟みながら無言で考え始めた。
顎を左指で挟んで考えるのは、こいつの癖。イメージは銅像の考える人に近い。
そのまま石になって銅像になるんじゃないか、と思う程長く考え込んでいる。私は紅茶をゆっくり飲みつつその様子を見て、こいつが口を開けるのを待った。
「それって、この他人達の動機付けをして考えて話さないといけないですよね」
「そりゃそうだろう」
「やっぱりそうだよな」とか自分に言い聞かせ、また左指で顎を挟み考え始めた。
……そう。人間が行動を起こすのにはその背後に、何らかの原動力が存在する。人間がその何らかの行動に駆り立てられる過程を、〝動機づけ〟と呼ぶ。
正常な人間なら自分自身が何故あんな事をしたのかと不思議に思い、他の人間が何故そんな事をしたのか理解に苦しむ。自分自身や他の人間の行動を理解するにはその背後にある原動力の源である、〝動機〟と言われるモノを理解しなければならない。
傍観者である私達も罪を起こす可能性を持ち得る、〝動機〟なのかも知れないのだから。
私が流にそいつをわかって欲しく、そんな単純そうで難題をぶつけた。
そして紅茶を一杯分飲みほしてしまった頃、やっと流は会話を始めた。
「マズローの動機の階層から考えてみたのですが。この犯行動機は、安全・不安回避・攻撃の動機でしょうか。俺は…。サラリーマンは社会のストレスから来る不安回避や、日頃の生活の刺激の少なさとかが原因ですかね。でもやっぱり解らないですよ、俺はこんな感情に浸った事はありませんし。ストレスも無いですからね」
学識的な話しの様にして理論を唱えたかと思ったが流は話しの腰を折るようにしれっと最後に愚痴ってきた。
「長く考えていた割には、まとまりがない内容だな。まあお前の言いたい事はわかったし、いいか。この仕事にストレスは無いようだしな」
紅茶が尽きたので私は新しい煙草に火を付け、そう微笑して言う。
すると流は床に俯き、「不安はありますが」小さく呟いた。
「確かに。いつ死ぬか解らない依頼もあるしな。不安はあるだろう。やめるか?」
「いや、辞めませんよ!不安は不安ですが、煽さんには色々恩もあるし。煽さんの下なら、喜んで働きます」
〝やめる〟の意味を仕事を辞めると考えて至ったのだろう。俯いたさっきの様子からは違って、声を張り上げて言ってきた。
……しかし、私への恩義…ね。どちらかと言えば私が巻き込んだ側なのに、可笑しな奴だ。
……長瀬(ながせ)堅太郎(けんたろう)か。
「遺書ぐらいは用意しとくか」
「お断りします」と、流は手と口で思い切り拒否を表した。
◇
煽さんはデスクチェアーで足を組み、行儀悪く煙草を吸いながら先程の話を深めて行く。
「私もこいつらの取っている行動は、社会的動機。社会生活の中から産まれてきた感情から来るモノ、…だと思っていたのだがどうも違うようだ」
俺はと言うと、煽さんの様子を軽く観察しながら腕を組んで話しを聞いている。
「違う?基本的動機は誰でも同じに持っているものでしょ。どんな文化も環境も上に行きたいという、社会的動機の欲求に従っているんじゃないですか?」
俺の真面目な質問を、煽さんは鼻で笑った。
「ふっ。実は社会的動機だけは様々な文化によって必ずしも基本的と同じく、ではないんだ。インディアンのある一族では、互いに競争する気が殆どない。自分が良い地位に就こうとする欲求も、僅かだそうでな。社会的動機は万人共通ではないのだよ。生まれ・今暮らす社会・文化それぞれによって変わるんだ。同じ国でも生きる世代によって違う」
……成る程。俺はどうやら社会的動機は間違った見解を持って、
知ったか振りをしていたらしい。
しかしその考えからいくと…。
「今回の事件が社会的で無いと言うことですよね。無差別な犯行を犯した彼等は同じ動機を真似ではなく、集団無意識的な同一思考って事になりませんか?」
いつの間にか、目を閉じていたらしい。フムフムと話しを聞いていた煽さんが足を組み直して「惜しい」と舌打ちをし、深く瞑った瞼開け言った。
「違う。動機を題にはしたが、共通点は他にもあるだろう。あの人達は他人だが〝時間、場所、行動〟は同一してしまったんだ。
ほら社会的動機なら、本来あり得ない程重なってしまっているだろ?
プラス動機もなんて、何て因果だ」
「―――」
彼等五人全員、歳・仕事の環境は違う。社会的動機であるならば、環境・文化・果てや生まれまでも違う五人が〝週一・時間・電車・降車駅・行動・犯行動機〟なんて。
そんなの有り得る訳がない。全て同じなど最初に無差別殺人を起こした犯人を、完全に〝真似〟しない限り有り得ない。
―――起こり得る訳がない。……あっ。
彼女のヒントにより、俺の頭の中に一つの可能性が繋がった。
「これは誰かが作為的に彼等を何らかの方法で、誘導し起こして…いる?」
驚きと正解まで導かれた頭がそれを言葉にしていた。
いつの間にか組んでいた両腕が胸から離れていて左指を顎に持って来ていたが、そんなのどうでもいい。
煽さんは俺とは違い態度を崩さない。あくまで冷静に頷いて言う。
「うむ。その可能性は高い。これは明らかな共犯的な存在、いや。常識外な方法で犯罪に導いたモノがいるな」
「……俺、〝視て〟きますか?直接現地に行けば、煽さんにも〝観え〟ますし」
熱くなっている俺は五分袖の黒いジャンパーを羽織ながら言う。
彼女は足を組むのを止めデスクチェアーから降りるようにして立ち上がりつつも、言葉で俺を引き止めてくる。
「待て。流。確実だが、確定した訳じゃないんだ。それに火曜から始まり〝水・木・金・土〟次の日曜は今日だ。―――これは狙っている。敵の能力が解らないまま行くのは、ただ逝くようなものだぞ」
そんなのはわかっている。……けど。
直接自分の手を汚さずに、こんな他人の欲求を使い無理意志に殺らせる犯罪者。俺はまだ見てもいない〝モノ〟の存在が許せなかった。
「だから、あえてこの日曜日に行くんじゃないですか。
それにやっぱり誰かが直接そいつの姿と能力を視ないと駄目なんです」
「なら俺が適任だし」と伝えて、ソファーから立ち上がり扉へ一直線に向かう。
後ろから少女の、冷えた一言が聞こえた。
「早まるなよ」
冷たいが、それは俺の背中を後押しする一言だった。
―――判断なら早まらない。
俺はしっかり〝眼〟を見開き、そう強く頭から思わせられる意識を持って夕方の秋空の元へと放たれた。
/3
夕方、日曜日。仕事を終えた人々が、自分の家に向かって歩いている。
しかし休日だからか、余りスーツ姿の人は少ない。十月になって少し寒いのか、半袖姿の者も零に等しい。
ある男が駅前の広場でベンチに座って哀しく笑って、楽しげに足をバタつかせている。
――此は余興か。
独りの男は思う。
小さな魔女から、知識と人々の情動を得られた。
いや此には得られされたと、今なら思う。
―――余興なんだな。
独り、孤独に笑う。
男の名は、西情四朗(さいじょうしろう)。
高身長、百八十センチはある。髪型は黒い長髪だが、洗ってない。苦労したのか若白髪も目立つ程ある。
しかし直毛故に、パーマをかけたような感じか。髭も剃らずにほったらかしにしているが体毛が薄く色白で、近づかなければ解らない程目立たない。
所謂、美形だ。
服装は秋の寒空に合うようで、合わない。ボロボロの真っ黒いロングコートを裸の上に、そのまま肌が露出しないようにしっかり着ている。
四郎は破れそうなポケットから銀色のスプーンを取り出した。それを片手で意図も簡単にスプーンを、縦に曲げる。
職業は奇術師。マジシャンと俗に言われるものだ。
だが、今は元奇術師か。この職業は破綻したのだろう。ホームレスの様な風貌が、何よりの証拠。
四郎はそのままスプーンを縦から横に、そこから作れる範囲の動物や物を作り上げ曲げていく。
いや巻いていくように操っていた。もはやスプーンなのかすら、解らない。
通りすがりの一人の中年男性が、四郎の技術を見て歓声を上げた。その声に釣られて、周りに人々が四郎の周りに集まって来る。
奇術師はそれに馴れているのだろう。気にせずスプーンを、巧みに操っていく。
―――不可能だ。
観客の一人が呆気にとられて言う。それに思朗心の中で笑った。
四郎の得意とする奇術は、〝メンタルマジック〟と言われる技術。メンタルマジックとは超能力風の演出によるマジックと考えるとわかりやすいか。
透視・念動力・予言・読心術等の種類がある。メンタルマジックでは〝知覚的エフェクト〟と呼ばれる物を活用している。
知覚的エフェクトとは、頭の中で「論理的に不可能だ」と認識することで効果が見出せる類の物だ。当然このエフェクトは相手に対して知力を働かせる事を求めるもので、それなりの配慮をしなければいけない必要がある。
理解することが煩雑(はんざつ)であったり曖昧であった場合、知覚的エフェクトはたちまち面白味を失ってしまう。
例え理解できたとしても、その理解に多大な労力を使うだろう。
「スプーンは曲がる物です」
四郎は単純に、当たり前の様に観客に示す。
そう。「全ての物事を単純明快に示す」ということが、一番重要な事を思朗は知っている。
マジックを見た観客が、他の人にマジックを説明したとしても解るくらいの明確差を。
観客達の歓喜な歓声が上がる。四郎はそれに昔を思いだす。
四郎の小さなマジックショーが終わって、見ていた観客の青年が大きな声で吐いた。
「―――あれ?あいつよく見たら前にテレビに出てた、奇術師の西情四郎じゃねーか!」
マジックに不思議そうに余韻に浸っていた観客達が、「そう言えば」「確かに」「似てる」等と見も知らない他人同士で話し始めてしまった。
「―――ッ」
四郎は色んな声の中、一つの話しを見つけた。
「あの詐欺師が詐欺辞めたつーのは、人間関係のもつれや!他のマジシャンにネタや種ばらされて、自信が無くなったとかな!ははっ!それに金が一文無しだからったって、こんな所で客引きたぁ…売れない音楽家みてーな詐欺事して金取ってるとはよ!」
如何にも金を沢山持っていそうな背広姿の酔っ払った中年の男が、
思朗を公に馬鹿にしながら笑っていた。
四郎は持っていた銀のスプーンに今までにない力を入れて握り締める。
彼は怒りを心から、表情に出す。その怒りを行動に表して、スプーンを握る強さを更に高めていた。
―――元奇術師。
辞めてしまった職業だとしても、思朗は怒りに震える。誰でも誇りに思う職業に就いているならば解るであろう。
思い出したくない過去は、憎しみでしかない思い出。愛していた職業でもその愛が大きかった程、憎しみも増す。
憎しみと愛は対等だ。
それに四郎は、金等取ってはいなかった。ただ誰かに褒められたい、観て欲しい、不思議に思って欲しいが故に行っている。
そして何より自分の為に。
「いかん、いかん。こんな物、観てる暇なかったわい!家に帰るぞー!はははっ!」
酔っ払った足取りで、中年の男が馬鹿笑いしながら駅の中に向かって行った。
他の観客達も蜘蛛の子を散らす様に、四郎から離れて行く。何処か彼を、貶す視線で。
握っていた手のひらを開いた。スプーンが、跡形も無く変形している。
それは、奇術に使用出来る様な代物じゃなくなっていた。
四郎は俯く。俯いた顔は何かを我慢する様に見える。
彼はいきなり込みあがって来た笑いを俯く事で隠していた。涙も流れ、口まで来た笑いを手で口を覆う。
それは哀しく泣いている様にも見える。
楽しいのか。怒りに満ちていたのか。
それは、四朗本人にしか解らない。
涙が止まり笑いも無くなった。すると彼はベンチから立ち上がり、呟く。
「今宵は、奴が私の人形。日曜日、あの男が私の代わりに代役をこなす。これは種も仕掛けもない奇術、情動なのだ」
不適な笑みは喜びか。いつの間にか空が暗くなっていた。
夜が来た。日曜日…時間は十九時手前。
彼は駅内へ歩きだす。左手に持っていた何かに気付いた。
先程まで奇術に使用していた、スプーン。欠品にしか解らないそれを彼は見て鼻で笑う。
軽く手からコンクリートへ落とした。
わざと、必要性が無いからと落とした。
そのまま、忘れた様に駅の中に入る。残されたスプーン。
跡形も無く形が変わった欠品は、まるで彼の生き様を写した様だった。もう元の形には戻らないスプーンは、普通の奇術師に決して戻らない彼なのか。
そう。
〝全ての行為は彼の情動の儘に〟。
◇
「さぁマジックショーを始めよう」
私は意気込む。やる気が無ければ何も成せない。
足取りが軽く、音が無い感じだ。一つの目標物へと歩んで行く。
駅内は人々の吐く息と、体温からか。僅かに外よりは暖かい。
故に身体が動きやすいか。…目標は酔っ払った先ほどの男。
そのひた走る情動は、人形に相応しい。酔いどれな目標は、足がふらつき遅かった。
改札口を通る前には、私の方が先に改札口を通っていたくらいだ。
――グズめが。
私は、目標物の前に立った。当然ぶつかってくる。
「うお!?改札の前でちんたらしてんじゃ―――」
「l'esprit(ア イズスピリット)」
この詠唱は極端だが、私の脳内でもスイッチを切り換えに丁度いい。
それに奇術を発動にも同時に行う。速さは何事にも重要だ。
私は目標の脳を捉えた。汚い脳味噌はアルコールが垂れ流しされている。
伝達物質の抑制が厳しいか、やりやすいな。アルコールを飲んだ場合、不安状態が発生しにくい。
不安が解消され、気がデカいこの者は判断力が低下している。飲酒していた為抵抗が無い。
一瞬で脳内をコントロール可に得る事に成功した。
直接脳に暗示を掛けられるなら、もう〝人形〟の様なものよ。
奇術に似たようなこの力は、いつかの小さな魔女から契約の証しとして授かり受けたモノだ。
人形と化した男は、私の胸に倒れ込むように雪崩落ちた。改札口周りにいた人々はチラりと見るが、退くだけで私達には目もくれずにいた。
もう直接喋る必要はない。
(―――起きろ、此処は寝る場所ではないだろう)
私は暗示を脳に直接伝える。びくりと動いたこれは。
脳の伝達は緩やかな故、人形には鋭く伝わったからか。
人形と貸した男は只私の心情伝達のみ伝わる。私が脳内心の中で思った気持ちが、ダイレクトにあちらの脳に伝わるのだ。
そうだ、表情や行動に出す必要はない。私の心情は人形の心情となる。
…違うとすれば、人形のみ表情に出て行動にまで移す事が出来る。
まるでマジックの仕掛けがこの男。種が私か。
そう私はただの動機づけに過ぎない訳だ。
「邪魔をしたな」
わざとらしく私は人形に呟やき、前から退く。
(―――歩け)
心と頭で指令を出す。人形はさっきまでの酔いどれな足取りでは無いが、アルコールのせいか少し怪しい程度か。
歩行を開始した人形を少し見送り、私はその後にゆっくり付いて行く。
日曜日という休日だからか。私服の若者やカップル等が目に付くな。
私はまた笑いが込み上げてきた。
だってこれからこの者達が舞台に上がり、自分達が夜を大いに盛り上げるのだ。楽しくなるのは仕方のないことじゃないか。
私はそのマジックショーの只一人の観客であり、脚本で動機に在る。
しばらく歩き人々が列車に乗り込む場所、人形の目線で全体を見渡せる場所にたどり着いた。
私は遠くても後ろで、人形の頭さえ意識してればいい。頭だけ、頭の中の脳を視ていればいいのだ。
腕を組みながら思いをたぎらせていく。スイッチを入れ人形の脳を意識しながら、自分の心情から指令を入れ始める。
(―――怒れ。この世界の邪意や邪法に)
(―――哀しめ。そんな世界の有り様に)
(―――喜べ。己こそが世界を粛清出来る)
(―――さぁ楽しもう。そんな世界が待っている!)
人形は私の心情を顔に、表して色々な表情を勝手に見せていく。
「間もなく列車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください」
駅内全体に、駅員のコールが鳴り響いた。
それはこの者達への警告に……、私には舞台の幕開けに聞こえた。
(―――さぁ行動へ示そうぞ!情動の儘に!)
そして男は、列車が来るのと同時に走り出した。
黄色の線から離れていても、すぐに乗り込みたいだろう人々の欲求は線に無意識下に近づいている。
電車の快音と光が垣間見えた瞬間。何人かの人間が、後ろから人形に一気に押された。
驚きの表情。
何が起きたのか解らない顔をして、彼等は声に出す時間は無いまま電車にぶち当たった。
血飛沫は電車の速さに負け、乗り場には来なかったが電車正面は大変血まみれだろうな。
私は一人歓喜する。
声にまでは出さないが、人形が代わりに楽しそうに大声を出して笑っていた。
呆気にとられていた乗り場の人々は、人形の笑いにスタートが入ったのか声を張り上げて逃げて行く。
ククっ…せっかく電車が来たのに、乗らなくていいのか?
電車内の人々は何が起きたのか解ない、しかしそれも知らずに降りて行く奴もいる。人形はそいつらに殴り掛かった。
私には酔拳を使って欲しかったが、只酒を飲んでいたくらいの人間じゃ使えないか。
殴って倒れた、一人の頭の悪そうな女の顔を思い切り踏み潰す。血飛沫と脳味噌や目玉が飛び散って脳天が丸々飛散した。
尋常じゃない男とその女の有り様に電車内の人々が慌てふためいて、中では大変に大騒ぎになっている。
「……ん?」
そんな状況の中から、全身黒い服装をした若い男が一人電車の中から降りて来た。
その男は人形の真正面に向かい合わせになって、冷静な顔をして人形を見据えている。
電車の扉が急に閉まった。駅員が危機を感じたか、或いは職故の乗客の安否の為か。
一人の若い男を残して電車は走り出す。
しかし男は平然としていて、人形から目を逸らさない。
人形は男に気づき、すぐに笑いながら突っ込んで行く。
だが、その突っ込みがよくなかったか。
男は人形の殴る動作に合わせて少し屈み、殴りかかる腕を両手で取りそのまま―――背負い投げた。
人形のせっかくの勢いも無駄になった。
背中から地面に叩きつけられ、背骨の折れる音。人形は生きた血を口から吐いた。
ビクビク、と痙攣しながら人形は立てもせず只呻いている。
中年の歳を考えれば、その衝撃に骨や身体が耐えられなかったのは有事か。
若い男は中年の様を一瞥すると、一瞬体が揺れた。すると何かを探すかのように、周りを見渡し始める。
―――なんだ〝あの眼〟は?
その男の両眼が金色を帯びていた。
―――涙のように。
―――花が散るように。
―――風が散るように、黄金がその眼から……零れていた。
「観えますか。……近い?」
―――独り言か?
しかし正常な顔故に独り言の様には、私には思えなかった。
これはまさ―――え?
その男の黄金の眼は私を捉えていた。
しっかりと見開いていた金色のそれは、何者も凌駕している美しさがある。
「……あいつですね。行きます」
「―――!」
こちらに一目散に走って来た男に私はハッとなって我に帰った。
どうやら、黄金の眼に引き込まれていたようだ。だが……解る筈がない!
走って来る男のスピードは速い。
しかし、何故か舌打ちをして動きが急に止まった。
―――今だ!
「l'esprit!」
幾ら超世の者だとしても、止まってしまった奴など捉えやすい。
脳に入り込み何故私の存在が解ったのか確かめてから、死に追いやろう。
私の目には、この男の脳味噌がはっきり視えている。
だが私が入る前に他の意識が介入していた。
(こんな能力だったか。下劣な)
触れてはいけない箇所から、鋭い静電気が走る痛み。
「―――ぐっ!?」
この男の者でない、何かの意識に跳ね返れた。私の脳にまで伝達された何者かの言葉は、痛みまで走る。
私は其れに免れる為、すぐに拒絶した。よく解らないそれから、私は走り去る。
走っている最中後ろを振り返り、男を確認したが。追って来ずに、奴は頭を片手で少し押さえていた。
しかし黄金の眼だけは、まだ私を視て%
第二章・約定的哀艶 (やくじょうてきあいえん)
/1
暗い、暗い。
何処までも続くこの暗闇は、一体何処なのだろう。
一寸の光りも見えない此処は人も見えない。暗闇が広いこの場所では、当然なのだろうけど。
俺にとっては当たり前に目の中に居た、人々が見えなくなったこの世界。
―――異常。
―――非常識。
これはまるで〝無人〟。
光りのありがたさや、人々の暖かさ。今はそれが無いのが酷く哀しい。
替わりにこの目に見えるのは、黒い闇だけの冷たさだけ。
俺はこんな無人は、耐えられない。人は一人じゃ生きていけないんだ。
誰でも。―――――――どんなに強い人でも。
涙が頬を伝った。流れている涙。
暗闇の中でも、自分の感覚だけは分かるようだ。そんな些細な事で嬉しくなる。けどこれは、嬉し涙じゃない。
哀しくて流しているんだ。
嬉しくて流す涙ならこれ程、無表情になるだろうか。涙は止まらない、俺は目を閉じずにそれを感じ続ける。
だってこの〝無人〟にはこれしか創れ無いから。
今の俺にはこれしか無いから。それだけが、今の生きている実感。
流れた涙はいつの間にか、腰の高さまできていた。非常識な世界はどうやら狭いらしい。
そしてもう何時間も此処にいる気がする。何処までこの暗闇が続くか、泳いでみよう。
――――冷たくもない。
――――温かくもない。
この涙の海はまるでたった一人しか居ない俺そのモノの、
感情を示しているような気がする。
誰かが居れば、色んな顔が見れる。そしたらこの感情も、喜ぶ・怒る・哀しむ・楽しむ、それが判る。
人は自分の鏡だ。相手が笑ったら釣られて笑うだろう。
けどこの世界は、まだ何も創られてはいない。
当然人も〝無人〟。生の実感が有っても、感情が判らないのなら何も得る事が出来ない。
「一人は、独りなんだ」
そんな一つの当たり前の事を、俺は呟いた。助けて欲しいって、そんな感情が芽生える。心の奥の何処かから。
誰でもいいから助けて欲しい。もしこんな誰も居ない空間。
誰かが助けてくれたのなら。次に俺がその人を助ける事になるだろう。
―――そりゃそうだろ。
此処には助ける者。助けられる者。
一人ずつしか、存在しない訳になるんだから。
運命は神様が創っているって、誰かが言っていた。
〝無人〟から最初に創られるのは、〝人〟。それでもまだ〝無〟だけど。
きっと神様は、そんな二人に〝無〟を創り変えて欲しいのだと思う。
それが〝―――〟。
少し泳ぎ疲れた。見えないんじゃ終わりが在るのかも解らない。そして浮きながら、在るのかどうかも分からない空を見た。
『■■取れ。何も■■■■■■■■■■■■■だろう』
――――あった。
そんな空から、小さな光りと、声が聞こえた。光りには驚いたが、声には驚かなかった。
だってそれは最初にこの〝無人〟に創られた、〝人〟のモノなんだから。
これが、「――か」
……。………。
/2
夏。それ以外に言うなら暑い。
そう。今年はもの凄い猛暑になる。って夏が始まった季節始めに、テレビで予想されてはいたが…。
汗が噴き出る、ただ少し歩いただけで。
…嘗めていた。
勤め先のホテルに、俺は車で通勤しているのだが。ふざけたことに職員用駐車場から、ホテルまで距離が六百メートル以上。
ホテルの社長兼・オーナーの意向で通勤前の気分転換とのことらしいが、車で来ている距離で充分リフレッシュされている。
この並木道は美しい木々が彩られて、毎日清掃も行わっているらしい。まるで豪邸の中を歩いている感じだ。だがこの距離のせいで遅刻したこともある。
唯一、木々の陰で少々涼しい程度だ。こんな季節に朝っぱらから感性には浸れない。
まあ高級なホテルに勤められされているのは光栄な事だが。
車でクーラーを効かしていたので、外の気温+体感温度がすごいことになっている。
完全に……嘗めきっていた。
常にタオルを持ってなければ、気持ち悪い汗を拭きとれない。
「あっ…長」
しまった。鞄を開けると長いタオルが入っていた。
持ち運びがしにくいうえに、今日はほとんど受付担当だから首に付けていたら目立つし。以外にショックだ、朝からテンションが下がり下がりだ。
しばらく歩くと、バカでかいツインタワーホテルとその名前がやっと見えた。ホテルは美しい白と金に染められた外装で、十三階層で造られた一号館と二号館のツインタワー型のホテルだ。
そして名前は【Hawk(ホーク)・twinhotel(ツインホテル)】。
このホテルの社長は俺の高校の頃からの同級生だ。
身内では一番金持ちで、頭も良かった。将来を決められていた男である。彼は高校を卒業して、親からホテルのオーナーを任せられていた。
そんな彼の名前は「鷹(たか)鶯寺(おうじ)天理(てんり)」。
ホテルの名前はこの、鷹鶯寺から取ったのだろう。天才成りの、独特のセンスか。
金持ちってのは、ドラマやアニメなんかの中でしか存在しないと思っていた。高校生活のあいつは、金持ちゆえの金の使い方とチャレンジ性は想像を超えていた。
俺はと言うと、大学に進学したのだが…。自分の目指していた心理学者と言う、難しい就職先は先行き不安になって辞めてしまった。
今では物凄い後悔をしている。まあ、心理学を学生の頃嗜んだお陰で色んな知識は得たが。
鷹鶯寺は大学を辞めた行き場のなかった俺に、好意で今年から新入社員として入社をさせてくれた。ホテルマンとしての能力は並み以下だったが、慣れれば意外とできるもので信頼も得てきたと思う。
こんなに優遇されている俺でも、この熱さと道の長さでどうでもよくなってくる。やっぱり人間は情弱な生き物なんだって、この自分の肉体で知る。
俺は職員用の玄関から入り、中履きを履く。
「―――?」
一瞬目眩がして、くらっと体が揺れた。靴を履いている途中だったので、足が扱けそうになる。
朝だからか?頭を軽く右手で叩き、自分の体に違和感を感じつつ少し歩く。
出勤カードを機械に挿入した。ガシャと音がして、やっと通勤が終わる。
「おはようごさまーす」
俺は声を出すが朝なのでテンションが低く、あんまり大きな声は出なかった。事務所のメンバーの一人が気づき挨拶を交わしてくる。
そこからみんなが気づいて、挨拶の連鎖が。こんなのいつものことだけど結構嬉しい。
「おはよう影平君。今日はいつもより早いね」
「えっいつもと同じ時間ですよ。海崎(かいざき)さん。あの、今日俺と一緒に受付を誰が担当するんでしたっけ?」
最初に挨拶をくれた海崎さんにさり気なく聞いてみた。海崎さんは早速、社員表と職務担当を見比べながら手早く教えてくれる。
「今日は…。小峯(こみね)君だね。彼さ、また夜通しでお酒飲んで出勤して来たんだよ。社長が豪快な方だから許してくれるけどさ」
最後に海崎さんは「フォローお願いするね」と言ってパソコンを打ち始めた。
「ああ…。はい。わかりました」
俺は三つ返事で、だるそうに応える。またあの人は酒飲んできたのかよ。
古峯は大が付く程の酒好きで、毎週三回以上は夜中から朝にかけて飲むくらいだ。俺も何回か付き合わせられたことがある。
こいつは、今年の新入社員会で初めて逢った。歳も同じ。彼は短大を卒業してから、ここに勤めることになったらしい。
つまり同期な訳だ。それで情が在ってか、良く俺がカバーする事も多い。
長いタオルを小さくゆっくり折りたたみながら、そんなくだらない事を朝から考えていた。タオルをズボンの裏ポケットに入れて、夜勤の職員とバトンタッチ。受付に入る。
ちょっと驚くことに古峯はもう受付に入っていて手をよっ、と上げる。
「おそかったね。影平」
「いや、普通にいつも通りの時間だよ」
俺はそう言いながら、腕時計の時刻を古峯に見せた。彼は酷く顔を歪ませて、自分の腕時計を見る。
「あれぇ?俺の時計十分くらい早いぞ。ごめーん」
笑わせたいのかまだ酒が残っているのか、もっと変な顔をして古峯はそう言った。
こいつ…まだ酔いが残ってやがるな。
小峯は酒を飲まなければ頭の回転が速く、仕事も何でもこなせるのだが今日はそうはいかなそうだ。
以前、飲んでいた事を誰も知らずに仕事をしていたが…。やはり様子がおかしく、受付に来たお客様に対し変な顔を垣間見せながら対応していた。
しかも最後には受付のデスクに吐きやがったくらい。その姿を思い出して吐き気がしてきた。
……それだけが原因じゃない。
今日は外の日差しと蒸し暑さにやられたのか、ホテルの中に入ってからずっと気持ち悪い。
「どうしたの、影平?」
「わり。ちょっと受付たの……」
トイレに行こうと思ったが、そういえば海崎さんにフォロー頼まれたんだった…。
「…なんでもない」
ポケットからタオルを取り出して、織った四分の一の部分で冷や汗を拭きながら言う。
「ようこそ御出で下さいましたー。お客様」
古峯の声にはっとし,俺はタオルを急いでズボンの裏ポケット中にしまった。やばい客が来ていたのに気付かないとは、どんだけ気分が悪かったのか。
「よ、ようこそ。受付はこちらになります。…ん?」
その客は真夏だと言うこの季節に、マフラーと黒く長い革ジャンを羽織っていた。
赤いマフラーで鼻から口を覆い、顔半分が見えない。見た上では怪しい男だがお客様には失礼にないようにと、うちの経営理念もあるし。
どんな方でも真摯に接しなければならない。お腹の臍の辺りに右手を付けて、綺麗に会釈をする。
その状態の儘ちらりと小峯の方を見ると、顔が完全にひいていた。
俺も少々ひいていたが小峯のカバーも含めて、笑顔を作って対応する。
「誠に失礼ですが、お客様のお名前を御伺いできますでしょうか?」
予約者なら、電話かネットで予約をしているはずだ。
すると客は俺の目を見てきて、何も喋らずに見つめたまま。
…な、…なんだ。
「あの、お客様…?」
耐えられなくなって、恐る恐る話しかけてみた。
「……すまないな。少し浸っていたよ。名前は…紅我だ」
……浸る?
「こ、紅我様ですね。はい。九時半丁度のご予約を承っております。お部屋は一号館十三階の、1311号室になります。車の鍵はこちらでお預かり致しますが?」
よくわからないが、俺は顔に出さずにデスクの下にある予約表を見て丁寧に答えた。
「車じゃないんだ。ありがとう、君」
しかし、案外喋れる方でよかった。やっぱり人は見かけによらないとちょっと感動。
俺は小峯に軽く耳打ちして「お客様をお部屋に案内して」と伝える。小峯はまだ顔があれだったか、「任せて」と言ってお客様を案内し始めた。
案内や声掛けから見て、酔いが醒めたのだろうか。そんな様子を、エレベーターの中に誘導する所まで俺は目で追った。
肩の荷を下ろせた気分になって、長い息を吐く。
「―――あれ?」
ホテルの中央の壁に佇むホールクロックの時刻が、十一時をとっくに過ぎていた。
俺は自分の時計を見るが、時刻は同じ十一時だった。
いつの間にこんなに時間たっていたのか?しかしこんなに時間経過が早いのは初めてだ。
やっぱり体長が悪いのかもしれないな今日は。
◇
封筒の住所を確認をする。手紙の送られて来た住所は此処か。
しかし宛名は無しのこの手紙、私のロシア隠れ家に直接入っていた物だ。
手紙の内容は…。
【このとし。ロクのつき。にほん。しんえんがえがくまっしろなつき。くるうじかん。くるうしをむかえたせいぶつたち。かなしいやくそく。うんめい】
最初は悪戯かと思ったが住所と文字が日本語とは、いかにも本物臭い。めんどくさいが、訳して読むと。
【六月。日本。新円が描く白い月。狂う時間。狂う、死を迎えた生物達。哀しい約束。運命】
まったく意味が通らない。順番が滅茶苦茶なのかも知れないが。
まあこの場所に来れば分かるのだろうと思い、それ程深くは考えなかった。
此処は高級志向のホテルか。はん……まるで二本の巨塔だな。
少し見上げるだけでは、一番上まで見えない。この高さは私を莫迦にしているのだろうか。ああ、……首が痛い。
……もうすぐ九時半か。
車の中に無造作に置いておいた懐中時計を手に取りポケットにしまう。私は首を鳴らしながら車から降り、トランクから旅行鞄を取り出し両手に持った。
車に鍵を掛け、客専用の入り口に向けてすたすたと歩く。
入口付近の制服を着た警備員の二人が、綺麗に深く頭を下げた。私は気にせずそのまま歩き続ける。
丸開きの自動ドアが開き、一歩中に左足を踏み入れた。
「―――!」
視界が揺らいだ。私は左足を踏み込み、姿勢を保った。
……ホテルの内装が歪んでいる。
流れの悪い血の流脈を直接見ている様だ。
なんだ此処は。雰囲気、…いやこれは。
私は鞄を置き、ポケットの中から懐中時計を取り出し時刻を確認した。
十一時半。……時間が傾斜している。
舌打ちをして、懐中時計をポケットに戻した。旅行鞄を両手に持ち直し、ホテルの中に入る。
「……誘き出されたか」
ホテル内は時差が完全に狂っていて、総ての時間が無理やりに統一されていた。
私の体内時計は統一に反発して、時差が狂う。まるで地球の裏側に数歩で来た感覚。
これで体の調子が不安定になっていた様だ。長居すれば慣れそうだがそうもいくまいか。
虫唾が走り、煙草が吸いたくなった。面倒臭いが、泊まるにも喫煙所を聞くのも受付を通す必要がある。
受付に向かって多くの人々を避けながら、ホールをずかずかと歩く。クーラーが効きすぎているのか、中は冬のように寒い。
高級ホテルと言うのは、客に気を遣い過ぎなんじゃないか。まったく…迷惑な気遣いだ。
受付で顔色の悪そうな男の目の前に、旅行鞄を置く。…つもりだったが、デスクが無駄に高くて放り投げるようにしてしまった。
「…。…予約してある紅我だ。一日、二日宿泊する。荷物を部屋まで運んでおけ。…後、喫煙所は何処だ」
煙草の入ったケースを懐から出して、受付の男に見せ全ての質問を投げかけた。。
しかしそいつの顔は私の鞄で見えなかった。男も、鞄の横から私の姿を捜す。
どこか驚いた顔をしながら、男は私を見ている。私は無言で、ケースを男の顔に付かない程度に腕を差し出す。
当然男は、顔を飛び退いた。耳にざわざわと周りの客や従業員の小さな声が聞こえ始める。
……やってしまったな…。
私の態度や受付の対応が良くなかったか。思わず本性を曝け出してしまった。
後ろに振り向くと、やはり周りの人々が一斉に私を見ている。視線を逸らす奴らが多い。
…この空気の悪さ。…っ仕方ない。
「お騒がせてしまい、申し訳ありません。せっかくの楽しい気分を台無しにしてしまったのなら、御詫び申し上げます」
私は左手を胸に軽く置いて、焦らずゆっくり騒がしくしてしまった謝罪をした。
すると、好機の目で見てくる人々を欺く事に成功。最後にお辞儀をして、受付に体の向きを戻す。
「で、私の部屋と喫煙所はどこだ」
受付の男はぼーっと私を見つめていた様だが、顔を横に振り如何にもな作り笑顔を作った。
「…あ、すいません。お客様、恐れ入りますが。もう一度名前を存じ上げてもらえますでしょうか?」
「……紅我、だ」
また名前を言わせられるとは。なるべく口にしたくない「曰(いわ)くつき」なんだがな。
男の胸元に付けてある、ネームプレートを見た。【影平】と言う名らしい。
影平は紙と腕時計の時間を見比べながら、眉を潜めた。紙は予約表だろうか。
「あの申し訳ありませんが、少しお時間を頂けますでしょうか?」
やはり時間が狂っている為か。予定時間と合わないのだろう。
「はぁ…できるだけ早く頼む」
溜息混じりに私がそう了解すると影平は深く頭を下げ、礼をくれた。
「喫煙所は後ろに見えますホールクロックの右側の通路を真っ直ぐ歩きますと右側の壁側にあります。十分程で伝えに行きますので、少々お待ち下さい」
影平はまた頭を下げた。私の鞄を持ち、急いで受付の中の扉を開けて早々に消えていく。
まあやつのせいではあるまいし…待ってやるか。
私は早く煙草を吸いたくて、少し早足で喫煙所へ向かう。
ホールクロックに目をやり、私は足を止めた。
針の二本が十二時になる瞬間。聞き惚れるような純正律の音色が、美しく奏でられ始めホール内に響く。
それにはどこか毒気を帯びている気がしてならなかった。
二章/約定的哀艶(やくじょうてきあいえん)
夏の始め、
二人は磁石の様に引き寄せられた。
こんな夏はいつかの、
哀しく美しい約束を思い出す。
仕組まれたかの様な出逢い。
この交錯さえも神が創造した、
運命なのだろうか。
新たな約束を定められる、約定へと変わってしまった。
/約定的哀(やくじょうてきあい)艶(えん) (Kentarou Nagase)
/3
〝紅我、紅我〟。
予約時間と同じ時間。
こんな難しい名前の、同じお客さんが来るなんて。それに、あんな小さい大人は初めてだ。
そんなことより俺はあの女性に何て言おうか迷っていた。先に来た紅我様の、彼女か何かとも考えたが予約人数は一人となっている。
それに二人共、そのようなことは言ってはいなかった。
なんだか雰囲気も他のお客さんと違うし感じがしたし、話に行くのが怖い。
先客……後客。どちらが正しいのか。
海崎さんに理由を言い少しの間だけと受付を頼み、走って喫煙所へ向かう。忘れずに紅我様の鞄を持っていく。
取り合えづ同じ名前の人物と時間を紅我様に説明し、一緒に先客の部屋に行こうと言うしかない。
それに小峯の奴が帰って来ないのも心配だった。あいつは酔っていても、仕事は決してさぼらないやつだからだ。
途中に通るホールクロックを走り際に見た。
「―――は?」
一時。…おい、一時間以上待たせてるんじゃないか!
俺は何か認めたくないものを胸にしまい、本気で走る。あの人性格きつそうだから、怒らせたらヤバいかも。
ホールの右側を走り切り、壁前で止める。
なんだ……なにかがおかしい。
たったこれだけの道で、何分以上走った気がした。息をするのが辛い。
今日は本当に熱か何かあるのかも知れないな。この人を案内してから早退しよう。
喫煙所に入り、咽た。
煙草は吸わないから実はあまり好きな場所ではない。
煙が渦を巻き換気扇に吸い込まれていた。ホテルの各部屋には一様、喫煙出来る様にはなっている。
お客達は普通部屋で吸うから、此処には一人しか居ない。あまり使われていない部屋でもあるし。
勿論その一人は、一見少女に見えるあの女性だ。
窓側の設置机に左肘を突き顔を預け、退屈そうに背もたれ無しの回転椅子に座って外を眺めていた。失礼だが、足が浮いているのが子供っぽい可愛さがある。
なんだか、声を掛けようにも掛けにくいな。
また咽て咳が出た。それに反応して、彼女が椅子を回転させ振り向いた。
ある意味助かった気がする。
「あーあの…遅くなりまして申し訳ありません。紅我様」
深く頭を下げて、御詫びの気持ちを表現した。
「なに、構わんさ。事実十分以下しか経っとらんよ」
俺は頭を上げ、紅我様の姿を瞳を動かしゆっくりと見た。
無表情に彼女は煙草を銜えている。その凛とした仕草が、俺の目を引き付ける。
「あ…。いやあのですが時間が…」
この人の言っている事は、どうにも実感が湧かない。
だが俺も今日の時間の経過には、何かが違うとずっと何所かで感じてはいた。
「此処は時間と目に映る総てが、歪み傾いでしまっている。外を見てみろ」
窓に走り寄り、外の様子を見てやっとその意味が解った。
なんだよ―――これ。
外は夜に聳(そび)えていた。満月が満ちており、月明かりがホテルの窓に反射している。
だが只の夜空ではないようだ。月の光とは別に、黒味を帯びた霧が光に照らされて辺り一面が真黒に染まっている。
その異様さに、俺はまた吐き気を催す。腕時計を見ると、もうすぐ二時を回る時間だった。
「これは、この中だけに起きている非常識な現象だ。光の屈折か何かを利用している。この景色は外界では感じ視る事はできない。それに時間の経過が速いだろう。恐らくこの外界の夜になる為に、段々近づいている訳だ。この場所だけが取り込まれられている。まるで異界だな」
摩訶不思議な話を聞いてポカン、としているだろう俺に、彼女は俺の横を風の様に通りすぎながら説明を促してきた。
反応して後ろを向くと、視界が真黒に染まった。俺は床に倒れそうになるが、腕を突いてそれを防いだ。
む、胸が熱い…!
口の中に鉄の味が広がる感触。
「直接的に表れ始めたな。…遅かれ早かれか。持っていろ」
紅我様はそう言って今の俺の体勢に対し、床に何かを投げ渡してきた。
目が真黒に為って見えにくい。手探りでそれを掴むと目の異変や、激しい高揚が急速に元へ戻る。
掴んだ物は、金属製のネックレスだった。四角い枠の中に、クロスが入っている物。
「それは特殊な魔除けも込めていてね。此処にいる間だけ貸そう」
…特殊な魔除けか。
この人は一体何者何だろうか。確かにこれを掴んだ時に、一気におかしな症状が消えた。
「とりあえず部屋まで案内してくれないか。さすれば、この原因を解決してやる。私も早く此処から出たいんだ」
煙草の煙を吐き出して彼女は不機嫌そうに椅子から降り、
胸から一枚の西洋かぶれのカードを取り出していた。
…このホテルから出たいのなら、普通に入ってきた出口から引き返せばいいんじゃないのか?
……ああそうか。だからこの人は取り込まれているなんて言っていたんだ。
外界から遮断されているんだ此処。
このホテルは今何か想像もつかない、〝非常識〟と言うモノに侵されているのだとやっと理解した。
「…それよりお客様。あの何をなさっているのですか?」
「ああ。気にするな。一様の念の為だよ。使わなかったら最後に持って帰るから」
そう投げやりに彼女は言い煙草を口に加えたまま背伸びをして、ちょっと高めの本棚にカードを差し込んでいた。
一つの重大な事を思い出して、言えなかったことを言ってみる。
「その部屋の事何ですが…。紅我様と同じ名前のお客様が、先にいらっしゃっておりまして。その事を踏まえて一緒にお部屋に行き、もう一人の紅我様にお話をして確認しようかと__」
「そんな名前は二人と居ない!……私で最後なんだ。敵め、人の名で遊ぶとは。先手を打ったつもりか」
話の途中から彼女の様子が変わり、我慢できなそうに話を割った。
無表情ながら〝敵〟と表現したのは、どこか不快なのだろうか。彼女は煙草を灰皿で大雑把にすり潰し、喫煙所の外に出た。
最後と言うのが気になるが、今の彼女には聞けない。怒気を持っているだろう歩みで先を急いでいる。
俺はネックレスを首に巻きつけて、急いで追いかけた。
そこで一つ気になった。
「部屋の場所が御分かりなのですか?」
俺は半信半疑で質問をした。紅我様は足を止め立ち止まり、舌打ちをして振り向いた。
「ちっ…。分かるわけないだろ。さっさと場所を案内してくれれば良いものを」
眉間に皴を寄せて、幼い顔を持つ少女が文句を述べた。
◇
エレベーターが動く。機械音が重い、重力に逆らっている様な音だ。
外の風景が見えるガラス張りの個室の中は、少し空気が悪い。案内役を頼まれた小峯は、後ろに居る怪しい男を後ろ見ながら僅かに警戒していた。
真夏の熱い季節に口元をマフラーで隠している男だ。誰でも警戒するであろう。
口元が見えないが故に表情がわからない。今腕を組んでいる紅我と名乗った男は、
目を瞑り寝ている様にも見える。先ほどから一言も喋らない男と小峯は、十三階の階層まで沈黙を通すのだろう。
しかし小峯にとっては、エレベーターの時間がいつもより長く感じとっていた。
そして外の景色が暗い。雷雲がこの辺り周辺を髑髏を巻いているかの様だ。
だがしかし、雷の音は一切しない。小峯は腕時計を見るが、十二時を回ったところだ。
彼は不思議な顔で首を傾けた。もう十二時なのかと言う事と、明らかに夜では無いこと。だが古峯にはこれは夜中としか思えない。
只の満月とは違い、真白く光り閃光の様にホテルに降り注いでいた。
それは、錯覚か幻想か。
後ろに居る男はこの現象に瞼を開け、ただ静かに見据えている。
―――白い月か。どんな手品を施せばあんな莫迦げた長距離まで力が及ぶよ。悪戯な魔女め。
男は哀しい目付きで鼻で笑う。
いつかのパートナーと同じ顔の少女に逆らえなかった、哀れな自分に嫌気がさす。
パートナーを裏切ってしまった自分に。前の自分じゃない感情と、肉体に。今は哀しいだけの、8年前の夏を男は思い出す。
あの暑さは、本物だった。今は肉体では感じられないのが惜しいくらい。
高校三年の、学校の夕焼けの帰り道。
そんな情火に、あの小さな魔女に会った。
常識も知らなかったあの子は、いつも悲しげに世界を見つめていた。
そんなあいつの時たま見せる不器用な笑顔が、とても俺は気にっていた。
感情と言うモノを上手に表現できなかったあの子は、〝結果〟だけをいつも伝えてくる。それでも、かなり下手糞に。
―――今、思い出せばあれは。
「十三階です」
エレベータの扉が静かに開き、案内音声が響いた。
小峯が開きボタンを押して、「どうぞ」と短く言う。男は何も言わずに、この動く箱から出る。
小峯は男が降りたのを確認し、張りつめた空気の中から逃げる様に出た。先導し男を部屋まで案内をする。
小峯の急ぐ足とは対象に、男の足はゆっくりと一歩づつ進む。案内とは言っても部屋の番号順通り、一番目に来る部屋だ。
一様階段はあるが、こんな高層階層まで足を使って登ってくる存在など稀であろう。
1301号室。十三階の一号館、一号室。
分かり易いものである。男には案内など付かなくとも、場所は聞いただけで把握していた。
「お、お疲れ様です。ここが紅我様の御部屋となります」
あっという間に部屋まで着き、少し気持ちが悪そうに言う。
ベルトにホルダーごと付けていた部屋の鍵を手早く取り、小峯は室内の説明をするために鍵を開けようとしたが。
「御苦労様。もういい、案内を辞めてくれ。無価値な肉体も。そして―――」
視界が完全に真黒に染まる。気持ち悪さが激しい衝動をへと変わり、体を襲う。
自分が案内までした部屋の扉に激突し、気を失った。
「―――哀しみに染まれ」
男はマフラーを緩ませる。
口内の黒い歯は、ナイフの様に鋭く尖った黒牙が並んでいた。
「悪いな。でも完全には死にはしない。半分死んだようなモノだ。…安心しろ、すぐにお前の仲間にも俺たちの哀しみが侵食していくからさ」
長い革のジャンバーの中から、どす黒い血が零れ出す。
それは洪水の様に激流に変化し、一気に十三階層を黒に染め上げていく。屋上の下、十三階からその黒い血。
コップから漏れるように下の階層を、じわじわと浸食が始まった。
床に倒れている小峯の腕時計の針が、電波時計の様に夜に向けて猛スピードで回転を始めて午後二時を超えた。
◇
「階段で行く」
「―――はい?」
俺は部屋の場所の説明をして、エレベーターまで案内をしようかと思ったのだが。紅我様が、十三階まで階段で行くと言い出した。
ホテルは主にエレベーターを使用する造りとして構造され、エレベーターから出た所から部屋が順に設定されている。
階段はエレベーターの向い一番遠くの先に配置され、火災や煙予防の装置まで付いている。もはや非常階段に近い。
階段を上って来た場合は、一号室の部屋は最後の部屋になる。つまり…外れな訳だ。
一様、二号館には業務用のエレベーターが有る。だけどあれは、お客様を乗せるものでも無いし。それに何が起きているのかもまだ把握していない。
非常事態ならまだしも。
「エレベーターだと逃げ道がない。そいつを先に案内したのなら、待ち伏せをされている可能性が高い」
その事に少し俺は思案をしてから話した。
「なら十三階の一階下、十二階で降りればいいのでは?」
その俺の対策の提案に彼女は、ぞっとするほど冷たい表情で「莫迦」と呟いた。
「そんなの誰でも思いつく。敵さんがご丁寧にエレベーター自体に何か仕掛けを施していたら、終わりだろう」
俺は成る程と頷き、この人の頭の回転の速さに感服する。
納得した俺は階段の場所をすぐに説明し、紅我様と共に走らない程度で上の階に向け早足で登っていく。
後ろから見た彼女の背中は小さい。だが風を肩で切って堂々と歩いて行く姿は、とても頼れる気がした。
腰より長い髪が、無造作に揺れてそれがまた彼女らしい。
六階程まで歩くと紅我様が足を止め、左腕で俺に制止の合図を出した。
そして彼女は下に俯いた。
「……」
「……」
沈黙の時が流れる。
「…。これを体の中に入れるなよ。影平」
俺の名前が彼女の口から出た時少しドキッ、とした。
いやそれより。
紅我様が〝これ〟と称したモノは、黒い液体だった。
上の階層から染みる様にそれが少量垂れていて、階段の下へつたっていく。
俺の靴にその液体が触れた。なんだかわからないそれに、体が身震いする。
…黒い水。いや―――水の冷たさじゃない。
生温かい、これは―――血?
さっきのとは比べ物にはならないが、視界がぶれる。彼女はまったく動じずに、階段を登りだす。
俺は目を瞑って軽く頭を振り、目の異常を直してみた。効果があったのか、通常の視界だ。
紅我様に遅れを取らないように追いかける。
十階まで登ると足元が黒い血が多量になり、俺たちはそれをぐちゃぐちゃと踏み締めて転ばないように一歩ずつ段を登っていく。
さすがにここまで登ると、体力が……辛い。
平然とした顔でペースを崩さない彼女の後に、息と貴重な酸素を吐きながら俺は必死について行く。
鉄の饐えた臭いが、鼻を突く。思わず右腕で鼻を覆う。
お陰でもっと息が苦しくなった。
「時間の経過が速い分、体力の低下も早いだろう。それに加えてにしても体力がないな。お前」
紅我様は少し俺の様子を見て、無表情に冷淡に言ってくれる。
しかしこれを踏んでいると、液体の水っぽいモノとは全く感触が違った。
少し固まったゼリーの様な固体を、上から踏みつぶしているみたいだ。固体なので、踏んでも崩れた形が残る。
沼の中を歩くって言うのが一番近い例えなんじゃないか。ちょっと踏んだ所を見てみると、足跡がくっきり残っていた。
だがそれもドロドロと下に流れ落ちていく。そしてもう上の全ての階層の壁全体が、綺麗に黒く染まっている。
それが溶けているのか蠢いていて、黒い虫が壁になっている様にも思えた。
……気色が悪い。
「着いたな。たくっ…もう夜になってしまったじゃないか。流石に速いぞ」
彼女は懐中時計をポケットから出して、時間と十三階の窓から見える夜景色を見てそう嫌そうに呟いた。
しかし俺が最初に胃がムカムカするほど気になったのは、この十三階だけ真黒い液体が一滴も見当たらない事だ。
そしてもう一つおかしいのが、部屋に入る為の扉が一つしかなかった事。その扉は、俺達が居るこの階段から一番離れた【1301号室】のみだった。
1301号室の扉が音も無く開き、「紅我」と受付で名乗った男が出てきた。
/4
夏場に相応しくないその服装は、より一層不気味さを増していた。煽は男を睨み付けて言う。
「貴様か。私の名を偽っていると言う、偽装者は」
男は哀しく遠くの煽を見据えて喋る。
「そうかその顔―――。どうやらあの手紙は本物らしい」
「―――手紙?まさかお前も―――」
煽は驚く暇も無かった。
周りの深紅の壁が真黒に変色し、黒い液体が爛れ始めたからだ。
その中から消えて無くなっていた筈の扉が姿を現す。只の壁だったのか、液体が保護色の様な形で扉を覆っていたに過ぎなかったようだ。
「出て来いよ」
男は空に呟く。それは、空気を淀めかせる闇を呼ぶ声。
呟きに反応したのか男の周りの壁付近からホテル全体に共鳴するように、壁の液体が波の様にその響きを表現している。
その後扉が一斉にドンっ、と大きな音を出して開いた。
煽は危険を感じ身構える。対し流は混乱していた。
しばしの沈黙の後。扉から人の呻き声が小さく聞こえた。
「行け」
「―――影平、動くなよ!」
男の言葉に直に煽は反応し、流に大きな声で吐くと遠く男に向かって走りだす。
時の一瞬を、間違い無く一瞬とさせる――コンマ一秒。
扉から人々が奇声を荒げて一斉に飛び出し、煽を襲う。
何よりも早く走りだしていた煽。助走の形で最初にタックルを仕掛けてきた男を、軽く飛んで身をかわした。
そして男の頭を後ろ足で蹴り、反動で回転を付加。次の襲来者の顔面を空中で蹴って更に回転し高く飛ぶ。
敵の数だけ繰り返しずっと空中に留まりながら、その勢いで次々と襲来者達を踊るように蹴り飛ばしていく。
紅いロングスカートが緩やかに揺れて、絶対的なスピードを感じさせない。
だがスカートの流れる動きとは程遠い速さで、狂人達が蹴散らせられる。
そんな対術を容易く扱う煽は、身体も小さく体重も軽い煽の独自の技術なのだろう。
煽に蹴り飛ばされた一人の男が流の近くまで飛んできた。
「―――!」
流はその男の姿を見てゾッとした。
その男の眼球、歯、血液が真黒に染まっていたからだ。
それに昨日今日にこのホテルに来ていた客の顔であったからか。数人を蹴り飛ばした煽は綺麗に床に着地する。
「やってくれる。私は直接戦闘向きじゃないんだがね」
一息付いた処で煽は男を睨んで、意地の悪そうに吐く。
前方の扉からまた数人が飛び出して来る。
「―――こ、小峯…!」
その中に居た職場仲間の変わり果てた姿を見て流は絶句した。
「グライ。グライ。―――ガナジイ、ガナジイよ。オ、バエも。ナガマ。に」
聞き取りづらい言葉で、小峯が目線を合わせず喋る。それに続き周りの変わり果てた人間達も、ガナジイガナジイと泣き叫ぶ。
「おい小峯どうしたんだよ!」
「動くなと言っただろうがっ!死にたいのか貴様は」
流が小峯に向かおうとするが、煽は怒鳴り付けて止めた。
「……っ!」
「もうそいつ等はこの世には生きてない。残念だが此処にはもうお前と私しか人と呼べる者は居ないんだ」
煽の言葉に流は膝を床に落とし落胆する。
―――これは、恐らく。半分命を取られてしまっている。
取分け特異性のあの黒い液体を、体内に直接取り込んだか。
彼奴らの体の細胞まで変化させる程の、〝液状化〟か。
特にあの真黒に染まっている〝目〟、〝歯〟。大きな外観の変化は―――それか。
顔を蹴った時に噴出した、血からして身体の中の体液も黒色であろう。
「ああ、哀しいよな俺達だけじゃ。悪いが、お前達も…こうなるんだよ」
男は申し訳が無さそうに煽に吐いた。
はん……成る程。
奴等を束ねているあの男が、共同体を築いている。……その力。
哀しみ故の行動だと。
残りの人々は狂ったように声を荒げながら煽に襲いかかり始める。
彼らの表情は、仲間が欲しいが故の哀しみを綺麗に儚げに表していた。
言うなら、哀(あい)黒(こく)徒(と)か。……ふん。ならば。
煽は身を屈め、何もしていないのにも関らず足元から火花が散り始めた。
「―――火(か)!」
その極短詠唱は彼女のスイッチか。目を大きく見開き、表情に気合が入る。
無駄の無い短すぎる詠唱は、誰も反応すら出来ない。戦闘では、判断共に行動の速さは比例する。
力と共に足元を爆発させ、身体に炎を纏い目標に向かって高速で突進した。
敵が行動一つも与えられない程のそのスピードと加速力は、まるでロケットの様。
遠くの男の目前に数秒も掛からず一瞬で迫った。
煽が高速で移動した道には、炎が床に一つの火の道を作るかのように残留する。
床の真黒な液体はガソリンに引火したかの様に、燃え広がっていく。
「―――ぐぁは!」
ドンと、男の体に衝撃が走る。煽の特攻が男の腹部に直撃したのだ。
そのまま一緒に真後ろの壁にぶつかった瞬間直後、音と共に大爆発が起こりホテルの壁が吹き飛ぶ。
衝撃がホテル全体に響き、ぐらぐらと揺れる。これではあの男の体も粉々であろう。
煽は直ぐに後ろに大きく宙返りして、無傷で余裕綽々に着地した。
そして煙がホテル内に蔓延する。流の位置からでは煽の姿がその煙で隠れてしまった。
哀黒徒達は動きが止まり、放心し始める。流は、哀黒徒達の様子が変わった事を不思議に思う。
男が―――死を迎えた証しなのか。
煙が薄らと退いてきた。後の形を見るまで、煽はしっかりと目を離さない。
煙が上がると壁は無残にも壊れており、壊れた形状から他の壁まで大きく無差別に傷が付けらたかの様に罅が入っていた。
―――落ちたか。…厭。この液体は血液。
男の姿は無いが、代わりに罅割れた壁の隙間から真黒い液体が滴っていた。
元より壁全体に侍りついていた液体。本物かは、煽よりもあの男が一番知っている。
「―――!」
煽の足元及びその付近の壁に広がっていた液体が散り散りになり、蠢く。
生き物様に動く黒いそれは、ゴキブリにも見える。煽は素早く反応し、後退。
右手を服の懐の中に差し込む。
そして何かを取り出した。深紅のカードの束だ。
紅い魔女、紅我煽の魔導具。
―――スペルカード。
彼女はカードに自分の温度を変換し、装填する。
紅い魔女の魔法原理は体内温度。
詠唱による着火で、人間の常識を超える温度を一瞬で敲き出す事が可能だ。
しかし高すぎる熱を常時維持することは熟練者でも難しい。
その弱点を補ったのがこのスペルカード。
スペルカードの中央部には薄い魔法石が貼られており、そこを持つだけで魔力と化した温度が注入され蓄積される。
それは、空の銃をリロードするよりも数倍早い。
だが。液体達は、煽に見向きもせずに階段の方へ微細な音を出して向かって行く。
階段方面には、流が居る。
「―――」
何が何だか分からずにそれを見ていた流は、壁や床から迫る黒い液体に取り囲まれた。
液体は男の形に変化し、流を後ろから羽交い締めに。
煽はしまったと、顔を引きつらせる。
男のマフラーや服は紅い魔女の突進魔法により、燃え尽きてしまった。
肌は真黒く染まり、全身が黒い。それを間直で見て流は恐怖で顔を顰めた。
身体に悪感が走り、寒気が襲う。
「そうか怖いか。どれ」
男はその様子を見て何かを始めた。黒い身体が保護色により人肌に変わり、液体がその上に纏わり付き服さえも作り上げた。
その人物の姿。流は僅かに見覚えがあった。
「―――ま、まさかあんた。…長瀬(ながせ)堅太郎(けんたろう)…さんか?」
堅太郎と名を呼ばれた男は、哀しく笑って言う。
「久しぶりだな。流。実に八年ぶりか」
◇
名字ごと本名を呼ばれるのは、久し振りだろうか。しかも過去の小さき者だった旧友だ。
あの時の夏の、俺達の姿を思い出す。
俺は十八歳。夏の制服のYシャツを着崩し、いつもぶっきら棒にしていた。
写真が好きだった俺。旅行を沢山して、海外の歴史や色んなモノに触れてきた。
流は十二歳。当時のこいつは、黒いジャージに寝ぐせ頭だったな。
想像力が凄くて、なんでもやろうとするガキだった。
そして……あいつも十二歳、…だったかな。
そうだ。初めて俺が出会った〝魔女〟だった。
その姿と雰囲気は、空想上の魔女にはとても似ても似つかわない子。
そんなあいつの顔は、〝何人〟も存在するってのか?
……違う。あいつは、あいつ。
そして…。俺は紅我を見た。澄み切った瞳で俺を睨んでいる。
お互い身動きが出来ないのは、流が人質だからか。
いや。俺の旧友だからか。
だが紅我にとっては、こいつはどうでもいい筈。
―――何故動かない。
「堅太郎さん…。あなたの望んでいた平和ってこんな事だったんすか?」
人質の流は今の状況が判らないのか、それとも鈍いのか生意気に言ってきた。
「違うだろうな」
「じゃあなぜっ!?」
「…これでしか正せない」
哀しくなった。
自分が若き頃、貫かんとした意思はこんな哀しみでしか塗り変える事が出来ないのだから。
…俺は様々な国へ旅行し、写真を撮っていた。
自然や風景。色んな民族や、人々の暮らしをカメラに収めるのが好きだった。
取った写真は保存さえしておけば、何年も残しておける。いつでも好きな時にアルバムを取り出し、その時の感動をまた脳内で思いだす事だって出来る。
思い出としてあの時の事を思い出す事も素敵だが、やっぱり写真を観て鮮明に思い出せる方がもっと素敵な事だと思う。
しかし色んな国を巡るうちに世界の惨劇と、人間の深い闇を見てきた。―――戦争や紛争。
そんな歪なモノまで、シャッターさえ切れば写真に収める事が出来てしまう。
自分の目で当時は信じる事が出来なかった争いを写真で改めて観る事によって、俺は世界の…人間の汚さを知った。
酷く―――哀しかった。
世界はこんなにも綺麗だったのに、無様に破壊されてしまう。人によって創られたものが、人によって破壊される。
俺は戦場カメラマンでもないのに、いつの間にかそんなものばかり撮り続けていたらしい。アルバムの中には、そんな写真ばかりが沢山入っていた。
いつでも好きな時にアルバムを取り出しても、そんな写真しか無いんじゃ思い出さえも汚れてしまう。
お陰で俺の脳内には、当時の残酷な惨劇ばかり。
ヒトの肉片が空を泳ぐ。
血が生温かい雨を降らす。
食べ物はヒト。
飲み物は血。
それにより感染病だって広がる。ヒトは人にとって、猛毒にしかならない。
生きていても、死んでいても。生と死はいつでも隣合わせだ。
なら死んでいようが生きていようが、どちらも変わらん
生きる喜び。
死に逝く者の哀しみ。
どちらも理解し、体現せねば判らない。
人間は皆、自分の魂を賭けろ。
「だから流。すまないがお前も、俺の平和に染まってくれ」
こんな事は、酷く哀しいけど仕方ないんだ。俺には、この力でしか平和を正す事が出来ない。
「堅太郎さっ―――」
「血蝕(けっしょく)隔離(かくり)」
流を突き飛ばし、力を呪術的な言様で発動させた。
壁にへばり付いていた塗装血を、一度剥離させ流を血で膜を張る様に覆う。流は手に持っていた旅行鞄を、血蝕の床に落とした。
彼を現実から、血の個室に完全に隔離する。
……流。お前は覚えているだろうか。あの時の約束を…。
まあ。結局お前と俺では、力の差は相変わらず変わらなかった。
魔女達から頂いた、俺のこの能力のことじゃない。
八年前の俺と言う高校生に挑んだ、小学生の流の、無謀な挑戦のこと。
そしてあの後の約束した夏の一日から、既に八年。もう出会えるとも思ってなかった、お前に……出逢ってしまった。
お前とした、約束を今更思い出す。しかし、もう決着はついた。
…哀しいな。あんな約束はやはりただの―――。
「?」
おかしい。普通の人間のはずなのに、抵抗が強い。中で何かの力が反発している。
それに今思えばもっとおかしい。
異端の紅我はともかく俺の血蝕とあの魔女の白い月に因る力で、
普通の人間ならとっくに染まっているはずなのに。…確かに身体の抵抗に個人差はあるが、一体何故?
「おい。哀しみの執行者」
「―――」
遠くに居る紅我が俺をそう馬鹿にした様に謳い、俺は一瞥する。
そしてまた性懲りもなく、走って近づいて来た。両手には何やらカードの様な物を、二枚ずつ指に挟んでいる。
「悪いがお前は後だ。―――血蝕(けっしょく)黒徒(こくと)」
一度止まってしまった俺の仲間達を呼び起こした。彼等は紅我の勢いを止めさせることだけには成功し、再び襲い掛からせたが…。
紅我は身構え、両腕をクロス。腕が鼻まで半分顔を隠し、見据える鮮やかな紫色の目は紅く燃えたぎっている。
持っていたカードを交互に右手、左手と投げて来た。黒徒達は紅我の咄嗟の行動には反応できない。
彼等は元より、知能が低下している為か。
投げられたカードは横に回転しながら黒徒達を通り過ぎて、此方に飛んできた。
これは…スペルカード!まさかあいつも―――
俺は投げられた来た二枚のカードを身体分解し避けた。
後のスペルカードの二枚は、流を覆っていた膜両端に刺さった。
「――――火!」
パチンと、紅我は右の指を鳴らして同時に詠唱を唱える。
膜に刺さったスペルカードが爆発し、俺の力の血がべっとりと付いた流が血だまりに為りながら出てしまう。
「やはり魔女か!」
黒徒達が爆発に敏感に反応し、一斉に音の正体を見る。
それを機に魔女が黒徒達を抜け、一気に迫り幼く見える小さい体で流を背負った。
そのせいか、魔女の体に俺の血が付着する。黒徒達は爆発に目を取られてしまったか。
―――だが逃がすか。
「―――火っ!」
魔女は走り去りながら振り向き様に、今度は左の指を鳴らした。
「―――!」
途端に俺の背後が爆発と共にこの階層を、煙で満たして行く。
俺に最初に投げられた二枚のスペルカードが、壁に刺さっていたらしい。
始めから逃げるつもりで投げいれたか。まんまと騙された訳だ。
煙が引くと、魔女と流の姿は無かった。……鞄。
二人の姿の代わりに赤い鞄が残されていた。
流がさっきまで持っていた旅行用の鞄か。金の南京錠で、施錠されている。
しっかり鍵が掛けられているが、こんなのは簡単に―――。
「―――ぐっ!」
手を触れると俺の開けようとする意識に反発して、鍵穴から炎が噴き出した。腕が燃え落ち崩れる。
……。また作り直さねば為らないとは。
「原因である俺と血蝕全てを殺らなければ、此処から出られない。……悪いがな」
既に聞こえない奴等に、俺は喋る様に独り呟いてしまう。
床の血蝕を操り、腕を再生させる。
一様この怪しい鞄は持っておくか。再生したばかりの腕で鞄を持つ。
「ううううううぅぅぅぅぅ…!」
黒徒達の哀しみの叫びがホテル内に木魂する。
そして、姿形が変異を始めた。身体の骨がバキバキと音をたてて、
〝首・腕・足〟が有りもしない方向へ曲がっていく。
不思議と血は噴き出ない。ただそれは、身体の組織を〝再構成〟しているだけだからだ。
「キイイイイイイッ……!」
人とは呼べなくなった彼等は、虫に似た雄叫びを上げた。その声はホテル全体をも、高速の速度で変化させていく。
それは哀しみ帯びていて俺は思わず、―――涙を流した。
/5
涙は止まらない。
暗い世界の中は、もう涙の海。泳ぎ疲れた俺は、哀しみに満ちたこの暗闇の空を見る。
空なんてないだろうと高を括っていたが―――。
―――あった。
そんな空から小さな女性のシルエットが見えた。俺にはそれが眩しい光りに感じて。
『手を■■。何も今、■■■■■■■■■マシだろう』
ただ驚く俺に、その光りが喋り掛けてくる。
このただ暗い闇の中"無人"の世界に創られた、初めての〝人〟。
―――助けてくれた。
ならこの人がこんな世界に来て困り果てていたら。次はこの人を俺が助けよう。
これが…。
「運命か」
「……何がだ」
「―――うおっ!」
その呆れ果てた誰かの声に反応し、俺は飛び起きた。
目が痛い。色んな色と物が目に映ってジーンとする。目を俺は無
意識に小さくしていた。
視界が良好になると、周りがはっきり見える。血の様な液体がホテルの壁を殆ど覆い尽くしていた。
それに煙草臭い。そんなことより。…なんで俺はこの人の手を握っているんだ。
背の低い女性の、凛々しい顔が俺を見つめている……人形の様な無表情で。
……紅我様。ホテルに来客したお客様。
そして俺はこのホテルの従業員だ。何が……あった?
俺の寝ている内に…えと。
反対の手で顎を指で挟んで考え、思い出そうとしてみる。
……思い出した。俺は今日体調が悪くて、気持ち悪かったんだ。
今思えばあれが、この異界と言うワールドの入場券だったのかも。と言うか、また気持ち悪くなってきた。…考えを戻そう。
確かその後紅我様に会ってから色々と絡まれ、最悪な再会を堅太郎さんとしたんだった。
そして俺が捕まって…。あれは、やはり現実だったんだろう。さっきの夢みたいなモノよりも、記憶がはっきりしてる。
そういえば……。あの後どうなったんだ?
堅太郎さんや小峯達が気になるが、あいつ等の姿が何処にも見当たらない。見た感じ、此処は違う階のようだが。
ここは……何階だ?この階にも液体は有るが…。
考えが途中で詰まった。
「お前。いつまで私の手を握っているつもりだ」
「あっ!すいません!」
拒否するように思わず手を放してしまう。
紅我様の表情が固まった気がしたが、ずっと逢ってから変わらない無表情だった。
俺は声に驚いて手を放したつもりだったが、この人のあの暴力的な驚異の力を異端視したつもりはない。
あれはあれで、特技なのだと思うし。でもちょっと俺の反応が悪い様な気がして、恐る恐る喋りかける。
「あの。あれからなにが…」
「奴とは引き分けた。それより影平。もうすぐお前の魂が死ぬぞ」
簡単にてきとうに話されて、しかも俺の魂が死ぬと抜かされた。
「ちょっとあんた…死ぬって…俺が?」
他人事に言われて、俺は少し腹が立つ。だって意味が分からない。
「ああ。だが完全な死じゃないさ。半分死ぬ。つまり人間として魂が死ぬって事だ。私の貸したネックレスのお陰で辛うじて今は保っているがね。これが無ければあっという間にあちら側についていただろうよ」
つまり俺が、小峯達の様になるってことか。だから、また気持ち悪くなってきたのか。
そんな当たり前に淡々と言われても。この人は人の尊厳と言うものを知らないのか?最もそれがこの人の常識なのか?
「で。今死にたいか」
「絶対嫌です」
当たり前だ。人間としての死を宣告されては、だれだってそんなのは拒否の姿勢と意識をする。
「なら私の使い魔として契約を結べ」
「え?」
また使い魔とか、契約とかなんなんだこの人は。
正直痛い人なのかとも思ってしまうが、あんな常識はずれの力が使えるのだから本当なんだろう。
「この契約で、お前に侵食しているその〝血蝕(けっしょく)〟とか言う不純物を破壊出来るんだ。時間が無いぞ。やるのか、やらないのか?」
なんだか解らないがとりあえず死にたくない俺は、「やります」と頷いた。
◇
「私の無人(むじん)の境(さかい)眼(め)を分けてやる。これの使い方は説明せずともいずれ解るだろう」
無人の境眼は創造と破壊を同時に行える神(しん)眼(がん)だ。
あの伝説上で語られる、創造と破壊の神〝シヴァ神〟と同等の力を引き出せる眼。
創造と破壊は同一行為。……破壊を作るのも創造。……創造を壊すのも破壊。
どちらも無ければ、この世界と私たちは創られなかっただろう。
新しい物を作るのにはその前に作られた物を改めて考え直し、一度基盤を再構成してもっと良く作り上げる事が目標。
テレビやパソコン、医療技術や運動方法も駄目なところが分かればそれを改善して更に良い商品へと変える。
地球でさえ、最初の一つの大きな大陸が裂け分かれて今の世界の国々が生まれた訳だ。
人類や各動物の誕生もプランクトンの様な存在から始まって、今に至る。歴史の戦争の数々も、そんな人類や国々が出来てから生まれた哀しい創造。
死として破壊され、人々は革め直されて今の偽りの平和を創りあげた。これが創造と破壊の同一原理、同一視。
同一哲学だが、それがこの〝創造と破壊〟の正体。
〝無人の境眼〟も。
「右手を私の左目に添えろ」
影平は言われた通り右腕をゆっくりと前に突き出し、私の左目に触れた。それを確認して私も、右腕をサッと影平の左目に右手を宛てがう。
「右目を閉じろ」
影平と私は同時に右目を閉じた。
「そのままじっとしていればすぐ終わる。―――交(か) 継承(けいしょう)特異点(とくいてん)」
私が交わせの詠唱を唱えると、左目の〝無人の境眼〟が発動。
無数の金の糸達が右手から漏れて、右腕を伝う。影平は言い付け通り、動かずそれをただ見ていた。
表情を見ると、それに目を奪われている様だった。
右腕から影平の左目に金の糸が侵入して、身体がびくりと震える。これに痛みは無い。コンタクトを変えるのと同じだろう。
先ほどの手順には、きちんと意味が有る。
まず影平からやらせたのは、執事等に似た従う者としての先行の礼儀だ。右腕を通信系として私の左目の情報を送信し、影平の左目で受信させる。
右目をお互いに閉じたのは〝無人の境眼〟の力をそこから逃がさない為だ。無人の境眼は両目で使うモノだからな。
影平の身体が激しく揺れた。
「終わったぞ。影ひ―――っ」
私の身体も同じように揺れる。
私の眼から、私が視える。
私の耳から、誰かの小さな息使いが聞こえる。
私の鼻から、鉄の臭いが引いて行く。
この臭いは、私が先ほどまで嗅いでいたモノじゃない。身体の中の不純物である、血蝕が消えていくのが分かる。
これは無人の境眼が、あの長瀬堅太郎の血蝕を破壊している証し。そして私が私を視ているのは、影平の視界なのか。
この男らしい低い声と息使いも。
「リンクしているのか」
無人の境眼による創造は、私も想像出来ないな。
まさか能力の継承や契約だけじゃなく、お互いの脳や神経をも交わし繋いでしまうとは。
〝特異点〟とは本来無い世界やモノを指す。数学的に存在し得ないモノが存在する〝仮定の存在〟の様なモノだ。
どちらでも起こるし起こらない、全てが干渉し合える異種性。
特異点は、その持ち方により様々な可能性を万物に与える。
「成る程。ならおまけの暗示をくれてやる」
神経組織を使う〝暗示〟を二つ程仕込んどいてやろう。
私の使い魔なんだ。戦闘用にお前を好きにさせてもらおうじゃないか。
暗示を仕込み終わると、眼に疲れが出た。
「…ちっ。久し振りだからか」
少し耐えられなくなり、舌打ちをして〝眼〟を私は閉じる。
〝目〟を開けると影平〝無人の境眼〟はまだ開いていた。
こちらが切っても切れないのか、どうやら分け与え過ぎてしまった様だ。
しかしこれ程抵抗無く享け入れるとは、私と同じ様に〝これ〟を手に入れる存在だったか。それとも私を信頼しているのか?
―――そんなまさかな。どちらも無いだろう。
「おい影平。いつまで放心しているんだ」
私が声を掛けるとその分け与えてやったばかりの眼で、こちらを冷静に見据えてきた。
「…すいません。紅我様の言った通り、死ななくて済みそうですね」
早速一つ目の冷静の暗示が表れ始めたか。
「後。何か変わった事はあるか?」
「そうですね。身体全体が熱いです」
二つ目の暗示も成功か。神経から放出される神経伝達物質のアドレナリンが身体の筋肉を活性化させているのだろう。
一般人によく見られるアドレナリン多量放出による興奮は、冷静の暗示で抑制させられているか。
「ふむ。思った通り上手くいったな。もう閉じていいぞ。それ」
影平は眼を閉じ、目を開く。
「……あれ?なんか、身体が痺れます…」
「―――」
そうか……元はただの人間だ。
眼を閉じてからの冷静の暗示も消える為、アドレナリンによる身体の衝撃も強いのか。
「副作用…。しまったな。好きにやり過ぎたか」
戦闘用に仕立て上げたつもりが、思わず仕立て上げ過ぎた。
「…。あんまり長時間の戦闘は後にきついぞ」
「―――え?あの紅我様」
そうだ。なにか気に入らないと思ったらそれだったか。
「紅我様…堅苦しい。これからお前は私の使い魔なんだ。……呼び方を変えろ。紅我と言う名前は自分でもなるべく言いたくないモノでね」
影平は困った様に顔を顰める。そして右指で顎を挟んで、何やら考え始めた様だ。
「じゃあ煽さんで…いいすか?」
「構わんが」
するとこいつは、何故か笑って肩の力を抜いて言った。
「よかったです。ちょっと呼びにくくて。……いやあのお客様に対しての礼儀と言うか、…何と言うか…」
なんだこいつ。何が言いたい。
「あ…」
途中影平は口を黙らせて、ズボンの裏ポケットを弄り長いタオルを出してきた。何故か私の右腕を無理やり取る。
ああ…血か…。
さっきの戦闘で掠ったのか。影平がタオルで腕を丁寧に巻いてくれる。そして私を見て笑った。
何が面白いんだ。よく解らない奴。
私はそれに顔を背けて先に立ち上がった。
上へ上る階段へ向かう。影平もゆっくりと私の後に付いて来た。
外の景色を見る。
空はすでに何も無い暗闇と真っ白い月が窓から、不気味に揺ら揺らと光りを差し込んでいた。
懐中時計を取り出すと、時計の針が午後の二十二時を超えていた。
……さて。この忌まわしい現象を終いにしてやるか。
しかし残念なのは〝あれ〟が入った鞄を、十三階に忘れて来てしまった事だ。
仕方ないか。どちらにせよ奴には開けられない。
この眼じゃなければ。
◇
紅我…煽さんは、また階段を上り始めた。
十三階…まで、上るつもりなのだろうか。
それにここは何階だろう?何階か確認しようとも、あの血蝕…とか言うので階層プレートも壁ごと見えなくなっているし。
今年の春から務めたばかりと言っても、二、三月も従業員をしていれば雰囲気で分かるはずなのに。
さっきの煙草臭い臭いからして、喫煙所。だから……一階か?
でもなんかどこか、形状が違った気がする。
―――キィィィ…。
「………?」
なんだか聞いたことの無い、変な虫の声だって聞こえる。まあ、一様夏だし虫は居るとは思うが。
「あの紅我さ…いや煽さん。よく俺を担いで一階付近の喫煙所までこれましたね。エレベーター使えたんですか?」
「瞬間魔法だよ。エレベーターは恐らく使えないだろうし、階段方面にはやつも居たしな。念の為に仕掛けといて良かった」
煽さんは後ろを振り返らずに、前を見つつ言った。
それって俺が階段の前辺りで、煽さん達の戦いを見ていたせいだよな。でも、堅太郎さんが俺を狙って人質にするためこっちに来るとも全然思わなかったし。
ん……瞬間魔法?なんで一階の喫煙所まで戻る必要があったんだ。
余裕を持って五、六階でも良かったんじゃないか。
余裕…念の為―――。
「…念の為に仕掛けたって。あの喫煙所に悪戯に差し込んでいたカードですか?」
最初の受付の不手際で待たせていた、喫煙所での煽さんの理解不能な行動を思い出して言った。
「悪戯と思っているのはお前だろう。歴きとした、魔女の防衛本能なんだよ。…使うまでも無いとは思ったが、かなりの難敵だったのでな」
悪戯と言う言葉の誤りにすこし気に障ってしまったのか、魔女(せんさん)はやっと振り返ってそれらしき目で睨んでくる。
「はぁ。まあそのお陰で実際助かりましたしね」
俺は頭を掻きながら言う。だって一階からまた上るのは辛いなと思ってしまう。
それに魔法とか言う異端な常識を超えたモノでも、万能と言うわけではないらしい。あの西洋造りの様なカードを仕掛けなければ、そこに移動できないなんて。
普通に凄いとは思うけど。……それより。
堅太郎さんは、どうしてあんな風になってしまったのだろうか。
八年前の今期の様な汗が滴る夏、俺は血蝕で溢れている階段を上りながらふと思いだす。
当時高校生だったあの人は不真面目だったが正義感が強く、とても人情に溢れる人だった。
小学生だった俺を、いじめっ子達に立ち向かう勇気をくれた。
堅太郎さんは、坂の一番上にある山外れの公園によく居たな。
その公園は…素晴らしかった。
滑り台に登れば街の風景が全貌出来る。余り人が寄り付かず、夏の日差しを寄せ逝けない日陰。
…今はあそこ、どうなっているのだろうか?
そしてそれからもそこで堅太郎さんと一緒に遊んだり、俺の強くなりたいと言う子供心も喜んで受け入れて喧嘩の仕方等も教えてくれたりもした。
堅太郎さんは良く自分が旅行して撮ってきた写真を、俺に見せてくれたな。
子供の俺には風景とか人の笑顔とか良く解らず観ていたけど、今思えば素敵な写真ばかりだった。
少し残酷な写真も有ったのが記憶に一番残っている。
戦争をしている国の状況等だ。戦争の為の食糧不足等で、栄養失調による飢餓した子供達。
それにより餓死をしていく人々。
堅太郎さんはそれを哀しそうに観ていて、握り拳を作り怒りも表しこう言っていた。
「彼等は戦争の勝敗により平和を勝ち取ろうなんて思ってない。それは惰弱な国の立場でしかないんだ。悔しくも巻き込まれ死んでしまったあの人達が、それを良しとする訳がない。犠牲を出し得た平和なんて、偽りの偽物に過ぎないんだよ」
難しいことを良く子供にしたなと今なら思うが、それは全くの正論だと改めて思う。
堅太郎さんに解いた事がある。哀しいなら、なんでそんな写真を撮ってきたのだと。
俺の子供らしい真っ直ぐな素直な意見。すると彼は苦笑して言った。
「誰かに観せる為に撮った訳じゃない。同じ哀しみを僅かでも少しでも俺が味わいたいと、…ずっと忘れないで覚えていたいと思っただけさ」
そして堅太郎さんは、自分の夢を俺に語ってくれた。
「流!俺は俺の望む平和を創りたい。世界の皆が平等で、本当の平和の中に暮らせる世界を…。今のこんな世界を打ち壊してでもな!」
彼は公園の滑り台の上で高らかにそう宣言していた。
俺はそんな堅太郎さんをかっこいいと思ったのだろうな。拍手をしていた気がする。
子供だった俺に、子供の様な夢を語る彼はあの時の憧れだったから。
そして八年前の堅太郎さんとの最後の日。いつもの公園で俺は堅太郎さんを待っていた。
そう彼がまた旅行に行くと言い出したから。
「行く前に俺と決闘して」と俺が公園へ呼び出した。
彼は仕方の無さそうに「いいぞ」と、軽く了承してくれた。
勿論結果は………俺の負け。
堅太郎さんは手加減をしなかったようにあの時は感じたが、そう見えないように手を抜いたのだと思う。
俺は懲りずにもう一度と挑んだ。
だけど「負けは負け」と、彼は俺の頭を撫でながら言った。俺の悔しい表情を見て堅太郎さんは何を思ったのだろう。
「流。俺が俺の欲望の夢の為に、間違った道に進んでしまったらまた今みたいに本気でかかって来てくれよな」
そう言って俺の肩をポンポンと叩きながら、哀しそうに笑っていた。
それが八年前の夏の夕方、彼との最後に話した事だった。
そして今、堅太郎さんとの約束を思い出す。
―――間違った道。〝本気で殺しに来い〟と…。
……
そして俺達はそのまま階段を、血蝕を踏み潰しながら上り続けた。
だが数階を上がった所で、煽さんは途中で立ち止まる。
「どうしたんです?」
「見ろ」
上に向かって指を差す煽さんと同じ段まで行き、それを見て驚愕した。
「……階段が消えて天井になってる」
上に続く階段が、血蝕によって隙間なく閉ざされているのだ。
「確か他に階段はないんだよな?」
呆気にとられている俺に、煽さんは他の移動手段がないか聞いてくる。残るはエレベーターくらいしかない。
でも使えるか判らないのに。ん………エレベーター…?
「__確か二号館に業務用エレベーターが…別に有ったな」
「……影平。そう言うのは普通最初の案内の時に言うものだろう」
間髪入れずに彼女は駄目押しを言う。…確かにその通りなのだろうけど。
あの時は非常事態だとも思わなかったし、まさかこんな事が起きるともまったく想像が付かなかった。
「今からご案内致しますよ。お客様…」
「は?もうそんな関係じゃないだろう。勘違いするなよ莫迦」
…この人は、どんだけ俺を馬鹿にしているんだろうか。
一先ず二号館に行くには一階に戻るか途中の七階で、渡り廊下を通らなければ行けない。
今此処は一階の喫煙所から六階上ったのだから、六階だろう。
そうなると、丁度いい所で階段が無くなってしまった為に一階に降りるしかないようだ。俺が先導して階段を降りて行く。
煽さんは理解したのか、何も言わずに付いて来る。血蝕で転げ落ちないように降りる俺。
対して煽さんは相変わらずの無表情で、軽い足取りで降りていた。
「ちんたらするな。グズ」
そう吐き捨て、当然あっという間に俺を抜かしてしまう。何とか追いついたが、そこはもう既に一階だった。
やっぱり上るのよりは早いが、血蝕で足場が悪かったので普段よりは遅い。
ホールに出ようとした所で、午前零時の鐘が鳴った。ホールクロックの美しい音色は、いつも聞いているものより不気味だ。
そしてやはり、時間の経過の早さを感じさせる。音が血蝕に反響して、生きているかの様に蠢かせた。
とりあえず気にせずホールに出ようとすると、煽さんが俺の服を掴んできてしゃがまされた。
なんだと思って喋ろうとしたが、「しっ…」っと黙らされる。
ホールクロックの音が響き続けるホテルの空間。
「影平。よく耳を澄ませ」
そう言われ俺は耳に右手を当てる。
「キィィィィィ…」
鐘の音の他に奇怪な虫の音が無数に聞こえた。
「なんだ虫の声じゃないですか」
俺はそう言ってホールへ出る。
「―――莫迦っ!」
―――え。
そこには、大きな人間大の黒い虫が沢山居た。
壁に張り付く虫。大きな羽で飛ぶ虫。床に這いずる虫。
有りもしないはずの虫達の楽園がそこに。
「―――ギィィィィイッ!」
一匹の黒虫が俺を見つけて、声を荒げた。他の虫達が一斉にこちらを見て奇声を出す。
その虫達の目が赤く光り、獲物である俺を見る。赤い眼は蜻蛉目に似ていた。
まるでレーザーポインターを当てられたように、俺の身体に赤い光線が走る。
キュウィィン、と目が別に機械の様な音を出していた。
―――動けない。
そのレーザーポインターは、まるで俺に手を挙げろと無言で言ってきている様だった。
ジリジリと虫達は詰め寄ってくる。まるで俺は虫達の犯罪者扱いだろうかこれは。
羽音が迫る。……俺はどうすればいい。
…そうだ契約とか言うので貰ったこの眼で―――。
目を閉じ早速使おうと思ったが、後ろから風を斬る様な音が聞こえた。それはこの場の殺気からんとした沈黙も切り裂く。
目を開けるとその風の正体は、あのカードだった。
黒虫達の集団の中にカードを無理やり潜り込ませた。
そして。
「伏せろ!―――火っ!」
パチンッ。
後ろから魔女の声と、指を鳴らす音が聞こえた。
俺に対し諭した台詞は、どうも逆らえない。単純に従い、俺は地面に身を屈めた。
カードが光り、紅い閃光が煌めき―――。
―――大爆発。飛んでいる虫達が消し飛んだ。
狭間に魔女は、指を弾いた右手首を捻り下げる。
「―――、降(こう)火(か)!」
魔女の連続詠唱。火が生きているかの様に下にまで拡散した。
魔女の詠唱は火にさえ〝命〟を与えるのか。多くの虫達が燃え広がる。虫がジタバタと暴れだし、火が伝染していく。
何匹かは、それから逃げるように逃げ出していた。
「影平!むやみやたらに眼を使うなよ!私までその意識がシンクロするんだ」
「―――意識のシンクロ!」
「説明は後だ!今のうちにエレベーターまで走れ!」
……あの業火と虫の中をかよ!
それより。
「煽さんは!」
「安心しろ!無人の境眼を発動さえすれば、私とお前はこの眼で神経と脳を通し繋がっている!…いいから早く行かんか莫迦者がっ!」
早口で訳の解らない事を解説され、おまけに罵声を浴びせられた。
俺はその恐ろしい魔女の顔と声にビビって、一気に虫の死骸と炎の広がるホールを駆ける。
それらを避けながら精一杯急ぐ。
「―――か」
途中ある事に気づく。
海崎さんの顔が、虫の背中から生えていた。
「……ガナジ…イ。よ」
本当に哀しそうな表情で、それは小さく今にもかき消えそうな声で鳴いて。
他の虫の背中にも人の顔が有った。職場の馴染みの顔。お客様達の顔。
みんな哀しそうに泣いていた。
後ろを見ると魔女は火を縦横無尽に操り、虫を燃え払っている_
無表情に冷血で。
「……くっそっ!こんなの戦争とかわんねぇよ!」
俺はこの場に居ない平和を謳った男に吼える。
堅太郎さん。俺はあんたを…。約束を果たしてやろうじゃないか。
エレベーターに乗り込み、俺はそう意気込む。
腕時計の時間は午前二時を回っていた。
/6
七階の一号館のエレベーター前で俺は奴等を待った。
渡り廊下の一番先の此方と向い合わせの業務用のエレベーターが来るのをただ見て、あの魔女の赤い鞄に座り待っていた。
階層の数字マークの電光が黄色く点滅を始めた。一階から二階、三階と順に点滅する。
……来たか。
七階の数字マークが点滅しそのまま八階には行かない。エレベーターが、開く。俺は二人を出迎える為に立ち上がる。
しかし魔女の姿は無く、男が一人乗っていた。
お互い向い合わせになる。
遠くからでも判るくらい、流は殺気を放っていた。
その表情は怒りが満ちている。黒い瞳の奥に、怒涛の魂。
「堅太郎さん。このホテルの屋上で決闘だ」
「―――!」
俺の視界が過去にタイムアウト。流のその言葉にある懐かしい風景と、一人の寝ぐせの付いた少年が流に重なった。
……そうか…こいつ。
「いいぞ」
俺はあの時の様に潔くその勝負を買う。
ふふ。なら小細工せずに上で待とうか。
鞄は邪魔だな。どうせ流には開けられまい。
旅行鞄を、掌を開いて床に落とす。そして身体を液状にして天井に融ける様に上へ先に向かう。一号館の屋上に溶け着く。
自分の身体を人間ベースへ戻した。
屋上は夜に似せた風景が漂う。白い月が唯一、此処を照らしていた。
この白い月は俺達"感情"の力を更に活性化させる影響があると、あの悪戯な魔女が言っていた。
そして月一度の満月の日にだけ現れる白い月。
最初から……。この日に行えと予定もされる訳だ。
〝やつ〟は本気であの魔女と―――。
扉が勢いよく開いた。流はその扉の勢いに似合わずゆっくりとした歩行で近づき、足を止め俺との戦闘初定距離を開けた。
何も喋らない俺と、こいつ。
そうだ、言葉は不要だ。…風景は違うが、お互いあの時の夏のあの公園を思いだしているだろう。
坂の上に在ったあの公園の壮観な景色の眺めは、この高いホテルの景色に似ているかも知れない。そしたら此処からの眺めも最高だろうな。
夜の冷たい風が吹く。
〝あの時〟の様に手加減はしない。
……いくぞ―――。
◇
「―――血蝕集(けっしょくしゅう)」
長瀬堅太郎が先に動き出した。
白い月が妖しく光る偽りの白夜に右手を掲げる。ホテル全体から、血蝕がホテル上空に集まり始めた。
血の黒い塊が空に創られていく。まるで血で出来た雲の様だ。
影平流は、それを見て身震いさせる。
だが流も、もう後には引けない。流はゆっくりと目を閉じた。
堅太郎はそれを見てもう諦めたのかと勘違いしたのか、顔を曇らせた。
……怖気づいたか。今更―――。
「遅いんだよ。―――血蝕(けっしょく)槍(そう)」
血の雲から鋭く尖った大きな槍の様な物体が雲から顔を出す。
堅太郎は躊躇無く頭上に上げた右手を流に向けた。槍はそれに従うように流に向かって飛んで行く。
(―――開(ひら)け)
流の頭に魔女の声が煌めく。槍はそのまま刺さったのか。
―――いや。槍の先から、金色の粉になっていき消えていく。
「―――!」
槍が完全に消えて流の顔が見え始め、堅太郎は驚き目を大きく見開いた。
瞼を開けた流のその眼は〝無人の境眼〟を発動していた。
金色の糸が涙の様に風に吹かれ、散る様は神々しい。
堅太郎はその眼に一瞬気を取られたが、すぐに自我を保つ。
さすがと言った所だ。
……なんだその力…。ただの人間だったお前が…。
そうか〝契約〟したか。それなら……。
堅太郎は両手を掲げる。
「―――血蝕(けっしょく)雹(ひょう)!」
詠唱と共に両手を下げる。
氷の豆粒ほどの血蝕の塊が血の雲から無数に流へ向かって、……いやホテルの屋上全体に降り注ぐ。
―――数なら……どうだ。
雹が眼の力により金の粉になるが、数が多くて金の煙が立ち上る。
月の白い月光が金を照らし、夜空の月を更に輝かせて。
流は煽に付加された〝常時冷静〟により〝無人の境眼〟の使い方を冷静に迅速に脳内で処理、把握し始めていた。
それだけではない。頭の中はこの眼による煽との共有もしていた。
(そうだ。お前がそいつの血蝕の破壊を創造した。この力は万物を無に返す。再生は出来まい。しかし驚いた。想像力が高いんだな影平。無人の境眼は、その今の様な破壊の創造を頭の中で鮮明にイメージしなければいけないからな。ある意味〝想像力〟とも言えよう。黒虫共は全部一匹残らず片づけた。その景色。そこは屋上か。今からそっちに行く、待っていろ―――)
流の中に煽の助言と説明が聞こえていた。
煽の意識が途絶える。煽が流の理解力の速さに安心し眼を閉じた為か。
勿論、堅太郎には聞こえない。
破壊/創造が鮮明にイメージ出来たのも、冷静の暗示の効果もそこに表れている証拠。
しかし流は元から想像力が豊かな方だった所以も有る。
……小峯。海崎さん。みんな。
煽の虫を全部片付けたと言う台詞に、流は彼等の完全な死を理解した。
煽に多少為りに〝憎さ〟が流の中に芽生える。だが煽の一匹残らずと言うこの台詞は、虫達が人間だったと気づいているかどうかも怪しい。
そして金の煙が上がり流は無傷で姿を現した。
「ちっ…化け物め」
堅太郎が舌打ちをして流をそう貶す。
「あんたのほうがよっぽど恐ろしいぜ。戦争屋が」
冷静な流は、冷血に陰湿に言う。
〝戦争屋〟。その言葉は堅太郎の中に響く。
「――あんなやつらと…一緒にするなぁぁぁっ!―――血蝕(けっしょく)甲殻(こうかく)っ!」
普段の彼らしくない叫びを上げ、詠唱を叫ぶ。
堅太郎の怒りが爆発したようだ。その怒りはあの黒い血の液体まで干渉する。
詠唱後、血蝕が甲殻類の様に堅太郎の身体に纏わり付いた。例えるなら所々尖っている赤黒いそれは、蟹や伊勢エビの様な衣か。
長距離は駄目だと判断して、近距離戦を挑む為の装備をしたようだが。
「―――!」
装備中、目の前に流が既に迫っていた。
流にはそれが〝そういうモノ〟だと想像していたからだ。
想像力とは簡単に詳しく言えば〝先を読む力〟とも捉える事ができる。敵の行動を、事前にどう動くか頭でイメージをするのもまた想像力だろう。
高速な速度からの走り込みの勢いに乗せて、堅太郎の血蝕の装備がされていない顔の部分を右拳で殴る。
堅太郎は防御が間に合わず、顔面から吹っ飛ぶ。多量のアドレナリン分泌により流の運動機能は最高まで高められており、筋肉が神経物質によって増強されてその威力は計り知れないだろう。
ホテルの屋上にある給水タンクに堅太郎は激突し衝撃で血蝕装備事ぐちゃり、と足先まで叩き潰れた。
そしてタンクがあの血蝕装備の棘により大穴を開け、水が滝の様に吹き出し大量に流れ出る。
堅太郎の黒い血の様な液状体は、その水に流され屋上に満たされていく。
―――やったか?
流は安心出来ないのか黄金の眼を大きく見開き、警戒を怠らない。
それにあの血の雲も不気味に残っている故か。
水が流の足に触れる。自分の足元に流は目を配り、右手を握りしめる。
だが特に何も起こらず水が屋上全体に広がった。
黒い液体は疎らになったのか、所々に水を汚しながら散っていく。
これでは再生も不可能か。
「やってくれるじゃないか。…流」
散った液体の一部が堅太郎の黒い生首を作りだして、それが牙をむき出しにし喋った。
「―――なっ!…ちっ」
流は舌打ちをしその首に向かって走り出す。今度こそ破壊しようと試みる為だ。
「―――ッ!」
しかし後ろから衝撃が走り、流の身体が宙に浮かんだ。
空中で受け身をしその正体を確かめる。
堅太郎の赤黒い下半身がそこには在った。
流は奇怪なそれに蹴り飛ばされたということを知る。
地上に着地し水が跳ねた。
「え―――」
それは当たり前だが、その跳ねた水が人の拳に変わったのだから普通じゃない。
一瞬では破壊/創造のイメージも出来ず、零距離でその腕に殴られる。
流は回転し立ち上がり前と後ろを確認した。
前には下半身。後ろには首の無い上半身が宙に浮き、身構えていた。
その歪なファイティングポーズはかなり異様で非常識だろう。
そう。堅太郎は流の攻撃に防御が間に合わなかった。
だがタンクにぶつかる際に血蝕装備を盾にして、直接的に潰れずに自分の力で液状化。
そして装備を潰して自分の身体を潰れたかのように見せ掛けたのだ。
その派手な演出は流を上手く騙し押せたようだった。流の冷静な表情に戸惑いが垣間見え始めた。
上半身と下半身が迫る。
ボクシングのようなパンチの連打。
キックボクシングのようなキックの連打。
流は交互に殴る蹴るの攻撃を払うが、全てを防げない。
無人の境眼には弱点があった。
それは破壊/創造のイメージを鮮明にするには、その物体を眼で捉えつつ見続けなければならない為だ。
イメージは頭で行うモノだが、基盤が必要だ。
見たものを脳でそれを確認し初めて〝視る〟にする為に、やはり眼で見なければ物体の基礎も基盤も解らないだろう。
更にイメージする余裕がさっきの槍や雹の様にはいかない。近距離戦と言うのが、その隙を与えてくれなかった。
「…くそがっ!」
流が下半身を蹴り飛ばそうとするが、下半身はバックステップで軽く避ける。
そして踏み込まれ逆に腹を蹴られ、吹っ飛んで行く。腹を蹴られ胃の中身が逆流して半ば強制的に吐き出た。
吹っ飛んだ身体は水浸しの床に滑ってぶつかり、水しぶきが飛ぶ。
「忘れたか流。バックステップは喧嘩の基本だと俺が教えただろう」
少し離れた処で身体を操っていた堅太郎の生首が、呆れた口調で言って違う血蝕を雲から呼び寄せ新たな身体を作っていた。
アドレナリンの多量の分泌が痛みをあまり感じさせない身体にしていたが、身体が限界に来ているのを知らずに流は立ち上がる。
それでも立ててしまうのが、この暗示の恐ろしさか。
どうやったら勝てる。
冷静故にアドレナリンによる興奮もせず脳もしっかりしてるのがなんだか哀しい。まるで戦う為だけの機械の様だった。
「遅くなった。……これはヤバいか」
煽が扉を流より勢いよく開けて出て来た。状況をすぐに見て把握し、ヤバいと彼女は判断。
紅い魔女は〝無人の境眼〟を開き流の意識を共有する。
―――こいつ。このままじゃ死ぬぞ。
流は自分の身体の危うさに気づいていないが煽にはその呼吸数、心拍音で危険な状態だと解ってしまう。
「所詮は素人か」
戦い慣れた魔女はそう流を素直に馬鹿にする。
七階で拾った自分の深紅の旅行鞄を見つめる。眼の力で鍵を破壊の創造をして開けた。
中には一見ガラクタに見える、黒い柄と黒色の非鉄金属介在物とがばらばらになって綺麗に納められていた。
左手で柄だけを手に取り、金属片が入った鞄ごと自分の上空に投げ込む。
中身の金属片が鞄から離れていく。ギラギラと夜空に光る刃紋、それはまがう事なき刃物の部品だった。
まず〝神(こう)我(が)〟と彫られた銘の部分から差し入れそこから―――。
ハバキ・棟(むね)・棒(ぼう)樋(び)・鎬(しのぎ)・平地(ひらじ)・鉾(きっさき)と空から落ちてくる部品を順に〝モノ〟を組み上げていく。
まさしく神業か。
「―――」
堅太郎と流はその匠に見惚れて口をただ開けていた。
魔女は組み上げた〝それ〟を左腕一本で振り切る。風が切れる音が素晴らしく美しい。
完成したモノの正体は長刃一メートル以上の片刃の黒い打刀。あの鞄に入っていたのは組み立て式の古刀だったのだ。
魔女のその神業はガラクタと言う見掛けを破壊して、刀に創り上げてしまうのも―――眼の力に及ぶだろう。
「影平、後は私がやる。援護だ…、動く必要は無い。その消耗品共をただ視て破壊を創造しろ」
流にただ視ていろと言ったのは勿論訳がある。煽には無人の境眼の共通意識の為、流の眼の視界の同一視認が可能だからだ。
流の捉えた視界の全てが眼球の神経を通し、流の脳で認識がされ〝視る〟となる。
流はそこで頭の中で破壊/創造イメージをし、視て脳内で変換した内容が煽の脳に伝達される。
煽の脳神経から眼球の神経に流の視た映像が眼に直接映ると言う作戦だ。これは流がその視野で見続けるのが基本となるが…、
気付かない内に体力がすり減っている事に気付いていないのだろう。
魔女は金色の眼を揺らしながらゆっくりと歩んで行く。
「嫌です」
その流の拒絶に魔女は驚き立ち止まる。
「……は?」
「これは俺と堅太郎さんの勝負なんですから」
冷静なうえプライドが高いその流の台詞。
「……。流」
堅太郎はその言葉にどこか嬉しいものを感じた。
魔女は首を傾げて無表情に言う。
「莫迦かお前。見た通りお前の負けだよ。いいから黙って視ていろ。せっかくの使い魔を、ここで果てさせるのは勿体無いだろう」
最後に魔女は「くだらない」と吐き捨てて左手首を捻り、刀を持つ手に力を込めて再び歩き出す。
そこで流がその体力ギリギリの身体で魔女の前に出て強引に止めた。
「斬られたいのか」
小さき魔女のその黄金の瞳が、自分を止めた人物の破壊を創造していた。
魔女の創造は刀による一閃でけりがつくモノ。流の眼にその恐怖の創造が映り込むほど、紅い魔女は本気で言っていた。
後ろに僅かに流は足を退いたが、恐怖を抑えて足を固める。
「…聞いて下さい。あの人は…堅太郎さんは、昔はあんな人じゃなかった。きっと強い正義感で道を間違えただけなんです。だって堅太郎さんは本当の争いの哀しさを知っている人だから。だからその昔した哀しい約束を俺が果たさなければいけない」
魔女の煽だけでは無く、堅太郎本人にも語りかけるように流は話す。
―――流…お前。
堅太郎はそれに心を打たれていた。一番の理解者が此処にいたこと。
やはり間違っていたと言う、自分のこの行いの非情さに。
哀しみの表情を浮かべて。
やっぱりあの子のモノだった者じゃだめね。
「―――!」
堅太郎の脳内に直接何かが聞こえた。そして空の白い月が突然変容を始めた。
今までに無い月光がホテル全体を照らす。
流と魔女はただ眩しく感じているが。堅太郎の血蝕全てに異変が生じていた。
黒い血蝕が、白く塗り替えられていく。
「あ……あの魔女め。まさか…ここまでこの月に保険を掛けていたか。―――く…意識が…き…えて」
堅太郎の意識が遠くなっていく。その白い上半身と下半身が勝手に動きだし、魔女と流を襲う。
「―――下がれ!―――はっ!」
動けない流を魔女は突き飛ばし、突然の襲撃にも反応する超神経。
下半身を斬り裂くが、破壊/創造のイメージを成し遂げていなかった為すぐに再生される。
魔女は下半身の下段蹴りを自分の脚で弾き、後ろに下がり一歩引き間合いを取って流に叫ぶ。
「早く創造を行えっ!」
「でも…!」
「戯けが!まだ言うか!お前の創造でこいつの哀しみとやらを破壊してやったらどうだ?約束なんだろう!―――ッ!」
魔女はそう説得しつつ、戦闘を緩めない。
流はこの〝戦争〟の終幕に自分の意思が条件だと悟るが、今一歩それに踏み出せない。
「おい…流。さっきまでの勢いはどうしたよ?…約束……果たしてくれ。俺の意識が、…あるうちに」
まだ完全に白く染まって居ない半身黒い堅太郎が喋る。
「…堅太郎さん…。くっそ、ちくしょうがっ!」
冷静なはずの流の気持ちでさえ高ぶる。だが暗示は強力で、冷静にイメージを行えてしまうのが禍々しい。
紅い魔女が上半身を切り刻み、下半身に振り返る。
刀を交差し飛び込むも、背中に生温かい感触。
優勢に敵を追いこんでいた筈の彼女が、身体を縛られ劣性に。
無防備と化した魔女の腹部に、白い脚が猛烈に容赦なく蹴りを打ち込む。
「―――っぐ!あ…っ!ぐぅ…!がはっ…」
小さい少女の身体がサンドバックに。
しかしサンドバックとは違い、しっかり押さえつけられており揺れる事はない。
少女は蹴られるたびに口から涎と血を吐き散らす。
だがその眼は諦めを示さない。
顔の無い白い下半身を苦し気ながらも睨む。
「ちっ―――離さん火っぁぁあああああっ!!」
舌打ちと共に、爆発するが如き力強い詠唱。
少女から魔女へと再来させる詠唱は、その身体を燃え上がらせた。
身体を触手の様に縛り上げていた白き上半身が燃えて、もがくもがく。
火達磨となった紅い魔女は一息に、身体に纏った火の粉を払い落した。
火の粉がまるで不死鳥の羽根の様に舞い踊る。
上半身の白血蝕は、新たにまた補充され復活。今度は両者共、更に気迫と強さをまして。
流はそのアクション映画の様な高速で激しい動きをする、魔女と二半身の動きを眼でしっかり捉える。
上半身と下半身が魔女の刀に斬られて、金の粉になるのを秒単位で創造した。
想像したイメージが魔女の脳内に創造として渡る。そしてそのイメージ通り上半身を斬り破壊して、白い血蝕を金の粉に創りあげた。
次に魔女は下半身を斬ろうとした。だがそれはイメージ通りにいかない。
斬ったが、血肉が新たな血蝕により再生していく。
「くっ!影平の涙で観えない…お人好しが!」
流は涙を流して視ていた為、視界には涙も捉えてしまっていた。
魔女は近距離で厳しいながら、その流の破壊/創造のイメージの続きを辛くも脳内で想像し血蝕の再生を金の粉へ変革した。
刀に付いた金の粉を魔女は振り落とし、流を見て溜息を吐いた。
まったく世話がやけ―――。
「……煽さん!」
流が上空をみて魔女の名を叫ぶ。魔女はその流の目線を追い、空を見て驚く。
「―――なっ」
真っ白い大きな雲の様な塊が変化して、血蝕の髑髏の顔を持つ蛇を造り上げていた。
脊柱が飛び出していて、大きな背鰭にも見える。その異様な巨大さと恐ろしさに魔女と流はたじろぐ。
髑髏蛇は雲を突き破り天に昇り、白い月を旋回して勢いよく此方に口を開け飛んできた。真っ白い牙は剣山の様に口内全域に鋭く無数に有る。
その凶器の口は地獄の針山を想像させる。
魔女と流はこれをどう破壊の創造をするだろうか。蛇の牙が金の粉に変わっていく。
それは流がその地獄を恐れたからか。対する紅い魔女は蛇の目を金の粉へ。
合理的に目を潰せばという考え方。
しかし髑髏蛇の驚異的なスピード。
ホテルより遙かに大きい異様な身体に対し、蛇の姿を全てイメージするには時間が少なかった。
喰ってあげる。さぁわたしの中にPrelude(プレリュード)。
「―――」
蛇の口が似合わない綺麗な声で、誰かを前奏曲と呼び謳い寸前まで遂に迫ってきた。
だが―――髑髏の顔に罅が入る。
ホテルを飲み込む前に身体全体が砕け、白い液体と化してドロロとぶつかった。
白い激流がホテルの外壁を染める。
「調子に…乗るな、よ〝白い魔女〟。……元は俺とあい、つの…力だ」
堅太郎が最後の力を振り絞り血蝕を操って自らの力と共に崩壊させたのだ。
「堅太郎…さん」
水蒸気になる様に堅太郎の身体が空中に分解されていく。
白い月が消えて異界が―――消失する。様々な時計が高速で逆回転していく。
時間がゆっくりと正常なものへ訂正されている証拠だった。
夜に見せていたモノが無くなり、血蝕達も空に大気へと変わる。
紅い夕日が顔を覗かせた。
そう今は本来、夕方の時間だったのだから。
◇
夕方か…。何故だかその夕方が懐かしくて俺は身体が幾分か楽になった。
流が俺に走り寄って近づいて来る。
「また旅行に行くのかよ!」
その言葉の意味には、八年前の俺が旅行から帰って来なかった事を意味して言っているのだろう。
俺はその言葉に苦笑して大きくなったそいつの頭を撫でる。
「こんな姿になっても…俺を覚えてくれて嬉しかった、ありがとうな」
流の金の眼から、黄金ではないものを零し始めた。
「あ、当たり前っすよ…。俺は今でも変わらない同じその笑った顔を僅かでも少しかも知れないけど、俺がその嬉しいって味を覚えていて…ずっと忘れないで覚えていたんです」
涙声でも冷静にしっかり喋ってくれる。
俺が戦争の被害者達の事を、昔こいつに言ったような口ぶりで。
この夕日はあの時の流との別れを思い出させてくれていた。俺は自分の身体が夕空に消えていくのをぼーっと見た。
……俺自身が偽りの平和に為りたくない。そう思う。
やっぱり俺の行った行為の結果も、きっと戦争後の平和と同じなってしまうと思うから。流の後ろで眼を閉じた紅我が壁に凭れ掛り、
方腕を胸に組み煙草を吸って黙って聞いていた。
「…紅我煽。あんたは白い魔女に狙われている。…もしかしたらあいつの方かも知れないが。どちらにせよ気をつけろ」
紅我は何も言わず、煙草の煙をつまらなそうに吐いた。
…ははっそうか。敵の助言は聞かないつもりなのか。
「ふふ……お前たちのチームワーク。最初にしちゃなかなか良かったぞ。観ていて…思いだしたよ。あいつとの―――コンビを」
それに引き替え俺はパートナーを守れず、純粋な気持ちさえも裏切った愚か者なのだ。
「あれが連携だと?足手まといだったがな」
紅我が一言呟く。流が申し訳なさそうに頭を掻いていた。
それに俺は少し笑みが出てしまった。
身体の半身が消えてきてしまう。
もうそろそろ―――駄目か。
「なが、れ。お前は…俺のよう…にその子を裏切る、なよ。何が、あって…も恨むのもだ…めだ。今度はお…まえが、助ける番なんだ、から…」
泣きながらこんな時でも冷静に聞いているこいつに、俺はなぜだが助かったような気分になった。
…そうか―――。
昔あいつが言いたかった事が今やっとわかった。
あいつには俺がこう導くのをわかっていたのかもな。
でもそれを変えたかったのかも知れない。
「ほんとに…最後まで…はっきりしない、やつだっ…た。でも…そんなお前が」
俺は好きだったよ。
「―――せ…ん」
最後に見た紅我煽の姿が俺にはあいつに見えた。
そっくりそのままの顔付きがあいつを大人にさせた様に感じる。
相変わらずのあの時からの何を考えているのか解らない表情で見送りやがった。
でもそれが返ってなんだか嬉しくて…哀しくもなった。
懐に一枚だけ血蝕の入れ物に入れといた写真が下に落ちていく。
もうあれは…いらないかな。
真赤に燃える夏の夕日が、紅く美しい光りを俺にくれた。旅行チケットとして貰おう。
さあ次は何処に写真を撮りに行こうか。
…今度は……空かな。
輝く空のしじまへ……紅い光が風に靡かせ飛んで行くようなキモチ。
それは心地良いキモチ。
ありがとう。
/7
涙があれから止まらない。
暗い世界の中は本当に狭いのか、涙の海の中に俺は沈んでいた。
浅瀬なんかあるわけ無いだろうけど深海は在る。
だって真っ暗だ。
俺は、哀しみに満ちたこの暗闇の深海から上を見た。この海から出られないだろうと絶望していたが―――。
―――希望があった。
そんな希望はいつか見た小さな女性。それは眩しく光り輝く。
『手を取れ。何も今、全てを無くすよりはマシだろう』
放心して驚く俺に、その光りの少女が喋りかけてきた。
暗い闇を照らすその光り〝無人〟の世界に創られた初めての俺の希望の光り。
―――助けてくれた。
ならこの人が俺の様に闇に落ちたら。次は俺がこの人の光りになりたい。
やっぱりこれが…。
「運命か」
「やっと起きたと思ったら、またそれか」
誰かの声に反応して重い瞼を開き、目を開けた。
シャリシャリ…。
真っ白いタイル式の天井が見える。それが酷く眩しくて。顔を背けた。
「痛っ」
身体上にかなりの激痛が走る。更に悶えるがそれがかなりの逆効果で、もっと痛んだ。
まるでつった脚の筋肉を無理やり直そうとする痛みに似ている。
シャリシャリ…。
嫌々ジッとしていると痛みが引いて冷静になってきた。もがいた時に掴んだのか、布団を握っている。
どうやらベットの上の様だ。ゆっくり首を傾け左を見る。
点滴の一式と小さいテレビ、紅い薔薇が一本だけ花瓶に入れて飾って有った。
……病院?
雰囲気からして病院と率直に連想してしまう。
そしてサイドテーブルの上に、見たことがある長いタオルが綺麗に畳んである。
窓が開いていて、淡い風がカーテンを揺らす。空がその隙間から薄っすら観えた。観た感じ夏の朝を感じさせる。
シャリシャリ…。
それにしてもさっきから聞こえるこの音はなんだろう?右側に聞こえるが。
またゆっくりと首を傾け、右側を見る。
「……あ」
その音の正体。パイプ椅子に座った赤いフォーマルドレスを着た小さい少女が、果物ナイフで林檎を切っていた音だった。
林檎の皮が途切れずに切られており、床に綺麗な渦を巻いていた。
「おそよう影平」
少女は挨拶を無表情に言い、俺の名字を呼んだ。
…どこかで見たことのある顔だが…。なんかお客様だったような。
「君…確か…。えっと……紅我様?」
ザシュ。
そう呼ぶと彼女はせっかく上手く繋げていた林檎の皮を切断してしまった。
「煽と呼べとあれほど…言っただろうが!」
そう怒鳴り俺の口に林檎を投げつけ部屋の外に出て行く。
口の中に違和感。
「…下の方まだ皮残ってる」
痛みを堪えながらベッドから起きて林檎を口から取り出し思わず微笑した。
紅我…煽さん。
あの小さい大人のフルネームを思い出して、俺はあのホテルでの出来事が夢じゃない事を悟った。
思い出しつつ、サイドテーブルの長いタオルを手に取る。見た所、血が付いて無いのを見ると洗ってくれたようだった。
そしてあれから……どうなったのか。気になってなんとなくテレビを点けた。
「あれから二週間近く経ちますが依然としてこの【Hawk(ホーク)・twinhotel(ツインホテル)】の、焼失の明確な詳細が明らかにされておりません。従業員、宿泊者の誰一人の遺体及び燃えたはずと鑑識者の見解もハズレか遺骨も未だに見つかっていない状況です。このホテルの社長兼オーナー鷹鶯寺さんも…」
その情報がやっていた。社長がテレビでよく観る、会見室の様な所で涙ながらに喋っている。
そう言えばあの日、鷹鶯寺社長は海外出張中だったな。……良かった。
しかしあのホテルは焼失と言っているが、煽さんが残らず燃やしたのだろうか。あの人の魔法なら造作もないことだろうし、やりかねない。
それにしても俺はこうして病院に居るのに、従業員が一人も見つかってないって―――。
「あれから十日だ」
後ろから煽さんの声がした。その両手には二本の缶コーヒー。
「…どうして俺は見つかってないんです?」
素直に疑問をぶつける。
「ちょっとした結界みたいなモノだ。あのホテルの様な誰も気づかない異界をこの一室に仕込んだだけだよ。都合が良い事に、私もあそこの宿泊者だったから死んだ事になっている」
つまり俺たちは世間的には死んでいるけど、煽さんの魔法で此処にばれずに無断で居座っているって事か。
「別に病院じゃなくっても良かったんじゃないですか?」
「私の部屋ではお前の治療が厳しくてね。だから此処を借りたんだ。まあどちらにせよ無理したお前が悪いと思うが…」
俺を変なモノを見る様に目を薄めて言う。
……無理した?
確かに身体に激痛が所々動くたびにあるが。
そう考え俺が俯くと、―――顔に冷たい感触。
煽さんが俺の頬に缶コーヒーを押し当てていた。
「飲むか?」
冷たいコーヒーと同じ、少し冷やかな表情で言う。
「…ありがとうございます」
俺は少し躊躇してそれを手に取り受け取る。
そして彼女は自分の缶コーヒーのタブを開け、少し飲んで初めて見る表情を見せた。
「…冷たい」
一瞬だったが微笑む少女。
何故かそれを見て見惚れていた俺に気づき、俺の缶コーヒーを取り上げた。
「まだ筋肉が痛むか。本当に世話が焼ける。ほら」
カチャっとタブを開けて俺に手渡し返す。
…まだ開けようとも思ってなかったんだけど。
でも気遣ってくれるのは嬉しかった。本当はこの人は優しいんじゃ―――。
「明日退院な」
「―――え?」
「お前は失業したしもう普通の職には就けないよ。後、ほとぼりが冷めるまで家族や友人に会うな。だって死んだ事になっているんだからさ。明日から私の部屋にちゃんと自分の足で来い。最初の仕事だ。じゃまた明日」
住所らしきモノが書いてある紙を、俺の布団の上に投げ置いて新しい上司は部屋から颯爽と去っていった。
……明日…。いや動けるのオレ?
「やっぱり優しくは…ないかも」
個室の中でそう独り寂しく呟く。
真夏の爽快な青空がカーテンから顔を出していた。
日差しが熱い。これからはもっと気温が暑くなるんだろうか。
テレビのニュースキャスターが、ニュースを読み上げているのを耳にしてテレビを観る。
「今日の午前二時頃。刑務所から嘲来(あざらい)崇(しゅう)一(いち)が脱走したとの情報が入りました。警察のセキュリティをどう突破したのか。今もなお逃走中で……」
/8
影平が眼を閉じると、アドレナリンの衝撃で酷く痙攣しながら倒れ気絶した。
「だから…あれ程動くなと―――」
頭の芯が軋む音。
「………似てる、でも違う」
こいつとあの男の別れが、厭に昔の自分と姉を重ねた。
影平の顔は赤く涙で腫れていた。
そうこいつと違うのは―――。……私には泣くと言う理由がわからない。
私はその身体を支えてエレベーターを使い、ホテルから出て車の助手席に無理やり乗せる。
最後の仕上げか。
「灰に成りて地に返れ、―――火」
両手の指を鳴らして詠唱した。
爆発。連なっていく爆発音。
大きな音と共にホテルが一気に崩れ去り、炎が柱の様に空まで立ち上る。
影平と長瀬の戦闘に入り込む前にホテル中に仕掛けておいたカード達でこのホテルを爆破、炎上させた。
明るすぎる火炎の光りが、私の頬を紅く染める。
これは最後の賭けとして残したモノだったが…。
なんとなく。此処に確かにいた者達を天に帰してみようと。
そうなんとなく。
火が消えるまでその火空を見上げ続ける。
こんな大きな火を見ていると、なんだか虚しくなった。
やっぱり昔を思い出すようで。
空から一枚の写真が落ちてきた。その写真はYシャツを着崩した青年と、小さな少女が写っている。
それを手に取りよく見る。あの長瀬とか言う男と、長い黒い髪をした少女――――――。
「――――これは…私―――うぐっ…!?」
私と同じ顔の、その黒い少女を見て吐き気がした。
―――こいつは…八年前の…私…なのか!?
火が怒り狂うように轟音を出す。
それは彼女の何を示しているのか。
/約定的哀艶・終
無人の境目 ‐an Uninhabited of boundary line‐