哀愁もーど。(仮)
水盛慎
また眠れないまま朝を迎えた。このところ眠れない日が続いている。
この先どうやって生きていけばいいのか。
その問いに答えてくれる者はいない。いや、きっとその答えを持っている人間はどこにもいない。
自分も二十代最後の一年を迎え、焦りがないと言えば嘘になる。しかし何をするというわけでもない。ただ酒の量が増えるだけのことだ。
こんな自分を採用する会社はないだろう。
今日受けた面接でも面接官は容赦なく質問を浴びせてきた。
「前のお仕事をやめられた理由は?亅
「親御さんはどのように言っておられますか?亅
「この先、家庭を持たれるご予定は?亅
そのたびに自分は口ごもりながら、声を荒げそうになるのを抑えて、自分でも本当なのか嘘なのか分からない答えを返す。
しかし、そんな自分の嘘を見抜けないほど、世間は甘くない。
今日は少し飲みすぎたようだ。所持金も底をついた。アパートの家賃も三ヶ月滞納している。
田舎に帰ろうか考えたこともあった。しかし、家族とは長いこと連絡をとっていない。実家暮らしはどうも気が進まない。
自分は何のために生きているのか。生きていていいことなんて、ひとつもないじゃないか。
水盛慎は公園のベンチに座っていた。ひどく頭痛がする。少し頭を冷やそうと思ったが、生暖かい風が吹いて余計気分が悪くなった。
慎は持っていた缶ビールの空き缶をゴミ箱に向かって投げた。
空き缶はゴミ箱の縁にあたり、カラカラと音をたてながら、風が吹くほうへ転がっていく。
野良猫が草むらから姿を見せ、空き缶の音に驚き、またどこかへと行ってしまった。
辺りには誰もいない。雲ひとつなく月がきれいな夜だ。
少し風が冷たくなってきた。一気に酔いが覚める。とりあえず家に帰ろう。明日のことは明日考えればいい。今日は少し疲れた。
慎はベンチから立ち上がり、公園を出て広い大通りを斜めに横切った。信号は赤だったが車は一台も通っていない。もっとも通っていたとしても大した問題ではない。怪我をすれば慰謝料をふんだくれるかもしれない。
しかし、辺りはひっそりと静まりかえっている。
慎はポケットに手を突っ込んで、少しふらつきながらゆっくり歩いた。ポケットの中で指が触れ合い、手が汗ばんでいるのが分かる。
ポケットから手を出し、シャツで手のひらを拭った。シャツの裾が黒ずんでいるのが見えた。
スーツもだいぶくたびれている。しかし、新しいスーツを買うお金はない。
またどっと疲れが増したように思う。
自宅にたどり着いたのは午前三時だった。
目が覚めるとすっかり明るくなっていた。窓から太陽の光が注ぎ込んでいる。
頭はぼんやりとして、夢うつつの状態が体いっぱいに広がる。
寝たいときに寝る。これ以上幸せなことがあるだろうか。
ドアが軽く二、三回ノックされる。続けて少し強めに三回。
「水盛さん? いるんでしょ? 大家の畑ですけど。水盛さん?亅
居留守を使う他ない。慎は布団を頭からかぶり、息を殺して無視を決め込む。
しかし、大家はなかなか諦めない。
「今月中にせめて一ヶ月でも払っていただかないと。それが無理ならこちらとしては不本意だけど出て行ってもらうしかないですよ亅
丸くした体の中央、耳の横で心臓の鼓動が速くなる。
お金は18円しか持っていない。実家の母親に頼むという手もあるが、そうするつもりはない。こんな状況であることも知らないのだ。追い出されたあとに行くあてもない。
大家が階段を降りていく音が聞こえる。何とかしのげたようだ。
しかし、3日中に45000円を用意しなければ、帰る家を失うことになる。
何か方法はないか、何か・・・。
考えても考えても、体は空腹を訴えるだけだった・・・。
ガスは止まっていたが、水道は出た。しかし、水道が止まるのも時間の問題だろう。
慎は流しで顔を洗った。口を軽くゆすぎ、ひげを剃った。かみそりはもう使い物にならない状態だったが、構わず手を動かした。顎のところが切れて血がポタッと流しに落ち、じわじわと赤い色が広がっていく。不思議と痛みは感じなかった。
感覚が鈍くなっているのか? こんな自分を生ける屍というのか? と思った。
音を立てないようにゆっくりとドアを開け、外に出る。周囲に人がいる気配はない。
空が青く、まぶしい。今の自分にはそれが痛い。
慎はひたすら歩き続けた。以前乗っていた自転車も錆びつき、両輪がパンクしている。
自分にはまだこの足があると思った。
しかし、やたらと腹が鳴った。昨日はビールを一杯飲んだだけだ。
とにかく45000円が必要なのだ、45000円が・・・。
駅に着いたあと、広場の噴水のそばに座り込んだ。噴水の周りが石で出来ていて、もたれかかれるところがあった。水しぶきが顔にかかるが、そんなことはどうでもいい。
立ち上がる気力もない。
近くをベビーカーを押した若い女性が歩いている。赤ちゃんは眠っているようだ。その女性は一度立ち止まり、赤ちゃんが着ている服を軽く調えると、赤ちゃんの寝顔を見つめながら少し微笑んだ。
その光景がしばらく目に焼きついて離れなかった。
しばらくそこにじっと座っていた。脇に汗をかき、皮膚を伝って腹の辺りにポタッと落ちた。ひんやりする。
バス停に次々とバスが到着し、乗客を乗せて静かに動き出す。
バスには目的地がある。乗客にも目的地がある。それなら自分はどこに向かおうとしているのだろうか・・・。
慎はよろけながらも立ち上がった。今日中にお金の都合をつけなくては。それが無理なら野宿でも何でもすればいい。
そう思うと少し気持ちが楽になるのを感じた。
あてもなく駅の周りを歩き続けた。ローンを組むのも無職の自分には無理だろう。頼れる友達もいない。住み込みで働けるところを探すしかない。
となると、小さな居酒屋か小料理屋。酒が飲めるところのほうがいいし・・・。また腹が大きく鳴った。
居酒屋や小料理屋を見つけると、少し離れたところから店内の様子を伺った。昼時にも関わらず、あまりお客さんはいない。居酒屋は夕方から開くのか、準備中の札がかかっていた。
心の中でつぶやく。どうかこの店で働かせてください(出来れば住み込みで)。
しかし、いつの間にか、どうかとりあえず食べるものをください、と口に出してつぶやいていた。
店の中に入るのを躊躇い、何度も行ったり来たりを繰り返した。
もう一度心の中でつぶやく。どうかこの店で働かせてください(出来れば住み込みで)。
よし!慎は気合いを入れて店の戸をガラガラと開き、中に入ろうとした。とその時。
「あれ!? もしかして水盛くん?」
「え?」
とりあえず開けた戸を閉め、声のしたほうに向き直る。陽に照らされてまぶしいほど輝いた女の子がそこにいた。
「水盛くん・・・やろ?」
「そうやけど・・」
「やっぱり! あたしのこと覚えてないと?」
誰だろう。自分にこんな知り合いはいないはずだ。
「あたし笠原愛」
「え、ごめん。分からん・・・」
「もう! 高校のとき同じクラスやったやん!」
「そういえば・・・あの笠原さん?」
「そう! 久しぶり!」
「うん・・・」
何てことだ。福岡にいたころ通っていた高校の同級生に会うなんて。今はそれどころではないし、みすぼらしい自分を見られるのが恥ずかしい。
「ここで昼ごはん食べると?」」
「うん・・・」
とりあえずそういうことにした。
「あたしもまだやけん、一緒に食べてもいい?」
お金がないとは言えなかった。
笠原は慎が何も言わないのを同意の意味と解釈したのか、店の中へ入っていった。
いいにおいが漂ってくる。我慢できず慎も中に入り、笠原のいるテーブルにやっとのことで座った。足が震えている。空腹はピークを迎えていた。
「ホントに久しぶりやねー。何年ぶりやろ?」
「じゅ、10年ぶりかな」
「10年かぁ・・・あっという間やね、あれから10年も経ったんや・・・」
笠原は壁にあるメニューを見て、頼むものを考えているようだ。
「うーん、どうしようかな・・・。迷うけど・・・。よしこれだ! 水盛くんは何頼むと?」
「俺は・・・いいよ・・・今は金持ってないし」
「あたしが出しとくけん何か頼みぃよ」
「じゃあ・・・鶏の照り焼き定食で」
その瞬間、自分は定職に就けない人間なんだと思い出す。
店員さんが水を持って注文を聞きにきた。
「鶏の照り焼きと豚のしょうが焼き」
笠原がスピーディーな動きで水と割りばしを自分と慎の前に置いた。
慎はよだれが出てくるのを抑えきれず、水を一気に飲み干した。
「高校の頃は楽しかったねー。あの頃が一番良かった気がせん?」
「そうやなぁ」
「水盛くんはいつ神戸に来たと?」
「高校出てすぐ」
「あ、大学で? どこの大学行っとったと?」
「K大・・・」
店員が注文した料理を持ってきた。笠原さんがこっちが鶏の照り焼きで・・・などと言っている。
慎の前の料理は2、3分でなくなってしまった。
「はやっ!!」
笠原さんが笑いながら言った。
「お代わりする?」
「別料金やないんかな・・・」
「いいやん。久しぶりに会ったんやし、おごるけん。あ、さっきのは返してよー。すみませーん」
笠原がよく通る声で店員を呼ぶ。
「はい、何でしょう」
「こちらの方、お代わりをしたいんですけど」
こちらの方と言われ、慎は苦笑した。
「はい、ご飯と味噌汁はお代わり自由となっておりますので」
慎は小さくガッツポーズをした。
結局それからさらに3杯お代わりをした。
「よく食べるね! てか高校のときからそんなに食べとったっけ?」
「食べとったよ」
「あ、高校の頃は一緒に食べることなかったもんね・・・」
「うん・・・」
「そうやったね・・・」
少し気持ちに余裕が出てきた慎はさっきから気になっていたことを聞いた。
「笠原さんはいつこっちに来たん?」
「大学卒業してすぐ」
「就職か何かで?」
「うん、まあそんなとこ。とりあえず店出ようか」
笠原がレジで精算している間、慎は壁にかけてある油絵を見ていた。よく晴れた日の海。遠くにぼんやりと島が見える。海はきらきらと光り、ゆったりと満ち引きを繰り返す・・・。そんな絵だった。
「お待たせー」
支払いを済ませた笠原が言う。
「うん今日はありがとう」
「いやいやちゃんと返してもらうけんね」
笠原が笑う。かわいいな。でも少し疲れているようにも見える。慎は何気ない感じで聞いた。
「何か悩みでもあると?」
「うん・・・今の仕事やめようかと思っとるんよね・・・」
「そうなんや・・・」
「水盛くんは? 今日仕事休み?」
「今、無職」
「えーカッコイイ!」
「全然カッコよくないから」
「いやそんなふうに言えるのがカッコイイ」
笠原は目をキラキラさせている。
「それで仕事見つかりそうなん?」
「うーん、このご時世やし、なかなか難しいんよな・・・」
「そうなんや・・・」
「事情があって今住んでるとこ引き払わないといかんし」
「次に引越すところのあてはあると?」
「まだない・・・」
「分かった、とりあえず家に来ぃよ。これからどうするかはその後で考えたらいいやん」
「ホントにいいと・・・?」
「だって困ってるみたいやし、10年ぶりに会ったのも偶然とは思えんし・・・」
「じゃあ悪いけどそうさせてもらってもいい・・・?」
「うん、いいよ」
慎は希望の光が見えたようで涙が出そうだった。しかし、その一方で笠原は自分に気があるのだと自惚れてもいた。
「家ここから遠いと?」
慎は笠原に少しドキドキしながら聞いた。
「少し離れとるよ。あたし自転車で帰るっちゃけど、水盛くんは・・・?」
「俺は走る」
「マジで? 結構距離あるけど大丈夫・・・?」
「うん・・・でも道に迷ったらヤバイけん、時々止まってよ」
「了解」
笠原は手をたたいて笑った。
それから30分。ようやく笠原の住むマンションに到着した。慎は汗だくになっていた。
「大丈夫?」
笠原はあまり心配してなさそうな顔でたずねた。
「うん、でも腹減った」
「アハハ」
エレベーターに乗り、5階で降りた。その間は二人とも無言だった。笠原はさっきの笑顔が嘘のように表情が硬くなっていた。
笠原は507号室の前で立ち止まるとカードキーを取り出し、ドアを開けた。
「メッチャイマドキやん!」
慎は興奮してしまった。
しかし、笠原は心ここにあらずといった感じだ。
「ただいま」
「あ、笠原さんも誰もいないのに、ただいまって言うタイプなんやぁ」
慎はテンションが上がってしまっている。
「遅かったやんけ」
「!」
「笠原さん・・・誰かいる?」
「あ・・・うん・・・あたしの彼氏」
体の中心を雷が貫いたようだった。慎は何が何だか分からなくなった。
「浩人。彼、水盛くん。住むところが見つかるまでここで一緒に住むから」
「はぁ? 意味わかんねぇ。お前俺と付き合ってんだろ? 男連れ込むってどういうことだよ?」
「家賃はあたしが払ってるんだからあたしの勝手でしょ! それに水盛くんはそういうんじゃないから」
慎は頭がクラクラしてきた。
「俺は出ていかねぇからな」
「じゃあちゃんと働いてよ!」
「仕事は探してるって言っただろ!」
「ホントなの? あたしも今の仕事どうなるか分からんし、浩人も早く仕事決めてよ」
「分かってるって」
浩人はキレ気味に言った。
慎は遠慮がちに口を開いた。
「あのさ・・・俺やっぱり悪いよ、一緒に住むなんて・・・笠原さん彼氏いるなんて知らなかったから・・・」
「でも住むとこなくなるんやろ? 当てもないんやろ?」
笠原は怒ったように慎に言った。目を見てみると泣いているようにも見えた。
「うん、そうなんやけど・・・。それに俺も仕事探してるところやし・・・」
「仕事はこれから探したらいいやん」
「ホントにいいん? あの・・・浩人さん・・・いいですか?」
慎は初めて浩人の顔を見た。そんなに悪いやつではないかも、と思った。
「愛がそうしたいって言うんやったらしゃあないわ」
「ありがとうございます、その・・・浩人さん」
「浩人でいいよ。年下やけん」
笠原がやっと笑顔を取り戻して言った。
「とりあえず、悪いんやけどソファーで寝てくれる? 荷物もその辺に置いてくれたらいいけん」
「ありがとう」
「あの人・・・浩人、さっきの話で分かったかもしれんけど、仕事してないんよね」
「俺と同じや!」
慎は何だか嬉しくなった。
「笑ってる場合やないって。あたし一人の収入じゃ絶対足りんようになるけん、とにかく仕事はしてくれんと。もしかして働くの嫌とかやないよね?」
愛がこちらの顔を覗き込むようにして聞いた。
「ううん、そんなことはない。大丈夫」「よかったぁ・・・」
愛は心からホッとしたように大きく息を吐いた。
「でも自分でも働ける仕事あるんかなぁ・・・自信ないし」
「とにかく探すしかないやろ、生きていくためやけん」
「実は今日笠原さんと会った定食屋で働こうと思っとったんやけど」
「えーそうなん! 募集しとったっけ?」
「いや、募集はしてないかも知れんけど、賄いもらえたらいいかと思ってさ・・・」
「それはいい考えやけど、あの店あまり流行ってなかったっぽくない?」
「確かに客は少なかった。でもそのほうが性格的には向いてる気がする・・・」
「そんなとこで働いても給料もらえんかもしれんやん。とりあえずコンビニで求人のフリーペーパーもらってこよう?」
浩人が部屋から出てきた。今まで気付かなかったが、立ち上がると慎よりひと周り体が大きい。喧嘩したら確実に負けそうだと慎は思った。
「お願いしますよ。えっと、ミズモレさん? てかここの部屋水漏れさせたりしないよな?」
「何の話や!」
愛が素早くつっこんだ。
「だってミズモレさんって」
「ミズモレやなくて水盛! 水は絶対に切らせません。お任せください」
慎は胸に片手を当て、軽くお辞儀をした。
「水はよっぽど長く水道代払わん人しか止まらんらしいよ」
「あ、そうですか・・・」
慎のテンションは急激に下がった。
「とりあえずコンビニに行ってフリーペーパーもらってきてよ」
愛が慎のへこんだ様子を意に介することなく、笑顔で言った。
「でもコンビニどこにあるかよく分からんし」
「あ、そうやったね。じゃあ一緒に行こうか」
「おい、愛! お前上手いこと言うて浮気する気ちゃうやろな?」
浩人の口調がこれまでとはうって変わって冷たいものになり、部屋内に緊迫した空気が流れる。
「馬鹿じゃないの・・・」
愛はまだ何か言っている浩人をかわしながら言った。
「いこっ」
「うん」
慎は逃げるように部屋を出た。やっぱりあの浩人って男には注意したほうがよさそうだと思った。
コンビニは家の近くに数軒あった。駅から離れているのにも関わらず、飲食店も多い。素直にその疑問をぶつけると、近くに大学があるからという答えが返ってきた。
「少し歩こうか?」
愛が遠くを見るような目をして言った。
「うん、そうやね。公園とか近くにないと?」
「芝生とベンチしかない公園でもいい?」
「ああ、それで十分やろ・・・てか、他に何が必要なん?」
「滑り台とか?」
「いらないから!」
「いやぁてっきり、公園って言うけん遊びたいんかと思ったよ」
「んなわけない!」
二人は顔を見合わせて笑った。2、3分歩くと文字通り芝生とベンチしかない『公園』があった。二人は桜の木(とはいってもすっかり葉が茂っている)の近くに置かれたベンチにどかっと座った。
「どんなバイトがしたいと? あたしは食べ物屋関係はやっぱりやめたほうがいいと思うっちゃけど」
「何で?」
「今は外食とか控える傾向にあるって・・・。不景気やからさ」
「でも駅の近くの店とかやったらお客さんもおるやろ」
「売り上げと給料は必ずしも比例せんとよ? 水盛くん大学のときバイトせんかった?」
「あんまり・・・大学のときは親が仕送りしてくれたし」
「今は?」
「就職したから仕送りはいいやろうって」
「就職したん? 何の仕事?」
「健康食品の営業」
「へぇ・・・何で辞めてしまったと?」
「人と喋るの得意やないし」
「今普通に話せとると思うけど」
「営業になるとどうしても・・・」
「じゃ接客とかはやめたほうがいいかもしれんね? でもさー飲食店はもろ接客なんですけど」
「自分が好きな料理を勧めるのは苦にならんっていうか・・・」
「どっちかって言うとそっちに問題ありそうやね・・・じゃ場合によっては食べもん関係もありで」
「うん、でもぶっちゃけ、前の仕事クビになりそうやったから、その前に辞めたって感じなんよね」
「何でクビになりそうになったと?」
「一番は成績が上がらんかったからやと思うけど、人とコミュニケーションとるのが苦手で」
「それでクビ? そんなことあると?」
「会社でどうしても合わんやつがおって、そいつが俺のこと排除しようとしてて、周りも何も言ってくれんかって」
「何それ。いじめ・・・?」
「今考えるといじめに近いんかなぁ・・・でもいくら言われても営業頑張る気にはなれんかったし・・・。向いてないんやろうね」
「まぁそれはともかくいじめは許せんよ! 何の恨みがあってそんなことするんやろう・・・」
「さぁよく分からんけど、そいつが上司に俺と仕事するのに支障があるとか言っとったみたい」
「へぇ・・・ひどいやつがおるったいね! いじめとかするんやけんね」
「いや自分的にはいじめられとったって思ってないし、思いたくもないし・・・」
「それで自分から辞めたん?」
「そう・・・」
「そっか・・・」
愛は大きく息を吐いた。それからしばらく何かを考えているようだった。その間二人とも無言だった。気温が上がってきたのか、脇のあたりが濡れているのを感じる。草の匂いが鼻についた。慎はこの匂いが好きではない。
前の仕事をしていたときはいじめられていると感じたことはなかった。ただ自分が人との関係を築くのが下手なんだと思っていた。昔から友達は少なかったし、何を話していいか分からず、それでいて無言になるのはすごく怖かった。だから誰かと話すときも会話が途切れるととにかく何か喋ろうとしたように思う。しかし、会話は盛り上がることなくまた途切れてしまい、それまで以上に気まずい思いをすることになった。
今思えばそんなに焦る必要はなかったのかもしれない。相手が何か思いを巡らせているときに必死で喋ろうとするのを世間では空気が読めていないというのではないか。
気がつくと愛がじっとこっちを見ていた。全く気付いていなかった慎は思わず赤面してしまう。
「ずっと黙っとうけど・・・どうかしたと?」
「いや別に・・・ちょっと考え事」
慎は無理に笑顔をつくったが、ぎこちない表情になった。
「あたし的にはやっぱりバイトするなら好きな仕事を選ぶのがいいと思うんよね」
「てか、自分的にはバイトって言うより、出来れば正社員として働きたいけど」
「それが出来ればいいけど、今は新卒でも就職出来ん人がおるっちゃけん・・・。浩人みたいに・・・。もっともあの人は働く気がないみたいやけど」
愛の顔が曇る。
「付き合い始めた頃はそんなことなかったっちゃけどね・・・」
「長いと? その・・・付き合い始めて」
「うんそうやね、7年くらいかな」
「長いね・・・その間ずっと働いてないと?」
「うんまあね・・・。バイトも長続きせんかったし。神戸に行くって聞いたとき、あたしもついてきてしまって。いやあ若かったよねー」
「じゃあ大学のときから付き合ってるんや?」
「そうそう。大学の後輩。当時から世話のし甲斐がある人やったよ・・・」
「でもそのせいで苦労してるような・・・」
「ううん、そんなことないとよ。自分で決めた道やけん・・・」
「そうなんや・・・浩人・・・君、働く気ないんかね?」
「ない」
愛のはっきりした口調に慎は驚いた。
「何でそう言い切れると?」
「今までも色々話したけど、どうしても無理やったもん・・・。あの人はお金は集まるところには集まるって思ってるらしいよ」
「え・・・働かんでどうやって・・・」
「一曲当てたら一生食べていけるとか何とか・・・」
「彼、音楽やってるん?」
「そうそう。いつになったらその一曲当たる日が来るとかいな」
先ほど買ってきたカセットテープをラジカセにセットする。心の準備は出来ている。いつでもオーケーだ。録音ボタンを押す。
慎はギターを手にとり歌いだした。キュルキュルとテープが回る音が聞こえる。胸がドキドキするが、気にしないようにする。
「ラララ~ラララ~ラララ~ラ~ラ~ララ~」
詩は出来ていないので鼻歌だ。歌声に自分のありったけの思いをのせる。
この曲は好きだった女の子に彼氏がいると判ったときに降りてきた曲だ。そうとしか言い様がなかった。しかしこの曲を口ずさむたび、涙があふれそうな、心が叫びだしそうな何とも言えない思いになる。
いつもは学校の教室にいても、誰かとほとんど言葉を交わすことはない。無理に笑うことはあっても、それも心からではない。
そんないるかいないか分からないような自分が、音楽をやっているときは、こんなにも純粋に、こんなにもひたむきになれる。
自分には歌しかないと思った。
中学生である今、まだまだ色んな可能性があるはずだ。
慎の担任の先生は、
「音楽で食べていくのは本当に大変だから」
と言った。
担任は音楽の先生で、学校内で一番ピアノが上手だと誰もが認める。しかし、彼女は学校の教師を選んだ。それまでどんなことがあったのか、それは知らない。
ただその先生が言った言葉は今でも慎の心にしっかりと留まりつづけている。
そして音楽が心から好きだった自分は、今無職でいる。先生が言った言葉は当時よりもなお重みを増して慎の胸に迫ってくる。
「何かお腹すいたね」
愛が笑顔で言った。慎にとっては常にそういう状態なのだが。
「何か買う? お金あればおごるところなんやけど・・・」
慎は今までずっと一人で生きてきたため、お金がなくても平気だと思ってきた。忍耐力を育む試練だと思っているようなところもあった。 しかし、誰かに何かしてあげたいと思うときに、お金がないとそれが出来ないこともあるのだと今ほど痛感したことはなかった。
「いや、外で食べると浩人が怒るし、家にあるもので済ませたほうがいいよねぇ・・・。ホントは何か買いたいけど」
「そういえば俺の仕事探すんやったよね、すっかり忘れとった」
「そうよぅ。忘れたらいかんよ! どこにしますか、お客さん? 今なら選り取りみどりでございますよ」
愛が低い声で人差し指を立てながらふざけて言う。そんな愛を見ながら慎は逆に不安な気持ちが強まるのを感じた。
「今まで就職活動してきたけど、一社も受からんかったのに、バイトも採ってくれるとこなんてないやろう・・・」
「そんなことやってみらんと分からんやん。もっと自信持たな」
愛が慎の肩を強めに叩いた。
「そういえばさ」
「ん、何?」
「何で一緒に住もうって言ってくれたん? 彼氏がおるのに。普通ならそんなことせんよね?」
「別に理由なんてないよ。困っとったみたいやから何となく・・・」
「ありがとう」
慎は素直に頭を下げた。簡単に誰かに頭を下げたり、謝ったりするのは好まない慎だったが、この切迫した状況のなかでそうする以外に出来ることはなさそうだった。
「これからどうする?」
愛がこちらを真っ直ぐに見ている。慎は自分の心の中を全て見透かされているような気がして落ち着かなかった。
「とりあえず一度家に帰るよ。しばらく同居させてもらうにしてもやらないかんこともあるし」
「そうやね。今住んでる部屋引き払わないかんって言っとったよね。荷物とかどうすると? 少しなら家に置けるけど・・・」
「うん、とりあえず実家に送るなり、処分するなりして場合によっては少し置かしてもらうことになるかも知れんけど」
「オッケー。それでいいよ。まあ大して広くないんやけどウチ」
愛が目を大きくしてほんの少し涙を光らせながら笑う。
「あのさ、やっぱりちゃんと聞いておきたいっちゃけど・・・。浩人君と上手くいってないと?」
「何で?」
「勝手な思い込みかも知れんけど・・・何かただならぬ雰囲気だったっていうか。正直ヤバイかもって思って・・・」
「ヤバかったらどうする? ウチにくるのやめる? でも住むとこないんやろ? そんなこと言っとる場合やないっちゃないと?」
「うん・・・まあそうなんやけど」
「とりあえず家に帰ってこれからのこと考えたらいいよ。どうするか決まったら連絡してくれたらいいけん」
「って言っても携帯持ってないし・・・。連絡するときは徒歩でお宅に伺いますけど」
「あ、うん。それでいいよ」
「それじゃよろしくお願いします」
「うん、またね」
慎はその足で家に戻った。人と話すのってこんなに楽しいものだったのかと感じた。そして同じくらい疲れてもいた。
部屋にたどり着くと、倒れこむように横になった。それから、文字通り一歩も動けなかった。
慎は公園のベンチに座っていた。何をするわけでもない。足元を鳩がせわしなく動いている。
「餌がほしいのはこっちだっつうの!」
一人つぶやく。鳩がまとわりつくように近くを行ったり来たりするのが鬱陶しいと思いながら、追い払う気力もない。
どういうことか訳が分からなかった。確かに3日前、愛と約束した。あれは夢なんかではなかった。
自宅に一度戻った次の日、慎は勇気を振り絞って不動産屋さんを訪ねた。『水盛』だと名乗ると、相手の表情が一瞬にして変わった。席を勧めることもせ
ず、二人は立ったまま向かい合っている。
「で、どうされますか?」
畑は煙草をふかしながら、二コリともせずに言った。
「とりあえず退去させていただきたいんですけど・・・」
「退去って・・・滞納されている家賃3ヵ月分はどうされるんですか?」
「必ず払います」
「どうやって・・・? 仕事もされてないんでしょ?」
「仕事は必ず見つけます。今とりあえずバイトを探してるところなんです」
「うん・・・。本当は追い出したりしたくないねんけどな。こっちも商売やからな・・・そこは分かって欲しいんやけどな」
「はい、もちろん悪いのは自分だってことは分かってます。追い出されたって文句の言える立場じゃないってことも・・・。その上でお願いなんですが、3ヵ月分の家賃を分割にしていただくことは出来ますか? 出来れば一万円ずつとか・・・」
「一万円!」
「無理なことを言ってるのは分かってるんです。でも自分でもどうしていいか分からなくて・・・。無理を承知でこうやってお願いしてるんです」
「そうやなぁ・・・一万円なぁ・・・まあ正直なところ、家賃払えんようになったら、まずその分は返ってけぇへんってのが、今までの常やった。だからあんたがそこまで言うなら、その言葉信じて待ってみたいという気もするねんけど・・・でも仕事もしてへんのに、月々一万円払うのも大変なことやで。言うのは簡単やけど、実際に行うのはホンマに大変や」
「はい・・・。でもこのままにしておきたくないんです。何とかお願いできませんか?」
「うん・・・まあ額がまだそんなに大きくないからなぁ。あんたがそんなに頼むんやったら、考えてみてもええわ。ただその場合、会社は別個にしてワシが個人的に貸すことになるんやけども・・・。それでもええかな?」
「はい、畑さんがそれでいいと言われるなら、こちらは何の問題もないんですが・・・そこまでしていただくのは申し訳ないです・・・」
最後のほうは声が震えた。ここで泣くのは恥ずかしいと思った。歯を食いしばって耐えた。
「ここまで来て何言うてんの。自分に選択肢はないんやで。じゃそういうことで決まりやな」
畑はニヤリと笑った。慎は畑が何か企んでいるんではないかと思い、そんな風に思う自分が嫌だった。
そのあと、畑に借用証書を書き、何度もお礼を言って不動産屋さんをあとにした。
順調に行っているという言い方はおかしいかもしれない。しかし、慎はこれから頑張ろうと心から力が湧いてくるように思った。きっと何とかなる、根拠のない自信が慎の内側から満ち溢れるように湧いてきて、慎は思わずビールが飲みたくなった。
畑は一週間くらいなら退去が遅くなってもいいと言ってくれた。引越しするにもお金がかかるのだ。当然といえば当然の話かもしれない。
慎は部屋を見渡した。空き缶や紙屑が散乱している。それを玄関の近くに集めた。お金になりそうなものはないか探したが、これといったものは見つからない。大部分は燃えるゴミに出してしまおう。
本棚から本を取り出し、床に並べた。紙が変色しているものや破れているものもある。その中から一際目立つ、大きな本を手に取る。
高校時代のアルバムだった。その頃を思い返しても、あまりいい思い出はない。勉強ばかりしていた気がする。パラパラとページをめくると自分の顔写真を見つけた。無表情で写っている。笠原の写真を探す。笠原さんは何組だったんだろう。同じクラスだったのは二年のときで、三年のときは違うクラスだった。
笠原の顔写真はなかなか見つからなかった。それもそのはず、当時は髪が長かったのだ。顔も今とずいぶん違う。今のほうが断然かわいい。
やはり時間は確実に進んでいるのだ、と思った。
それにしては笠原は自分のことをすぐに気付いてくれた。それだけ自分は高校生だったあの頃から何も変わっていないということだろうか。
片付けがひと通り終わったので慎は外に出た。強い風が吹いて、前髪を揺らす。思わず目をつぶる。立ちくらみがして慎はその場にしゃがみこんだ。
「こんな生活がいつまで続くんだろう・・・」
慎は独り言をつぶやき、重い足取りで階段を降りていった。
そして今、鳩がそこら中を歩き回る、鳩の歩行者天国改め、公園にいる。
30分前に汗だくになりながら、愛の住むマンションに何とか辿り着いた。家にあるものは殆ど捨てるつもりだったので、引越しはすぐにでも可能だったが、愛の気が変わったりしていないか、正直なところ不安だった。
部屋の前に立つ。507号室。何日か前に来たときは、『笠原』とネームプレートが掛かっていた。何で彼氏の名前がないのか気になったけれど、そのうち聞けばいいかと思っていた。
まずはそのネームプレートを確認、と。
「はい!?」
あるはずのネームプレートがない。何で? 何で?
ドキドキしてる場合ではない。とにかくインターホンを押そう。
「行け!」
ピーンポーンと鳴った。いや鳴ったのは気のせいだった。何回か鳴らしてみて気がついた。5階の角部屋だったはず。ここで間違いないはず。
その頃になって、自分の置かれている立場が分かり始めた。表札がなく、そしてインターホンは鳴らない。つまりこれは・・・『空家』!
公園のベンチに座り、まとわりついてくる鳩をかわせない状態に陥りながら、慎は考えた。2日前、愛に会ったのは自分の思い込みで、実はすべて夢だった。それか、会ったことは会ったが、一緒に住もうと言ったのは自分の妄想だった。いやいや、間違いなくこのベンチで話したじゃないか。それが妄想だったなんて切なすぎる。もしかしたら、途中で気が変わってしまったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。
不安が的中してしまった。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
畑さんにもう少しだけ退出を延ばしてもらおうか。しかし、これ以上甘えるなんて虫が良すぎる。いや状況が状況だけに仕方ないではないか。そもそも悪いのは愛のほうではないか。確かに一緒に住んでいいって言ったのに、約束を破るなんて。しかし、家賃を払えず、アパートを追い出されるような自分にだけは、愛も言われたくないに違いない。・・・そうだ、浩人。あいつが嫌がったに違いない。それで愛をどこかに監禁してるのかも。きっとそうだ。
慎の頭の中はフル回転し、その勢いは止まりそうにない。
「どうしたらいいんやろ・・・」
考えることに疲れると、慎は泣きたくなってきた。元はといえば一番悪いのは自分だ。家賃を滞納し、そのお金を畑さんに立て替えてもらった。そして高校卒業以来、全く連絡をとっていない、それどころか思い出しもしなかった、笠原の厚意に甘え、彼氏共々同居させてもらおうとした。そして悪いのは愛のほうだ、とさっき言ってしまった。こんな自分が情けない。ああ。神様がきっとこんな甘ちゃんな自分に試練をお与えになるのだ。
もう頼れるものはないと思ったとき、初めて母親の顔が浮かんだ。母親には頼るつもりはなかった。しかし、今の状況でそんなこと言っている場合ではない。
慎は財布の中を覗き込んだ。そうだった。念のため、愛が10円玉を数枚持たせてくれていたのだった。電話番号は今度来たとき(つまり今日)教えてくれると言っていた。こんなことになると分かっていたら、番号を聞いておくべきだった。
少しもったいない気はするものの、慎はその10円玉で母親に電話をすることにした。しかし、ダイヤルする勇気が出ない。お金を入れては受話器を置くこと3回。ある意味、好きな人に告白するより緊張する。
少しずつ進歩させていこう。次からはダイヤルしてからすぐに切るようにして徐々に慣らしていけばいいじゃないか。番号はさすがに空で覚えている。目をつぶっても大丈夫。って本当に目ぇつぶる奴があるか。
「はい」
「!」
「もしもし?」
余裕こいていたら母親が出てしまった。ピンチ。
「も、もしもし。慎やけど・・・」
「慎・・・? 長いこと連絡くれんからちゃんと生きとうか心配しとったんよ。ちゃんと仕事しとうとね?」
「うん・・・しとう」
「しとうと? それなら良かたい。男は仕事せんかったらどうするん? ねぇ。ほんとよぉ。まあ良かったたい」
「母さん、あまり話せんっちゃけど、みんな元気なん?」
「うん、元気よぉ。お兄ちゃんが司法書士の勉強してて、少しピリピリしとるけど、みんな元気たい」
「それなら良かった。じゃこのへんで」
「用事他にあったっちゃないと?」
「いやどうしとうかと思って。じゃ」
「そうなん・・」
何か言っている声が聞こえたが途中で電話を切った。
母親は兄貴のことばっかりで、俺のことを心配する暇もない。でも兄貴が頑張ってくれるから、自分はここで自由に出来る。だから仕方がない、と思った。やっぱり母親には頼れない。兄貴が試験に合格すれば、みんな喜ぶに違いないのだ。俺のことは後回しになるけど、それは仕方ない。そう仕方ない。しかし、相変わらず元気だな。あの分だとまだまだ大丈夫だわ。
慎は大きくため息をついた。それが安堵からなのか、憂鬱からなのか、それとも両方からなのか、それは自分でも分からなかった。
これからどうすればいいのか。何も思いつかなかった。とにかく愛が姿を消した理由が知りたかった。しかし、住む場所を確保することも最優先事項だった。
いつも目の前のことに没頭し、先のことが見えないのが自分の悪いところだ、と思う。結局、愛に全ての運命を託していたのだ。それは本当に頼りない、不確実なことだった。一からやりなおそう。そして今度こそ一人前になろう。
そして気付くと、あの定食屋さんの前に立っていた。慎は鼻息荒く、勢いよく扉を開けた。客は一人もいない。流行ってなさそうだという愛の言葉を思い出す。
「営業は5時からなんですよ・・・」
店員が申し訳なさそうに告げる。
「いや、あの・・・実はここで働かせてもらえないかと思って・・・で、出来れば住み込みで・・・それで・・・」
店員は困っているように見えた。
「無理、ですよね・・・」
「あの、ちょっと待ってもらえますか? もう少ししたら店長が戻って来ると思いますんで」
「そうですか。それじゃ少し待たせていただきます」
「すみません・・・」
謝りたいのはこっちの方だと思いながら、近くの席に腰かける。店員が冷たいお茶を持ってきてくれた。
待っていても無駄だと思う。採ってくれるとは思えないし、住み込みだなんて死語に近いんじゃないか。しかし、他にすることはないし、帰る家もないに等しい。
それから15分ほどああでもない、こうでもないと考えていた慎のもとへ、やっと店長らしき男が帰ってきた。おじさんと呼ぶのが申し訳ないと思える。もしかしたら同年代なのかもしれない、と思った。
店員が何か小声で説明してるのが聞こえる。時々、こちらをチラッと見ている。慎は早く店を出たいと思っていた。
店長がこちらに近づいてくる。慎は鼓動が早まり、酸素が足りない部屋に押し込まれたような息苦しさを感じた。
「ここで働きたいの?」
「はい!」
予想以上に声が大きくなった。何気合い入れてんだろうと内心自分にツッコミを入れる。
「今募集はしてへんねんけど・・・どうしてそう思ったん? 訳を聞かせてくれへん?」
「はい! あの・・・一度、客として来たんですけど、店の雰囲気がいいというか、ぜひここで働きたいと思いまして」
「他に店はいっぱいあるのになぁ。それと住み込みってどういうこと?」
「事情があって、今住んでるところを引き払うことになって・・・」
愛がいなくなったことは言わないことにした。
「家賃滞納とか?」
「まあ・・・そんな感じで」
そんな感じどころか、そのものである。これは採用に響くんだろうか。ダメ元だったのに、少し期待してしまっている自分がそこにいた。
「それは大変やなぁ。ウチの経営も大変やねんけど」
店長が笑いながら言う。愛の言っていたことは正しかったようだ。
「すみませんでした。時間をとらせまして」
話を聞いてもらっただけでも有難いという気持ちになっていた。慎は立ち上がり、店を出ようとした。
「あ、ちょっと待って。店で働いてもらうんは毎日ってわけにはいかへんねんけど・・・ばあちゃんが使ってた部屋が空いてるから、そこで良ければ」
「ホントですか?」
「嘘いうてどないすんの。家賃は1万円でええわ。給料のほうから引いとくから。バイトのほうは忙しいときだけ頼むつもりやから、そんなに収入にはならへんと思うけどそれでもええ?」
「はい、お願いします! 無理言ってすみません・・・」
「困ったときはお互い様やんか。じゃいつでも引越してきてくれたらええから」
トントン拍子に話が進み、慎は躍りだしたいような気持ちになっていた。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「ん? 何でも聞いてや」
「店長はおいくつなんですか?」
「35やけど。何で?」
「いや、もしかしたら同年代なのかと思いまして・・・」
「自分いくつなん?」
「今年30です」
「めっちゃ同年代やん!」
「それは同年代って言いません!」
店員が口をはさむ。
「でも若く見えます」
「そやろ、そやろ」
どうやら気のいい店長のようだ。慎は感謝の気持ちでいっぱいになった。
その日のうちにアパートを引き払い、慎は小料理屋『さつき』で住み込みで働くことになった。
慎は全くと言っていいほど料理の経験がない。実家暮らしのときは親が作るものを食べていた。とりあえず、汁物は水を沸騰させて、そのあと醤油を入れれば食べられると思っていた。だしを入れるなんて初めて聞いた。バイトの美佳ちゃんにそんなの常識ですよ、と笑われてしまった。
店長は典型的なO型の人だが、美佳ちゃんによると、キレルとかなり怖いらしい。怒らせないようにしなくては。まずは掃除からするように言われた。それもトイレからだ。訳を聞いたら一番やりたくないところだから、と言われた。
慎はトイレの中で何から始めればいいのか、考えをめぐらせている。しかし考えても分からない。慎はトイレ掃除をやったことがないのだ。実家のトイレはスリッパが揃っていたこともないし、便器が黄ばんでいた。しかし、その黄ばみが自分のせいだと分かったのはずいぶん後になってからだった。
「はぁ」
慎は掃除をするのをあきらめ、厨房に入った。
「お、早いお帰りやな」
店長が魚を三枚に下ろしながら、まぶしいくらいの笑顔でこちらを見た。
「すみません、何をやったらいいのか分からなくて・・・」
「トイレ掃除の仕方知らんの? えらいことやなぁ。掃除と言えばトイレ掃除っていうくらいやで。トイレの神様って歌が流行ってたん知らんか?」
「さあ・・・」
「ノリ悪いやっちゃなぁ。植村花菜ちゃんって子が歌ってんねんけどな。トイレ掃除したらべっぴんになれるって歌やねんけど。あんなきれいな子に言われたら説得力あるわなー」
「そんなことよりトイレ掃除の仕方について教えてくださいよ!」
「人の話を聞かんやっちゃ。自分、友達おれへんのと違うか?」
「ほっといてくださいよ。友達くらいいますよ」
「友達くらいて・・・友達以上に大事なもんはないって言うてもええくらいやで」
「そうですかね?」
「自分はそう思わへんか?」
「思わないですね」
「じゃあ何が大事や言うん?」
「お金が一番です」
「お金かー。俺もお金欲しいわー・・・って納得してる場合やあらへん。そんなにお金が欲しいか?」
「はい」
「何でやねん?」
「だってお金があったら美味しいものが食べれるし、毎月の家賃も払えるし、好きな女の子に何か買ってあげられるじゃないですか」
「好きな子がおるんか?」
「いやいや、例えばの話ですよ。お金があれば何でも出来るじゃないですか」
「何でもいうのは言いすぎやと思うけどな、まあ言うてることは分からんでもないわ。家賃ちゃんと払っとったらこんな店で働く必要もなかったんやしな」
「そんなこと言ってませんよ! ただ友達は困ったときに助けてくれるとは限らないけど、お金は裏切らないじゃないですか」
「そんなもんかねぇ。まだまだお金のこと分かってないんちゃうか?」
「どうしてですか」
「お金は魔物やで。お金とかけて鰻と解く。その心は?」
「クイズですか? 全く分からないです」
「自分、鰻は好きか?」
「はい。とは言っても食べたのずいぶん昔でどんな味か覚えてないですけど」
「・・・まあええわ。あの鰻って魚はな、ぬるぬるしてて、やたら長くて掴むのに苦労する魚なんや。食うたら美味いけど摑まえるのはなかなか大変やで」
「それとお金とどういう関係があるんですか?」
「つまりやな、扱いがメッチャ難しいいうことやねん。これがクイズの答えや。確かにお金があったら便利かも分からん。けどな、あったら必ず幸せになります、いうもんでもないんやで。お金があるから争うこともあるし、お金のために人生が狂った人間もようけおるわ。そのことは知っとったほうがええと思うわ」
「ピンと来ないですね・・・」
「ウチのばあちゃんな、去年死んだんやけどな。そのときになって莫大な財産があることが分かってん。そしたら、親戚中が全国から集まって来よってな、財産の奪い合いが始まったわけや。それまでばあちゃんに何をしたわけでもあらへん。それやのにようそんなこと言えるよな。ばあちゃんの娘のウチのお袋はどこ行ったかわからへんし、親父は俺が小さいときに死んだし、とりあえずこの店だけ譲り受けたんや。お金は働いて稼いだらええんや。こんなこと言うつもりやなかってんけどな」
「そうですか・・・。でも少し後悔してるんやないですか?」
「何がやねん」
「少しお金もらっといたほうが良かったって」
「まあな。少し後悔してるわ。てか、今となっては・・・メッチャ後悔してるわ」
「でしょー?」
「まあそれは置いといてやな・・・自分大事なこと忘れてるわ。お金をもらおう思ったら働かなあかん。ということは今自分がせなあかんことは何やねん?」
「トイレ掃除・・・?」
「そういうことー! 分かったらさっさとする!」
「だから教えてって言ってるんやないですかー」
「そうやったな、すまんすまん」
「店長話し出したら止まらないんやからー」
「そうやな、反省・・・」
「てか、店長・・・」
「何や?」
「お客さん来ませんね・・・」
「そやな、そやな。まあ掃除でもしよや」
店長の声は少し掠れていた。慎は店長は店長で色々な事情があるんだな、と思った。
*小説家になろう!というサイトで小説を公開しています。タイトルは同じです。そちらもよろしくお願いします。
哀愁もーど。(仮)