魔法使いの赤い糸

    1章 リート通りの少女
 この世界では、物語に出てくるような「魔法」というものが存在する。魔法使いや魔女がいるのだから、森の中や人気のない場所では不思議な生き物がひょっこりと姿を現すこともある。
 ところで、ここリート通りはレンガ造りの建物が並ぶ通りだ。さまざまなお店が並ぶ中には靴屋を営む家族がいる、というよりは、昔は家族で営んでいた。その家族の名は、ホワイト。ホワイト家には、普通の家庭のように父親と母親、娘と息子がいた。娘の名は、フィアラ。彼女と5歳離れた弟の名はピリー。幸せな家庭だったが、フィアラが十歳の時に優しかった母親が病気で亡くなり、その頃から商売の方もだんだんとうまくいかなくなっていった。もうダメだ、と思っていたところに大金持ちのリントン家が現れ、ホワイト家の靴屋を買い取ってくれたのだ。母親が亡くなってから一年後、フィアラが十一歳のときのことだった。
 しかし、リントン家の意地悪なことといったら、とても酷かった。朝早くから、ホワイト家の人たちや、そこの働き手たちを自分たちの屋敷で働かせ、昼間は靴屋で、夜はまた自分たちのところで働かせた。そのうちに、どんどん人が辞めていき、フィアラが十四歳になった時には、彼女の家族とジャクソン夫妻のほかは誰も残っていなかった。そこでリントン家はフィアラの父親と九歳のピリーを港町にある宿屋で働かせることにした。もちろんその宿屋も、リントン家の持ち物だ。フィアラが十五歳になる日に父親と弟は出て行った。馬車で行けば、二、三日はかかるという港町にフィアラは一人で行くこともできずに、二年が過ぎた。そして、また一年。彼女は十八歳になった。
 
 まだ朝早くに、あるレンガ造りの建物の二階から一人の少女が顔を出した。彼女がフィアラだ。少し癖のある柔らかいチョコレート色の長い髪が、春風に揺れる。色白の頬が、その風の冷たさにほんのりと色づいた。
「ん~、今日もがんばるぞ」
 大きく伸びをしながら、まだ寝静まっている通りを眺める。あと数時間もすればここは賑やかな場所にはや変わりだ。
「今日は誰か来てくれるといいなあ」
 窓につけてある小さなデッキに置かれた花に水をやりながら、無意識のうちに呟いていた。

 フィアラがエプロンを締めなおしたとき、お店の裏口が開いた。
「おはよう、フィアラ」
「おはよう、エミリー、ベン」
 入ってきたのはジャクソン夫妻だ。四十歳を少しいったところに見える彼らには、本来ならフィアラと同じ年頃の娘がいたのだが、幼い時に病で亡くなっていた。それからずっとここで働いている二人は、フィアラにとって家族も同然なのだ。母親を亡くし、父親や弟とも引き離された彼女にとって、唯一頼れる相手だ。彼らも彼女や、ピリーをわが子のように想っている。
「フィアラ、ご飯は食べたかい?」
「ええ、ちゃんと食べたわよ」
 通りに人が行きかいはじめても、フィアラは暇そうにカウンターに頬杖をついて窓の外を見ている。ジャクソン夫妻が奥の作業場で仕事をしている音が聞こえてくる。通りを馬車が走って来る音が聞こえたかと思うと、それは靴屋の前で止まった。
 お客さんだわ!
フィアラは姿勢を正し、ドアが開くのを待つ。チリンと鈴がなり、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 お辞儀をしてから顔をあげると、そこには、お客ではなくリントン氏とその二人の娘が立っていた。娘たちは、きらびやかなドレスを着て、お店の中を胡散臭そうに見回している。フィアラは目を伏せた。
 今日は誰か来るといいなあって思ったけれど、どうしてこの人たちなのよ
 心の中でため息をつく。
「おはようございます、今、ジャクソン夫妻を呼んできます」
 目を伏せたまま挨拶をして、その場を去ろうと後ずさりする。
「二人は呼ばなくていい。ああ、レア、シェル、馬車に戻っていなさい。ここには、お前たちに似合うようなものはないからな」
 二人の娘はクスクス笑いながら、店を出て行った。これで、フィアラとリントン氏は二人きりだ。リントン氏はでっぷりとしていて、口髭を蓄えている。彼の妻は一年前に亡くなっていた。それからというもの、この男はフィアラに声をかけることが多くなっていた。
「フィアラ、明日はこちらではなく屋敷で働け」
「でも、お店は?」
「こっちは暇だろう、ジャクソンたちに任せておけばいい。どうせ、今だって暇なのだろう」
 そう言ってフィアラの方に近寄ってくる。彼女は壁まで後ずさり、逃げ場を失った。リントン氏が彼女の手を握る。
「離してください!」
 思いっきりその手を振りほどく。その声に気がついたのか、奥からエミリーが飛び出てきた。彼女はリントン氏とフィアラを交互に見つめ、二人の間に立った。
「おはようございます。今日はどういったご用件でしょうか?」
「いや、ただ様子を見に来ただけだ。そうだ、エミリー、明日は君たちだけでここをやってくれ」
「なぜです?」
「フィアラにはこちらに来てもらう」
「それならこの子の代わりに私が行きますわ。フィアラは接客が上手いので、いてもらわなくてはいけません」
「何が接客だ。客なんか一人もこないじゃないか。いいか、明日迎えに来るからな」
 そう言い残してリントン氏は立ち去った。馬車が遠ざかる音がする。
「フィアラ、大丈夫?」
「どうした?」
 奥からベンもやって来た。フィアラはその場にしゃがみ込んだ。その小さな肩をエミリーが抱きしめる。
「フィアラ、大丈夫よ。私たちが、なんとかするわ」
「エミリー、私、お父さんのところに行きたいわ。あの人から離れたい」
 泣きじゃくるフィアラの頭を夫人は優しく撫でる。
「フィアラ、向こうに行ったとしてもリントン氏は、お前を迎えに行くだろう。今は、明日のことを考えよう」
 ベンが言っていることが正しいということは、フィアラにはよく分かっていた。それでも涙は止められない。この先、自分がどうなるのかを考えると、彼女は怖くて堪らなかった。

「落ち着いた?」
 エミリーが温かいミルクをフィアラに差し出す。それを受け取りながら彼女は小さく頷いた。
「それを飲んだら、少し散歩に行ってきなさい。気分が良くなるわ」
 フィアラは言われたとおりに散歩に出かけた。人混みの中を行く当てもなく、ただブラブラと歩く。彼女の足が一軒の店の前で止まった。その店のショーウィンドウの中に一着のドレスが飾られていた。白地のドレスには、腰の辺りに紺のリボンが巻かれ、裾にも紺のラインが入っている。リントン家の娘たちの着ていたものとは違って、上品で落ち着いた雰囲気だ。彼女だって、女の子なのだ。年頃の娘のようにおしゃれにも興味があった。しばらくそのまま立っていたが、ため息と共にそこを立ち去る。しかし、またすぐに足が止まった。その店には、人がたくさんいた。靴を売る店、この店ができてからホワイト家の生活は苦しくなり、今に至るのだ。彼女の店とは違い、この靴屋は派手だった。流行だとか言って、みんな同じような靴を履き、同じようなドレスや服を着る。彼女にはそれが不思議だった。自分と他人は違う。それなのに、どうして・・・・・・?
 また歩き始める。雑踏の中をただ歩くだけではあったが、風や日の光は心地よかった。
「じゃまだよ」
 両手に大きな荷物を持った通行人に押され、彼女はバランスを崩し路地に倒れこみそうになる。そんな彼女を誰かが優しく抱きとめた。
「大丈夫?」
 フィアラは慌ててその人から離れる。誰が助けてくれたのかと振り向くとそこには、一人の青年が立っていた。青い瞳に黒髪の青年だ。
「大丈夫?」
 青年がまた声をかける。
「あ、はい、ありがとうございました」
「どこへ向かっているの?よかったら僕が送っていくよ」
「大丈夫です。ちょっとボンヤリしていたみたいで・・・・。本当にありがとうございました。さようなら」
 フィアラは踵を返すと走って家に戻った。息を切らす彼女をエミリーは驚いた様子で出迎えた。
「何かあったの?そんなに急いで、顔も赤いわ」
「エミリー、大丈夫よ。気分がすっきりしたわ」
 それでもエミリーは不安そうに、フィアラの額に手を当てた。
「フィアラ、あなた熱があるじゃないの!」

 次の日、彼女は熱のために自分の部屋で寝ていることになった。いつもなら、お店に出たくて堪らなかっただろうが、今日はかえって都合がよかった。これで、リントン家に行かなくてすんだからだ。しかし、彼女にとってさらに悪いことがこのとき、下の階のお店で起きていることを今はまだ知らなかった。

 一日休んだフィアラのもとに、ジャクソン夫妻がやってきた。まだ日が昇る前だ。彼らは、昨日はフィアラの家に泊まった。もちろん彼女の看病をするためだ。
「フィアラ、フィアラ、起きて」
 エミリーがフィアラを優しく起こす。
「ん・・・・、エミリー、どうしたの?まだ暗いわ」
「フィアラ、時間がないから、よく聴いてくれ」
 ベンの急いだ口調や、エミリーの暗い表情にフィアラは胸騒ぎを覚えた。ベッドに起き上がった彼女に、エミリーが毛布を掛ける。
「フィアラ、昨日リントン氏が店に来た。お前を迎えに来ただけではなかったんだ」
「どういうこと?」
 エミリーが彼女の横に腰をおろし、フィアラの肩を抱いた。
「お店を売りにだすそうよ。私たちは、ここを出てあちらの屋敷で働きながら暮らすのよ。使用人になるの」
「そんな・・・・・・」
 フィアラの頭が考えることを止めようとする。エミリーがそれを見抜いて声をかける。
「フィアラ、しっかりしてちょうだい。辛いことは分かっているの。私たちだって辛いわ。でもね、現実なのよ」
 そう言ってエミリーは流れた涙を慌てて拭う。
「エミリー・・・・・・」
「フィアラ、そこで私たちは考えた。お前をあの屋敷で働かせることは正しいとは思えない。だから、逃げなさい」
「え・・・・・」
 彼女は自分の耳を疑った。
「ベン、逃げるってどこへ?それに、あなたたちはどうするの?私一人で逃げるの?嫌よ、嫌!」
「フィアラ、今はこうするしかないのよ。お願い、分かってちょうだい。私たちだって、あなたを一人で行かせたくない、行く当てもないのに。でも、ごめんね、ごめんね、フィアラ」
 エミリーが涙を流しながら、フィアラを抱きしめる。
「フィアラ、本当にすまない。だが、これが一番の方法なんだ」
 ベンも涙を流しながら、フィアラの前に膝をついた。
「・・・・ベン、エミリー、謝らないで。ありがとう、そうね、今はこうするしかないわね」
 フィアラは涙を堪えて笑顔を作った。それを見て、エミリーが強く彼女を抱きしめなおす。
「フィアラ、行く当てはないが、西に行ってはどうだろうか?」
 ベンの言葉に彼女は首を傾げる。
「そこには何があるの?」
「聞いた話なのだが、西の方には農家の集まりがあるらしい。小さな村だが、そこの人たちはとても優しいらしい。きっと受け入れてくれるだろう」
「ありがとう、私、そこへ行ってみるわ」
「フィアラ、急いだほうがいいわ。誰にも見られないほうがいいもの。そうだ、薬を飲んでね。熱は下がったようだけれど、ぶり返すといけないから」
「フィアラもピリーも体が弱いからな。昔から寝込むと長引く」
 
 フィアラとジャクソン夫妻はまだ暗い通りに出た。風が冷たい。フィアラは身震いした。
「フィアラ、気をつけてね。少ないけれど、これを使って」
 そう言ってエミリーは、フィアラの手にお金を握らせた。
「ありがとう、二人とも元気でね。必ず、戻ってくるわ」
 フィアラはベンとエミリーと交互に抱き合うと、リート通りを西に向かって歩きだした。その先に何が待っているのか、誰にも分からない。だが、これが一番正しい道だと、フィアラはなぜかそう感じた。




2章  青い瞳の青年と雲のファース
 フィアラは休むこともなく、ひたすら西に向かって歩き続けた。日が昇り、人々が動き始めるころには、だいぶ遠くまできたようだった。お昼には、パンを一つ買って食べ、また歩き始める。やがて、建物も人の姿もまばらになり、荒地が広がり始めた。その頃には日も落ち始めて、あたりは朱色に染まりはじめた。フィアラの体力も限界に近い。せっかく下がった熱は、また上がっていた。フラフラと頼りない足取りで、ぼこぼこした坂道を登る。
 そうやってどれぐらい歩いたのだろう。空には、いくつもの星が瞬きはじめた。すっかり日は暮れていたのだ。フィアラの足元は、だいぶなだらかになり、緑の草や花も見られるようになってきた。
「灯りだ・・・・」
 目の前に灯りの灯ったたくさんの家の集まりが見える。急な坂を下れば、そこにたどり着くことができる。おそらくここが、ベンの言っていた場所だろう。フィアラの体の力が抜けると同時に、視界が揺らいだ。
 こんなところで倒れちゃだめよ
 なんとかして坂を下ろうとしたが、一歩踏み出した途端に彼女は気を失った。

 次にフィアラが目覚めたのはお昼頃だった。起きあがろうとしたが、体がいうことをきかない。
「まだ無理だよ」
 どこからか声がした。だが、どこにも声の主が見つからない。
 誰なの?
声を出したはずなのにそれは喉にへばりついたままだ。喉がカラカラで水が欲しかった。
「ん・・・・、目が覚めたのかい?」
 また別の声。男の人の声だ。フィアラの視界に青い瞳の青年が現れた。彼の顔に黒髪がかかる。それを手で掻き揚げながら、彼はフィアラに微笑んだ。
「水飲むかい?」
 こくりと頷く。なんだか頭が重い。青年がフィアラの視界から消えると、天井が見えた。見慣れた天井とは違うものだ。グラスに水を注ぐ音が聞こえる。
「起きられるかい?」
 青年がまた声をかけてきた。フィアラは体に力を入れた。そこに、青年も手を貸してくれたので、なんとか体を起こすことができた。
「ほら、これを飲んで」
 水の入ったグラスが渡される。フィアラはゴクリゴクリとそれを飲み干した。フウと息を吐く。
「ありがとうございました。あの、私、どうしてここに?」
 青年にグラスを渡しながら尋ねてみた。水を飲んだことで、少し頭が軽くなったみたいだ。
「倒れていたんだよ、あの丘の上にね」
 目の前の青年以外の誰かがそう言った。目が覚めて一番初めに聞いた声だ。
「誰?どこにいるの?」
 フィアラはキョロキョロと辺りを見回す。青年が声を立てて笑った。フィアラは顔をしかめる。
「ごめん、ほら、ファース、降りて来いよ」
 青年の呼びかけに何かがゆっくりと降りてきた。そのままフィアラの目の高さで漂う白いもの。
「雲?」
 フィアラが首を傾げると、その白い雲に目が表れた。
「ひゃ!」
 思わず声を上げ、ベッドの上で小さくなる。
「ひどいな。君の熱をそこまで下げたのはおいらなんだぞ」
 雲がしゃべった。この雲は、ただの雲ではない。魔法の雲だ。フィアラは、そういった生き物を目にするのは初めてだった。
「あの、ごめんなさい。その、少し驚いてしまって」
 フィアラは必死で謝る。
「まあ、別にいいさ。初めておいらを見た奴は、みんな驚くからね。君はまだいいほうだよ。ひどい奴なんか、逃げていくからね。」
「初めて見る人が驚くのは仕方ないよ。あ、自己紹介がまだだったね。僕はルット・クリス、ルットって呼んでくれ。こいつは、雲のファースだ」
「私は、フィアラ・ホワイトよ。フィアラでかまわないわ」
「フィアラか、いい名前だね。よろしく、フィアラ」
 ルットが微笑む。フィアラも自然と微笑んでいた。
「フィアラはリート通りから来たんだよね?そうだろう?」
 ルットの問いかけに彼女は驚いた。
なぜそれを知っているの?
彼はフィアラの気持ちを察したようだ。言葉を続ける。
「僕たち以前会っていたんだよ。覚えていない?」
その言葉に、フィアラは目の前の青年をじっと見つめた。彼もフィアラを見つめている。
彼女が「あ!」と声をあげた。         
「あのときの?」
「思い出した?君が倒れてきたときに、一応支えたんだけど」
 ルットが笑うとその顔にえくぼができる。フィアラよりは年上のはずだが、笑うとどこか幼げだった。
「あのときは、本当にありがとう」
「どういたしまして。ついでにもう一つ質問してもいいかな?」
 彼女は頷いた。何を訊かれるか、予想はついている。
「ありがとう。でも、その前に」
 ルットはそう言って席を立つとフィアラに毛布を掛けた。そのまま壁によりかかせる。
「楽にして。まだ熱は下がっていないよ」
「あ、ありがとう」
 初めてのことに、ドキドキする。顔が火照るのを感じて、俯く。そんな彼女の気持ちには気づかずにルットが「あっ」と声を出した。
「なんだよ、いきなり」
 ファースが文句を言う。フィアラも驚いて顔をあげた。
「ごめん。薬を飲ませなくちゃいけないことに気がついただけさ。フィアラ、ちょっと待ってて」
 そう言ってルットは部屋を出ていった。ファースがプカプカと浮かんでいる。
「ねえ、ファースはどうやって私の熱を下げてくれていたの?」
 フィアラの問いかけに、ファースがにんまりとする。どこかしら得意げな顔つきだ。
「フィアラのおでこにいたんだよ」
 そう言って、彼はフワフワした自分の手でフィアラの額を指さした。
「おいら、今水を含んでいるんだ」
 フィアラは「ああ」と声を出した。
「それで、起きた時に頭が重かったのね。」
 ファースが頷く。
「ありがとう、ファース。おかげで熱が下がったみたいよ」
「まだだよ。フィアラの熱はまだ下がってないさ」
 いやに真面目な顔つきだったので、彼女は思わず笑ってしまう。
「なんで笑うのさ?」
 ファースが口のあたりを尖らせる。
「楽しそうだね」
 ドアが開いてルットが戻ってきた。手にはグラスを持っている。その中には、透明な液体が入っているようだ。彼はそれを彼女に差し出した。
「飲んで。僕が作った熱冷ましだ」
「ありがとう。あなたは薬屋さん?」
 グラスを受け取りながら尋ねる。
「ん~、そうともいえるかな。でも違うともいえる」
 意味が解らなくて、フィアラは首を傾げてみせた。ルットが笑う。なぜだか、フィアラの心が温かくなった。懐かしい感じが胸いっぱいに広がっていく。
「ルットは魔法使いなのさ」
 ルットの代わりにファースが答えてくれた。
「ルット、あなた魔法使いなの?」
 驚いた様子の彼女を見て、彼は軽く頷いた。
「まあね、ほら、それ飲んで」
 フィアラが薬を飲み干すと、ルットが満足気にグラスを彼女から受け取った。
「よし、それじゃあ、本題に戻ろう」
 ルットが椅子に座りなおしたので、フィアラも緊張する。ファースはルットが肘を置いている丸テーブルに降りた。
「フィアラ、君はどうしてここへ来たのかな?しかも、熱があったのに。それにどうやってここまで来た?」
 やっぱり、と彼女は思った。遅かれ早かれ訊かれたことだ。この際は、本当のことを話すしかない。フィアラは、大きく息を吸った。
「私は、リントン氏から逃げてここまで来たの」
「リントン氏?あの、大金持ちの?」
 ルットが顔をしかめた。フィアラはコクリと頷き、言葉を続ける。
「私のお店は、あの人の傘下にあったのよ。あっ、お店は靴屋なんだけどね。だけど、新しい靴屋ができてからは、私の家の靴屋がうまくいかなくなってしまって・・・・・・」
「それで、お店が潰れることになった・・・・とか?」
「ええ」
 フィアラはさらに詳しく話した。ルットもファースも彼女の話を真剣な顔で聴いていた。
「それで、私はここまで歩いてきたのよ」
「えっ!」
 ルットとファースが同時に声をあげる。
「フィアラ、本当かい?ここまで歩いてきたの?」
 二人とも信じられないといった顔をしている。それも仕方がない。あまりにも無謀なことだったのだ。それは、彼女自身も、そして、ジャクソン夫妻も承知していた。
「そうよ、そうするしかなかったんだもの。お願い、ルット、この村で働かせてほしいの。仕事はどんなことでもするわ、お願い」
 ベッドから立ち上がり、彼女は頭を下げる。
ルットが椅子から立ち上がったのが分かったが彼女は顔をあげなかった。自分がどれだけ非常識か分かっている。でも、この村から追い出されれば、自分には行く当てなどないのだ。
「フィアラ、ここで働くには一つ条件があるよ」
 ルットの言葉にフィアラは顔をあげる。
「君はここで働きたいと言った。それなら、住む場所も必要だね?」
「ええ」
 やっぱりダメね
彼女は肩を落とした。だが、ルットは思いがけないことを口にしはじめたのだ。
「それなら僕の家で一緒に暮らそう。ファースと僕とフィアラの三人で。それが、条件だよ」
 思いもしなかったことに、フィアラは呆然としたまま何も言えずに立っている。
「フィアラ?大丈夫?」
 ルットが彼女の顔を不安げに覗き込む。ハッと我に返ったフィアラは、彼の顔が目の前にあったので、驚いてベッドに座り込んだ。「本当にいいの?ここで暮らしても、いいの?」
 そのままルットを見上げて問う。ルットがにっこりとすると、また彼の顔にえくぼができた。
「ありがとう、ルット」
 ベッドから立ち上がろうと体に力を入れたが、なかなか立ち上がれない。安堵したためか、フィアラの体からは自分の意志とは反対に力が抜けていった。ルットがしゃがんで、フィアラと目線を合わせる。
「よろしく、フィアラ」
「・・・・よろしくお願いします」
 なぜだか彼の顔を真正面からみることができずにフィアラは俯きかげんであいさつするのだった。




  3章 新しい暮らし
 フィアラがこの村に来てから、三日が経った。村の人たちは、彼女を温かく迎えてくれた。ここでの彼女の仕事は大人が農作業をしている間、子供たちの世話をすることだ。
絵本を読んでやったり、鬼ごっこをしたり、読み書きや簡単な計算を教えてやることもあった。村の子供たちはとにかく元気だったので、彼女は自分の家のことを考える暇がなかった。それでも、夜になれば自然と家族のことを考えていた。もちろんジャクソン夫妻のこともだ。
「フィアラ」
 暖炉の前に置いてあるソファーの上でボンヤリしている彼女に、ルットが声をかけた。
「ルット、どうしたの?」
 彼女の膝にファースがゆっくりと降りてきて、フィアラの顔を見る。フィアラもファースに視線を移した。
「家族のことを考えているのかい?」
 ルットが彼女の横に腰をおろしながら尋ねた。
「ええ、エミリーやベンやお父さんやピリーが酷い扱いを受けていないかと思って」
「不安なんだね」
 フィアラはゆっくり頷いた。本当は泣きたい気持ちでいっぱいだ。
「泣きなよ」 
 ルットが呟いた。驚いて、フィアラは彼の顔を見る。彼もこちらを見ている。
「泣きなよ」
「でも・・・・・・」
 彼の視線から顔を背ける。そうしなければ、本当に泣いてしまいそうだ。そんな彼女をフワリとルットが抱きしめた。
「ちょ、ルット、何す」
「泣きなよ、フィアラ。大丈夫、僕とファースがついている。また家族と暮らせるように力を貸すよ」
「そうだよ、フィアラ。おいらたちだって、力になれるんだよ」
「だから、しばらくの間はここでがんばるんだ。この村の人たちはみんな家族だ。もちろん君もね」
「ルット・・・・、ファース・・・・」
 ルットの腕に少しだけ力が入る。フィアラの目から涙がこぼれた。小刻みに震える彼女の肩をルットはそのまま抱いていた。ファースは、フィアラの涙を膝の上で受け止めていた。これは彼なりの優しさだった。

 次の朝、フィアラは目を覚ますと昨晩のことを考えてみた。今思えば、男の人の腕の中で泣くなんて、恥ずかしいことをしたと一人で顔を赤らめる。が、そのおかげで彼女の心はなんだか晴れ晴れとしていた。雨上がりの空になった気分で、彼女はベッドから出る。着替えを済ませ、ドアをあけると向かえのドアも開いた。中から、ルットとファースが出てきた。
「おはよう、フィアラ。よく眠れた?」
「おはよう。とてもよく眠れたわ。二人は?」
 ファースがフィアラの目の前に出てきて、大きな欠伸をしてみせる。
「おいらは、眠れなかったよ」
「どうして?」
「だって、ルットが寝ぼけておいらの上に何度も手を乗っけてくるからさ。重たくてたまらなかったよ」
「おい、こら、ファース!恥ずかしいこと言うなよ、悪かったって」
 ルットが顔を赤くしながら、ファースを捕まえようと手を伸ばすが、ファースはそれをヒラリとかわした。フィアラは、クスクスと笑っている。
「ほら、フィアラに笑われたじゃないか」
「知らないよ、おいらのせいじゃないね」

 三人は朝食を食べ終えると外に出た。フィアラの気分と同じ、晴れわたった空が目に染みる。
「おねえちゃーん!」
「あら、カニーだわ。相変わらず早いわね」
 丘の下で手を振っている三つ編みの女の子にフィアラも手を振り返す。
「カニーは人見知りが激しいはずなんだけどなあ。君にはすぐになついた、不思議だね」
 ルットがどこか嬉しげにそう言った。ファースがフィアラの肩にフワリと降りてきた。
「フィアラは優しいもんね。フィアラが居るだけで、みんな幸せになるんだ」
 ファースの言葉に彼女は頬を赤くする。
「そんなことないわ。私だってみんなと居るから幸せになれるのよ」
「おいら達と居ても、幸せなのかい?」
「当たり前でしょ」
 フィアラがそう言って、幸せそうに笑うのをルットは隣を歩きながら愛しげに眺めていた。

 その日は雨だった。昨晩から降りだした雨がそのまま降り続いているのだ。
「ルット、本当に行くの?」
 フィアラの問いかけにルットが笑顔で答える。
「当たり前だよ、一応仕事なんだから」
 彼はそう言うと、激しい雨が降る中へ出ていってしまった。
「大丈夫だよ、フィアラ」
 不安げに、窓の外を見ている彼女にファースが声をかけた。
「前にもこんなことがあったさ。その時はもっと、ひどかったんだぜ。雨も風も強くてさ、おまけにカミナリまでなっていたんだ」
「それって、すごく危険じゃない!」
 フィアラはさらに不安げになった。
「ルットの仕事って何をするの?」
「ん~、いろいろさ。たとえば、この村の人たちに頼まれれば、買い物に行くよ。普通なら」
 彼はそこで言葉を切って、にやりと笑った。
「普通なら、リート通りまでは簡単に行けないからね。だけどここら辺じゃ、あっちまで行かないと買い物が終わらないんだ」
「ルットは簡単に行けるのね?」
「当ったり前さ。ああ見えても、一応、魔法使いなんだから」
「それもそうよね。他には?どんなことをしているの?」
 フィアラは不安というよりは、むしろ、好奇心からルットのことを知りたがっているようだ。ファースはそれに気がついたが、あえてそこには触れないことにした。もしそこに触れたりしたら、彼女はこの話を終わらせてしまうだろう。
「あとは、リート通りでいろいろ」
「いろいろって?」
「家の屋根を直したり、壊れたものを直したり。もちろん魔法で」
「他には?」
「それから、簡単な薬を作ったりとか・・・・」
 フィアラは感心して頷いた。
「これがけっこういいお金になるって」
「ルットがそう言っていたの?」
 ファースは頷きながら、言葉を続ける。
「村の人たちからは、お金をもらわないんだぜ。でも、ルットが何かしてやるとお礼に野菜なんかをくれるんだ」
 フィアラが「へー」と声を出したとき、誰かがドアを叩く音がした。その音に、二人はビクリとして顔を見合わせた。
「こんな雨の中だけど・・・・、誰?」
「さあー?おいらにもわからないよ。でも、ここの人じゃないな。なんとなくそう思う」
 また扉を叩く音がした。フィアラは恐る恐るそちらに近づき、扉を開けた。そこには、ルットと歳の変わらぬような青年が立っていた。彼は、フィアラを見て少々驚いたようだが、すぐにニッコリと笑うと
「はじめまして、レディ、ここはルット・クリスのお宅でよろしいでしょうか?」
「え・・、ええ、すみませんがルットは今外出中なのですが」
「そうですか、あ、ファースは?彼はいるでしょうか?」
 その言葉を聴いてファースが玄関へと出てきた。そして、目の前の青年を見るなり、驚きの声をあげたので、フィアラはドキリとした。
「エファール!エファールだ、こんなとこまでいきなりどうしたんだよ!」
 ファースが嬉しそうに青年の周りを飛び回る。
「ファース、お知り合いなら中に入っていただいたら?濡れてしまうわ」
 フィアラは扉を大きく開けて、エファールを中へと進めた。彼は「ありがとう」と言いながら中へと入ってきた。不思議なことに、髪の毛一本さえも濡れていない。
「はじめまして、私はフィアラです」
「名前を申すのが遅れて申し訳ない。私は、エファール・ファリーマ、エファールと呼んでくれ、フィアラ」
 フィアラは彼の差し出した手を握った。
「エファールはルットと同じ魔法学校に通っていたから二人は親友なんだ」
 ファースがフィアラに説明する。
「そうなの。ルットは今出かけているけれど、よかったら待っていてください。今、お茶を持ってきますね」
 フィアラが奥のキッチンに入っていったので、エファールは暖炉の傍にあるソファーへ腰をおろした。ファースもその横にフワリと降りる。
「ファース、元気にしていたか?」
「もちろん、そっちは?」
「元気にしていたよ。ルットはどうだい?」
「元気だよ、特に」
 ファースはここで少しだけ声を落とした。
「フィアラが来てからはね。毎日ご機嫌だもんね」
 エファールが意味ありげににんまりとした。まるで悪戯ができる材料を見つけた時のような少年みたいだ。
「あの子はいつ頃から、ここにいるんだい?一緒にすんでいるのだろう?」
「まあね、五日ぐらいかな」
「へえ、フィアラって昔ルットが言っていた、あの子だろ?」
 ファースが頷いた。そこへフィアラが戻ってきた。エファールにお茶を差しだし、自分は彼の向かえに座る。
「フィアラ、見たところ君は村の娘さんではないね?どこから来たんだい?」
「リート通りからです。それでここに居候をさせてもらっているの。エファールも昔はここに住んでいたの?」
「いや、私はここではないよ。あれ、ルットもこの村の出身ではないんだが・・・・、ファース、彼女はルットのことを何も知らないのかい?」
 ファースが頷いた。フィアラは自分がルットのことをまったくもって知らないことに、初めて気がついた。彼女の胸にモヤモヤとしたものが沸き起こる。初めての感情に戸惑いさえ覚えた。
「あっ!」
 ファースの声に彼女は伏せていた顔をあげた。ファースが窓のほうを指さしているので、フィアラとエファールもそちらに顔を向けた。見ると、雨が小降りになってきたようだ。
「よかった」
 思わずフィアラが呟いた。
「なにがよかったのさ?」
 ファースが顔を思い切りしかめながら訊ねた。
「少しぐらい雨が弱くならないと、ルットが大変じゃない」
 
 それからしばらくして、ルットがリート通りから戻ってきた。案の定、彼は親友の顔を見て心底驚き、しばらくの間ドアの前に突っ立っていた。
「やあ、ルット、久しぶりだな」
 やっと部屋の中に入ってきた彼にエファールが笑顔で声をかける。
「エファール、一体、どうしたんだよ。連絡もずっとなかったのに・・・・」
「わるいわるい、いろんな国を回っていたから、ついつい連絡をし忘れていたんだ。元気そうだな」
「君もね」
 ルットが泣きだしそうな笑顔を作る。その顔を見たとき、フィアラの心の中にふと何か懐かしい感じが広がった。ここに来た際に、ルットが笑ったときと同じ気持ちだが、あの時よりずっと強い懐かしさを感じた。だが、その気持ちがどこから湧き出てくるのかは、わからないままだ。
「フィアラ、彼は僕の親友の」
「そのことなら、フィアラは知っているよ」
「あっ・・・・、そっか」
 ルットのおかしな失敗に、残りの三人は顔を見合わせて笑ってしまった。

「さて、そろそろ帰るかな」
 エファールがそう言ってソファーから立ち上がる。
「え、帰るの?外は雨だよ、泊まっていきなよ」
 ルットの言葉にエファールが微笑みながら、窓の外を指差す。いつの間にか、雨が上がり夕日がきらきらとした光を部屋の中にまで届けていた。
「また来るよ、実は、この近くの村に泊めてもらえるようになっているんだ」
「また旅にでるのかい?」
 ルットの問いかけに、エファールが静かに答える。
「そうか、君は旅をするってずっと言っていたものね。また、こっちに来たら、絶対に会いに来てくれよ」
 ルットの声に切なさがにじみ出る。エファールが彼を強く抱きしめながら、「ああ、土産話もたくさん持ってくるからな」と答える。まるで、兄と弟のようだとフィアラは思った。突然、ピリーや父親に会いたいという気持ちが強くなった。
「それじゃ、またな」
 ルットを離して、エファールは立ち去ろうとする。
「待って!見送るぐらいしてもいいだろう」
 四人は夕日が眩しい外へと出た。地面はぬかるんでいるが、そのまま丘の上を目指す。
「よし、ここでいい」
 丘の上まで来ると、エファールはそう言って三人のほうを向いた。
「またな、ルット、ファース、それからフィアラもね」
 三人が頷くのを見ると、彼はニッコリと笑いながら右手を真横に突き出した。フィアラには、その動きが何を意味しているのか解らなかったが、一瞬にして彼が消えたところを見ると魔法だったのだろう。
「危ない!」
 突然フィアラはルットに突き飛ばされ、わけのわからぬままに地面にしりもちをついた。
「ファース、フィアラを守れ!」
 そう言われた彼はフィアラの前に進み出る。彼女も慌てて立ち上がり、事の事態を飲み込もうとするが、よくわからない。
「ファース、どうなっているの!ルットは?大丈夫なの?」
 彼女が前に進もうとしても横に動こうとしても、見えない壁が立ちはだかる。恐らくファースの力で、フィアラの周りに結界のようなものが張られているのだ。ルットはどうしているのかと、彼に視線を移す。彼は、何か見えないものに狙われているようだ。ルットの周りで火花が飛び散る。魔法と魔法の戦いなのだろうか?それなら、敵はどこにいるのか?
「ルット!」
 彼がよろめいた隙に、殺気だったものが襲い掛かるのが、結界の中にいるフィアラにさえ感じ取れた。ルットは間一髪のところで、その見えない何かをかわしたが、すぐさまそれは、襲い掛かってくる。今度は避けきれずに、彼の洋服の首もとが切り裂かれた。ルットが顔をしかめる。同時に、何かが弾き飛ばされ、夕日に輝きながら空を舞った。
 一瞬、時がゆっくりと流れるような錯覚を誰もが感じた。きらきらとそれはひかりを放ちながら、ゆっくりと地面に落ちた。途端に、感覚が元に戻る。ルットと殺気に満ちたそれは、ほぼ同時に同じ目的物に向かって走り出した。きらきらと空を舞っていたあれが、目的物のようだ。
「限界だよ・・・・」
 ファースが苦しげに声を上げると、フィアラの周りの結界が壊れた。ファースはヘナヘナと力尽きたように地面に降りたちたが、彼女は走り出していた。ルットたちが争っている目的の物は、彼女の目の前にあった。そして、彼女はルットや謎の襲撃者よりもそれを早く拾い上げる。その途端に、襲撃者は殺気を彼女にむけてすごい速さでくるのがわかった。フィアラは拾い上げたそれを胸に抱えると強く目を閉じた。
「フィアラ!」
 温かい腕が彼女を守るように包み込む。殺気が強くなる。ルットの腕に力がこもった。
 もうだめ!!
 フィアラが心からそう思ったとき、殺気に満ちたそれがふっと消えた。フィアラはルットの腕の中でゆっくりと目を開ける。彼もフィアラから離れると危険が去ったのかどうかとあたりを見渡しているがそこには、暖かな光と、生暖かい春風のほかは何もなかった。








 
 4章 魔法使いの秘密  
 フィアラは泥で汚れた服を脱ぎながら、先ほどまで自分が手にしていたあのネックレスのことを考えていた。襲撃者の狙いは、ルットが身に着けていた逆三角形の形をしたネックレスだったのだ。それは、なんとも言い表すことのできない美しい輝きを、彼女の手の中で放っていた。けれども、その美しさに彼女は近寄りたくなかった。早く手放したいと強く願ったとき、ルットが彼女の手からそれを優しく受け取った。彼は平静を装ってはいたけれども、ひどく興奮しているのがよくわかった。

 着替えを済ましたフィアラが階下へ降りていくと、ルットの姿が消えていた。ファースに彼はどうしたのかと訊ねると、「二階だぜ」と答えたままそれきりだ。いつ二階に上がってきたのだろうかと思いながら、彼女は階段に足をかけた。
「フィアラ」
 ファースが彼女を呼び止めたので、彼女はそこで足を止めた。彼がフワフワと近づいてきて、フィアラの目の前で漂う。しばらくそのままにして時は流れた。フィアラはあえて何も訊かずに黙っていた。すると、
「フィアラ、ルットを助けてやってくれよ。おいらだけじゃ、ダメなんだよ」
「ファース、それはどういう意味なの?彼は誰に狙われているの?」
「・・・・誰に狙われているのかは知らないぜ。あんなことは今までなかったんだ」
「じゃあ、一体助けてくれってどういうこと?」
 ファースがゆっくりとかぶりを振った。
「それは、ルットが話すことなんだ。おいらが言えることじゃない」
 フィアラはゆっくり息を吐いた。
「わかったわ、一緒に来て」
 薄暗い階段はいつもより長く感じた。ルットの部屋の前に立つと、フィアラの鼓動が自然と速くなった。
「ルット」
 ドアを二回ほど叩いたが、返事はない。
「傷の手当がまだでしょ、入るわよ」
 救急箱を片手にドアを開ける。ルットは明かりもつけないまま、ベッドの縁に腰掛けている。フィアラは黙って、ランプに明かりを灯した。ファースは彼女の周りをうろうろしている。彼も緊張しているようだ。
「ルット、顔をあげて」
 救急箱をベッドの上に乗せ、自分は彼の前に膝をつく。ルットが静かに顔をあげる。フィアラの目に、首元の痛々しい切り傷が飛び込んできた。
「沁みるわよ」
 消毒をしようとする手が今頃になって震え始めた。それでもなんとか、消毒を終えると彼女は震える体を押さえることに必死になった。
「怖い?」
 ルットがやっと口を開いた。フィアラは自分の腕を抱えるようにして首を横に振った。「怖くなんかない、怖くなんか」
「震えているよ」
 彼の言葉にさらに強く腕を抱え、ルットを見た。フィアラは、怖いとは思っていなかった。ただあの時、ルットが死んでいたらと考えると震えをおさえることができないのだ。
「ごめん」
 ルットが俯きながら彼女に謝る。
「ごめん」
 もう一回・・・・。彼女の心の中になぜだか怒りが込み上げてきた。
「謝らないで!私は、怖いなんて感じていないの、ちがうの、そうじゃなくて、ただあなたが・・・・」
 興奮して言葉が続かない。フィアラは立ち上がり反対側の壁まで後ずさりをした。ルットの顔を見ることができずに俯いたまま、今度は静かに話し出した。
「あなたが死んでいたらと思ったら、体が・・・・震えるのよ」
 最後はほとんど声にならなかった。熱い涙が頬を流れるのを慌てて拭う。
「フィアラ、僕の話を聴いてくれる?」
 ルットが静かに言う。彼女は顔をあげて頷いた。
「僕には、君と同じ歳ぐらいの弟がいる。僕と弟と父と母の四人家族だった」
 フィアラは「家族だった」という部分に疑問を感じたが黙って先を促す。
「僕の両親は優秀な魔法使いと魔女なんだ。だから、誰もが僕たち兄弟に期待した。もちろん両親は一番期待していたよ。だけど」
 彼はそこで苦しげに息を吐いた。
「・・・・だけど、僕だけがその家の中で・・・・出来損ないだった」
 フィアラは彼の言葉に耳を疑った。そして思わず「できそこない」と口にだしてしまった。
「そう、僕は出来損ないだよ。昔も今も、そしてこれからもね」
 彼は自嘲的な笑みを浮かべた。「そんなことない」とフィアラは言おうとしたが、言えなかった。ルットの傷はそんなことでは癒えたりしない。逆に傷口を広げるだけだろう。
「それに比べて弟は優秀だったよ、たぶん今もね。まだ僕が一応家族の一員だったころ、なんて言われていたかわかる?」
 フィアラは激しく首を振った。わからない、わかるわけがない。
「無理はないよ、君を見ていれば家族に愛されていたことがよくわかる。僕とは違うからね。『恥さらし』って言われていた僕とは」
 フィアラは、胸に鉛が沈むような奇妙な感覚を覚えた。ルットは話続ける。
「どこにも僕の居場所はなかった。毎日毎日、泣きながら暮らしていた。そんなとき」
 そこで彼の口調が和らいだ。
「母方の祖父母が現れて、僕を引き取ってくれたんだ。僕は、二人に会ったことはなかった。『恥さらし』の僕は、あまり外に出させてもらえなかったから。それでも、二人は僕を引き取ってくれた」
 彼はそこでフィアラを見て、軽い笑みを浮かべた。自嘲的ではない、嬉しげな笑みだ。
「あんなに幸せな思いをしたのは、産まれて初めてだった。学校では、弟に会ったけれどお互いに他人も同然。そのうち、エファールと友達になった」
 しかし、なぜかルットはそこで言葉を切った。
「でもねフィアラ、彼も優秀だった。僕は耐えられなかった、怖かった、自分だけが何もできないのが、いやで堪らなかった」
 彼の声は小さかったが、フィアラの胸にはズシリと重い。
「それで、頼んだんだ。祖父母に僕を強くしてくれって、何度もお願いした、もちろん二人は反対した。『ダメだ、ルット、そんなことをしても意味がない』って。でも、僕も必死だった。ある日、二人は僕に『力』をくれた」
 フィアラは首を傾げた。『力』とは、貰えるのだろうか?その疑問に彼は気づいたのか、彼女に例のネックレスを見せた。
「これが、その『力』。これはね、ネニルとシリア、つまり祖父母二人の『力』なんだ。それからというもの、僕はクラスでもエファールと張り合えるぐらいになった。僕が学校を卒業してすぐに祖父のネニルが死んだ。エファールも旅に出て、祖母もネニルの後を追うかのように死んだ」
 彼はフィアラと視線を合わせたまま、黙っている。今度は彼女から口を開いた。
「それから、一人だったの?」
 ルットは首を小さく横に振った。
「その頃には、ファースがいた。それに、この家は祖父母の家だから、引き取ってもらってからは、ここで生活していた。だから、村の人もいた」
 フィアラはそれを聴いて少しだけホッとした。彼にそれ以上、寂しい思いをしていて欲しくはなかった。
「フィアラ」
 名前を呼ばれたので、顔をあげると目の前にルットが立っていた。
「ありがとう」
 そう言いながら、彼は彼女を抱きしめる。
「ありがとう」
 彼はしばらくの間、そのまま彼女を抱きしめていた。彼の肩が小刻みに震えるのを感じ、抱きしめかえそうとしたが彼女は恥ずかしくてそのまま黙っていた。


 次の日からは村の人の了解を得て、ルットは仕事を休むことになった。もちろん詳しいことは教えてはいないのだが、具合が良くないと伝えた。
「あんたは休むことなく頑張っていたからねえ、ゆっくり休みな」
「必要なものは、みんな揃っているからね。買い物のことは気にするんじゃない」
 村の人たちの温かい言葉はルットの心にゆっくりと染み込んでいく。
「ルット兄ちゃん、元気になってね。いっぱい寝て、いっぱい食べるといいよ」
 子供たちが口々に言い寄ってきた。
「ありがとう、みんな。早く元気になるように頑張るから、みんなも風邪ひくなよ」
 ルットは一人ずつ抱き上げながら、声をかけた。

「ルット」
 ソファーの上でボンヤリとしている彼の横にフィアラも座る。
「ねえ、私あなたに伝えたいことがあるの」
 フィアラは膝の上においた手を組んだり、崩したりと落ちつかない。
「なに?」
 ルットは優しげな、だけどどこか悲しげな瞳を彼女に向けている。フィアラは、膝に視線を落としたまま、「あのね」と切り出した。
「昨日は、あの、話してくれてありがとう。それで、私はね、ルットを、その・・・・」
 彼女がくちごもる。ルットはそんな彼女をみながら微笑んだ。
 変わっていないんだな、君は・・・・
彼の記憶が揺さぶられる。祖父母に引き取られてから、初めてリート通りに出かけたときのことだった。
小さなルットは、その通りの賑わいに驚きと恐怖を覚えていた。早く静かな村に帰りたかった。
「ルット、お前に靴を買ってやろう」
 彼の小さな手を力強く握りながら、ネニルが微笑んだ。
「それはいいわね。この先に、とてもいい靴屋さんがあるのよ。たしか、ルットよりも、もう少し小さな女の子もいたわ」
 ルットは俯いたまま歩き続けた。
「ここだよ、ルット。今日は空いているみたいだ。お客のいないうちに、決めてしまおうか」
 ネニルがそう言ってドアを開けるとチリンチリンと涼しげな音が鳴った。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
 カウンターの向こうから若くて優しげな女性が現れた。
「こんにちは、今日はこの子の靴が欲しいのだが」
 ネニルがルットを前に出そうとするが、彼は足に力を入れてそれを拒んだ。
「この子は人見知りが激しくてね。本当はとても優しくて賢いのに」
 シリアの言葉に、ルットは心の中で反論した。
 僕は賢くなんかない。僕は、出来損ないの『恥さらし』なんだ!
「あら、それなら私の娘と同じね。仲良くなれるかも」
 女性は柔らかい笑みを浮かべたまま「フィアラ、フィアラ、こっちにおいで」と奥の作業場にむかって声をかけた。すぐに、小さな女の子がカウンターの向こう側から姿を出した。
「おいで、フィアラ」
 フィアラと呼ばれた女の子は、ルットたちを見るとカウンターの後ろに隠れてしまった。母親の声に、少しだけ顔を覗かせるが、またすぐに引っ込める。
「ふふ」
 ルットの口から笑いが漏れた。無意識のことだったので、祖父母たちの驚いた様子にさえ気づかなかった。フィアラが、また顔を覗かせる。ルットとフィアラの目が合ったが、今度はお互いにそれを逸らそうとはしなかった。
「僕、靴が欲しいんだ」
 ルットがそう言うと、フィアラはひとつ頷いて奥へと戻ってしまった。
「ごめんね、フィアラったら」
「いいんですよ、奥さん。ルットも大して変わらないから」
「あなたもしかして、お腹にもう一人いらっしゃるの?」
 ネニルの問いに、フィアラの母親は顔を赤らめつつ頷いた。そして、愛しげにお腹をさする。ルットがその幸せそうな顔を不思議な思いで眺めていたところへ、なんとフィアラが戻ってきた。手には小さな靴を持っている。「はい、これお靴」
 フィアラのそれを差し出す手が小刻みに震えている。「ありがとう」とルットが受け取ると、彼女は安心したようだ。彼は靴を履くと
「僕にぴったりだ。僕、これがいい!」
 ネニルとシリアは彼の生き生きとした表情に涙ぐんだ。彼のこんな顔を見るのは初めてだ。その時、フィアラが
「それね、あのね、あたしのね・・・・」
 何か言いたげに俯きながら口ごもった。それでも、意を決したかのように顔を上げた。
「あたしの大好きなお靴なの。パパがね、一生懸命頑張って作ったんだよ」
「大事にするね」
 ルットが笑う。その頬にえくぼができると、フィアラの顔もほころんだ。
「僕はルット、君はフィアラだね」
「うん」

 場面が変わる。魔法学校で初めてできた親友に、ルットはある打ち明け話をしていた。
「そのフィアラって子には、それから会いに行っていないのか?」
 ルットがこくりと首を振る。
「会いに行ったらどうだ?そんな小さい頃から彼女が好きなんだろう?」
 親友の提案に彼は頷くことができない。
「エファール、それはできないよ。僕は自分の力では、あそこに行けない。それに、僕は『恥さらし』だ。あの子だって覚えているわけがない」
 エファールが溜め息をつく。
「ルット、お前は『恥さらし』じゃない。もっと自信を持つべきだ。そうしないと、いつまでも自由になれないぞ」
「自由?一体何から自由になるんだ」
 エファールがルットの胸に自分の拳を軽くぶつけた。
「ここからだよ、ルット。お前は、自分の心から解放されなければ前に進めないぞ」
 

「そのね、私は」
 そこで記憶から現実の世界に引き戻された。フィアラが顔をあげる。あの時と同じ強い決意の表情だ。
「私はルットを『恥さらし』だとは思えない。たとえ、魔法がうまく使えなくたって、あなたは人として大切なものをたくさん持っているわ」
 ルットが黙ったままなので彼女は続ける。
「あなたは自由になるべきよ」
 その言葉に彼は顔を歪めた。
「自由?一体何から自由になるんだ」
 そう言いながら、彼はあの時と同じだと思った。自分は前に進めていなかったのだと、彼は心の中で何度も繰り返す。
「あなたは自分の心から自由になるの。ルット、あなたは少しずつ前に進んでいるわ。だけど、あなたはいまだに過去から抜け出せていないでしょ」
「・・・・フィアラ、君はどうして僕が前に進んでいるだなんて思う?」
 彼女が微笑む。きれいだ、と彼は思った。
「あなたはたくさんの人から愛されているでしょ?それは、昔のあなたには想像もつかなかったはずよ。一人ぼっちで泣いていたあなたはもういないの」
 不意にルットの頬を熱いものが伝い落ちる。急いで目頭を押さえるが、それは止まらない。
「ごめんなさい、私、あなたのこと分かっているようなこと言って。ごめ、きゃ」
 突然ルットはフィアラを抱きしめた。そのままの格好で泣き続ける。まるで小さな少年のように、声を張り上げている。フィアラは激しく上下する背中にゆっくり腕を回した。

「いいだけ泣いて寝ちゃったよ」
 ファースがルットの周りを漂っている。フィアラはソファーの上で眠る彼に毛布を被せた。
「泣き疲れたのよ。ルットがこんなふうに泣くのは初めて?」
「うん、ネニルたちが死んだときだってあんなふうに泣かなかったぜ」
 なぜだかフィアラの頬が緩んだ。
「フィアラ」
 ファースの呼びかけに顔をむける。
「ルットのこと好きかい?」
「え・・・・」
 思いもよらなかった問いかけに、彼女は言葉を詰まらせた。
「ルットのこと好き?」
 ファースが繰り返す。フィアラは彼から顔を背けた。正直なところをいうと、彼女自身そのことについては、まったくわからないことなのだ。
「ルットのことは、嫌いじゃないわ」
 曖昧な言葉でごまかす。
「どうしてそんなことを訊くの?」
 今度は彼女が質問をする。
「おいらは、ルットに幸せになってほしい」
 そのことと先ほどの彼の質問がどう関係するのかと、フィアラは問いかけようとして彼女は口をつぐんだ。ファースは今まで見たこともないぐらい悲しそうで、それでいてどこか祈るような顔をしていたのだ。
 しばらくしてルットが目を覚ました。
「フィアラ」
 彼の小さな呼び声に彼女も目を覚ました。彼女ももう一つのソファーの上でウトウトしていたのだ。急いで彼に駆け寄る。
「ルット、起きたのね」
 彼が起き上がるのを手伝っていると、彼がいきなり彼女の腕を掴んで「そうだ」と声をあげた。
「な、なに?」
「起きてそうそうにうるさいなあ」
 同じく寝ていたファースがブツブツと文句を言いながら目を開けた。それには構わずに「フィアラ、僕決めた!夢の中で決めたんだ!」
 彼女は「そ、そう」としか言う言葉が出ない。
「来て、あ、ファースも来てくれ」
 彼はフィアラの手をひいたまま二階へと上がっていく。そして、彼の部屋の横にある空き部屋の前で止まった。フィアラの手を離し、ドアノブを回す。ドアが鈍い音をたてながら開いた。長い間、開かれたことがないようだ。部屋の中に入ると埃臭さが鼻をついた。窓から日の光が射し込んではくるものの、高い本棚にそれはほとんど隠されている。そのために部屋の中は薄暗かった。
「ここにあるはずだ」
 ルットは独り言を言いながら、本棚の本を一冊ずつ調べていく。
「何を探しているの?」
「青い背表紙の本だよ」
「そんなのたくさんあるぜ、題名とか教えてくれよ」
 ファースも本棚を上から下へと調べていく。
「何も書かれていないよ」
 変な本だと思いながらも、フィアラは背表紙の色を確認していく。
「あ、あった」
 ファースが声を出したので、ルットとフィアラもそちらへ寄った。ルットがそれを取り出して開く。驚いたことに、それは本ではなかった。中には紙切れ一枚すら挟まっていない。
「本じゃないの・・・・」
「うん、これはシリアが僕にくれたんだ。一見、本みたいだけど中は空洞の小物入れ。木でできているんだ」
 ルットはそれをフィアラに渡し、自分の首の後ろに手を回した。
「これをしまおうと思って」
 そう言って開いた彼の手の平には、あの逆三角形のネックレスがあった。フィアラとファースは驚いて彼の顔を見た。ルットは二人を見て軽く頷いた。
「フィアラ、君に言われたことをエファールにも昔言われたよ。だけどね、僕が前に進んでいると教えてくれたのは君だけだ。ありがとう」
 ルットはえくぼを作りながら、小物入れにそれをそっと入れた。フィアラの腕にズシリと重みがかかった。ルットはそれを彼女から受け取ると元の場所にしまった。
「二人とも見たよね、僕はあれをここにしまった。僕は決めたんだ」
 ルットは自分自身に語りかけるように、最後の言葉を口にした。そのままの口調でさらに続ける。
「僕は決めた、今度魔法を使うときは、自分の力で使うんだ。そうだ・・・・、僕にだってできる。もう昔の僕じゃない」
 ギュッと握られた彼の拳をフィアラが優しく自分の手で包み込む。
「そうよ、大丈夫。私も一緒よ」
「おいらもいるけど」
 ファースがふてくされて口を尖らせた。ルットとフィアラは顔を見合わせて笑った。

  
 5章  囚われのフィアラ
 ルットの特訓は朝早くから夜遅くまで続いた。その日も彼は遅くまで起きていた。ドアを叩く音がして、フィアラが顔を覗かせた。
「もう寝たら?」
「ああ、ごめん。起きていてくれたのか、ありがとう。そうだな、もう止めよう。ファースもクタクタみたいだ」
 丸テーブルの上で寝てしまっているファースを見ながら彼は肩をすくめた。
「あなたも十分疲れているみたいよ。無理は禁物、何事もほどほどにね」
 彼女は「おやすみなさい」と言って姿を消した。

 眩しいぐらいの日の光が村を照らしている。
村の中の一本道に、突然一人の青年が現れた。
「すみません」
 彼は前を行く村人に声をかける。村人は、さっきまでいなかったはずの青年に驚きのあまり声が出せないようだ。
「突然声をかけて申し訳ありません、一つお尋ねしたいのですがよろしいですか」
「あ、ああ、何かのう」
「この村に最近、女の子が来ませんでしたか?フィアラという少女なのですが、ご存知ありませんか?」
「ああ、あの子の知り合いかい?本当にいい子でね。あの子なら、この村にいる魔法使いの家にいるよ。この道を行ったところの、ルットという青年の家におるよ」
 不意に青年の目つきが変わった。
「ここには、魔法使いがいるのですか?」
「おお、おるよ。ルットといってな、あの子もいい子だ」
 青年は礼を言うと教えられた道を歩き始めた。その顔は険しく、唇がきつく結ばれているのを見れば、彼の中に何かが渦巻いていることは誰からもわかっただろう。

「フィアラ、これを持っていてくれ」
 そう言ってルットが彼女に手渡したものは、綺麗な耳飾りだった。
「これは?」
 彼女は碧い耳飾りに目をやりながら問いかけた。
「お守りだよ、また危ない目にあった時のためにね。それは、僕がシリアに貰ったものだよ」
『ルットが持っていれば、それには力が宿るだろう』
 ファースが口を挟む。意味が解らず、フィアラが小首を傾げるとルットがそれに付け足した。
「今のは、シニアの言葉だ。僕もよく解らないけれど、今はあの人の言葉を頼るしかないから」
 彼は悲しそうに笑って、小さく肩を竦めた。
「ありがとう、大切にするわ」
 フィアラが耳飾りをするのを、ルットたちは黙って見ていた。碧いそれは、彼女によく似合った。
「なんだかこの耳飾りの色って、あなたみたい」
 彼女はそう言ってルットを見た。
「どういう意味?」
「そのままよ。見ているだけで、落ち着くような、なんだか安心できるような」
 彼女の言葉はそこで途切れた。誰かがドアを叩いているのだ。三人は顔を見合わせた。誰かがルットのお見舞いにでも来てくれたのだろうか。ルットが進み出てドアを開ける。
「!」
 その途端に彼は驚きで言葉を失った。そこにいたのは
「やあ、ルット。いや、兄さん、久しぶり」
 先ほど村の老人にフィアラの居場所を尋ねたあの青年だ。
「ど・・・・、どうして」
 ルットの驚きの顔を見て青年は面白がっているようだ。
「まさか、僕もあなたにこんなところで会うだなんて夢にも思わなかった」
 そう言って、青年は部屋の中に進み入る。ルットは後ずさりをして、それを許してしまった。彼の顔には、いまや驚きのほかに恐れが含まれている。
「あいにく今日は、あなたと話している暇はなくてね。僕がここに来たのは」
 青年は後ろ手にドアを閉めながら、奥から出てきたフィアラに目をやった。
「その子に用があるのでね」
「フィアラ、知り合い?」
 ファースの問いかけに、フィアラは首を振って否定した。
「はじめまして、フィアラ。僕はルスナ・クリス、ここに居るルットの弟だ」
 ルスナの言葉に、フィアラもファースも息を飲んだ。だが、フィアラは喉にへばりついた言葉をなんとか搾り出すことができた。
「どうして・・・・私の名前を?」
 ルスナが微笑む。その笑みに彼女は恐怖を覚えて、後ずさりした。
「リントンっていう金持ちは知っているだろう。そいつに雇われたのさ、あんたを探して来いってね」
「リントン氏が・・・・・・」
「そうさ。まっ、あんたを見つけるのに苦労はしなかったよ。兄さんとは違うからね」
「やめろ、出て行け!僕の生活に入ってくるな!」
 ルットが苦痛の叫びをあげた。昔のことを思い出しているのだろうか。
「安心してよ、兄さん。言っただろう、僕はフィアラに用があるのさ」
 ルスナがフィアラの手首を掴んだ。
「や、離して」
 振りほどこうとするが、今度は後ろから押さえられて身動きが取れなくなる。
「フィアラを離せ!」
 そう叫んだファースにルスナが手をかざすと彼はそのままの姿で床に落ちた。
「ファース!」
 ルットとフィアラが同時に叫ぶ。
「安心しなよ。そいつは何十分かすれば気がつくさ」
 ルスナがフィアラを掴んだ腕に力を込めた。痛みと苦しさに、彼女が呻き声を漏らす。
「やめてくれ!やめてくれ、ルスナ。頼む、フィアラを離してくれ」
 ルスナがクスリと笑った。
「兄さん、それは無理だよ。僕も仕事なのでね。それとも、ここで決闘でもするつもりかい?『恥さらし』の兄さん」
 ルットが俯く。フィアラは怒りを覚えた。
「ルットは『恥さらし』じゃないわ。あなたよりもずっと立派な人よ!ルット、自信を持って!」
「黙れ!」
 ルスナがフィアラの意識を奪うと彼の腕の中で、彼女の力が抜けた。同時にルットの体がドア際まで吹っ飛ぶ。彼は強い衝撃に朦朧とする意識の中でフィアラの声を聞いた気がしたが、そのまま気を失った。

 フィアラが目を覚ましたのは、フカフカのベッドの上だった。ゆっくりと身を起こし、自分の着ている洋服に目を見開いた。
「何これ?」
 慌ててベッドを降りて裸足のまま、姿見の前に立つ。そこに映し出された彼女は、淡いピンク色のドレスを着ていた。
「目が覚めたかい、フィアラ」
 その声に彼女は体を硬くした。聞き覚えのある声。自分から家族を引き離した男の声にゆっくりと振り向く。
「あ・・・・」
 恐怖が彼女を襲う。リントン氏が大柄なその体をゆっくりとフィアラに近づけてくる。
「や、こ、来ないで!」
 彼女は壁伝いにリントン氏から逃れようとするが、足が思うように動かない。
「フィアラ、私から逃げられるとでも思っていたのかい?」
 彼女の目の前に立ちながら、リントン氏は大きく息を吐く。
「思っていたとおりに綺麗だ」
 そう言って、フィアラの方に手を伸ばす。
「触らないで!」
 彼女の声と同時に、リントン氏の伸ばしかけた腕が弾かれた。お互いに何が起きたのか解らずにしばらくは唖然としていたが、リントン氏が「ルスナ!」と怒鳴り声を出した。
すぐに部屋のドアが開き、ルスナは入ってきた。
「お呼びでしょうか?」
「これは一体どういうことだ!」
 リントン氏が激しい口調で彼に詰め寄る。
「申し訳ありませんが、あなたのお言葉の意味がわかりません」
「わからないだと?なぜ私がフィアラに触れることができないのかと訊いているのだ!」
「触れられない?」
 ルスナは顔をしかめながら、フィアラのほうに近づいていく。彼女は壁際で小さくなるほか術がない。ルスナが彼女に手を伸ばす。
 触らないで!
 彼女が強く心の中で叫ぶ。
「どういうことだ?」
 やはりルスナも彼女に触れることはできなかった。彼の顔が引きつる。
「どういうことだ!あんたは魔女なのか?それとも」
 彼はそこでフィアラの耳飾りに気がついた。
「あいつか?『恥さらし』の仕業なのか?」
 その言葉にフィアラはハッとして耳飾りに手をやった。そこからルットが守ってくれているのだと強く感じる。
「誰だ?その『恥さらし』とは?」
 話の内容が掴み取ることができずに、リントン氏が尋ねた。ルスナはその男に振り向き「僕の兄です」と短く答える。
「兄?それなら、そいつも魔法使いか?」
「けれど、あいつは、あいつは魔法を使えない出来損ないのはずなのに・・・・」
「ちがう・・・・」
 フィアラがポツリと呟やいた。
「彼は出来損ないじゃない。すごく強い人よ。強くて温かい、そういう人間だわ。あなたたちが馬鹿にできるような人じゃない!」
「黙れ!」
「黙らないわ!」
 彼女はルスナをきつく睨む。こんな人には負けない、その思いだけが彼女を強くしていた。
「ルットはいつだって私を大切にしてくれた。私がもう一度家族と暮らせるようにするって言ってくれたわ」
 そう言いながら彼女はリントン氏を見た。その男の顔が醜く歪み、「馬鹿なことを」と口にする。
「いいえ、彼は馬鹿じゃない。私はあの人を信じているわ。ルットは必ずここに来る!」
 ルスナが乾いた笑い声をあげた。さも愉快そうな笑いだ。
「君はあいつを知らないのか?あいつは使えない奴だ。あんたも可哀相だな、残念だけれど、あいつは来ることはできない。少なくとも、あんたの結婚式にはね」
「え?」
 彼の言葉にフィアラは顔をしかめる。
「私が・・結婚・・・・?」
「そうだ、この私とな」
 そう言ったのはあのリントン氏だ。得意げな顔でフィアラに笑いかけ、こちらに来る。
「君と私は結婚をする。家族やジャクソンたちの心配はしなくてもいい。贅沢な暮らしができるように配慮してやる」
「嫌よ!ジャクソン夫妻は?二人に会わせて!ここで働いているでしょ!こんなこと許さないわ」
「あの二人ならここにはいない。君の父親と同じ港町にやったよ。君の居場所を教えてくれないのでね」
「そんな・・・・」
 彼女の体から力が抜けて、ペタリと座り込む。
「こうなったら結婚は早いほうがいいかと思いますが?」
 ルスナが口を出す。
「そうだな。早急に式の準備をさせよう。式は、そうだ、明後日だ。フィアラ、君の誕生日だよ、最高のものにしなくては」
 リントン氏はブツブツ呟きながら部屋を出た。だが、その直前にフィアラにかかっている魔法をどうにかするようにと、ルスナに言い残していった。

 フィアラ、僕は君が・・・・
 淡い春の光がルットとフィアラを優しく包んでいる。その輝きの中で、彼女が柔らかく微笑む。ルットの胸が苦しいぐらいに締め付けられる。ゆっくりと彼女の柔らかい髪に触れようと手を伸ばしかけたその時、突然彼女は目の前から消えた。光も消え、闇が彼を襲う。と同時に何処からか声が聞こえてきた。彼のことを呼んでいるようだが、それは本当の名前ではない。
 『恥さらし』、フィアラは僕が預かるよ
 それはルスナの声だ。
 フィアラを預かる?待て、フィアラを奪わないでくれ!待って・・・・

「起きろ!起きろよ、ルット!」
 ファースが気絶しているルットの顔を何度も叩く。彼は呻き声を上げながら目を開けた。
「ファース・・・・、フィアラは?」
 彼はボンヤリとした思考のまま言葉を出す。さっきのは、悪い夢でフィアラはちゃんといるのだと心の中で呟く。
「馬鹿!目を覚ませ!フィアラはあいつに連れて行かれただろ。ほら、あの、あんたの」
「ルスナ・・・・」
 彼はどうにかして体を起こし、ドアにもたれた。体が痛い。その痛みが彼の思考を呼び覚ましていく。
「ルット、フィアラの所に行こうよ」
「・・無理だよ、ファース。僕は魔法を使えない。ルスナには適わないよ」
 頭を抱えながら彼は呻いた。そんなルットの様子を見てファースが怒りの声をあげる。
「何だよ、なんだよ、それ!フィアラのことはどうでもいいのかよ?いつまでクヨクヨしているつもりだよ!」
「じゃあ、どうすればいい?ファース、口で言うのは簡単だよ、君のようにね」
 ルットが逆上しながら立ち上がる。
「どういう意味だよ、それ?おいらの言っていることが間違っているか?図星だろ!」
「うるさい、うるさい!僕だってフィアラを助けたいよ、頭ではわかっているんだ、僕があの子を助けるべきだってことも」
「じゃあ、そうしろよ。フィアラはあんたを信じているぜ」
「!」
 ルットはハッと言葉を飲み込んだ。ファースがそこへさらに畳み掛ける。
「フィアラは、あんたを信じて待っているはずだ。あの金持ちとか、ルスナとかにどこかに閉じ込められているかもしれない。怖くて泣きたいなかでも、あの子はあんたを待っているんだよ!」
 ファースの言葉にルットは俯いたまましばらく黙っていた。だが、彼は顔を上げるとファースの名を呼んだ。その顔には強い決心が滲み出ている。
「明後日だ。明後日までに僕は自分の『力』を見つける。だから、協力してくれ」
 その言葉にファースが「待っていました」と笑った。

 フィアラは浅い眠りを何度も繰り返していた。無論、自分の意志で眠っているのではない。その短くて浅い眠りの中で彼女は何度も同じ夢を見た。それは、まだ彼女の母親が生きているころの思い出だった。
「僕はルット、君はフィアラだね」
「うん」
 幼い彼女は無邪気に笑いながら頷いた。ルットという少年は彼女のことを優しい眼差しで包んでくれていた。普段なら、人見知りで誰とも話さない彼女には初めての出来事だった。

「フィアラ、最高に綺麗だ。やはり私の花嫁にふさわしい女だ」
 侍女たちがボンヤリとしたままのフィアラに純白のウェディングドレスを着せ、彼女の長い髪を優雅に結い上げたとき、リントン氏がやってきた。この男もまた純白のタキシードを着ているが、お世辞にも似合っているとはいえないような姿である。
 リントン氏が大股でフィアラに近づく。侍女がお辞儀をしながら部屋を出た。
 やめて・・・・、こないで・・・・、ルット、あなたに会いたい・・・・、ルット・・・・、お願い、助けて・・・・
 朦朧とする意識の中で、彼女はルットの名前をひたすら呼び続ける。フィアラの耳には、あの碧いイヤリングが輝いている。それだけが、彼女とルットを繋ぐ唯一の糸だ。どんなにルスナがそれを外そうとしても、フィアラには触れることができなかった。
「旦那さま」
 そこへルスナが現れた。結婚式には参列するようで、礼服を身に着けていた。
「ああ、お前か」
 振り向いたリントン氏がそっけなく答える。
「彼女をご自分のものにする方法はお分かりですね」
「あたりまえだ、誓いの言葉のあとにするキスで、フィアラにかかったいまいましい魔法が解けるのだろう」
「その通りで」
 そこへまた侍女が現れた。
「旦那さま、式の準備が整いました。お客様もお揃いでございます」
 その言葉を聴いて、リントン氏は満足げに頷いた。


 ルットはあれから二日間、ほとんど飲まず食わずで『力』を手に入れようとしていた。もちろんファースも同じような状態だ。
「いいか、ルット、あんたにならできる!」
 ファースが励ましの言葉をかける。ルットはそれに頷き、目を閉じると意識を自分の中へと集中させた。彼の頭の中には、フィアラを助け出すこと、それ以外は何もない。
 そのとき、部屋中に激しい風が吹き荒れた。
「おい、ルット!待て、落ち着け!」
 ファースは飛ばされまいと食卓にしがみ付く。だが、彼の声はルットには届いていなかった。
 できる!!
 ルットの中に今までに感じたことがないような『力』が漲る。それを感じた次の瞬間、彼は街の賑わいを感じた。慌てて目を開けると、そこは見慣れたリート通りの路地裏だ。
「ふう、どうなるかと思った」
 ルットの横にファースも現れる。
「ファース、これは一体・・・・」
 事態を把握しきれていないルットは間抜けな声を出した。
「やったんだよ、ルット。自分の『力』を使ってここに来たんだ」
「・・・・、嘘だろ」
「嘘じゃないさ」
 ようやく実感が湧いてきたのか、ルットは顔を輝かせながら、喜びの声をあげた。だが、それも束の間、彼らは最悪の事態を耳にした。
「聞いたか?あの金持ち、若い娘を嫁にもらうらしいぜ」
「俺も、その話なら聞いたよ。結婚式は今日だよな、あの教会であげるらしいぜ」
 酔った男が赤くなった手で僅かに覗く教会の先頭を指で示す。
「不幸な花嫁だよな・・・・、ほら、あの靴屋だったところの娘だろ。すごく綺麗だったな、たしかに」
 物陰から男たちのやり取りを聞いていたルットの顔から、見る間に血の気が引いていく。
「ルット、まずいよ。急ごう」

「ここか・・・・・・」
 ルットとファースは教会の高い尖塔を見上げた。その昔、なるべく神に近づけるようにと、こういった高い尖塔を作ったのだと聞いたことがある。
「よし、行こう」
 ルットが扉の前に進み出る。
「ルット、待って」
 ファースが不安げにルットを呼び止めた。
「何?早くしないと、フィアラが・・・・」
「わかっているよ、だけど、ここにはきっとあんたの弟だっているんだ」
 ルットはファースの言いたいことがよくわかった。彼自身、ルスナに勝てる自信はない。だが、今は自分を信じるほか道はない。
「・・・・ファース、ありがとう。大丈夫だよ、君とフィアラが僕に教えてくれただろ?僕は一人じゃない、自分を信じることが大切さ。だから、大丈夫だ」
 ルットのしっかりとした口調にファースが安堵の言葉を漏らした。
「よしっ、行くぞ!」

 フィアラは自分の意志とは関係なく、神父の言葉に「はい」と短く答えた。
 いや、いや・・・・、助けて、ルット!
「それでは誓いのキスを」
 その言葉に答えて、リントン氏がフィアラの顔にかかったベールをあげた。
 やめてっ!
「待て!」
 正面の扉が大きな音をたてて開いた。それと同時に、教会のステンドグラスが光り、雷鳴が轟いた。朝はとても晴れていたはずなのに。客たちが悲鳴を上げる。
「あいつ・・・・」
 ルスナが苦い顔をしながら席から立ち上がる。突然の訪問者が赤い絨毯の上をフィアラのほうへと近づいてくる。
 ルット・・・・
 フィアラの目から涙が零れる。声には出せないけれど、喜びが全身を貫いた。
「お、お前は何者だ?」
 リントン氏がフィアラを掴んだまま後ずさる。
「フィアラを迎えにきた」
 ルットが短く答える。リントン氏の顔が一瞬引きつったが、次の瞬間には勝ち誇った笑みに変わった。
「残念だったな、フィアラは私のものだ」
 リントン氏がフィアラを抱き寄せた、と思ったらその男の体が壁際まで吹き飛んだ。客たちの間からまたもや悲鳴があがる。
「フィアラ!」
 力なく崩れる彼女をルットが抱きとめた。彼女を抱えて床に座り込んだまま、ひたすら名前を呼ぶ。
「フィアラ!フィアラ!しっかりしてくれ、目を開けてくれ」
 だが、彼女はルットにされるがままだ。
「よくここまで来たね、まだ信じられないよ、兄さん」
 冷ややかな声が降ってくる。ルットが顔をあげると、ルスナが立っていた。必死に感情を抑えているようだが、彼の顔には、悔しさと怒りと驚きが顕著に現れている。
「ルスナ、フィアラを元に戻せ」
「無理だよ、俺はそいつに何もしていないから。しいと言えば、その子の意識をなんとか眠らせているだけさ。目覚めさせる方法はあんたが見つければいい。できるならね」
 ルスナの答えにルットが顔をしかめる。
「その子から記憶を奪ってやろうとしたのに、触れることはおろか、魔法すら使えなかった・・・・」
 ルットはしばらく黙っていたが、顔をおろしてフィアラを見た。彼女の耳に、あのイヤリングが光っている。途端に、彼はハッとした。
「もしかして、このイヤリングが!」
「・・・・ふざけた話だ。この俺が『恥さらし』のあんたの魔法を破ることができないとはね」
「僕は『恥さらし』じゃないよ」
 きっぱりと言い切って、ルットはルスナを見上げた。
「僕は『恥さらし』じゃない。僕はルット・クリス、ルスナ、お前と同じ魔法使いだ」
 ルスナが唇を強く噛んだ。と突然、
「ルスナ、今度僕の家に来るといい」
 兄からの言葉にルスナは顔をしかめ、「どういうことだ?」と問う。
「お前には、何か温かいものが必要だよ。昔の僕みたいにね。お前ならいつだって歓迎するよ、フィアラとファースと一緒にね」
「俺をからかっているのか?」
「まさか、僕はお前から魔法を学びたいのさ。まだまだ半人前だからね、弟のお前から教わるのが、一番だろう?」
 ルスナの目にうっすらと涙が溜まったが、彼はそれをうまく隠した。
「で、兄さんは俺に何を教えてくれる?」
「そうだな、料理、洗濯、掃除の仕方、それから子供たちとの遊び方とか」
 ルスナが小さく笑った。冷やかしでもなんでもない、楽しげな笑いだった。
「気がむいたら・・・・行ってやる。それまで、基礎的知識は叩きこんでおけよ」
「了解」
「・・・・兄さん、あんた変わったね」
ルスナが呟く。
「たくさんの人のおかげでね」
 ルスナは少し悲しげな表情でルットを見、それからフィアラを見た。そして、彼はその場から姿を消した。消える瞬間に唇が「ごめん」と動いたのを、ルットは見逃さなかった。
「ルット!」
 いつの間にかファースが入ってきていた。
「ファース、派手な演出をありがとう。おかげでかっこよく登場できたみたいだ」
「だろ、さすがおいらだよな。て、ちがうよ。あいつは?」
「ん?ルスナは帰ったよ。今度家に来るように言っといた」
 ルットは能天気に答えた。
「はあ?ルット、頭大丈夫か?まあ、いいや、あのいやらしい金持ちはそこの壁際で伸びているし。ねえ、フィアラは、どうして寝ているの?」
 ルットの顔から笑顔が消え、不安そうな表情になる。
「・・・・どうすればいいんだろう?フィアラを起こすのには、どんな魔法を使うのかな?」
「・・、ルット、あんたシリアに昔、絵本読んでもらっていただろ?」
 ルットは軽く頷いた。それとこれと、何の関係があるのだろうか?
「ルットが一番好きだった絵本覚えているかな?」
 ファースの問いかけに、ルットは思い出をかき集める。
 たしか、すごく素敵な話だと思った。あの頃、僕は自分もいつかこんなに素敵な男の人になりたいと思っていたんだ・・・・
「あっ!」
「思い出した?」
「ああ、思い出せた。たしか、魔女に騙されたお姫様の話だ。お姫様は、愛する王子様に助けられる、ちがった?」
「そうだよ、で、その方法も思い出したよな。それなら、フィアラを起こせるだろ」
「・・・・、ファース、あの話のお姫様と王子様は愛し合っていたんだ」
「だから、問題ないだろ。ルット、おいらは、フィアラはあんたのこと好きだと思うぜ。野生の感がそういっているよ」
 ルットはフィアラに視線を落とす。ファースの言うことは本当だろうかと思いつつも、彼は覚悟を決めた。
 思いは行動にしなければ伝わらない、それはネニルが彼に何度も教えたことの一つだった。
「フィアラ、・・・・僕は君が好きだ。初めて会ったあの日から、ずっと好きだ」
 そして彼女の唇に自分の唇を軽く重ねる。 
 フィアラ、君を愛している・・・・
 そのまま力の抜けたフィアラの手を握る。
と、僅かに、彼女が握り返してきた。慌てて彼女から顔を離す。
「フィアラ・・・・」
 恐る恐る名前を呼ぶ。彼女がゆっくりと目を開けた。そして、ルットに視線を移す。
「ルット・・・・」
 彼女は空いているほうの手を彼に伸ばす。
「私、あなたのことを待っていたの。ずっと、ずっと昔から」
 彼はハッとして彼女の手を力強く握りなおした。
「待たせて、ごめん」
 彼女は弱弱しく微笑むと軽く首を横に振った。
「来てくれてありがとう」


 ルットは自分の寝室にフィアラを運び、衰弱しきった彼女をベッドに横たえた。
 それから、村の女性にフィアラを着替えさせてもらいながら、自分は温かいスープを用意した。
「ルット、フィアラの着替えは終わったよ」
「ありがとう、クレア」
「あなたもあの子も大変だね」
 クレアの言葉にルットは軽く笑った。
「いつでも私たちに頼っておいでね。みんなで支えてあげるから」
「ありがとう、クレア」
 ルットはクレアを見送るとフィアラの元へと階段を上がった。
「ファース、フィアラは?」
「寝ているよ、でも大丈夫そうだ」
 ルットが「よかった」と呟き、フィアラの寝顔にまたキスをした。



   6章 再会
 数日後には、フィアラの体力も戻り、平和な毎日が戻ってきた。
「ルット、今日から仕事復帰ね」
 フィアラが掃除の手を止めて、彼に言う。
「まあね」
 ルットは嬉しそうにウィンクしてみせた。
 
 ルットを見送り、フィアラが子供たちの方を振り向く。
「さあて、今日は何して遊ぼうか?」
 子供たちが一斉に手を上げる。
「鬼ごっこ、鬼ごっこ」
「やだ、かくれんぼがいいもん」
「あたしは、お絵かきがいいのぉ」
 久しぶりにフィアラやファースと遊べるのがよほど嬉しいのだろう。
「はいはい、じゃあ順番ね」

 夕暮れが近づいてきた。空が朱色に染まりはじめ、頬を撫でる風が温かさを失い、冷たい夜風に変わり始める。
「また明日ね」
 子供たちを見送り、フィアラとファースも家に帰った。暖炉に薪をくべ、ガス灯を灯す。
「ルット、遅いわね」
 フィアラが不安げに窓の外に目をやる。
「大丈夫だって。ちゃんと帰ってくるから」
 ファースが暢気に答え、ソファーの上で大欠伸をしながら伸びをした。
「そうね。ルットも疲れて帰って来るだろうし、晩御飯の準備でもしようか」
「いいね、おいらお腹ペコペコだよ」
 フィアラが重い鍋を持ち上げたとき、玄関が勢いよく開き、彼女は驚いてそれを落としそうになった。
「ルット、驚かすなよ」
 ファースがブツブツ文句を言ったが、当の本人は気にした様子がない。
「お帰りなさい、ルット。これから夕飯の支度をするところなの。今日、バンヤさんが野菜を分けてくれたからサラダとスープでいいかしら?」
 ところがルットは、入り口を開けたまま部屋の中に入ってくると、フィアラの手から鍋を受け取り、しまってしまった。
「フィアラ、それどころじゃないんだ!来て、君に見せたいものがある」
 興奮気味の彼は、困惑している彼女の手を引いて外へ連れ出した。
「ルット、おいらは腹ペコだぜ、あとにしてくれよ」
 後ろからついてきたファースが抗議の声をあげるが、彼はそれを無視して「フィアラ、その格好じゃ寒そうだね」と言ってショールを持ってきて彼女にかけた。
「ルット、どこへ行くの?」
「いいから、ほら足元に注意して。ファース、おいで」
 彼は、フィアラの手を強く握り、ファースを自分の肩に乗せた。
「よし、行くぞ」

 フィアラは何が起こったのか理解できなかった。なぜ、自分はここに居るのだろうか、夢なのだろうかと頬をつねる。
「いたっ」
 つねった頬が痛い。
「フィアラ、何やっているのさ?」
 ルットが驚いて彼女の頬に手をやった。
「だって、ここリート通りの路地裏じゃない。だから、夢かなと思って」
「夢じゃないよ、おいで」
 ルットが彼女の手を優しく握り、通りへと導く。もう日が暮れて、辺りはガス灯のあかりがあるだけだ。人通りもない。
「ルット、どうしてここに来たの?」
 フィアラも疑問に思っていたことを、ファースが尋ねた。
「もうすぐわかるよ」
 ファースは納得のいかない顔つきで、ルットの肩を降りた。
「ここだ」
 ルットが一軒の建物の前で立ち止まる。
「ルット、こ、ここ・・・・、どうして」
 そこはフィアラの慣れ親しんだお店でもあり、家でもある建物だった。カーテンを閉めてある窓からは、うっすらと明かりが漏れている。
「だれかいるの?」
 ルットを見上げると、彼は意味ありげにドアのほうを顎でしゃくった。フィアラは彼の手を離すと、恐る恐る扉を開ける。
 チリンチリン
 懐かしい音がした。思い切ってドアを開けると
「お姉ちゃん!」
 誰かが勢いよくフィアラに抱きついてきた。
「ピ、ピリー?」
 少年がフィアラから離れる。
「本当にピリーなの?」
「うんっ!背がすごく伸びただろ」
 ピリーが無邪気に笑う。
「おかえり、フィアラ」
 ハッと声のしたほうを見ると、そこにはジャクソン夫妻と、
「お父さん!」
 フィアラはルットたちのことを忘れて父親に抱きついた。
「フィアラ、すまなかった。辛い思いをさせたね」
 父親の腕の中で彼女は小さく首を振る。涙が後から後から流れてくる。
「お父さんも、エミリーもベンもピリーもどうして?」
 しばらくして落ち着きを取り戻したフィアラが四人を交互に見ながら首を傾げた。
「彼のおかげよ」
 エミリーが微笑みながら、示したのは
「ルット・・・・、あなたなの?」
 入り口付近に立っていたルットがにこやかに笑いながら、頷く。
「言っただろ?また、君が家族と暮らせるように手を貸すって」
 ルットの言葉にファースも頷いた。
「ルットは約束を守れたわけだ」
 ファースが偉そうに言う。
「うわあ、君すごい!」
 ピリーが感嘆の声をあげて、ファースに近づく。
「うわあ、君、雲の生き物?ねえ、君の名前は?」
 ファースはピリーの反応に驚いたようだ。無理もない。ファースが初対面の人間にこんなふうに反応されたのは初めてのことだ。
「・・おいらは、ファース」
「ファースか、僕はピリー。よろしく」
 ピリーが自分より高いところにいるファースに手を伸ばし、握手を求める。ファースは嬉しそうにそれにこたえた。
「わ、フワフワ。お父さん、ファースはフワフワだよ」
 無邪気な少年に微笑みながら、父親はルットに頭をさげた。
「本当にありがとうございます。どうやってお礼をしたらいいか」
「いえ、お礼はいりません。僕は、あなたのお嬢さんに助けていただいた、そのお礼がこれなんです」
 父親はそれでもお礼がしたいと言い張った。ジャクソン夫妻もそれに加わる。
「それじゃ、僕に靴を作ってはいただけませんか?」
「靴ですか?」
 父親は意外な申し出に戸惑った。
「はい、僕は昔ここで靴を買ってもらったことがあります。あの時と同じ靴を作っていただきたいのです、その時の靴は今度お持ちします」
 そう言ってルットはフィアラをチラッと見た。彼女もこちらを見ていた。
「お父さん、僕、もう一度お店をやりたい」
 それまでファースと遊んでいた少年が突如言い出したことに誰しもが驚く。
「僕、もう一度靴屋をやりたい」
「僕も君の意見に賛成だよ、ピリー」
 少年がパアっと顔を輝かせながらルットを見た。そんなピリーに彼は微笑みかける。
「それなら私の意見も取り入れてもらえるかしら?」
 フィアラもこの意見には賛成のようだ。
「外で、村の人たちが作った野菜なんかを売るのよ。そうすれば、中のお店にも寄ってみようと思うかもしれないわ」
「お姉ちゃん、それいいね」
 フィアラは得意げにピリーにウィンクする。
「・・・・そうしたいところだが、うまくいくかどうか」
 父親が顔を伏せながら言う。
「祖父が僕に教えてくれたことの中にこんなことがあります。『思いは行動にしなければ意味がないんだ、思ったことは口にして、行動する。それが、生きているうちの楽しみの一つさ』って、言っていました」
「お父さん、大丈夫よ。みんないるわ、ね、エミリー、ベン」
 二人が頷く。
「フィアラもピリーもいつの間にか大きくなった・・・・。わかった、やってみよう」
 フィアラとピリーが手を取り合って喜ぶ。
「ルットさん、ありがとう、本当にありがとうございます」
「僕は当たり前のことをしたまでです。それから、できればルットって呼んでください」
 それから彼は、ファースを呼んだ。
「それでは今日は失礼します」
 ルットはファースを連れて出て行こうとした。フィアラが慌てて彼を呼び止める。
「君は家族といたほうがいいよ。家族といられることはこの上ない幸せだからね。また明日来るから」
 そう言い残して彼は出ていった。後に残されたフィアラは呆然と立っている。
「フィアラ」
 父親の呼びかけに我に返り振り向く。
「お父さん、あたし」
「行きなさい」
「え?」
「フィアラがそうしたいのなら、行きなさい。立派な青年だ、お前を預けておいても心配はいらないだろう」
 父親の言葉にフィアラは涙ぐんだ。
「ありがとう、お父さん」
 もう一度父親を抱きしめると、彼女は外へ飛び出した。
「ルット!待って、ルット!」
 遠くに見える小さな人影が振り向いた。フィアラは駆け出したものの、勢いあまってつんのめる。
「危ない!」
 人影が彼女を支える。
「お願い、ルット、私を置いていかないで。あなたの傍にいたいの、お願い」
 そのままの体勢でフィアラは言いながら涙を流す。
「あ~あ、フィアラを泣かせたよ」
 ルットの肩の上からファースが呆れた声を出した。
「ごめん、フィアラ。ほら立って」 
 彼女を立ち上がらせる。フィアラはルットの袖をしっかり握ったままだ。
「君を泣かせるつもりはなかった、本当にね。僕はフィアラが、家族といるほうがいいのかもしれないと思っただけなんだ」
 フィアラの頬を流れる涙を拭ってやると彼女は小さな声で「バカ」と言った。
「うん、僕がばかだった。帰ろう、フィアラ、外は寒いよ」


   7章  エファール再び
 次の日は今にも空が泣き出しそうな曇り空だった。
 フィアラがバスケット一杯に詰まった野菜を運びながら後ろを振り返った。
「ルット、大丈夫?」
 彼女の後ろから、これまたたくさん荷物を持ったルットが歩いている。
「だ、い丈夫」
 彼が息を切らしながら答えるので、その言葉には説得力がない。
「ほら、しっかりしろよ、情けないな」
 ファースが彼の周りを飛び回る。
「人の苦労も知らないで」
 ルットはファースを軽く睨みながらため息をついた。


 フィアラたち三人がリート通りから村に戻ると間もなく大粒の雨が降り出した。
「早めに荷物を運んでおいて正解だったわ」
 フィアラが窓の外を見ながら満足げに頷いた。
「ピリーも喜んでいたよね」
 ファースはピリーとすっかり仲良くなったようだ。今日も二人で何やら楽しげに話していたので、ファースはご機嫌だ。
「ええ。でも、あんなにたくさん野菜やなんやらもらっちゃって、本当によかったのかしら?」
 彼女が不安そうにルットに問いかける。
「大丈夫だよ、村のみんなが好意でくれたんだから。お店が始められるようになるまで、あれなら不自由もないだろう?」
 ルットがニッコリ笑う。
「そうね、あとでみんなにもう一度お礼を言うわ。それから、お父さんたちに靴を作ってもらおうかしら」
 彼女の提案にルットが賛成の声を出した。
「そういえば、ルット、よくあの時の靴を持っていたわね」
 ルットはフィアラの父親に、思い出の靴を預けてきたのだ。もちろんもう一度、同じものを作ってもらうためだ。
「まあね、あれは僕にとって大切な宝物だからね」
 そう言って小さくウィンクした。
「カビも生えていなかったし、お父さんも驚いていたのよ。『ここまで靴を大事にする人は初めてだ』って」
 フィアラの言葉にルットは得意そうに咳払いをしてみせた。
「そりゃあ、フィアラ、あれは初恋の相手に選んでもらった靴だぜ。大切に、んがっ!」
 ルットが慌ててファースの口を押さえる。ファースがモガモガと何か言いながら、必死に抵抗している。おそらく、はなせよとでも言っているのだろう。
「黙れよ、ファース、お前ったら何でも話すんだからな。このおしゃべり!」
 ようやく解放されたファースは慌ててルットの手の届かないところへ浮上した。
「ったく、何するのさ。おしゃべりに育てたのはルットだろ。小さい頃から、おいらはあんたの話し相手だったからね」
 しばらく二人は言い合いを続けていた。フィアラはそれがおかしくて、二人に背を向けて笑っていた。
 ルットとファースのやり取りは、まるで兄弟のようだ。ルットがそういった一面を見せるのは、ファースだけだったのだろう。そして、今はフィアラも彼の意外な一面を知っている数少ない人の中の一人なのだ。
「ねえ、ルット」
 ファースを捕まえて取っ組み合いをはじめた彼に、フィアラが不意に声をかけた。ルットはファースを離すとフィアラに顔を向ける。
「どうしてあなたはずっと私のところへ来てくれなかったの?」
 あまりにも唐突な問いかけにルットは意味が理解できない。
「へ?どういうこと?」
「つまりね、あなたは小さいころ一度だけ私の所へ来てくれたでしょ?そのあとは、どうしてリート通りに来ても私の所に顔を見せてもくれなかったの?」
 その言葉にルットが真面目な顔つきになった。
「そんな泣きそうな顔をしないでよ、フィアラ」
 彼にそう言われて、フィアラは顔に手をやった。自分ではそんな顔をしているとは思ってもいなかったのだ。
「僕はね、君に初めてあった日に誓ったんだ。今度、君に会うときは、立派な魔法使いになってからにしようって」
 ルットが悲しそうに笑いながら、フィアラの目の前に立つ。
「本当は、君のところに行きたくて堪らなかった、だけど、君に認められる自信がなかった。ほら、僕は」
 彼女はそこで彼の言葉を唇で遮った。
「大好きよ」
 彼の腰に抱きついて彼女が言った。
「うん、僕も君が大好きだ」
 彼も彼女を抱きしめる。
「外は雨だっていうのに、この家の中は晴天だぜ」
 ファースが小声でそう言ったのを二人は聞き逃さなかった。

 昨日からの雨は止まずに降り続けていた。
「ああ、雨はいやだ」
 ファースが嘆きの声をあげたので、フィアラはその理由を問うてみる。
「だって、雨の日は湿気が多いじゃないか。だから、おいらの体が重いのさ」
 確かにファースの体は見るからに重そうだ。
「火の近くに行ってみたら?」
 フィアラの提案にファースが否定の意を示す。
「いやだね、そんなことしたら、おいらの体が小さくなっちゃう」
 雲でいることは、なかなか大変なものなのね、と心の中で呟く。
「ふうー、やっと見つけた」
 そう言いながらルットが二階から降りてきた。
「見つかったの?」
「まあね、ほらこれ」
 ルットが分厚い本を机におろした。彼は昼ごろから、魔法学校で使っていた教科書を探していたのだ。
「こんなに厚いの?」
「うん、この他にもまだあるよ」
 魔法使いになるのも大変なものね、とフィアラはまたまた心の中で呟く。
「うっわ、ルット覚えられるのかよ?」
 ファースがフラフラとこちらへ来てそれを覗いた。
「もちろん」
「自信あるのかよ」
「いや、それは僕にもわからない。だけど、やってみなくちゃわからないだろ」
 なぜだかルットは楽しげだ。どうやら前向きな考え方は、彼の意欲的なものも変えたようだ。
「よし、さっそくやってみるか」
 ルットが辞書のような教科書を開く。フィアラとファースが、それに何が書かれているのかと興味津々で覗いたとき、誰かがドアを叩いた。
 ルットは教科書から顔をあげて、ドアを開けた。
「やあ、ルット」
 そこに居たのはなんとエファールである。
「エファール、一体どうした?ほら、入って。君が来る日は雨ばかりだな」
 驚きつつも親友を部屋の中に招き入れる。「本当にそのようだね。やあ、フィアラ、ファース、お邪魔するよ」
「まあ、こんにちは」
「エファール、また来てくれたの」
 机の上にいたファースに軽く触れたエファールが顔をしかめた。
「ファース、なんだか湿っているな」
「だって雨だもん」
「この間もそうだったけれど、もう少しマシだったじゃないか」
「今日はこの間より湿気がひどいのさ」
 ファースが湿気で膨れた体をさらに大きくしてみせた。
「はは、雲でいるのも大変だな」
 エファールが笑いながら言うので、ファースは笑い事じゃないのだといった顔をした。
「はい、これ紅茶です」
 フィアラが湯気のたっているカップを渡すと彼は、ホッとしたようにソファーに座った。
「エファール、今日はどうしたの?この間来てから、あんまり経っていないけど?」
 ルットが彼のむかえに腰をおろし、尋ねる。
 エファールがなんと言ったらいいのか言葉に困っているようだ。ルットはこんな友を見たことがなかった。
「何かあったのか?」
 不安そうな友の声にエファールが首を振る。
「いや、なに、別になにがあったというわけじゃない。ただ、お前に会いたくなっただけだよ」
 嬉しいことを言ってくれるとは思いつつも、ルットはやはりエファールの態度が気にかかった。
 まるで何かを心配していたような顔だ。そう思ってエファールの顔をジッと見ていると、彼がカップから顔をあげた。
「何かついているか?」
 慌てて首を振る。
「あ、エファールは大丈夫だったか?」
 そう訊かれてエファールがビクついた様に思えたが、自分が唐突に質問しすぎたのだとルットは慌てて付け加える。
「いや、この間、君が来たとき」
 ルットはあの日の出来事をエファールに詳しく話した。彼が姿を消した途端に、自分たちに誰かが襲い掛かってきたことを、あのネックレスには触れずに話した。
「そ、それで怪我はなかったのか」
 話を聴き終えた彼の顔からは血の気が引いていた。
「ああ、けっこう危なかったけどね」
 エファールが安堵の息を吐く。
「それじゃあ、エファールは大丈夫だったんだね」
 エファールが頷いたので、ルットが「よかった」と微笑む。
 そのとき、窓の外が一瞬明るく光った。途端に大きな雷鳴が鳴り響いた。あまりの大きさに窓ガラスが音をたて、フィアラが小さく悲鳴をあげた。
「大丈夫だよ、フィアラ」
 ルットが隣に座っている彼女の肩を優しく抱く。また、雷鳴。フィアラがルットの腕の中で縮みあがった。
「ルット、お前もしかして・・・・」
 エファールが驚いた顔をしながらルットを見た。
「うん、そうなんだ。一応、僕たちうまくいっているよ」
 ルットがはにかんだ。エファールはそんな友の幸せを嬉しく思い、「よかったな」と笑いかける。
「わ、また光った」
 ファースの言葉は雷鳴に掻き消された。
「いきなりひどくなったな」
 ルットが真面目な顔で言う。エファールも真面目な顔で頷いた。
「外も暗くなってきた」
 フィアラが離れたのでルットがガス灯をつけるために立ち上がった。
「それじゃあ、このへんで失礼するよ」
 立ち上がったエファールに残りの三人が驚く。 
「泊まっていけよ」
 ルットの言葉にフィアラとファースも相槌をうった。
「いや、しかし、お前に迷惑をかけるわけにはいかないよ」
「エファール、何言ってる。僕が迷惑だと思うはずがないだろ」
 ルットが少々気を悪くしたようだ。ムッとした顔が何処となく幼く見える。
「そうだな、お前が私を迷惑がったことは一度もない」 
 エファールはルットを見ることもせずに、モゴモゴとそう言った。
「だから、決まりだ。いいね、こんな雷雨の中に大切な友人を送り返すことはしたくない。いくら魔法が使えるからといってもね」
 強引にその場を押し切った友人にエファールは返す言葉がなかった。

 フィアラは、その日の晩がとても楽しい一時になったと心の底から感じたまま、ベッドの中に潜り込んだ。
 まさかルットが、友人の不審な点を見つけたとは露ほども思っていなかった。事実、ルットは普段と変わらぬ様子でよく食べたし、よく笑った。
「ルット、昔はそんなに食べなかったよな。今頃になって成長期・・・・じゃないな」
 エファールは夕食の席でルットを見、それからフィアラを見てそう言っていた。その顔には笑みがこぼれていた。
 二人は本当に仲がいいのね。
 そう思うとフィアラの心が温かくなった。ベッドの中で一人微笑むと、彼女は静かに目を閉じた。



  8章 見えない敵の姿
 それは真夜中のことだった。フィアラは誰かがドアの外で動く足音で目が覚めた。
 ん・・・・、ルット?
 半ば寝ぼけたままで体を半分起こす。
 エファールかしら?
 耳を澄ましても何も聞こえない。ただ闇があるだけだ。
 何かしら、なんだか胸騒ぎがする。
 フィアラはベッドから出ると明かりを点ける。その明るさに目が眩んだ。
 ドアをそっと開けると、自分の影が向かえの部屋のドアにぬっと伸びた。
 ギシッと音がした。叫び声をあげそうになるのを、口を押さえて堪える。
 音がしたほうを恐る恐る振り返り、彼女は息を呑んだ。
 エファール! 
 エファールは空き部屋の前に立っている。彼の様子は誰が見てもおかしいと思うだろう。
 まるで何かに憑かれてでもいるようだ。彼が魔法で作り出したのであろう小さな光が、その顔を不気味に照らし出す。
 こわい・・・・
 フィアラは口に当てた手に力を込めた。そうしないと、ルットのことを呼んでしまいそうだ。
 その時、向かえのドアが静かに開き、ルットとファースが顔を出した。二人ともフィアラを見て、驚いたようだ。
 不安げな彼女にルットはそっと近づき、肩を抱く。フィアラはホッとして体の力を抜いた。
「エファール」
 ルットが呼ぶと彼は我に返ったように振り返った。
「君が、犯人だろ」
 ルットが短く言う。その声は、フィアラの知っているルットとは違った。冷たくて、激しい怒りを含んだ声だ。
「ルット、待ってくれ」
「僕は、昨日君が来たときからそう思っていたんだ。君の様子はおかしかったから」
 激しい口調にフィアラは驚いて彼を見上げる。
 何を言っているの?
「エファール、君がこの間僕の所に来てくれて本当に嬉しかった。だけど、君は・・・・、君は・・・・、僕に会いに来たわけじゃなかったんだ!」
「待ってくれ、ルット。それは誤解だ。私は、本当に」
「黙れ!」
 ルットが言葉でそれを遮る。
「君は、あのネックレスが目当てだった。そうだろう?僕は、それなのに、君が会いに来てくれたと思って」
 ルットの言葉はそこで途切れた。激しい動揺、悲しみ、怒り、それらがいっぺんに彼を襲っていた。それが、フィアラにも伝わる。
 フィアラもようやく、彼の言っていることが理解できた。だが、信じられなかった。
 ルットは、あの時の見えない敵の正体がエファールだと・・・・。
 まさか、そんなはずはないと思った。エファールがルットを心底大切に思っていることは、間違いないはずだ。
 だけど、とフィアラは思う。
 ルットはエファールをよく知っている。その彼がここまで言うのだから、間違ってはいないのかもしれない。
 フィアラが瞬きをした一瞬に、彼女は例の空き部屋の中にいた。ルットが明かりを作り出し、部屋の中を照らす。
「フィアラ、隠れていて」
 ルットは彼女を本棚の後ろに押し入れ、自分はあの木箱を取り出した。
「ルット、来るぞ!」
 ドアの前で守りをしていたファースが、そこを離れたと同時に、扉が勢いよく開いた。
「ルット、話を」
 エファールの言葉がそこで途切れ、目がルットから彼の手の中のものへと移った。
「君が欲しがっているのはこれだろう」
 ルットがネックレスを持ち上げる。その手から木箱が音をたてて落ちた。
「それは・・・・」
 エファールが一歩前に出る。その顔に一瞬不気味な陰りが差した。
「君だけは昔から、僕の味方だと思っていたけれど・・・・、どうやら間違ったみたいだね」
 ルットはそのままの姿勢で静かに言った。エファールの足が止まる。視線がルットに移った。
「私は、お前が、それのおかげで力を得たことを知っていた」
 その言葉にルットの顔が歪んだ。
「ずっとお前が羨ましかった」
「僕が?僕が羨ましい?なぜだ?」
「ルット、お前は、何の努力もしないで、『力』を手に入れた!私が、苦労して、手に入れたものをお前は」
 エファールが厳しい視線をルットに向ける。
「お前は苦労なしで、自分のものにしたんだ!」
 ルットが唇を噛み締める。おろした腕が震えていた。それに合わせて、ネックレスに陰りが差す。
「私は、我慢した。お前からその『力』を奪えば、何も無くなる。そう思って、ずっと辛抱した」
「エファール、僕は、僕はそんなことには気づいていなかった」
 エファールが軽く笑った。嘲笑の笑み。
「だろうな。お前は、自分のことばかりだった」
 ルットが俯く。
「卒業と同時に、私が旅に出たのはお前から離れるため、いや、その『力』から離れるためだった。そうしないと、恐らく私は」
 エファールの唇が動いた。声には出さない言葉が確かにこう言った。
 ルット、お前を殺していた
「!」
 驚愕の事実にルットがネックレスを落とした。
 本棚の陰に隠れているフィアラはきつく目を閉じた。これ以上、二人が苦しむのを見たくなかった。
 フィアラさん、フィアラさん
 誰かに呼ばれて彼女は目を開けた。目の前に、老夫婦が立っていた。
 品のいい婦人が彼女の前に膝をついた。
「もしかして・・・・、ルットの・・」
 婦人が柔らかく微笑みながら頷いた。
「ルットの祖母です」
 フィアラは目を疑った。ルットの祖父母は死んだはずだ。そこで彼女は気がついた。
 透けている?
 フィアラの顔に驚きを読み取ったシリアがまた頷いた。
「私たちの肉体はここにはありません。言うならば、魂、とでもいうべきかしら」
 シリアは無邪気に微笑んだ。その顔はルットにそっくりだ。
「フィアラさん」
 それまで黙っていたネニルが口を開いた。フィアラとシリアが立ち上がる。
「どうか、もう一度あの子を、救ってはいただけないだろうか」
「救う?」
「あなたのおかげで、ルットは変わった。本当に驚くほどに変わった。だから、もう一度」
 フィアラはネニルが言い終わらないうちに頷いた。
「何をすれば?どうすれば、彼を救えますか?ルットだけじゃありません、エファールも」
「ネックレスを、壊していただきたいの」
 シリアの言葉に目を見開く。
「壊したら、あなたたちはどうなりますか?」
 震える声で尋ねる。
「自由になれると思うわ」
 どこか悲しげにシリアが言う。
「でも、ルットは、彼はあのネックレスにあなたたちを感じていたと思うんです。確かなことはわからないけれど、だけど」
 フィアラの言葉をシリアが優しく遮った。触れられないはずの手が彼女の頬を撫でる。
 温かい・・・・
 フィアラの頬を涙が伝った。
 ルットはこの温かさをずっと感じていたんだ。あのネックレスから・・・・
 シリアを真正面から見据え、頷いた。
「やってみます」
 その時、誰かの体が壁にぶつかる重い音がした。慌てて、本棚の陰から飛び出る。
「ルット!」
 ルットが体を起こす。
「来ちゃダメだ。隠れていて」
 その言葉を無視して、フィアラは彼の目の前に立った。手を広げ、エファールの視線を捉える。
「やめて、もうやめて。あなただってこんなことしたくないでしょ!」
 エファールの視線がぶれた。
「あなたは、ルットが大切だから、だから、彼から離れていたのよね?そうでしょ!」
「ちが」
「違うなんて言わせないわ。あなたがルットと話すときの目は、憎しみのある目じゃなかった」
 エファールは彼女の視線から逃れるかのように顔を伏せた。
「フィアラ、伏せろ!」
 ルットはそう叫ぶと同時に彼女を後ろから抱え込む。
 何かが落ちる音がした。ルットとフィアラが目を開けると、ファースが床の上に倒れていた。
「ファース!」
 ルットが悲鳴に近い声をあげて、彼を抱き上げる。ファースは目を開かない。
「エファール、よくも」
 ルットが激しい怒りをエファールに向ける。
「許さない」
 そう言って、ルットが片手をエファールにかざす。
「やめて!」
 魔法と魔法がぶつかりあうと同時に、フィアラはネックレスを床に叩きつけた。
 激しい風が巻き起こる。フィアラはあまりの強さに壁際に吹き飛ばされ、気を失った。

 ルットとエファールは虹色の光の中にいた。自分たちがとても小さいことに気がつき、お互いに顔を見合わせる。
「ルット」
 懐かしい声が、自分を呼んだ。
「シリア、ネニル・・・・」
 二人の目の前に、淡い輝きを放つ、ネニルとシリアが現れた。
「久しぶりね、二人とも」
 そう言いながら、シリアはルットとエファールの手を取り、握らせた。
 二人の体に電気を流されたようなショックが走った。
 忘れていた思い出が体中を突き抜ける。
「二人とも、馬鹿ね」
 深くため息をつきながら、シリアが微笑んだ。
「あなたたちは知っているはずよ。『力』なんかより、ずっと大切なものを」
「だが、お互いにお互いを知りすぎていたな。だから、嫉妬もするし、憎しみも芽生える」
 ネニルが懐かしげに言った。自分にもそういった経験があったのかもしれない。
「それでも、変わらない『思い』があるはずだ。そうだね?」
 ネニルの問いに、ルットとエファールが頷く。握り合った手に力を込めた。
「それなら、もう大丈夫ね」
 そう言ってシリアはルットを抱きしめた。
「ありがとう、シリア、ネニル」
「フィアラさんや、ファースやエファール、それから村の人たちを大切にするのよ」
「うん」
 シリアはルットから離れると、エファールも優しく抱きしめた。
「ルットをよろしくね」
「はい」
 彼女はエファールから離れ、ネニルと腕を組んだ。
「さようなら、シリア、ネニル」
 ルットの目から涙が溢れる。小さな手で拭っても拭ってもそれは止まらなかった。
「ルット、戻ろう」
 小さなエファールの手が差し出される。ルットは頷くと、その手を握った。








 9章  再び
 その日は、エファールの旅立ちの日に相応しい天気だった。
「三人とも、しばらくの間世話になった。ありがとう」
「何言ってる、親友だ。当たり前だろう」
 ルットの言葉にエファールが涙ぐむ。
「いろいろとすまな」
「お互い様だ。親友ならではの、醍醐味だったのさ」
 エファールの言葉を遮りながら、ルットが笑って言った。
「そうだな。私たちは、最高の親友だ」
 そう言って彼は拳で、ルットの胸を軽く押した。
「まあね」
 ルットもやり返す。
「あ、フィアラ、靴の礼をご家族に頼むよ。履き心地がいい」
「ええ、伝えておくわ。父たちも、エファールに礼を言って欲しいって。お店の準備を手伝ってくれて、助かったって」
「あれぐらいなら、いつでも呼んでくれ」
「エファール、また来いよ」
 ルットの言葉に彼は力強く頷く。
「それじゃ、また」
 彼は、軽く手を上げると姿を消した。
「行っちゃった」
 ファースがポツリと呟く。
「また来るさ」
 ルットが家に向かって歩き出す。フィアラとファースもそのあとに続く。
「ルット、靴のサイズは大丈夫みたいね」
「うん、ぴったりだ」
 彼は嬉しそうに答えた。
「フィアラ、今日ピリーと遊ぶ約束をしたんだ。おいら、行ってくるね」
 フィアラが返事を返さないうちに、ファースは姿を消した。
「あいつは、まったく」
 ルットがドアの前でぶつくさと何かを呟いた。
「まあ、いいじゃない」
 微笑みながら、彼女はルットを見上げる。
「そうだな」
 ルットはそう言って、フィアラに優しくキスをした。
 
 




                おわり

魔法使いの赤い糸

魔法使いの赤い糸

「魔法」が存在する世界で、家族と離れて暮らす少女・フィアラ。ひょんなことから魔法使いの少年・ルットと、その相棒?ファースと暮らすことになった。 だが、ルットにはある秘密が・・・・・・。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-04

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