リラの初恋
「実は好きな子がいるんだ」
――そう言ってはにかんだあなたは、あたしの初恋の人でした。
♥
「で?」
「……『で?』って?」
「何て返事したの」
「えっと、それは……その……」
あたしはえへへと笑って誤魔化してみるが、相変わらず小春ちゃんの目は鋭くて。 その迫力に、笑みを作った表情筋が硬直した。 あたしは、まるでイタズラを告白する子どものようにおずおずと切り出す。 昼休みの喧騒に紛れてしまいそうな小さな声で。「きょ、協力するよって……」
直後、小春ちゃんが大きなため息をついたのが分かった。
妙に居心地が悪い。 視線は急降下。 顔を上げられなくて、あたしは、クリーニングに出したばっかりの制服のプリーツを数える。 もう少しで衣替えだから三年間お世話になった夏服ともお別れだなぁとか、そんなことをぼんやり考え、逃避しかけた時だった。
「あんたってほんッとバカね、バカ! この大馬鹿者!」
突然炸裂した友人の雷に「はィッ!!」と裏返った声が出て、びくんと背中が跳ねた。
「敵に塩送ってどーすんの!? あんた、恋のキューピッドでもしたいわけ!? だったら今すぐ片思いなんてやめてくっつける裏工作でも始めなさいよ!」
そう言ってバンと激しく机を叩くと、売店で買ってきたらしい焼きそばパンの袋を乱暴に引きちぎり、無言でパクつき始めた。 綺麗に結えられたポニーテールがぷりぷりと動いている。 そのまま勢いよく二口目、三口目とかぶりついた小春ちゃんをみながら、佐保子ちゃんが苦笑いをする。
「まぁまぁ、そんなカッカしないの。落ち着きなよ」
栄養面が考慮されていることが素人目からでもわかる色鮮やかなお弁当の中から唐揚げを綺麗な箸で掴み、パクリ。 咀嚼し終えてから、あたしをちらりと見て続けた。「しょーがないじゃん、瑠璃はそういう子なんだからさ」
「そこはまぁ友人としてわかってるけどさ」僅か一分足らずで焼きそばパンを食べ終えた小春ちゃんは、胃に流し込むように牛乳を一気に飲み干すと、目を怒らせながらあたしを指さした。「だからってもうちょいしゃきっとしなさいよ、しゃきっと! 好きなんでしょ!? タブチのことが!」
"タブチ"――田渕眞斗。
その、たった四文字の音で私の心は無条件に跳ね上がって、心臓はでたらめに脈打ち、彼の姿を鮮明に脳裏に思い描いてしまう。
昔から変わらない天パを気にしだしてから短めに切ってもらうようになった黒髪に、適度に日焼けした肌、筋肉がほどよくついた体付きは、いかにもスポーツ少年らしい見た目だ。 周りよりひと足早く声変わりをしたそれは少し低くて、どきどきする。 どんな雑踏や喧騒の中でも絶対に聞き分けられる自信があたしにはあった。 何故って、鼓膜と心臓をストレートに震わせるから。
「いい加減メシ食おうぜ、メシ」
………ほら、ね。
マコちゃん(小さい頃から呼んできたあだ名だ。 でも高校生にもなって男の子にちゃん付けなんて気恥ずしくて心の中だけで呼んでいる)は、今、出入口の付近で同じ部活仲間らしき男の子達とご飯を食べている。
すぐにロックオンしてしまう自分が哀しい。
会話の内容はよく聞き取れないけど、相手を笑わせたり、話を聞いたり、そのポジションを場の空気に合わせてくるくる変えているようで。――昔からそうだった。 明るくて、話し上手で、聞き上手で、おまけに気が利いて……、いつの間にかたくさんの人に囲まれているような、そんな人。
あたしは真っ赤になっているであろう頬を隠すように、やや俯き加減でお弁当の続きを食べる。心臓の音がうるさすぎて二人に聞こえやしないかと心配だったけど、二人は二人で何か話しているようだった。
その時だ。
「あ、眞斗!」
知らない女生徒の声が、彼の名前を呼ぶ。
胸がざわっと、した。
あたしは弾かれたように勢いよく顔を上げて、その方向を見る。
教室のドアから顔を覗かせているのは知らない女のコだった。 ストレートロングに天使の輪を乗っけた、綺麗なコ。 彼女がマコちゃんに向かって親しげに手を振った後に呼び寄せるような動作を見せると、マコちゃんは席を立って彼女の方に近付いて行く。 何やらプリントを手に、二人で話しているみたいだ。 その距離は数十センチしかない。
あたしはぐっと奥歯を噛み締め、無理矢理視線を引き剥がす。さっきとは全然違う、冷えた心臓が早鐘を打っている。 お弁当の締めにと取っておいた大好きな卵焼きを口に入れ、生温くなったお茶と一緒に身体の奥底へと流し落といた。 大好きな砂糖入りの甘い卵焼きは、何故か美味しくなかった。
頬杖をついた小春ちゃんが「ほれ見ろ」と言いたげな顔をしている。あたしは何気なく視線を逸らした。
「田渕ってさ、モテるんだから。 気ィ抜いてっとどっかの誰かにホイホイ盗られるよ?」
どっかの誰か――何気なく言われたその一言で、さっきの女のコを思い出し、それがぐさりとあたしの心の柔らかい部分に突き刺さる。
だからさっさと告白しろっていつも言ってるのに、呆れたように続けた小春ちゃんに佐保子ちゃんは淡く笑った。
「まぁ、……なんていうかさ。 瑠璃はそういう子じゃないんだって。 やきもきするハルの気持ちも分かるけどね」
「それはわかってるけどさ、だけどさぁ……」
焦れったそうに言う小春ちゃん。
佐保子ちゃんが水筒から一口、二口、お茶を飲んでから続ける。「居心地がいい関係ってやっぱり崩したくないものだしね、そう思うとね、……ってやつだと思うよ。 田渕くんとはどれくらいの付き合いなの?」
「えぇと、幼稚園の頃からだから――」あたしは指折り数えてみる。「十ニ、三年くらい?」
「人生のほとんど片想いしてるって、あんた…………」
信じられないと言いたげな顔で小春ちゃんは突っ伏した。
「辛くないの?」
そう尋ねられて、いつの間にか、またマコちゃんを見つめてしまっていたことに気付く。 二人と話している間にあの女の子は帰ってしまっていたようで、マコちゃんは笑いながら先ほどの昼食の輪の中にいた。
クラスメイトたちの間から見える横顔にどうしようもなく胸がドキドキして、高揚する。さっきまでの嫌な感覚は既に嘘みたいに消えていて、あるのは彼への気持ちだけ。
思い返してみれば、マコちゃんはどの記憶の中にもあたしの隣に存在して、笑って、話して、それが「当たり前」で、ずっと続くものだと小さな頃は信じて疑わなかった。 けれどこの年にもなれば分かる。 それは単なるあたしの願望に過ぎず、遅かれ早かれ彼は意中の人を連れてあたしの目の前から静かに消えていくのだろう。 ――昨日の光景が頭をよぎる。
今までずっと、気付かれぬようにこっそり温め続けてきた恋心が震えた。 寂しさとか切なさとか、あたしの貧相な語彙力じゃ言い表せられない喪失感がきゅっと締め付けてくる。
でも、じゃあ。
もしも彼からの告白がなければ、あたしはこの想いを伝えていただろうか? あたしは大きく頷く自信がない。
居心地がいい関係は崩したくないもの、という佐保子ちゃんの言葉が一番的確だと思う。
いつの間にか一文字に結んでいた唇をゆっくりと解くと、微かに鉄の味がした。
佐保子ちゃんが微妙に開いた間を繋ぐように言う。
「ほら、いろいろ考えちゃうんだよ。 告白しちゃったら、もう告白する前の関係には戻れないんだし。 もしも……」言葉尻を濁しながらあたしをチラリと見る。「お互いギクシャクしちゃってそのままサヨウナラってこともザラだろうし」
「それはそれで分からなくもないけどさーぁ。 他の女とくっついてイチャラブしてんの見せつけられるのも嫌でしょ?」
突っ込むように小春ちゃんが言い、「ね」と意見を求めてきた。
話を振られて我に返ったあたしは、後ろ頭を掻きつつ笑って誤魔化した。「あ、いや……えっと……はは」
「んもー……はっきりしなさいよこのヘラヘラ顔!」
ぺちん、と冗談交じりに軽く叩かれた頬が、やけに痛い。
昔からはっきりと主張できなかった性分は、物事を何となくで済ませられるスキルへと変わっていた。 そうして沈めていったあたしの本音は、時の経過と共に風化し、気付けば無くなってしまっていて。 今までもそうだったなら――きっと今回も、と心の中で呟く。
あたしはマコちゃんが好きだ。
けど、突き詰め出すとその「好き」は霞みのようにひどく曖昧で、ぼんやりしたものになる。 あたしのことを一番よく知ってくれているのが彼で、だからこそ隣にいるのも、話すのも気が楽で。 それに優しくて。 ――……だから、「好き」?
口から言葉にして出せばきっと確固たるものになるんだろうけど、 自分自身でもはっきり断言できないそれを出すくらいだったら、そしてそのせいで今の関係が気まずくなるくらいなら、飲み込んだほうがたぶん、ずっとマシだ。よくある少女漫画みたいに、疎遠になったわけでも、物凄く遠い存在になったわけでもない。 それなりに話もするし、時間が合えば一緒に帰ったりもする、そんな関係が。
欲張ってしまうのは良くないとチラリとマコちゃんを見る。 それに彼には「好きな人」がいるんだし。
下手にぎこちなくなるよりも、ぬるま湯に浸ってくつろげるように、現状維持のまま、笑い合える関係の方がずっといい。
きっとそうだ。
この胸の奥で息づくコレもまた、数年も経てば穏やかに風化していくに違いない。 今まで沈めてきた感情たちと同じように。そう思った時だった。
「けどさ、――きっといつか後悔するよ」
昼休みの喧騒に飲み込まれそうなほど小さな声で、呟くように言った佐保子ちゃんの真っ直ぐな顔にはっとする。
あたしではない――きっとあたし越しに誰かを見つめるその顔つきはやけに大人びていて。 反射的に口を開いて数秒、出かかった気持ちは言葉にならずに吐息になった。
言いたいことは何となく分かった。 そしてそれは、きっと正しい。
けれどきちんと言葉に出すことはやっぱりできなくて、あたしは結局、お茶と一緒に胃の中へ流し込んだ。
♥
「実は好きな子がいるんだ」
そう言って笑ったマコちゃんは、今まで見てきたどのマコちゃんよりもカッコよくて、きらきら輝いていた。 ――不覚にもときめいてしまうくらいに。
目に痛いくらいの鮮やかな夕日に染まったそれに、理解が遅れた。……今、マコちゃん何て言った?
好きな子が、いる?
その時あたしは、本当に、一瞬、時が止まったような気がした。 すぐそばを通り過ぎていった電車の音で我に返る。
心臓がどくんと大きく脈打つ。
マコちゃんの髪が、制服が、風に揺れていた。
「だから、瑠璃にいろいろと協力して欲しくって」
ポリポリと、右頬を人差し指で掻きながら、すまなさそうにこちらの顔を窺うマコちゃん。 マコちゃんの癖だ。 人に、頼み事をするときの癖。
「だめかな?」
恐る恐る、といった体の声音に、ぽんと出そうになった言葉は一体何だっただろうか。でも、それはすぐに唾と一緒に飲み込まれて体内に落ちていく。
「わかった」
――実を言うと、そこから家に帰るまでの記憶は断片的でしかない。 心臓の音がずっとしていたとか、マコちゃんが笑っていたとか、……あとは鮮やかすぎる夕焼け空が目にしみて滲んでいたとか。
気付いたらあたしは自分の部屋にいて、制服のままベッドの上に仰向けに寝転がっていた。
少し黄ばんだ白い天井を見ていると、マコちゃんの顔がぽんぽん浮かんでくる。
斜め前の席で真剣な顔つきで数学の問題を解いている顔。 方向が一緒だからって帰るときにさり気なく車道側を歩いてくれていたときの顔。「どうした?」って首をかしげながらあたしの話を聞いてくれた顔。 テストの結果が散々だったときに「俺の親にはナイショな」って苦笑いしてた顔。 ――あたしが毎年あげるチョコやフォンダンショコラを食べてくれた時の、顔。
そしてさっき見た、笑顔。
あたしはちゃんと切り返せていただろうか。 聡いマコちゃんが何も言ってこなかったってことは、恐らく、うまくできたということだけど。
ツンと鼻の奥が痛む。 うっすら滲んだ視界を見ないように、あたしは静かに目を閉じた。
♥
いつもなら体育が始まる五分前にはいる先生がいなくて、急遽自習になったと担任の先生が知らせに来た。 担任の先生も先生でプリントを置いて職員室に行ってしまって、慌ててコピーしたであろうそれは十五分もあれば解ける量と内容だったものだから、すでに教室は授業中らしからぬ騒がしさだった。
ちらりと視線を動かすと、マコちゃんもまた、いつも一緒につるんでいる友達と談笑していようだ。
あたしも早く切り上げようとシャーペンを握る。
「――んで? どーなんだよタブチぃ。 噂のあの子とのその後はさ!」
瞬間耳に入ってきたそれに、あたしは弾かれたように顔を上げた。
マコちゃんの左隣りの男子が、ニヤニヤ笑いながらマコちゃんを小突いている。「どうだ? 告ったか? ん?」
「ほ、ほっとけよバーカ。 お前には関係ないって」
「なァに言ってんだよ田渕くんよ! 俺たちも協力してやるからさ! な!」
「……いや、いい」少し頬を赤くして、顔を背けるマコちゃん。
「照れんな照れんな!」
「ゾッコンじゃねぇか田渕! ヒューヒュー!」
「寝ても覚めても想うはただ一人ってか!?」
「だーもー! お前らプリントしっかりやったんだろうな!」
「でも、俺らから見ても結構イイ感じだと思うぜ?なぁ?」
心臓がどくん、どくんと大きく脈打つ。
掌が嫌な汗をかいていた。
知らず知らずのうちに力んでいたせいか、シャーペンの芯がプリントの上でぼきりと折れる。 うるさいくらいの喧騒がだんだんと遠のき、あたしの耳は今喋っているクラスメイトの声しか捉えなくなる。いつの間にか、自然と彼の唇を見つめていた。
「お前と――――」
「――ねぇ、ちょっと! 話聞いてんの? 瑠璃」
瞬間、ぽんと肩に手を置かれてあたしははっと見上げた。 その先にいたのは、訝しげな表情であたしを見ている小春ちゃんと、心配そうな佐保子ちゃん。
「……大丈夫? 息上がってるけど」
佐保子ちゃんにそう言われ、あたしは初めてろくに息をしていなかったことに気付いた。
まるで全力疾走したあとのような激しい鼓動。 肌から一気に汗が吹き出す。
あたしは二人を交互に見ながら、後ろ頭をかいた。
「ご、ごめんごめん。 ちょっと集中してて」
「ふーん」マコちゃんたちのグループを横目で見てから、小春ちゃんがぱっと表情を変えて言った。「サホと話してたんだけどさ、昨日のドラマ!もう超最ッ高だったの!」
……その後もどうやら二人は(というより小春ちゃんのハイテンションに佐保子ちゃんが付き合っているような感じがあったけど)ドラマの話題で盛り上がっていたようだが、あたしの耳にはこれっぽっちも入ってこなかった。
自然と視線は斜め前の方へ動く。 でも、もう話題は別のものに切り替わっているらしく、あのスポーツ選手がいいだの成績がどうのという断片的な単語が聞こえてくるのみだった。
さっき聞こえた男子生徒の言葉が鮮明によみがえる。
でも、俺らから見ても結構イイ感じだと思うぜ?お前と――――。
このあと続いたはずの言葉はきっと、名前だ。
……マコちゃんの好きな人って、一体誰なんだろう。
この間教室に来ていたコだろうか。 それとも、あたしが全然知らない人だろうか。 クラス内なのか外なのか。 はたまた他校の子なんだろうか。 髪は長い? 短い? 綺麗? おしとやか? 頭がいい?
そうやって思い描けるだけの女の子のタイプを頭に浮かべてから省みてみれば、なんの取り柄もない平々凡々を体現したような自分に溜め息が出る。 ひとつでも何か誇れるところがあればまだ、変わったかもしれないのに。
そうこうしている間にチャイムが鳴って、あたしはまた、不毛なことを考えていたことに気付いた。 彼の好きな人は、あたしではないのだ。 変わるも何も、その事実は聞いてしまった以上覆せない。
♥
――結局。 マコちゃんのことが頭から離れなかったせいで、明日提出する課題を忘れてきたという事実に気付いたのは家に着いてからだった。
慌てて自転車を走らせて学校に戻る。
日は結構傾いていたが、それでもグラウンドには運動部の威勢のいい掛け声が響いていたし、吹奏楽部の合奏も鳴っていた。
昇降口で靴を履き変えるのも面倒で、靴下のまま滑りやすい廊下を走った。 そのままの勢いで階段を一段とばしで駆け上がる。 途中で失速しそうになったが、何とか三階までたどり着いた。教室はもうすぐそこだ。
壁に手をついて、呼吸を整える。
干上がった肺はうまく酸素を取り込んでくれない。 インドア派のあたしにとっては結構キツい運動だった。
一気にのしかかった疲労感で重い身体を引き摺るように、誰もいなくなったであろう教室へ向かう。 あともう少しというところで、聞き慣れた声に足が止まった。
「俺、新見のことが好きだ」
マコちゃんの声。
緊張しているのか、強ばって、その声は少し震えていた。
動かなければ、とあたしは瞬時に思った。これじゃあ、まるで立聞きだ。
だというのに足は縫いつけられてしまったように一ミリも動かない。
……さっき落ち着けたはずの動悸が激しくなる。
吹奏楽部のBGMはもう聞こえない。代わりに、あたしの身体から飛び出しそうな勢いで鳴る心臓の音が廊下に大きく反響している。
息をするのも忘れて、あたしはただ、そこに立っていた。
数時間にも思えるような数秒の後。ピンと張り詰めた空気の糸を、聞き逃してしまいそうなほど小さな女の子の声が、揺らした。
「ごめん、田渕くん」
それに、ほっと全身の筋肉が緩やかに弛緩した。
その安堵の意味はなんだったんだろう。あたしには分からない。
「ごめんなさい」
その小さな謝罪に、何故か、無性に泣きたくなった。
反対側の教室の引き戸が勢いよく開いて、くたびれたナイロン製のスクールバックを持った女の子が駆けて行く。 あたしと同じくらいの背格好。 見覚えのないそれを見送ったあたしは、自然とドアに手をかけていた。
そしてふと気付く。 このタイミングで入っていってどうするつもりだ。 何でもない顔で、何事もなかったかのように帰り支度をして、ばいばいって手を振ることができるだろうか、 彼に。
別の意味で指先が強ばる。 どっと汗が吹き出したのはきっと、灼けるような夕日に照らされているから。
あたしはすぐそこまでせり上がってきた何かを吐き出して、ゆっくりと扉を開ける。
瞬間、マコちゃんが机に突っ伏していた身体をびくっと跳ね上げたのが見えた。 ――それから、泣き出しかけた顔が作り笑顔に変わるのも。
あくまでも本人は自然な動作を意識したのであろう不自然さで目元を乱暴拭うと、マコちゃんはいつもの調子で尋ねてきた。
「どーした、瑠璃。 こんな時間に学校なんて」
硬く、どこかかさついた声音には気付かないふり。 あたしも取り繕うように声のトーンを跳ね上げる。
「忘れ物! 明日提出するやつ、置きっぱなしだったみたいで」
「おっちょこちょいだな、相変わらず」
「え、えへへ」
「………………」
「………………」
微妙な、間。
妙に居心地が悪い、重い沈黙。
無言で彼の横を通り過ぎる。
まるで真上に乗っかった重たい何かが徐々に迫ってくるように感じられた。急かされるようにあたしは乱暴に紙切れを鞄に押し込んで、チャックを締める。
息苦しい。
居づらい。
早く出よう、そう思ってそそくさと出ようとした時だった。
「俺、振られちゃった」
ぽつりとマコちゃんが呟いたその一言は、合奏の中に消えてしまいそうなほど小さかったけど、あたしの鼓膜を震わせるのには十分だった。
心臓がぎゅっと小さくなる。
あたしは震える息を吐き出して、「そっか」とだけ言った。
「委員会で一緒でさ。 まぁ、話すようになってさ」
――その言い方は、まるで、老いた人が楽しかった思い出を振り返り、語りだすような口調に似ていた。
「俺の話にも笑顔で相槌とか打ってくれたりとか。 廊下ですれ違ったら手ぇ振ってくれたり、ちょっと話したりして」
「うん」
「……あー、俺、カッコわり。 それぐらい誰にでもするよな。 たったそんだけのことで舞い上がるなんて馬鹿みてェ」
な、と。
笑い飛ばすような明るい口調で、今にも泣き出しそうな笑顔で振り返ったマコちゃんに、あたしは何と返せばよかったのか。
きっと、適当なことを言ってその場を離れるのが一番彼に優しい選択だった。 こういう時は独りで泣かせてあげるのが正解で、そっとしておくもので、あたしはそれを選ぶべきだった。
だってあの時、彼を応援すると決めたから。
あたしの淡い片想いは、終わらせるのだから。
でもあたしの身体は意に反して、鞄を投げ出し、彼を抱き締めていた。
「泣いていいよ」
腕の中の彼が身体を強ばらせたのが分かった。「何言ってんだよ、瑠璃」笑おうとする声にはもう涙が混じっている。
マコちゃんが言葉を続ける前に、あたしは言った。
「辛いときは、泣いていいんだよ」
それは自分でも吐き気を催すほど、気持ち悪いくらい優しい声。
……最低だ。 こんな卑怯なやり方で、彼の心に土足で踏み込むなんて。 汚いと心の中で蔑みながら、でも、あたしは抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
そうして、また優しく言うのだ。
「泣いていいんだよ」
マコちゃんが、精一杯強がった、乾いた笑い声を上げた。「ばーか、俺は大丈夫だって。 お前の優しいとこ利用してるみたいで、俺」
「利用したらいいよ」
気が済むまで、利用したらいい。 使えるだけ使えばいい。 そして使用後はゴミ箱にでも放り込めばいい。
今まで押し沈めてきた何かが堰を切ったように溢れ出す。
ああ、そうか。 他人事のようにあたしは思った。
恋人とか幼馴染とか、そういうのじゃなくて、ただ、ただ――――。
「あたしはマコちゃんの側にいるから」
そこまで言って、彼の身体からようやく力が抜けた。 同時に聞こえてきたのはくぐもった嗚咽。 まるで押し殺したような声。
あたしは最低だ。 心の中で自分にそう毒づく。
マコちゃんの失恋の傷口を消毒するフリをして、近付いている。 こういう手ももしかしたら一般常識の範疇かもしれないけど、良心が泣き出しそうだ。
でも、同時に。 心の片隅の、もっと奥深いところで、彼の温もりに触れられたことに満足感と幸福を覚えている自分がいるのも事実で。
あたしは泣いているマコちゃんの背中をさすりながら、生けてあったリラの花をずっと見つめていた。
リラの初恋