海の花
新緑も盛りを過ぎた頃のこと。
夜の色に包まれた、神社の傍の暗くて細い小道の奥にオレンジ色の明かりが灯りました。
木造二階建ての古風な民家の外灯です。
私が来るのを予期していたかのような灯った光は、私を導く灯台の灯火のように、辺りを照らしています。
家の前には古びた門があり、それをくぐると少しだけ庭が続きます。
小さな池の水面には波一つ立ちません。青い果実ををつけた梅の木の裏に、2匹の猫を見つけましたが、足早に私の視界からいなくなりました。
玄関へと向かって続く飛び石を、名前の如く飛びながら進みます。
玄関の前で急に私の心拍数は上がります。インターホンを押すというのは、その家の主が誰であっても、何度押したことがあっても緊張します。
しかし彼女とお泊まりの約束をしたという、正当な理由があるので右手の人差し指を前へと押し込みます。
少し間をおいてゆっくりと硝子張りの引き戸が開き、狭い隙間から色白い顔がのぞきました。彼女は私が私であると、まじまじと認識すると、戸を大きく開けて私を迎え入れました。
「いらっしゃい。」と微笑んだ彼女の声は空気の合間を縫ってやっと耳に届くような、きれいな音のした声でした。
ぼんぼりが電球を口にふくんだようなものが、畳が敷き詰められている部屋全体を照らしています。部屋の中央には黒光りする円卓があり、そこにはコップがふたつ置かれていました。
透明のコップを半分くらいまでオレンジ色に染めた彼女はこちらにそれをゆっくりと手渡しました。
髪の毛も輪郭もどの線もきれいだと思いました。
私も彼女くらいに髪を伸ばそうかなどと考えていると、彼女がめずらしく長い話をしました。
彼女は最近、過去のような、前世の記憶のような夢を度々見るそうなのです。その夢の中には1つの世界があり、彼女はそこを月だといいます。
地面は無機質で平らで真っ白で、大理石みたいなのだそうです。
昼はなく、夜ばかりがずっと続き、星はとても近いのに放つ光は弱々しいのだそうです。
何処かで聴き覚えのある詩が聞こえて、その歌声は彼女そのものなのですが、彼女の声ではないそうなのです。
夢の回数は歳を重ねるたびに増えていき、昨日の朝目覚めると、「貴女は明日」という言葉が頭の中をぐるぐる回っていたそうです。
彼女の言葉に対してそうなんだ、と言いながら、私の体温は頼りなく揺れました。大丈夫だよ、と言いながら無責任だな、と思いました。
「私も昨日の朝、その言葉が頭に浮かびましたよ。」と冗談っぽい音で言いました。うまく、そういう感じが出てたらいいな、と思いました。
不安になって彼女を見ると、なんだかうっとりした瞳をして不意にゆったりと立ち上がりました。部屋をでて外へと向かって歩いてゆきます。
私には追いかける以外の選択肢はありません。
玄関から外にでた瞬間、私は息をのみました。
先ほどまで青かった梅の実は桃色にぽんわりとひかり、水銀のように重かった池からは、大きな錦鯉がお盆のときのように、夜空へ向かって飛び上がり続けています。
2匹の猫は肩を並べて、尻尾をピンと立て、月を見上げています。
それらを包み込むようにたくさんの蛍がユラユラと天に昇ってゆきます。
こんな不思議に素敵な現象を気に留めることはなく彼女はどんどん進んでゆきます。
見上げると左右に迫った軒に切り取られた夜空は狭く、そこには沢山の電線が走っています。
彼女の隣を歩いていると、なんだか体がふわふわとして、息が苦しくなってきました。酸素が私を嫌っているように感じられました。だんだんと意識は遠のき、足元もおぼつきません。
気がつくと私たちは海岸にでていました。彼女は重心が安定せず、ふらつく私に近づき、手をとりました。
砂浜を海へと向かってゆっくりと歩いてゆきます。歩いているだけなのに何故か息が詰まってしまいます。
彼女の髪をなびかせた冷たく澄んだ風が私の頬を撫でてゆきます。
爪先が少し海水に浸かりました。膝まで浸かったときには、ぼんやりとした私の意識をひんやりと取り返してゆきます。
月光が彼女の顔を白く染め、まつげの影が頬にかかってきれいです。
私は海の中を見通すようにしました。すると一瞬ですが、1つの世界が見えました。
月が揺れるたびに光がさっと私たちの髪の毛を降りていって、水のようにひらひらとひかりました。
そのときです、水平線の彼方から強い風と大きな大きな波がやってきて、私たちを包み込みました。
私たちの体はふわっと浮かびました。
(貴方よずっとひかりであって)
彼女の小さな背中は大きな黄色い穴へ、ゆっくりと消えてゆきました。
紺青の空には、綿を千切ったような淡い雲が浮かんでいます。
先ほどまであんなにも大きかった月は、小さな黄色いビー玉のようです。
私は音ひとつ立てることなく、海へと飛び込み、私を求めている酸素のもとへと帰ってゆきました。
海の花