紫式部日記

 紫式部は「源氏物語」を書き上げてから一条天皇の中宮(皇后)彰子(しょうし)の許へ女房として勤めに上がっている。中宮は間もなく出産を控えて実家の藤原道長の屋敷に帰っている。その辺から式部は日記と言うのかエッセイと言うのか書いているのが、標題の「紫式部日記」である。
現在わたしは「わたしの読む『源氏物語』」を投稿中です。間もなく折り返し点になります。その参考にと思いまして投稿させていただきます。
女の人の作文ですので衣装や調度品の描写が細かくとても上手く書けませんので、ネットの「風俗博物館」を開いて参照してくださいませ。綺麗な写真で説明があります。その他衣装に関しては平安時代の衣装と題して数多くの掲載があります。

私の読む「紫式部日記」

私の読む「紫式部日記」

【日記の書き始めは、紫式部が勤めに上がっている一条天皇の中宮(皇后)彰子(しょうし)が出産で父親の藤原道長の屋敷に里帰りをして、出産間近というところから始まっている】

 秋の季節が深まると共に、藤原道長殿のお屋敷である土御門殿は、風情が深まって表現する言葉が分からないほど趣が出てくる。池を巡る木々の梢、庭園に水を引く流れの畔の草、めいめいそれぞれに自分の色を出し尽くし、空全体が青く澄み渡って艶っぽく広がっている。そんな雰囲気に包まれた屋敷の中で、絶えることなく聞こえてくるのは僧了が唱えるお経の声明である。やっと暑かった夏が終わりになって涼しい風が吹く気配があり、庭に流れる水路の水の音と声明の聲とが混じり合って夜通し聞こえている。
 一条天皇の中宮(皇后)彰子は、御前近くに仕える女房達のとりとめもない話を聞きながら、身重の身であるのでさぞかしお疲れのことと思うが、そのようなことは一つも顔に出さずに居られる。貴人としては今更言うことではないが、色々と気に沿わぬ事の多いこの世の中、こういうお方の御前にお仕えすることが出来るようになれば、この世の辛さに悩まされている私は、現実にその境遇になって悩みは飛んでしまい忘我の心境にひたりながら、同時に一方でこんな事で好いのだろうかと反省するのである。
 
 まだ夜明けにならない時刻、月は雲の中に姿を隠し、地上の木々の下を暗くしている。そのような早朝に、
「そろそろ格子の上を揚げましょうか」
「まだ係りの者が参っておりませんが」
「それなら、縫い物や、装束の支度をする女蔵人を呼びなさい」
 とお互いに言い合っているうちに、後夜(午前四時頃)の読経を知らせる鐘が鳴り響く、そうして大がかりな加持祈祷である『五壇の御修法』が定刻に始まった。我も我もと競い合って唱える伴僧の声、遠く近くに聞こえて圧倒されるほどの音量が荘厳に有り難く感じるのであった。
 山城の国岩倉にある「観音院」権僧正、勝算、が東の館から二十人の伴僧を連れて館をつなぐ橋を加持祈祷に向かうために渡られる足音が屋敷内に響いてくるのが、いつもとは違って荘厳に聞こえてくる。権僧正は時の僧官の最高位に次ぐ位の名僧である。
 中夜の勤めを終えた「法性寺」の座主である大僧都慶円は、僧侶の休息所に当てられた、馬場に面した館へ、「浄土寺」の僧都明教は当てられた休息所の文殿へそれぞれきらびやかな僧衣を着て、訳がありそうな造りの唐橋を渡って、木々の間を縫ってそれぞれ帰って行かれる。その姿をかいま見て今まで勧業されていた修法の荘厳さが伺われる。そこかしこに居座る律師に次ぐ僧位である「阿闍梨」達も前を過ぎる僧都に深々と頭を垂れる。
 やがて女官達が集まり出すと、夜はすっかりと明けた。 

 渡殿の戸口の部屋が私に与えられた部屋でありますが、その部屋は寝殿から東の対へ渡る廊下の東の戸口に近いところにあります。そこから外を見ると、かすかに朝霧が立ちこめ、その露がまだ落ちる前から殿の道長様は庭を歩かれて、供の者を呼び寄せて庭の池に注ぐ水路に溜まった落ち葉や塵を取り除かされ水の流れを良くされた。渡られる池の橋の南側に咲いている満開の女郎花を一枝折って、私の几帳の上から差し入れされる。そのお姿がとても素敵であるのに反して自分の朝起きたままの乱れた姿が恥ずかしくてどうしようと思っているのに
「ほれこのように見事に咲いている女郎花を見て、「女郎花」の歌が遅くなってはいけませんね」
 と仰るのに慌てて硯の側により
 女郎花さかりの色を見るからに
    露の分きける身こそ知らるれ  
(女郎花が朝露の恵みを花一杯に受けてこのように咲き誇っているのに較べ、朝露はこの私に分け隔てをして恵みを与えてくれない、我が身の不運を思い知らされます)
「ああ、早速く、よく出来た歌だね」
 とほほえまれ、硯をと言われる。

 白露は分きてもおかじ女郎花
     心からにや色の染むらむ
(白露が分け隔てをして降りているのではないでしょう、女郎花自身の心の持ちようで美しい色に染まっているのですよ)

【一条天皇の中宮(皇后)彰子はお産のために里である道長の屋敷土御門邸に帰っている、紫式部もそれに伴って土御門邸に一部屋頂いて勤めている。無事に出産できるよう加持祈祷が行われていて屋敷内は騒々しい。道長が式部の部屋を覗きに来る。二人の仲が怪しい】

 しっとりとして落ちついた気配の夕暮れ、宰相の君と言われる同僚の女房、藤原道綱の娘豊子と二人で色々と話をしていると、私達がお仕えしている殿の道長様の長男である正三位・東宮権大夫である頼道(よりみち)様が、入り口の簾を引き上げて肩に掛け首を中に入れて座っておられる。頼道様は十七歳、お年の割にはおとなしくて奥ゆかしい感じがする。その彼が、
「女の人という者はなんと言っても気だてが大事ですね、でもそれを備えた方はあまりいないようです。」
 などと、世の中のことをしみじみとお話になるその様子は、まだ幼い考えしかお持ちでないとみんなが噂するのは、見当違いな気がする。あまり砕けた話にならないところで打ち切られ、
「女郎花多かる野辺に宿りせばあやなくあだの名をや立ちなむ」(女郎花が沢山咲いている野原で泊まったならば、浮気したことになるだろうか)
 と古今集(二二九)の小野美材(よしき)の、女達と気を許して打ち解けて話をしていてあらぬ噂を立てられては大変、という歌を口ずさみながら去って行かれた。それは物語に出てくる理想の男性像のようであった。
 こんな事でも後になって思い出されることもあり、又反面、その時は大変面白く感じたことでも過ぎてしまえば忘れてしまうこともある。どうしてであろうか。

 播磨の守藤原有国様が碁に負けた罰で勝者を招いて宴会をされた日、私は一寸お暇を頂いて里帰りをした。後日その負け碁をなさった時に使われた碁盤を見せて貰った。華形の装飾のある四本の足。側面に訳がありそうな州浜に木石や花鳥などを飾り付けた模様が描かれていた。そこに次のような歌が詠われていた 
 紀の国のしららの濱にひろふてふ
     この石こそはいはほともなれ
(紀の国の白浜で拾ったこの石こそ将来は巌のような大きな物になるのだ)
 その席に扇が置かれていたが、その頃は誰もが扇を持っているのが常であった。 

 八月廿余日

 八月の二十日過ぎからは、三位以上の上達部(かんたちめ)、清涼殿に昇殿を許された五位、六位の一部の人たちである殿上人(でんじょうびと)達のなかでこの屋の主人である道長様に近いお方は皆屋敷内にお泊まりになる。あるいは渡り廊下の橋の上や、簀の子の所に皆さん横になられてうたた寝されているか、または楽器を取り出して弾いておられる。琴や笛の音に混じって、あまりうまくない若い人たちの経を読む声、最近のはやり歌である今様の歌や、宮中でない気楽さから勝手に歌うのが面白い。
 皇后様の事務を司る中宮職の長官、藤原斉信(ただのぶ)大夫、左の宰相の次官である源経房(つねふさ)中将、内裏を守り儀式の時に儀仗を持って立ち並び、天皇行幸の際には供奉して天皇をお守りする武官の役所である兵衛府の長官の源憲定兵衛督(かみ)、右近衛権少将で美濃守を兼ねておられる源済政、(なりまさ)、これらの高官の方々が揃って楽器を演奏される夜もある。正式な演奏会は殿の道長様が、中宮彰子さまのお体のことを考えて中止されていたのである。  
 かってこの屋敷に奉公していて退職してそれぞれの故郷に帰っていた人たちも、帰郷して以来長い期間ご無沙汰していたにもかかわらず、中宮のお産のお手伝いにと再び屋敷に集まって来られる。そんな人たちが大勢で、お互い久しぶりの挨拶を交わす光景がとても賑やかである。そのような訳で、中宮のご出産までは落ちついた静かな時はなかった。


【お産が近づくにつれて道長に関係がある人達男女が集まってくる。囲碁の勝負をしたり楽器を奏でたり、経を読んだり、賑やかで落ち着かない】

八月二十六日

 二十六日に、中宮様が色々な香木を挽いて香りの粉にして混ぜ合わせ、蜜をたらして練り丸める、「香合わせ」の準備作業を、お付きの女房達にさせられた。出来上がった練り香を、周りに働いている女房達に配られるというので、多くの者達が頂戴しようと集まってきた。
 皆さんそれぞれ頂いた後で私は中宮のお前を辞して部屋に戻る途中、仲のいい女房の一人である「弁の宰相」の局を覗くと勤めの疲れからか、彼女は昼寝をしている。彼女は表地は蘇芳(すほう)色、裏地は萌黄色の襲(かさね)を着て、砧で打ち出した光沢のある素晴らしい濃い紅の袿(うちぎ)をその上に着たままで顔を半分隠すようにして硯箱を枕にして寝ている。その姿は本当に愛らしくしっとりとしていて、まるで絵に描いた御姫さまのよう・・・・・。その姿を見ているうちに悪戯をしてやろうと、顔を半分埋めていた袿を引っ張り下ろして、
「物語に登場する姫さまの気分ですか」
 と問いかけると、彼女は私を下から見上げて、
「なんということをなさるの、気でも狂った人みたい、気持ちよく寝ている者を驚かすなんて」
 と言いながら少し体を起こした彼女の顔が赤みを帯びているのが少々おかしく感じた。
 常々美しい人が、何かの折りに更に一段と美しく引き立って見えることがあるということである。

 九月九日

 九月九日は重陽(ちょうよう)の日で菊の節句である。この日の前の日に咲いている菊の花に綿を被せておいて一夜露にうたせる。翌朝、その綿をとり露を含み菊の香りを充分に染みこんだ綿で顔を体を拭くと長命を得られるという。その菊の綿を中宮の許に奉仕する兵部という女房が持参して、私に、
「これは殿の北の方倫子(りんし)さまが特別に貴女にと渡して『特に念入りに顔や手足をお拭きになって老いを拭き取りなさい』とおっしゃいました」
 と倫子さまのお言葉であった。そこで私は、すぐに
 菊の露わかゆばかりに袖ふれて
    花のあるじに千代はゆずらむ
(この菊の露はありがたく受け取って、若い体を何時までもと祈ってそっと袖をしめらし、後は花の持ち主である北の方さまのご長寿を祈って大事な露をお譲りいたします)
 とお礼を込めて作歌したが、
「北の方はお帰りになりました」
 と聞いたので贈ることが出来ずに私の許に置いておくことにした。
 なお、この日は中宮のお産のこともあるので内裏では重陽の儀式は行われなかったと聞く。

 その夜になって中宮さまの御前に参上したところ、月が美しく輝く頃であるので、縁側近くの御簾の下からこぼれ出ている裳の色から、小少将の君と大納言の君とが御前に奉仕されていることが分かる。中宮さまの前に据えられた小さな香炉に、先日練り合わせ壺に入れて土の中に埋めて置いた香を焚き、香りはどうかなと試しておられる。小少将の君は源時通の娘で中宮彰子さまとは従姉妹に、北の方倫子さまには姪に当たる。私とはきわめて親しい同僚女房である。また大納言の君は源扶義(すけよし)の娘で廉子と言い小少将の君とは従姉妹になるからやはり北の方の姪である。二人はこもごも最近は外に出ることがない中宮さまに庭の様子や伸びた蔦の葉色があまり好いようではないなどと説明をしているが、お聞きになっている中宮さまはいつもより様子がおかしくお苦しそうである。丁度加持祈祷の時間になったので僧達が現れ中宮さまのお体を心配しながら後に従って祈祷の部屋に入った。
 私の局から私を呼びに来る者があり私は中宮さまのお前を下がった。局に下がり少し体を休めようと横になったがそのまま寝入ってしまった。ふと夜中大騒ぎする声で目を覚ます。女房達が大声で騒ぎ立てていた。

【中宮の練り香作り、手伝った女房達が頂いて帰る。式部は自分の部屋に帰る前に、友人の小少将の部屋に寄ると彼女は昼寝。悪戯して起こす。九月重陽の節句、道長の嫁の倫子が式部をからかって、長命に効くという菊の露に濡らした綿を贈ってくる。それに対して式部は歌でお返しするが倫子は帰っていて空振り。その夜月を愛でていた中宮は体調が悪そう、夜中異変が起こる】。 

 九月十日( 寛弘五年)

 夜中の騒ぎのまま十日の明け方に中宮さまのお部屋の調度類を白一色のお産所様式に変更する。中宮さまは白い御帳台の中にお入りになるというので、殿の道長さまをはじめとしてご子息の頼道さま、敦通さま、四位五位の方々手分けして帳台の四隅に垂れ絹をお掛けになったり、床に敷く筵(むしろ)や茵(しとね)を持ち運んだり大変な騒ぎであった。そして、出来上がった白い几帳台に中宮さまは横になられた。
 この日は一日、中宮さまは不安そうなご様子で起きあがったり横になられたりと落ち着かれなかった。祈祷の僧侶達は大声を出して中宮さまのお体に取り付いた悪霊を傍らに座らせた若い女達を憑坐(よりまし)という中宮さまに取り付いた悪霊を招いて乗り移らせる女童に乗り移らせようと必死になる。毎日この屋敷に勤める僧は当然のこと、都近くの山や寺に使いを走らせ修験者という修験者一人残らず呼び集め、前世、現世、来世三世にわたる仏も驚くほどの大祈祷を行う。陰陽師にも声がかからないことはない、少し名が知れたまだ未熟な陰陽師までもが屋敷に呼び出され祈祷に加えさせられる。この様子は八百万(やおよろず)の神も耳をそばだてて祈りの声を聞いて驚いていることだろう。安産祈願のため都中の神仏に供物を配る使いが屋敷から四方に飛び走る、そうして一日が終わりあっという間に翌日の夜明けを迎えた。 
 御帳台の東側には内裏に勤める女房達が集まって座っている。西側には中宮さまの悪霊を乗り移された憑坐の女童が、屏風を四方に回して座り、一人一人に修験者が付いて悪霊が憑坐から離れるのを防ぐため一心に祈りを続けている。南側には有名な僧正、僧都が集まって途切れることなく経を唱える。その勢いは一塊りとなって不動明王が現れ出るような様相である。僧侶達の安産祈願の声は何回も繰り返す声明に嗄れてとても聞くに耐えられるものではないのに、それが私には意味深く有り難く聞こえてきた。
 北の障子と御帳台の狭いところに四十人になるほどの人が集まっていた。体一つ動かすことが出来ないほどである。その人息で逆上(のぼせ)せあがってしまい、自分が今何をしているのか意識がないような状態である。少し遅れてこの場に到着した里に下がったかっての女房達はこの場に入り込む余地が無く、長い裳や袖を丸めて手にして立ちつくしている。このような混雑した中を、老いた女房たちが中宮さまを気遣っておろおろと歩き回り泣き叫んでいた。

 九月十一日

 十一日の夜明けまだ暗いうちに、方角や忌み事を考えて、御産所の北の障子を二間分開けて、中宮さまは北廂の御部屋に移られる。突然周りの人が言い出したことで簾をかけて中宮さまをお隠しすることも出来ないので几帳を沢山用意して大勢でそれを掲げて中に中宮さまをお囲いして移動された。北の方(倫子)の叔父様に当たる雅慶(がきょう)僧正、興福寺の別当である定澄(ちょうしょう)僧都、北の方の異母兄の済信法務僧都の方々が中宮さまのために加持祈祷のお経を唱えられる。院源法性寺座主が、道長殿が昨夜に書き下ろした願分に有りがたい文章を加えて朗々と読み上げ始められる、その一言一言が本当に尊くまた限りなく頼もしく力強く感じた。さらに殿道長さまが院源僧都が読み上げる願分に和して念仏を唱えられるのを見たならば、この度の中宮さまのお産が無事に終わること疑いなし、と思うのであるが、それでも集まった人たちは不安に涙を流すのである。
「喜び事のお産に涙は不吉だ」
 とお互いに注意し合うのであるが、人々は不安に堪えることが出来ないのであった。
 四十人余りの女房達が狭いところに重なるように座っていたのでは苦しいことであろうし、また中宮さまも心苦しくお感じになると考えて南側、東表の部屋に行くように命じられ、どうしてもお側に必要な女房だけがこの二間の部屋に侍るようにと言われた。


【中宮の陣痛。加持祈祷が唯一の医療手段】

 殿の北の方、生まれてくる若宮の乳母となる讃岐の宰相の君、この方は讃岐守大江清道の奥さんの豊子さまである。それに、大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の妻で殿の五男教通(のりみち)さまの乳母であった内蔵の命婦、この三人が中宮さまの几帳の中に入ってお世話をしている。そうして、大僧都清信と三井寺園城寺の永円少僧都をお呼びになった。永円少僧都は中宮さまの従兄妹であり宮中の修練道場に奉仕する僧で「内供」の僧と呼ばれていた。その中で道長様は大声を張り上げて経を唱えておられ、他の僧が唱える経はほとんど聞こえないようであった。
 もう一つの間に控えておられる女房の方々は、大納言の君、小少将の君、宮の内侍と言われる橘良芸子さま、弁の内侍、この方は私はあまりよく知らない、それに、中務の君である源致時の娘、隆子さま、大輔(たいふ)の命婦である大江景理の奥さん、そして殿の意向をそれぞれに伝達する役目の大式部のおもと(御許人)、いずれも年輩の長年中宮にお仕えになった方々で、中宮のお体を気ずかって心配なさっているご様子がありありと分かるが、それに較べて私のような新参者は中宮のお産とは大変なことなのだと心に刻みつけられた。
 北の廂の部屋の境に置かれた几帳の外には殿の二番目の娘妍子(けんし)さんの乳母である、藤原惟風の奥方である高子さんで「尚侍(ないしのかみ)の中務の中将」と呼ばれている、内侍は宮中の女官達の総取締役である司の長官のことである。さらに、殿の三女である威子(いし・たけこ)さまの乳母で「姫君の少納言の乳母」と呼ばれているお方。同じくまだ幼い四女の嬉子(きし・よしこ)さまの乳母で藤原泰通(やすみち)の奥方で、「いと姫君の小式部の乳母」と皆さんから呼ばれている女房。そのほか何人かの女房がどっしりとした態度で控えておられる。そのような状況であるので中宮が普段お使いになっている帳台の几帳と産室の几帳の間の通路が狭くなってしまい、人が通ることも出来ない。無理に通ろうとする人は行き交う時に体が近すぎてお互いに顔を確かめることが出来ないほどである。
 殿のお子さま達。頼通(よりみち)様と教通(のりみち)様、殿の甥である藤原兼隆、この方は「宰相の中将」と呼ばれて参議近衛中将である。「四位の少将」と呼ばれている源雅道(まさみち)様この方は右近衛少将で私が親しくしている女房の「小少将の君」の兄上である。この方方も言うに及ばず、左の宰相と言われる源経房(つねふさ)様、宮の大夫である藤原斉信様、これらの方々や普段殿とはあまりつき合いのない人々も、何かの拍子に几帳の上から中をのぞき込もうとしたりなさるが、どのお方も泣きはらして目が腫れて無様な顔を気にする様子もない。その方々の頭には、邪気を払うために撒いたお米が白く雪のようにいく粒も載ったままである。また着ている衣服はどれも皺々になって見られたものではなかった。その光景は今思い出しても可笑しくて自然に笑いがこみ上げてくるのである。
 お産の時が近づいた中宮さまは、無事にお産が終わるようにと、頭頂の髪を形ばかり剃刀で剃り落として、形式的ではあるが仏門にお入りになるための受戒を受けられた。このようにして更に御仏の御加護を願うのである。受戒まで受けられた中宮さまは多分難産を予想してのことであろうと人々は悲しんだのであった。ところが人々の不安を裏切るかのように、中宮さまのお産は軽くて済んだ。まだ後産が残っているにもかかわらず、広い母家の中、南の廂、母屋が見える高欄に犇めいている見舞いの客に僧侶達も、何回も大きな喜びの声をあげて額ずき、神仏に感謝を込めて祈った。
 東の間で中宮さまを見守っていた女房達はこのとき殿上人の男と入り混じったようになっていて、私と仲のいい同僚女房の「小中将の君」は「頭の左中将」様と顔を見合わせ、心配事があまりにあっけなく終わって茫然としていたこと、後から同僚女房がからかって笑ったのである。「小中将の君」は何時も美しく化粧をなさっていて、とても若々しく瑞々しい方であるが、このお目出度の日も早朝に念入りに化粧なさってお勤めに上がっていたのであるが、中宮さま無事ご出産の喜びに泣き崩れた涙で折角の美しい化粧は崩れってしまい、とても見られた顔ではない。藤原道綱様の娘である女房の「宰相の君」の豊子さまは、二度と見られぬほどに顔が変わってしまわれていた。このような雰囲気の中で私の顔はどうであたろうか、と思い恥ずかしいのであるが、誰もがこのときの様子を記憶していないので本当に良かったと胸を撫で下ろした。


【女房達、兄妹達の心配を裏切るように中宮の出産は安産であった。みんなは喜んだが、後産がまだであるのに喜ぶ。ほっとした邸内の空気、褒美が出る。若宮の出産に伴う行事の準備が始まる】

 話を元に戻して、いよいよ中宮さまのお産が始まろうとする時に、悪霊達が憑坐達に乗り移って中宮さまの出産を妬み罵る声が凄まじかった。悪霊が取り付く憑坐に命ぜられた女蔵人「源の蔵人」には天台の僧である心誉阿闍梨(しんよあじゃり)を付き添わせた。この阿闍梨は藤原重輔の息子で後に権僧正となり園城寺の首長である長吏となった。殿道長様がとても信頼された方であり、加持祈祷の名人と言われていた。憑坐の「兵衛の内蔵人」には延暦寺の僧妙尊(みょうそん)というお方を付け、同じく「右近の蔵人」には法住寺の律師である尋光様を、この方は太政大臣藤原為光の息子さんであり、律師とは僧都の次に偉い僧侶である。「宮の内侍」の四周を囲った局には、延暦寺の僧千算(ちさん)を付けてあった。ところがこれらの加持の名人達でも悪霊を追い払うどころか、その力に圧倒されて引き倒されてしまった。その様子が余りにも気の毒であったので、天台宗の僧で大納言藤原済時の息子である念覚阿闍梨を急いで召し出して加持の列に加えられた。念覚さんは大声で悪霊退散の経を唱えられた。他の僧達の念力が劣っていたわけではなく、悪霊達の頑固さが凄いものであったからである。「宰相の君」に付いた験者に、天台宗の僧である叡効阿闍梨を当てられたが、この方は夜通し声をからして称名を唱えた。それでその努力を称えられて権律師の資格が与えられた。悪霊は僧侶達の努力でみんな何処かに消え去り、悪霊が乗り移るようにと新たに召し出された憑坐の女達は結局その役を果たさずに終わってしまったので「役に立たない奴よ」とさんざん言われたものだった。

 お昼の時刻になって空が晴れて太陽が輝き朝の日の出のような気持ちがした。無事出産の喜びに加えて若君の誕生という慶び、ひととおりでない。昨日は中宮さまの無事を心配して絞れるだけの涙を流し、今朝は朝の露にびっしょりと濡れてしまった女房達はお産が無事に終わったのでそれぞれの部屋に退散して休息に入った。中宮さまのお前には年輩の女房が捧持して産後のご様子を見守っている。
 殿の北の方倫子さまもご自分の部屋にお戻りになり、数ヵ月このかた真言祈祷の読経に従事した僧侶、昨日今日に急いで召された僧侶、その人達総てにお布施を配られて労を労われ、また医師(くすし)、陰陽(おんよう)師達が無事に事が終えたことに対して禄を与えられた。内の者達には御湯殿(おゆどの)の儀式の準備を前もってさせられた。
 女房達の局のいずれにも里から駆け付けた先輩女房達の衣装の荷物袋や包みを運び込む人たちが出たり入ったりしている。女房達は自分の衣装である、唐衣(からぎぬ)、これは表着(おもて)の上に着るのである、それに施された刺繍、裳の引き結びや螺鈿を縫い取りした裳裾の縁の置き口の飾り、それらを人に見られまいと懸命になって隠そうとする、
「注文した扇がまだ来ませんね」
 などと言いながら化粧に余念ない、そうしておいて衣装を着て身ずくろいをする。

 部屋の前の渡殿の所から見てみると、寝殿の妻戸の前に、中宮の大夫斉信(ただのぶ)様、東宮の大夫懐平(やすひら)様を始めとして多くの偉い役職の方々が大勢伺候しておられる。殿の道長様が皆様方の前にお出になって、雑用をする者達を呼んで、最近の忙しさにかまけて掃除をしていなかった泉水遣り水の溝を掃除させられる。それを見ている皆様方のご様子はとても晴れやかで気分良さそうであった。心の内に心配事や悩み事を抱えている人でも、あたりの雰囲気で忘れ去ってしまうような空気が漂っている。まして中宮の大夫である斉信様は隠そうとしても自然に喜びの笑顔が顔に表れて、そこらの人よりも嬉しいのが他人に分かるのは仕方がないことである。右の宰相中将兼隆様と権中納言隆家様は東対屋の縁側に座ってなにやら賑やかに冗談を言い合っておられる様子。


【平安時代貴族の娘は結婚して子供を産むのが大変であった。無事安産の中宮、周りの人達の安堵。式部は自分も子供を出産した経験がある。記録に紫式部は年の離れた夫、子供を出産した後夫と死に別れて彰子に仕えたという。若宮の出生後の行事が始まる】

 皇子の誕生に宮中よりお刀が下されるが、その御佩刀(はかし)を持参されたのは頭の中将源頼定様。今日は宮中から毎年遣わされる伊勢神宮への奉幣使が出発する日である。頼定様が御佩刀を若宮に送り届けて宮中に帰館天皇に報告なさるとき、お産の穢(けがれ)があるので奉幣使出発の神事を行っている場所には立ち入らないで、庭に立ったまま天皇に中宮と若君はご無事であることを報告された。そのお役について褒美を下されたと聞いているが私はそれを見ていない。
 若宮の臍緒をお切りになる役目は北の方倫子さまである。若宮様に初めて乳を差し上げる役は「橘の三位」の方で、このお方は一条天皇の乳母で、従三位播磨守橘仲遠(なかとお)の娘、徳子様である。この行事は形ばかりのことで実際には以前からお勤めになって気立てが優しく皆さんから親しまれている備中守橘道時の娘さんで、蔵人の弁藤原広業(ひろなり)の妻である「大左衛門(おおさえもん)おもと」がその任に着かれる。私達は同僚の女房を「おもと(御許)と呼んでいる。

 御湯殿の儀式は、酉の刻(午後六時)ということである。中宮識から派遣された下級の役人達が緑色の袍の上から下賜された儀式用の白い衣服をまとい、大事なお湯を運んでくる。その湯を運ぶ桶の置く台も白い布で覆われていた。尾張の守藤原近光(ちかみつ)と今日の日に中宮識から応援に来た下級官吏の長である仲信とが湯の入った桶を担いで若君の前の簾の所まで来る。水の御用を担当する女官「清子の命婦」と「播磨の女房」が受け取って水を差しつつ適温にする、「大木工の女房」、「馬の女房」二人が、お湯を入れる土器である瓫(ほとぎ)という水甕(かめ)一六個に移し替える。この一六個の甕が儀式の定めである。この人達は薄い透けて見える絹織物の袿の上衣をまとい、目をこまかく固く織った絹布の裳を下に付けて、髪は白い元結いで束ねて釵子(さいし)の簪(かんざし)を付けている。頭がきりっと締まってとても美しく感じた。若宮にお湯をつかわせになるのは、藤原道綱の娘の「宰相の君」、その介添え役である「お迎え湯」の役は「大納言の君」である藤原廉子さま、腰の周りに絹の布を巻いた湯巻き姿がいつもの姿とは違って様になっていてとても綺麗に見えた。
 若宮は道長様がお抱きになって、御佩刀 は「小少将の君」。虎の頭を模造したものを、お湯に映すと悪霊払いになるということから、その虎の頭を「宮の内侍」がお持ちになって若君を先導される。二人の唐衣は、松かさ模様。裳裾は大波、海の藻、魚貝などで浜辺の風景を描き出した織物、大海の様子を思わせる染め物である。腰には唐草模様の刺繍がしてある透き通る裳を付けている。「少将の君」は秋の草むら、蝶、鳥などをあしらった銀糸刺繍があり、きらきらと輝いている。織物の趣向をこらすけれども禁じられた色や模様もあり、お二人の好みに合わすということが出来ない、腰にまとった裳の薄物に制限がないので二人の個性を見ることが出来た。
 道長様の二人の息子頼道、教通様、北の方の甥に当たる、源少将雅通様三方は、大声を上げて悪魔祓いの散米をなさって、われこそはとばかり大騒ぎをなさっている。浄土寺の明救僧都、護身法のために召されている、そのお方の頭や目に散米が当たるので扇をかざしてお避けになっている、若い人はそれを見て大笑いされる。 お湯殿の儀式で漢書の中の祝い文を読み上げる文読む博士に蔵人、右少弁藤原広業(ひろなり)様が高欄に立たれて史記の一巻を読まれる。それに和して鳴弦(めいげん)魔除けの呪に弓をはじき鳴らす魔よけの弓弦をうち鳴らされる。その数五位の人十人、六位の人十人併せて二十人が二列に並んで弦を弾かれる。
 若宮のお生まれになった時間からお湯殿の儀式は一回目朝の儀式が酉の刻(午後六時)、二回目の儀式は子の刻(午後十二時)となった。そこで二回目は深夜であるので儀式は形式的に簡略に済ませたのである。しかし儀式の進行は一回目と同様に進行した。ただ、読書の博士だけが交代して従四位上伊勢の守中原致時(むねとき)が勤められたということである。読まれたのは何時もの通り「孝経」であった。そして、正五位下、筑前権守大江擧周(たかちか)が三人目で『史記』の文帝の巻を読むようで、七日の間この三人が交代で文を読む役をなさるのである。


【若宮が生まれてそれに伴う儀式が進んでいく。まず最初は「湯殿の儀」である。お湯を湯桶に注ぐにも作法が決められている。医学の発達がない頃命を落とすのは悪魔が取り憑くというのが一般的な考えで、虎の頭を湯に写すということから始まって、悪魔を払う弓弦を鳴らす。読書の儀、生まれてすぐに勉学である】
(これらの詳細はネットの「風俗博物館」を開いて御覧になって下さい。女房の衣装の感じなどを写真で綺麗に紹介しています)
  
 全て白一色という中宮さまの御前で、お仕えする人たちの顔色や体の形が白に映え女房の容姿や肌の色あいが際だつ。そんな際だって見える一同を見渡すと美しい墨絵のように女達の髪が黒々と引き立って見え、あたかも白色の人物に黒い髪が生えたように見えた。それでなくても自分に自信がなく、御前に出るのがきまり悪く感じている私は、白黒とはっきりする姿に引け目を感じて昼間はなるべく御前に出仕しないようにしている。
 落ち着いて静かに、東の対屋の局から中宮のお前に進む禁色(きんじき)を許された上級女房を見ると、白の唐衣を許され、機(はた)にかけて織った布を使った唐衣や同じような袿(うちき)を着ている姿は、とても整っていて美しく感じるが、あまりきちんとしていて、各自の個性が表れていなくて何となく見栄えがしない、白色だけということからであろうか。定められた衣を着用しなければならない女房たちも、その中で少し年配の方は、人にあれこれ言われないように、きれいな三枚重ね五枚重ねの袿を着て、その上に織物か織りのない唐衣をきちんとさりげなく着こなされ、かさね(襲)袿には、綾絹や薄く織った織物をまとっている人もいた。 
 扇なんかは、きらきらと派手であるが、それでも何となく風情のある物を持っていた。扇の面にはお祝いの言葉を連ねた漢詩が書かれて、それもお互いが相談しあったように見えるのであるが、それでも人それぞれの個性で書かれてあるのがおかしくて互いに顔を見合わせている。こんな事にも女房の人たちが同僚に遅れまいと競う気持ちが表れているのが私には面白く見える。裳や、唐衣に施されている刺繍はもとより袖口の金銀の縁取りをして、裳の縫い目は伏組の方法で縫い目を表に出さないようにして白銀の糸でかがってある、更に銀箔を綾紋に押しつけてある。扇などは雪山を月夜に眺めるような感じで、きらきらと輝いてはっきりとそれぞれが見分けがつき、鏡をかざしたように眩いようであった。


 若宮ご誕生から三日に当たる日九月十三日、その夜に中宮識(しき)の職員が準備をして、中宮識の大夫である藤原斉信(ただのぶ)様をはじめとして一同でご誕生後三日、五日、七日、九日目の夜に行われる祝儀の第一回が行われた。右衛門(えもん)の督(かみ)である中宮大夫は中宮のお食事のことを担当される。晴の儀式に用いる調度で食器をのせる台、懸盤(かけばん)は沈香(じんこう)の香木で作られている、その上に白銀造りのお皿などを置いて差し上げられたが私は詳しく見ることが出来なかった。中宮権大夫の源俊賢(としかた)中宮権亮(ごんのすけ)、侍従の藤原実成(さねなり)お二方は、若君のお召し物、お体をお包みする布、衣類を入れる箱に敷く折立飾り、入帷子(いりかたびら)という衣類をしまう時に使う絹の布である布帛(ふはく)、衣類を包む布帛、衣類全体を覆う布帛、下机と呼ばれる衣類を置く台、いずれも白一色の物であった。しかしこれらの物は職人がそれぞれ丹誠を込めって造った物で各職人の特徴が現れていた。
 近江の守である源高雅(たかまさ)は、中宮様に直接関わらないで、来客者、この館の女房たちの食事全般の担当をしていた。
 東対屋の西廂の間は上級公家達の場で北側を上座にして二列に、南の廂の間は、その他の殿上人の場にして、西を上座にした。白色の綾織りの屏風を奥の母屋との境に御簾に沿って立てられた。


【お産の時白一色にするのが当時の決まりのようである。総てのものが白で覆われる、女房達も白の衣服をまとう。紫式部はその様子を細かく書いている。男の私にはどう解釈して好いのか分からない。色々と儀式や宴会が開かれる】


 若宮がお生まれになって五日目の夜は九月十五日で、月は煌々と照り輝き、池の岸辺には篝火が灯され、強飯を卵形に握られた屯食(とじき・とんじき)が身分の低い一同に配られた。屋敷の外を掃除して回る身分の低い者達が聞き取れない話をしながら、我々は若君誕生に巡り会ったのだ、と得意げな顔をして歩いてる。主殿寮の役人達が自分たちが扱う松明を隙間無く掲げているので昼間のように明るい。そんな庭の岩陰や木々の根本にたむろしている上達部(かんたちめ)のお供達でさえ、めいめいが喋っていることは、この世に光の指すように若宮がお生まれになったことを、陰ながらお世継ぎがいつお生まれになるかと常々心配していたのだが、やっと実現した、と日頃の念願が叶ったような表情で顔見合わせて微笑んでいる。そのような中で、この道長様のお屋敷に働く数少ない五位の身分の人たちは、あちらこちらと腰をかがめて挨拶を交わしながら行き来して忙しそうにしている、その姿もいい折りに自分たちはこのお屋敷にお仕えすることが出来たと、これもまた得意そうであった。
 中宮さまに御膳を差し上げる時になり、八人の女房が垂れ髪をさしあげて髪が垂れないように白の元結いで結んで簪を挿し、白い御盤を持って並んで中宮さまの前に伺候する。今夜中宮さまのお側で給仕される役は「宮の内侍」さまで、この方は日頃から見栄えのする容姿であるが、今宵は更にきわだってくっきりと美しく見え、白の元結で結び垂れた黒髪が常々お見受けするよりも一段と美しく感じ、掲げた扇からはずれて見える横顔など、とても気品があるように見えた。
 中宮さまの御膳を差し上げるために髪をあげた八人の女房は、加賀の守源重文(しげふん)の娘「源式部(げんしきぶ)」さま、亡くなった備中の守橘道時の娘「小左右衛門」さま、若君にお乳を差し上げる「太左右衛門のおもと」の妹に当たる、左京大夫源明理の娘「小兵衛」さま、伊勢神宮の祭主である大中臣輔親(すけちか)の娘「大輔(たいふ)」さま、左衛門の大夫である藤原頼信の娘「大馬(おおむま)」さま、左衛門佐(すけ)高階道順(たかしなみちのぶ)の娘「小馬(こむま)」さま、蔵人藤原庶政(なかちか)の娘「小兵部」さま、木工(もく)の允(じょう)平文義(のりよし)娘「小木工」さま、以上の八人でいずれも若々しい美しい女房であった。この若い綺麗な女房達が向かい合って対座されている姿は本当に見るかいのある光景であった。常々は中宮様のお食事のお世話をする髪をあげた女房達が居られるのであるが、今日のような晴れの儀式にはそれに相応しい美しく若い女房を道長様が選ばれたのである。選ばれた若い女房達は馴れない晴れがましい場で緊張と人目に晒される恥ずかしさの苦痛に、さぞかし辛かったであろうと思った。 
 中宮さまが居られる御帳の東表の座敷二間に三十余人の人々が伺候して居られる光景は見事であった。飾りだてした白木の御膳に菓子や干物、餅などをけばけばしく儀式用に盛り上げた食膳を、炊事や食事を担当する位の低い女官である采女達が運んでくる。戸口の向こうにお湯殿を隔てる屏風に並べて南向きに白い御厨子を一つを持ってきて据えてある。夜が更けるにつれて月は一点の陰りもなく白く照らし、采女、水当番の水司(もひとり)下の女官、髪を整える御髪(みぐし)あげの女官、清掃・灯火・薪炭などの世話をする殿司(とのもり)女官・掃除や部屋の準備をする掃司(かむもり)女官たちが居並ぶが、私はほとんど顔も知らなかった。屋敷の鍵を管理する闈司(みかどづかさ)の女官と同等の者達なのであろう。大げさに挿した髪飾りは、茨のように沢山頭にあった。この女官達が、格式ばって、寝殿の東の廊下、渡殿の戸口までびっしりと座っているので人一人通ることが出来ない状態であった。 
 中宮さまの飾り立てた食事が終了して、世話をしていた女房達が中宮さまのお側を離れて御簾の処に下がって着座した。


【「蜻蛉日記」の作者の孫娘が{宰相の君}豊子、式部の同僚である。若宮のお湯を初めて勤めるのも豊子である。中宮彰子と従妹になる。この辺で日記の繋がりが判明する。道綱母は夫の兼家のことを相当痛烈に書いているが、式部達は「蜻蛉日記」を読んでいたのであろうか。
道長邸は大勢の人が集まって宴会。中宮の食事、その他の者の食事の世話をする女房と采女】


 灯火にきらきらと映し出される女房達の姿の中で、「大式部のおもと」のお方の裳や唐衣(からぎぬ)その唐衣に若君誕生の行く末を言祝ぎ、
 大原や小塩の山の小松原
  はや小高(こだか)かれ千代の影見ん
(大原の小塩山の小松たちよ、早く大きくなれ。千年になる栄え繁った木蔭を見よう)(後撰和歌集・賀)
 紀貫之の歌を刺繍に表して縫いつけている姿はとても美しく場所柄に合っていた。「大式部」は陸奥守藤原済家(なりいえ)の妻で、道長様のご命令を伝える「宣旨」の役である。隣に座って居られる大輔(たいふ)の命婦(みょうぶ)は、唐衣には手を付けず、裳に、銀の箔を細かに擂り潰して粉末にし、これを膠水で練って銀泥として、それを美しく大海を描いた模様に擦りこんで目立つようにした姿は衆人の目を集めた。「弁の内侍」の方は、裳に銀泥で白浜を描きそこに鶴が一羽立っている様子を描いている、珍しい構図であった。それに加えて裳の刺繍も松の枝を重ねて鶴と対比させた心づかいは、尋常なことでは考えられない才気があるものであった。それに反して「少将のおもと」の方のは、前のお二人に較べて少し劣る白銀の模様を、見ている女達が肩や膝をつつきあって軽蔑して眺めていた。「少将のおもと」の方は信濃の守藤原佐光の妹で、道長様の古参の女房である。この夜の中宮さまの御前の素晴らしさを誰彼に見せたくなって、屏風の影に座っている夜勤め僧侶の屏風を曳き開けて「この世でこのような目出度いことを見たことはないでしょう」
 と言うと、
「ありがたや、ありがたや」
 とご本尊を忘れて中宮さまの方に向かって手を摺り合わせて大感激の様子であった。
 お役人の上役である上達部が、座っているところから立ち上がって渡橋の上に進んできた。道長様もその中に加わって、賽子を筒に入れて振りかき混ぜて賽子を出し、出た目を争う双六の一つ攤(た)の遊戯を始められた。しかしお偉い方々の賭け事は見苦しいものである。歌を詠われることもあった。「女房達よ杯を受けて歌の一つも詠んでくれ」
 と、お言葉が何時降り掛かってくるやも知れないので、めいめいが歌を小さな声で口ずさんで考えていた。私は
 めづらしき光さしそふさかづきは
    もちながらこそ千代をめぐらめ
(珍しい光がこの館に指しこみ、若宮がお生まれになった。その輝かしい光が私の持つ杯にかかり、そこに写った望月の姿を私は杯を置くことなく千代に巡ることだろう)
「四条の大納言藤原公任(きんとう)様に歌を差し出す際には、歌の出来はさることながら、歌を詠む声も整えておかなければ」
 と、こそこそ女房達互いに話し合っているなかにそれぞれが担当する仕事が多く、夜も更けて殿やその他の方々からの指名がなかった。
 殿から本日の喜びの品が贈られた、上達部たちには女の装束に若宮のお召し物と産着が添えられていた。殿上人の四位の方は袷(あわせ)一かさねと袴、五位の人は、袿一かさね、六位の人は袴一具ということであった。

 翌日、九月十六日の夜、月がとっても冴えわたって美しく輝いていた。それに季節は秋の半ば清々しくて気分も良くなる頃である、若い女房たちは池に舟を浮かべての舟遊びである。普段のお勤めの時は色とりどりの衣を着ているのであるが、今日は若宮の誕生という大事があったので白一色の衣をまとっている。衣装、髪の整え方は皆さん同じできりっとして美しく見えた。「小大輔」、「源式部」、「宮木の侍従」、「五節の弁」、「右近」、「小兵衛」、「小衛門」、「馬」「やすらひ」、「伊勢人」の女房達が端の方に座っているのを、参議左近衛中将源経房様、殿の五男左近衛権中将藤原教通(のりみち)様お二人が舟に乗ろうとお誘い出されて、参議右近衛中将藤原兼隆(かねたか)様が棹を取って舟を漕ぐ。一方、誘われて逃げ出した女房達は、部屋の中から舟遊びを眺めていた。月に照らされた庭は、白く映り舟の皆さん方は見目麗しく輝いていた。


【中宮の許に仕える女房の衣装の素晴らしさを紹介する式部の筆は、細かい模様まで書き綴っている。道長も上機嫌で女房達の中に入ってきて賽子で勝負しようという。負ければ歌を詠わなければならない、胸の内に負けたときの歌を考える。式部は扇のことを書いているが、当時、宮中や高貴の家の女房達は扇で顔を隠して、主人の前に控えていた】

 この土御門邸の北の詰所の前に多数の車が止まっているのは、この屋敷に訪問された内裏の女房達が乗ってきた牛車である。主だった訪問された女房の名前を挙げると、「藤三位(とうさんみ)」と呼ばれている古参の女房、右大臣藤原帥輔(もろすけ)の娘であり従三位典侍(ないしのすけ)繁子と言われ、先の冷泉天皇の御代から内裏勤めをされている方である。この方を筆頭に「侍従の命婦(みょうぶ)」「藤少将の命婦」「馬(むま)の命婦」「左近の命婦」「筑前の命婦」「少輔の命婦」「近江の命婦」などという名前が挙がっている。私はこの方々を詳しくは知らないしお逢いしたこともないので、覚え違い書き違いがあるかも知れない。
 船遊びの人たちも慌てて中に入った。殿道長様が現れていとも穏やかな表情で、やんややんやとお声を懸けられては冗談を飛ばされた。そうして内裏から来られた女房達が身分に応じてお祝いの贈り物を賜った。

 七日の夜は天皇様が主催の朝廷の若宮誕生の祝いの日であった。蔵人右近衛少将の藤原道雅が天皇様の使者となられてこの屋敷に天皇様から若宮様に贈られるお祝いの品々を書き認めた目録をお持ちになられた。この目録は柳の枝で編んだ箱である柳筥(やないばこ)に収められていた。中宮さまが目録に目を通されて「確かに」と使いの手にお返しになる。藤原氏の氏の長者の家に慶事があった時、勧学院の学生一同が整列・練歩して、慶賀のためにその邸に赴いたことを倣(なら)って学生達が整列して中宮さまの前に立ちお祝いに訪れた方々のお名前を書いた名簿をお渡しになった。それにも中宮さまは目を通されてお返しになる。勧学院の学生達にもお祝いの品が贈られた。
 この夜の行事が最大のものであり、大層な騒ぎであった。

 御帳台の中をそっと覗きますと、お国の母親、国母、ともてはやされたご様子でもなく、少しお疲れになられ、なんとなくお痩せになったようで、横になってお休みになっておられるお姿は弱々しく可憐に見えた。几帳の中に吊した飾りのある灯籠の明かりで影もなく明るい中で、お顔の色がとても清らかで、豊かな御髪を引き上げて結ばれたのが更にお姿全体を引き締めて美しく見せておられた。言葉に出して言うのも言葉がこれ以上なく、とても文章で続けることは出来ない。
 大体の行事は前の日とほぼ同様である。上級の位の者には中宮さまが御簾の中からお祝いの品を差し出され、上達部は御簾の傍に伺候してお受け取りになる。女の衣装や若宮の産着などが授けられた。蔵人の頭を始めとして順次伺候して受け取られた。朝廷からのお祝いの品は特に大きく仕立てた、寝るとき身体をおおう夜具である衾(ふすま)、軸に巻いた絹の反物腰差(こしさし)などでいつもの通りの公式の物である。若宮さまにお乳を差し上げる「橘の三位」に授かるのは例の通りの女装束で、小袿(こうちぎ)の上に重ねる細長(ほそなが)が追加され、白銀の衣装箱に入れられ、包み紙いずれも白色である。ということを聞いたが私は見てはいない。
 八日になる。各自は白一色からそれぞれの好みの色の衣装に替える。

 若宮ご誕生の九日目の夜は、東宮の権大夫である頼道様の長男藤原頼通が御産養(うぶやしない)の儀式を執り行われた。白の御厨子棚一組にお祝いの品々が並び置かれている。その置き方は今風で目新しい感じがした。白銀の御衣筥(ころもばこ)、その上に海の景色である海賦図が書き込まれている。そこには海中に浮かぶ蓬莱山が描かれているのは例の通りであるが、新しい描き方でとても趣があるが、私の筆ではとても表現が出来ないのが残念である。
 今宵は表の模様が朽木形の几帳が使用され、女房達の衣は濃いい赤色の物に変わり、久しく白一色に慣れた目にはとても新鮮で艶めかしく見えた。薄い唐衣を通して女房達の派手な衣装が艶々として透き通って見え、各人各様の趣向が爽やかに見えた。「こまのおもと」が男の人たちに強いられて酒を飲まされ酔態をさらした夜であった。


【若宮が生まれて三夜・五夜・七夜・九夜と行われる祝宴「産養い」の模様。七夜は特に天皇主催の祝宴であった。集まった人達の名前、船遊びをする上達部と女房達、若宮が生まれて喜ぶ光景を見事に式部は描写している。メモを取っていたのだろうか。集まった人の名前から着ている衣装の模様までを細かく書いている。藤原家の「勧学院」の生徒が並んで中宮に祝いを述べる。そんな習慣があった。 九日が過ぎると着ていた白色の衣装を脱いで普段の衣装に変わる。部屋も白一色から普通の姿に戻される。お産の一区切りがついた】


 十月十余日  
 中宮さまは、十月十日過ぎてもお産の後の体のことを考えられてか御帳から外へお出にならなかった。白の御帳台は昨日取り除かれて中宮さまは、今は東の母家の西側に御座が設けられてそこに御帳台が拵えられている。私達はそこに中宮さまの御用がないかと夜も昼も控えていた。  
 殿の道長様は夜中であろうと夜明け方であろうと若君が気になるのかお出でになってそのたびに若君の姿を見ようと添い寝している乳母の胸元を押し広げようとなさる、ぐっすりと休んでいる乳母の方は、急に胸元を広げようとなさる殿の手に驚いて目を覚ます、そんな光景を私は乳母の方には気の毒に思うが、嫌らしいとは思わず殿の若君に対する愛情の深さを愛おしく思うのである。まだ一ヶ月に足りない若君に殿のお気持ちが分かろうはずがないのに殿は一人喜んで腕に抱かれて可愛がられるのも、もっとものことであって目出度い風景である。
 ある時は、殿がお抱きになった直後に若君がお漏らしになり殿は着ておられた直衣の紐を解き御帳の後ろで火で焙ってお乾かしになる、
「やれやれ、若宮の小便にあうとはな、こんな嬉しいことはない。こんなにして直衣を焙って乾かしていると永年の念願が叶った思いであるよ」
 と言われてにこにこと笑っておいでになる。
 道長様は只今、村上天皇の七番目の皇子である具平(ともひら)親王、親王は現在二品中務卿(にほんなかつかさきょう)であられ、有名な歌人として知られている、その方の長女隆姫を、長男頼通様の奥方にと強く希望されていた。私の従兄妹の伊祐(これすけ)様のご養子になられた頼成(よりしげ)様は具平親王の子息である、また私の父為時や亡くなった夫の宣孝も具平親王家にお仕えしていた、そんな関係からか殿は私に隆姫さまのことを色々と相談される、そのことを思うと、道長様は、若宮様をお抱きになって微笑んでおられるが、内心色々と考えることが多いのではなかろうかと思うのであった。

 行幸

 一条天皇が中宮さまをお見舞いに、また若君との初めてのご対面にこの土御門邸にお越しになるという日が近づくにつれて、邸内の掃除が一段と厳しくなり、新築のようにぴかぴかに磨き上げられた。世間でも珍しい菊の根を探し求め、掘り起こして屋敷に持ってこられて庭に植える。霜にあい色々な色に菊が変化するのであるが、やはり黄色が一番である、このようにいろいろの菊を植えられたのであるが、朝、霧が晴れた隙間に見渡すと、唐国で菊は不老長寿の花であると言われているのであるが、どうしたことか私の心の中で「私自身がもう少し平凡な女であれば、あの若い人たちのようにきらきら着飾って大声で笑い、男の方達からもちやほやもてはやされて楽しい一日を送る、ということも出来るのだが」
 私は目出度いこと、面白く愉快なことを聞く度に、胸の内で私が世の中を斜めに見る性格のため、あの若い女房達の雰囲気に入っていけずに批判的な目で見てしまう、そうして何となく気鬱になり、心の中は悲惨な気持ちだけになってしまう。そんな落ち込んだ気持ちで池の中で水鳥が遊ぶのを見ていると歌が浮かんできた、
 水鳥を水の上とやよそに見ん
  われも浮きたる世をすぐしつつ
(水鳥が池の上を滑るように泳いでいるのをまるで関心が無く眺めている、その私も水鳥のように世の中から浮いて過ごしているのだ)
 水鳥たちも思いのままに泳ぎ振舞っているのであろうがその実彼らには彼ら並みの悩みはあるのであろう、私もこの館で人目には賑やかに楽しく暮らしているように見られているであろうが、私の心の中は苦しさで一杯である。

中宮は衣装を元に戻されたがまだ几帳から外に出ようとはしない、体調が快復するのを待っているのだろう。道長は孫が可愛いので朝となく夜となく見に来て若宮をあやす、若宮お漏らしする、道長は笑っている。天皇が我が子を見るために土御門邸に行幸される通知が来る。


 源通時(みちとき)の娘で中宮彰子さまと従姉妹である北の方倫子の姪、私ととても仲のいい朋輩女房の小少将の君が里に帰り、そこから文を送ってきた。その返事を書こうとした時に空が暗くなり時雨がさっと降り出した。使いの者も何となく気ぜわしくしている。「また空が曇ってきました、雨の気配がして怪しくなって参りました」
 と書き終わって、下手な歌などを色々と書いた文を渡す。暗くなってから小少将の君からの返事が来る、上下に薄く雲を摺りこんだ紙に、

 雲間なくながむる空もかきくらし
   いかにしのぶる時雨なるなむ 

(空を眺めていますと隙間なく曇った空です。私の心も曇っています、時雨が降るように私も涙を流しています、貴女のことを思って)
 
 先ほどの私が送った文の内容も忘れてしまい、

 ことわりの時雨の空は雲間あれど
    ながむる袖ぞかわくまもなき
 
(当然季節の雨は降ります、だがその空にも雲が欠けて隙間が現れます。しかしそれを眺めている私には貴女がいない淋しさに涙が溢れて袖が乾く暇がありません)

 行幸の日、殿は新しく造られた二艘の船を池の岸に着けられてご覧になった。船首に水を渡る龍頭を模した飾りを付けたものと、風を受けてよく飛ぶことから水難よけのまじないとした、鷁首(げきしゅ)の船、ともにまるで生きたような彫刻で色も鮮やかに仕上がっている。行幸は辰の刻(八時から九時の間)と言われているので、館の女房はまだ暗い内に起き出して化粧を丹念にして心の準備をする。上位の公卿たちの席は西の対屋(たいや)なので私たち女房は東の対屋を席に与えられ、打出(うちいで)して並ぶ。すだれの下からはみ出す女房達の色鮮やかな袿の袖口が、向かいの上達部を魅了した。女房達は男の方と離れたためかいつものような騒がしさはなく静かである。殿の息女である妍子(けんし)尚侍(ないしのかみ)の御殿ではお付きの女房達の装束は立派な物をお揃えになったと聞いている。
 夜明け方に里帰りしていた「小少将の君」が館に帰ってきた。私は里帰りのことなどを話しながら髪梳(かみす)きを共にした。

 行幸は例によって時間通りには行事は進まない、「行幸は辰の時」ということであるが、どうせその通りには運ばないだろうと私たち女房はゆっくりと準備をしている、私は扇が余りにも平凡すぎるので、かねてより新調したのを早く持ってこないかなと思って使いの者が来るのを待っているところに、行幸を知らせる雅楽寮の楽人達が奏でる鼓の音を聞き、慌てて所定の処にはせ参じる。慌てふためく格好の悪いところを人に見せてしまった。  天皇のお乗りになる鳳輦(ほうれん)をお迎えする。船に乗った楽人の奏する曲が厳かに流れる。
 鳳輦が寝殿母屋に近づくのを見ると、駕籠を担ぐ仕丁達が、身分が低いのに南面の階段を鳳輦を担いだまま登段し前の方の仕丁は鳳輦を水平に保つために苦しい格好で体を曲げて這い蹲っている。その姿を見ていると、私の今の姿と何処が違っているのだろう、高貴な人たちに混じっての宮仕えにはそれ相当の限度というものがある、気苦労がある辛いものだと仕丁の姿を見て思うのだった。
 中宮さまの御帳の西面に天皇の御座所を設けて南廂の東の間に椅子を置いてある。そこから一間開けて東に離れている部屋の北と南との端に御簾を掛けて仕切り、そこに内裏から来た女房達が座っている。その簾を揚げて内侍二人が現れる。行幸に望んでの念入りな髪型は、揚げ髪にして端正なものである、その姿は美しく描かれた絵唐のようであった。


【天皇が若宮に対面するために、道長の屋敷土御門邸に行幸になった。天皇家に受け継がれている三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉を捧持している。この時代は天皇の象徴として神器の一つを携えたのか。現代はどうなのか】


「左衛門(さいもん)の内侍」と言われる天皇側近の女房が御佩刀(みはかし)を持って従っておられる。青緑色の無紋の唐衣に上の方を淡く下に行くに従って濃く染めた裾濃(すそご)の裳を付け、正装の時の決まりである首から肩に垂らす薄い絹布の領巾(ひれ)を掛け、裳の腰の左右に垂らす裙帯(くんたい)は文様の線を浮き出させて織った綾織の薄い絹地で、糸を浮かせて模様を織出した綾、浮線綾(ふせんりょう)と呼ぶのを黄色がかった櫨(はじ)色と白の段染めで仕上げてある。表着(うわぎ)は表が黄色で裏が青色、そこに五色の糸で模様を縫いつけた「菊五重(きくのいつえ)」菊は重ねの色目で、表白、裏蘇芳色。「五重」は地紋の上になお五種の色糸で模様を織出したもの。表着(うわぎ)と袿(うちぎ)の間に着る掻練(かいねり)は紅色、そんな衣装で顔を隠した扇から横顔しか見えなかったが、華やかで清楚な姿に見えた。
 内裏に納めてある三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を納めた箱を捧げるのは「弁の内侍」の方で、着用の衣装は葡萄染(えびぞめ)の袿に裳、唐衣は「左衛門内侍」と同じである。少し小柄で美しい彼女が、緊張からか少し固くなって箱を捧持しているのが気の毒に思えた。手に持つ扇を始めとして前を行く内侍よりもこの人の方が趣味がいいなと思った。肩に掛けた領巾(ひれ)は薄紫と白の段染めをふわっと肩を覆っている。この二人の内侍を見ていると領巾や裙帯がひらひらと夢の中の天女を見ているように翻り、昔話の乙姫が天から降りてきた姿もこのようであったのであろうと想像された。
 行幸に供奉してきた近衛府の者達が、この場に似合った服装で鳳輦の事などを取り仕切って動くのがきらきらと輝いて見えた。参議近衛権中将藤原兼隆様が御佩刀をとって「左衛門の内侍」に手渡す。

 寝殿母屋、天皇御座所の御簾に仕切られた御前に控えいる上位の色を許された女房が並ぶ。方々を見渡すと、許されている青色や赤色の唐衣に、染色法の一つである平板上に張った布帛(ふはく)の上に型紙をおき、その上から染料液を含ませた刷毛で、種々の色を摺(す)り込んで模様を染め出した、地摺(じすり)りの裳をつけ、表着は一様に黒みを帯びた紫赤色「蘇芳」の織物である。ただ、「馬の中将」と呼ばれる中宮さまの女房の方だけが葡萄染の表着を纏っておられた。砧で打って艶を出した布、「打物(うちもの)」は濃いのや薄いのやそれぞれの紅葉を混ぜ合わせるようにして、打衣と単衣のあいだに着る袿は例によって表裏とも黄色で濃く薄く、表は薄紫、裏は青という紫苑色(しをんいろ)、裏を青くした「菊襲(きくかさね)」、または三重(みつかさ)ねに着たり、その人その人それぞれである。
 禁止されている赤色と青色の唐衣を着用出来ない女房達のなかで、年配の人たちは、無紋の青色、もしくは蘇芳色で、袖口や裾の縁取りを綾織りで五重にしておられる。腰から後ろに長く引きずる裳の柄は大海を描いた摺りもので、水の色は明るく、腰の周りは糸を浮かさずに固く織る「固紋」で決めておられる。上衣の下に重ねて着る袿は、表は薄蘇芳、裏は青で織物はなし、それを三重五重にとそれぞれが着ている。若い人で色のお許しのない人は、表は薄蘇芳、裏は青、一般に菊の五重と呼ばれている唐衣をめいめい好みに応じて着ている。 袖口に白や青、蘇芳色、単衣を青色にしたものもいる。上を薄い蘇芳色そして下に行くに従って段々と濃い蘇芳色にしている人、その中に白を混ぜたのもある。その総てが、見た目派手にしているが、どの人も色彩豊かな人ばかりである。その上にどう表現して好いのか珍しい奇抜な模様の扇を手にしている。 
 普通にしている時は、綺麗な人、そうでない人の見分けがつくが、勤めを考えて一心に衣装を整え、顔に化粧を施して、誰にも負けまいと自分を整えると、風俗画を見ているようで、老いた人若い人、髪が少し薄くなった人、若くて髪が艶々している人、そのように見ていると、顔を隠した扇の上に見えるそれぞれの額から、その人が上品な人かまた少し品が落ちるのかが分かってくる。こうした時にこの人こそと思える人が、真の美しい人なのであろう。

1 宝冠(ほうかん)
2 下に垂らし再度結い上げた髪
3 領巾(ひれ)[比礼]
4 唐衣(からぎぬ)
5 表着(うわぎ)
6 打衣(うちぎ)
7 衣(きぬ)[袿(うちき)][数枚を重ねている]
8 単(ひとえ)
9 裙帯(くたい)
10 衵扇(あこめおうぎ)
11 裳(も)
12 張袴(はりはかま)




 内裏に上がってから長く、天皇のお側と中宮さまの御用も兼ねてお仕えしている五人の女房が、揃って行幸に従って来邸された。左衛門の内侍・弁の内侍、左京の命婦・筑前の命婦、御賄い人である橘の三位、の五人である。お上(天皇)にお食事を差し上げるために、髪を結び揚げた姿の左京・筑前両命婦が出入り口の御座所の隅の柱から御膳を捧げて入ってこられる。これは全く美しい天女が舞い降りた光景である。左京の命婦は、青色に表は白、裏は青の袖口を見せた唐衣、筑前命婦は、表は黄色裏は青色の唐衣姿で、二人とも裳は模様を刷り込んだ摺裳(すりも)である。食事の世話をする橘の三位は青色の唐衣、綾の織り方向が違うので文様がはっきりと目だつ唐綾の黄色がかった菊の袿を表着とされている。髻(もととり)一本を結い上げている。しかし柱に隠れて全身の姿は見ることが出来ない。殿の道長様は若宮をお抱きになって上(かみ)の御前に進まれて若宮を差し出された。上は若宮を受け取りお抱きになり父子初めての対面となる、その時若宮は少しお泣きになる。そのお声は本当に可愛らしい。弁の宰相の君が上から若宮に授ける守り刀を捧げ持って来られる。ご対面が済むと、殿は再び若宮をお抱きになって御座所の西に控えている北の方倫子様の所へ向かって若宮をお渡しになる。
 天皇が行事も終わって御簾の外にお出になり椅子の所にお戻りになった後で、宰相の君が私たちが控えているところに帰ってきて、
「皆さんの前で隠れるところもなくみんなに私の姿を見られ、本当に恥ずかしくどうしようかと思いました」
 と顔を真っ赤にしているのを見ると、そのしぐさが可愛くまたおかしく感じられた。着ている装束も人より見栄えがする立派な物であった。
 日が暮れてゆくに従って雅楽がいよいよ佳境に入った。階級の高い公卿たちが帝の御前に並ぶ。唐楽の曲名で則天武后(そくてんぶこう)の作とも伝えられて、目出度い曲として慶賀の時に奏される「万歳楽」、同じ唐楽の曲で、万歳楽が文の舞であるのに対して、これは武の舞で太平を祝う曲という「太平楽」、いずれも船の上で演奏される船楽である。船楽が終わり船が池の上を奥にはいると、階段下の楽が始まる。「賀殿」が演奏される。そうして舞い人たちがお前を下がる際に演奏される、「長慶子」が最後に演奏された。庭園の小山を巡て舞ながら音も遠くなって行くに従って笛の音も鼓の音も吹く風にうなる松風も一体となって聞こえてきて本当に美しい音楽となった。
 丁度頃合いに水を張った泉水も心休まる光景になって、池の水は折からの風に小さな波を岸辺に寄せ、少々寒い時期に帝は単衣の上に衵(あこめ)二枚を着用されたままである。左京の命婦は自分が寒いので帝になにか羽織る物が要りませぬかと震えながらお尋ねになる、その姿が面白いので付近の人々はくすくす笑う。筑前の女房は、殿の妹詮子様を思いだし
「お亡くなりになった帝の生母様、女院詮子様がご健在の時は、このお屋敷に度々行幸がありました。その時にあんな事こんな事がありました」
 などと思い出話がつい出てきたのに、縁起でもないお話、と相手にならないで几帳を隔てて知らん顔をしている。
「ああそうです、あの折りには」
 なんて一言でも言う女房が有れば、筑前の命婦は涙を流さんばかりの様子である。めでたい席に涙は禁物。
 帝の御前での催しがつぎ次と行われて面白いところへ若宮の泣き声が美しく聞こえてくる。右の大臣である藤原顕光(あきみつ)様が
「万歳楽の音が若宮のお声に綺麗に混じり合って聞こえてくる」
 ともてはやされる。左衛門の督(かみ)藤原公任(きんとう)は、
「万歳、千秋」
 と楽員と共に歌われ、更に大殿の道長様は
「ああ、何回も行幸をいただき大変名誉に思っておりましたが、今回はそれにもまして有り難いことと、感激いたしております」
 と酒の酔いも手伝ってか大泣きされる。今更言うことではないが大殿自身も今回の行幸が大変名誉なことだということを充分と身体に感じていらっしゃる。目出度いことである。
 殿はご自分の席に、帝は御簾の中の御座所に入り賜う、右の大臣をお呼びになり、筆を執らせて加階する者達の名前を記入させる。中宮職の役人や、このお邸の家司(けいし)のしかるべき者はみな、位階が上がる。頭の弁源道方(みちかた)に命じて、加階の案は奏上させられたようだ。


 親王宣下という新たな若宮のご慶祝のために、藤原氏の公卿(くぎょう)たちは連れだってお礼の拝舞をなさる。しかし、藤原の姓を名乗るが、中心から外れた者達はこの目出度い列には参列できなかった。次には、若宮、親王家の別当になった右衛門の督、これは中宮の大夫です、中宮の亮(すけ)、これは今回加階した侍従の宰相、続いて次々に人々が謝意を表して拝礼の舞踏、左右左(さゆうさ)を行う。左右左は唐の礼法を真似たもので、あるいは立ちあるいは座し、手を動かし左右を顧み、喜悦のあまり手の舞い足の踏むところをしらないというさまを表示する。
 この儀式が終わると帝は中宮様の几帳の中にお入りになり、やがて
「夜も更けたので、御輿をこちらへ」
 と、お付きの者の大声があり、帝は几帳からお出になり内裏へのお帰りとなる。


 帝が内裏にお帰りになった翌朝、内裏からの使者がまだ朝霧が晴れない早い刻に御来邸になった。行幸の接待に疲れて思わず寝過ごしてしまい、ご使者の姿を見ることが出来なかった。
 今日初めて若宮の頭に剃刀を当てる。若宮の御髪の産剃(うぶそ)りを、わざわざ行幸の後にしたというのは、若宮のお生まれになった姿そのままを帝にご覧に入れようとの計らいであったようである。
 またその日に若宮にお仕えする政所別当(まんどころべっとう)と蔵人所(くろうどどころ)別当などをお決めになった。この日、任命された政所別当は源頼定以下十一名、蔵人所別当は、源道方(みちから)以下三名、また「おもと人」(侍者)は、藤原定輔(さだすけ)以下四名である。突然のことであり前もっての内示というものがなかったので、この役職の決定に不本意の者もあったようである。
 行幸を迎えるに当たって中宮さまの御居間を余り派手にするのも帝に対してどうであろうと、思い切ってお片付けになり、すっきりと簡素なお部屋にしたのであるが、片付けた諸道具をまた持ち出してきて元の場所に置いて中宮さまの御前を再び賑やかにする。何年もの間若宮誕生を願っていたことが実現して、その慶事の催し事がすべて無事に終了したので、夜が明けると道長様の北の方倫子さまも中宮さまのお部屋に来られて若宮様を大切にお世話なされる。そのお姿を見ると若宮様、中宮さまを含めてお部屋全体の雰囲気がとても華麗で行く末御安泰の兆しがかいま見られた。

 日が暮れて月が皓々と美しく照らしている、そのような夜に若宮の亮になった中宮権亮藤原実成が、特別に加階したことのお礼を女房を介して中宮に言上してもらおうと、寝殿東側妻戸のあたりお湯殿の湯気で濡れているが、人の気配もないので、寝殿と東の対屋(たいのや)を結ぶ渡殿の東端にある若宮の内侍の局に顔を出して、
「どなたかいらっしゃいませんか」
 と声をかけられる。返事がないので更に進んで私たちの局、渡殿中の間に、まだ桟を差さずに戸締まりをしていない格子の上を押し開いて、
「どなたかおいでではありませんか」
 と声をかけるが誰も答えず、案内の人も出ていかない、今度は中宮大夫の斉信(ただのぶ)様が
「ここには何方もいらっしゃいませんか」
 と声をかけられるのさへ、みんなは知らぬ振りをする様子なので、あまりにも失礼であると思って、小さく返事をする。お二人とも何の心配事もない気楽なお顔していらっしゃる。
「私の呼びかけにお答えなさらず、この中宮大夫を大変ご丁重に扱われる様子ですね。もっともなことでありますが、この皆様方の態度には感心出来ません。こんな所で上役下役の差別をひどくつけるとは、もってのほかである」
 と冗談めかして仰り、
「今日の尊さや 古もはれ 古もかくやありけむや 今日の尊さ あはれそこよしや今日の尊さ」
 催馬楽(さいばら)安名尊(あなとうと) を声美しく謡う。夜が更けるにつれて、月がとても明るい。
「格子下側を全部取り払って」
 と催促されるが、上達部が身分を構わず身分の低い者のところに入りこんでいらっしゃるのも、こういう私の場所とはいえ見苦しいことである。若い者ならば物事を弁えない浅はかな者で済まされる。私達の場合ではどうしてそんなことが出来ようか。とんでもないことを言われる、と格子をはずさない。


【若宮に親王家が与えられる。それを祝して宴が開かれる。連続して夜の宴会が続く、照明が暗いのにこの時代の人は夜が好きである。酔った男の酔態、女も結構酔ったようであるが、どちらも断片的に出てくるだけである。衣装の描写がどうしても多い。ネット上で探して想像していただきたい。若宮生まれて五十日になる】


 若宮誕生五十日

 御誕生五十日目の祝の日は十一月一日であった。いつものように、女房たちは着飾って参集した。中宮さまの御前の有様は、絵に描かれた流行の物合(ものあわせ)の場面にそっくりである。
 御帳台の東にある中宮さまのご座所の際に、御几帳を奥のお襖の所から廂の間の柱まで、隙間なく並べて、ご座所の南側に若宮の御膳のものが据えられてある。その中の西側寄りのが中宮さまの御膳で、何時もの通り沈の折敷や素材の違った趣向を凝らした台が置かれたであろう。私はそちらのことは見ていない。お給仕役は宰相の君讃岐(さぬき)で、取り次ぎ役の女房も、髪に釵子(さいし)を挿し元結をしている。若宮のお給仕役は、大納言の君で、東側寄りの所に御膳を用意してある。小さな御膳台や御皿など、御箸の台やそれを載せた洲浜の形にかたどり、これに岩木・花鳥・瑞祥のものなど、種々の景物を描いた洲浜台と呼ばれ台に置かれてある。まるで雛(ひな)遊びの道具のように見える。そこから東にあたる廂の間の御簾を少し上げて、弁の内侍、中務の命婦、小中将の君といった主だった女房だけが、御膳をそれぞれ取り次いでは差し上げる。私は奥にいたので、詳しくは見ることができなかった。
 この夜は、若宮の乳母である大江清通(きよみち)息女少輔(せう)の乳母が禁色を許される。端正な姿で若宮をお抱きになっておられる。御帳台の中で、若宮を北の方倫子様がお抱き取りになって、中から膝行(にじ)り出てこられる、灯火の光に照らし出された若宮のお姿は、まことにご立派なご様子であった。倫子様は、赤色の御唐衣に地摺りの御裳をきちんとお召しになっているのも、もったいなくもあり、また感動的にも見受けられる。大宮(中宮)さまは、葡萄染めの五重(いつえ)の御袿に、蘇芳の御小袿をお召しになつていらつしやる。お祝いの際に父親または祖父の手により小児の口にあてる餅を、道長様が若宮へ差し上げなさる。
 上達部の公卿の席は何時ものように東の対の西の廂である。殿以外の二人の大臣も参上していらっしゃる。渡殿の橋の上に来て、また酔い乱れて大騒ぎをされる。檜の薄板を折り曲げて作った筥につめた御馳走、籠に入れた果物、殿の館より上達部が取り次いで持ってきては高欄に並べる。松明の光では心許ないので、四位の少将達を呼んで、紙燭という松の木の長さ一尺五寸、太さ三分位に削ったものの先を焦がし、油を染まして点火する松明を、高欄に立てて、参会者に展覧した。折櫃物・籠物などのうち内裏の清涼殿内にある主上附女房の詰所、台盤所に持参すべき品々は、明日から宮中は物忌みにはいるので、今夜のうちに皆片付けてしまう手筈である。その間に宮の大夫が御簾の許に寄ってきて、
「上達部を御前にお召しくださいますように」
 と中宮さまに申し上げる。
「お聞きとどけになりました」
 と女房を通じて返答があったので、道長様を先に上達部はみな御前に参上なさる。正面の階(きざはし)の東隣の間を上座として、東の妻戸の前までお座りになっている。女房たちは、廂の間ごとに二列あるいは三列に並んで座っていた。そして御簾を、その間に座つている女房たちがそれぞれ一緒になって巻き上げる。
 大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍といつた順に座っている。
 その場所に右大臣藤原顕光(あきみつ)当年六十五歳、道長様の従兄弟に当たる、が寄って来て、御几帳の綻(ほころび)びの部分を引きちぎって、酔い乱れる。
「いいお年を召して」
 とつつき合って笑っているのも知らずに、女房の扇を取り上げ、品のよくない冗談も多く、どのようにお相手して好いのか女房たちも困っている、右大臣は六十五歳のご老人。そこへ中宮の大夫が盃を持って、右大臣の所へ出てこられ、催馬楽の「美濃山」
「簑山に しじに生ひたる玉柏 豊明(とよのあかり)にあふが楽しさや あふが楽しさや」
 と謡って、管絃の遊びはほんの形ぱかりだが、たいそう面白い。


 その次の間の、東の柱元に、酔った右大将藤原実資(さねすけ)が寄りかかって、女房たちの衣装の褄(つま)や袖口、重ねの色具合を観察していらっしゃる様子は、ほかの人とは感じが違っている。私は酒の席をよいことにし、また酔った人が私が誰であるかも分かるまいと思い、右大将にちょっと言葉をかけてみる、ところが今風のしゃれた人よりも、格段にご立派でいらっしゃるように見受けられるのであった。ご本人に盃の順がまわって来るのを、右大将は恐れていらっしゃったが、順がまわって来ると誰でもが謡う神楽歌、「千歳、万代」で済ましてしまった。
「千歳/\千歳や/\ 千年(ちとせ)の千歳や  万歳/\万歳や/\ 万世(よろずよ)の万歳や・・・・・」
 左衛門の督藤原公任が私の気を引こうと
「おそれ入りますが、このあたりに若紫はおられませんか」
 と私の書いた源氏物語の登場人物若紫にかけて、御几帳の中の様子をお探りになる。光源氏に似てる人はこの場に居ないのに、ましてあの紫の上がここに居合わせることなどはない、と心に思つて聞き流していた。参議中宮権亮藤原実成様に殿が、
「三位の亮よ、盃を受けなさい」
 と道長様が上座からおっしゃられる、侍従の宰相実成様は立ち上がってご自分の父親内大臣公季がいらっしゃるので前を横切らないで、へり下って下手から進み出たのを見て、内大臣は感激のあまり酔い泣きをなさる。
 権中納言は、隅の柱の元に近寄って、「兵部のおもと」の袖を無理やり引っぱり、聞くに耐えない冗談を言いながら抱きつかれる、殿は何もおっしやらずに注意もされない。

 だんだんと夜が更けるに従って酒の宴は乱れかたが激しくなりそうなので、酒宴が終わるまでに退散しようと「宰相の君」と申し合わせてどこかに隠れ退散しようとした。東面を見ると殿の息子さん達や宰相中将の方々がおられて騒いでいらっしゃる、これは駄目だこの場から逃げられない、と二人で御帳の後ろに小さくなって隠れていた。ところが殿が見ておられたのか乱暴に御帳を取り払われ私達二人の首根っこを押さえつけるようになさって、
「これ、和歌を一つづつ作られよ、されば許してつかわす」
 と酒臭い息を吹きかけながら申される。その態度がとても怖いので仕方なく和歌を詠うことにする。
 いかにいかがかぞへやるべき八千歳の
   あまり久しき君が御代をば
(私たちはそう長くは生きられません、そうすると八千年も生きられる若宮様のお歳を何方が数えて差し上げるのでしょうか)
「これは見事に詠われた」
 と二回ばかり私の歌を詠み上げられた後、すぐさま歌を詠われた。
 あしたづのよはひしあらば君が代の
     千歳の数もかぞへとりてん
(この私が千年も生きる鶴のようであれば、若宮様の千年のお歳を数えて差し上げられるのだが)
 あのようにお酔いになっておられても立派なお歌を詠われる、つくづく感心させられ、ごもっともなことだと思われた。
 このように若宮のことを大切にお扱いになられるからこそ、この館の栄光もいっそう盛んになるのであろう。千年のお齢も物足りないほどの若宮のご将来の栄えが、私ごとき人数にも入らぬような者の心にさえも、脈々と生き続けていくのである。
「中宮さま、今のこの女房の歌と私の歌をお聴きになりましたか。立派な歌を詠みましたよ」
 と自慢なさる。そして
「中宮さまのお父さまとして私は見劣りするようなことはありませんし、私の娘として中宮さまはご遜色なくていらっしゃいます。お母さまもまた幸せだと思って、にこにこしていらっしゃるようです。さぞかしよい夫を持ったものだ、と感じていらっしゃるでありましょう」 
 とご冗談を仰るのも大変お酔いになっていらっしゃることからだと思う。とはいえそれほどのご酔態でもないので、落ち着かない気持ちはしながらも、中宮さまはご機嫌よく聞いていらっしゃる。殿の北の方は、聞きづらいと思われたのか、退出なさろうとするご様子なので殿は、
「お見送りをしないといって、お母さまはお恨みなさるでしょう」
 と仰って急いで御帳の中を通り抜けられた。
「中宮さまはこんなに酔いしれてさぞかし無礼なこととお思いでありましよう。しかし親がいればこそ子も安泰なのです。」
 と、独り言を、女房達笑顔で見送る。


源氏物語書写冊子作り

 中宮さまが宮中にお帰りになる日も近づき、女房たちは行事が次から次へと続いて気も休まらないのに、中宮さまには、御冊子をお作りになられるというので、ご指示を受けた私は夜が明けると、先ず御前に参上して書写する紙を選び、物語の原本を添えてあちこち書写の巧みな人に依頼の手紙を書いて配る。その一方で私は書写されてきたものを綴じ集めて整理する仕事を毎日進めていた。殿が、
「一体どうして子を持たれた方が、この寒い時分にこんなことをなさるのか」
 と、中宮さまに仰るのであるが、上等の薄様(うすよう)の紙や筆、墨などを持参なさり、さらにお硯(すずり)までも持って来られた。中宮さまがその硯を女房たちに下されたのを、殿は大袈裟に惜しがつて、
「中宮さまのところにお仕えして、こんな仕事を始めるとは」
 と私を責めなさる。そう言いながらも殿は私に上等な墨挟(すみばさみ)みや墨、筆などを下さった。
 自分の部屋に、作成中の源氏物語などを、里へ取りにやって持って来て隠しておいたところ、私が中宮さまの御前にいる間に、殿がこっそ私の部屋にお入りになって、お探しになり、物語を二番目の娘妍子内侍さまに差し上げてしまわれた。まずまずという程度に書き直しておいた本は、みな紛失してしまったし、手直ししていない本が妍子さまに渡ってしまいきっとよくない評判が広がることになってしまつたことであろう。
 若宮は、片言のお話しなどをなさる。帝におかれては宮中にお帰りになる日を待ち遠しく思いになられる、もっともなことである。
 お庭の池に水鳥の飛来が日に日に多くなってくるのを見ながら、中宮さまが宮中へ還御なさる前に雪が降って欲しい、この庭の雪の様子は、どんなにか美しいことだろうと思っていて、ついちょっと里下がりした二日ほどの間に雪が降った。狭くて見栄えのしない実家の庭の木立を見るにつけても、気がふさぎ心が乱れる。ここ何年もの間、所在ないままにぼんやりとしていた日を振り返る。花の色、鳥の声、春秋に移り変わる空、月の光、霜、雪を見ても、ただ季節が回って来たのだな、と意識する程度で、わが身の行く末だけを考えて、先行きの心細さは晴らしようもない。
 それでも、ちょっとした物語などに関して話合う人の中から、気持ちの通じ合う人とは、しみじみと手紙をやりとりする。少し疎遠な人には、あらたに手づるを探してまでも文通したものだが、ただこの私の物語「源氏物語」を話題として応答をし、とりとめない言葉のやりとりで無聊を慰めながら、自分などこの世に生きながらえる価値のある人間とは思わないものの、当面は、恥ずかしいとか、つらいとかと実感することなく何とか免れてきた。
 ところが宮仕えをする身となってこんなにまで恥ずかしさ、辛さを思い切り味わわねばならない情けない私となった。
 その情けない気持ちを慰められるか、とためしに私の物語を取り出して目をやってみても、かつてのようには感興が湧いてこない。そんな自分に呆れている。共感してくれた人でともに言い交わした人も、私をどんなに厚かましく考えのない者として軽蔑しているだろうと、余計なことを心配して、手紙を出すこともできない。
 奥ゆかしく人から思われようと心がけている人、つまり俗人とちがって自分は高遠な心を持っていようと思っている人が、私に手紙を送ったら、どうせ簡単に読んで放ってしまい、送った文が散らばって他人に読まれことになるとつい疑う。そのように私を見ていてどうして私の心の中を察してくれることが出来るだろうか。それが当たり前のことだと、とても情けない気持ちでいる。そのようなわけで、交際を断ったというのではないけれども、自然に消息が断えてしまっている人もある。また私が、内裏や道長邸や里やとあちこち住処が定まらないものだから、手紙が着くかどうか分からないと推測して、文も更に訪れる人も次第に少なくなり、問題にするような事ではないにしても、今は別世界に生活しているんだという気持が、この実家に帰ると特に思いが昂じてきて、わけもなく悲しい気持になるのである。
 今はただ、宮仕え先でいつも親しく話を交わし、多少なりとも心にとまる人とか、懇意に言葉を交わす人とか、自然と親密に言葉を交わせる人だけを、ほんの少し懐かしく思われるのがいかにも頼りないことである。


 北の方倫子さまの姪である大納言の君が、毎夜、中宮さまのお側近くにお休みになっては、物語を語って宮にお聞かせするその声が漏れてくる気配が、里にいると恋しく思われるのも、宮の御前の勤めに慣れて、やはり俗世に順応してしまった、自主性のないわが心であるよ。歌を送ることにした。歌を贈る、
 浮き寝せし水の上のみ恋しくて
   鴨の上毛にさへぞ劣らぬ
(あなたとご一緒に仮寝をした中宮さまの御前ばかりが無性に恋しく思われて、ひとり寝する里の夜の冷たさは、霜の置く鴨の上毛のそれにも劣りません)
 大納言の君からの返歌、
 うちはらふ友なきころの寝覚めには
    つがひし鴛鴦ぞ夜半に恋しき
(上毛に置く霜を互いに払う友も居なくて、ふと覚めた夜中、鴛鴦(おし)の様にいつも一緒であったあなたが、恋しいです)
 その書体が実に素晴らしい、本当に申し分のないお方だなあと文を見つめる。 
「中宮さまが雪をご覧になられて、あなたが、よりによってこんな美しい雪景色のときに里下りしたことをひどくお咎(とが)めでいらつしやいますよ」
 と、同僚女房たちも手紙で知らせてきた。 北の方倫子さまからもお手紙を頂戴した。
「私がひきとめた里下がり、『すぐに帰参いたします』と言ったのも嘘で、いつまで里下がりをしているのでしょ」
 と、文面にあったので、たとえご冗談にせよ、私も確かに早く帰参すると申したことでもあるし、何よりもこうしてお手紙を直々くださったことでもあるので、恐れ多いことと思い、予定を繰り上げて帰参しお目通りをした。
 
 中宮さまが内裏へお帰りになるのは十七日と決定になった。午後八時戌の時と聞いていたのであるが、ご用意が大変のため遅延して夜も更けてしまった。髪を上げてお供する女房達が三十人ばかり暗闇でお互いの顔がはっきりと見えない。母屋の東面の間や東の廂に、内裏の女房も十人余り、私たちとは南の廂の妻戸を隔てて座っていた。
 中宮の御輿(みこし)、葱花輦(そうかれん)には中宮付きの宣旨役の女房である中納言源伊陟(いちよく)の娘陟子が中宮さまとお乗りになる。糸毛のお車に、殿の北の方と、少輔の乳母が若宮をお抱き申し上げて乗る。大納言の君と宰相の君は、黄金づくりの車に、次の車に小少将の君と宮の内侍、次に私が馬の中将と乗ったのだが、馬の中将が、ばっとしない人と相乗りしたものだと思っている様子,まあ勿体ぶっていると、自分はいよいよもってこうした宮仕の対人関係が煩わしく思ったことでした。
 内裏から見えられた殿司(とのもり)の侍従の君と弁の内侍、次に左衛門の内侍と殿の宣旨の式部というところまでは乗車順が決まっていて、その後の女房たちは、いつものことで思い思いに乗車した。
 内裏に到着して、車を降りる時、月の光が明るく照らし出してきて、人に見られて何ともきまりの悪いことと思いながら、足も地につかないほどであった。馬の中将の君を先に立てて歩かせたので、進む方向も分からずたどたどしく歩く馬の中将の様子は、それを後ろから見ていると、私の後ろ姿を見る人もどう思て見ているかと気になり、実に恥ずかしかった。
 細殿の三つ目の戸口の局に入って横になっていると、小少将の君もいらっしゃって、二人でこういう出仕生活の辛いことなどを語り合いながら、寒さでこわばった衣装を脱いで、隅のほうに押しやり、厚い綿入れの衣装を着重ねて、香炉に火を入れ、冷えきった自分たちの不恰好な姿を話していると、侍従の宰相藤原実成様、左の宰相の中将源経房様、公信の中将様などが、次々と立ち寄っては言葉をかけて下さるのが、かえって煩わしい。今夜は私達は内裏に居ないものとして過ごしたいと思っているのに、お三方はここにいることを誰かにお聞きになったのであろう。
「明朝早く参りましよう。今夜は寒さが我慢できなくて体が強ばっています」
 などと、当たりさわりのない挨拶をしては、みんながこちらの詰所のほうから帰って行く。めいめいが家路を急ぐにつけても、そこにどれほどの家妻が待っているというのかと、ついそんな思いで見送る。とはいえ、これはわが身の上に引き寄せて言うのではなくて、世間一般のありさま、そのなかでも特に、小少将の君が、とても上品で美しいのに、この世の中を辛いものと思いつめていらっしゃるのを見て思うのです。父君の出家の不幸からはじまって色々と不運が続き、その人柄から見ると、少将は幸せにひどく縁遠くていらっしゃるようなのです。


【大納言の君・小少将の君(ネットから)道長の北の方倫子は源雅信の娘で、兄弟で時通と扶義二人がある。紫式部と一番親しい二人の女房は多分時通の娘で姉妹である。時通が出家したので家の後を継承した扶義の養子になったと言う説】

 昨夜の殿からの贈物を、中宮さまは今朝になってつぶさにご覧になる。御櫛箱の中の道具類は、何とも言いあらわしようもなく見事な造りであって、いつまで見ていてもきりがない。手箱が一対あって、その一方には白い色紙を綴じたご本など、すなわち古今集、後撰集、拾遺抄などが納めてあり、それらの歌集はそれぞれ五冊に仕立てて、侍従の中納言と能書家の延幹(えんかん)とに、めいめい冊子一冊を四巻とするように割り当ててお書かせになり、歌集一つは二十巻になる。表紙は羅、薄絹で装幀され、紐も同じ羅の唐様の組紐で、懸子の上段に入れてある。下段には能宣や元輔といった、昔や現代の歌人たちの私家集を書いて入れてある。延幹と近澄の君とが書写した古今・後撰・拾遺の「勅撰集」はもちろん立派なもので、身近に置いてお使いになるものとし、他の「私家集」はもっぱら、良く知られてない書家にお書かせになったものであるが、新進書家の当世風の書風が変わっている。

*能宣(よしのぶ)は、伊勢神宮祭主中臣頼基の子。中臣能宣、蔵人所に勤務して役職を色々と経て終わりは伊勢神宮祭主。歌人である。
*清原元輔(もとすけ)は、『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の編纂に当たった。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首が入集。
*延幹(えんかん)は、能書家で知られる源兼行の父親。
*近澄(ちかずみ)は、侍従中納言藤原行成か能書家と言われた清原近澄か分からない。

 奈良時代以後、大嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭(にいなめさい)に行われた五節の舞を中心とする宮中行事が、今年は十一月二十日に行われることになった。この行事は次のような次第で進行する。
 十一月中の丑の日に舞姫は内裏参人。その夜天皇が常寧殿(五節殿)の帳台に出御あって御覧になる。帳台の試みという。寅の日には殿上にて淵酔(えんすい・えんずい)があり、夜、清涼殿で舞姫を御覧になる。御前の試みという。卯の日には清涼殿で童女(舞姫に従う童)御覧の儀があり、翌、辰の日は豊明節会である。
 淵酔とは、宮中の清涼殿殿上(てんじょう)の間(ま)に殿上人を召して催した酒宴。参会者は朗詠・今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日中の吉日、または新嘗祭(にいなめさい)などのあとに行われた。

 五節には舞をまう舞姫が選ばれる。公卿から二人、殿上人( てんじようびと)・受領(ずりよう)から二人。今年の舞姫を用意されたのは、公卿は侍従宰相藤原実成・右宰相中将藤原兼隆、国司は丹波守高階業遠・尾張守藤原中清。侍従の宰相に中宮から舞姫の衣装が手渡された。右宰相中将藤原兼隆が自分の舞姫に鬘を賜わりたいと中宮に申し出された、それを下さるついでに、箱に入った香料を贈り物に添える心葉として梅の花の造花を作って、兼隆の方から中宮のゆかしさに負けずにお返しするのである。
 今年の五節は、期日がさしせまってから慌てて用意する例年よりも、競いに競って立派にしたという評判なので、東側の御前の向かいに立てた板張りの目隠し塀の立て蔀に隙間なく明かりを点し、昼間より明るく、その中で用意をするのが極まりが悪いほどであるのに舞姫達が、扇で顔を隠すことなく歩み出て来る様子を見て、私は呆れる思いがし、女の心に対して同情のない有様だとばかり思うのだが、これは他人事とのみ思われない、私だって、ただ舞姫らのように殿上人とまともに顔をあわせて脂燭をとぼして見られないだけのことではないか。蔀や幔幕で囲われているとはいえ、大体の有様は舞姫らと同様に男たちが見ているのだろうと、自分の立場に思い及ぶにも胸が詰まる。
 高階業遠(たかしななりとう)丹波の守は受領として舞姫を差し出しているが、舞姫介添娘の錦の衣装が夜であるのに珍しく綺麗である、だが娘があまり着重ねているので動きがぎこちなく見えた。殿上人達が特に親切にして世話をしていた。主上も中宮様の御座所に来られて舞姫を御覧になる。殿もこっそりと忍んでこられて引き戸から中宮の側におられるので、私達は気ままにできず固くるしいことであった。


【中宮の居間に主上がお出でになって、舞姫達を御覧になる。道長様も忍んで来られて引き戸から御覧になるので、気ままな格好も出来ずに固ぐるしいことである】


尾張守藤原中清が差し出した舞姫の介添え役は背丈が揃っていて、雅やかで心憎いほどの美しさで、他の者には劣らないという批評であった。
 右の宰相の中将藤原兼隆の舞姫介添は十二分に善美を尽してある。厠掃除を役とする介添の女のみごとに肥えている姿が鄙びていると、見ている人は頬笑んでいる。
舞姫介添え役のお披露目最後は侍従宰相藤原実成が推薦した舞姫の介添え十人が紹介されたが、あの方が帝達の前に紹介したのだと考えてしまい、なんか少し今とは外れている感じがした。
 廂の先の廂、孫廂の御簾を降ろして御簾の下からはみ出している衣の褄が何か得意顔をしている感じで火影に見渡された。

十一月二十一日

 翌日寅の日、殿上(一条院の中殿)で酒宴ののち、五節殿(一条院の東の対)を経て、中宮御座所(東北の対)に参ったのである。
何時ものことであるが、数ヶ月の間里に下がっていたので下世話臭くなり、宮に上がって若い人を見ると変わった世界に迷い込んだ感じがした。しかし実のところ、今日はまだ公卿の着る摺衣は見るわけにもゆかない。「摺れる衣」はいわゆる小忌衣(おみごろも)。新嘗祭・豊明節会の日、神膳に奉仕する君達の祭服で白布に草木や鳥などの模様が青摺りにしてある。
その夜、中宮が東宮権亮高階業遠をお召しになって香料を与えられた。割合大きめの筥一つに高く盛り上げて入れてあった。
夜は清涼殿で主上が舞姫を御覧になる「御前の試み」という行事があるので、中宮は清涼殿(実は一条院の中殿)にお出でになって
主上と共に舞姫を御覧になる。若宮がお生まれになったので、邪気をはらうために大声で米を撒く散米されるので、いつもとは大変違った感じがした。
 飽きてきたので暫く休み、様子次第でまた御前に参上しようと、局に下がって囲炉裏に当たっているところへ、左京大夫源明理の娘「小兵衛」蔵人藤原庶政(なかちか)の娘「小兵部」若宮誕生五日目の道長様主催の祝いの時に中宮様に食事を差し上げるために選ばれたお二人が来られ、
「場所が狭いのでもう一つはっきりと見ることが出来ないね」
 と言われるほどに、殿道長様が来られて、
「どうしてこんなことをして時をつぶしているのか。さあ一しょに行こう」
 と、責め立てられるので、気が進まないが御前に参った。そして、舞姫達はさぞや苦しいことであろうと見ていると、尾張守藤原中清が差し出した舞姫が、気分が悪くなったということで退出してしまった、私には、一連の行動が現実とは思えない夢を見ているように思われたことだ。「御前の試み」が終って中宮はお退りになった。
この五節の舞の頃は君達は舞姫達の控えの局の趣向ばかりを話している。
「簾の上辺外側に引廻す幕帽額(もこう)それぞれ趣向が変っていて隙間があり、そこから見えていた女たちの髪恰好や動作素振などまでまるで同じものはなく、一人一人見た目が違い趣があるものだ」 
 と聞くに堪えない話をしている。
 今年のように若宮が誕生という特別な年を除いて毎年、十一月の中の丑の日、五節の姫を主上が御覧になる「帳台の試み」の日に、舞姫達の気遣いは一通りでないものだのに、今年は特別であるから気になって早く見たいと思っていると、並んで舞姫が登場すると、
次第に胸がつまっていたわしい感じがする。
とは言うものの、特に私が贔屓する者は居ない。我こそこの舞姫を、とそれだけ自信をもって差出したことだからだろうか、目移りがして、優劣がはっきりと見分けられない。今の人の目にはちょっと見で物の差別も判定できるのだろうが(私のような古い人間では)ただ隠れることが出来ないこの昼日中、顔を隠す扇も持たさないで、若い男達、老いた男達が入り交じって舞姫を見ている中で、それ相当の身分柄、心用意だとはいっても、他人に負けまいと争う心地も、どんなにか気おくれがするだろうと、わけもなく見るにたえぬ思いがするのは偏屈なことだ。「今めかしき人」に対して自分の心をいう。


【五節という宮中の行事を観覧した式部は舞姫達が男達の眼に晒されるのを見て、可哀想だと嘆く。男達が覗き見して色々というのを聞く、覗き見は今も平安時代も変わらない】


 国司からは丹波守高階業遠が舞姫を差し出している。その童が登場した。青い白橡(しらつ3るばみ)というが殆ど青色の童装束の表着である汗袗(かざみ)を着て可愛らしく見ていたが、侍従宰相藤原実成が差し出した童は汗袗の赤色を着せて介添役の下仕に赤色と対照に青色を着ているのが憎いほど気が利いている。その下仕の童の容姿は、中の火取童(薫炉をもつ童)はあまり整っているとは思えない。右宰相中将藤原兼隆が差し出した童は、大変すらっとして髪が美しい。その中の一人が場慣れしていると見ている者が言っている。みんなは濃い紅の袙(あこめ)を着て、その上に思い思いの色の表着汗袗を羽織っている。汗袗は裾や袖口の裏布を表に返して縁のように縫ってある部分が五重であるのに、尾張守藤原中清が差し出した舞姫だけが、襲が表紫裏赤、葡萄染を着せている。目立つがかえって深みをおび趣向ある様で、その配色光沢などが優れて見えた。下仕の中に容貌が優れた者が居てその者が御覧のために扇を置こうとしたので六位の蔵人が寄って受け取ろうとしたときに、自分から気をきかし扇を投げたのはよく気がつくとは思ったが、女にはあるまじき行動だと思うが、もし私があの娘の立場であれば扇を投げようか取りに来るのを待つか、まごついて歩けなくなったであろう。
 本来私はこうまで人中に立出でようなどと思いもしなかったことだ。だが、目には見えないが、呆れてしまうのは心というものである。だから、これからさき私は厚かましくなって、宮仕生活にすっかり馴れきってしまい、直接男の中に顔をさらすのも平気になるようになる、とこれから先の自分を夢を見るように思いつづけ、あってはならない男関係なんかを考えたりして、眼前に繰り広げられている五節の舞姫の行事なんかに目がいかなくなってしまった。 

* ここで、式部やその時代の人には分かり切ったことであるが、一条天皇を巡る后妃を整理しておく。
一条天皇十一才の時に藤原定子(ていし)十五才入内。990年、父道隆関白左大臣。
子内親王、敦康親王を出産。権勢を誇った兄の隆家が失脚すると、宮中を退く、が再び呼ばれて、一〇〇〇年定子二十五才皇后宮となる。が十二月難産で死亡。清少納言が詳しいく定子のことは書いている。
 九九六年一条天皇十七歳の時に二十三歳の藤原義子が入内する。藤原兼家の姪に当たるから道長とは従兄妹になる。この義子にかって仕えていたのが。「左京馬」と言う女房である。
 一〇〇〇年藤原彰子が入内する。一条天皇に中宮と皇后が二人存在する。彰子は十三才で中宮になり一条天皇は二十一歳である。
その他に藤原元子、藤原尊子がいた。


 侍従宰相藤原実成から差し出された五節の舞姫の控え局は、中宮の座っておられるところから近くであった。立て蔀の上部から、若い男君達が評判にしている簾の隙間が見えた。蔀の中で話す声も微かに聞こえてくる。
「弘徽殿女御(藤原義子)の御方に以前に仕えていた左京馬女房が、たいそう物馴れて交っていましたね」
と、宰相の中将が昔見知っていたのか、話されるのを、
「先夜侍従の宰相の舞姫の下仕えでいた人で、東側にいた人が左京である」
と、源少将も知っている、それがすぐに中宮女房達に知れて、
「面白いこともあるものだ」
 と言いながら、どれ、知らん顔で見逃してはおけまい。昔お上品ぶった風をして大きな顔をしていた宮中に、いまはこんな五節の下仕えにまで零落れた姿を見せるということなんてあろうか。自分では人目に隠れているつもりだろうが、そうはいかない、こちらではおおっぴらにしてやろう、という魂胆から中宮の前に数多く置かれた扇の中から、蓬莱山が描かれた扇を特に選んだのは、意味するのは不老不死の仙境の絵を示し、左京馬女房の身の転変を揶揄したのであるが、彼女は女房達の揶揄を悟ったことだろうか。


【以前弘徽殿女御藤原義子に仕えて羽振りをきかせていた女房の左京馬が零落れて舞姫の介添え役の下働きになっているのを見て、中宮の女房達は仕返しを考えて、舞姫が置いた扇の中から蓬莱の絵が描かれたのを取りだした】


 蓬莱の絵とは、中国の東方にあって不老不死の仙人の住むところという伝説の山である。中宮の女房達が選んだのには何かの魂胆がある。
 女房達は贈り物を載せる硯箱の蓋に扇を広げておいて、日蔭鬘という神事に用いるつる草を形式化して青い組み紐で作った冠の飾りをまるめて、皮肉の意味を込め五節の童女が頭髪に差す反った形の刺櫛の端々を薄様の白い紙を重ねて小幅に切りそれで櫛の両端を結んで添えた。
「少し年配でおいでの方なのだから、これでは櫛の反り様がどうも平凡ですよ」
 と側で見ていた君達が言われるので、今の若い者風に櫛を反るだけ反らし、更に薫物(たきもの)の黒方を棒状に不格好に伸ばして両端を切り、白い紙一重ね(二枚)に黒方を包んで、それを立文にした。大輔おもとに一筆書かした。おもとは、
おほかりし豊の宮人さしわきて
しるき日かげをあはれとぞ見し
(大勢いた豊明節会に奉仕する宮人の中、特別目に立つ日蔭鬘、あなたを感慨深くお見受けしました)
中宮は、
「同じことなら風情あるようにつくって扇なども沢山にしたら」
 と、仰せられるが、
「大げさなのも今は適わしくないでしょう。特別に御下賜になるのであっては、こんなこっそりとした方法でなくて、正式になさるべきではありません」
とお答えして、顔があまり目立ちそうもない局の者を選んで、
「これは、中納言のお文で 御殿より左京の君へ贈られた物です」
 高々と捧持して行って相手かたに謹呈の状と共にお渡しした。
使いの者が引止らめれるようなことがあったらまずいことになると思ったが、使者はさっさと帰って来た。蔀の中から女の声で、
「どこからの贈り物か」  とたずねる声が聞こえたようだが、女御様からのお便りだとすっかり信じこんだであろう。

 それ以後は何も書くようなことはなく過ぎていたが、五節が終わった後の宮中はにわかに寂しくなったが、十一月二十六日、未(ひつじ)の日に二十八日の賀茂臨時祭の雅楽の試楽があり、見事な演奏であった。それが終わった後の若い殿方が何となく所在なさそうである。

道長様には二人の夫人が居られる。一人は彰子様の母倫子様。もう一人は一条天皇の母詮子に預けられていた、左大臣源高明の娘明子で、その子供達を高松の小君と呼ばれていた。その高松の小君までが、今度中宮が内裏にお入りになった夜(十七日)からは、女房の局に出入りを許されて、絶えずゆききなさるので、女房たちはとてもきまりわるい思いをしている。私は年配であるのをいいことにして若君達の前から隠れている。若君たちが五節の舞姫なんかに恋い慕うことなく、若い女房のやすらひ、小兵衛達の裳の裾や汗袗に触ったり踏んだりしてつきまとっては、小鳥のようにおしゃべりしてふざけあっていらっしゃるようだ。

十一月下の酉の日は賀茂臨時祭でその奉幣使は殿の二番目の子息の教通様である。その日は物忌みに当たるので道長様は帰宅せずに宮中で宿直された。上達部、祭の舞人の君方も宮中に籠もって、一夜女房の局の近くは騒々しかった。
翌日、藤宰相(実成)の御随身、教通様の随身に何やらを受取らせて去ったとか。それは先日五節の日に中宮の女房達がからかって左京の君へと送り届けた筥の蓋に、白銀の冊子を入れるための筥を置いてあった。冊子筥の中には鏡が入っていて、更に、沈の櫛、白銀の笄など使の教道様が髪をかきつけなさるようにとの趣向である。箱の蓋に葦手書きの細い字を泥で浮き出すように先日の返事が書かれてある。


【中宮女房の嫌がらせは手が込んでいる。すぐには返事が来ないが、五節も終わり宮中が静かになり、退屈しているなかで男君たちの若い女房とのふざけあい、そして賀茂の臨時祭りに使者となった教通の所に先日の嫌がらせの答えが返ってきた】


歌がある、(後拾遺集1122長能)
 ひかげ草かがやくかげやまがひけむ
   ますみの鏡くもらぬものを 
 葦手書きなので二文字がよく読めなかったのではっきりと内容が判読できない。何となく返事の趣旨がくいちがっているなと思えるのは、実は内大臣が中宮からだと合点なさって、こんなに仰々しく御返事をなさったのである、と言うことを聞いた。つまらない悪戯なのにお気の毒にも大袈裟になさって。
倫子様も清涼殿(今は一条院の中殿である)にお出でになって祭の使者発遣の儀を御覧になる。使者は出発前、清涼殿の前庭で使と舞人に宴を賜わるのである。
 使者の教通様は藤の造花を冠に挿してたいそう堂々と大人びでいらっしゃるのを、乳母の内蔵の命婦は舞い人には目もくれないで教通様を見つめて見つめて涙を流しておられた。 宮中は物忌みであるので使者は賀茂社より丑刻(午前二時)に帰還したので、帰還の神楽「還立ちの神楽」はほんの印ばかりであった。左近將監尾張兼時が去年舞われたときは素晴らしい舞でさすが舞の名手と思ったのであるが、今年は歳を取られたせいか舞の勢いがなかった、関わりのない他人ではあるが我が身と引き比べられることが多々ある。

 十二月二十九日

 里に下がっていて師走十二月二十九日に内裏に帰参する。初めて内裏りに上がったのもこの日であった。あの時は夢路を歩むようにひどくまごまごとしたものだと思い出して、今はすっかり宮仕生活に馴れて、世間に迎合した気分になっている、と何となく不愉快な気分である。夜がすっかり更けてしまった。中宮様が物忌みであるので御前に帰参の挨拶には参らず、何となく淋しい気分で横になっていたところ、一緒にいる女房たち「内裏は何といっても様子がちがいますね。里だったら今頃は寝てしまっているでしょうのに、局を訪ねる男たちの足音が激しくて、眠ってなんかいられない」
 何となく好色がましく言うのを聞いて、
 としくれてわが世ふけゆく風の音に
         心のうちのすさまじきかな
(年が暮れてわが命もまた老いて行く、その夜ふけの風の音につけてもわが心の中はわびしく荒涼としていることだ)
 とつい独り言を言ってしまった。

 大晦日の夜恒例の鬼やらいの儀式追儺(ついな)は早くに終わってしまったので、お歯黒つけなど、ちょっとした身づくろいをしようと、くつろいでいると、辨の内侍が来られて色々と話をしてから床についた。内匠(たくみ)蔵人は、母屋と廂は一段低くなっているが境の横木が長押、その下で女童のあてきが縫い物をしているのを、表裏を重ねて袖口や棲などを折りひねるのを熱心に教えたりしていたところが、前庭の方が何か喧しく騒ぎ立てる。辨内侍を起こすけれども急には起きてくれない。人が泣き叫ぶ声が聞こえてきて
とても恐ろしく、どうしてよいか分別がつかない。火事かと思うが、そうではないようである。
「内匠の君、起きてください」
 と先に起こして、
「とにかく、中宮様は、主上の居間ではなく御居間においでです、まずは行って見ましょう」
 と、辨の内侍をたたき起こして、三人震えながら足が地に着かない感じで御殿に上がると、裸の人を二人見つけた。靭負(ゆけい)と小兵部二人の女房である。盗賊に襲われたのだと分るといよいよ気味がわるい、食膳を調進する所御厨子所の人もみんな帰ってしまって、更に宮中警護の侍も、滝口と呼ばれている警護の詰め所も、追儺が早く終わったのでみんな帰ってしまっていた。手を叩いて呼ぶのだが返事が帰ってこない。御膳を納めておく所御膳宿の事務を掌る女官を呼出して出てきたその人に、
「殿上に行って兵部丞蔵人を呼んで、呼んで呼んで」
 と恥も忘れて兄の惟規(のぶのり)を呼ぶように直接大声で告げるが、退出していた。格好が付かない。

【女房の悪戯を相手は中宮からの贈り物と勘違いしていた。それで大層なお返しがあったのだろう。賀茂社の臨時祭りに宮中から使者が送られる。物忌みの最中である様子が分かる。
 年が終わる、大晦日の行事追儺(ついな)が早く終わり、女房達が寛いでいる夜中に盗賊が入る。警護の者達も帰ってしまっている。式部は兄の兵部丞蔵人惟規(これのり)を呼ぶようにと言うが、彼は退出していた】


 式部の丞資業(すけなり)というのが来て、所々の灯台の油を一人で注いでまわる。そこらに明かりが点って人々の顔がはっきり分かるようになると、みんなが何かに怯えて呆然として向き合っていた。主上から中宮への見舞いのお使いが来られる。本当に恐ろしいことであった。貴重品・衣服・調度などを納める納殿から衣を持ってこさせて靱負・小兵部に渡される。元旦用の装束は盗んで行かなかったので、何事もなかったような風をしていたが、二人の裸の姿は忘れられない。恐ろしかったのに、しかも、もちろん滑稽だったなどと言わないまでも、ついその様子が口に出てしまう。

 正月一日、坎日(かんにち)という陰陽で諸事に兇であるとして外出を忌む日であったので、若宮の将来を祝う元日に小児の頭に餅を戴かせる儀式御戴餅(いただきもち)の儀式は中止となった。三日には若君が初めて清涼殿に登院された。今年のお給仕役は大納言の君。着られる衣装は、一日の日は重袿で紅に葡萄染を重ね、唐衣は赤色。型摺りで文様を施した「地摺りの裳」。二日は縦糸紫、横糸紅の織物の表着、柔らかい絹の搔練(かいねり)の打衣(うちぎぬ)は濃い紅色で唐衣は青色、模様を色どって摺り出した裳。三日目は、綸子の桜がさねの表着、表白、裏濃紫の表着、唐衣は蘇芳(すおう)の織物。掻練(打衣)は濃い紅を着る日は紅の袿を下に着、逆に紅を着る日は濃い紅の袿を下に着るなど、それはきまった様式である。表薄青、裏縹(はなだ)、また女房達は表裏ともに萌黄色、表薄朽葉、裏黄色、表紅、裏紫、表薄縹、裏薄紫または白等々、ふだん用いる色目色目を一度に六種ばかりと、それに表着を重ねて、じつに結構な様子をして伺候する。
 宰相の君が若宮の主上から戴いた御佩刀を捧げて、殿の道長様が若宮をお抱きになっておられる後ろに従う、帝の御前に登られた。 宰相の君の着ておられるのは、紅の袿三重(みえ)かさね五重(ごえ)かさね、同じ色の紅色の砧で打って艶出しした七重かさねの袿に単衣を縫い重ねそれらを混ぜ重ねてその上に固紋の同じ色のを着て、袿葡萄染めの型木の模様を浮出させて織ったもの、仕立て方が優れている。三重かさねた裳、赤色の唐衣、赤色の唐衣に菱形模様を織り出して、全体を唐風に華麗に趣向を施している。髪も美しくいつもより時間を掛けて手入れして、見た目にそして動作も優雅にすきがなく行届いていて美しい。宰相の君は背丈もちょうどよい工合で、ふっくらした人であって少し細めの顔立ち、顔の色つやが綺麗である。
 大納言の君は、とても小柄で、小さいといってよい部類の人で、色白で可愛らしい風貌で、まるまると肥えている人、その人が見た目にはほっそりと見え髪は裾から三寸ほど出て髪に挿した簪などは他にない細かい細工で美しい。顔もたいそうきびきびしていて挙動など可愛らしくなよやかである。
 宣旨の君は、小柄な人で、たいへんほっそりと身体が伸びて、髪が細く整って美しく、背中に垂れ下がっている髪の末が裾より一尺ほど余っていらっしゃる。こちらが決まり悪いほどすぐれた感じでこの上なく気品ある方である。宣旨の君が物陰からふと歩み出て見えても、あまり立派なので、見ている私の方がまごついてしまって、気をつかわないではいられないような感じの方である。気品ある人とはこうあるものなのであろうと、その心のもちかたが、ちょっと何かおっしゃるにつけても、思われる。ついでに人の見た目を言うのであれば、口さがないということになりましょうか。それも目の前の人ならばなおさらです。言うのは気兼ねです。だからこれはどうかな、などと、少しでも欠点のある人のことは言いません。


【年の暮れその年の最後の行事追儺が終わりホットしている大晦日の夜に宮中に盗賊が入り二人の女房を裸にして、着ている物を剥ぎ奪って失せた。女ばかりの世界は大騒ぎとなる。そうして迎えた新年の日が忌み日、一切の行事がない。「戴餅」の儀中止。若宮初の内裏へ、式部は晴れ姿の女房達の姿形、衣装を細かく記載する】


 北野三位の娘さん宰相の君は、ふっくらと子供子供していて才気ばしった風貌をしている人で、一見するよりも何度も逢ううちに、じつに立派さが分ってきて、洗練された口もとの様子に、人に気おくれをさせるような気品もまた花やかな感じも備わっている。挙措動作など大変美しく華やかさが有る。気立てもじつに難がなく好感がもてるけれども、こちらが恥ずかしくなるような凛とした気品もおありの方である。
 小少将の君は、どことなく上品で優雅、二月頃のしだれ柳のような風情である。容姿は美しく物腰は柔らかい、自分の意志から進んで決断するという所もないように遠慮をして世間に対して気をつかい、見るに忍びないほどにおぼこでいらっしゃる。意地の悪い人で、悪しざまにあしらったり陰口をきく人でもあったなら、そのまま、そのことにくよくよとして、まるで死んでもしまいかねないほどか弱くて、どうにもならない点をもっていらっしゃるのが、まあ兎に角気がかりな感じである。
 宮の内侍は、大変清らかな方である。背丈が実に丁度良い程合の人で、坐っている姿や全体の恰好は堂々として現代風な風采であるが、格別に美しいとは言えないが、それでも何となく実に爽やかな美しさで初々しく、顔の中央が少し高い感じの肌の色合が白く人に優れている。黒髪と釣り合いのとれた額のきわは何と美しくばっと明るい感じで可愛らしさをもっている。ごくありのままに振舞って気立ても穏やか、いずれの面につけても露ほども気づかわしい点がなく、万事そうありたいものと、人の手本にしてもよさそうな人柄である。風流な様子を見せようとしたり気どったりする点はない式部のおもとは、宮の内侍の妹さんです。ふっくらというより肥っている人で、色白でつやっやと光るように美しくて顔はきめがこまかで風情がある。髪はとても端正で綺麗であるがそう長くはないようである。髪が短いので添毛をして勤めに上がっている。その太った姿はとても可愛らしく感じた。眉毛や額の感じが清らかである。にっこり笑うととても可愛らしい。
 若い女房の中で姿形がよいと見えるのは、小大輔、源式部。
小大輔は小柄で容姿は現代風、髪はとても綺麗でもともと大変ふさふさと多く、裾より一尺以上余していたが、いまは脱け落ちて少くなっている。顔はほっそりと利発そうで嗚呼美しい人だと曳かれます。姿形は非の打ち所がない。
 源式部は、背丈は程良くすらっとして顔は小さく整って見れば見るほどとても美しく愛らしげな様子、何となく清純な感じでさっぱりとしていて、親がかりの娘のようで、宮仕の女房にふさわしくないうぶな感じで見える。
 小兵衛の丞もとても美しい。いままであげてきたこれらの人々は殿上人が見のがしておくことはほとんどない。殿上人とたいてい好い仲になっている、うっかりしくじると知れ渡ってしまうものだが、人の見ていない所でも用心するから知られないでいるのですよ。
 宮木侍従こそが大変美しい人でありました。小柄でほっそりとした身体、まるで童のような様子でありましたが、自分から好んで年寄じみ、尼になってそれきりになってしまいました。髪は袿より少し長く、髪の裾を綺麗に美しく切り揃えて参上されたのが、思えば最後の時だったのです。綺麗な方でした。
 五節の辨という方が居られます。平中納言が養女にして大切に世話しているということだった人であって、美しい絵から抜け出したような綺麗な顔で、額が広く目尻がとても低く非の打ち所が無く色が白い、手や腕の格好が美しく、髪は、はじめてお逢いし春は、一尺ばかり裾より長く、大変豊かに見えていましたが、今は意外にも分け取ったように脱け落ちて、しかしそれでもさすがに裾は細くならないで、長さは背たけより少し長めのようです。
 小馬という人は髪が長い。以前は美しい若女房、しかし今は史記に「藺相如曰、王以名使括。若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳。不知合變也。趙王不聽。遂將之」とあるように小馬も琴柱に膠をさすという例えのように、如何に呼ぼうとも里に引き籠もってしまって出仕しない。


【藺相如曰、王以名使括。若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳。不知合變也。趙王不聽。遂將之。
 藺相如(りんしょうじょ)曰く、王は名を以て括(かつ)を使う。柱(ことじ)に膠(にかわ)して瑟(しつ)を鼓(こ)するが若きのみ。括は徒だに能く其の父の書伝を読むのみ。変に合うを知らざるなり、と。趙王(ちょうおう)聴かず。遂に之を将とす。式部は父親が男であればと嘆いたぐらい漢書をよく読んだそうである】


 このように、ずっと人々の容姿について述べてきて、それではその人の性質はというと難しいことになります。それも各人各様であってひどく駄目なのもない。また特別に立派で、思慮に富み、その上すぐれた才芸もあるとか、情操もあるとか、危げなく信頼もおけるとか、全部が全部を一身に具えるということは滅多にないものだ。人とりどりで、どれを良しとすべきかと思案されることが多い。こんな風に私が生意気にあれこれと言うのは、まったく無礼なことです。
 宮中では古来神への崇敬の念を表す行為のひとつで、未婚の皇女を神の御杖代(みつえしろ)とし奉仕させて伊勢神宮を「斎王」ついで賀茂の大神に「斎院」という名で送られた。天皇が交代する度に易を立てて皇女を決めて使者に報告させ、次に御所内の一所に初斎院と云われる居所を設けられ、三年間潔斎修行をする。賀茂の齋院は三年を経て四月上旬吉日に愛宕郡紫野の野宮の院(紫野院とも云われた)に入られ、賀茂川にて御禊を行った後初めて祭事の奉仕が許された。この院には事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、長官以下官人、内侍、女嬬等が仕えた。
 その齋院に、中将の君と言われる女房が居られる。この人について耳にする事がありました。私の知人が中将が知人の所に送った文をこっそりと分らないように私に見せてくれた。内容はひどくお高くとまった文章で、自分だけが世の中でものの情理がわかっていて、また思慮が深い。これは他に類がない。世間の人は総て思慮も分別も無いように思われてならない。こんな事を書いている中将の君の手紙を読んで、無性に不愉快になって他人事ながら腹が立つ(おほやけばら)、下々の者が言うように憎らしく思えてきた。気がねない私信のつもりで書いたのであっても、
「歌などが趣き有るのを詠むことが出来るのは、この齋院の他に誰か知っているという人が居られるか。もしすぐれた人間が世に生れ出るなら、さしずめわが斎院こそそうした人を鑑別できるというものだ」
 と、まるで見識ある斎院には立派な女房がいる。自分もその一人だ、という自慢ではないか。
 なるほど最もな言分だが、自分の方のことをそんなに言うのなら、齋院の方が詠まれた歌が、優れたものであってよいのに、非常によいと思えるのもありはしません。斎院がたはもっぱらたいそう情趣があって、曰くがありそうな処ではあるらしいようである。奉仕する女房を比べて優劣を競争するなら、私が見ております中宮がたの女房に、必らずしも彼処の女房が優ってはいないだろうが、彼処は、世離れているのでいつも内情に立ち入ってくわしく見ている人もいない、だから何と判断して良いか言えない。
 情緒のある月夜・物を言うような有り明けの月・花見に行く場所・時鳥の声の聞き所・それらを観賞するには齋院は本当に雰囲気の良いところで世間から離れた神々しい感じがするところです。俗事にあくせくすることもない。私がお勤めする中宮がたのように、宮が清涼殿に参られるとか、あるいは殿(道長)がお出でになるとか、御宿直であるとかなど、何となく用事の繁雑な事というものもないので、齋院の方々は、そんな勤めの空気の中で自分の行動を自然にわきまえたしなむのだから、風流事のありたけをし尽す中では,それが日常になって、間違っても誤ったことを言うはずがありません。
 仮に私のようにひどく内気な者でも、齋院でお勤めをしたならば、そこである男と知り合って言葉を交わすようになっても、場所柄から相手の人が私を軽薄な女だという評判を負いかぶせることもないと、気が緩んで、自然女の色気が付いてしまうでしょう。若い人なら、年齢、容姿引け目を感じないから、熱心に相手の気をひこうとしたり、何か気のきいたことを言おうと本気で男に向かった場合は、そうひどく他人に遅れを取る者もありますまい。


【周りの同僚のことを一応終わって、今度は賀茂の齋院のことを言う。女らしい文章で内容は辛辣である。野々宮は「源氏物語」でも六条御息所の娘が伊勢の齋王となる前に一年間ここで潔斎する、源氏と六条御息所が密かに逢う。「賢木(さかき)」の巻に詳しく書かれている。そこの女房が見識高いのを自慢するのを批評する】


 斎院がたではそんな風だが、内裏では互に対抗なさる女御・妃はおられない、そちらの女房がどうで、あちらの細殿の女房はこうで、と品定めをなさる方々もおられず、男も女も争い対立することもないので、宮で働く男も女も緊張することなく、さらに、中宮のお考えは、色めかしく振舞うのを浮薄だ思っておいでであるから、自分は十人並みの器量であると自負している人でも軽い気持で人前に出ると言うことはありません。そうは言っても中宮にお仕えする女房の中には、人にあまり気を遣わず恥ずかしがらず、自分がどんな評判になっているかも何とも思わぬ、そのような人はやはり、人と違った性格を隠しているわけではない。この人達が気楽に男と話をするから、彼女達以外の中宮の女房達は引込思案だ、もしくは心遣いがないなどと言われ、それが全体的になって中宮の周りの女房は情がないと言うことになってしまう。
 中宮がたの上級・中級の女房たちは、本当に人前に出ようともしないで引きこもってお上品に振舞ってばかりいる。そんな風では、中宮の御ためにお引立ての役にならず、見ぐるしいとさえ思われます。このような欠点を私はとりあげてますが、才にしろ仕草にしろ人より大変に劣っている優れているというお方はまず居られないものです。そうは言っても、若い人でさえ軽薄にならない様にと真面目に振舞っている当世に、年配の上・中﨟がみっともなく浮ついていますのも実に見苦しいことです。只、皆さん全体の雰囲気は、あんまり無風流で無いようにして貰いたいものです。
 そのような訳で、中宮が不足なく洗練され奥ゆかしい心の方であり、外には控え目になさる御気性から、中宮は何も自分から言うまい、言い出してみたところで、この人ならと信頼がおけて、面目を保ち得るような人はなかなかいないものだと、そう信じていらっしゃる。実際に何かのことに不十分なことをしては、失敗するよりもまずいことであります。かって、中宮御所で働く女房の中に物事を遂行するのに深く考えないで、我こそはという顔をして幅をきかせている女房が、出来そうもないことを何かの折に言い出したことがあったのを、その頃中宮はまだ若く、乗り気になって聞き入れになり、大変に恥ずかしい思いをなさったことがあった。そのことを後に心中深く思しめし、それからは、何も口に出さずに欠点なく過すのを本当に無難なことだと思しめされた。そのお気持に、よくかなうように子どもっぽい性質のお嬢さん方だけがお側にお仕えしているうちに、こうして遠慮がちの気風ができてしまつたのだ、と私は解しております。
 今は中宮も成長なされて世の中とはこういうものだと人の善し悪しを良く御覧になって判断なされるので、この中宮御所の雰囲気を殿上人達は特に趣がないと思いもし、言いもするらしいと中宮は総て分かっておられる。そうだからと、どこまでも奥ゆかしくやり通すというのでなく、一歩誤ると、軽佻浮薄な事態も起ってくるものだ。それで野暮に引込んでいるのを、中宮ももっとかくかくしかじかであって欲しいと思し召したり、また仰せられもするのだが、自然に出来上がった風習は改まり難く、また当世の君達も、此処では周囲の気風に屈して誰もみな生真面目に振舞っていることになる。
 齋院のような場所で、月を見て、花を愛でるそれ一本槍の風流事をこそ自然に求めもし、思いもしたり言ったりするのであろう。中宮御所のように、朝タに人が出勤したり退去したり奥ゆかしい感じのない場所で、毎日日常の用件を聞いたり命じたり、あるいは興ある事柄をも言いかけられて的確な答えを返事する、このようなことが出来る女房は、実に少くなってしまったと人は噂をしている。
 私自身は実際に見たことではないから一向分らないことだ。



【紫式部、中宮御所の雰囲気を紹介。淀んだ空気に耐えられないのであろう。実に細かく観察している。観察はまだ続く】


 殿上人が女房の局に立ち寄って、ただちょつとした話をするときに、相手の気分を害ねるような言葉が少しでも混じるのは困りものである。本当にうまく応待してしかるべきことなのだ。しかし間違った一言を言ってしまうことは、人と接する心構えはとても難しいということになるのでしょう。といって、相手が気を悪くすることを言うのではないかと、憎いほど引込思案でいるのが良いというわけではない。だからと締まりがなくあちこちと出しゃばって口出しするのはよいと言うことでもない。適当にその場その場の状況に合わせて言葉なり動作をするということは難しいことである。
 まず一例として、中宮の大夫が参上されて中宮とお話があるときに、お取り次ぎをする大変に子供じみた上の女房達は大夫と面接して中宮にお伝えすることは出来かねる。また応待しても何事をお答えするのか、はきはきとおっしゃれそうにも見えない。言葉を知らないと言うことはない、心が備わっていないと言うことでもない、きまりがわるい恥ずかしいと思う心から、ついしくじりもしかねないので、それが何となく嫌なのだ、もう何も聞かれまいとて,相手が話しかける隙を作らないようにするだろう。上の女房、上﨟以外の女房たちはそうではないようです。このような宮仕えに女房として出仕したからには、その人が高貴の家の出身であろうとも皆世間のしきたりに従うのだというのに、此処の人たち誰もが全くお姫様時代そのままの態度で出仕なさっておられる。そのようなことで下位の女房が大夫の応対に出るので、大納言の大夫は気分悪く思われ、当然応待すべき上膓たちが里下りをしていたり、局にいる者でも、余儀ない暇にさしつかえる折々は応対する女房が居なくて用をなさらないで退出されることもあるようである。大夫以外の上達部は中宮御所に来られるのに慣れておられて、中宮にものを申し上げるに馴染みの女房が居てその人を通じて申し上げる、しかしその女房が不在の時は、仕方がないと退去される、そのような方々が、事にふれてこの中宮御所のことを、
「はっきりとしない引っ込み思案の処」
 と言われるのも道理である。
 齋院に働く者たちも、右のような事から中宮御所を見下げるようになるのであろう。そうではあるが、自分のほうが立派な点があって、これは他所の部署で働く人には見ても分からないだろうし、まして聞くだけではとうてい判断することが出来ないと軽蔑するのは、これはまた無茶な話である。大体、他人を非難することは容易であり、自分の心構えを決めてゆくことは難しいに違いないことだが、そうは思わないで、まず自分こそ賢いという態度で人をないがしろにし世間を悪くいう態度は、かえって心浅い人間と見透かされるようである。
 ほんとうにお目にかけたかったような中将の君の手紙の書きぶりですよ。知人が隠し持っていたのをこっそりと読ませていただき、文はすぐに取り返されましたので手許にはなく、お目にかけられないのが残念です。


【紫式部は最終的に齋院の者たちに喧嘩を売っているようである。これは私の読み違いであるかな?才女であると自意識過剰な式部の一面、さらに彼女の毒舌が、当時張り合っていた和泉式部、清少納言に向かう。このことを受けて二人の才女がどう答えたのかは分からない】

【紫式部の才気は激しく中宮御所、齋院に働く女房達を批判する。彼女自身が恥をかくのを恐れて、引っ込み思案の女ではなかったのでは無かろうか、みんなの蔭から鋭い目で眺めていたのでは・・・・・。さて、当時の才媛の二人にどういう毒舌を嚼ますのだろう】


 和泉式部という女房とは、しみじみとした味わいふかい手紙のやりとりをしたものである。だが彼女には常軌を逸した一面があると言われているが、何気なくすらすらっと書いた文を読むと、文筆の才のある人で、何気なく書いた文章の艶やか美しさが見られるようです。和泉の歌実に見事なものです。古歌の知識や歌作の理論の点では、本物の歌人の様ではないようですが、口にまかせた即興の歌などに、面白味のある目立つもの一点がきっと詠み添えてあります。しかしこれほどの歌人でもやはりなお、他人が詠んだ歌について非難したり批評したりしているのは、さあそれほど歌について分っているのではあるまいと思われる。口さきですらすらと歌が詠めてくるのだろうと思われるような歌風なのですね。こちらが引け目を感じるほどの歌人だとは思われません。
 丹波の守の北の方を宮殿の方々の中には、匡衡(まさひら)衛門と呼んでいた。歌人としてとびきり優れているというほどではないが、まことに味わいがあって、歌人だといって、万事について詠み散らしはしないが、知られている限りの歌は、ちょっとした機会に詠んだ歌も、それこそこちらが恥ずかしいような立派な詠み口なのです。ややもすると第三句(腰句)と第四句との続きの悪い歌を詠んで、いうに堪えぬほどつまらない、形だけの風流をして見せて、自分こそたいしたものと思っている人がいる。小癪にも気の毒にも思われる歌人なのです。
 清少納言という女房こそ高慢ちきな顔をしていて実に大変な女です。大層利巧ぶって漢学の才をひけらかしているが、よく読んでみると十分でない点が多い。このように他人と違って特色を発揮しようと、すき好んでいる人は必ず見劣りし、行く末はろくでもないことになるばかりなのです。また情緒本位が板についた人は、何でもない索漠とした光景を目にしてでも、無理にそこに何か情趣が有るような風情を見つけて行こうと作品を作っているうちに、自然に感心しない軽薄な作風にもなるのでありましょう。そのような人の最期は良いとは言えません。
 このようにあれこれにつけても、何一つの思い出となるようなことも、取柄とすべきこともなくて過してしまった私が、夫を亡くした身で行く末を頼みとする人もなく、慰め合う友もないのであるが、だからといって私はすさんだ気持で世を過している身だとだけは思いますまい。その心失せてはいないのでしょう、もの思いが多くなる秋の夜に緑近くに出ていて、月をぼんやりながめるなら、月を昔はよく愛でて歌を詠んだものだがと若い頃の様子が浮かび、老いた我が身が目立つように感じるようなことになりましょうし、また世間が不吉だといっている月見の咎にもきっと触れることになる、と遠慮して奥に引き下がってみるも、心の中の思いを続けるのは止めることが出来ない。
 風の涼しい夜に下手な琴を一人で弾いていると、
「わび人の住むべき宿と見るなべになげき加はる琴の音ぞする」。(世を厭う人が住むような家だと思って見ておりますと、丁度そのとき嘆きが一層増すような琴の音が聞こえてきました)奈良にまかりける時に、荒れたる家に女の琴ひきけるを聞きて、よみて入れたりける。古今集良岑の歌(985)のように、聞いていてため息が加わるような琴の音がすることだ、私の独奏を聞き分ける人もあるのではなかろうかと、忌まわしく思われますのは、我ながら哀れなことであります。それが実は、煤けた部屋に十三絃の箏の琴、琴柱を立てて絃を張ったままの調律してある七絃の和琴を、気をつけて「雨の日は琴柱を倒せ」と言うこともしないで塵も積もり、二つを厨子と柱の間に琵琶を中央に左右に立て掛けて置いてあったのです。


【和泉式部、清少納言二人は紫式部を入れて当時世間を騒がせていた三人娘であったのでしょう。二人を式部は批評して更に自分の身の上を考える。現在の人なら自分を嘆くと言うことはしないであろう。充分世間で彼女の才能は認められているのであるから】


 大きな厨子一対に片付ける閑もなく書籍を嵩ね置きをしているが、一つの方には古歌・物語本がどうしようもなく虫の住処になってしまっている、虫がいとわしく這出すので本を開いてみる者もない。もう一つの厨子には漢籍がきちんと置き重ねて、それらを大事に所蔵した夫藤原宜孝が亡き後誰一人として手を触れる者も居ない。その本をあまりに所在なくて仕方がない時私が一冊二冊と引っ張り出して見ていると女房が集まってきて、
「お前様は(召使いの使う敬称)このようにしておられるから、縁が薄いのです。なんだって女の身で漢籍を読むのだろう。昔は経典を読むのさえも厳しく言われた」
 と、陰口を言うのを聞いても、
「縁起をかついだ人が、行末は寿命が長いとかいうことも、そんな例は見たことがない」 
 と、言いたいところだが口に出してしまえば、心やりがないようである。女房たちの言うことはまたそれもそうなのである。
世の中のことは人によって違う。誇らしく華美で、気分良さそうに見える人があり。また何事もすること無く淋しそうな人が、気の紛らし様がないままに、不用になった古い文書を引張り出して読んだり、仏へのお勤めに精出して口にお経を唱え数珠の音を高く鳴らしたりなど、どうも嫌らしく見える行いだと思いまして思いのままにしてもよさそうなことをさえ、召使の眼を憚って遠慮しておく。その上人々の中に入っては、いやもう何もいうまいという気になり、また自分の心が解りそうにない人には、何をいっても無駄であろう。また何かとけちをつけて、我こそはと思っている人の前では、わずらわしいので、物をいうのもおっくうです。特に十分にあれこれと何でも心得ている人はめったにない。たいていの人は自分が得意としている方面を一途に固執して、他人のことを眼中におかないらしい。
 そんな相手が、内心とは別の私の顔つきをじっと見るけれど、仕方なく顔つき合わせてお付き合いしていたことさえある。しかし、色々と人から非難されないようにしようと、臆すると言うことでもないが、かれこれ言うのは面倒だと思って、つい無知な女に何となくなりきってしまったものですから、
「あなたがこんな人だとは想像していなかった。ひどく優雅にしていて気づまりで、近づきにくい不愛想な、物語好きで勿体ぶり、何かというと歌を持出して、人を人とも思わず、小僧くらしげで人を馬鹿にしてかかる、そのような人だと、誰もが言いもし思いもして憎らしい女と思っていたのだが、実際、貴女に逢ってみると不思議なほど鷹揚で、聞いていて想像していた人とはまるで別人かと思われる」
 と、みんなが言うのを聞いて恥ずかしく、私はこうおっとりした人間だと見くびられてしまったことだと思うのだが、これこそ自分が進んで振舞い馴れている態度で、中宮様も、
「ざっくばらんにあなたと会うことなどできまいと思っていたのに、誰よりも特別に親しくなってしまつたことね」
 と、何かの折に仰せられます。一癖あって、お上品ぶって、そのため中宮様からもそっぽうを向かれることがないような女でありたいものです。女は見苦しくなく万事に穏やかにして、気持も少しゆったりして沈着な心の芯を備えているこそ教養も情操も魅力が出て、また信頼されるのである。もし、色っぽく軽い性格であっても、生来の人柄が素直で、仲間から取っ付き憎いと言われないようにすれば、仲間から疎外されることはないでしょう。自分は特別だと変に真面目腐って、言葉や動作が派手な人は、起居動作が自然と自分からそのように配慮することになるので、そういう人に誰もが注目する。注目されれば、話し方にも、仲間の側に座る時、そして立去って行く時の後姿にも、必ず欠点を仲間が見つけるものです。言うことがどうも矛盾してしまっている人と、他人のことをけなす癖の人は、誰よりも耳目を集めます。人が変な癖がないかぎり、その人に対してはどうかして些細な悪口も申すまいと遠慮し、かりそめの好意をもかけたい気持になります。


【和泉式部、和泉式部・清少納言というライバルを語り自分の身を考える。漢籍を読む紫式部に召し使い達が女だてらに漢籍をと言う。中宮の前では自尊心を棄てなければ同僚とは摩擦無く付き合っていけない。勤め人紫式部の愚痴であろうか、更に続く】


 人がわざと他人が嫌がることを仕出かす、または事が誤って悪い結果となったのでも、その過失を嘲笑してやるのに遠慮は要らないという気になります。至極善良な人は、他人が自分を悪く思ったかといって、自分はやはりその人の味方になってやるのかもしれないが、普通人はとてもそんなことはできない。慈悲深い仏さえも、仏と仏の設けた法と法を弘める僧三宝を誹る罪は軽いものだと講義をされておられるでしょうか。まして濁った此の世に生きる人は、自分に不深切な人には、自分の方も不深切に当るでしょう。そうではあるが、相手の言い分以上に自分も発言しようとひどい言葉をいいふらしたり、正面向いて険悪に睨み合ったりするのと、そうはしないで、腹に納めて表面は穏かにしているのとの差異こそ、その人の心の優劣がわかるものですよ。
 左右衛門の内侍という方がおられた。変にわけもなく私のことを心よく思っておられなかったようですが、それについて私は全く心当たりが無く、内侍が私を誹る不愉快な陰口をずいぶん耳にしました。一条天皇が、お付きの女房に源氏物語を音読させて聞いておられて、
「この作者は日本紀をよく読んでおられる。誠に才能がある人だ」
 と仰ったのを、付き人は言葉の意味をよく考えずに早のみこみして
「知識の豊富な才能ある人ですって」
 と殿上人達に言い広げて、私のことを「日本紀の局」と渾名を付けたのは、おかしなことである。里の召使女の前でさえ遠慮していますのに、そうした所でどうして学才をふりまわしましょうか。
 兄の式部の丞と言う人、まだ子供の時分に漢書を購読されているときに、私は傍でいつも聞き聞きしていてあの人(式部丞)がなかなか読解できず、また忘れる箇所をもあるが、私の方は不思議なほどに分りが速かったものですから漢籍の学問に熱心だった父親は、
「悔しいこと。この子が男子でなかったのは、不幸なことよ」
 と何時も嘆いておられた。それだのに、
「男子だって学識ぶった人は、どういうものか、まるっきりうだつがあがらないと決まっているようだ」
 と言う声を聞くようになってから、一という文字ですら書ききらないと言うほど漢学の才を人前でひた隠しにして、いかにも不調法にしていて、自分でも呆れています。読み込んだ書などは見向きもしないでいましたのに、左衛門の内侍の陰口聞いたものですから、他人はどのように聞いて私を憎んでいるやらと、ますます恥ずかしくて、画讃として屏風絵の上部に書かれた詩句も読めるのですが読めない振りをしているのを、中宮が、私にその御前で白氏文集の所々を読ませなさったりして、そうした詩文のことを、お知りになりたそうに思っておいでであったので、こっそりと人が御前に居られないときに、一昨年の夏頃より楽府という古詩の書二巻をたどたどしく、お教え申したことも隠しております。中宮もそのことを隠してお出ででしたが殿も倫子さまも楽府進講の様子をお知りになって、漢書などを立派に能書家にお書かせになって中宮に差し上げなさった。本当に、こうして中宮が私に進講させなさったりすることを、あの口やかましやの左右衛門内侍はまさか聞き知ってはいまい。もし知ったならばどのような誹りの言葉が出るものかと、総て世間は物事が繁雑で思うようにはいかないものであります。


【左右衛門の内侍という者から誹謗中傷を受けた。何処の誰とも分からないが、先に紫式部は齋宮の女房達を批判したからその返礼だろう。その後式部は力余って自分のことを自賛する様に書いている。実際そうであったであろうが、今の立場に不満がある。更に彼女の心を書き綴っている】


 何と今の私は、言忌したってはじまらない身の上だから、不吉な言葉を使うことは止めにしましょう。人が何言おうと、ただ阿弥陀仏にたゆまず経を習いましょう。世間の嫌な避けたいことは露ほども執着がなくなってしまったのですから、出家するのに怠るべきでもないのです。そうは言っても、ひたすら出家してみても、極楽浄土に至らぬ間のぐずぐずした迷いがあるに違いないことです、それが理由で私はためらっているのです。年齢もまた出家するのに恰好な程度になって来つつある。これから老いぼれてしまい、また眼も見えなくなって経を読むこともせず、心の中も怠惰の気分が広がって行くものと、信心ふかい人の真似のようですが、いまはただこうした仏道のことを思うだけです。そら、罪が多い人は極楽往生の願いが成就するわけではないでしょう。前世のつたない因縁が自然に分ってくることばかり多いものですから目に耳に入る総てが悲しく思われるのです。
 お手紙に書くことが出来ないことを善悪にかかわらず世の中のこと、我が身の憂いのこと総てを聞いていただきたいので書き綴っておきます。不都合なと思う人のことを念頭にして、あなたに申し上げるにしても、しかしこんなことを書いてしまってよいものでしょうか。だが、あなたは所在なくしておいででしょう。私の所在ない心を御覧になって下さいまた、あなたのお考えになることは、まったくこんな風にろくでもないことは沢山ないでしょうが、お書きになって下さい。拝見しましょう。万一この私が書いた物が他人の眼に触れましたら、実に大変なことでしょう。人もまた騒ぎ立てることでしょう。最近反古は皆破ったり燃やしたりして全部を無くしました。この春、反古紙で紙張子にしてお雛様の家を作りました。人様から頂いた文ももうありません、新しい紙にわざわざ清書するまでもあるまいと思って反古を用いたのはじつに見ばえがしないことです。こうした簡単なことに反古を用いても不都合ではありません。
むしろわざとそうしたのです。これを御覧になったら早くお返し下さい。自分でもよく読めない箇所箇所や文字落しがありますでしょう。そうした所は、何のことはないでしょう、とばして御覧になって下さい。このように世間の人を考えながら、その揚句に書き結んで見ますと、わが身に執着する心が本当に深いもので私はどうすれば宜しいのでしょうか。

 寛弘六年某月十一日暁に、土御門邸内の供養堂へ中宮はお出でになる。中宮のお車に殿道長様が同乗され、その他の付き人は舟で渡った。私はそれに遅れて夜に参上する。衆生や怨霊に説法して善道に向わしめる法、教化(きょうげ)をなさるところ、比叡山・三井寺。ともに天台宗の作法で、仏前にて罪悪を悔悟する作法大懺悔を行う。塔の絵を板に描いて楽しまれる。上達部の多くは退散されて少しの人数がのこられた。後夜の導師は説法の振りが皆めいめい違っていて、二十人が二十人ながら中宮がこうして栄えていらっしゃることを誉められるが、時々言葉に詰まって参会者の失笑を買うことが多々あった。
 法会が終わると、殿上人達は舟に乗って遊ぶ。御堂の東の端、北向きに開けた扉の前で、池に降りられるように造った階段の勾欄にもたれて宮の大夫がが居られた。道長様が中宮のいらっしゃる所にお出でになると、宰相の君などがお話をしているのが、中宮の御前であるので油断のない心配りがあって、御堂の内外ともに風情ある光景である。


【式部は人生の不安を何時も感じている、出家をしたいが踏み切れない。文を認めるが誰に当ててであるか、分からない。自分の心情を残さずに言っているようだ。反古にした紙を使って書いたのだろうか。最後に自分の執念から脱却できないと述べて終わる。
 中宮が我が家の土御門邸に帰って法要が行われる】


 朧月が現れて若い君達が昨今流行の今様を謡う者たち、舟に全部乗ってしまったが、若い歌声を楽しく聞かせてくれる、大蔵卿藤原正光が本気になつて若君達に仲間入りして、舟に乗る。然し何といっても年配なので自分も声を合せて歌うのもはばかられるのか、ひっそりとして坐っている、ぞの後姿がおかしく見えるので、御簾の内に並ぶ女房達はこっそりと笑っている。白氏文集巻三に「海漫漫」の一句、「童男丱女舟中に老ゆ」を思い出す。海漫漫は秦の道士徐福が始皇帝の命により不老不死の薬を求めて蓬莱山へ行った故事(史記)を詠った作で、徐福に従う童男丱女(かんじょ)幼女が蓬莱に至らぬうち年老いたというのであることから私は、
「舟の中で歳取ってしまう」
 からかったのを聞きつけて、中宮大夫斉信(ただのぶ)が、同じ詩文の一節、
「徐福文成誑誕(きょえん)おほし」
 徐福も文成もでたらめが多い、と即座に言われた声は若々しく現代風であった。今様の文句で「池のうき草」と謡って笛を合わせて吹かれる、明け方の風の感じが一変している。何でもないことでも場所が場所だから、折が折だからであるかな。
源氏物語が前にあるのを殿が御覧になって、例によって冗談などいい出されたその折に、梅の木の下に置かれた紙を取って書かれた、
 すきものと名にし立てれば見る人の
  折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ
(あなたが浮気者だと評判になっているのだから、見る人が見逃しておくことは無いと思うよ)
と私に給わったので、
 人にまだ折られぬものを誰かこの
   すきものぞとは口ならしけむ
(まだ人に折られ靡いたこともないのに、誰方が私を浮気者だと言っておられるのでしょう)
心外なことです。
 と返歌を差し上げた。
 渡殿の局で寝た夜に、戸を叩く音を聞いたのだが、恐ろしいのでじっと音を立てないようにした翌日に、
 夜もすがら水鶏(くいな)よりけに
             なくなくぞ
 まきの戸ぐちにたたきわびつる
(あなたが開けてくれないので、一晩中水鶏にもまして泣く泣く、槙の戸口をたたきあぐねたことです)
返しは、
 ただならじ戸ばかりたたく水鶏ゆゑ
      あけでばいかにくやしからまし
(あなたの訪れに心おだやかでいられはしません。ほんの少しばがり戸を叩いただけの水鶏ー貴方のために開けたならばどんなに悔しいことになったでしょう)

【「寛弘六年十月四日一条院焼亡、十九日行幸左大臣枇杷亭、十一月十五日第三皇子誕生、十二月廿六日中宮人内」
このことを踏まえて以下に続く】

 今年の正月三日まで、第二皇子敦成親王、第三皇子敦良親王お二人の「戴餅(いただきもち)」に、元日から三日まで毎日清涼殿に参上なさる。昨年十一月十九日以来、内裏は枇杷殿である。上﨟全員もお供する。左右衛門の督若宮を抱かれて、殿が餅を取り次いで帝に差し上げる。夜の御殿の東側の戸口に向かって主上が若宮たちの頭に餅を戴かせなさるのである。若宮が主上の御前に参上し、また退下なさる儀式は見ていて素晴らしい儀式である。若宮の母君中宮は参上されなかった。 一日の中宮の御薬の陪膳役は、宰相の君である。いつもの通り衣裳の配色など特別である。取次ぎの女蔵入は内匠、兵庫担当する。
御陪膳役(宰相の君)は髪上げ姿が特別よくお見えになったが、当然のことである。元日から三日まで御薬(屠蘇・白散など)を供する儀式にあずかる女官博士の命婦、内侍所の主任女官が賢ぶって才ありげに振舞って、典薬寮から配られた膏薬を主上に供すると、主上は右の薬指で額と耳の裏に塗る。例年行われる正月の儀式である。

*陪膳役の着衣の決まり、吉方(えほう)の色合で、御薬の儀の際例えば、その年の吉方が東に当れば青色、西方ならば黄色の唐衣を常の唐衣の上に重ね着るという。

【一条院消失は史実であるが、日記は記載がない。どうしてなのだろう。消失前に中宮の里である土御門邸に行啓されて法事、その後の供達の遊び、漢書の才を少し出す。次に、一条院が焼けて仮の御所での正月の行事を感想を交えて紹介する。宴会に{蜻蛉日記」作者の息子藤原道綱の名前がある】


 正月二日
 中宮が親王公卿らに賜わる饗宴は正月二日で開催されるが中止になって、公式に定められた饗応ではないが、年始に摂関家で大臣以下公卿を招待する饗宴が東表を開け広げて例年通り行われた。招待された上達部は、傅(ふ)の大納言藤原道綱、傅は東宮傅で皇太子は居貞(いやさだ)親王後の三条天皇、母親は道長様妹の超子。右大将藤原実資(さねすけ)。中宮の大夫藤原斉信(ただのぶ)。四条の大納言藤原公任(きんとう)左衛門の督(かみ)。権中納言藤原隆家。侍従の中納言藤原行成。左右衛門の督藤原頼通。有国の宰相参議藤原有国この年68才。大蔵卿藤原正光(まさてる)。左兵衛の督藤原実成(さねなり)「藤宰相」。源宰相源頼定「頭の中将}。皆さん向かい合って座られた。源中納言源俊賢(としかた)。右衛門の督藤原懐平(かねひら)。左宰相の中将源経房(つねふさ)。右宰相の中将藤原兼隆(かねたか)らは長押下の一段低い下座、更にその下に殿上人が座る。
 若宮敦成(あつひら)親王を道長様が抱かれて若宮にいつもの客人に対する挨拶をお言わせになり、終わると頭を撫でて可愛がってさしあげなさる。同席されている北の方倫子様に、
「さあ、幼宮(敦良親王)をお抱きしよう」 と言われるのを、兄宮がひどくやきもちをおやきになって、「いやいや」と殿を責めるのを、可愛いなと若宮をあやされ、なだめすかす言葉を申しあげなさるのでその光景を見ている右大将藤原実資が面白がって見ておられる。
一同が主上の御座所に参上なさって、主上は殿上の間に出御あって、子(ね)の日の遊が始まる。殿道長様例によってお酔いになる。私は、面倒なことが起こると予感して隠れていたが、
「貴女の御父左少辮蔵入藤原為時を御前に参るように言っておいたのに、伺候しないで急いで退席した。ひねくれている」
 などと仰られて、御機嫌が悪い。けれども本当は御機嫌が悪いのではなくて、
「歌一首、披露して。退出してしまった親為時の代りに、今日は初子の日だからね、さあお詠み、お詠み」
 と責めるように催促された。と言って、さっさと詠んだら、ひどくみっともないだろう。大変酔っていらっしゃるようでなく、お顔色が大変紅を帯びて清らかな殿の灯火に照らされた姿が実に素晴らしい。殿は、
「最近、中宮が見るからにあじきなく一人きりでいらしゃったのを物足りないと思い申しあげていたのに、いまこうしてうるさいまで左右に若宮を見奉るのはうれしいことだ」
 と、お休みになっておられる宮二人を御帳台の垂れ絹を引き上げて御覧になる。 
「子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何を引かまし」(拾遺集、春、壬生忠岑0023)と、口ずさまれる。新しく歌を詠むということよりも、古歌を口誦んで、折にぴったりの、そうした態度が立派に見えるのである。

 次の日夕方、もう早速春めいて霞がかかった空を建ち並ぶ御殿の軒は隙間がなくて、ただ渡殿処の隙間から空をほのかに見ながら中務の乳母と、殿が「子の日する野べに小松の・・・」と口ずさんだことを立派だったと話す。この命婦は物心を弁えて、気が利く賢い方である。

 少しの間だけ里へ帰らしていただき、二の若宮の五十日の、正月十五日の暁に御殿に帰参するが、仲の良い同僚の小少将の君が、すっかり明るくなってきまりがわるいほどの時刻に帰参なさる。いつものように同じ部屋にいた。二人の局を間の几帳を外して一つにして私と小少将の君とは、相手が里にいる時も互にその部屋に住む。両方同時に出仕する時は几帳一つで簡単に仕切っている。殿がお出でになる。
「互に知り合いでない男でもやってきて、まちがって言いちぎるようなことがあったらどうするか」
 殿が人聞き悪くおっしゃる。私たちは誰も互に知らぬ男をもつなどという浅い交りではないのだから心配ない。


【公式の行事は中止になったが、道長主催の宴会が開かれた。招待者の主だった人を紹介して、道長の孫を可愛がる様子を書き、気の張らない普段の様子をも記述している。現代の人が言うような冗談も道長は式部に言っていたのが分かる】


 日が高くなる頃に中宮様の御前参る。小少将の君は、桜重ね織物の袿・赤色の唐衣・いつもの摺り裳を着ていた。私は紅梅の重袿に萌黄の表看を着て柳の唐衣、裳の摺り目は派手なので小少将の君のと取りかえてしまいたいくらい若づくりになった。主上附の女房十七人が中宮の側にお出でになる。弟宮の賄い役は橘三位、取り次ぎ役は、端に小大輔と源式部奥に小少将。帝と中宮は御帳台の中にお二方いらっしゃる。朝日を浴びてまばゆいほど此方が恥ずかしくなるような御前である。帝は貴人の常用服直衣・小口袴。中宮はいつもの紅・梅・萌黄・柳・山吹の重ね袿、それに表着は葡萄染の織物とを着重ね、表白、裏青柳の小袿重ねて、裳・唐衣は仕来りによって略されておられる。紋も色も珍しく今風である。私は中宮の御前ははれがましいので、奥の方にこっそりと滑り込んでじっとしていた。中務の乳母が弟宮をお抱きして御帳の前に現れる。中務乳母は、きめが美しくて、よそよそしいようなところのない容貌である上に、ただゆったりとしていて堂々たる有様で、そういう風に誰もがあってほしいというほどに才気ある風采である。葡萄染めの小袿、無紋の青色の表着に桜の唐衣を着ていなさる。 その日集まった人々の装束はどれもこれも善美を尽していたのに、袖口の配色をまずく重ねた人が、あいにく御前の物を取りさげるということになって、大勢の上達部殿上人に、その前へ出て行ってすっかり見つめられてしまったことだと、後になって宰相の君などは悔しがっておられた。とはいえ実のところさほど失体でもなかったのです。色あいがばっとしなかったのである。小大輔は紅単衣に、上に表紅裏蘇芳の紅梅重ね、濃いのと薄いのを五重ねを着ていた。唐衣は桜重ねである。源式部は、濃い紅の袿の上にまた色の似通った紅梅の綾の唐衣を着ているようでした。唐衣が織物でないのが悪いというのであろうか。それは禁色なので無理な注文というもの。晴れ晴れしい場合であるからこそ、失敗が側からちらりと見えたような有様をも、とりたてて云々することもお出来になるだろうが、衣裳の優劣はそう簡単に批判できるものではない。
 お餅を差し上げる行事も終わって、御食膳など取り下げて廂の御簾を揚げるときには、上﨟達は御帳の西表の間主上の常の御座所に、並んで座っていた。三位の上女房を始めとして典侍・内侍司の次官・従四位相当の輔達も大勢集まっていた。中宮附の女房は、若い女房は長押の下の方に、東の廂、南の障子を開けて御簾を掛けて上﨟は座っていた。御帳の東の狭いところに、大納言の君と小少将が居るのでそこへ寄っていって座って祝宴を見る。
 帝は清涼殿の東廂にあり、畳三畳の上に錦の縁をつけた唐綾の茵を敷く平敷きの御座にいらっしゃって御膳を並べた。御食膳は、その作り様がいいようもなく善美を尽してある。
 廂の外の簀の子に北向きで西を上座にして、上達部の席がある。左・右内大臣、東宮の大夫道綱、中宮の大夫、四条の大納言、それから下は見ることが出来なかった。管弦がある。殿上人は、私のいる対の屋の東南に当っている廊屋に座っている。地下の楽人の役は定まっている。地下は昇殿を許されぬ者。奏楽の際、太鼓、羯鼓等の打物は階下で行うのである。景齋朝臣・惟風朝臣・行義・ともまさ達が並ぶ。階の上で四条大納言が拍子を取り、頭の辨琵琶、琴は経孝朝臣、左宰相中将が笙の笛であるという。呂の声調で催馬楽「安名尊」次いで「席田」「この殿」が謡われた。曲だけは、唐楽の迦陵頻(かりょうびん)序破急ある中、破急の部分だけを奏した。階下の座でも調子をとる笛を吹く。歌に拍子を打ちまちがえて叱られる。それは「伊勢の海」であった。右大臣和琴が上手いと褒めそやされる。相当酔ってくだを巻いておられたようだが、その果てには大変な失態を成されたが、それを見ている私の身体までひやりとしたことでした。殿より主上への御贈物は箱に入れた笛が二つであった。
          紫式部日記 終わり

紫式部日記

一気に書き上げましたのでミスも多いでしょうがお許しください。

衣装や調度品についてはネットに写真がありますから検索してみてください。

当時の物語は衣装や髪型については詳しく描写しているので、とても私にはついて行けませんので適当にしました。

清少納言と同じで自意識の強い女ですね。

紫式部日記

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-10

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