アオ

 アオが祭にいきたい、と言ったので、私は不安になりました。アオというのは、14ヶ歳下の、私の弟です。アオの言うことはぜったいで、彼が何かを望めば誰かが、その役目はたいてい私に押し付けられるのですが、叶えてやらなければいけませんでした。
 案の定、お母さんが、ヨシちゃん、アオを連れていってやりなさい、と言いました。私は読みかけの雑誌を閉じてソファから起き上がらなければいけませんでした。

 私には二人の弟がいました。2ヶ歳下のタクと、それからアオです。タクは大学生です。大学では、心理学の勉強をしています。ときどき部屋に彼女を連れ込んで音漏れも気にせずいそしむ以外は、落ち着いていて、姉の私にもやさしく、よくできた弟です。タクの彼女は晴子さんと言って、心なしか私によく似た顔をしていました。ですからタクにはそういうことをするときはホテルに行って、私の眼の届かないところでしてくれ、とお願いしているのですが、お金がない、とかで聞き入れてもらえません。

 アオは小学3年生。生意気盛りの男の子です。アオはお母さんにクソババア、と失礼なことを言うので、私は好きではありません。だけど、アオがそんなことを言うのは、生意気だから、というばかりではないようでした。アオから見て、お母さんが本当にクソババアだからだそうです。お母さんは、アオにとって、本当のお母さんではありませんでした。
 アオのお母さんはもう亡くなっています。交通事故のせいだとも、不治の病に侵されたのだとも聞いています。本当のことを、アオは教えてくれません。独りになったアオのお父さんと私のお母さんが結婚したので、私のお母さんはアオのお母さんにもなったのでした。
「お父さんはだまされているんだ」
 アオはしばしば突然そう言いましたし、それは祭に向かうとちゅうでもそうでした。
「クソババアは、お父さんじゃなくて、お父さんのお金が好きなんだ。お金と、お医者をしていることが」
 そう言ってアオは不意に体をくねらせて踊りました。遠くからかすかに盆踊りの音楽が聞こえてきました。

 アオのお父さん。名前を五郎さんと言い、お母さんはゴロさん、と呼んでいました。ゴロさんはいま、私のお父さんでもあります。お父さんは、小さな医院を経営していました。
 お母さんにつれられてはじめていったとき、「横山医院」と書かれた表札を見て、「私はこれから横山芳子になるのだな」と思ったことを憶えています。
 待合室に通された私とタクは、ゴロさんもといお父さんの、熱烈な歓迎を受けました。
 はじめまして、もすっ飛ばして、いきなり抱きしめられ、会いたかった、と言われたほどです。知らないおじさんにそんなことをされるのは正直気持ちが悪かったのですが、私は丁寧にはじめまして、と頭をさげました。これからお世話になります、と言ったタクに、ゴロさんは慌てたように言いました。
「これから家族になるのに、お世話もなにもあるもんか。支えあって、一緒に暮らしていこう。な」
 そうは言っても、養ってもらうことに変わりはありません。支えあって、といっても私たちにできることは、ゴロさんの収入に比べれば些細なことでした。
 だけど、私とタクは曖昧に微笑んでうなずきました。それで満足したのか、ゴロさんは、歯茎が全開になるほどニッコリ笑って、じゃあ、仕事だから、と行って奥に引っ込んでしまいました。

「ねえ、ヨシちゃん、ぼく、射的がしたい」
 アオがそう言うので、私はがま口から五百円玉を取り出し渡してやりました。
「見ててよ、ヨシちゃん。ぼく、たくさん当てるから。ヨシちゃんは、どれが欲しい?」
「私は、あの、くまがいいかな」
 私が指さした熊の人形に、アオが照準を合わせます。引き金を引くとコルクの弾が飛び出し、くまの右脇を通りすぎてしまいました。
「惜しいね、アオ。次はしっかりね」
 私の言葉に返事もせず、アオは再び構えた鉄砲をピタリと静止させることに真剣でした。
 ふとあたりを見回すと、アオと同い年ぐらいの男の子が何人もアオと同じように真剣な面持ちで射的をしていました。彼らのすぐ後ろには、彼らのお父さんや、お母さんや、あるいはその両方が、ニコニコと彼らを見守っています。自分たちの子どもが、本当にかわいくて仕方ない、という幸せそうな顔がいくつも並んでいました。
「とれた、とれたよ、ヨシちゃん!」
 アオが突き出すくまのぬいぐるみを私は欲しくもなくて、適当に指さしたのだけだったのだけど、それでも笑顔で受け取りました。
「偉いね、アオ。すごいね、アオ」
 じゃあ、次はタクちゃんに、キャラメルをとってあげる。そう言ってアオは、嬉しそうに鉄砲を担ぎ直しました。キャラメルがとれたら、じゃあ次はヨシちゃんのためにスヌーピーのキーホルダーを、その次はタクちゃんの好きな、バイクのフィギュアを、アオは次々と命中させて私に渡しました。
「お父さんと、お母さんのぶんはいいの」
 そんなこと、私には聞けやしないことでした。

「アオは?」
「もう、寝ちゃったみたい」
 見てよ、これ。全部アオが取ったのよ。私が机の上にスヌーピーやキャラメルやバイクのフィギュアを並べると、お母さんは目を細めてそれらを眺めました。
「アオは、射的が得意なのね。目がいいのかしら」
 そう言っていつもかけている銀縁のメガネをそっと外しました。私たち家族のなかで、目が悪いのは私とお母さんとタクだけでした。私もタクも高校生になったときからコンタクトをつけるようになり、今はもうメガネをかけることはありません。お陰で、アオにメガネザル、と言われるのは、お母さんだけでした。

 お母さん、あのね、私、結婚しようと思うの。
 この家を、出ようとしてるの。
 そう言うとお母さんは驚いたような顔をしました。
「おめでとう、ヨシちゃん。元気でね」
 元気でね、と言って、お母さんは掌をヒラヒラ振りました。
 すぐ出て行くわけじゃないんだから、と言っても、元気でね、元気でね、とお母さんは繰り返すのでした。

「ヨシちゃん、結婚するの?」
 次の日の朝、アオが聞きました。耳に当てていた受話器を耳から話して、私はうなずきました。
「相手は、誰。お医者さん?」
 そう言ってアオは険しい顔をしました。ひたいに皺をつくって、汚い野良犬を見るような目で私を見ました。
「ううん、職場の人。アオの好きな、ゲームをつくる人だよ」
 電話口から聞こえる婚約者の声を気にしながら私は言いました。ちょうど、結婚式の相談をしていたところでした。
「とっても優しい人だよ。部屋にいた蚊だって、捕まえても殺さずに逃しちゃうぐらい。ぼくと一緒に暮らしてください、って、やさしくプロポーズしてくれたんだ」
 聞かれてもいないことをべらべら話したので、アオは鼻白んだような表情を浮かべました。
「それで、ヨシちゃんは、ここを出ていくんだ」
「あのね、アオ」
「やっと横山じゃなくなるんだね。よかったね」
 言い切ってアオは階段を降りていってしまいました。受話器から、婚約者の声が遠く聞こえました。私はそれに応えることなく、電話を切ってしまいましました。
 私が横山じゃなくなっても、アオは私の弟だよ。なぜそういってやれなかったのか、私はそれからずいぶん後悔することになりました。

 あのね、お母さんね、結婚したい人がいるの。あのとき私とタクにそう切り出したお母さんは、頬をほんのり赤くして、まるで思春期の娘のようでした。お母さん、こんな顔もできるんだ。そう思うと、なんだか寂しいような気がしました。
「だけど、お父さんはどうするの?」
 タクが聞くと、お母さんは困ったような顔で「お父さんとは、実質別れているようなものだから……。大丈夫だと思う」と言いました。
 タクはきっとどう落とし前をつけるのか、ということを聞きたかったのだと思いますが、質問の的を得ないお母さんの言葉に一応は頷いて、だけど黙りこんでしまいました。
 私とタクのお父さんとお母さんは、そのときすでに別居して10年も経っていました。理由は、お母さんの浮気でした。探偵を使ってそれを突き止めたお父さんは、激怒して離婚だ、とお母さんに言いました。だけどお母さんに頼み込まれて、籍は抜かないまま、それでもしっかり家を出て行ったのでした。
「子どもがいるから、しょうがない。金は送る」
 そう言ってお父さんはスーツケースに荷物を詰めて家を出ていきました。
「相手は、どんな人?」
 私としては、しばらく顔も見ていないお父さんよりも、新しいお父さんのことのほうが気になりました。お母さんは、「丸くて、笑顔が素敵な、優しい人」と言ってはにかみました。私は何の仕事をしている人なの、という意味で聞いたのですが、またもやお母さんは恋する乙女の顔で子どもの意図を無視したのでした。

 少し探すと、逃げてしまったアオはすぐに見つかりました。自分の部屋に、鍵をかけて閉じこもっていました。無理矢理にあけて、押し入り、私は言いました。
 ねえ、アオ。あんたがお母さんのこと、気に入らないかしらないけどさ。
 おもちゃで溢れかえった小さな部屋の隅っこに座り込むアオは、何も言いません。天井から吊り下げられた飛行機のモービルはモーター音をたててぐるぐる回っていました。
「あんたが好きなゴロさんが、お母さんのこと好きだってこと、忘れないでね」
 アオは答えず、私に背を向けたままでした。だけど私の言葉に彼の背中が小さく動くのが見えました。生意気な私の弟の、しずかに泣く声が聞こえてきました。
 恋人に、電話をかけなおさなくちゃ。披露宴のビンゴ大会では、アオの好きなゲームをたくさん用意してもらうね。それに、タクのために、バイクのフィギュアも。あと、お母さんと、それからゴロさんのために、何か気の利いたものをひとつ。ねえ、アオ、何を用意したらいいか、一緒に考えてくれない?
 私が言うと、アオは、ゆっくり、ゆっくり、振り返りました。
 もちろん、彼は、私たちの家族なのです。

アオ

アオ

姉弟と家族についての短い話です。

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更新日
登録日
2014-08-15

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