昨日のオレ、今日のオレ
鏡に映ったオレは、20代後半で、背が高く胸板の厚いスポーツマンタイプだった。体を屈めなければ、バスルームの鏡に顔が映らない。
昨日は背が低く小太りの中年男で、一昨日は陰気な表情が特徴的な初老の男だった。
毎朝、目を覚まし鏡を覗くと、オレの知らない姿が映り込んでいた。
こんな毎日を送る様になったは、しばらく前からだ。
大抵が青年から壮年の男性だったが、時には子どもや老人、女性になることもあった。
中身、つまりオレ自身のメンタリティは、変わらず35歳田中修平のままだったが、見た目だけは毎日異なる。
それをオレだと理解する為には、大きな戸惑いと少々の試行錯誤が必要だった。
その日まで、社会の片隅のサラリーマンとして毎日を過ごしていた。
何かと理由をつけては、実家にも顔を出さないでいい程度離れた場所のアパートを借り、一人暮らしをしていた。
彼女や取りたてて仲の良い友人もいない。親とも弟とも顔を合わせない。
ただ毎日がオレのペースだった。
最初の日、鏡に映ったのは、50歳くらいで恰幅のいい、会社重役とでもいった風貌の男だった。
着ていたパジャマは、ボタンが取れていた。
「風邪をひいた」と電話を入れて、会社を休んだ。
状況が理解できずに、1日中姿見の前で素っ裸になって、オレ自身の意思で腕を上げ下げし、顔をなで回し、飛んだり跳ねたりした。
何が起こったのかは理解できなかったが、不思議と自分自身の気が触れたという印象はなかった。
翌日は、以前のオレが着ていた、不釣り合いな程に丈の短いスーツに長駆を押し込み、会社へ出社してみた。
会社の玄関をくぐって、直接自分のデスクには向かわず、受付のナミちゃんの前に立った。
「当社は9時からの営業になっていますが、どなたかお約束ですか?」と怪訝そうな顔で見つめる彼女。
思いつきの偽名を使って上司をロビーまで呼び出した。
そう大きな会社ではない。
中堅の建設業者で、オレは主に個人向け住宅の設計を行う仕事をしていた。
オレの知らない誰かの、幸せな家庭の為に、オレは求めれた仕事をしていた。
そこそこに優秀な社員だったと思う。そこそこに。
ロビーで見ず知らずのオレを見た三野課長は、怪訝そうな顔をした。
オレはその上司に、質の悪い冗談としか思えない話をした。その中には、社員でしか、オレでしか分からない情報も織り交ぜて話をした。持てるだけの身分が証明できそうな書類をすべてもってきた。
普通に考えれば、ただただ不審な人物にしか見えないに違いない。
田中修平と繰り返し繰り返ししつこく名乗る、見ず知らずの男。
興信所の探偵かもしれない。あるいはオレに恨みを持つ狂人が、アパートでオレを殺害し、田中と名乗って現れたのかもしれない。
質の悪い悪戯か実験かもしれない。
三野課長は、表情を変えることなく話を聞いたあと、30分だけ時間をくれた。
オレをデスクに連れて行き、やり残していた仕事の続きをやらせてみたのだ。
部外者かもしれない、ひょっとしたら狂人かもしれないオレの、荒唐無稽な話を信じてくれたのだろうか。
記憶も技術も田中修平であるオレは、営業からの指示書どおり、破綻なく、そつなく仕事を続けることができた。当然ではあるが、決して素人の仕事ではない。
しかし、三野課長は小さな声で「辞表を書け。」とだけ言って、デスクから離れて行った。
寸前に作業をして見せたPCでワープロソフトを立ち上げ、「一身上の都合」と入力し、自署で「田中修平」と書いた。間違いなく見覚えのあるオレの文字だった。
引き出しにしまってあった唯一の私物である「田中」の判子を押した。
その間、三野課長は何本かの電話をかけていた。
まだ朝10時前だった。電車のラッシュが和らいだ時間だ。
特に予定はない。
ひとまず、この丈の短いスーツを脱ぐ為に、洋服を買いに出かけよう。
ショッピングモールで洋服を買った。
プライベートブランドの安物だ。
店員は、余りに丈の合わないスーツを着ているオレに少し驚いているように見えた。
それとも、サイズの異なる服をまとめ買いしたことに驚いていたのか。
フィッティングルームを借りてスーツを脱ぎ、LLサイズの服に着替えた。
それでも裾丈は少し心もとない感じがした。
一旦アパートへ戻り、荷物を降ろした。
そして買ってきたばかりの洋服をサイズ毎に仕分けしておいた。元々はMサイズ、ウェスト80センチだ。
ひとまず、これで明日の朝から困らないだろう。
ただし仕事を失ってしまったので、生活することには困る。贅沢をしている訳ではないが長らく一人暮らしをしているので、貯金だってたかがしれている。
毎日姿が変わるオレを雇ってくれる仕事があるだろうか。いや、まだ毎日姿が変わると決まった訳ではない。
昨日の朝、オレは「重役男」の姿になっていた。寝る前に鏡をみた時にも、まだ「重役男」だった。
歯を磨くのに前日までオレが使っていた歯ブラシを渋々使い、前日までパジャマを着て寝ていたベッドの上に、渋々裸になって寝た。
そして今朝は、足首が固い物で擦れる違和感で目を覚ました。明らかにベッドから足が飛び出している。
鏡で確認したところ伸び過ぎたアスパラガスのような男の姿が写っていた。
頭がぼんやりと麻痺でもしたような感じだった。
この現象を客観的に証拠づけるにはどうすればいいか。
今の所、今朝のナミちゃんと三野課長の反応くらいしか根拠がない。
ナミちゃんは素直に驚いていたように見えた。
しかし、あの人はわかない。腹の底で何を考えてるか分からないからだ。特定の上司には可愛がられているようだが、むしろ策を弄する三野課長のことを嫌っている人間も多い。
出社しようと覚悟したときには、玄関先で叩き出されても仕方がないと思っていた。
オレは自分が持てるだけの資料や情報で自分自身であることを証明しようとした。もし、オレがいつものオレの姿のまま、これをやれば気が触れているとしか思えない。
じゃぁ見ず知らずのアスパラガス青年がそれをやったとすれば、どうか。その人物は何ものだ。
もし探偵やスパイならこんな信憑性が疑われるような事を言って取り入ろうとしない。もっと納得の得られそうなもっともらしいことを口にするだろう。
じゃ、オレが知っている情報が会社の守秘事項ということで、会社を揺すりにきたとでも思われたのかもしれないが、要求はオレ、田中修平であるということを認めることだけだ。
では、田中修平という個人に対して何がしかの執着のある狂人が、オレになりかわろうとしたのか。だが、しかし「辞表」を書かせたということは、狂人ではなく、田中修平と認めたということなのだろうか。
いや、違う。
田中修平本人が「辞表」を書いた事にする。オレ本人に責任をなすりつけることによって、何事もなかったように処理したかったのだと感じた。
自分自身の姿の写った写真は、手元にどのくらいあるだろう。
高校卒業、大学合格の辺りまでの写真は実家の、オレが使ってた部屋に押し入れにでもあるはずだ。
それ以外、今もオレのアパートに残っているのは、大学時代の研究室でコンパをやった時に悪ふざけで撮った写真が2、3枚といったところだ。
しかも中央にオレの顔が写ってるような写真はなかった。ただ、その時の幹事役の学生が「ほら、お前写ってんぞ」と言ってくれたものだ。
そう、写ってる。
正確には、誰かと一緒にたまたま写り込んでいる。それは20歳そこそこの田中修平だ。
よく知っている。
誰とも人間関係を深めようともせず、出された課題を忠実にこなすだけだった学生時代のオレ。
今もほとんど変わらない。
変わったのは、貧弱と気弱を絵に描いたような青年が、よる年並と座りっぱなしの仕事のお陰ですっかり中年体型になったこと。
社会人になってからは、写真を写した記憶がない。精々、証明写真用のインスタント写真くらいか。
何に使ったか、もう忘れてしまった。そして切り取って残りの写真も捨ててしまっているはずだ。
写真を何枚持っていても、客観的な証明にはならない。
オレが気が触れたと思われるのが落ちだ。もしくはオレがオレでない、気の触れた狂人か。
オレの事をよく見知っている人間が、姿を変えたオレを田中修平だと認めるか、もしくは他の誰かと見るか。
時間は午後2時前。
オレはオレのことを一番よく知っている人物に逢いに出掛けた。
電車とバスを乗り継ぎ、実家に到着したのは午後4時を少し回った頃だ。
新興住宅街に立つ小さな一軒家。
オレが初めてこの家を目にしたとき、それは小学生の頃だった。
家族4人、この中古物件を前にして目を輝かせた。
弟の孝司と2人、まだ買ってもいないこの家で、はしゃいだのを覚えている。
いくらかの逡巡の後に、玄関のチャイムを鳴らした。
父さんはまだ仕事の時間だから、出るとすれば母さんだ。
案の定インターホンからは母さんの声が聞こえた。
一瞬言葉に詰まったが、「ワタクシ、川瀬建築設計で広報の担当をしているヤマサキと申します。このたび社内報で修平さんの記事を掲載するために、写真をお借りしようと思いましてお邪魔しました。」
電車の中でずっとすっと考えていた。
母さんは、「修平ったら、家にはなんの連絡も寄越さないもんですから。」と言いながら、玄関のドアを開けてくれた。
緊張したが、「遠い所をわざわざどうも。」と言って、家に招き入れてくれた。
すこしがっかりした。
母さんは、ヤマサキと名乗るオレを、オレ自身が使っていた部屋に通し、古いアルバムを出してくれた。
「もっと小さい頃の写真もありますから、ちょっと待っていてくださいね」
そういって、母さんは部屋を出て行った。
部屋の様子は、オレが大学に入り、一人暮らしを始めた頃のままだ。
学生時代も、社会人になってからも、何度かは実家には戻っている。その度にこの部屋を目にして思う感想だ。
ここだけ時が止まっている。
それでいて、埃一つない。
母は、アルバム数冊とお茶を持って戻ってきた。
「お構いなく」とよそよそしく、そしてたどたどしく言った。
川瀬建築設計では、社長の方針で社内報を発行している。それは事実だ。
だが、社員をひとりひとり記事に載せる程、アットホームな会社ではない。
A4サイズ1枚刷りで不定期発行。
会社の業績と、社長の長々とした訓示が掲載されている。
読んでもまったく面白くないので、オレは読まずにシュレッダーをかけていた。
母さんは、子どもの頃から順にアルバムをめくっては、オレや家族の思い出話をしていた。
オレも『広報誌』なんて?をついたことを忘れて、ただ母さんの話に相づちを打って聞いた。
当然、オレ自身のことなので知っていることがほとんどだったが、普段オレの前では口にしないような内容も含まれていた。
それでもオレはただ「相づち」を繰り返していた。
気がつけば、部屋の中は薄暗さを感じるようになった。
アルバムをめくる母さんも悲しげに見えた。
「あら、もう暗くなってきちゃった。」
6時を過ぎていた。いつもなら作業服を真っ黒に汚した父さんが帰ってくる時間だ。
「すいません、なんだか一人でお話して、長い時間お引き止めしてしまいましたね。」
そう言って、母が深々と頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ長居をいたしまして。」
「昔の話をしていたら、なんだか楽しくなっちゃいましてね。どれかお気に召した写真はございました? 」
「では、こちらと、こちらの写真をお借りいたします。」
「そうですか、これはね・・・」とアルバムから写真を丁寧に剥がしながら、
「あら、また。ごめんなさい。また昔話を始めちゃうところだったわ。なんだかこうやってヤマサキさんと話をしてると、まるで修平に向かって話をしているみたいね。あの子、中学くらいから段々無愛想になってね。私が話かけても相づちばかりで。でも私、ちっとも嫌じゃないの。それがあの子なんだし、私はただ話をしてるだけでうれしいの。ヤマサキさん、お引き止めついでに、もし良かったら一緒に夕食はいかが? もうすぐお父さんが帰ってくるの。子どもが巣立ってしまってからの二人っきりの食事が、なんだか味気なくてね。ヤマサキさんは、何がお好き? 」
酷く動揺した。
これ以上、母さんと一緒にいたら涙をこぼしてしまいそうだった。
もうすぐ父さんが帰ってくる。
「いえ、まだ会社に仕事が残っているものですから」と暇乞いをした。
オレが子どもの頃から気に入っていた写真を2枚を、母さんから受け取った。
1枚は、まだこの家に越してくる前、小さなアパートで暮らしていた頃に家族で行った遊園地の写真だった。
オレと孝司が真ん中に写って、その後ろで母さんが微笑んでいる。
撮っているのは、もちろん父さんだ。
母さんがお弁当を作ってくれて、オレの好物の唐揚げと、弟の好物のウインナーが弁当箱からこぼれ落ちそうな程入っていて、嬉しかった。
もう1枚は、大学の入学式の写真だ。
両親揃って入学式に参列してくれた。
町工場のしがない工員である父は、建築学部に合格したオレのことを「誇りだ。」と言ってくれた。
面映い気持ちになった。
オレより随分背の低い父さんが、入学式のプレートの前でオレと肩を組んで写っている。
こちらは母さんが撮ったので、少しだけブレているが、父さんだけは満面の笑顔だ。
アパートの自室に戻ったオレは、泣いた。
オレがもう田中修平でないことを身に染みて感じた。
仕事も失った。
父さんと母さんの子、修平ではない。
それから数日の間、オレは部屋から一歩も出ず、無為に過ごした。
毎朝鏡を覗き、新たなオレを確認した。
その間に、小学生くらいの子どもになったり、40代くらいの女性になったりも経験した。
その日玄関の郵便受けに、ゴトンと音をたてて、分厚い封筒が届いた。
川瀬建築からの退職に関する書類一式だった。
それとメモが1枚。
「もしお前が本当に田中なのならば、申し訳ない。」と記されていた。
オレの知っている三野さんの字に似ていた。
そして、その下に連絡先が1つ記されていた。
その連絡先には見覚えがあった。
川瀬建築が時々、社外の設計事務所を集めて行っていたコンペに参加をしていた。そしてオレは、その事務所が出してきためちゃくちゃなアイデアを図面に起こす仕事を何度かしたことがある。
山群設計が毎回出してくるのは、巨大な模造紙に描かれたデッサンといった感じだった。
山群社長は、気に入らない仕事を一切受けない。だから経営はいつも火の車だった。
営業が苦労して話を取り付けてきても、社長の気分であっさり断ってしまう。
その癖、変な仕事には飛びついてきた。それがオレとの縁でもあった。
小さなメモを持って訪れたのは、住宅街の中にある「山群設計事務所」と小さな看板のかかった個人の住宅にしては立派な、そして少し変わった形をした建物だった。
事務所スペースの片隅、パーティションで仕切られた応接セットで山群社長と向いあった。
社長と最後に仕事をしてからは、しばらく経つ。
社長は比較的若く見えるが、50代も後半に差し掛かる年齢である。
ウェーブのかかった長髪を、いつもゴムで結わえていた。
服装も堅苦しくなく、知らない人が見れば、洋風居酒屋の大将とでもいった風貌だ。
山群社長には、素直に「川瀬建築設計にいた、田中修平です。」と名乗った。
その日のオレは、20歳そこそこのフリータといった風貌だった。別に自分で開けたわけではないが、大きなピアスをいくつも付け、アフロかと思う程のパーマヘアだった。
オレが「田中修平」と名乗ったことで、社長は一瞬面を喰らったような顔をしたが、すぐにニタリと笑った。
オレが知っている山群社長の、いつもの表情だ。
いつもニヤニヤと人を喰ったような表情をして、何か面白そうな事がないかと探している顔だ。
川瀬建築でオレが図面を引いているときも、ずっとこんな顔をして、横からPCのモニターを覗き込んでいた。不思議と怒られたりした事がない。
「この前、あんたの上司、えぇ?っと、なんて人だっけ? あの退屈そうな人? 」
「三野です。三野課長です。」
「そうそう。その人が電話を寄越して、何を言うかと思ったら、あんた、田中君を雇ってやってくれって言ったんだよ。確かに人手が足りてないのは事実だから、もし俺んところで働くっていうんなら面接くらいはするよって言ったんだけどさ。」
また、ニタリと笑って、「ところで、あんたが俺の知ってる田中君? 」と社長は訊ねた。
「そうです。事情はこれからお話します。」
そういって、ここ数日間に起こった、自分自身でも理解できていない出来事の一部始終をあらん限り包み隠さず話をした。初めから信じてもらえるだなんて思っていない。
「『変身』だね、カフカの。」
「すいません、タイトルしか存じ上げません」と応えた。
社長はまたニタリと笑った。
「今の所、変身するのは男だけ? 」
「いえ、女性にも、子どもにもなりました」
社長は、更に何か楽しい玩具でも見つけたように嬉しそうな表情をした。
それから、ぐいと前のめりになり、小声で「若いオネェちゃんだと困るよねぇ~、何かと。」と言った。
オレには訳が分からなかった。
「ウチの経理の幸っちゃんがさ、自称俺の愛人なんだわ~。あ、もちろん”そういうの”ないよ。でもさ、これがすんごいやきもち妬きなんだわ。実際、ちょっとめんどくさい。」
また、ニタリ。
しかし社長は、居住まいを正し、オレを目をまっすぐに見つめた。
「変身しても、腕、変わらないんだろ? 」
やっと本題とでも言った具合の真剣さに、オレも真面目に答えた。
「はい、先日も三野さんは、それだけ確認してくれました。その場で辞表を書かされましたが。」
社長は、10畳程の広さの事務室が反響するような声で笑った。
面接というよりは、社長の話に煙に巻かれているような気分だった。
「そっか、そっか。なら採用だ。給料は川瀬んとこよりは安くなるけど、まぁ、事情は酌んでやる。その代わり、とりあえずは週6日は来い。あとは、その時になってから考える。はい、面接終了! 」
オレは、山群設計事務所の5人目のスタッフとなった。
それからの生活は、どこか珍妙さを残しながら、しかし平穏に流れていった。
相変わらず実家からの連絡には無愛想な対応をしていたが、オレの声の変調にいちいち「風邪か? 」「仕事し過ぎか? 」「大丈夫か? 」と大量の疑問符を挟み込んできた。
「会社変わって、ちょっと忙しいんだよ」とぶっきらぼうに電話を切ったりしているが、あの2枚の写真だけは、オレが手元で大事にしている。
本当は自分でも分かっている。怖いのだ。オレがオレでなくなっていく恐怖。親しい人達との距離が無言のまま開いていく恐怖。そして、この先の未知なる恐怖。
オレという存在、オレというアイデンティティが霧散してしまうのではないかと。
その恐怖に平常心をもって受け止められる自信もない。むしろ、ただ惰性にながされていくくらいだろう。
自分の存在を世間に公表する勇気もない。きっと碌なことにならないだろうという絶望に近い心持ち。
親にも顔を合わす事ができず、唯一多少の信頼に足るのは、山群設計のスタッフの皆だ。みんなそれなりに受けれてくれている。
ある日、営業の江崎さんが「田中ちゃんって、いつ変身するの? VTRで録画しとくと、変身する瞬間が映るんじゃない?」と言った。
はっ、とした。
急ぎの仕事があり、徹夜明けで家に帰ると、前日と同じ姿をしたオレがいた。
しかし、それから少し横になり、寝起きに鏡を見ると別の姿に変わっているのだ。
それを違和感も抱かず慣れ始めていたが、そもそも毎日姿形が変わるのあれば、そういう証明の仕方も可能なはず。
現にオレは、パジャマを脱いで寝ることが習慣化している。
寸志程のボーナスをもらった日、近くの量販店でVTRを購入した。長時間録画が可能なタイプだ。
その日は、30代後半の見事に無個性な男だった。「近々子どもの運動会がありましてね。曇天でも綺麗に撮れて、なるべく長時間録画できるヤツが欲しいんですよ」等と、外見に相応しい事も口にできるくらいには、この生活に慣れ出していた。
そして、夜寝る前に、ビールをひと缶だけあおり、早速VTRを設定した。
もし、鏡を覗いたオレにだけ毎日様々な人間の姿が見えるのだったら、「幻覚が見えるんです」と言って病院にでも行った方が良いのだろう。入院をさせられたのかもしれない。
しかしあの日から、オレを知っているはずの人物が皆、田中修平という人物だと認識してくれていないという事実を受け入れた。ナミちゃん、三野課長、山群社長、そして母さん。山群設計でもそうだ。だから、「それ」が見えていたのは、事実だ。
そんな不安を抱えながら、夜の薄暗がりの中で身を横たえ、眠る。
うとうとと遠のく意識の片隅で、VTRが起動する音がうっすらと聞こえたような気がした。
昨日のオレ、今日のオレ
※某スマホ小説サイトから転載
体裁については、ざっと直した程度です。