朝
以前、小説家になろうさんで公開していた作品です。
やけに懐かしい香りがするな、と思った。なんだか良い夢をみていたような、悪い夢をみていたような、浮かんでいるような、沈んでいるような、なにか心地よい倦怠感のようなものに体が包まれていて、それでもその懐かしい香りに引かれるようにして目が覚めた。
しばらくベッドの上で、紫花子は小バラの柄のタオルケットに残っているぬくもりに触れながら、段々と頭が冴えてくるのを確かに感じ、ときどきゆっくり瞬きをしながら、耳にパラパラと微かな音が届いてくるのに気が付く。
ああ、雨だ、と声に出してつぶやいたが、目覚めたばかりののどからはかすれた呼吸の音しか漏れず、部屋の中はただ、窓の外の滴がガラスに優しく吹き付ける音と、自分の呼吸の音、時折り 風で窓ガラスがカタカタと蠢く音、時計の秒針が一秒も自身のその疲れを癒やすことなく時を刻む規則正しい音だけで完成していた。たいへん、静かでなにか厳かな雰囲気が、彼女の周囲、だけでなく部屋の中を取り巻いていた。
今しがた、夢中になって、みて、感じていた夢はどんな夢だったかしらーーー… 紫花子の意識はぼんやりとその疑問に集中し、耳は相変わらず、雨音を一つも聴き逃すまいとそばだてられ、視線だけがただ右往左往とさまよっていた。
ゆるやかな土曜日の朝だった。
土曜日の朝が、紫花子はずっと大好きだった。
これから日中になるにつれて陽が高くなると、人は何かに急かされ、突かれるように忙しくしなければならない気持ちになって、そわそわしてしまうし、夜は一番気持ちが冴え渡っているけれど、それも何かを考える余裕もなく、次の日を迎える前にやりたいことをすべてやり終えなくてはならないし、やはり今、この瞬間、雨音を聴いて(晴れている日は小鳥のさえずる声が聴こえる)、自分だけのペースでゆっくりと息を吸いこんだり吐きだしたりして、自分の心臓が脈を打つ震動だけがただ紫花子の体に波打っているこの瞬間が、紫花子が一番、彼女のために生きている時間であった。
夢の内容は思い出せぬままだった。
甘い物語をみていた気もするし、なにかに追いかけられ、追い詰められていた気もした。
すべてがどうでもよく、気怠く、愛おしかった。
ここで紫花子はようやく、ゆっくりと体を起こし、窓を覆っていたカーテンを開いた。雨曇が空一面に厚く広がっていても、殻の内のように薄暗かった彼女の部屋には隅々にまで光が差し込み、紫花子は目を細めて、カーテンの奥にあった窓を開けた。
敷居から、足を汚さないようにとベランダに置いてあるサンダルに足をすべらせた瞬間、はっきりと、確かに、今、自分が世界中の誰よりも、厳格で穏やかで、みずみずしく、髪の毛先から足先まで生気がない、一つの“もの”だ、と彼女は感じた。雨の粒が風の流れに流され、紫花子のほうへと吹き込んできている。お気に入りの寝巻きが少し濡れたが、それすらも自然に、愛しいというよりむしろノスタルジアを覚え、地球と一つに、地球そのもの自身に溶け込んだような壮大な気持ちがして、彼女はゆっくりと、一つ、二つ、深呼吸をした。
まさにそれ自体がこの瞬間だけは儀式のようなものであり、そして現に彼女は今だけ地球自身であり、景色に溶け込んだ、完全な“もの”であった。
なにもかもが静かに、また時の流れが逆に動いているような、いつものようでありながら、いつもとは違う風が吹いていた。
全てのものがみずみずしく、萎れていたものは息を吹き返し、傲慢に満ちていたものが謙遜を覚え、小さなものが大きく、大きなものが小さかった。その間、全てのものがうねり狂い、また全てのものが動かず静かに横たわったままでいた。
紫花子はそれらを、目を閉じ、無心に、雨滴を顔で、体で受け止めながら、寸分も違わず感じ取っていた。
全てが新しく、全てが懐かしかった。
生きる意味を見出す必要もなく、死ぬる時の意志を考える必要もなく、あるがまま、そこに、その場に、その時で、紫花子は生きていた。
このまま、世界が一日を何回も迎えれば、きっと誰もがうまく行くのに、と紫花子は思った。思ったことが声に出て、桃色に潤った唇から乗せられこぼれたその言葉、声は、わずか先の方まで風に飛ばされ、雨と共にそこで霧散して消え去った。寂しさと嬉しさが、入り混じった得も知れぬ“それ”が、紫花子の体を襲った。
静かな朝であった。懐かしい香りがするな、と思った。異様に、心地よい眠たさが来訪を告げた。彼女は微笑むと、その眠気に身を任せた。
これまで感じたことのない空虚な幸せを、彼女は全身で精一杯 噛みしめていた。寝巻きのままで、ここがベランダとあるということは、はじめから関係ない、存在しないようなものであった。
ひんやりとした水滴が、彼女の頬に何度も何度も、ポタポタと吸い込まれていった。
そこから、冷たい、水の温度とはうらはらの、あたたかいものが紫花子に流れ込んでいくのを、世界のすべてが見守っていた。怖さなど、何一つなかった。
朝食の支度が終わり、先ほど娘が起きてベランダに出た気配を感じた母親が紫花子を呼んだが、返事が無かった為、ベランダに出た。母が最初に見たものは、今しがたそこにあった、厳かで安らかな雰囲気、存在、全てのものを流し去る勢いで地面に降り注ぐ豪雨。ついで、ベランダの地に横たわり、まだ薔薇色に頬を染めたまま、静かに息を引き取った娘の姿であった。
紫花子、享年17歳。短かき寿命を終え切ったその少女は、この世の全ての幸せを詰め込んだような、微笑みを浮かべていたと、母親は後に語った。
朝