痛がりたい子
先天性無痛無汗症という症状を、決して軽んじて書いているわけではありません。
しかし、気分を害する方がいるかもしれません。
こんな小説を書いて申し訳ありません。
ですが、現実にある先天性無痛無汗症と似た症状として書くつもりですので、あまり関係はないと思っていただければ嬉しいです。
序章
私は、不幸自慢が得意だ。
何故なら、私は生まれてきたこと自体不幸なのだから。
これまでの人生、幸福を感じたことは一度も無かった。私は、望まれて生まれてきた人間じゃない。
辛くもなんともない。私は強いから。誰よりも強くてきっと誰よりも不幸だ。
百万人に一人は存在するという遺伝子の突然変異が原因で生まれる症状。
「先天性無痛無汗症」
物体に触れる感覚はある。しかし、物理的な痛みを感じないというものだ。生まれた時から、痛覚は欠如している。
包丁等、鋭利なものにも恐怖を感じない。無敵だと、単純に考える人間もいるだろう。それは大きな間違いだ。
痛覚がないということは、身体の異変に気づくことが自分では出来ない。死に直結する恐ろしい障害なのだ。
それが、私。
怖いと思ったことは、一度も無い。
苦しいって何?
辛いって何?
痛いって何?
私は、この症状を生まれ持っているが、痛覚と同時に感情をも失っている気がした。
安藤
ジリリリ ジリリリリ
けたたましく鳴り響く目覚まし時計を寝ぼけ眼で見つめる。
「・・8:01・・。」
長い針は12という数字からは若干ずれていて、短い針はしっかりと8を指している。それを確認して段々と思考が鮮明になり、俺の脳が何かを主張してくる。
「え、待って待って・・これってさ」
乾いた唇を動かし、上体を起こす。
「遅刻・・?」
半音あげて疑問の形にするが、それは確定的なことだ。
布団を押し上げ、冷たい床に足を下ろす。
「や、やばいっ」
やっと、急ごうという気になりタンスへタックルする。
服装には気を配らなければならないが、今日は時間がない。
ネクタイを締めることは諦め、いつもよりラフな格好で登校することになった。
長袖のワイシャツに黒いセーターを重ね、チェック柄の履き慣れたズボンに両足を入れ、ベルトを締める。
準備完了。8:05
顔を電光石火で洗い、歯を磨くことさえ雑になる。
朝ご飯を食べるなんて考えは、疾うに捨ててある。
愛着があるナップサック型のリュックを肩に背負い、玄関へと向かう。
8:11
ハンガーにかかっていたコートを手に取り、ドアノブへ手をかける。
忘れ物・・とかないよな。
「よしっもう今日は奮発しようっ」
調度、タクシーがこちらへ向かっているのが見えたので、素早く手をあげる。
そのまま乗車して、携帯を開く。
8:15
「あの、野沢高校までどれくらいかかります・・?」
普段は自転車で登校しているのだが、30分程度はかかる。
雨の時は、バスで20分程度だ。
「そうだねぇ・・15分か20分くらいはかかるかねぇ」
顎ひげを撫でながら、運転手は話す。
よかった・・何とか間に合いそうだ。
「お兄さん、高校の先生でもやってるのかい?」
運転手が空調を調節しながら、口を開く。
「え、あ、はい。今年来たばかりの新米教師ですが・・・。」
何を隠そう、俺は高校教師という職に就いている。
教職自体は三年ほどやっているのだが、今務めている野沢高校は今年入ったばかりの新しい職場なのだ。
「大変だねぇ。最近の若い子たちは変わってる子も多いだろう?」
「はぁ・・でもまあ、慣れれば楽しいもんですよ」
慣れれば、だけど。
今は、12月。冬真っ只中だ。もう少しで冬休みだが、教師に休みなんてものはないに等しい。さすがに年末や元旦は休みだけど、正直その数日の休みだけで一年間の疲れを癒せるとは思えない。有給休暇をとっても、やることがない。一人暮らしで25歳独身の俺がクリスマスを誰かと過ごすことも無い。だから、有給休暇は来年には彼女が出来ているだろうという淡い希望もあり、来年に繰り越すことにした。
「着きましたよ、お兄さん。」
「あ、どうも。」
痛い出費だが、料金を払い運転手に頭を下げる。
車を降りて、再度携帯を開く。
8:32
遅刻という枠に入るかもしれないけれど、職員会議は8:35。
走れば間に合う。
「あっ!安藤先生っ!!探してたんですよっ走ってくださいっ!!」
昇降口に仁王立ちして、叫んでいる女性がいる。
確かに俺のことを呼んでいるようなので、急いでその女性の下へ向かう。
遅刻気味の生徒たちの間を駆け抜ける。注目を浴びるのは必然的だ。
「もうっ駄目じゃないですか!よりにもよって今日遅刻するだなんて・・。」
溜息をつく女性は、現国の早乙女先生だ。真面目で活気ある、同じく今年転任してきた女性教師である。
「え?今日って何かありましたっけ?」
俺が首を傾げると、早乙女先生は更に憤怒する。
「今日は、先週から言っていた例の生徒が来る日じゃないですかっ貴方のクラスに入るんですよ?校長先生と何度もお話していたでしょう?」
例の、生徒?
「・・あぁっ思い出したっ!あの障「安藤先生っ!・・声が大きいです。」
早乙女先生の表情が曇る。俺も失言だったと口を押さえる。
何度も校長先生、「保護者」、俺で話し合いをしていたことがあった。
何度も、というのには理由がある。それは、例の生徒が先天性無痛症という障害を持っているためなのだ。
「彼女、もう校長室に来ています。担任の貴方が遅刻するなんて・・第一印象って大事なんですよ?]
「す、すみません・・。」
慌てて頭を下げる。
「私に謝ってどうするんですか・・でも私も少し怒鳴りすぎました。すみません。」
珍しくしおらしい態度をとる早乙女先生に、戸惑ってしまう。
「いやいやいやっ!そ、それよりも、俺校長室に向かったほうがいいですよね?」
「何で聞くんですか!?早く行ってくださいっ」
「す、すいませんっ!行ってきますっ」
校長室へと一直線に向かう。足がもつれそうになりながらも、頭の中には急という文字しか浮かばない。
校長室に辿り着き、息切れながらも扉を押し開ける。もはやノックという概念は無かった。
バタンッ
「遅れてすいませんっ」
「おお、来てくれましたか。安藤先生。風邪なのではと、心配していたところですよ。」
「本当にすいません。目覚まし時計の設定を間違えてまして・・。」
「安藤先生らしいミスですなぁ。それでは仕方ないですよ。これから気をつければ良いことです。」
校長の名前は吉高勇次(よしたかゆうじ)。年の功というものか、温厚で滅多に怒らないことで有名だ。
「はあ、ありがとうございます。」
「彼女も心待ちしていたんですよ。」
吉高校長が視線を向けた方向へ同じく首を傾ける。
「・・・。」
そこには狂気的に綺麗で、触れると壊れてしまいそうでいて、近寄りがたく独特の雰囲気を放つ黒髪の少女が沈黙していた。
その瞳があまりにも黒く澄んでいて、俺は冷や汗をかいた。
「・・・。」
写真で見たときも、何か惹かれるものがあったのは確かだ。
実物は、言葉を失うほどに何か人間らしさが消えていた。例えるならば、そう。
幽霊のように、透き通っていた。
「安藤先生?どうかしましたか?」
「っす、すいません。あ、えっと、安藤司(あんどうつかさ)です。理科を担当しています。男子バスケットボール部の顧問で、1-Bの担任。つまり、君は1-Bに入ることになるね。1-Bは少し騒がしいところもあるけど、皆楽しい子達だから心配はいらないから。」
「・・・・。」
一通り話し終えたが、彼女は俺の顔を見つめるだけでその小さな口を動かそうとはしない。
「な、何かな?」
「・・よろしくです。神楽ルル(かぐらるる)と申します。」
彼女は会釈したと思えば、目線を落とし、また沈黙する。どうも恥ずかしがり屋というわけではなさそうだ。何か警戒しているような気もする。
「安藤先生、困ったことがあればいつでも仰ってください。私が出来ることがあれば手伝わせていただきますよ。」
優しく微笑む吉高校長に頭を下げる。
「さて、そろそろ時間ですな。安藤先生、彼女を新しい仲間の下へ連れて行ってあげなさい。神楽さん、何事も初めが大事ですよ。安藤先生や仲間達を頑張ってくださいね。何か悩み事があれば、いつでも校長室へ来なさい。貴方は一人じゃないんですよ。」
「・・・はい。」
校長先生は彼女の瞳をじっくりと見つめて微笑み、彼女はそれに応えるように、ほんの少し微妙によく見ないと分からないレベルで笑った。
「ん?」
何か胸の真ん中辺りに違和感。何だろうか。今のは。
「神楽さんはさ、部活とか入るのかな?やっぱり駄目って言われてる?」
「・・やってほしくはない、とは言われています。」
やてほしくはない、か。
彼女はやはり、皆と同じように生活するのは難しいのかもしれない。俺も早乙女先生から「例の生徒」と言われるまで、忘れていたことだ。彼女は、先天性無痛無汗症という障害を持っている。
神楽ルルは、障害者なのだ。
痛みを感じることがない。生まれた瞬間から、痛覚という機能は欠如していて、この障害は遺伝子の変異で生まれるものだと聞いた。そして、かなり稀なものだ。遺伝子の変異というのは彼女の父親と母親が兄弟であることが関係してくる。血がつながった者同士によって産みだされた子供は、何かしらの障害をもって産まれてしまうらしい。
全部ネットで調べたものだが、彼女がかなり特殊なことがよく分かった。
彼女の両親は彼女を捨てた。しかし、叔母夫婦が面倒をみると申し出たため彼女は生きることができたのだ。今は、その叔母夫婦に可愛がられているらしい。
「司先生。」
「は、はいっ!?」
みっともないことに声が裏返ってしまった。恥ずかしい。
「教室です。」
「え、あ。」
考え事をしている間に1-Bの教室に着いていたようだ。彼女は不思議そうにこちらを見ている。申し訳ない気分だ。
「じゃあ、お、あー、僕が先に入るから、声をかけたら入ってきてくれる?自己紹介は、名前、好きな食べ物、嫌いな食べ物、趣味、一言・・見たいな感じかな。大丈夫?」
「・・はい。」
一瞬表情に陰りが見えたけれど、すぐに小さく頷いた。それを確認して、俺は教室の扉をスライドした。
「皆席つけよー。おい、俊介。机に座るなよ。」
「ういーっす。つかちゃん先生おはっす!」
「はいはい、おはよ。皆早くしろー、今日は特別な話があるからなぁ」
皆それぞれ席に着き始め、一安心する。慣れたとはいえ、反抗されると俺は多分何も言えない。怒ることが苦手だ。
「えーと、皆。今日は大事な日だ。皆にとっても、俺にとってもな。」
案の定、ざわつき始める。これは想定内なのだが、皆の異常なほどの輝かしい笑顔は想定外だ。
「もしかして、先生・・結婚するんですかっ!?」
痛い・・心が抉られ、加えてその傷口に塩を大量に詰め込まれたかのような感覚に苛まれる。クリスマス近いんだから、そういう話題はNGでしょう。
「まあ、将来的にはね。って、違う違う・・。」
「先生っ私知ってますよ!転校生ですよねっ」
痛がりたい子
あまり真剣に読むよりも、緩い気持ちで読んでいただけると、助かります。