快速列車でスプリングデート

きょうも日がさわやかに照っている。駅前の花屋にはチューリップの花が赤や黄色の表情をきらめかせ、そこへ鼻をあてがう散歩中の犬が飼い主に引き留められる。青空の下、小さな公園に群がるネコと戯れる老婆の笑顔もまばゆい。街中の光景は、すべて春を感じさせるに十分な趣を備えている。
男も春風とともに出勤する。いよいよ今日から新年度と思うと、家を出るのが億劫になったけれども、春の光にあたったら、心はにわかに華やいだ。春、夏、秋、冬。今日を起点として、季節はまたぐるりと一周するのだ。春はあたたかいし、夏は暑いが薄着の女性がふえる。秋は涼しくなり、冬にはクリスマスイヴが待つ。来る一年にも、希望は満ちあふれている。駅へ向かう男の足どりは、春光のごとく明るく生き生きとした。
プラットホームで電車を待つ人の数はいつもより多い。新たな年度に特有の不安を抱えるためか、だれもかれもスマートフォンやゲーム機をあわただしく操作している。男はホームの端の方まで進み、他と比べてやや人が少なそうな列の、二十代後半と思われる女性のうしろを選んだ。彼女もスマートフォンを操るらしく、ナチュラルに染めたブラウン色の髪型はすこし俯きがちに見える。
春風はホーム上をもゆるやかに流れてゆく。それにつれて、女たちの長い髪の毛もやさしく靡く。ななめ前のおじさんも、隣の列の青年も、みな自らの世界に没頭しているようだから、一番線に並ぶ女性陣のなよやかなヘアを、自分がひとりが独占する錯覚に陥った。実に幸福な朝である。
ふんわりとした平和な空気をたちどころに切り裂く電車が一番線に到着した。手を動かす人々は頭をもたげ、けだるそうに車両へ歩を運ぶ。前の女性が乗り込もうとする時、フローラルの香りがちょっと撒かれたのを、男の鼻は逃さなかった。春にぴったりの匂いだった。
もっとも混雑する時間帯、ましてや新年度のスタートが切られる日だから、電車内に空いている席など一つもなく、吊革につかまるのがやっとであった。左右の屈強なサラリーマンの間になんとか割り込み、新調した黒カバンを足許に据える。
間もなくドアが閉まります、と言うアナウンスが流れると、男の正面で居眠りしていた中年の女性がはっとして立ち上がり、そのまま出口へ走ったが、扉は無情にも鎖された。あわれむ乗客の視線を浴びて、きまり悪そうにする女性は、もとの席へ戻るわけにもゆかず、出口付近の取手につかまる。にわかに空席となったところへ男は遠慮なく座する。
男の右側にいたサラリーマンも空いた席を狙っていたようで、カバンを持つ左手をわずかに動かし座る準備にとりかかったが、席の正面にいる男の存在と、空席のスペースに自分の巨体が収まるかの不安とから、結局躊躇したらしい。目玉まで大きなそのサラリーマンは、座って一息ついた男の方をめがけ、黒目をぎょろっとさせ重たい視線を送ったが、当の男はサラリーマンには目もくれず、泰然と構えたままである。
がたんごとんと一定のリズムを刻んで揺れる電車は、朝の眠たい時間を刺激し、乗客を一層とろとろさせたり、逆に目覚めさせたりする。席を確保した安堵からか、男は座ってまもなく居眠りしそうになったが、目を閉じると、左の二の腕に、あたたかくてやわらかい感触があるのに気付き、すぐに見開いた。満員電車で座れた幸運から幾分も経たぬうちに二度目の福を手に入れることなど有るものか、と思ったけれども、福はたしかにめぐってきた。男の左隣には、すやすやと眠る若い女があったのだ。すでに夢の中とみえて、辺りをはばかることもなく、男の二の腕にロングヘアの頭部を寄せている。
前方へ目をやると、向こうの席の乗客の、よだれを垂らしそうな程の寝相がまざまざと見える。本来ならば、周囲に遠慮して目をつむるべきところではあるが、どうせ誰も見ていないのだから、左隣の女が、彼氏である自分にあえて寄りかかっている、そんなシチュエーションを仮想しようと男は心付く。舞台はまさに朝の只中。さわやかな外気の中を駆け抜ける電車の内部にくすぶるもの憂い空気を吸いつつ通勤通学する乗客の中に、二人だけ、たったの二人だけ、恋の世界を享楽する男女が存在している。男はいかにも平凡なサラリーマンだが、女の方は、清純かつ鮮やかな身なりのお姫様で、もし端の者が見れば、その不釣り合いに驚くとさえ思われる。嘘だろう、とてもじゃないけど信じられない、と言う人もあるだろう。女を不憫がったり男を羨ましがったりする人もあるだろう。犯罪の疑いをかける人もあるだろう。しかし、いま男の隣にいる女は、まぎれもない、男の彼女そのものなのである。ほら、大胆にも男の肩に頭を乗せてぐっすり眠っているではないか。それ以上に明白な証拠があろうか?男の脳内の妄想は留まる所を知らない。
もうすっかり男の肩に落ち着いた女からは、シャンプーの香りが、ほどよい強さで匂ってくる。息苦しい電車内をふわふわと漂うその匂いは、眠たそうな乗客たちを起こすに足る魅力をそなえるはずなのに、男の他には誰ひとり気づく様子がない。独り占めである。やがて男はわれ知らず目を閉じた。春のすがすがしい陽気の日に、厄介な電車通勤をする我らサラリーマンは、人からの同情を得るべき存在だけれども、今日の男には、そんなものは不要なのだ。だって、左隣に、うら若い彼女が、しがない自分を心から信頼し、頼り切っているのだから。今、自分は、新年度の春デートを、この快速列車で謳歌しているのだから。ああ、何と幸せなことであろうか!男は閉じた瞼から涙さえ流しそうになる。ずうっとこうしていたい、どうか会社に着きませんように、と神に祈る。
数分後、男は夢の中にいた。左隣の美女と手をつなぎながら、花畑の中で恋のダンスを踊っている。彼女は声を弾ませて言う。
「ねえ、あなた、結婚はいつにするの?」
男はくすっと笑って応える。
「ははっ、俺たち、まだ付き合ったばかりじゃないか。さっき電車の中で隣になってから、十分もたってないよ」
「あら、そうだったわね。だって私、早くあなたと結婚したいのだもの」
「俺もさ」
二人は共に笑いあう。近くのひまわりは、二人の前途を祝うようにまぶしい笑顔を振りまく。春のここちよい風が二人の幸福に華を添える。
目を開けると花畑は消えていた。代わりに、ハンカチで額の汗をぬぐう黒縁メガネの小太りおじさんが正面にあった。男は驚いて左隣を確かめると、中年女性が頬から汗をぽたぽた垂らしながら男の左肩を枕にしていた。電車はすでに男の目的駅を通過していた。
慌てた男はカバンの中からスマートフォンを取り出し、「遅刻 言い訳」で検索するものの、めぼしい情報は得られなかった。電車はますます速度を増して、もうすぐ次の駅に到着する。左隣の女は大きな鼾までかきはじめる。男は達観したような嘆息を漏らし、もう言い訳をしないと心に決めた。
初めての駅に降り立ち、反対側のホームで電車を待つ。その間に会社へ電話しようと思ったが、どうせ一駅乗れば着くのだから、後でゆっくり掛ければいいと考え直し、指を触れかけたスマートフォンの画面から顔を離す。仰ぎ見ると、果てしなくつづく春のうららかな空が、夢の世界への入口のように感じられた。うつくしい女性と手をつなぎ、花畑の中で恋のダンスを踊ったつかのまの時間は、まちがいなく夢であった。そしてほどなく、中年女性によって俗世へ連れ戻されてしまったけれども、夢の世界は、まだ終わっちゃいないのである。明日、明後日、いや、今日かもしれない。今年度も、きっと、すばらしい幸運が自分の心を和ませてくれる。目の前の景色がそう教えてくれる気がした。電車はまもなくホームに到着した。

快速列車でスプリングデート

快速列車でスプリングデート

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-15

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