暑い夏の記憶 <HIROSHIMA>

暑い夏の記憶 <HIROSHIMA>

大野 朱鷺

大学生だった夏、私はバイクを駆って広島へと旅をした。
八月六日の平和を祈る式典に参加するのが目的だった。
しかし、そこで見たものは、重い現実の姿だった。

平和の式典に、様々な思惑や考え方が交差する。


また夏が来る。
8月は夏休みで世間がざわついている上、終戦記念日や盆の先祖の供養などと、
この時期特有の季節行事で、日常生活では気にしないで居るさまざまな事を
思い出したりする。

もう35年も前の話になる。
当時、大学一年生だった私は、75ccのバイクを駆って
岐阜、福井、京都、鳥取などを経由して広島に向かっていた。

夏休みの気ままなツーリングというのではなく、大学の自治会の活動で
広島の原水爆禁止世界大会に参加するのが目的だった。
まだ世間の仕組みも良く解っていない若者にしてみれば、
それは世界の平和を考える素晴らしい大会に思えていたし、
それに参加する事は光栄で有意義なことに感じた。
少しでも世間の人にアピールをしたいと考えた私は、
大学の代表団と行動を別にして、単独で広島まで向かったのだ。

私以外の学生は揃ってバスで現地に向かったのだが、私だけは荷台に
「no more Hiroshima」と書いたバッグを括り付け、道中で原水爆廃絶の署名を
集めながら、単独の行動で、三日程かけて松本から広島まで踏破した。
まだ18歳の学生で、「世界に平和を!」という理想だけが目の前にあり
自分たちの力で、それが実現可能なのだと信じていた頃だった。

道中で立ち寄ったお店の人や、途中で車を停めている人たちに署名をお願いすると、
八割方の人は快く署名をしてくれた。
大学生が単独行で広島まで向かう事で、励ましてもらったりもした。
夜はシュラフ持参で野宿をしたり、田舎のバス停やお寺の軒先などで寝て、起きたら
また走るという事を繰り返した。
しかし署名をお願いした残りの二割の人は、私の考えても居なかったことを口にして、
私を驚かせた。
身内に原爆被害者が居るという人が、あえて禁止大会のような活動の形骸化を口にして
署名できないと言ったり、日本の自立や自衛の問題などで米ソの核のバランスの中に
居ながら、廃止を口にするのはおかしい、といった話を聞かせてくれた。
アメリカにやられたのに、そのアメリカに守ってもらっているなんて、国としてのプライド
や主権の問題だというおじさんも居た。

確かに理想だけでは世界は動かない。でも理想や夢を持つ事も必要なんだと、
その時の私はまだ考えていた。


広島での大会は、現実の政治そのものだったように思えた。
当時の状況は、世界を見ると米ソの冷戦の時代で、ドイツは東西に分かれていて
中国やアフリカ、南米などは重要なファクターでは無かったし、
国内では自民党が主流で、第二党が社会党、公明、民社、共産と
五つの党で政治が行われていた。

また反核団体も社会党系と共産党系の二つの団体が存在していた。

原水爆禁止大会も、前年までは二つの大会が別々に開かれたが、
その年初めて「原水禁」と「原水協」が共同で開催するという年だった。
私の大学は民青系の自治会だったので、その流れのなかで対抗する団体との競争のように
なっていく大会に巻き込まれながら、次第にその裏側に気づかされて行った。

「東の核と西の核では、持つ意味が違う」などという議論を聞かされたりもした。
シンポジウムの動員人数でどちらが多いとか、席の数がどちらの団体の系列が多いのは不公平だとか、
代表何人かだけがメイン会場に座って、残る人数は別の処に動員されるなどという、
ごたごたを繰り返し、狂乱の数日が過ぎた。

幸いにも私の大学からの参加者の中で、三人ほど一年生の男子が居て、
その中の一人が広島の出身だった。
彼は被爆二世だったのだが、実家で数人受け入れても良いという話をしてくれて
一年生男子の三人は彼の家に泊めてもらう事になったのだ。
昼間あちらこちらを引っ張りまわされ、夕方彼の家に戻って、夕飯を頂きながら
彼の父親から聞く話は、道中で聞かされた二割の人の意見に近いものだった。
結局、政治ショーなのだと。

数日の広島滞在中に思ったのは、現実の「広島」と「HIROSHIMA」とは
別のものなのだという感想だった。
平和の象徴としての「HIROSHIMA」。
現実に人々が日々生活している広島。
それを同一の街と考えると混乱する。
平和公園と原爆ドームの展示館と世界中の人々の心の中にだけある「HIROSHIMA」は
私に、それまで持っていた聖地というイメージと異なる価値観を与えてくれた。


そういえば当時好きだったフランスの歌手、ジョルジュ・ムスタキの曲に「ヒロシマ」
という曲が有った。ムスタキの唄った「ヒロシマ」はどちらの街の事だったのだろう?

すっかり疲れ果てて、帰宅の途についた私は、広島を出たところで知り合った長距離
ドライヴァーの言葉に甘えて、空車で東京まで帰るというその車にバイクごと乗せて
もらい、翌日の夕方には帰宅したのだった。



今になってみると、世界はあの頃からあまり変わっていないように思える。
ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が開かれ、中国が台頭してと、状況は変わるが
それぞれの人の対応は相変わらずだ。

安倍首相が集団的自衛権を持ち出すと、それに賛成する人と反対する人とが対立する。
議論は「どうやれば戦わないで済むのか。」から次第に道を逸れ
「9条教はお花畑」とか「賛成派は自分が入隊しろ」などという
罵りあいに発展してしまう。

日本の事を貶めようとする一団も居る。
隣国は嘘をまき散らし、我が身を省みず、日本を非難する。
過去の行為を口実に、様々な面で日本に対し要求を行うが、
自国の侵略行為や軍事力強化は何もないように口をつぐんだままだ。
国内でも一部の集団はそれに呼応するかのように、自虐的に日本を叩く。

人は、自分の信じる事を他人に認めさせるためには、多少の誤魔化しも行う。
アメリカの核兵器は悪くて、ソ連の核兵器は良い核だ、などというとんでもない理屈さえ飛び出す。
国内外で人権を標榜しながら、他者の人権を蔑ろにしたり、言論の自由を叫びながら
他人の口を塞ぐような行為を目にする事がある。

そんな事を思う度に、争う事が無い平和で自由な世界を求めてしまう。



何かの偶然だろうか。それとも親子の必然なのか。私の大学の後輩となった娘は、
大学の自治会の役員となり、数年前やはり「HIROSHIMA」に行く経験をした。
それについての感想を。、彼女の口から聞かされたことは無い。

彼女が感じたものは何だったのだろう。私が30年前に感じた失望だろうか。
それとも、その後の時代で少しは改革された、理想に向かう姿だろうか。
彼女が感じたものが、失望や徒労だけでない事を願っている。

そして、兵器など持たずに居られる世界がいつか訪れて欲しいと思うのだ。
娘たちが胸を張って笑って生きて行けるように。

暑い夏の記憶 <HIROSHIMA>

私の学生時代の体験を回想して書いてみました。

「戦争をやめよう!」「平和な世界を作ろう!」というのは、誰もが想う事です。
でも、いまだに世界中でそれが実現はしていません。

武器を捨てれば、相手も同じように捨てるのか?
それとも反撃されないと安心して、こちらに銃口を向けるのか?
撃ち合いを回避したところで、相手に蹂躙され、領土や資源どころか
人権まで奪われ、一方的に虐げられてしまうのか。
日本人として近隣諸国を見ていると、不安は膨れ上がります。

疑心難儀のなかで、軍拡競争がエスカレートしてしまうような、
愚かな行為が世界中に有ります。

原爆投下と終戦の夏から、何十回も季節は巡りましたが
人類はまだまだ未熟な子供のようです。

少しでもそれが理想に向かって成長するように、何かができたらいいなと思っています。

暑い夏の記憶 <HIROSHIMA>

大学生だった夏、私はバイクを駆って広島へと旅をした。 八月六日の平和を祈る式典に参加するのが目的だった。 しかし、そこで見たものは、重い現実の姿だった。 平和の式典に、様々な思惑や考え方が交差する。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-08

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