泣ける本の話


わたしは、本や映画や音楽や写真といったもので感情を揺さぶられて「泣く」という経験が、あまり無い。周りに合わせて涙を流して「この話、ちょー感動したね」なんて頷いてみせることは付き合い上、多々あるけれど、実際に自分のオリジナルの感情で感動して泣いたことは本当に少なくて片手も持て余すくらいの回数ほどしかない。
その片手の人さし指くらいに入る「自分の感情で泣く」ものに、重松清さんの「まゆみのマーチ」という小説がある。現在社会人である主人公の、同じく現在は社会人である妹「まゆみ」が、小学生の頃にとある原因がきっかけでしばらく学校に行けなくなってしまっていた頃の話を2人で回想するーーーという、かなり端折って簡単に言うとこんな感じの話である。かなり端折って簡単に言いすぎたのか、こうしてみると全然こんな話じゃない気がする。ごめんなさいわたしあらすじとかそういうの下手くそなの。とてもいい話なの。ぜひ読んでね。 重松清さんの作品はどれもこれも好きなのだが、なぜかこの「まゆみのマーチ」だけ、わたしは涙を流さずには読むことができない。
わたし自身が小学2年生の頃、ちょっとした事件があってから不登校だったからその頃の自分に重ね合わせて、とかそんな恥ずかしいセンチメンタルからくる涙ではない。理由は分からないけれど、なぜか気がついたら顔面が塩水まみれで、途中から嗚咽なしではページをめくれなくなっちゃうのだ。
不思議だなあ。
……オチも何もへったくれもない話でした。
なんか、わたしってエッセイ向いてない。と途中で気がついて本当はここで終わらせようと思ったのだけど、ひとつわたしが普段からかねがね思ってることを書いてみる。
「泣く」ということは「ただ涙を流す」ということとは違うと思うのだ。
「泣く」というのは、心の底から湧き上がった感情が、綺麗な結晶として涙に混ざり、それが目尻から溢れ出した、というこの行為のことだと思う。ただ汚い塩水を目尻から垂れ流すのとは色々違うと思う。
昔読んだなにかの本の中で、とあるAV監督がこんなようなことを言っておられた。「相手の目を見ず、心を通わせようとせずに、最初から最後まで目をつぶってただ喘いでイくだけの子がいる。そんな行為はセッ●スとは言わない。ただ相手の性器を使ったマスターベーションをしているだけだ。僕らの業界ではこれを『絡み』って呼んでる。」
これを読んだ時、声に出して「なるほど…」と頷いてしまった。納得しまくった。そして思った。「『泣く』ことについてもこう言える。『泣く』のは心を通わせあった『セッ●ス』、『ただ涙を流す』のは『絡み』と同じだ…!きっと男と女の間柄に置き換えたとき、心の底から『泣ける』人はセッ●スができるし、『ただ涙を流す』だけの人は自分ではセッ●スしてるつもりでもただ『絡み』だけで全てが終わるのかもしれない。ってことはもしかしたら、わたしって一生本物のセッ●ス、できないんじゃないか……?うわあ嫌だ!やるならその時はちゃんとセッ●スがしたい!」…と。
異論は認める。

泣ける本の話

泣ける本の話

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-06

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