帰ろうか

 「ナオ。帰ろうか。」
身支度を整え、病院のベッドに腰掛けた彼女に、僕はそう言葉をかけた。
「あたし、わかったわ。」
文字通り血の気が抜けたのか、彼女の声は恐ろしいほど乾いていた。彼女が手首を切ったのは、もう何回目だろう。
「人間、向き不向きってあるよね。」
彼女が何を言わんとしているのか、僕にはわからなかった。ただ、その瞳に僕が映っていないことはわかっていた。
「何かあったの?」
案の定彼女は、僕の問いかけには答えなかった。見事な無視(とういうか、そもそも聞こえてないのだろう)。僕は、彼女が独り言を言ったのだと理解した。独り言ならば、こちらから問い返したところで彼女は絶対に、答えてくれない。
「帰ろうか。」
そう声をかけるとナオは、今度は子どもみたいに素直に「うん。」と頷いて腰を上げた。

 ナオが最初に手首を切ったのは十年前。十四歳の時のことだった。最初は、カッターナイフでうっすら赤い線を残す程度だった。なんかね、たまに死にたくなっちゃうんだよね。そう、ナオは言った。そういう時のナオの言うことが理解できたことなど、一度たりともない。
 たまに死にたくなっちゃうとき以外のナオは、とても健全だ。朝は僕より早く起きて、(気が向いた日は)僕と二人分のお弁当を作り、(天気が良ければ)自転車で裁判所へ行く。地裁の書記官なのだ。一昨年、就職が決まった時、お祝いに寿司を送った。もちろん、回る方の。それでも当時、手取り12万という薄給の僕にとってはかなりの贅沢だったのだけれど。
「なんで裁判所を志望したわけ?」
ウニ。大トロ。アワビ。遠慮のない彼女の食べっぷりに感心しながら、僕は尋ねた。ナオは、何巻目かわからないトロを頬張っていた。
「秘密。聞いたら、絶対笑うもん。」
「笑わないって。」
「笑うよ。お兄ちゃんは絶対、笑う。」
就職活動中のナオの履歴書を見てしまったことがある(テーブルの上に出しっぱなしにしてあったのだ。見たとバレると彼女は怒るので、未だに内緒だ)。長所の欄に『粘り強いところ』と書いてあった。直訳すると、頑固者ということだ(ちなみに、僕のそれは『協調性があるところ、熟考するところ』で、つまるところ優柔不断ということだ)。ナオは、一度自分で決めたことは、よっぽどのことがない限り変えない。自分自身に関する事柄ならなおさらだ。結局、二年経った今でも、ナオが何を考えてその仕事を選んだのか、僕は知らないままだ。

 一泊二日の入院を終えた後、彼女はやはりひどくまともだった。毎日仕事に行って、残業もあるけど基本的には定時に帰ってきて、たまには同僚と飲みに行ったりなんかして。よく食べ、よく笑い、よく眠り、とにかくまともな生活を送っていたのだ。それなのに。

 ナオが失踪したのは、それから半年後のことだった。
「ちょっと旅行してくるね。」
そう言い残して、彼女は家を出た。
「旅行?こんな年度末に、休みなんかとれるのか?」
「民間企業とは違うんだよ。決算が関係ある部署でもないし。」
そんなもんか、と思った。どこへ行くのかと尋ねると彼女は、「友達に会ってくる」とだけ答えた。

一週間。二週間。三週間。四週間目の最初の日、ナオの職場に電話をした。彼女の休暇がいつまでなのかを知りたかった。彼女の同僚と思しき男性が、電話口の向こうで彼女が一週間前に退職したと言った。その前の二週間は有給消化なので、ナオは、実質的には旅に出る前の日で仕事を辞めていた。
 目の前が真っ暗になった。気づいたら、叔父に電話していた。叔父に伴われて、警察署に行った。ナオの写真とともに、失踪届を提出した。
僕には、それしかできなかった。
成人で、しかも自分の意思で出て行っている以上、警察が動いてくれるとは思えなかった。友達に会ってくる、と、ナオは言った。だけど僕は、一人として彼女の友達を知らないのだ。彼女の職場へも出向いた。事情を話したが、誰一人として彼女の消息に心当たりのある人はいなかった。出向いたついでに、生まれて初めて裁判というものを傍聴した。彼女が、どんな仕事をしていたのか知りたかったのだ。裁判とは、それまで僕が想像していたよりも遥かに淡々と、事務的に進むものだとわかった。

 夏が来ても、彼女の消息は分からないままだった。毎年二人で行っていた両親の墓参りへは、行かなかった。ナオの不在をどう伝えてよいのかわからなかったのだ。
 ナオが生まれたとき、僕らは五人家族だった。僕らには、両親と姉がいた。僕が小学六年、ナオが小学四年の時に、彼らは死んだ。交通事故だった。僕らは叔父夫婦のもとへ身を寄せ、両親の保険金と事故の相手方からの賠償金で大学まで出た。
 十四歳になった夜、ナオは泣いた。
「お姉ちゃんの年を超えるなんて嫌。」
僕はその時点で、二年も前に姉の年齢を超えていた。あの事故が嘘だったら。そう願ったことは数知れない。だけど、それを思って泣くことはもう無くなっていた。僕は冷たいだろうか。でも、僕にはナオがいたのだ。手のかかる、気も揉ませる、優秀だけれど何を考えているのかさっぱりわからない大事な妹が。
 大事にしてきた。ナオを。シスコンってわけじゃない。あいつが彼氏と手をつないで歩いているのを見かけても、怒ったりなんかしなかった。むしろ、無関心を装った。だけど、いつもあいつのことを思っていた。叔父の家にいた時も、二人で出てからも、いつも、自分だけはあいつの帰れる場所であろうと努めた。たった一人の家族として。
 ふざけんなよ。いつもいつも。俺が、どんな気持ちでいたと思ってるんだ。どんな気持ちで死にたがるお前を見つめて、どんな気持ちで死にきれないお前を迎えに行っていたと思ってるんだ。十四年だぞ。二人で生きてきて。挙句の仕打ちが、これかよ。本当、ふざけんなって。あのねえ、ナオ。旅行っていうのは、帰ってくる予定があるものを指すんじゃないのかな。


警察から連絡があったのは、それからさらに半年後のことだった。



失踪してから8か月。彼女は、ずいぶん遠くの町の山奥で半分骨になって見つかった。歯形で彼女であることが確認された。焼き場で順番を待ちながら僕は、白骨死体も火葬するのだと、どうでもいいことを考えていた。骨は、叔父と二人で拾った。
 警察から返してもらった遺留品の中に、僕宛の手紙があった。帰りの車の助手席で、僕はそれを開いた。たった一行だけの手紙だった。


お兄ちゃんへ。
ただいま。


 やりきれない思いばっかりだ。
「ずるいなぁ。」
思わず俺は呟いた。ナオの考えていることなんて、一つもわからない。一生かけて考えたって、わかる気がしない。なのにナオは、僕の考えていることなんてお見通しだったのだろう。見通したうえで、それでも尚、死にたくなったというのか。
「帰ろうか。」
叔父が言った。僕は、ただただ頷くことしかできなかった。

帰ろうか

帰ろうか

大切な人が自死を選ぶということ。 残されたものは、どんな気持ちで受け入れればいいのだろう。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted