最後の魔法

【背中・キス・涙】

 まるで、魔法みたいだと思った。
 放課後の美術室で画用紙に向かう彼女の背中を見ているのが好きだった。彼女の描き出す世界は、温かくて繊細で光に満ちていて、いつもどこか切なげで。それは彼女自身を表しているようで、私はいつも呼吸をするのも忘れて、その世界に引き込まれる。
「私たちはきっと、宇宙から来たんだ。母親のお腹の中のその前は、銀河を泳ぐ魚だったんだ。」
 いつか彼女が言っていた。どんなプロセスでそんな話になったのかは全く思い出せないが、彼女は真っ直ぐな瞳でそう話してくれた。
 だからその絵を見た時、自然に涙が溢れた。
 冬休み明けから駅のファッションビルで開催された、近隣の中高生の美術作品を集めた展示会。その絵画展示スペースで一際目を引く温かな色合い。膨らんだお腹に手を当て、慈しむように微笑む妊婦の絵。優しくて、一見希望に満ちたその絵のタイトルは
 「銀河のリグレット」
 どんな気持ちで、この絵を描いたのだろう。何を想いながら、この色を選んだのだろう。彼女にとって絵を描くことは、きっと自分が自分である証明で、自分の命を、生きている意味を肯定するための作業だった。
 誰にも言えない秘密を抱えて、それを恥じるべきことだと自分を否定し続けて、それでも白い画用紙を彩る瞬間だけは、苦しみから解放されて何もかもを忘れていられたはずなのに。
 同性に対して抱いてしまう恋愛感情。非常識なその価値観。同性のクラスメイトに胸を焦がしてしまった忌むべき罪。
 彼女はきっと苦しんで、悔やみ続けていたのだろう。間違った心を、または性を、持ち合わせてしまった後悔。銀河を泳ぐ魚だった自分すら悔やんで、恨んで。
 いつまでも溢れては零れ続ける涙が、熱を持った唇を冷ました。
 一度だけ触れあった唇。その感覚は今でも鮮明に思い出せるのに、ここに彼女はいない。私にとっては何の意味も持たない戯れのようなキスだった。そこに彼女はどんな意味を見出していたのだろう。あのキスは彼女にとって、救いだったのか、重荷だったのか。
 近くに人の気配を感じながらも、涙は止まらなかった。自分自身の手で、絵で、自分を否定するとき、彼女は何を想ったのだろう。
 今となっては、もう誰も知る由はない。彼女はさよならも言わずに行ってしまった。自分で自分を諦めてしまった。全てを書き記した遺書を残して、マンションの屋上から重力にその身を委ねた。その時彼女は泣いたのだろうか、笑ったのだろうか。銀河を泳ぐ魚から、望む形でやり直すことができるのだろうか。銀河という名の色の海で、独りぼっちで寂しくはないだろうか。
 彼女のこれまでに気付かなかった誰にも、彼女の今を図ることはできない。それはもちろん私にも。でも、確かに伝わる大きな思いが込められていることには気づくことができた。この絵は彼女の精一杯の主張で、等身大の叫びで、全力の自己嫌悪で。そしてこれが、彼女が残した最後の魔法。

最後の魔法

最後の魔法

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-16

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