時逆つ影

蟲師の二次創作です。
疲れたけど満足の行く出来。
ギンコが全然活躍しない。
頑張れギンコ。

『有るか無きかの、(かす)かな大気の流れが頬を撫でた。
心地好いその微風はそのまま庭の草木に纏わり付き、名残惜しげに去って行った。
空を見ると、流れる雲がひとつ、ふたつと目に入った。真っ青な晴天に太陽が煌煌と輝いて居た。降り注ぐ陽光は空中の微粒子に依って拡散され、柔らかな温もりとなって世界を包んで居る。
凝乎(じっと)空を見て居ると、蒼穹(そうきゅう)に吸い込まれる様な錯覚を覚えた。
―――雨が降るのかも知れない。
気付けば、肌を撫でる風が、僅かに苔生(こけむ)した薫りを孕んで居る。こんな風に雨を感じさせる空気は自身と世界との境界を曖昧にし、ともすれば中身が溶出して居るのではと感じる事が有る。先程の錯覚は、その感覚の無意識的な発露だろう。身体はすっかり鈍く成って仕舞ったが、こんな感覚だけは研ぎ澄まされて居る。
ふと、赤児の泣き(こえ)を聴いた気がした。
愛しい愛しい、聲。私を呼ぶ、柔らかな金切聲。
空耳だろうか。
風が運んで来た薫りが、情緒を刺激し(かつ)ての記憶を呼び覚ました。其れは鮮明で、残酷な程の美しさを連れて、ちっぽけで空虚な心の内を急速に、完全に満たした。
嗚呼、矢張(やはり)、聴こえる。果たして、遠いのか、近いのか―――。
今も、聲は響いて居る。』

これは、いけない。
すっかり竹林に呑まれて仕舞った。道がさっぱり分からない。(そもそ)も、北はどっちだ。
「こりゃあ、野宿かねぇ」
ぼつと、独りごちる。鬱蒼(うっそう)と茂る竹林は、360度見回しても変わり映え無く、現実感を奪い去る。まるで油絵の中に居るかの様だ。
「このまま一生出られんのじゃ無いか?」
現実を侵食する画に心まで侵されて仕舞ったのか、珍しく弱気に成って居る自分に気付いて自嘲の笑みが零れる。笑いと云うのは不思議なもので、その出自が如何であれ、口角を上げる事で幾分か気分を紛らわせて呉れた。
まあ、何とかなるか―――。
そう前向きに思い直して、背負って居た薬箱を地面に降ろし、竹の落ち葉が斑に積もった地面に腰を降ろした。これが尋常の森であれば落ち葉が土を豊かにして、ふかふかと座り心地も善いのだが、竹の落ち葉は堅く薄い為、地面の感触をほぼ其の儘伝えて来る。
腰を降ろした勢いのまま寝転がった。
蟲煙草を取り出し、火を点ける。ふうと紫煙を(くゆ)らすと、頭上に溜り絡まって居た異形のモノ共が、煙から逃げる様にするすると解け四散した。その様は少々、滑稽でもあった。もう一口、渋みに満ちた異形の煙を深々と吸い込み、身骨に沁みて居る疲れと共に長い溜息の如く吐き出した。
大体、この竹林に入った時から、何処かおかしかったのだ。何が如何とは言えぬが、何かこう―――。
その時、不図(ふと)違和感の正体に思い当たった。横目で、地面の表層に所々積もった落ち葉を見る。落ち葉の数が、異様に少ないのだ。所々地面が顔を出して居る。それに、枯れた竹と云うのを、殆ど見ていない。どの竹も皆青々として、祇園精舎の鐘など聞こえぬと云う風に茂って居る。そして茂りに茂った竹の葉が陽の光を遮り、林の中は薄暮の如く(おぼろ)(くら)い。
ごろりと寝返りを打って、横顔と掌で地面を探る。
誰かが忠実(まめ)に落ち葉を掃いて居ると云うならそれはそうだが―――。
地面を探って居た指先が、繊維質の、ガサガサとした衣に触れた。
「矢張な」
其処に有ったのは、地面から(およ)そ三分(約1センチ)程頭を出した、

筍であった。
季節は、晩秋である。


『肌が、透き通って居る。
冷たさすら感じる程に、白い。
対照的に、髪は深い緑に輝いて居る。
翡翠の如くに、美しい。
表情には憂いの翳りが見える。
それが一層儚げに見えて、この世の者では無いかの様だった。
いや、きっと最早、この此岸に住むものでは無くなって仕舞って居るのだろう。
しかし、彼岸に棲む鬼とも違う。
今、きっと、あちら側とこちら側の狭間に、生と死の境界の上に、我が存在の曖昧さに、怯え(なが)ら、其れでも尚、
生きて居るのだ。
あの男はその存在を指して、云った。
蟲だ、と。』

奇妙な風体の男であった。
まず、着て居る物が妙だ。異国の服だろうか。胸元が少し空いた白地の布に、枯草色の外套を羽織って居る。足下を見ると、何やら見慣れぬ黒い履物に、股引(ももひき)に少しゆとりを持たせたかの様な服を、着ていた。
しかし、それら異国の(かみしも)より、遥かに目を引いたのは、その容貌であった。
背の高さもさる事ながら、その目。深い湖の様な、翠色の眼。もう片方の目は髪に隠れて見えない。隻眼だろうか。
そして、髪である。その男の(びん)は、老境に達した水戸光圀公の如く、真白であった。
無論、光国公の御髪(おぐし)に関しては、全くの想像である。
その真白な鬢の所為で、年齢が善く分からない。それに、言葉を交わしてみても、知性の(ほとばし)りは感じられるが、茫洋としてその為人(ひととなり)は掴めない。
「そう云えば、あんた、名前は何てんだ」
(おもむろ)にそう訊ねられ、微かに狼狽した。
「辰巳と云う」
やっとそれだけ云うと、先の動揺が聲に出ては居ないかと、少し気を揉んだ。
「そうかい。俺は、蟲師やってる、ギンコってもんだ。宜しくな、辰巳さん」
ギンコと名乗ったその白鬢の男は、次には丁寧な態度で礼を述べた。
「改めて、礼を云わせて貰う。正直、助かった。あんたに出会って居なければ、こんな竹林の中で野宿を強いられる所だった。恩に着る」
「なに、大した事じゃ無いさ。珍しくこの林の中で人を見掛けたんで、声を掛けてみたくなっただけだ」
半分親切心、半分好奇心だ、とは云わなかった。人の容貌に関して触れるのは避けた方が賢明だ。
それにしても、さっきこの男が云った、蟲師とは、何だろう―――。
異様な見目に、聞き慣れない単語。何もかもが異質なその男を後ろに引き連れ、家路を急いだ。竹が日の光を遮って居る為に、この竹林の中は常に薄昏いが、空の上では太陽が没しようとして居るのか、薄昏さの中に赤みを帯びた光が混ざり、瑞々しい青竹の表面に照り返されて何色ともつかない輝きを放っていた。
そうして暫く歩き、西の端に血を撒いた様な鮮やかな赤色の光を残すばかりとなった頃、(ようや)く少し開けた場所に出た。
「ほお、こんな竹林の奥に、家が」
感心する様な虚仮にする様な声を出した後、ギンコはすっかり黙ってしまった。
そしてそんな事に気を取られる前に、辰巳には至急考えねばならない事柄が有った。
「さて、何と説明したものか―――」
云い終わってから、声を伴っている事に気が付いた。聞かれてはいまいか。
そんな辰巳の心配を余所に、ギンコは周囲を頻りに眺めていた。
竹林の中の家が其れ程迄に珍しいのだろうか。
そう気を散らすと、結局先程の悩みが決着する前に、辰巳は玄関の戸を引いた。


『父が、呆とする時間が増えた。もう齢80が近い。当然の事だった。
近頃は縁側に腰掛けて、日がな一日空を見て居る。蒼く、深い空に、母との思い出を投影して居るのだろうか。しかし風や、雨には敏感である。
中でも特に、赤児の泣声には過敏に反応した。
呼んで居る。あの子が、あの女が私を呼んで居ると譫言(うわごと)の様に口走り、慌てて奥の部屋に駆け込む。普段は歩く事すら覚束無いと云うのに、何処にあれ程の力を隠して居るのか、そうした時の父の目は自我の(いろ)を取り戻し、馴れた手付きで甲斐甲斐しく世話を焼いた。
奥の部屋に寝て居る、赤児の世話を。
何度聞いても信じられない。この目で見ようが、到底腑に落ちる話ではない。そんな馬鹿な事があって堪るかと、そう憤ってみた所で、所詮これは現実なのだった。
それでも、父の姿を見て居ると、憤り云々よりも先に、其れより遥かに強烈に、慈愛に満ちたあたたかな気持ちに包まれるのを感じる。
放っておけば、父は一人では生きていかれまい。そうなれば、あの赤児も数日と保たない。だからこうして、父の世話をしにこんな竹林の奥まで来て居るのだ。
赤児の世話に、手は出せなかった。あれは自分が如何斯(どうこ)う出来るものでは無い。神聖な領域に在る、触れ難い何かだ。
一寸の間奥の部屋に目を向けてから、父に食わせる食事の準備を始めた。竃に火を入れ、家から持って来た鍋を温める。直ぐに炎が大きくなり出し、窓の外を流れる煙が見えた。家は古びていて、何度修繕しても至る所から隙間風が侵入し、冬などは囲炉裏で薪を燃やして居ても凍える程である。よくもまあ、こんな家に何年も住めたものだと、呆れて仕舞う。
だがしかし、こうして父を訪い身の回りの事をするのも、もう後僅かだろうと、(ぼんやり)と考えた。
あの赤児は、直に、息を引き取るだろう。そうなったら、墓を掘ろう。父が一心に愛を注いだ、正に結晶だ。自分にとっても他人ではない。丁重に、弔いをしよう。
果たして其の時、父は如何成って仕舞うのだろう。完全に呆けて仕舞うのか。それとも狂ってしまうのか。
何れにせよ、其の後は父を連れて帰ろう。そして最期は、母の隣に埋めて遣ろう。
嫁の作った鍋を台所で火に掛け乍ら、そんな事を考えた。薪の爆ぜる、音がした。』

風が吹き抜けて行った。
ギンコの白髪を思う様乱し、外套の裾を(さら)って通り過ぎた空気のかたまりは、そのまま後方の竹林を騒々しく掻き乱した。夜が近い。
目の前、髪の毛に所所白いものが混じった、齢5、60程に見える男―――辰巳が開けた扉の向こうに、黒々とした闇が蹲っている。まだ周囲は薄らと明るいのに、家の中だけは深更の様だ。目が慣れない。何も、見えない。
数瞬の間、茫然として居たギンコは、自らの名を呼ぶ声で我に帰った。
「ギンコさん。どうしたんだい。どうぞ中へ入って呉れ。旅人が我を失う程の荒れ屋だが」
「ああいや、すまん。そうじゃ無いんだ。どうやら旅の疲れが、どっと」
そう言い繕うと、本当に疲労の波がどっと押し寄せて来た。
「そうかい。さ、中に入って呉れ。日が暮れると冷える。戸を開け放しておくと妻に叱られる」
そう云うと辰巳は、一瞬悲痛な表情をした。それは余りに短く、普段なら見間違いと断じる程度の変化だが、この後、其れが見間違いでは無いと直ぐに知れた。
辰巳に促される侭、中に入る。相変わらず目は慣れない。矢張、闇だ。今から闇に呑まれるのだ。
頭の隅でそんな事を思い乍ら、ギンコは玄関をくぐった。ギンコに続いて辰巳が敷居を跨ぎ、戸を閉めると、屋内は弥弥(いよいよ)暗黒に包まれた。
「暗くて済まないね。今、灯を入れる」
後ろの方から、辰巳の声がした。本当に、後ろなのだろうか。分からない。
やがて少しずつ目が慣れ始めた。闇の中に、薄らと輪郭が浮かんで来る。後ろを振り向くと、辰巳が、玄関の傍に掛けてある行灯に火を点ける所であった。火が灯り、(すす)(おこ)った。炎の柔らかな光が家の中を仄かに照らすのと同時に、魚油の生臭さが鼻を突いた。
外はまだ明るいと云うのに。
「どうして―――」
上がり(がまち)に腰掛け乍ら、問うた。
「窓から光を入れんのだ?」
「山の中じゃ、夜が来るのはあっと云う間だ。光など入れた所で、座敷に寛ぐ頃にはもう昏い」
微妙に、答えをはぐらかされたな。
等と思いを巡らせ乍ら室内を見渡すと、暗闇にすっかり慣れた目と、行灯のゆらゆらと揺らめく明かりのお陰で随分と明瞭(はっきり)ものが見える。
窓と思しき四角の区切りに目を遣ると、戸板で幾重にも打ち付けられ、厳重に封印されている。近づいて改めると、戸板の隙間に布が詰められ、外界を完全に遮断していた。
「おおい、ギンコさん。早く此方へ来てくれ。飯にしよう」
玄関から入って正面に、真直ぐと廊下が延びて居る造りの家の、廊下の左手に在る座敷から、辰巳の声がした。行灯の光が座敷に引っ込み、暗闇が支配する廊下の奥に、(ふすま)が有るのが見えた。
「すまない、直ぐ―――」
返事をしかけた其の目が捉えたのは。廊下の最奥。家を支配する暗黒が、最も濃く成る其の場所の。
ほんの少し開いた、襖。

そのふすまに。
―――やみのなかでも、
はっきりと分かるほど。
しろく、ほそい、
てが、
ゆびさきが。
そして。
せんりつするほど、
うつくしい、
おんなの、かおが。

ふすまの、あいだから―――。


『おおよしよし。なかないでおくれ。
いいこだ。よしよし。
ほうら、たかいたかいをしてやろう。
たのしいか?ほうら。
ああ、ごめんごめん。そうか、おなかがすいたんだな?
よし、かたくりをやろう。あまくて、うまいぞ。そら。
よしよし。いいこだ。たんとおのみ。
たくさんのんで、おおきく―――おおきく―――。
―――せめてげんきで、いておくれ。
おや、おなかがふくれたら、ねむいのかい。
よしよし、おやすみ。
いいこだ。よしよし。ねんねしな。
たんとたべて、たくさんねむって。
―――ながいき、しておくれ。』

「恵と云う」
飯を食い乍ら、辰巳が紹介した。
美しい、女だった。先程、廊下の奥で見掛けた時に感じた、ぞくりとする感じは、灯の色に染められて薄れて居るが、それでも凄艶な印象をギンコに与えた。
歳は25、6だろうか。肌は白磁の様に白く、なめらかで、光に照らされて口元や目尻に浮かぶ色の濃淡が、表情に憂いを与えて一層美しさを引き立てた。前髪は眉のあたり、後ろは肩の上でざっくりと切られて居り、顔の左に落ちる部分を耳に掛けている。その耳元から頸、鎖骨にかけての曲線は、妙な色香を放つと共に、触れれば破れそうな印象を与えた。
一言で云えば、絵画の様な女だ。美しい。美し過ぎる。
現実味が無い。透き通る様な肌は、生命の彩を感じさせない。
この女は、本当に此処に存在して居るのか?
椀を口に運ぶ。恵が作ったと云うが、料理は、うまい。
「いや、この鍋は、うまい。真逆(まさか)こんな時期に筍が口に出来るとは」
汁を啜り乍ら、横目で観察した。
「そうだろう。この筍はあの竹林で採れたものだからな。此処では四季を通して、何処にでも筍が生えて居る」
食が細い。呼吸が浅く、少ない。顔色が白すぎる程に白いのは、体温が低い所為だろうか。体が快活に動かないのか、所作が厭に緩慢だ。
そう云えば、まだ一言も声を発して居ない。
「それは、また、珍妙な」
生気のない肌と対照的に、髪は黒々として濡れた様に艶やかだ。普通、髪は先ず荒れるものだが。
「あの」
恵が、堪り兼ねたとでも云う様に、やっと口を開いた。
風鈴の音を彷彿とさせる、澄んだ声だ。
「わたしのかおに、なにか」
恵はゆったりとした調子で言葉の調べを奏でた。美しいが、無機質だ。
「いや、すまない。少し顔色が(にく)い様なので気になって居た。辰巳さん、娘さんは、何かのご病気で?」
そう辰巳に訊いたその言葉に答えを返したのは、風鈴の音だった。
「わたしは、むすめではありません」
語尾に、強い意志が感じられる。その言葉には、慥かに、生命が宿って居た。
「つまです」


『―――声が、()んだ。
先程迄、哇哇(ああ)、哇哇と泣き続けて居た声が、はたと聴こえ無く成った。
昨晩から今朝方迄、ずっと、ひと時も已む事無く続いて居た声が、急に。
厭な予感に襲われる。濁流に飲み込まれそうだ。
父は。父は如何成った。
あの赤児は、父の命の支えだ。其の支えを失った今、父は、父の命は。
乱暴に戸を開ける。補強に補強を繰り返し、しかしそれでも寄せる年波に朽ち掛けた家屋は、其の荒っぽい扱いに不平を漏らすかの様に、柱をみしみしと鳴らした。
靴も脱がず、框を飛び越え奥の部屋に駆けた。床が文句を垂れて居る。煩い。黙れ。
廊下は薄らと明るみに包まれて、厭に神々しく、何かを祝福するかに見えた。嘗ての名残で、窓は厳重に封印されて居るが、年老いた家は陽光を完全に遮断出来ずに、内部への侵入を許して仕舞って居る。
喜ばしげな光に眉を(ひそ)め、走り抜けた。
奥の襖に手を掛ける。
瞬間、世界が静謐(せいひつ)に包まれ、身震いをした。』

呆気(あっけ)にとられて居る。
この男でも、驚く事が有るのだ。
そう思うと、愉快で仕方なかった。悲壮感に満ちた現実も、この瞬間だけは滑稽な道化に感じられる。
「随分と、お若い細君で」
漸くそれだけを云うと、先程の動揺は何処へやら、ギンコは再び鋭い目つきに成って訊ねた。
「それで、細君は、どこかお体が悪いのか」
この男からはきっと、本質を逸らす事は出来ないのだろう。愉快だった心持ちは刹那に吹き飛び、鉛を呑んだ様な黒く凝った(こごった)絶望感だけが残った。
「ギンコさんは、蟲師と云ったな。蟲師は、人の体を治す事が有るのか」
藁をも縋る思いだ。
「それが蟲の引き起こした異変ならば、蟲師にしか鎮められん事が多い。無論、中には手の着けようが無いものも有るが」
「蟲とは、何だ」
「生命の源。いのちの、もとと成るもの。現と幽界の間に棲むもの。異形のもの。それらを総じて、蟲と云う」
「善く分からんな。詰まりは魑魅魍魎の類いか?」
「其れは、然うとも云える。蟲そのものは、普通の人には見えないし、蟲が引き起こす現象は常識の範疇を逸脱する事も多い。しかし、蟲は目に見えなくとも、存在自体が曖昧だとしても、生きている。生命を全うしているだけなんだ。其れが偶さか、人に障りを来してしまうだけだ。悪意を以て人に害する狐狸妖怪と蟲は、本質で決定的に異なる」
「何故だ。人に害を為すのだろう。ならば悪鬼と変わらぬではないか」
声に、怒気が含まれて居る。其れを自分でも気付いて居たが、抑える気は無かった。
「あんた、蟲師なんだろう。人を治すんだろう。蟲を祓うんだろう。じゃあやって呉れ。今直ぐ、妻に取り憑いた悪鬼を葬って呉れ。妻を、妻を助けてくれ」
怒りは言葉と共に萎み、最後は殆ど振り絞る様に成って漸く声を出した。言い切ると同時に、頬を冷たい雫が伝うのを感じた。
「何があった」
白髪の陰陽師は、飽く迄冷静に事情を問い質した。


「私は、竹細工を作る職人だった」
暫く閉口した後、やっとと云った口ぶりで辰巳は語り出した。

竹を山から採って来て、其れで籠や笊、笠を作り売る事で口を糊していた。暮らしは裕福とは云え無かったが、しあわせだった。
恵と夫婦に成ったのは20の頃だった。今と殆ど同じ姿で、当時の恵もまた、美しかった。同じ村の幼馴染みで、生命に満ちあふれ爛漫に笑う恵は、どんなに昏く気持ちが落ち込んで居て、厭世の極地にいる様な時でも、ふいと心の暗がりを照らし絶望の庵から救い上げてくれた。
両親が死んだ時も、然うだった。
今生きて居られるのは偏に恵のお陰だ。あの時、あの侭あの気持ちに居たら、きっと自ら命を絶って居たろうと思う。
だから、恩を返さなければならないとずっと思って居たし、何より心底惚れて居たから、恵を嫁に貰う事に何の抵抗も無かった。
「恩返しのつもりだったら、私は今直ぐ出て行く。でも、もし本当に貴方が私の事を愛してそう云って居るのなら、一生を捧げる事に迷いは無いわ。だって、私程貴方を愛して居る人は居ないから」
初夜、恵はそう云って笑った。あの笑顔を生涯忘れはしない。
しがない竹職人の私の所為で、暮らしぶりが貧しかったのは先の通りだ。恩を返すなど烏滸がましい。迷惑を掛けてばかりだった。済まない、等と弱気に成ると、何時も怒られた。しかし元来手先が器用で細工物が好きだった為か、腕は順調に上がって行った。そして其の仕事振りが徐々に評判に成って行き、暮らしが幾らか楽に成って来た頃、待ちに待った出来事が起きた。
恵が、子を授かったのだ。これは嬉しかった。知らせを訊いて、思わず落涙した程だ。その様子を見て、珍しく恵も目尻を濡らして居た。
子が生まれるならば斯うじゃいかんと、仕事に腐心した。少しずつ上がって居た評判は、口づてに広まり、隣町からも注文を受ける様に成った。
そして、子が生まれた。
玉の様な男の子だった。子は、この子しか授からなかった。だから余計に愛情を以て育てた。素直で、元気な、善い子だった。
其れからは順風満帆な人生だった。仕事は相変わらず調子が良かったし、子もすくすくと育った。恵が子をあやすのを見るのが好きだった。冬が過ぎ、夏が来て、気が付いたら春に成って居る。そうして光陰に振り回されて、過ぎ去った日は十数年と積もり、すっかり息子は大きく成った。其れと同じ様に、いや其れ以上に私達は老いた。恵も、私も、不惑を迎えて居た。


「今、私達と云ったか」
「ああ、そうだ」
「では、細君は」
そう云うと辰巳は後の言葉を引き継ぐのを少し躊躇(ためら)ったかに見えたが、やがてすこぶる云い悪そうに、云った。
「恵は―――若返って居る」

其れが始まったのは、40を越えて少しした頃だ。15年程も前の事か。空が晴れ渡り、澄み切った青空の中心には太陽が座していた。痛い程に照りつけ、何もかもの輪郭が明瞭として鮮やかだった。夏の盛りに差し掛かる頃だったと記憶して居る。
その日私は何時もの様に、細工に使う竹を採りに林に入って居た。積もり重なった落ち葉を踏みしめ、足を滑らせない様に注意し乍ら、丁度善い竹を探して居た。
その日が普段と違ったのは、目の前、幾らか離れた所を恵が歩いて居る事だった。行くと云って訊かなかったので、已む無く連れて来たのだ。
竹の葉が積もっている地面は滑り易いから気を付けろと言い含めたにも拘らず、案の定恵は足を滑らせて尻餅を搗いた。其の様が幾らか滑稽で、もうお互い歳なんだからと歩み寄ろうとした時、恵が或るものに気付いた。
「何かしら、これ」
恵はそう呟くと、『それ』を手に取った。不吉な予感がした。後に成って、其れが正しかったのだと知る。
「鳥の雛だわ」
雛よりももっと小さく見えた。それに、産毛が殆ど生えて居ない。血管が浮いて居る。姿形が奇異で、見慣れぬ。否、何処かで見た事が有る。
「ひどく弱ってる」
恵があれこれと心配するのを、遠くの方で薄らと訊いた。集中力は、妻の掌の上の異形に感じる既視感の出所に向いて居る。
―――あれは、確か、鶏の
「あ、だめ」
―――鶏の卵を、割った時
「死んじゃう」
恵がそう云ったのと殆ど同時に、雛の死骸から漆黒の霧が這い出た。真黒な微粒子は一瞬揺らめいたかと思うと
「きゃあ」
一息に恵を飲み込んだ。恵の体を覆った霧を払う間も無く、それは体の中心に向かって収縮し、皮膚にしみ込んで行った。
その、一部始終を
―――育ち過ぎた卵黄の、成れの果てにそっくりだ。
茫然と、見ていた。

辰巳は大層心配した。何しろ、目の前で細君が異常な霧に包まれ、昏倒したのだ。心配するに決まって居る。その場は何とか、細君を担いで家に帰ったが、その後も数日、目を覚まさなかったと云う。
「このまま目を開けんのじゃないかと思ったよ」
そう云う辰巳の言葉には真実味がありありと感じられ、当時本気でそう重い、気が気で無かったのだろうと云う事が容易に分かる。
そして、一週間程も昏睡した後、何事も無かったかの様に辰巳の細君が目を覚ました。


「おはよう」
目を覚まして、庭へと歩いて出た恵が、緩慢とした口調でそう云った。まだ体が怠そうだった。目が虚ろで、顔色も悪い。
「おう、起きたか。体は平気か。まだ本調子ではないのだろう。ゆっくりしておけ」
敢えて明るく振る舞った。妻に心配させない様にだ。黒い霧に包まれて、一週間も眠って居たのだと云う事も、黙って居た。
「だいじょうぶ」
妻は矢張、緩慢として応えてから、のろのろと家に戻って家事を始めた。
しかしその日は、無理矢理寝かせる事にした。布団に連れて行く時に抱いた妻の肩からは、凡そ人の体温と云うものは伝わって来なかった。
そして次の日も、その次の日も、妻は矢張り怠そうで、其れを心配して家に押し込めた。そして、三日目の夕方。
もういい、もう大丈夫だと妻は云い乍ら、家から出て来た。強烈な西日が射す時間である。間も無く一日の役目を全うしようかと云う風情で、太陽は力を振り絞って居た。
玄関に向かって差す西日に、長い影を引き乍ら振り返った。
「駄目だ、まだ―――」
そう云い掛けた時、異変に気付いた。
妻が玄関から自分に向けて歩いて来る。其の顔を正面から夕焼けが照らして、艶のある黒髪が、鮮やかな橙色を返した。
「かお、色、が」
そうだ。顔色が悪い。白過ぎる。病的だ。まだ本調子じゃないのだ。休め。
そう云った言葉が頭の中を素通りする中、目は一点を捉えて離さ無い。
目の前には、自身の影が長く尾を引いて居る。妻の後方にも同じ様に、影が伸びている。そして、もう一つ。
「かげ、が」
影が―――太陽に、ひかりに向かって。
黒々と、長く地面を染め上げて居た。

それから、一家の暮らしは以前とは全く趣を変えた。恵の影が二つある事はあっと云う間に村中に知れ渡り、隣町にも聞こえたらしい。
あの家の嫁は、鬼に憑かれた。
そう云った噂が後を絶たなかった。
当然乍ら、竹細工の受注は激減した。誰だって、鬼に憑かれた女の旦那が作った細工を使う気にはならない。
一家は孤立した。
それだけなら未だ善かった。しかし、本当の異変は徐々に、しかし確実に日常を侵食して居た。
影が増えてから、恵の以前の様な明るさは消え失せていた。動作も言葉もひどく緩慢で、肌は日を追う毎に白く、澄んで行った。活気が満ちて居た家の中には、陰鬱な空気が充満した。そして、2年、3年と月日が流れた時、少しずつ、ごく緩やかに、異変は顕在化した。
顔の小皺が、減って居る。髪に混じって居た白いものが、消えた。
そして更に数年が経った。そうすると益々異変は顕著に現れた。
恵は、明らかに、若返って居た。
その様を見た村人達は恵と、家族に容赦なく心無い言葉を浴びせた。
人が若返るなど、最早この世のものでは無い。鬼に憑かれて、鬼と成ったか。鬼だ。鬼の一家だ。鬼の子だ。殺せ。鬼の血を絶やせ。根切りにしろ。
迫害され、村には居られなく成った。
村を抜ける途中で、息子が、化物、と言い残して去って行った。引き止める言葉は出て来なかった。妻は相も変わらず鈍鈍として居る。
息子が、去ったのだぞ。お前の所為で。家を失い、家族は崩壊した。それなのに。
貴様、何故そんな―――
細君を罵倒する言葉が喉元迄出掛かり、怒り心頭に振り向いた時、辰巳の目に映ったのは、口を僅かに開け、つつと涙を流す、表情の無い妻だった。
そして、やはりゆったりとした、しかし透き通った声で
「かなしいね」
と一言云ったきり、黙って仕舞ったそうだ。
辰巳は其れを訊いて自分を恥、初心に立ち返った。
そうだ、俺は、恵を幸せにするのだ。
何故ならば、恵を愛しているから―――。
その後、馴染みの竹林の奥で廃墟を見つけ、其処を修繕して住み始め、今に至ると云う。
「妻をこんなにした原因の有った竹林だが、他に行く当ても無かった。人里に数年も住めば、また同じ扱いを受ける。其れは耐えられなかった」
すっかり冷めて仕舞った椀の汁を啜り、一息吐くと辰巳は云った。疲労の色が濃い。こんな風に、半生を誰かに語るのは初めてだったのだろう。況してや、この内容である。
一通り話を訊いて、ギンコは一つの質問をした。
「話は大凡理解出来た。ところで一つ、気掛かりが有るのだが」
「何だ」
疲労して居るが、辰巳は落ち着きを取り戻して居る。
「この竹林で、年中筍が採れるのは、昔からか?」
「……」
少し考え込んでから、辰巳は応えた。
「いや、思い返せば、この家に住み始めて、暫く経ってからだったと思う。しかし、何故そんな事を」
その質問には答えず、ギンコは黙り込んだ。
矢張、然うか。
自身が立てた仮説を確かめる様にして、一から思考をなぞる。然うして頭を働かせ乍ら、ギンコは、恵が座っているその膝元に目を遣った。
話始めの頃、ぱちぱちと心地好い音を放っていた炭はすっかり燃えて仕舞って、熾と成って柔らかい光と暖かさを放って居る。炎が盛んに燃えて居た時の明るさは疾うに失せたが、熾火は闇の中に恵の輪郭を惘と浮かび上がらせて、背後の壁にごく薄らとした影を投影して居る。
果たして、ギンコの目に、囲炉裏に向かって伸びる一筋の影が映って居た。

『何だ、喧しいな。折角善い気持ちで眠ろうとしているのに、気が利かない奴だ。
ほら、見ろ。この女も、こんなに気持ちが良さそうに眠って居る。どうだ、お前も一緒に眠らないか。
嗚呼、やっと家に戻って呉れたのだな。お前が去って仕舞った時、母さんと二人で大層悲しがったんだよ。お帰り。辛い思いをさせたね。私達はもう何処にも行かないからね。ずっと此処に居る。
如何した。そんな所に突っ立ってないで、此方においで。昔みたく、家族三人で仲良く川の字に成ろう。ほら。布団が気持ち善いよ。
母さんを化物と云った事が、そんなに気になるのかい。大丈夫。そんな昔の事は忘れて仕舞ったよ。なに、お前も直に―――。
嗚呼、眠い。それじゃあ、悪いけど私達はもう寝るよ。もう一度訊くけど、お前は善いんだね?
―――やあ、嬉しい。そうかい。それじゃあ、親子水入らずだ。おいで。一緒に寝よう。

男が一人、二つの体の傍に、倒れる様にして眠った。』


「逆影と云う、蟲が居る」
煙草の煙を吐くと、目の前の蟲師は語り始めた。
「竹林に棲み、生命が成長する力を食って生きて居る蟲だ。そして、時間に代謝して、宿主に還元する」
「つ、詰まり?」
「宿主は、若返る」
成る程。それだ。其れの所為で、家族は、妻は。
「多くは竹に好んで憑くと云う。竹は成長が早いから、その成長を喰い切れず、また若返る程の時間も生み出せず、結局成長が極めて遅く成る、と云う所に落ち着くらしい。憑かれたものの足下には、光に向かって伸びる影が出来ると云う。しかし竹林はもとより陽の光を遮りがちで、滅多に其れとは分からない」
ちらとギンコは、妻の影に目を遣った。囲炉裏の熾火に向かって黒く、伸びて居る。
「成長が遅い竹は、より太陽の光を求めて、葉を茂らせ殆ど散らせる事は無い。奥方の肌に生気は感じられないのに、髪だけは艶艶として居るのは、恐らく斯う云った影響に等しいだろう。そして見た所、この竹林には逆影が充満している」
不意に、自分の棲んで居る場所が、恐ろしく成った。家を出て、庭を過ぎると其処は鬼の巣だ。異界だ。
「しかし本来、この蟲は人に憑く様なものでは無い」
―――何を、
「何を云って居る。現に妻はこうして」
「まあ、落ち着け。話の途中だ」
落ち着いてなど居られるか。
「人に憑いた例は初めて見たし、聞いた事も無かったが、ごく稀に、動物、取り分け鳥類には憑くと聞き及んでいる」
鳥。然うだ。あの鳥。あの鳥が。鳥が鳥が鳥が鳥が。鳥鳥鳥鳥鳥―――。
「おい、大丈夫か」
体を揺すられて、正気に立ち戻る。
「あ、ああ。済まない」
横目でちらと恵を見た。相変わらず、表情は無いが、瞳に僅かに困惑と恐怖が浮かんで居るのが見て取れた。
「続けるぞ―――。逆影は、宿主が死ぬ迄離れようとはしないが、宿主が死ぬ時運命を共にする訳でもない。其の時、傍に居る生命に宿主を変えて、また新しい竹林を探す。それまでの代替として、移動距離がずば抜けている鳥類が、善く選ばれているのだろう。そして鳥が渡った先で、新たな住処を見出し、生を全うする。竹林でなければならない理由は、先に述べた他にもう一つ」
「何だ?」
「―――竹林が、全て一つの根で繋がって居ると云うのは聞いた事が有るか?」
「ああ」
「善し。逆影は、竹の成長を十分に喰い乍ら、竹の内部で増殖する。そして増えた子を、根を伝って別の竹へと送り込み、其処でまた増殖し―――と云う風に、どんどんと其の勢力を広げて行く。種の繁栄と云う観点で見た時、根で繋がって居る竹林は、最高に都合が善いのさ」
なるほど。筋が通って居る。しかし―――
「そして増えた逆影は、鳥類に宿って渡り、其の先でまた増える。理想的な循環は斯うだ。では、憑かれた宿主は如何成るか。―――善いか。辛いぞ」
訊きたい事を飲み込み、無言で頷いた。視界の端で、恵も微かに頷いて居た。
「―――動物の宿主は、際限なく若返る。そして其の果ては」
ギンコは其処で言葉を切った。
「其の果ては、死だ。赤児以前、胎児に迄若返った後、生命活動を維持出来なく成り
―――死に至る」
薄々とは感じて居た事だったが、矢張、明言されると堪えた。恵の目尻の辺りに、悲壮な陰が見える。
「恐らく奥方が見つけた鳥は、逆影の代理宿主だ。その役目を全うし、この竹林に新たな住処を決める瞬間に、出会って仕舞った。この十数年からこの竹林で年中筍が採れる様に成ったのは、逆影の住処と成り、老いが極端に遅く成ったからだろう」
「成る程、逆陰と云う蟲の概要は、善く分かった。妻が取り憑かれた経緯も、その果ても、確乎と理解した」
先程呑み込んだ言葉が頭をもたげ、横隔膜の堰を切って溢れた。
「其れで、どうなんだ。蟲の概要などは如何でも善いのだ。知りたいのは、元に戻るのか、如何かだ。いや、元通りにとは云わない。せめて、妻の、恵の時間を正しい方向に流して遣る事は出来るのか」
冷静さは失われて居る。声が荒げるのに任せた。
ギンコは、答えなかった。静寂が座敷を包んでいる。熾火が囲炉裏の中でちりちりと熱を放って、顔の前辺りが暖かい。
「奥方は―――」
暫くの後、漸くギンコが口を開いた。
「申し訳ないが、助けられない」

何だ、何を云って居る。
「本当に、すまない」
謝っている。今、頭を下げた。如何して。何故謝る。
「お、お前は」
声が慄えて居る。
「蟲師じゃ、ないのか」
頭がくらくらする。焦点が、定まらない。
「すまない」
飽く迄冷静なギンコの声を聞いた時、絶望が不意に怒りに転じ、矛先を持った。
「お前は!其の為に此処に居るのではないのか!妻を、私達を救う為に現れたのでは。其れが何だ。長々と講釈を垂れて、挙げ句の果てに、救えない?巫山戯るな。巫山戯るな!こんな、こんな事が有って堪るか」
叫んだ。叫んで、ギンコの胸ぐらを掴んで引き寄せた。右手に力が籠る。殺して遣る。殴って、撲って、死なせて遣る。そう思って拳に力を込めたのに、この男は未だ表情を崩さない。その翠色の隻眼で、凝乎顔を見て居る。
殺す。殺して遣る。
右手を構えた。右半身を引いて、勢いをつけて今正に殴ろうとしたその刹那
「やめて」
恵が、腰にしがみついて居る。体温は感じない。
「やめてください、あなた」
其の声の哀し気な響きと、無い筈の体温を腰に感じ、全身の力が霧散した。
手を緩めて胸元を解放されたギンコは、何事も無かったかの様に胡座をかいて、
「力になれなくて、申し訳ない」
と、もう一度謝った。
「ああ、もう、善いんだ。こちらこそ、すまない。乱暴をしたりして」
もう怒りが湧いては来なかった。そのかわり、全身を虚無感が包み込んで居た。
「奥方は、宜しいのか。一番辛いのは、あんただ。俺を好きにしても構わないのに」
そう云ってギンコは、恵を見据えた。
「いいんです」
答えた恵の表情は、複雑で、異様で、この上なく、美しかった。


翌朝、ギンコは早くに旅立って行った。旅立つ前に、息子の消息を知って居るかと訊いて来た。何処か海沿いの町で、元気にやっているらしいと、道行く旅人に訊いて知って居た情報を伝えた。するとギンコは、
「二人だけで過ごすのは、何かと寂しかろう。息子さんには、俺から話をしてみよう。何より、実の息子に誤解された侭では、奥方が余りに不憫だ」
そう云って背を向けると、達者に、とだけ云い残して、去って行った。
その背中を目で追い乍ら、昨夜の事を思い出す。
昨晩、恵は、珍しく、笑った。

「いいんです」
然う云うと恵は微かに微笑んだ。若しかしたら、光が生み出した口元の陰影で、然う見えただけかも知れぬ。しかし、慥かに笑ったと、辰巳は思った。
「わたしは、このひととおなじときをいきていれば、それで」
有るか無きかの微かな微笑みを浮かべる恵の目元には、明瞭とした決意の彩と、僅かな悲哀が浮かんで居た。
「それに、おばあちゃんになって、みにくくなるのを、このひとにみられるよりかは、ずっといい」
明け方の、朝もやのような、忽ちの内に消えそうな程に儚い笑顔を保った侭の頬を、一筋の涙が伝い、落ちた。


その夜、夢を見た。
夢の中では、恵が昔の天真爛漫とした笑顔を此方に向けて居る。
善かった。元に、戻ったのだと安堵し、恵を抱きとめた。
柔らかな、甘い香りが、鼻孔をくすぐる。
肌の感触が、あたたかな温度が、幸福を連れてやって来る。
恵の両腕が背中に回る。
其の感触を確かめ乍ら、一層強い力で、恵を抱き締めた。
その刹那。
突然、恵の体が腕の中でぱんと破けた。
そして、恵の中から溢れ出したのは、膨大な量の、闇だった。
墨より、夏の宵より昏い漆黒が、恵の体から溢れ出し、自らに降り注ぐ。
よく見ると、暗黒はうぞうぞと蠢いて居る。
大きいもの。
小さいもの。
長いもの。
短いもの。
脚を沢山持つもの。
節を沢山もつもの。
尖っているもの。
丸いもの。
漂うもの。
這うもの。
―――おぞましいものども。
蟲だ。
蟲が、恵の中にぎっしりと詰まって居たのだ。
大小長短形状様々な異形が、止め処無く溢れ出して来る。
蟲だ。
蟲だ。
恵は、蟲に成って仕舞って居た。
周りに満ちた漆黒の蟲の海に溺れて、自身と蟲との境界を胡乱とし乍ら、惘とそんな事を考えて居た。
恵が、蟲ならば―――。
俺も蟲に、成って仕舞おう。

はたと、目が覚めた。
隣では恵が、耳をそばだてねば気付かぬ程の音量で寝息を立てて居る。
暗闇の中に仄かに浮かぶ横顔を見て居ると、不意に、とても恐ろしく、愛おしく成った。
厭だ。
厭だ、厭だ、厭だ。
厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ。
恵が死んでしまう何て、耐えられない。
考えただけで、気が触れて仕舞いそうだ。自分はこれほどに弱い人間だったのか。
涙が頬を濡らして居る。何時からだ。目覚めた時か。もっと前か。夢を見乍ら、泣いて居たのか。
堪らず、恵を抱き締めた。それで目を覚ましたのか、何時にも増して緩慢な動きで、恵が私の体を抱いて、胸に顔を埋める私に囁いた。
「わたしはいますぐしなないよ。おさなくなっても、あなたといっしょにいるの」
透き通った声に、今だけは暖かみを感じる。
「そしたら、おじいちゃん、わたしのこもりをしてね。わがままだから、たいへんだよ」
涙が益々溢れて来る。胸の中で何度も何度も頷いた。恵も、泣いているのを感じる。
「そうして、あなたがおじいちゃんになって、わたしがあかちゃんになったら、いっしょにいこうね。やくそくだよ」
そう云って恵は、矢張緩慢と、回した腕に力を込めた。
それに呼応する様に、恵を抱きすくめた。
蟲は、溢れて来なかった。


―――それから数十年の
月日が流れ
老いぬ竹林が有ると
世間が噂する其の場所の奥に
朽ちた家屋が一棟在った
その廃墟の裏手には
水子供養の様なちいさなもの
そして尋常の大きさの
土饅頭がふたつ
並んでいた―――

『おや、今、なんときだろう。眠っていたようだ。鳥のさえずりが賑やかだからおそらく、朝だな。
目の前を見ると、死骸がふたつ、転がっている。年老いた父と、胎児の、母。
こころなしか、ふたりとも満足そうな相好をしている。
ふしぎと、哀しくはなかった。
むしろ祝福するような気持ちさえめばえていた。
そうだ、ふたりを、埋めてやろう。
けして離れぬよう、ふたり並べて。
父を肩に担ごうとして、たちくらみを起こした。寝起きだからか、ひどく体がおもい。
あえてその怠さに逆らう事はせずに、ゆっくりとした動作で父をにわに運び、あなを掘った。
いつまでたってもだるさは抜けず、結局ふたりを埋葬しおわるころには日が暮れていた。
その日は父の家にとまり、よくあさ、いのりをささげてから家路についた。
いえまでの道のりが、やたらに遠くかんじる。
とちゅうで一泊し、家のある港町にようやくかえりついた。
「ただいま」
そういって戸をひいた。こんなに重かったか。
顔をあげると、おどろいたかおをしたつまがたっていた。
「どうしたの、あなた。お父様の所に行ったっきり帰って来ないで。もう一週間は経ったわよ。あら、顔色が悪いわ。お父様に何か在ったの?」
べつに、なにもない。しんだだけだ。
くちにはださない。
「疲れてるのね、ご飯にします?」
いや、いい。
ことばはでない。
「無口なひと。兎に角、顔色も悪い事だし、休んだらどうですか。布団を出しましょう」
ぼうと、みている。
なにか、いわなければならないことが―――
「おまえ」
おもいだした。
「何ですか?」
「あいしているよ。ずっと、いっしょにいてくれ。おばあさんになっても、こもりをしてくれ」
「何を言って居るんですか、おかしな人」

そう云って笑うと、女は布団を出しに奥に行った。
其れを眺めて、茫然と立って居る男の肌は、白磁の如くに透き通っていた。』



—了—

時逆つ影

時逆つ影

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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