青に溺死

青に溺死

 ――水川くんが死んだと聞かされたのは、そんな重い知らせとは真逆の、澄み切った青空が広がる絶好のプールびよりの頃だった。夏休み気分が残っていたんだろう、浮かれてはしゃいでいたクラスが水を打ったように静かになる。そのせいで、普段は滅多に気にならないクーラーの機械音(ほとんどその機能を果たしていないけど)や、全開の窓から聞こえてくる蝉の合唱がひどくうるさく感じた。
 あたしは思わず誰も座っていない隣の席を見る。水川くんの席だ。
 死んだ、しんだ。
 頭の中でその三文字がわんわんと響いている。けれど、五十音中の三つでしかないただの音のせいだろうか、特に何の感情も浮かんでこなかった。
 相変わらず、前で先生が平坦な調子で訃報を続けている。普段ならどんなに騒がしい時でもよく通る声なのに、今は妙に聞き取りづらい。どうやら水川くんは車に撥ねられたらしい。犯人はまだ捕まっていないんだとか。 先生は「お前たちも気を付けろよ」とかぶっきらぼうな言葉を残して、教室を出て行ってしまった。
 しんとした中で誰かの小さな嗚咽が一つした。それは波紋のようにクラス中に広まっていって、誰からともなく泣き声に変わる。 ――そんな中、あたしはただ、かさついた唇から吐息を零して真夏の空を見上げていた。

 交通事故。なら彼は陸の上で死んだのか、人のように。

 そう思ったら、不意に両目から涙があふれた。

  ♥

「人魚姫って羨ましいよね」
 以前、水川くんがそう言っていたのを思い出した。
 あれはいつだっただろう、最近だと思うけど。記憶を掘り起こしてみるものの、昨日の晩ご飯でさえまともに思い出せないあたしの海馬が、正確な日付を覚えているはずなかった。
 水川玲。
 転入生として我がクラスに入ってきた、男の子。
 クラスメイトになって数ヶ月、席替えで隣の席になって数週間経つけど、あたしが彼とまともに喋ったのはあの日が最初で最後だったように思う。もともと男子との接点は薄い方だったし、水川くんも積極的に人と関わるようなタイプじゃないみたいだから余計だ。
 だから最初、誰か他の人に話しかけているんだろうと判断し、図書室で借りてきたアンゼルセンの童話集を再び読み進めようとした。 その時だった。
「伊万里さん」
 そう名指しされて、初めて、数秒前の呟き(問いかけ?)があたしに投げかけられたものだと分かった。
 心臓が妙にどきどきしている。あたしは小さく息を吐き出して、印字された御伽噺たちから彼の方へと視線を動かした。
 水川くんはお人形みたいな整った顔をこちらに向けていた。水泳という屋外スポーツをしているにも関わらず、日焼け止めクリームを丹念に塗りこんでいる女の子みたいに色白の肌の真ん中に、筋の通った鼻と形のいい薄い唇がバランス良くおさまっている。美的感覚が乏しいあたしから見ても「かっこいい」というより「綺麗」と表現する方が妥当だと思う、風貌。父親か母親か忘れた、日本人離れした青色の瞳が二つ、返事を待つようにあたしを見ていた。
 あたしはと言うと、突然話し掛けられて――しかも内容が内容だったから彼の意図するところが皆目見当もつかず、惚けたように彼を見返したままぱちくりと瞬きをした。
 少しだけ開けた窓から入り込んだ風が、彼のサラサラした黒髪を撫でている。
 体感的にはすごく長く感じる沈黙だったけれど、実際は数秒のはずだ。水川くんが細い指であたしが読んでいた本を示した。
「人魚姫」
 起伏のない、まだ声変わりをしていないであろう声で、彼はそう言う。
 あたしの頭が正常に働くまでに二秒くらいかかった。
「……あ、あぁ。 ニンギョヒメ、人魚姫ね」
「うん」こくり、と頷く水川くん。
 アンデルセンの童話の中で一番ポピュラーなのは人魚姫だ。魔女との取引によって足を手に入れ、一目惚れした王子のもとへ向かうも、結局はその想いを胸に抱いたまま海の泡となって死んだ人魚の王の末娘の話。絵本や映画ではハッピーエンドで終わっているが、原作はあんなキレイなお話じゃない。助けた最愛の人に気付かれず、寧ろ誤解のまま知らない誰かと幸せになる彼をただただ見つめ続け、――そして死ぬ。
 童話集から人魚姫を連想したことは分かるが、何故「羨ましい」に繋がるのかは彼のみぞ知るところだろう。少なくともあたしにとっては相反する感情である。だって、要は悲恋ってことでしょ? しかもデットエンドなんて、哀しすぎる。
 水川くんとのあいだの沈黙はとても静かだった。 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
 と、彼がついと目線を逸らした。頬杖をつき、ぼんやりと窓の向こうに視線を投げたように見える。会話が続く気配がなさそうな雰囲気に、あたしはもう一度童話集に目を落とした。が、すぐまた言葉が飛んでくる。「世間ではさ、人魚姫ってカワイソウってイメージじゃん」
「うん」
「俺、そうは思わないんだよね」呟くように水川くんが言った。「なんていうか、うまく言えないけど……その――そういう死に方っていいなって」
 ……………………。
 ……えっと。
 彼がこてりと首をかしげた。「やっぱおかしいかな、俺」
 あたしは、うんと大きく縦にふりかけた首を慌てて横に振った。「い、いや! そういうのって人それぞれってあるし!」
「そんな取ってつけたようなフォローしなくてもいいよ」
 平坦な声で水川くんはそう返すと、また同じように窓の向こうを見つめた。窺うように彼を見るけど、その背中からは何も読み取れない。
 妙な居心地の悪さに心臓がやけにビクビクする。さっきの沈黙とは全然違う気まずさ。
 もしかしたら、実は水川くんは物凄くポエマーで、人魚姫みたく叶わぬ恋をしている自分を重ねて思いを吐き出したのかもしれない。 もしくは、本当はすごく繊細で、私が内心思いっきり否定したことに深く傷ついたとか。頭の中でいろんなあたしがめまぐるしい勢いで喋り出す。
 水川くんは、まだ何も言わない。
「あ、あの……みずか――」
 思い切って口を開いたあたしを遮ったのは、やっぱり彼だった。
「ほら、人魚姫ってさ。最後は海に身を投げて泡になって死んだんだろ」
 水川くんの青い目が、あたしを捉える。
 その時唐突に思い出したものがあったんだけど、もう水川くんに失礼なことはできないとそれを意識の外に追いやった。
「うん」
「それ、チョーいいじゃん。 水に抱かれて死ねたんだから」
 羨ましい、とぽつりと呟いた彼はあたしを見ていたけど、目はあたしを見ていなかった。
 その日は確か朝からずっと冷たい雨が降っていて、午前中に予定されていた水泳はただのマット運動に変わった。――そして彼がさっきまで見ていた方向には、確か。
 ああ、そういうことか。あたしは一人納得した。彼は、自分が好きな場所で死ねたことを「羨ましい」と言ったのか。
「水、好きなの」
 あたしが本を閉じながらそう言うと、「さぁ」と水川くんが言った。「自分ではよくわかんない。 ……けど」
「けど?」
「こうやってるより、泳いでる方が、生きてるって感じがする」
 そう言って彼は静かに目を閉じた。 椅子に深めに座り、まるで何かに身を委ねているようなそんな感じで。
 あの時彼は大好きな水の中にいたのだろうか、あたしには到底居ることができない世界に。 水川くんに似たビスクドールが、透明な、青い水に沈んでいくビジョンが見えて、咄嗟にあたしは問うていた。
「なのに死に場所は水中がいいの?」
 ……返ってきたのは、曖昧な返答。彼の中でもう話題は終わっていたのだ、だって彼はもう頭の中で大好きな水に抱かれていたのだから。「まあ、人間の八割は水分だしね」なんて思い返しても合っているのかいないの分からない台詞を言った。
 反応は、やっぱり――ない。
 自然と落ちた目に、読んでいた童話集が入る。頭では彼の言葉を考えていた。
 水の中の方が生きてる感じがするって、魚か。
 自分で突っ込んで、はたと気付く。そうかもしれない。 だって彼は魚のように泳ぐのだから。

  ♥

 たった一人で学校の水泳部を背負う彼を初めて見た時、この人は前世は魚なんだろうって自然に思った。
 幼稚園の頃からプールの時はずっと見学で、水を浴びせ合ったりはしゃぐ友人たちを最初こそ羨ましいと思ったけど、最近は何とも思わなくなっていて。時の流れの中で希釈されていった感情が、――手本を見せてくれと先生に振られて泳ぎ出した彼を見て、鮮明に、あたしの中で熱を持った。
 飛び込み台から、勢いよくジャンプ。
 数秒後浮き上がってきたその身体はしなやかに動く。 今まで見てきたどのクロールよりも違った。
手は水を掴んで、ぐるりと回る。脚はバシャバシャと蹴るよりも、より遠くに水を押し出すように。合間の息継ぎも、まるでそれも含めて一連の動作みたいに滑らかだ。そして、向こうの壁に着くと同時にくるりとターンしてまた泳ぎ出す。
 あの時の興奮に似た感情を思い出してか、どきどきと心臓が早く脈打っていて。
 未だ目を閉じたまま思考の水の中に沈む彼に、あたしも羨ましいと小さく呟いた。

  ♥

 彼の感覚は、水に入れないあたしにはよくわからない。
 だから、知りたいと思った。

 ――水の中でなら、彼に近付けるだろうか。

  ♥

 月が綺麗な夜だった。
 家中が眠りにつく中、あたしは独りそっと起き出す。別に制服は着なくてよかったんだけど、気付いたら袖を通してしまっていた。 プリーツが少しよれているスカートを履き、鏡の前でもう一度整える。 別に誰も見る人はいないだろうけど、これも習慣だ。
 階段を一段一段慎重に、丁寧に降りて。
 まるで朝登校するように履き慣れたローファーに足をそっと入れる。
 ドアが引き戸のタイプじゃなくてよかった。少し冷たいノブをゆっくりと捻り、あたしは初めて夜の世界に足を踏み入れた。
 とても静かだった。
 何もかもを包み込んでしまうような、そんな静けさだった。
 ローファーがコンクリートを叩く音が大きく響く。 それだけで寝ている誰かを起こしてしまいそうなほどに、――きっとそんなことありえないだろうけど。 でも、そんな感じがしたのだ。

 しばらく通学路を歩くと、学校に着く。夜の学校なんて不気味でおどろおどろしくてよくホラーの題材になったりするけど、あたしは全然そんなこと思わなかった。 今さっき歩いてきた道に立つ家々や、あたしの家の中と同じように、眠っていると思っただけ。
 あたしは柵で閉ざされた(簡単に越えられそうだけど、スカートだからやめた)正門を右に回り、道なりにまっすぐ進む。グラウンド、体育館と過ぎると、学校と歩道を分けるように立つ金網が一箇所大きく破けているところがある。これは最近見つかった抜け穴ので、生徒たちの秘密だった。だからそれを隠すように、ご丁寧に美術部員総出で描いた大きなポスターが貼ってある。違和感丸出しだが今のところバレてはいないらしい。
 金網に括りつけてあった針金を解き、引っ掛からないように気を付けて通る。そこから、目当てのプールは見えていた。 もうすぐだ。 妙にはやる気持ちを抑えて、歩く。

  ♥

 私はローファーと靴下を脱ぎ、初めて飛び込み台に立った。月に照らされ、水が張られたプールはまるで底なし沼のようで。見下ろした薄暗い水面にうつるあたしの身体がゆらゆら揺れていた。
 彼はあの時、どんな顔でこの水と対面していたのだろうか。
 頭の中で、彼の綺麗なフォームを思い出しながら見様見真似で取る。
 そして、台を蹴った。
 身体が宙に浮いて。
 眼前に暗い色をした水面が近付いてきて、――――ばしゃん。

 水に、入る。
 指先が、腕が、肩が、頭が、身体が、冷たい液体に包まれたように感じた。
 
 否、捕らわれたと言った方が正しい。

 人間の体は水に浮くというが、まるであたしの身体は重石みたいだ。
 言うことが、きかない。
 息が吸えない。
 水深は一メートル前後。底に足が付きさえすれば呼吸はできる。なのに、もがくように手足をばたつかせても、何かに引っ張られるようにプールの底へ沈んでいくのだ。見えない何かを振り切るように身体を動かすけど、なかなかそれは離してくれなくて。
 やがて、かはっと、残っていた空気が口の中から泡となって出ていった。

 水面が、やけに遠い。
 揺れ動く青白い光を掴もうと手を伸ばすけど、ただただ遠ざかっていくだけで。それが彼の背中と重なった。

 あたしの知らない世界。そこで生きていた彼は何を見ていたのか。
 それが知りたかっただけなのに。
 知れたら、もう少し、彼に近付けたのに。
 まぶたがゆっくりと下がってくる。 あたしは水川くんと、彼の名前を呼んでいた。

 
 ………………。
 …………。
 ……。
 あぁ、思い出した。 水川くんの目を見て連想したこと。
 あの時のプールの色だ。
 澄み渡るような綺麗な夏空を映し込んだ、あの青色。 あれに似ていたんだ。

 その青の中に映ったあたしは、最初から溺れていたんだ。

青に溺死

青に溺死

――水川くんが死んだと聞かされたのは、そんな重い知らせとは真逆の、澄み切った青空が広がる絶好のプールびよりの頃だった。焦がれる少女と少年の話。/ cover illustration 佐原たし

  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-18

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