夢(草原)

僕はただ目をつぶっただけだった。

 こんな夢を見た。

 一人の女性が横にいた。周りを見渡してみると、ただ穏やかな草原が広がっていて、遠くの方に様々な山が連なっている。空は広く、どこまでも広く、そして地の果てから繋がっているような放射線上の雲が見える。

 僕は、彼女の手が握りたかった。

 でも、その行動がどうしてもとれなかった。この誰のいない、何もない、どこまでも広がる世界で、たった一人横にいる彼女に拒絶をされたらと考えると、どうしてもあと少し、ほんの少しの間合いを近づける事が出来なかった。
 前は出来た気がした。過剰な自信と破れかぶれな賭けで、相手を物のように扱う事が出来たはずだった。

「いいの?」

 彼女が問いかけた。僕は恥ずかしくなって周りを見渡したが、自分の身を隠すようなものは何も無く、優しい陽の光と穏やかな風でさえ、やんわりと自分を嘲笑しているような気がした。僕は顔をそむけたまま口を歪ませ、大きく深呼吸をして、彼女の顔を見た。彼女の目はどこまでも透明で、何の感情も写しておらず、その水晶体の中に僕の脳髄と血管がそっくりそのまま映って見えるように感じた。

 いいの?と聞かれてからどのくらい経っただろうか。僕は回答の言葉を探しながら、その大切な問いかけが少しずつ自分から離れていくような感覚を覚えた。それは、じりじりと、僕を致命的な場所に追いやる気がした。駄目だ。端から言葉を出そう。僕は、「どうしたら良いんだろう」と正直に言葉を吐いた。

「どうしたらって、貴方が決めたらいいよ」

「見えないんだ。すぐ目の前に霧が広がっている感覚だ。その上、後ろからもぐいぐいと押されてきている。霧に触れると、何か恐ろしい事が起こる気がする。なのに、僕は追い立てられて、前に前に運ばれていくんだ。胸骨が潰されてしまいそうだ」

「ねえ」

 突然、彼女は僕の手を掴んだ。きゅうっと熱い、柔らかい肉に締め付けられたような感覚だった。

「そんな霧は無いし、貴方を押している何かなんて無いの。『本当は無い』の。私はここにいて、貴方との間に霧なんて無い。だから、貴方に必要な事はまず霧の無い世界を見渡す事なの。後ろを見てみて」

 僕は振り返った。そこには僕を追いやる者は誰もおらず、ただ、穏やかで、なだらかな草原が広がっていた。

「貴方はあっちから来たの。来たでしょ?貴方は峠を越えてきたの。ここは何もないけれど、もう少ししたらいくつか道が分かれていて、向こうの山のどこかに繋がっている。その道は楽な所もあれば難しい所もあるけど、でも、貴方が歩いてきた道と全く違うわけじゃない」

「今日は快晴。日差しだって柔らかい。看板は無いけどね、そのまま一つの道を選んで、山を越えたら海が見えるんだ。不思議でしょ?今山しか見えないのに、その先は海だなんて。山は決して風景なんかじゃない。貴方が歩いていけば必ずぶつかる所で、そこは終わりじゃなくてただの道の一種なの。面白いよ。色々な発見があって。貴方は今まですごく長い道を歩いてきたけど、それでもまだ新鮮な発見はどこまでも広がっているのよ」

 僕はもう一度、山の方を見た。このまま行けば、山を越えれば、海があるのか。じゃあ、他の道を行けばどうなる。

「あっちの方なら、どこまでもどこまでも高い、天にまで届く鉄塔がある」

 腰の下の方でむずがゆさを感じた。行きたい。見てみたい。それは後ろから押される感じではなく、足の付け根に火がついたような感覚だった。

「君は…、君は、行かない?」

 彼女が笑みをこぼした。優しいけど、距離があるような、突き放したような笑みだった。

「私は『ここにいる人』。貴方は道を『歩いていく人』。違うでしょ?私はここを通過していく貴方を見送る人なのよ。よく頑張ったねって、元気でねって言うためにいるの」

「じゃあ、今僕が出たら君は」

「また会えるよ。山の向こうで。貴方は私だってわからないかも知れないけどね。そうやって、貴方は何回も何回も私と会うの。だから、後ろ髪を引かれる必要なんてない」

 でも、今別れる事で彼女は居なくなってしまうかも知れない。また会えたとしても変わり果てているかも知れない。もし会えても、彼女は僕を拒絶するかも知れない。もし僕が「ねえ」



「わかる?それが霧なの」





 ここで目が覚めた。夢は都合良く、僕を次に運んでなんてくれなかった。
 もう一度目をつぶる。あの草原に自分をもどせるように一生懸命連想する。でも、そこで会えた彼女は、紙のように薄っぺらかったし、知らない人にするような形作られた笑顔を浮かべていた。

夢(草原)

夢(草原)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-15

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