エバー緑

「タイミングよくジャンプできましたね」と甲子園の実況が言ったので、つい「タイミングよくジャンプする競技じゃないだろ」とテレビの前で突っ込んでしまったが、聞く人は誰もいない。この街には老人と僕しか住んでいない。
 最初のうちは『老人と海』の文庫を買って、海の所にばってんして『僕』と書いてから、途中途中に訂正を入れつつ読み進めていたが、船の底に括りつけられた『僕』がサメに食われ始めるあたりでようやく気分が鬱屈してきてやめた。その日は老人が四人死んだ。確かその次の日に、僕の前任者――先輩と呼ぼうか――の遺書が見つかった。『人にあらざるもの人を守るべからず』と書いてあって、そういえば彼は時代物が好きだった、と思い出した。握力がものすごく強くて、よくコップを割った人だった。今となっては死んでしまってこの世にはいない。

 給料が異常に良くて、資格も介護福祉士しか要求されなかったので二つ返事でこの街に来た。実際は老人ばかりの街だ。土と排泄物のにおいのする街だ。

 時計を見ると六時を過ぎていて、早く今日が終わらねぇかなぁと呟いたら、やっぱり手元のブザーが鳴った。急いで端末を見ると、毎回結構汚くしてくださる老人の名前の所にアラート表示が浮いていた。僕は太ももを一回叩いて、立ち上がった。ポケットに端末を突っ込む。この世の人間は老人か老人でないかで大きく二分でき、僕にとっての老人とは、まァブザーが鳴らせるくらいの定義。
 勤務時間が一日九時間と書いてあり、そこだけが不安だったのだが――今となっては『二十四時間』と書いてあったほうがまだ心構えができてよかったというものだ。
 支給されている白い制服に着替えて――茶色とかにしてくれよ――僕は家を飛び出した。周りは田んぼと家しか無い。近くにはコンビニもない。毎週一回だけ宅配サービスの車が来るだけだ。夏場は湿度がものすごく高い。稲のせいだろうか。気温はそれほどではないものの、草いきれに毎日やられている。走る。走らないと蚊に刺されるのだ。
 やたら大きい家を数軒過ぎ去って――僕のごくごく小さなワンルームとは大違いだ――僕は目的の家に入る。実際は門をくぐってからやたら重いガラス戸を開けて、靴を脱いで、といったことがある。
「大丈夫ですかー?」
 どうせ風呂だろ、と思って風呂に行ったら実際彼は半分死んだみたいな状態で湯船に使っていた。抱き上げて、バスタオルで体を綺麗に拭く。体が異常に冷たい。浴槽に手を突っ込んでみたら――実際は排泄物や何かで汚れていてあまりやりたくはないのだが、栓を抜く必要もあった――水風呂だった。
「水風呂はだめですよ! 死にますよ!」
 半分死んでいるみたいな老人に声を掛けて、一応反応があることを確認した。急いで服を着せて、スポーツドリンクを飲ませてやった。先輩が『とりあえずポカリ』と教えてくれた通りにしている。彼はやたら痩せていて、あと何ヶ月かしらん、と僕は考えた。死ぬことは不思議ではなかった。

 何もかも嫌になったので、老人が起きるまでとりあえず自作ラップでも歌いたくなってきた。極めて穏やかなリズムでフxxクとかそう言うワードを紛れ込ませた子守唄を歌っていた。それも暇になったので、台所から勝手に食パンを奪って食べていた。消費期限が切れていて、ちょっとげんなりしたが、食べた。

「あの」
「イェー」
 ラッパーみたいな返事をしてから、それが若い女のものだったということに気がつく。お盆で帰ってきているのだろうか。大変なものだ。祖父から目を話すなと彼女を責めることは出来まい。彼女だって精一杯生きているのだ。そう思わなきゃやってられない。

 Tシャツにジーンズのやる気のなさそうな女性が立っていた。僕は状況を簡単に説明して、彼女はだいたい理解したようだった。
「……食パン食べる? 食べさしだけど」
「……いえ、結構です」
「じゃあ僕を食べるかこの老人を食べるかになるな……」
「食べることは確定なんですか……」
「はい」
 どうでもいいが、食パンは暗に『食でないパン』を仮定しているが、明らかに食でないパンは今使われていない。これは由々しき事態だ。
 コミュニケーション能力が欠如している。凄まじく気まずい時間が流れて、僕は流石に堪えられなかったので、自分の腕を噛んだ。
「何やっているんですか」
「……いや、実例を……」
 彼女は笑ったが、僕は全く笑わなかった。実際、僕は口の中に血の味を感じたからだ。じゃあ、と言って、僕は右手を差し出した。実際、握手をどのシーンでするのかすら僕はよく分かっていなかった。
 彼女は最初何のことだかわからぬと言う顔をしていたが、ようやっと手を差し出した。握ると、彼女は「痛い!」と叫んだ。短いが強い叫びだったので、僕は驚いて手を離して、申し訳ないといった。
「……じゃあ」
 僕は帰った。帰ったから首をつろうと思った。人でないもの人を守るべからず。たぶん僕がコップを握ったら割ってしまうだろう。

エバー緑

エバー緑

血のつながってない老人を介護すると人徳が下がって嫌だなぁという話。

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-14

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