家族の証

わたし



 








家族の証




















まずは、太ももを一刺し。相手は、逃げる。這うように、逃げる。追いかけて背中を刺す。刺す。刺す。何度も何度も。「ごめんなさい。助けて」相手がすがりついてくる。僕は、刺す。相手の胸を、手を、足を、顔を刺す。僕はどんな顔をしてるんだろう。客観的に、第三者の目線で自分を見てみる。笑っているのだろうか、泣いているのだろうか。黒い世界で青白く浮かび上がる自分の顔を覗き込んでみる。血だらけになった僕の顔に表情は、ない。相手の死を悲しんでいるわけでもなく、人を殺す快楽に浸っているわけでもない。ただただ、無表情で、相手を刺す。僕は――。





昼食時ともなると、校内の食堂は人であふれる。騒がしい集団の間をぬって、ようやく空いている席を見つけるとテーブルの上に残った、前にいたやつがそのままにしたであろうゴミを払いのけて席に着いた。耳障りな馬鹿笑いがそこらじゅうで響く。
大学生は必死だ。周りの人間から浮いてしまわないよう、仲間はずれにされないように、髪型や服装から話す内容にまで気を使っている。皆、それぞれのグループに属し、楽しそうに、きゃっきゃと笑っているが、それらは全て薄っぺらいものだ。どんよりとそこに居座るちぐはぐな空気に気づいてはいるものの、自分の居場所はここだと、必死に自分に言い聞かせているのだろう。いや、もしかしたら、そんなことにも気づいていないのかもしれない。
「今日の講義、相変わらず意味わかんなかったな」
「お前は漫画読んでるからだろ」
 ユウとコウスケがさっきまで一緒に受けていた講義の話をしている。ユウとコウスケは僕が大学内で話す数少ない人間だ。新学期になり、講義に遅れてきたユウとコウスケが「隣、いい?」と一人で座っていた僕に話しかけてきた。一年生のはじめの新歓イベントの時に少し会話をしたこともあり、それからなんとなく講義の後に一緒に昼飯を食べるようになった。
ユウとコウスケは悪いやつではない。少し怠け癖があるが、いわゆる、いつもみんなの中心にいるようなユウ。地味で、見た目はパッとしないが、思ったことをハッキリと言えるコウスケ。二人とも、僕にはないものをたくさん持っている。
二人は、僕のことを聞かれたとき、なんと答えるのだろうか。……特徴がない。僕は何をもっているのだろう。無難に、いいやつだと答えるのだろうか。自分でもはっきりとは言い表せない、黒い、もやもやとした得体のしれない感情が僕の中に生まれる。なにかが、少しずつ、僕の中にたまっていく。
「お前は、今日も真面目にきいてたな、ヒカル」
コウスケが、お前えらいなーと言わんばかりに指摘してくる。
「まあね、ほら、俺真面目だからさ」
 俺にはできないわーとユウがおどける。お前は、根っからのクズなんだよとコウスケがツッコむ。会話は全て軽いノリでなされる。これができないやつが、次々とつまらないやつだというレッテルを貼られ、みんなの輪から外されていくのだ。僕は〝薄っぺらい〟とどうしてもそう感じてしまう。
今まで十九年間、とりあえずは生きてきたが、いまだにわからない。ユウとコウスケは僕の友達なのだろうか。一般的にみるとそうなのだろう。でも、僕はユウとコウスケをどういう字で書くのか、苗字でさえも知らない。果たしてこんな〝薄っぺらい〟関係でも友達だと言えるのだろうか。だが、むこうもおそらく、そうだ。とりあえず一人にならないように話す相手を求めて。二人はヒカルを「光」だと思っているのだろう。僕の名前は「輝」だ。萩谷輝。両親が輝くような子に育ってほしいと願いを込めて付けたらしいと、小さいころに聞いたことがある。どうやら間違った方向に育ってしまったらしい。輝くように……。そんな曖昧な希望を込められた名前が僕を苦しめる。
両親の望んでいたであろう、自分を頭の中で作り出してみる。快晴の草原。両親の間に立つそいつは、十人に聞いたら十人全員が「いい子ね」と答えるような、頭がよく、物静かだが、優しい笑顔が特徴的な好青年だ。そいつは、父を見て、そして母を見て、微笑む。しばらくすると突然、雲行きが怪しくなり、厚い雲が空を覆い尽くす。ぽつぽつと降り出した雨はすぐに勢いを増して、けたたましい音を立てて地面を濡らしていく。父と母とそいつは傘を差し、土砂降りの雨の中にいながら、その三人の空間だけが、まるで快晴の草原にいるように明るい。そこに「僕」が現れる。傘も差さず、ずぶ濡れになった「僕」が現れる。三人がこっちに微笑みかける。「僕」は三人に近づき、隠し持っていたナイフで三人をめった刺しにする。何度も何度も。顔の原型がなくなるまで。
「ヒカル、お前そろそろバイトの時間じゃない?」
ユウが携帯を見ていた顔をあげ、眠そうに言う。
「あー、ほんとだ。じゃあ俺そろそろ行くわ」
「いいなー、家庭教師。時給いいもんな」
「ユウもやればいいじゃん」
「ばか、こいつには無理だって」
 コウスケが、すかさずツッコむ。「はぁー、俺だって本気だせば余裕だっての」とユウが意味もなく立ち上がって言う。僕は軽く笑って、「じゃあ行くわ」と言って席を立つ。家庭教師なんて嘘だ。変に質問されるのが嫌で、適当に嘘をついた。
僕は食堂を出る前にいつものようにカウンターの席をちらっと確認した。いた。今日もそこには一人で携帯を弄んでいる女の子の姿があった。名前も知らないし、話したこともないが、校内でたまに見かけるその子はいつも誰かと群れることなく、なにより凛としていた。その子は、ちぐはぐとした違和感の漂う食堂の中で誰も寄せ付けないような独特の雰囲気を醸し出していた。僕はなぜだかその子を見ると安心した。僕はその子が今日も一人でいることに安堵し、食堂を出た。


繁華街の早朝は日常から離れ、どこか違う世界に訪れたような感覚に陥る。うるさいくらいに、ちかちかしていたネオンの明かりも、道端にたむろする黒い人も、世界を汚す煙をまき散らす車も、まるで示し合わせたかのように、日が昇り始めると一斉に世界からその姿を消す。
「わりー、ミツグさん話長くてさ」
 シャッターの前に積み上げられたゴミ袋をあさるカラスをぼーっと眺めながら、タバコをふかしていると、リョウさんが頭を掻きながら階段を降りてきた。
「また、怒られてたんですか?」
「そんなんじゃねーよ、お前頑張ってるなって話」
 リョウさんはいつものように、ニッと自慢の欠けた前歯を見せると「ほら、飯食いに行くぞ」と少ししゃがれた声で言うと歩き出した。
僕がホストのバイトを始めたのは、三ヶ月前のことだ。よく話に聞く、街中でされる勧誘ではなく、自分からバイトの面接を取り付けた。もちろん今後、ホストとして食べていこう、なんて気はさらさらないし、お金に困っていたわけでもない。ただ、僕の中に家庭教師やカフェの店員といった、普通の大学生がするようなバイトをするという選択肢がなかった。
ろくに面接もしないまま、その日のうちに採用になった僕には、基本的なテーブルマナーやホストとしての振る舞い方などを教えてくれる教育係がつけられた。それがリョウさんだ。リョウさんの第一印象はひどいものだった。明らかに他の従業員たちより、一回り年上、比較的若々しく見えるが、もしかしたら父親と同年代くらいのリョウさんは僕と同い年くらいの人気ホストにあごで使われていた。それに嫌な顔一つせず、へこへこしているリョウさんを見ていると、目をそむけたくなった。
「おじちゃん!ハンバーグ定食二つ!」
 今日もアルコールで気分の悪い早朝から選択の余地なくヘビーな定食に決められた僕は電車に乗ってるときに吐いたりしないよう、料理が出てくるまえに半分残すことに決めた。
「輝、お前、今日のお客さんのことバカにしてただろ」
 リョウさんがにやにやしながら聞いてくる。
「別にバカにしてませんよ。偉そうだなーとは思いましたけど」
「いーや、バカにしてたね。俺にはわかるんだよ」
 リョウさんは、そう言うと、満足そうに笑い、水をいっきに飲みほした。
ホストクラブにくるような女はたいてい水商売の女だ。さえない男から巻き上げたかねをせっせとお目当ての男に貢ぎにやってくる。決して顔には出さないが、心の中ではバカにしている。しかし、僕は彼女たちを嫌いではない。彼女たちはいつだって自分の欲に正直だ。
「まぁ、たしかに今日の客はやたらとうるさかったな」
 リョウさんが言っているのは今日、正確にいえば昨日の十一時頃にやってきた女のことだ。自分の家がいかに良い家柄か、そしていかに自分の人生が充実したものかをひたすらヘルプについていた僕とリョウさんに自慢げに語ってきた。幼いころから自然と身に付いた愛想笑いを顔に貼り付け、きちんと対応していたはずだが、リョウさんにはばれていたようだ。
リョウさんは僕の心の中を見透かすような目をたまにする。先輩に怒られてばかりのリョウさんからは考えられないくらい鋭い目で僕の心の声を言い当てる。
年も全く違うリョウさんとは一緒にいて落ち着く。最初の最悪だった印象もしばらくすると変わっていった。二人で話す機会が多く、彼の柔らかい空気感が心地の良いものになった。次第に、リョウさんだけには心を少しずつ開くようになっていった。
「そういえば、輝の親って何してるんだっけ?」
 出てきたハンバーグの予想以上の大きさに顔をしかめている僕を尻目に、巨大な一口をほおばりながらリョウさんが聞く。
「母さんは普通の専業主婦で、父さんはお医者様ですよ」
 ソースのあまりかかっていない部分を小さく切り分けながら言った。皮肉をこめて。
「へー、そらスゲーな」
 リョウさんが興味なさそうに言う。聞き飽きたセリフだが、リョウさんが言うと、嫌な気持ちにはならなかった。リョウさんの「スゲーな」からは人間の汚い部分が感じられないからかもしれない。
父、母、二つ上の兄である優と僕の四人家族は誰が見てもうらやむような幸せな家族だった。物静かだが器量の良い母は理想的な母親だったし、仕事熱心な父は周りからも尊敬されていた。物静かだが、優しく、頭のいい兄は父と同じ医者を志していた。そんな中、運動が特にできるわけでもなく、頭がいいわけでもない僕だったが、劣等感を感じることもなく愛されていた――と思っていた。
僕が高校一年生の夏、兄は医学部に入るための受験期のまっただ中だった。そんな頃、いつものように四人で夕食を食べていた時だ。兄が突然、医学部を受験しないと言い出したのだ。
「俺は映画監督になりたい。だから専門の大学に行かせてほしい」
静かな声だったが、はっきりと真剣に兄はそう言った。僕は兄がそんなことを考えていたなんて、微塵も知らなかった。兄が映画を好きなのは知っていたし、ことあるごとに映画について話してはいたが、兄は父の病院を継ぐものとばかり思っていた。父と母も同じだったようで、二人とも言葉を失っていた。「すごいね、兄ちゃん。そんなこと考えてたんだ」バカな僕はそう言ったが、そののんきな言葉だけが食卓の上をふわふわと漂い、重い空気に押しつぶされた。誰も言葉を発しなかった。「……いつからだ」長い沈黙のあと、父が絞り出すように言った。
「いつからそう考えていた」
「高校生になったころからだよ」
 兄が答えると、再び長い沈黙が流れた。
「……ごちそうさま」その重い空気に耐えられなくなった僕は早々に食事を終えると、逃げるように自室に戻った。その後、どのような会話がなされたのか、詳しいことは知らないが、父は医者になれの一点張りで、最後まで兄の話を認めなかったらしい。そのころからだろうか、家族が少しずつずれていった。もともとあまりしゃべらない兄だが、より一層話さなくなり、勉強はしているようだが成績は坂を転がり落ちるように悪くなっていった。それに比例するように父の帰りが遅くなっていった。僕はへらへら外で遊んでばかりだったので、知らなかったが、父と兄とで何度も話し合いが行われていたらしい。そのたびに二人の関係はぎくしゃくしていき、四人で夕食を食べることも少なくなっていった。
そんな生活がしばらく続いたが、十二月のある日、事件がおきた。父が珍しく酒に酔って帰ってきたのだ。玄関まで様子を見に行った母の後ろ姿を見送り、僕は、父さんも酔っぱらうんだなーなんてぼんやり思いながら、リビングでだらだらとテレビを見ていた。しばらくしてもなかなか二人が入ってこないので玄関のほうの様子をうかがっていると、突然、父の怒鳴り声が聞こえてきた。
「うるさい!お前はいつもいちいちうるさいんだよ!」
 はじめて聞く父の怒鳴り声に驚き、玄関に向かうと、棒立ちになっている母の背中越しに、父の座り込む大きな背中が見えた。
「どうしたの?」僕が軽い言葉をどちらに向けるでもなく投げかけると、父はその言葉がきっかけだったかのように立ち上がると、僕に目もくれずに、兄の部屋に肩を怒らせながら向かっていった。
「……どうしたの?」ただならぬ父の雰囲気に圧倒された僕は母に恐る恐るたずねたが、母は返事をすることもなく、ただそこに立っていた。すると、兄の部屋のドアが荒々しく開けられる音に続いて、父の怒号が鳴り響いた。
「まだこんなことをしてるのか!いいかげんにしろ!お前は医者になるんだよ!こんなもので遊んでる暇があったら勉強しろ!いつまで甘えてるつもりだ!」
 しばらく父の怒鳴りつける声が続いたあと、何かが壁にぶつかる音がすると、ぴたりと全ての音がやんだ。兄の部屋から出てきた父が乱暴にソファーに座り、居場所を失った僕が部屋に戻ろうとすると、耳をつんざくような獣のうめき声のような音がきこえて、僕は思わず動きを止めた。いや、それは獣のうめき声なんかではなく、まぎれもなく兄が初めて発した心からの悲痛の叫びだった。叫びとともに、物が次々と床にたたきつけられる音が続き、僕は家が壊れてしまうんではないかなんて思っていた。あまりの出来事に僕も母も驚いていた。父は顔を真っ青にして固まっていた。その日から、兄はひきこもった。僕が今年、十九歳だから兄は二十一歳だ。兄はあれから約四年間、家族の誰にも心を開くことをしなかった。兄の時間は高校三年生から止まったままだ――。そして、あの事件からしばらくすると、父の僕に対する態度が少しづつ変わっていった。帰宅した父がテレビを見ている僕を見て、ため息をつくのを背中で何度も感じた。「なにをしているんだ。なにもできない。努力もしない」父の心の声が聞こえてくる気がして、そのうち家に帰るのが億劫になった。家の中に居場所がなくなった気がした。それからはどこにいても頭の片隅にはいつも兄のうめき声と父のため息があった。このころから僕は父を殺すようになった。もちろん実際に殺すわけではなく、頭の中で作り出した世界でだ。自分のなかに黒いモノがたまっていくたび、それを吐き出すように人を殺すようになった。それは街で見かけただけの人であったり、ホストクラブに来た客であったり、兄だったりした。自分の中で何かが壊れないようにたくさんの人を殺した。


テレビから聞こえてくる馬鹿笑いが頭に響いて目が覚めた。朝方帰ってから、テレビを見ていたら、そのまま眠ってしまったらしい。まだ少し頭が痛い。やはり昨日は少し飲みすぎたようだ。ナンバーワンのホストの誕生日イベントとあって、羽振りのいい客が次々とシャンパンを注文し、店長に乗せられた僕も調子にのってコールしすぎた。重い身体をベッドから起こせないまま、昨日はなんであんなにペラペラとよけいなことまでリョウさんにしゃべってしまったのだろうと少し後悔していた。
「そんで、兄ちゃんがひきこもってからは、もうオシマイですよ。我が家の期待の星だった兄が将来に期待できない。はなから僕に期待してなかった親は兄の心配ばかりで、僕のことなんか気にも留めませんでしたね」
 今まで誰にも話したことのないことをがらにもなく饒舌に話してしまった。結局僕が残したハンバーグも平らげたリョウさんはときどき「うんうん」とか「そっかー」などと相槌をうちながら、真剣に聞いてくれていた。 ガンガンする頭で今朝のことを考えていると、携帯がなった。携帯の画面の明るさに目を少ししかめながらLINEをチェックすると、ユウからメッセージが来ていた。
『ヒカルー、お前今日の講義さぼっただろー(笑)』
 そういえば今日はユウとコウスケと同じ講義がある日だ。時間を確認すると午後の三時だ。午前の講義はとっくに終わり、もう午後の最初の講義も終わる時間だ。しかし、どうしてこんな明らかなことを連絡してくるのだろうと思いながらも、とりあえず『うっせー』とだけ返し、タバコ臭い身体を洗い流すことにした。
シャワーから上がると、ユウからまたメッセージが来ていた。
『今日は映画みただけだったからめっちゃ楽だったでー。来週はちゃんと来いよ』
 映画か。それなら寝てればいいだけだし、行けばよかった。一瞬そんな考えがよぎったが、あんな話をした後で、ユウとコウスケと顔を合わせて、いつものように振る舞うなんて、到底できっこないと考え直した。
つけっぱなしのテレビでは無職の男が親を刺殺したというニュースをいやにハキハキとした男のアナウンサーが読み上げていた。僕はいつも滑稽な光景だと感じてしまう。仕事として他人の不幸を謳っているのだから。アナウンサーのマネをしてニュースを読み上げてみる。
「父親を殺害した疑いで逮捕された男が、母親も殺すつもりだったと新たに供述していることがわかりました」
なんだか無性におかしくなって一人で笑っていたが、すぐにバカらしくなった。チャンネルを変えようとリモコンを探していると、TSUTAYAで借りっぱなしになっていたDVDが目についた。

「お前、映画見なきゃ絶対人生損してるぞ」部屋に新しいDVDが並んでいることを指摘すると、兄が勉強していた手を止め、こっちを振り向いて言った。
「映画はな、人生を豊かにするんだよ」
「また兄ちゃんは大袈裟だなー」
 こんな会話を交わしたのは、たしか兄ちゃんが医学部を受験しないと宣言してから数日後だったはずだ。このころはまだ、いつものように勉強中の兄ちゃんにちょっかいを出しに部屋によく入っていたし、兄ちゃんも僕との会話を楽しんでいたんではないかと思う。
「兄ちゃんが映画監督になりたいなんて思ってたなんて知らなかったなー」
「まあ誰にも言ってなかったからな」
「なに?じゃあ隠れて映画撮ったりしてたの?」
 僕がにやにやしながら兄ちゃんに尋ねると、兄は照れ臭そうに「誰にも言うなよ」と言って、引出しから八ミリカメラを取り出した。
「……ほんとに撮ってたんだ」
 まさか本当に撮っているとは夢にも思わなかったので、思わずまじまじと兄の顔を見てしまった。
「まあ最近だけどな。でも、カメラを覗いてるとワクワクするんだ」
 兄ちゃんはカメラを本当に愛おしそうに眺めている。机に向かって勉強する後ろ姿からは想像できないほど、生き生きとした表情でカメラを扱っている。カメラを覗き込んで世界を切り取る兄ちゃん。僕は兄がカメラを構えている姿をイメージして嬉しくなった。
「兄ちゃん、頑張りなよ」
 僕が突然そう言うと、兄ちゃんは少し驚いていたが、嬉しそうにはにかんだ。その時に何本かの映画を勧められたが、僕は「いつか見るよー」なんて言ってその時ははぐらかしたはずだ。
それからしばらくすると兄ちゃんは部屋にこもりがちになり、あまり顔を合わせなくなった。父が怒っていたのも知っていたし、なかなか兄ちゃんの部屋に入りずらくなっていた。そんな中、たしかあの事件の前の日だ。僕は次の日学校で使う教科書を兄から借りようと久しぶりに兄の部屋に入った。
「兄ちゃん、入るよ」
 僕が返事を待たずに、部屋に入ると兄ちゃんは机に向かってはいたが、どこか一点を見つめてぼーっとしていた。その表情があまりにも何かに思いつめているように見えたので、僕は声をかけるのを一瞬ためらってしまった。しかし、兄は僕に気づくと、すぐにいつもの柔らかい表情に戻って「どうした?」と聞いてきた。
「いや、教科書借りようと思って……大丈夫?」
 兄は「大丈夫?」の部分が聞こえなかったのか「なんだよ、失くしたのかよ。どのやつ?」と何事もなかったかのように聞いてきた。
「あの数学のやつなんだけど」
「あー、あれね。たしかこの辺に――」
 普段通りの兄を見ていると、さっきの表情は気のせいだったと思えてきた。
「はい、ちゃんと返せよ」そういうと兄は机に向かった。僕はいつも通りの兄に安心して、ちょっかいをかけようと、質問をした。
「ねえ、兄ちゃんまだ映画撮ってるの?」
 今考えるとなんてバカな質問をしたんだろうと思う。その時は兄ちゃんがあんなに苦しんでいたなんて知らなかった。兄ちゃんは一瞬固まったように見えたが、すぐに手を動かして「まあなー」と答えた。
「ちゃんと勉強しなよ、父さんに怒られるぞ」
バカな僕は兄を追い詰めるような軽口を言うと部屋をでようとした。ドアを閉める前に兄ちゃんの方をちらっと見ると、兄は僕のことをじっと見ていた。そのとき兄は部屋に入った時と同じ、なにを考えているのかわからないような表情をしていたので僕はまた固まってしまった。すると、兄は小さな声で一言つぶやいた。
「お前がうらやましいよ」
 僕は兄が少し笑っているにもかかわらず、どこか悲しそうにみえたので、ごまかすように笑うとドアを静かに閉めた。そのとき僕は兄の雰囲気に圧倒されて何も言えなかったが、心の中では「何言ってんだよ、兄ちゃんのほうが頭がいいし、父さんから期待されてるしうらやましいよ」なんて思っていた。

結局その日は学校はさぼり、頭の片隅に残っていた兄から勧められた映画を見ることにした。といっても、僕は映画なんてめったに観ないし、それこそ分かりにくい難しい映画だったから、最後までちゃんと観ずに途中からは漫画のほうに集中していたのだが。気づけばエンドロールが流れていて、その映画の良さなんてさっぱりわからなかった。ただ、映画の内容は暗い話なはずなのに、エンドロールで流れていた、やけにポップな音楽だけが耳に残った。


「御新規二名様ご来店でーす!」
「いらっしゃいませー!」
 うるさいくらいになっているガチャガチャした音楽に負けじと店内に体育会系の無駄にでかい声が鳴り響く。午前零時半、最も混む時間帯の店内で僕は氷を取り換えたり、洗い物をしたりと慌ただしく動いていた。今日もたくさんの客がホストクラブという作り上げられた空間に足を運んでいる。リョウさんはいつものように、前歯が欠けているのをネタにされ、笑いものにされているようだ。今日も得意の愛想笑いでしっかりヘルプも対応できているし、この様子だとキャッチに出なくてもよさそうだ。リョウさんはコップを落として割ってしまい、ミツグさんにしっかり絞られていたが。
午前三時、騒がしかった客も帰り、少し落ち着いたので、店の裏口で一服することができた。
「今日も慌ただしかったですね」
「あー、疲れた」
 リョウさんは僕に返事もせずに足を伸ばし、口を大きく開けている。僕はそのあまりのだらしなさに少し笑ってしまう。
「一本吸いますか?」
 僕が返ってくる言葉はわかっているが、少しおちょくってやろうと聞いた。
「バカ、タバコは体にすげー悪いんだぞ。吸うわけないだろ。お前もいいかげんやめろよ」
 リョウさんは健康面にはうるさく、少し真面目なところがある。僕はそんなリョウさんを面白がって、よくタバコを勧める。「全く、だいたいお前まだ未成年だろうが」リョウさんがまだぶつぶつ言っているので、思わず声をだして笑ってしまう。面白がって、リョウさんをからかっていると店内から客が来たことを知らせる声が響いた。
「御新規一名様ご来店でーす!」
 僕とリョウさんはもう一息だと立ち上がり、薄暗い店内に入っていった。
「いらっしゃいませー!」
 リョウさんが張り上げるしゃがれた声に僕も続く。
「いらっしゃ――」
 笑顔を作り、客を出迎えようと入り口に立つ女に目を向けたその瞬間、僕は目を疑った。まさか、ありえない。僕は突然のことに真っ白になった頭で必死に目の前にこの子がいることを否定した。服装は普段見る清楚な姿とはまるで違い、ホストクラブで下品に笑う連中と同じような格好をしているが、見間違えるはずがない、あの子だ。何度も見ているのだから見間違えるはずがない。思考が停止して、僕は女の子を見たまま固まってしまった。
「おい、ヒカルなに見とれてんだ。案内しろ」
 そばにいた先輩の小声で我に返った。まだちゃんと受け入れられてはいなかったが、とりあえず仕事をしなければと、女の子に近づき、席に案内する。
「……こちらへどうぞ」
 その子は軽く会釈すると僕についてきた。やはり間違いない。近くで見てもきれいな肌と整った顔立ちは、僕が何度も大学で目にしていたものだ。おしぼりを渡して、注文を聞き、「少々お待ちください」と言って下がる。あの子は僕には気づいていないようだった。それもそうだ、僕が一方的に見ていただけなのだから。
その子にはナンバーワンのミツグさんがつくことになった。まさか、ホストクラブなんかに来るなんて。僕は厨房での洗い物を任されたが、依然として衝撃から抜け出せないまま、作業がほとんど進まなかった。そんな僕の姿を見た先輩が勘違いしたようで「お前、一目ぼれかよ~。たしかにかわいいけどな」なんてからかってきた。「一目ぼれ」あまりにその言葉が自分の中でしっくりこないので戸惑った。もちろんすごく綺麗だが、そんなことは大したことではない。あの、他を圧倒するような雰囲気に、自分をしっかり持って、突き通すような溢れ出る強いオーラ。それでいてどこか闇を抱えているような、そんな姿に僕は惹かれたのだ。よりによってあんな下品な格好でホストクラブなんかに来るなんて。話したこともないのに勝手に作り上げていたイメージが崩れたことにショックを隠せなかった。
「輝、次ヘルプつけって」
 あの子にヘルプについていたリョウさんが厨房に入ってくると言った。いつもなら、かわいい子が客だと上機嫌で帰ってくるリョウさんだが、今日は真面目な顔をしていた。僕の様子がおかしいことに気づいていたのだろう、「大丈夫か」と声もかけてくれた。僕は動揺しているのを押し殺して、「大丈夫です」とリョウさんの目を見ずに言うと、厨房を出て、あの子のいる席にむかった。
 改めて見ると普段は薄い化粧が濃く塗られ、格好は派手だが髪はいつものようにきれいな黒髪だったので、それが逆に目立ち、アンバランスに見えた。
「失礼します。ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか」
 片膝を付いて声をかけると、さっき席に案内していた僕を覚えていたようで
「あー、さっきの人だ。どうぞー」と慣れた様子で僕に席を勧めてくれた。こんな声してるんだ。そんなことを思っていると、そういえばさっきのマニュアル通りのやりとりが初めての会話だったことに気づいて悲しくなった。
「ほら、ビール飲みなよー」
あの子が僕にお酒を勧める。さっきから気になってはいたが、しゃべるときに伸ばす語尾が不快だった。普段、大学では決して見せない表情が、話し方がことごとく僕をうちのめす。しばらくは普段通り振る舞おうと取り繕っていたが、隠しきれていなかったのだろう、ミツグさんが苦笑いしながらフォローしてくれた。
「どうした、ヒカル。あんまりかわいいから緊張してんのか」
「えー、緊張してんのかわいー」あの子が頭の悪そうな声を出す。
「そんなんじゃないですよ」
 いつもなら、「そうなんですよ、あんまりかわいいから心臓バクバクで」なんておどけた営業トークをとばすくらいわけないのだが、今はひきつった笑顔でそう言うだけで精一杯だった。
そのあとは、ろくに話もせずに苦手なビールをちびちび飲んでやり過ごした。結局あの子は約二時間楽しそうに話すと、「また来るねー」と最後まで語尾を伸ばして言うと、ミツグさんに見送られて帰って行った。
「ありがとうございました」
口の中で言いながら、あの子の後ろ姿を見送り、ドアが閉まると胸に穴がぽっかりと空いてしまったような虚無感に襲われた。普段はなんとも思わない、相変わらずうるさい音楽とズンズンと腹の下のあたりを震わせる振動が棒立ちでドアを見つめる僕をいらだたせた。


大学に向かうため、多くの人でごった返す駅のホームで列に並んでいる僕はいらだっていた。数日すると、あの日感じた悲しみや、虚無感は完全にあの子に対する失望と怒りに変わっていた。家でテレビを見ていても大学で講義を受けていても、ふとした瞬間にあの日のことを思い出し、いらだちが沸き起こった。所詮どいつもこいつもクソなんだ。そんな幼稚な考えを止めることができなかった。
ホームに到着した快速電車に乗り込もうすると、列の横から鍵がじゃらじゃらとうるさいガラの悪そうな三十歳前後の男が割り込んで電車に乗り込み、我先にと優先席にどかっと座り込んだ。そのとき、僕の前に並んでいたサラリーマン風の中年のおじさんに肩がぶつかり、そのおじさんは少しムッとした顔をしたが、すぐに目をそむけた。列に並んでいた他の乗客も非常識だとは思ったのだろうが、一様に見て見ぬふりをしている。
吊革に掴まる人は多いものの、人との距離が近すぎて不快になるほどの混み具合ではなかった。しかし、車内にはあのじゃらじゃら男のイヤホンから漏れ出る激しい音楽が響いていた。
電車は静かに動き出し、次の停車駅のアナウンスが流れている。効きすぎた冷房が少し肌寒い。僕がいらだちを抑えるため窓の外を見ながら、ガラの悪いじゃらじゃら男を殺していると、優先席のほうから突然怒鳴り声が聞こえた。
「なんだ、なんか文句あんのか!」
 じゃらじゃら男だ。前に立っている気の弱そうな男に言っているらしい。
「お前だよ、やんのか、おい!」
 無駄にでかい声を張り上げ、静かな車内に男の声だけが鳴り響く。こんな状況にも関わらず、ほとんどの乗客は携帯の画面を見ている。耳障りな声だ。僕はじゃらじゃら男を刺す手を強めた。胸を刺しては抜いて、刺しては抜いて。ものすごい勢いで血が飛び散る。
「お前、こっちのこと見てただろ!文句あるなら言えよ!」
 男が立ち上がり、今にも胸倉をつかみそうな雰囲気だ。気弱な男は必死に首を横に振っている。死ね、死ね。男の顔はもう原型が分からないほどになっている。
「何とか言えよ!」
 僕は血しぶきを受けて、顔が真っ赤になっている。無表情だ。
「お前、ぶっとば――」
「うるせーよ!」
 僕の中で何かが溢れた。気づいたら声を張り上げていた。携帯の画面とにらめっこしていた車内の乗客が一斉に顔を上げ、僕のほうを見る。じゃらじゃら男も突然のことに驚いたのか、目を見開いて、固まっている。僕は溢れ出る黒い感情を止めることができなかった。
「お前さっきからうるせーんだよ!自意識過剰なんだよ!でかい声出すんじゃねーよ!誰もお前のことなんて見てねーよ!お前みたいなやつがいるから、みんな迷惑するんだよ!みんなお前のことなんか見てねーし、いるだけで迷惑なんだよ!」
 静まり返る車内。じゃらじゃら男もあまりの勢いに口を開けたままで、座るタイミングを失い、こっちを見て突っ立っていた。電車が静かに駅に到着する。男は我に返ったのか、「ふざけんな!」とだけ言うと逃げるように電車を降りた。電車は何人かの乗客を吐き出すと、再び動き出した。いつもの平穏な車内に戻った。僕は再び窓の外に流れる景色を眺める。……。ふと、背中に視線を感じた。振り返って見ると、じゃらじゃら男に絡まれていた気弱そうな男が僕のことを見ていた。目が合うと、気弱そうな男は怯えるように視線を逸らした。なんなんだよ、僕がぐるっと車内を見回すと、僕のことを盗み見るようにしている人や、明らかに目線を逸らす人がいる。それらの視線は全て決して良いものではなかった。その場所にいてはいけない場違いなものに向けられる、少し敵意の混じった、異物を見る、視線。これじゃまるで僕が悪者みたいじゃないか、周りの様子に気づくと、急に居心地が悪くなった。乗客の心の声が聞こえてくるようだ。
耐えきれなくなり、僕は次の一度も降りたことのない駅で降りた。まばらにしか人がいないその駅のホームで、僕は立ちつくす。電車がホームを出発し、やがて見えなくなり、そしてまた次の電車が到着する。その電車が出発すると、また次の電車が。車内にはたくさんの人、人、人。皆、一様に少し疲れた顔で他人に無関心な人。……無関心な人。頭がじんじんして、僕はなぜか泣きたくなった。そのまま、その日は大学をさぼった。


リョウさんから突然電話がかかってきた。あの女の子がやってきた日から、いままでなんだかんだで楽しかったホストの仕事が急につまらないものに思えて、無断で二週間ほど休んでいたから、最初は怒られるのかと思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。
「なぁ、どうせ暇だろ飯食いにいこうぜ」
 まるで中学生のような口調でリョウさんは話す。二週間ぶりに聞くリョウさんの声は僕を少し安心させた。
「心配すんなって、ミツグさんには俺がちゃんと言っといたから」
 何をちゃんと言っといたのか僕には分からなかったが、とりあえずお礼の言葉を伝えておいた。
「ありがとうございます」
「まあ、いいってことよ。それに、俺ホスト辞めたし」
「えっ」
 たしかに、失敗はたくさんしていたし、年下のホストに怒られることは多々あったが、リョウさんは仕事が楽しいと度々言っていたのに。
「……どうして辞めたんですか?」
 僕が不思議に思い、尋ねると、リョウさんは「そんなことどうでもいいから。じゃあ駅に十時な。遅れんなよ」といつもの調子で約束を取り付けると、一方的に電話を切った。
約束の五分前には駅に着いたが、リョウさんはすでに駅で待っていた。僕に気づくと、手を軽く上げてニッと笑った。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
 僕の声を聞くとリョウさんは嬉しそうにうなずき、欠けた前歯を露わにする。「よし」とつぶやくと、陽がとっくに沈んで、アルコール臭い街をずんずんと突き進んでいく。しばらく歩いて、看板が少し色あせたあまり流行っていないようなくたびれた店に入った。
「とりあえずビールかな」
 リョウさんが髭の濃い店主にビールを二つ注文して、メニューをパラパラとめくる。僕はそんなリョウさんを見ながら、あの女の子のことを聞かれたらなんて答えよう、今日は絶対そのこと聞くために呼び出されたんだよな、なんて考えていた。リョウさんは僕の異変に気づいていたはずだ。上手い言い訳を考えていると、リョウさんが思い出したようにメニューから顔を上げて、口を開いた。
「あ、そうだ。輝、旅行行かない?」
「……は?」
 思いもよらない話に僕は間抜けな声を発してしまった。僕がよっぽど間の抜けた顔をしていたのだろう、リョウさんはくっくっくと笑うと、もう一度言った。
「だから、旅行。俺と輝で」
 自分の顔を指さし、そして僕の顔を指さす。
「冗談……ですか?」
「冗談じゃねーよ。もうチケットもとってあるし、ほら」
 そう言うと二枚のチケットを取り出し、ひらひらと僕の顔の前で振った。
「そんな急に言われても……」
「あ、ちなみに今日から」
 僕は思わずうつむいていた顔を上げた。リョウさんはにやにやしている。
「だんがんりょこーう」
 リョウさんが楽しそうににおどけて言う。
「……そんなこと言ったって、荷物もなんにもないし、それにもう電車ないですよ」
「それは大丈夫。行くの輝の実家だから。それに」
 リョウさんは一旦言葉を切って楽しそうに言った。
「しんやばーす」
 とんでもないことを当然のことのように言う。僕はあっけにとられていたが、あまりの図々しさになんだかおかしくなってきた。
実家には大学に進学してから一度も帰っていないから、だいたい一年半帰っていないことになる。今まで実家に帰ることを避けていたのだ。母と兄、そして父の姿が頭に浮かんだが、不思議と帰りたくないとは思わなかった。むしろ、久しぶりに実家に帰りたい気持ちのほうが強かった。
「なぁ、行くよな?」リョウさんが僕の顔を覗き込んで言う。
「なんでリョウさんがうちの実家に来るんですか」
「え、ダメ?」リョウさんが悲しそうな顔をする。
「……いいですよ。行きます」
 僕がそう言うと、リョウさんはすぐに嬉しそうな顔に戻った。ころころ表情が変わる人だ。
「よしよし、楽しみだなー」
 悪い考えではないかもしれない、僕はそんな風に考えていた。今の生活が、もしくは自分が変わることを期待しているのだろうか、実家に旅行することをあまり嫌とは思わなかった。不安はもちろん、ある。だけど――リョウさんがいる。リョウさんが一緒だ。知らない人が見たら情けなく見えるかもしれないが、僕はリョウさんが一緒ということがとても頼もしかった。
「おじちゃん!ハンバーグ定食二つ!大盛りで!」
 しばらくして運ばれてきたハンバーグはやはり巨大で。しかし、僕は大きく切り分け、ほおばる。そんな僕の様子をリョウさんは、小さな子供を見るような、少しくすぐったくなるような目で見ていた。


深夜バスに乗った後、家の最寄りまでさらに二十分程バスに揺られると、そこには懐かしい景色があった。久しぶりに訪れた住み慣れた町は昔と何も変わっていなかった。照り付ける太陽の光、近くの公園から聞こえる楽しそうなはしゃぎ声、都会過ぎず田舎過ぎない僕の産まれた町。
帰ってきたんだな、僕は改めて思った。何かから逃げるように、そして何かを求めて都会をひたすら目指したが、今は何かを求めてこの町に帰ってきた。バスの窓から外を眺めていて、景色が見慣れたものに変わっていくにつれて不安になっていたが、肌で町の空気を感じると一気に解放されたように安心した。
「リョウさん、ここが僕の産まれた町です」
「あー、お尻が痛たい」
 リョウさんは顔をしかめながら、長時間座っていたために痛めたお尻をさすっている。
「帰ってきたんだなー」
 本当に帰ってきたという実感が湧いてくると、僕は少し興奮してきた。
「家はここから歩いて十分くらいです。大丈夫ですか、リョウさん?」
 リョウさんは大丈夫と言う代わりに手をひらひらと振った。
家に向かって歩き始めてもリョウさんはぶつぶつと文句を言っていた。よっぽど深夜バスの乗り心地が悪かったのだろう。たしかに狭いし、席はお世辞にもいいものとは言えなかったが、深夜バスを選んだのはリョウさんだ。それも乗る前はあんなに「初めて乗るんだ。なんかワクワクするな!」なんて楽しみにしていたのに、一時間もするとやっぱり電車にすればよかったなんて言っていた。それでもやっぱりリョウさんと一緒でよかったと思う。実家に向かう道中で何度か無性に怖くなり、不安になったが、リョウさんとバカな話をしていると心が落ち着いた。
ぶつくさ言うリョウさんを「まぁまぁ」なんて宥めているうちに、家の前に着いた。楽しい思い出よりも嫌な思い出のほうが先に頭に浮かぶ。僕が出ていった家。母がいて、父が仕事から帰ってくる家。そして、兄が出てこない家。
「ここです」
 僕が家を示すと、リョウさんは声をあげた。
「へー、立派な家だな」
 僕が中学生のときにこの平屋の一軒家に引っ越してきた。そのころはまだ家族全員仲が良くて、兄の部屋とは別に僕一人の部屋が与えられたことにはしゃいでいたはずだ。久しぶりに見る家は全く変わっていなかった。家を改めて見上げていると、急に緊張してきた。
「ほら、早く入ろうぜ」
 リョウさんに急かされ、心を決めてインターホンに指を置く。鍵は持っていたが、そのまま入っていく勇気はなかった。
チャイムが鳴ってしばらくすると聞きなれた声が聞こえてきた。
「はーい」母の声だ。
「……僕だけど」
 僕は約一年半ぶりに実家に足を踏み入れた。母には事前に友達と帰ると連絡してあったので、僕の訪問には驚かなかったが、その友達が明らかに年上なので、なんて声をかければいいのか言葉を探していた。
「えっと、輝のお友達の……」
「リョウです。一晩お世話になります」リョウさんが丁寧に頭を下げる。
「バイトで一緒なんだ」
「そうなの。……あ、どうぞ上がってください」
 リョウさんが律儀に靴をそろえ、「お邪魔します」と言って家に上がる。家は綺麗に整頓されていて、母が相変わらずなことがうかがえたが、久しぶりに見る母は少し老けて見えた。
「父さんは?」僕が尋ねる。
「今日は十時には帰ってくると思うわよ」
「……兄ちゃんは?」
「……部屋にいるわよ」
 兄ちゃんはやはりまだ部屋から出て来ていないらしい。僕は自分の部屋の隣にある兄の部屋の久しく開いているところを見ていない扉を見て、声をかけようかとも思ったが、やっぱりやめた。
僕の部屋は出てきたときのままになっていた。ほこりなどはないので掃除はされているようだが、置いてあるものや配置はそのままだった。
「そういえば、リョウさん今日はどこで寝るんですか?」
リョウさんの荷物を置いて、一息ついていると、ふと思ったので聞いた。うちには余っている部屋はないのだ。
「え、輝の部屋に決まってるじゃん」
 リョウさんは、さも当然のことかのように言うと、「お腹すいたな、今日の晩御飯何かな?」なんて楽しそうにしている。そんな子供のようなリョウさんを見ていると、自然と笑みがこぼれる。
部屋がそのままにしてある。僕は僕が帰ることのできる空間がまだ家に残されていたことが、母が何も言わずに迎え入れてくれたことが無性に嬉しかった。部屋を見渡して、リョウさんを見て、僕は安心感と嬉しさが入り混じった気持ちを噛みしめた。


十時過ぎに父が帰って来ると、ある事実が発覚した。
「お前――亮。なにしてんだ」
 父は帰宅するなり、リョウさんの姿を見つけ、固まった。
「えー、輝の父さんって聡だったのかー」リョウさんが明らかに棒読みで言う。
「久しぶりだなー、聡。何十年ぶりだ」
 父はすぐには状況が呑み込めない様子で、僕とリョウさんを何度も見返した。
食事の席では、父さんとリョウさんが二人で盛り上がっていた。どうやら父とリョウさんは同じ医大出身で、卒業してもしばらくは付き合いがあったらしい。つまり驚くことに、あのどんくさいリョウさんは元々医者で、それに父よりも早く結婚して、子供もいたらしい。その後、父が結婚したのを機に連絡もほとんどとらなくなってしまったようだ。
僕と母と盛り上がる父とリョウさん。奇妙な食事の席だ。かつて兄が座っていた席には今はリョウさんが座っている。兄がこの席に着くことはもうないのだろうか。仲が良かったころの兄を思い浮かべると、切なくなった。
「なんだよ、すっかりオヤジになったな」
「お前は変わんないなー、どうせまだプラプラしてんだろ」
「まあなー、でも輝と出会えたからいいんだ」
 リョウさんが満足そうに言うと、父が少し赤くなった顔でちらっと僕のことを見る。僕は思わず目を逸らす。
「そっか、医大時代はお前めちゃめちゃ真面目だったのにな」
 父の言葉にリョウさんが声を上げて笑う。
「そうそう、今じゃ立場逆転だな。あのころは聡、カメラ持っていつもふらふらしてたもんな」
「……カメラ?」
 僕は黙々と食事をしていたが、カメラという単語が引っかかったので、声を出してしまった。すると、リョウさんは僕の言葉を聞き逃さず、嬉しそうに話す。
「そう、カメラ。こいつ、『俺はアーティスティックな映画を撮るんだ』っていっつも俺に語ってくんの。それがしつこいのなんのって」
 僕は言葉を失った。父にまさかそんな一面があったなんて。僕の知っている父は特に趣味があるわけでもなく、休みの日にも文献を読んでいるような、仕事が全ての人間だ。
「でも聡のおじさんが厳しかったんだよなー。ふざけるな、医者になれって」
「そうだったな」父が遠い目をする。
 そんな、じゃあ兄ちゃんは――。
「聡、輝はいい子だな」リョウさんが急に真面目な顔をして言った。
「……あぁ、いい子だ。もちろん優も」
 父の言葉を聞くと、リョウさんはニッと笑ってうなずいた。それきり、父は口数が少なくなり、何か考え込んでしまった。
父は父に、つまり僕の祖父に医者になれと言われていた。そして父は兄を。父は食事中ほとんど僕のことを見なかった。でも、いい子って……。
その後はあまり会話はなかったが、リョウさんが一人で「これおいしいですね」なんて言って母の料理をほめていた。


「輝、早く起きろよ!」
 次の日は、朝っぱらから元気なリョウさんの声で目が覚めた。僕はまだ眠たい目をこすりながら、せかせかと荷物をまとめるリョウさんを見ていた。
昨日は結局二人は深夜まで話し込んでいたようだ。僕は早い段階で食事を済ませ、部屋で先に布団にもぐりこんでいた。父の言葉と父の過去。天井を見つめながら、何度もぐるぐると考えていたら、なかなか寝付けなかった。それでも、やはり旅の疲れが溜まっていたのか、しばらくするとうつらうつらしていたのだが、まさに寝かけたそのとき、リョウさんが部屋に入るなり、大声で「輝、お前いいやつだなー。うんうん。聡もいいやつだ!」なんて言うから一気に目が覚めてしまった。リョウさんは大分酔っぱらっていたようで、千鳥足にもかかわらず、僕の寝ていた布団をすばやく奪い取ると、すぐにいびきをかきだした。僕はあまりの寝つきの良さにあっけにとられていたが、おかしくなって吹き出してしまった。リョウさんは幸せそうに、口を大きく開けてだらしなく寝ていた。
押入れから予備の布団を引っ張り出して、リョウさんの隣に並べて横になった。睡眠を邪魔されたにもかかわらず、僕はなぜだかわからないが少し嬉しかった。ガーガー。リョウさんのいびきは強烈で、そこからまたなかなか寝付けなくなった。そして、今。午前六時。実質ほとんど寝ていないので、ものすごく眠たかったが、バタバタと動き回るリョウさんを見ていると、昨日のことを咎めようなんて気分は吹き飛んだ。
一泊だけの簡単な旅行だったが、僕はやっぱり帰って来てよかったと思っていた。色んなことがわかったような気がする。
その日は休日だったので、父が駅まで車で送って行ってくれることになった。「先行くぞー」と言って部屋を出て、玄関に向かうリョウさんに続いて僕も部屋を出た。ドアを閉める前に改めて部屋をぐるりと見渡す。楽しい時も、つらい時も、嬉しい時も、悲しい時も。僕が過ごした場所。ここが僕の部屋。ここが……僕の家。
「おーい、輝早くしろよ」
 どうやらすでに外で待っているらしい。「いま行く!」と言うと、ゆっくりとドアを閉める。隣には、長いこと開かないドアが。中には兄が。大好きで、そして大嫌いな兄。
「……いってきます」
 緊張したのか、自分でもびっくりするくらい小さな声しか出なかった。
「どうしたんだよー」
 リョウさんが僕の様子をうかがい、玄関から声をかけている。僕はドアを見て、リョウさんを見て、そしてもう一度ドアを見た。
「いってきます!」
 僕は大声で言うと、玄関に向かって走り出した。


駅に向かう車内は騒がしかった。後部座席に座るリョウさんが、前に乗り出して、運転中の父に話しかけているのだ。助手席に座る僕は二人の話をぼんやりと聞きながら、窓から見える懐かしい景色を眺めていた。あー、明日から大学かー。急に現実的な考えが浮かんできて、少し気分が萎えた。すると、リョウさんが、より一層前に乗り出して、突然大声をあげた。
「ちょっと!何あれ!止めて止めて」
 リョウさんがすごい剣幕で言うので、父は「どうしたんだよ」と言いながらも、車を停車させた。
「あれだよ!何あれ?」
 リョウさんが指さす先には、地元では有名なお菓子の専門店があった。
「あー、このへんじゃ有名なんだよ。買いたかったら、駅にもあるから」
 父はそう言ってリョウさんをたしなめたが、リョウさんは聞く耳を持たない。
「いや、絶対ここがいい」
 何を根拠にそう言っているのか分からないが、父は苦笑すると、やれやれと首をふった。
「十分だけだぞ」
 父がそう言うと、リョウさんは小さい子供みたいに顔をほころばせると、車を飛び出していった。
車内には、べらべらとしゃべる人がいなくなったので、急に沈黙と気まずい空気が流れる。僕は父のほうを見ないようにして、窓からリョウさんの姿を目で追った。リョウさんはすばやく店内に入ると、陳列棚の前を行ったり来たりして、楽しそうに品定めをしている。
 しばらくすると、父が気まずい空気に耐えきれなくなったのか、所在なさげにCDをかけた。オーディオから静かに音楽が流れだす。
「あっ」
 僕は思わず声をあげた。聞いたことがある。この音楽は……。
父は突然、僕が声を発したことに不思議そうな顔をする。
「どうした?」
「……これ、この音楽」
「ん?あー、これか?これ父さんが好きな映画の主題歌なんだよ」
 父が恥ずかしそうに頭を掻きながら言う。
「……兄ちゃん、この映画好きだって言ってたよ」
 僕が相変わらず父の顔を見れないまま言うと、父が息をのむのが分かった。
「……そっか」
 車内には場違いな音楽が流れる。外ばかり眺める僕と、何もしゃべらない父。暗い雰囲気の車内でポップな音楽だけが明らかに浮いていた。
沈黙。二人ともしゃべらない時間がものすごく長いものに感じた。そんな永遠に続くのではないかと思えた沈黙を破ったのは父だった。
「……なぁ、輝」
 僕は何も言わない。それでも父は続ける。
「やっぱり、父さんが悪かったな。家に帰ったら、優とちゃんと話するよ」
 僕は振り返り、父を見る。父は少し笑っているような、でもすごく悲しそうな顔をしていた。
「……映画の話、したらいいじゃん。二人似てるんだから」
「そうか?」
「そうだよ。カメラ覗き込んで映画撮ろうとするなんて、そっくりだよ」
 僕はそれだけ言うと、再び窓の外に視線を移す。リョウさんはちょうどお会計をしているところだ。
「なぁ、輝。……ごめんな」
 はっきりと聞こえた。小さい声だったが、はっきりと。僕は、固まる。父さんが謝った、僕に。――何言ってるんだ、兄ちゃんに謝るならまだしも、僕に対して謝ることなんてないじゃないか。僕は必死にバカげていると、頭の中で誤魔化した。それでも父の言葉が僕に重くのしかかる。そんなこと言うなよ。僕のことを、僕のことをバカにしろよ。ダメなやつだって、バカにしろよ。静かに響く父の言葉が僕の心のなかに入り込む。黒いモノを押しのけて、奥に奥に。
 僕は父を殺す。一番多く殺した人だ。慣れた手つきで、まずは太ももを一刺し。父はそれでも立っていた。
「ほんとに、ごめんな」
 僕は背中に回って刺す。刺す。刺す。何度も何度も。「……輝、……輝」それでも父は僕の名前を呼ぶ。
「たぶん輝にも嫌な思いたくさんさせてきたと思う」
 僕は刺す。父の胸を。
「お前は頭はそんなに良くなかったけどさ、」
 父の手を。
「優しくて、」
 父の足を。
「思いやりがあって、」
 父の顔を。
「人一倍繊細な、」
 刺す手が止まる。
「いい子だ。……俺の子だ」
 僕は――僕は泣いていた。大粒の涙が零れ落ちる。止めようと思っても、次々と、次々と。僕は声を出さないように、泣いているのがばれないように、父に背を向けて、泣いた。
「輝、二十歳になったら一緒に飲みに行こうな。もちろん優も一緒に」
 そういう真面目なところも兄ちゃんそっくりだ。声を出すと、ばれてしまいそうで、全て溢れ出してしまいそうで。僕はキッと口を固く結んで、小さく、小さくうなずいた。
「おまたせー!いろいろ種類あって、迷っちゃってさ。ごめん、ごめん」
 リョウさんが騒がしく帰ってくる。
「おせーよ、新幹線出ちゃうぞ。それとも、またバスで帰りたいのか?」
「ひー、それはもう勘弁」
 リョウさんがおどけてみせる。再び騒がしい車内に戻る。僕は、二人にばれないように小さく鼻をすすった。


 乗り込んだ新幹線には数人の乗客しかいなかった。窓際の席に僕が座り、その隣にリョウさんが並んで座る。駅のお土産物売り場には父さんの言った通り、わざわざ車を止めてリョウさんが買いに行ったお菓子の専門店も並んでいた。それを見つけたリョウさんは、悔しがって、同じものを一つずつ買っていた。
「リョウさんが医者だったなんて知りませんでしたよ」
「うん、だって言ってなかったもん」
 リョウさんは早速お菓子の包みをがさがさと開けている。
「父さんのこと知ってて、僕のこと連れてきたでしょ」
「え、何のこと?」
 リョウさんはあくまでも、とぼけるつもりらしい。嘘が下手な人だ。まあいいか、リョウさんにはいろいろ助けてもらった。本人にはそんなつもりはなかったのかもしれないが。
「ありがと」
 ぼそっとつぶやいてみた。
「ん?あー!つぶれてる」
 乱暴に扱うから、つぶれてお菓子の形が変わってしまっている。それでもそれを指でつまんで、口に放り込む。幸せそうに笑うと、僕に一つ勧めてきた。僕も口に放り込む。形は崩れているが、甘くておいしい。
「リョウさんにも家族がいたんですね」
 リョウさんは照れ臭そうに笑うと、「輝とは、そんなこと話さなかったもんな」と言った。相変わらず欠けた前歯が目立つ。僕は長いこと疑問だった質問をぶつけてみた。
「今まで聞かなかったですけど、その歯どうしたんですか?」
「これか?これは娘が産まれたときにな」
 リョウさんが誇らしそうに言う。娘が産まれるのと歯が欠けるのと、どういう関係があるのだろう。さっぱりわからない。
「説明になってないですけど」
「だーかーら、娘が産まれたって聞いて病院に向かって走ってる途中で……こけたんだよ」
 リョウさんが真顔で言う。
「……。っぷ、ハハハハ」
 僕は思わず吹き出してしまった。病院に着いて、奥さんに逆に心配されてしまうリョウさんの姿が容易に想像できた。
「笑うなよー」
 そう言いながら、リョウさんも少し笑っている。
「でもいいんだ、この欠けた歯は俺の誇りだ」
 涙を拭いながら、リョウさんの顔を見ると、満足そうで、そしてなにより幸せそうだった。リョウさんの欠けた歯は、間抜けに見えるし、情けないリョウさんを象徴しているが、家族とのエピソードだ。家族の証だ。
「はーあ、明日からまた学校かー」
 リョウさんがあまりにも幸せそうな顔をしているので、少し拗ねたような声を出してみせた。そんな僕の様子を見て、リョウさんは穏やかな声で言った。
「輝、みんなと仲良くしろよ」
 小学生に言い聞かせるように言うので、僕は目で「バカにするな」とリョウさんに訴えた。
「お前、友達少ないだろ」
「えっ」
「お前のことなんて全部お見通しだよ」
 リョウさんはなぜだかものすごく楽しそうだ。僕が何も言えずにいると、リョウさんは穏やかな声で続けた。
「お前いいやつなのに、ちょっと人を遠ざけるところがあるからな」
 リョウさんは僕の全てを受け入れるような、優しい顔をしている。
「ほんとは寂しがりやなのにな」
 リョウさんの姿が父と重なる。愛おしそうに笑う姿を見ていると、目が熱くなる。やばい、泣いてばっかりだ。僕は泣きそうになっているのを隠すように、顔を伏せた。
そうだ、僕は寂しかったんだ。誰も僕を見てくれないような気がして、本当は怖くて、みんなを遠ざけてたんだ。そんな自分が何より嫌いだった。自分を守るために、周りを敵にして。――変わりたい。こんな嫌な自分を変えたい。
「輝、お前はいいやつだよ。もっと素直になれよ」
 僕は声を出してしまいそうになるのを必死でこらえる。それでも涙は止まらない。僕の意に反して、次々と零れ落ちる。
「……ありがと」
 今度ははっきりと言った。震えた声だったが、僕が一番伝えたかった言葉。
「ほら、もっと食えよ」
 リョウさんが口の端に食べかすを付けて勧めてくる。
明日からは少しづつ自分の殻を破ってみよう。サークルにも入っ
てみようか。あ、そうだ。あの女の子にも話しかけてみよう。いきなりできるかどうかわからないけど、変わりたい。黒いモノは自分が勝手に作り出していたものだった。自分で作って、自分のなかに押し込んでいた。目は真っ赤になっているはずだが、もういいや。僕はリョウさんの目を見てもう一度言った。
「リョウさん、ありがとう」
 リョウさんは少し驚いた顔をしたが、すぐにいつものように二カッと笑った。
「まあ、いいってことよ」
 欠けた歯が露わになる。リョウさんの、家族の証か。さっきの話を聞いたから、なんだか欠けた歯も大切なものに見える。……あー、だめだ。やっぱりちょっと間抜けに見えるよ。僕は泣きはらした顔で笑った。

家族の証

家族の証

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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