裏庭

 愛することと、信頼はイコールだろうか。裏表のない信頼、相手を疑わない心。


「まさか、あの人に愛人がいたなんて」
 わなわなと両手が震えだし、女は白髪交じりの頭を掻きむしる。嫉妬と裏切りに狂った般若の形相。応接間に女の喚き声とテーブルを拳で叩く音が響く。
 しかしながら、この応接間では日常茶飯事のこと。同室にいた他の職員の表情は変わらない。
 女は喚き疲れると、肩で息をし始めた。事務員が冷えた麦茶を女の前に置いた。女は一瞥し、グラスを手に取ると、麦茶を勢いよく喉に流し込む。やがて、呼吸も静かになった。
「こちらの原戸籍をご覧頂くと、旦那様は奥様以外の方との間の子を認知されています。したがって、その愛人の子にも相続権があります」
 間嶋早苗は「冷静に」と、自分に言い聞かせた。弁護士の仕事について十年。一浪はしたが、希望通りの大学に進み、司法試験にも一発合格。しかし、いざ仕事に就いてみると、世の中の、というよりも、人間の不思議を多く目の当たりにする。大体は、法律事務所で最若年の早苗が相続を担当しているのだが、真実は小説よりも複雑怪奇なのである。例えば、ある資産家が息子にではなく、愛犬に全財産を相続させるとか。他にも、初婚だと言っていたのに前妻との間に子供がいて、見知らぬ相続人の居所を探す羽目になったり。相続人が三十人超など。十年仕事に従事してはいるが、まだまだ奥の深い仕事だと感じる。仕事だと割り切ってはいるが、依頼人の感情に同情することが仕事ではない。
「・・・・・・よ」
「え?」
 女は、早苗と自分の間に置かれたテーブルの中心を瞬きもせず、見つめている。
「四十年も、あのひとに尽くして、信じてきたのに」
 テーブルに穴が開くのではないかというほど、一点を凝視している。
「その結果が、コレなの?」
 彼女の目には一体何が映し出されているのだろうか。夫か、不倫相手、もしくはその子どもだろうか。
「ふざけんじゃないわよ!!」
 女は叫ぶと、今日はもう話を進められる状態ではない、と帰ってしまった。毎度の事だが、精神状態が不安定な依頼人と話をすると、時々、気持ちが中るのだ。
「お疲れさん」
 事務員の吉田さんの声に背中を押されて事務所を出た。
 午後六時、空は夕日に照らされている。
 愛は理想だ。相手にこうであってほしいという理想。信頼すること。尽くすこと。愛しく思い、裏切らず、疑わない。
 あるのか?この世に、そんな無垢なもの。
 太陽は去るのが名残惜しそうに、しばらく電柱の影を路地に引き伸ばしていた。


 週に二、三回は昼食は外食で済ましている。弁当を作ることもあるが、毎日自分の手作りでは味気ない。今日は午前中の仕事が切りよくあがり、予定通り友人と昼食がとれそうだ。早苗は財布だけを持ち、近くの喫茶店に向かった。事務所を出て大通りまで歩くと大体五分ほどで着いた。店の窓ガラスには、こちらに向かって手を振る人が見える。早苗は外からは手を振らず、照れ隠しに微笑んだ。
 早苗はメニューを見ず、カウンターで注文して窓側の席に向かった。茶髪のボブで天然パーマの女が座っている。早苗の長く、黒い纏め髪とは対照的だ。
 向かいの席の女は軽量の薄いレンズの眼鏡をかけているたが、一瞬物をじっと見るようなところがあった。視力の合わない眼鏡を長年かけていた人の癖なのだろうか。そういう癖がぼんやりしているように見えて、研究者なのに抜けた感じがしておかしい。天然には間違いないのだが。
 菊池有利は早苗の中学時代からの友人だ。当時の眼鏡は瓶底で、ぼんやり物を見るところがあったので、彼女には別の世界が見えているのではないか、と思った。有利は裏表がなく、出会った時のまま大人になったような感じだ。今は大学の研究室で教授をしている。早苗の勤め先が大学と近く、中間の距離で一緒に昼食をとっていた。
 昼は喫茶店や蕎麦屋で済ますことが多い。窓の外を眺めると、六十代の女性が目に入った。先日、事務所で相談を受けた依頼人のことを思い出す。無垢であることが愛だと信じ、裏切られ絶望していた女性。
「うおーい。生きてるかー?」
 悩みなどなさそうな楽天家が目の前で手を振っている。
「死んでる」
 無表情に答えてみる。
「だろうね。目の前に料理運ばれたことも気付かなかったくらいだもんね」
 いつの間にかオムライスが自分の前に運ばれていた。オムライスに「いつからいたの?」と聞くと、「さっきから。ところでいつ食べてくれるの?」と脳内で会話してしまったことは有利には内緒だ。
「冷めないうちに食べなよ」
 屈託のない顔でこちらを見る。中学生の時のままだ。
「有利は昔と変わんないね」
「三十過ぎてるから、そういうの嬉しくないんだけど」
 ちょっと嫌そうな顔はしたが、あまり気にも留めていないようだ。私の様子が変だから、流してくれているのかもしれない。有利に甘えている。
「ごめん、そろそろ行くわ。実験のやり直しで時間おしててね」
「ああ、うん」
 忙しい中、時間を取ってきてくれたのにろくな会話も出来なくて、申し訳なくなった。有利は席を立って二歩行くとくるりと振り返った。
 じっと見つめられる。視界の焦点を合わせているのか、真剣な顔つきだ。これが本当の有利の顔なのだろうか。胸の奥が少しざわつく。
「モヤモヤしたら、私の顔でも思い出したら?早苗ちゃん」
「余計モヤッとする」
 ハハッ、と笑って有利は店を出ていった。窓ガラスの向こうに有利の背中を見送る。
 有利は時々鋭い。有利には隙をみせているのかもしれない。職業上、気持ちを顔に出さないように気をつけているが、四六時中そういうわけにはいかない。有利は早苗とは長い付き合いだ。互いの空気で何を考えているか分かるし、色々話す必要もない。一言で表すとすれば、「楽」なのだ。
 オムライスは「もう冷めちゃった」と悪態をついた。

 
 場末ではないが、飲み屋街の一角にスナック「おみき」はある。
「ママ、もう一杯」
「何がママよ!先輩を敬おうって気はないの、あんたは」
「客なんで」
 スナック「おみき」は早苗の高校時代の同級生・美喜の店だ。同級生と言っても、一年留年で高校二年生を二回経験している。
「ねえ、バイトの小林くんは?」
「このクソ忙しい時に大学の追試だって!もう~」
 合コンだろうってことは黙っておいてやろう。早苗は二杯目のハイボールをグビグビと流し込んだ。
「居酒屋じゃないんだからね。あんた。今日は有利は一緒じゃないの?」
「今日は研究室でお守り」
 美喜がクククっと笑い出した。
「笑っちゃいけないんだろうけど、おかしいよね。有利が大学の教授って」
「有利に言っとく」
「やめてよ。でもさ、昔からポーッとしてんじゃん、あの子。考えてないっていうか、天然っていうか、無垢っていうか」
「無垢ねえ・・・・・・」
「理系学部って男子が多いんでしょ?よく見ると美人だし、誘われたっておかしくないのに。あの雰囲気だと、恋人いないわね」
「まあ、私も美喜も無垢になるとか無理な話よね」
「言うよね~。確かに私バツ一ですから?」
 早苗の携帯が鳴る。
「近くまでカレシ来たから行くわ」
 飲み代をテーブルに置いて席を離れると、後ろで「おともだちの間違いでしょ」と美喜が言ったが聞こえない振りをした。


 カレシの車に乗って、早苗は自宅アパートまで送ってもらう。部屋に着くと服を脱ぐ。事前のシャワーは面倒で、余程日中に汗だくにならない限り浴びないかもしれない。それくらい、初々しさはない。
 ない胸を適当に揉まれて、入れられて喘ぐだけ。一瞬気持ち良くなって、胸の奥につまった澱が少しだけどこかへ吐き出されたような気がする。ストレス解消に似ているかもしれない。
 馴れ合いだ。セックスなんて、回数も重ねればなおさら。
 初体験の相手は高校のバスケ部の先輩だった。十代や二十代の時は夢中で、歳もとれば惰性化していく。それでも相手が違えば、少しの感慨はあった。相手と、心と体が溶け合うように一つになれた気がした。
 今では、事の最中に天井のシミが気になってみたり、明日の仕事の文書を推敲してみたりもする。抱かれながら、別の男の事だって考えられる。
 自分が相手に対して不誠実なのに、どうして相手が誠実だと思えるだろうか?
「愛してる」
 早苗の耳元で囁かれる。カレシの愛の言葉が早苗の心に刺さることはない。
 愛や誠実さを語る前に、自分の心自体が、早苗は疑わしかった。


 今日は一週間振りにあの女性が法律事務所に訪れた。前回の取り乱した時よりも、幾分、表情は落ち着いている。
「私は結局、損をしたのかしら」
 マイナス要素から入る会話だ。正直、気が重いが、困った人を助けることが仕事なので、いちいち滅入るわけにはいかない。
「ずっと、家を守ってきたつもりだったのに、全部ウソだったんだから」
 そうだろうか。ウソだったと片付けて、騙された自分は真っ当だったと言うのだろうか。 家族で過ごした中で、幸せな時間を過ごした、ということはなかったのだろうか。損だと思うのは見返りを求めたからではないのか。そこに自身に真実の愛があったというのなら、裏切られたなんて思うだろうか。
「どうして損しただなんて仰られるんですか。自分に全く非が無いとでも・・・・・・」
 右肩をぐっと圧迫される。
 ハッとして、頭が真っ白になった。
「間嶋が失礼なことを申し上げて、大変申し訳ございません。今朝の別の案件と混同しているのです。奥様のお話は、今後私が責任を持ってお伺いいたします」
 上司の仕事を増やしてしまった。依頼人の価値観に対して、批判するなどあり得ない。どうかしていた。
 小一時間、依頼人の事件内容の整理と今後の手続きを説明した上司が女を見送る。早苗は上司に「申し訳ありませんでした」としばらく頭を下げると、「頭を冷やして来い」と退社を命じられた。
 

 子供の頃は、信用とか信頼とか、損か得かなんて考えてなかった。
 好きか、嫌いか。
 居心地がいいか、それだけしかなかった。
 空が夕焼けに染まる。勢い勇んで、「おみき」に向かった。
 カウンターに座ると、唐突にグラスを差し出された。
「さあ、飲め」
 薬でも入っているんじゃないかと疑いたくなるような美喜の作り笑顔が怖い。
「何これ。まだ頼んでないんだけど」
「今日はボーナス出たんでしょ?ちょっとはウチの店にも貢献しなさいよ」
 美喜から手渡されたグラスの中でウイスキーのアルコールと水がぐらぐらと漂っている。飲め、飲め、飲まれてしまえ。
「飲む」
 グラスを手に一気に酒を呷る。
「いいぞ!太ッ腹ぁ!男の中の男!」
「違うけどな!おかわりー!」
 一杯、二杯、呷るうちに何杯飲んだかわからなくなってきた。美喜の拍手や合いの手が聞こえなくなり、早苗はカウンターに突っ伏した。サラリーマンがカラオケを歌うのが聞こえたが、それもいつの間にか終わっていた。 まるで意識が半分眠っているようだ。
「あら、有利。いらっしゃーい」
「早苗ちゃん、どうしたの」
「ん~休憩中よ」
「もう飲ましちゃダメだよ」
 隣りに有利の声がする。しかし、話に耳を傾ける気力も、体を起こす気力もない。
 ふと、中学生時代のことを思い出した。
 昼休み、校舎の裏庭で早苗と有利は昼食を取っていた。裏庭は教室から遠く、誰に気兼ねすることもないので、居心地がよかった。
 教室に戻ろうと立ち上がった時、有利のまつ毛に取れかけのまつ毛がぶら下がっていた。
「まつ毛にとれた何かついてる」
 有利は目を擦るがなかなかとれない。
「とるから、目つぶって」
 眼鏡を外した有利が、瞼を閉じてこちらを向いた。長い睫毛。何の疑いもない表情。
 裏庭の草の香り、土の匂い。誘われるように、有利の顔に自分の顔を近づける。
 軽く、くちびるを重ねる。
 早苗は一、二歩後ろに距離をとる。有利は驚いてはいたが、体が強張り瞼を閉じたままでいる。  
「目、開けなよ」
 有利は恐る恐る瞼を開ける。視線の先には、慌てることもなく、何事も無かったかのように早苗がこちらを向いている。
「早苗ちゃん」
 早苗は心臓が早鐘を打っているのがばれないかと、平静を装うことがやっとだった。
「キスしたの?」
 有利の表情は動揺していたが、何を思っているかまでは読み取れない。何と答えれば、有利は納得するだろう。それ以前に、自分は有利のことをどう思っているのだろう。好きなのか、わからない。それなのに、どうしてキスしてしまったのだろう。
 早苗は間がもたず、「ひっかかった」と、おどけてみせた。
「指を押し当ててみただけ。こういうの、意外と使えるね!」
「な、なんだ。そっかあ。もう、びっくりした!」
 

 このとき、早苗はキスしてしまったのを隠すのに必至で、キスではないと知らされた有利がどんな表情をしていたのか、憶えていない。
 あの時の有利は、キスじゃないとわかって、ホッとしたのだろうか。
「いつもの、お願いします」
「いつもの?有利、あんたいつも来ないじゃない」
「常連だよ~」
 美喜はいつも憎まれ口を叩くが、挨拶みたいなものだ。
 うっすらと瞼を開け、体を起そうとするが、鉛のように重い。
「早苗ちゃん、飲みすぎだよ」
 仕方ないなあ、とやさしく微笑んでいる友人。
 今、キスしたらどうする?有利はキスされて、どう思うだろう?
 カウンターから上体を起こすと、有利の唇に自分の唇を押し当てた。有利は驚いた顔で、瞬きするのも忘れている。
「な、な、な、何してんのよ!」
 美喜がカウンターの向こうで、困惑しているが、そんなことは今の早苗にとって、どうでもよかった。
 唇を離すと、有利はポカン、と鳩が豆鉄砲を喰らった顔をしている。
「思い立ったから、してみた」
「は?」
 なおさら、訳がわからない、といった有利をフォローする余裕が今の早苗にはない。
「あんた、何、ことはじめみたいに言ってんのよ。酔っ払い」
 体を起したのはいいが、突然、吐き気を催してきた。
「あ~、きぼじわるいいい」
「わー!もうしっかりしてよー!」
 早苗の体がぐらつく。有利の首と肩の間に顔を埋め、支えきれなくなった上体を預ける。 結局、有利は早苗にキスされてどう思ったのか、表情を確認できず、わからないままだ。 早苗は自分の都合でまた見逃したんだな、と自分にほくそ笑んだ。中学の時は、ウソをつくために必至で、今はアルコールの酔いに負けて、有利の表情を見逃したのだ。
「ちょっとお、大丈夫なの?水でも飲みなさいな」
 美喜がカウンターに置いたコップを取ろうと、早苗は体を少し起こすと、背中に回っている腕に力が入っていることに気がついた。どうしたのかと、早苗は有利の顔を覗き込むと、有利は目を閉じて、唇を堅く引き結んでいる。まるで、愛しいものを放すまいと、必死で抱きとめているかのように。
 早苗は驚きを隠せない。あのぼんやりした有利が自分をだきしめているなんて信じられなかった。次第に、照れ臭くなったが、それでも、腕を振り払う気にはならず、いつまでも抱きしめられていたいような気持ちになった。これが、有利の答えなのだろうか。
「酔っ払いども。何でもいいけど、飲み代、払って行ってよね」
 返事のない二人を横に美喜は店仕舞いをはじめた。

裏庭

裏庭

三十代の女同士の友情以上の恋愛地味た短編小説です。 サラッと読めると思います。 ※キス程度はあるので、苦手な方はご注意下さい。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-08-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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