最低裁判所

「犬と過ごす優雅な老後、それを夢見ていたのに……お前のせいで台無しだ! どうしてくれる!?」
「知ったことじゃないわい! てめぇの犬くらい、てめぇでしつけやがれ! 馬鹿野郎!」
 法廷に罵声の応酬が響く。向かい合う二人は口角泡を飛ばし、互いに自分の主張を少しも譲らない。
「すまんすまん、遅れてすまん」
 そこへ、また別の男が一人、小走りで到着した。着くや否や、汗ばんだTシャツの上に、よろよろの法服を羽織る。年齢は三十歳前後、ボサボサの髪が特徴的な彼は、裁判官だ。
 言い争っている二人の男は、遅れてやってきた裁判官に目もくれず、激論を続けている。この二人は、原告と被告だ。
「書記官よ、遅れてすまない。ちゃんと時間通りに着くはずだったんだが、実は駅前で、とても上品そうな中年の女性に話しかけられてね。いわく、もみもみの塔がどうとか、マルハゲ丼がどうとか、よく分からないことを言っていたんだが、あまり熱心に伝えようとしてくるものだから、つい近くのファミレスへ一緒に入って話を聞いてあげて、気付いたら開廷時間を過ぎていたんだよ」
「おはようございます、裁判官。おそらく、それは有名な宗教の勧誘です。入信なされたのですか?」
 金色の髪を後ろで束ねた女が、アンドロイドのように事務的な口調で答えた。真っ黒な法服に白い肌がよく映えており、その白さゆえ、首筋に三つほどある赤いあざのようなものが非常に目立っている。彼女が裁判所書記官だ。
「え、宗教? そうなの? 引き込まれそうになったけど、遅刻することに気付いて飛び出してきたから、入信はしていないよ。でも、連絡先は渡しちゃった」
「入信する気が無いなら、連絡を断った方が良いと思われますよ。もし裁判官が入信して私を勧誘してきても、私は一切話を聞くつもりはありませんので、ご承知置き願います」
「わかった。君の言う通り、もし連絡が来ても無視することにするよ。あれ、そういえば、事務官はまだ来てないの?」
「事務官は先ほど、買い物に出かけると言ってここを出てから、帰ってきません」
「またあいつは、どうせ歩きながら酒でも飲んで、酔っ払って寝ているんだろう。まぁそれはいいとして、今日の裁判はかなり荒れているようだね」
 原告と被告は、どちらも老人と言って差し支えないほどの年齢であった。お互い、これまでの人生で習得したのであろう罵詈雑言を駆使しながら、激しく言い争っている。
「お前の下品な犬がな、わしのかわいいチェリーちゃんにしてくれたようにな、お前の肛門にビール瓶でも突っ込んでやりたいわ!」
「何を言うか! そんなことをされて喜ぶのは、お前のむっつりポメラニアンだけだ! 俺をそんな変態犬と一緒にするなよ!」
 二人とも、今にもこめかみの血管が切れそうなほどの剣幕だ。
「今日のこれは、どういう事件なの?」
「犬の散歩中に出会った被告のシェパード(♂)が原告のポメラニアン(♂)をレイプして、ポメラニアンがアナル中毒になってしまった事件です」
「あぁ、あれか。まだ決着ついてなかったの?」
「平行線を辿っています」
 原告・被告は、二人とも顔をゆでだこのように紅潮させながら、尚も罵り合っている。悪口のレパートリーが尽きてきたのか、二人ともボディランゲージが大げさになってきた。
「あれからチェリーちゃんは、いつも家でタンスの角にお尻を擦り付けておる。見かねたわしがお尻の穴にボールペンの先を入れてやると、涎を垂らして喘ぐんじゃ……。チェリーちゃんをこんな風にした責任、とっとと認めやがれこの野郎!」
「やなこった。大体、ケツを掘られてよろこぶのは、てめぇの犬がもともと持っていた性質なんだろう。俺の犬が、ちゃんとそれを開花させてやったんだ。むしろ礼を言ってほしいくらいだわい!」
 不毛な議論の繰り返しに、裁判官は天に向かって大あくびをした。書記官は一切表情を変えず、すごい速さでタイピングをしている。
「今日、このあとまだ裁判あったよね?」
「はい、もう一組、控えております」
「なるほどわかった。あのー! すみません! 原告・被告のお二方、聞いてくださーい!」
 裁判官が呼びかけるが、その声は二人の耳には届いていないらしく、口論は途切れなかった。
「……ったく。すみませーん!! ちびでぶ被告!!!」
 声に反応して、被告が裁判官の方を見た。ふくよかな全身が怒りでぷるぷる震えている。
「ちびでぶ被告は、ハゲメガネ原告の訴えを認める気は、少しも無いんですか?」
「何を言っている! こんなめちゃくちゃな要求、認められるわけないだろう!」
 被告は興奮のあまり、自分が「ちびでぶ被告」と呼ばれていることに気付いていないようだ。続いて裁判官は、原告側を向いて言った。
「ハゲメガネ原告は、ちびでぶ被告に譲歩してやろうという気、少しでもありませんか? と言うか、今日はケツカッチンなんで、もうそろそろ判決を出してしまいたいんですけど」
「譲歩だと? とんでもない! それに、判決なんて早過ぎる! まだまだこいつに言いたいことの半分も言えてないんだからな」
 原告も、自分が「ハゲメガネ原告」と呼ばれていることに気付いていないようだ。
「それはこっちの台詞だ! 俺もまだまだ言い足りない! 次の日程を決めるぞ!」
 原告と被告は、裁判官の指示も待たないまま、勝手に次回の日時を相談し始めた。
「ただの口喧嘩ならよそでやってくれてもいいんだけどなぁ。まぁ、聞いてるだけでいいのはこっちとしても楽だし、別にいいけど」
 日取りを決めた両者は、それを書記官に口頭で伝え、そそくさと法廷を後にしていく。
 法廷に束の間の静寂が戻った。
「はーい、おつかれさまでした。では次の原告・被告、お待たせしてすみません。入ってきてくださーい」
 裁判官が声を掛けると、まず一人の男が鼻息荒く入廷してきた。服装はクールビズスタイルで、肩から黒い鞄を提げている。年齢は三十歳くらい。体格は小柄だが、Yシャツが窮屈そうな太鼓腹、二重あご、童顔の割に薄くなった頭髪、そして眼鏡姿が特徴的な彼は、原告だ。
 続いて、一人の女が入廷してきた。薄黄色のブラウスに藍色の短いスカート、鎖骨あたりまで伸びたストレートの黒髪。化粧が薄く、あえて言うと幸の薄そうな顔だが、どことなく哀愁を帯びた艶かしさを全身に漂わせている。身長は原告の男と同じくらいだが、顔が小さくスタイルが良いため、彼女の方が高く見える。彼女は被告だ。
 二人が席に着くと、裁判官は両者をちらちら見た上で、話し始めた。
「えぇ、本日はお忙しいなか御足労いただき、ありがとうございます。それではまず、ちびでぶハゲメガネ原告、訴状の陳述をお願いします」
「おいちょっと待て、誰がちびでぶハゲメガネだ! 侮辱罪で訴えるぞ!」
 原告が目を剥いて裁判官を怒鳴りつけた。
「すみません、失礼致しました。つい先ほどの裁判のノリでいってしまいました。えぇと……」
 書記官が裁判官に耳打ちする。
「あ、はい、山下さんですね。山下原告、訴状の陳述をお願いします」
 原告はふてくされた顔で立ち上がり、手元の紙を見ながら、選手宣誓のようにはっきりした口調で話し始めた。
「私、原告の山下平助は、ちょうど一年前の7月頃、高田馬場にあるソープランド『ルマンド』に初めて行きました。そのときに私とセッ……、失礼、私の接客を担当したのが被告なのであります。私は、被告の容姿、被告のおしゃべり、被告のセッ……、失礼、被告の接客すべてに夢中になり、その後も一週間に一回、多いときには二回、さらに多いときには三回のペースで『ルマンド』に通い、被告を指名し、逢瀬を重ねたのであります。そのうちに、私と被告の関係は、単なるサービスの提供者と受領者の枠を超え、恒久の愛を誓い合うまでになったのであります。だというのに、だというのに被告は、かねてから惰性で交際を続けていた典型的駄目男と、このたび婚約をしたのであります。そしてそれに伴い、被告は『ルマンド』も辞めたのであります。私がこれまで被告に払い続けてきた、愛情面、ならびに金銭面での負担を考慮すると、これは甚だ鬼畜の所業であり……」
「はい、あの、わかりました、もうそのへんでいいです。えぇとでは、被告側……はい、さきこ被告、この訴状に対する答弁の陳述をお願いします」
「はーい」
 被告は立ち上がって、メモを見ることもなく飄々と話し始める。
「山下さんは、まるであたしが詐欺師みたいな言い方をしてるけど、あたしはただずっと、仕事として山下さんにサービスをして、代金を受け取っていただけです。しかも、彼氏がいることだって、内緒にしてたわけじゃなく、最初から山下さんに言ってありました。あたしは何も悪くありません。要求されている罰金も払いたくありません。以上です」
 スカートのお尻に両手を添えながら、被告は席に着いた。
「はい、さきこ被告、ありがとうございました」
「裁判官さん、あたしこういうのって、勝手に弁護士さんがつくものだと思ってたんだけど、そうじゃないんですね。びっくりしちゃった」
「弁護士は自分で雇わないとつきませんよ。まぁ、うちの場合、原告も被告も貧乏な方が多いので、弁護士無しのパターンが多いですがね」
「そうなんですかぁ。なんか、いきなり訴えられちゃったから、弁護士さんのこととか調べる時間もなかったんですけど、それなら良かったです」
 その会話を遮るように、原告が訝しげな表情で問いかける。
「さきこ被告って……。なぁ、裁判所って、ちゃんと本名で呼び合うのが普通じゃないのか? なんで『ルマンド』の源氏名をそのまま使ってるんだよ」
「あぁ、それは、被告の方から、本名を明かさないでほしいという依頼があったもので……」
 裁判官がそう言うと、途端に原告は叱られた子犬のように怯んだ顔になってうつむいた。
「ひょっとしてあなた、被告の本名知らないんですか?」
「……知らねぇよ」
 下を向いたまま、原告は消え入りそうな声で答える。
「教えるわけないじゃん。だって山下さんは、ただのお客さん。プライベートな関係じゃないもん」
 突き放したように被告は言った。
「ところで、なんで“さきこ”なの?」
 裁判官が興味深げに聞く。
「“しばさきこう”の“さきこ”です。柴咲コウを薄くしたような顔だねって、お店のオーナーが付けてくれたの」
「なるほど。言われてみれば分かりますが、柴咲コウよりもあなたの方がかわいいです」
「やーん、裁判官さん、ありがとうございます。『ルマンド』に来てくれたらサービスしますよ! って、そういえばもう辞めたんだったぁ」
「おいこら、雑談をするんじゃねぇ!」
 原告の怒鳴り声で、裁判官と被告の会話は中断した。
「はい、すみません。それでは双方の主張をまとめますと、山下原告は、ソープランドでさきこ被告と何度も会い、お金も愛も投資して、関係を深めてきた。しかし、さきこ被告が別の男性と婚約し、店を辞めるので、今までさきこ被告に払ったものが無駄になる。だから罰金を請求する。一方、さきこ被告としては、山下原告にしてきたことはあくまで仕事上のサービスであり、深い関係になった認識は無く、婚約について山下原告に何も言われる筋合いはない。だから罰金も払いたくない。こんな感じでよろしいですか?」
 亀のように首を伸ばして書記官のパソコンの画面を覗き見しながら、裁判官が話した。原告がうなずき、少し遅れて被告もうなずいた。
「えぇとそれでは、山下原告に聞きます。さきこ被告の答弁陳述を聞いて、納得されましたか?」
「いいえ、まったくしていません」
 それを聞き、裁判官は戸惑った表情になった。少し言葉を思案してから、話し始める。
「いや、あの、納得してくださっても全然いいんですよ。ひょっとしたら、せっかく裁判を開いたくせにもう納得すんのかよ、っていうツッコミを恐れていらっしゃるのかもしれませんが、民事裁判って案外、この段階ですんなり納得される方も多いんです。それに私自身、どう考えてもあなたの言っていることの方がおかしいと思いますし……」
「うるせぇ! 納得してないって言ってるだろ! それに何だ、俺の言ってることがおかしいって? 裁判官ってのは普通、こんな序盤から個人的な意見を軽々しく言うもんなのか?」
「まぁ色々な裁判官がいますけど、何にせよ、ここは最低裁判所ですから」
 ここは最低裁判所である。地方裁判所や簡易裁判所の抱える裁判件数が飽和状態に達したとき、法廷の場所と人員を確保するために、提出された訴状のうち一定の基準で瑣末であると判定された事件は、最低限の司法機能を持ったこの最低裁判所に回される。なお、最初から最低裁判所に訴状を提出することもできるが、そんな物好きはめったにいないので、上位の裁判所からありていに言うと「しょぼい事件」が流れてくることがほとんどである。
「あんたら、俺を馬鹿にしているな。俺は今まで、被告のところへ数えきれないほど通って、通算300万円を継ぎ込んできたんだ。ただ性欲を満たすためだけなら、これだけの金を費やしたりしない。被告がずっと、俺と結ばれる将来のことをほのめかし続けてきたから、通うのをやめられなかったんだ。しかしどうだ。被告はそのお金を、ニートの駄目彼氏を養うために継ぎ込んできた。これじゃまるで、俺がそいつを養ってきたのと同じじゃないか。そして、彼氏が気まぐれで仕事を始めるから結婚します、ってことで、俺とはあっさりさようならだ。こんなの納得できるわけがない。よって、罰金300万円を請求する。何も慰謝料を取ろうとか、そういう話じゃない。騙し取られた金を返してもらうという、ただそれだけのことだ」
「はい、分かりました。今のお話を聞いて、被告側、意見はありますか?」
 被告が立ち上がり、話し始める。
「あなたね、さっきから聞いてれば好き勝手に言ってくれるけど、あたしがお金を騙し取ったことなんて一度もないからね。そりゃあたしだって、お客さんにリピートしてもらうために、あなただけは特別とか、言ってみたりもするよ。でもそんなの、他のどのお客さんにも言ってるし、みんな喜んではくれるけど、あなたみたいに本気で真に受ける人いないよ。だから、彼氏がいるってことまでしかたなく教えてあげたのに、こんな風に訴えられるの、全然納得いかない。むしろあたしが訴えたいくらい。それに何? あなたがあたしの彼氏を養ってきたですって? あたしは、あなたにちゃんと、仕事としてやることをやった上でお金をもらってきました。取引成立でしょ? そのお金を、あたしが何に使おうと、あたしの勝手です。そもそも3百万円のうち、店の取り分もあるんだから、そんなの請求されたって払えるわけないし。ほんとに、今日の裁判が終わったら、もうあなたに会わなくて済むと思うと、すごく清々します。以上でぇす」
 右手で髪をかき上げ、左手をスカートのお尻に添えながら、被告は席に着いた。
「うーん、お互い譲らないなぁ。どうしよう。書記官、なんか意見ありますか?」
 裁判官に質問され、書記官はキーボードをタイプする手を止めた。
「概ね被告の言う通り、両者同意の上で性的サービスの取引が行われているのなら、被告が受け取ってきた金銭は正当なものであると思います。争点とする余地があるとすれば、被告が原告との将来をほのめかす言動をどれくらいしていたかという点で、もし、原告が被告と結ばれることを期待した上で金銭を提供していることを、被告が認識しながら、思わせぶりな言動を続けていたとすれば、そこには被告の落度も存在すると考えます」
 時報を読み上げるかのように、書記官は淡々と話した。
「ここに入ってきたときから思ってたんですけど、えぇと、書記官さん? すごく綺麗な方ですねぇ。お若く見えますけど、おいくつなんですか? あたしより歳下?」
 目を輝かせながら、被告が書記官に尋ねる。
「ありがとうございます。でも私は、同じ女性として、私よりあなたの方が魅力があると思いますよ」
「わぁ! とんでもないです。ありがとうございまぁす。あ、歳は教えてくれないのね。あの、あともう一つ。皆さん絶対気になってるはず……聞いていいのかな? 首のとこに三つくらい、赤いのがポチっと……、それ、キスマークですよね? あの、恥ずかしくないんですかぁ? あたし、こんな仕事してておかしいですけど、すごい恥ずかしがりなんで、そんな堂々と見せられると、うわぁ大胆だなぁって、こっちが照れちゃうくらいなんですけど……」
「少しも、恥ずかしくありませんね」
 被告の方を一瞥もしないまま、書記官は答える。被告は何も言わず、両手で顔の下半分を覆って、照れ笑いの表情を浮かべた。
「はい、書記官、いつもながら論理的な意見をありがとうございます。では次に、傍聴人の方、なんか意見あります?」
「え!? あ、はい!? 僕っすか?」
 法廷の隅の傍聴人席に座っていた、痩せぎすでカマキリに似ている男が、面食らったような声を出した。法廷内の視線が、初めて傍聴人席に集中する。
「えぇ、あなたです。ちょうどこの裁判が始まったくらいの頃から、そこに座って傍聴されてましたよね? 内容も大体理解されたかと思います」
「あぁ、はい。でもまさか、意見を求められると思ってなかったんで……。うぅん、難しいっすね。でも僕はやっぱり、原告の人の言ってることは、ちょっとおかしいと思います。僕もよく風俗行くんすけど、せっかくだから色んな人とエッチなことしたいなって思うんで、そんな、いくらかわいいからって、一人の人に夢中になってお金遣いまくるなんて、それなら他に彼女作れよって感じですよね。もったいないっす」
 頭の後ろで手を組みながら、傍聴人は意見を述べた。
「傍聴人、ありがとうございました。確かに、300万円もあれば、もっと色々なお店で様々なサービスを受けることができたはずなのに、もったいない気はしますね」
「……あのなぁ、傍聴人が意見言うこと自体もおかしいと思うけど、それより、みんな気にならないのか? 傍聴人のシャツに付いてる真っ赤な跡、あれ、絶対服のデザインじゃないだろ? 明らかに……血、じゃないのか?」
 原告の言う通り、傍聴人が着ている皺だらけの白いシャツには、薄暗い法廷でもはっきりと分かるくらいの、潜血のような跡が真っ赤に大きくこびりついていた。
「確かに、私も気になってはいました。傍聴人、その真っ赤な跡はどうしたんですか?」
「これっすか? さっき、この近くの道を歩いてたら、おっさんと肩がぶつかって。そしたらそのおっさんが俺に因縁付けてきたから、むかついて、謝るふりだけして後ろから刺しちゃったんすよ。おっさん、元々ふらふらしてたんすけど、刺された瞬間、いってぇ! って叫びながらその場に倒れて、そのままぐぅぐぅ寝てましたね。でも、急所は外したつもりだし、たぶん大丈夫っすよ」
 デコピンをするように潜血の跡を指で弾きながら、傍聴人は相変わらず軽薄な調子で答えた。
「そうですか。それなら納得しました」
「いやいやいや、納得するなよ。明らかに殺人未遂だろ。そのおっさんは寝てるんじゃなくて気絶してるんだよ。今ごろ死んでるかもしれないぞ。こんなやつに意見言わせてないで、とっとと現行犯逮捕しろよ」
「あのですね、山下原告、現行犯逮捕なんてできるわけがないでしょう。我々は誰も事件の現場を目撃していないし、こんな不確実な証言をもとに、わざわざ裁判を中断して現場を確認しにいくことも許されない。ケツカッチンなんでね、手早く進めていかないと駄目なんです」
 裁判官の言葉を聞き、傍聴人はどこ吹く風という様子で足を組んで、裁判の続きを傍聴する姿勢に入った。原告は絶句し、被告は口許を艶っぽく緩めながら少し笑った。
「信じられない……ほんとにめちゃくちゃだな……もういい、言っていても無駄だ。裁判の続きをやる! とにかく、俺は一歩も引く気はないからな!」
 語気を荒げながら原告が言った。
「ちなみに被告は、やっぱりその、彼氏さんを養うために、ソープランドの仕事を始めたのですか?」
 裁判官が被告に尋ねる。
「えぇと、まぁ、実際そうですけどぉ。でも勘違いしないでね。別にそんな、嫌々やってたわけじゃないよ。人前で裸になるのは恥ずかしかったけど、あたしが恥ずかしがってると、お客さんみんな興奮してくれたし、ある意味向いてたのかも」
 照れ笑いを浮かべながら、被告が答えた。
「なるほど、自分に合った仕事というのは、やってみないと分からないものですね。ありがとうございます。ではここからもう少し、具体的な話に踏み込んでいきましょうか。山下原告は、さきこ被告に騙され続けたとおっしゃっていますが、具体的には、どのようなことを言われていたんですか」
「最初のうちは、あなた最高、あなた特別などの、まぁ月並みなことでした。そのうちに、もう何年も付き合っている彼氏がいるということを打ち明けられました。そしてその後は、会うたびに彼氏の愚痴を聞かされ、もう別れたい、すべて終わらせて山下さんと一緒にいたい、とまで言われたので、私はもう一押しとばかりに、何度も被告の下へ通い続けたわけであります」
 一語一語に力を込めながら原告が述べる。被告は表情を変えず、星を見るかのように虚空へ視線を向けていた。
「なるほど。ではもう少し具体的に、彼氏さんの愚痴とはどのような話だったんですか?」
「はい、被告の彼氏というのは、典型的な駄目男でありまして……」
「ちょっと待って」
 話題が彼氏の話に移った途端、被告は顔色を変えて立ち上がった。
「彼の話だったら、あたしにしゃべらせてくれませんか?」
「あぁ、いいですよ。どうぞ」
 一度だけ大きく呼吸をしてから、被告は話し始める。
「あたしの彼は、確かにとってもダメな男、でした。通ってた美大を途中で辞めちゃって、そこから何年も、就職もせずに、たまに短期のバイトをするくらいで、あとは本を読んで映画を見て寝るだけの生活をしていました。末っ子の彼は、御両親からもとっくに見放されていて、だからあたしがソープの仕事をして、稼いだお金で彼を……まぁ簡単に言うと養っていたの。そりゃ不満もあったし、積もった愚痴を、山下さんに話したこともありました。でも、彼のためにも自分のためにも、こんなのずっとは続けられないなと思ったから、あたし、彼の仕事のツテを探すために、知り合いを尋ねまくったの。そしたら、父の友達のデザイン事務所がちょうど人手不足で、経歴問わず即戦力を募集してるって聞いたから、彼に薦めてみた。彼、もともとしっかりした目標もないけど美大に行ってて、でもセンスはすごかったから、必死で説得して、面接受けてもらって、アルバイトっていう形で採用してもらったの。そしたら大当たりでね、デザインのセンスだけじゃなく、もともと頭も切れる人だから、経営とかマーケティングについても良い意見を言ってくれるってことで重宝されて、3ヶ月も経たないうちに正社員にしてもらったんです」
 頬を赤らめつつも目をきらきらさせて、被告は恋人のことを話した。原告は胸苦しそうな表情で、視線を法廷の外へ向けていた。
「うーむ、聞いていて腹が立つくらいの天才肌ですね。やっぱり、あなたのような高嶺の花を落とせるのは、そういう規格外の男だけなのですねぇ」
「もう裁判官さん、お世辞がうまいですね。正社員になることが決まってすぐ、彼にプロポーズされました。嬉しかったなぁ。正直、お金なんてまだ全然たまってないんだけど、たぶん、調子よく行ってる今のうちにちゃんとケジメを付けておこうという、彼なりの決意だったんだと思い……」
「ふああああああああああああああああああああああああああああああ」
 被告の話をぶった切るように、低く大きな雄叫びが聞こえ、誰もが声の方を向いた。ヒグマのような恰幅の大男が法廷に入ってきて、おもむろに書記官の隣の空席に座った。ほとんど閉じかけている目をしきりにこすっている様子から、先ほどの雄叫びはあくびだったことが分かる。すぐに、こくりこくりと大男の体が書記官の側に傾き始めたので、書記官は自分の椅子ごと彼から少し距離を取った。
「おぉ、事務官おかえり。えらく長い買い物だったね」
「おん? あぁ、焼酎飲みながら歩いてたら、知らんうちに道で寝ちまっててよ。しかも起きたら、なぜか脇腹から血が出てて、ズキズキしてたまんねぇ。ちょっと今日はもう、終わるまで寝てていいかい?」
「あぁ、いいよ。どうせもうすぐ終わりそうだし……ん? 脇腹に傷? まさか!?」
 裁判官は傍聴人席を見た。傍聴人は驚愕の表情で、体中の血液を抜かれたように顔を青白くさせていた。知らない人が見れば、シャツの血は彼自身の体から溢れ出たものに見えただろう。
「な、なんで……、なんで“あいつ”がここに……」
「彼はうちの事務官だよ。と言っても、うちの場合、大体の仕事は書記官が一人でやってくれるから、彼はほとんど何もしてないけどね。力仕事専門だよ」
 裁判官が言い終わらないうちに、傍聴人はガタガタと慌ただしく立ち上がって法廷の外へ飛び出し、その姿は瞬く間に闇の中へと消えていった。
「……あいつ、逮捕しなくて良かったのか?」
 原告が怪訝そうに尋ねる。
「まぁ良いでしょう。元気そうだし、事務官。それに、元はと言えば事務官が先に因縁を付けたのが悪いんだから。ねぇ、事務官」
 事務官はすでに寝息を立てており、返事は無かった。
「やれやれ。では、裁判の続きをしましょう。先ほどの証言を聞いていると、さきこ被告はやはり、彼氏さんに対して非常に一途であるように思います。山下原告との将来をほのめかしていたなどということは、なかなか想像できないのですが……」
「裁判官、確かに被告は彼氏を愛しています。それは私も認めます。しかし、そのことと、被告が私を袖にした事実の有無は、まったく別の問題です。むしろ、彼氏への愛が強かったからこそ、反面で陰も多く、私を心の拠り所にしていたと言えます」
 拳を握りしめながら、原告は堂々と述べた。
「いい加減なことを言わないで。あたしはあくまで、仕事としてしかあなたに接した覚えはありません」
「ほぉ……。夜中に突然、人のアパートに来ておいて、よくそんなことが言えますね」
 原告の言葉が、まるで落雷のように、法廷へ衝撃を与えた。被告の顔に一瞬だけ緊張の色が表れ、またすぐに元の表情へ戻った。
「……山下原告、それは本当ですか? そもそも被告はあなたのアパートを知っていたということですか?」
「はい、本当です。住所と連絡先はもう最初の頃に、お店で被告へ渡しておりました。まぁそのときは、俺が無理やり渡したんですけどね」
 原告がそう述べているあいだ、被告は静かに深呼吸をしていた。
「さきこ被告、今の原告の発言は事実でしょうか。あなたは個人的に、山下原告の家を訪ねたことがあるのですか?」
「ありません、山下さんの勝手な言いがかりで……」
 バシンッ! と大きな音が鳴った。原告が、右の手の平で机を叩いた音だった。法廷内の視線が集まったところで、原告はポケットからおもむろに何かを取り出す。スマートフォンだ。
「証拠が無いと思って高を括っているんだな。それじゃあこの、君にとってはかなりまずいであろう写真を公開しても、同じことが言えるのかな?」
「え……? ちょ、ちょっと待って、あなたまさか……!?」
 原告がスマートフォンを操作し始めると、被告は今度こそ、明らかに狼狽した様子になった。
「待って!! ねぇ!! 山下さんちょっと、駄目だよ!! そんなことして許されると思ってるの!? 犯罪だよ! 裁判所だよここは! あたし訴えるよ!? ほんとに訴えるよ!? ねぇちょっとやめてよ!!」
「おぉ、おぉっと、まさかの展開。これはいま流行りのリベンジポルノというやつか……!?」
 裁判官がそう言った瞬間、すやすや眠っていた事務官が、突然カッと目を開いた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 野獣のような咆哮が法廷に響く。どうやら、裁判官の言った「ポルノ」という単語に反応したらしい。事務官は立ち上がり、素早く周囲を見渡したあと、原告の持っているスマートフォンに狙いを定め、一目散に走り出す。顔一面に下卑た笑いが溢れていた。その表情を一目見れば、「リベンジポルノを行う不届き者を成敗する」ためではなく、「目の前にあるポルノを早く見る」ために動いていることが、誰からでも分かった。
「ちょ、ちょっとあんた!! やめて!! もう!! 頼むから見ないで!! お願い!!」
 被告の必死の願いも虚しく、事務官は強靭な力で、原告の手からスマートフォンを奪い取った。ギョロっとした眼球で穴が開きそうなほど画面を凝視する。すると、彼の表情は、なぜか急激に、憑き物が落ちたように冷めていった。
「……なんだつまんねぇ、ただの寝顔じゃねぇか」
 事務官が吐き捨てるように言う。
「え……ちょ、寝顔……?」
「ほらよ」
 事務官が被告の目の前にスマートフォンを持っていった。そこに写っていたのは、安心しきったような表情ですやすやと眠っている、被告の首から上の写真だった。泣いた後なのだろうか、目元の化粧が滲んでいる。
「……紛らわしいこと言ってごめんな。そんな猥褻な写真なんか撮ってないし、ましてやこんな所で公開なんかしねぇよ。でも、寝顔だけは……あまりにかわいかったからさ、ついあのとき撮っちゃってたんだ。ごめん」
 原告が言う。被告はただ立ち尽くしていた。
「この写真の背景に写ってるカレンダーや本棚は、すべて俺の部屋のものだ。疑わしいなら、家宅捜索に来てもらっても構わない」
 ゆっくり、咀嚼するように、原告は話した。被告は口を噤んでうつむいている。
「なるほど、そうですか」
 その声は被告の背後から突然聞こえた。被告が驚いて振り向くと、いつの間にか裁判官が後ろに回り込み、モナリザのような表情でスマートフォンの画面を覗いていた。
「とりあえずさきこ被告は、山下原告と、仕事上のサービスとしてでなく、その……体を重ねられたと、それは事実なんですね」
「し、してません、そんなこと……」
「では、さっきの慌て様は何ですか? 皆に見られたらとても恥ずかしい露わな姿になっていたということでしょう」
「ね、寝顔を晒されるのが恥ずかしかっただけです……」
「何をおっしゃいます。こんなにかわいい寝顔なら、恥ずかしがる必要はないじゃないで……」
「もう!! ばか!! ……分かりました!! あたしは山下さんの部屋に行って、山下さんに抱いてもらいました!! これでいい!?」
 それだけ言って、被告はまた席に着く。勢いよく投げやりに座ったため、スカートがめくれて太腿が露わになった。すかさず事務官が身を乗り出してそれを凝視しようとしたが、書記官に後ろ襟を掴まれて席へ引っ張られていった。
「はい、分かりました。ありがとうございます。先程までのお話では、さきこ被告は山下原告に、あくまでも仕事として接してきただけということでしたが、実際のところ、プライベートで山下原告に依存していた面もあったということですね」
 その質問に、被告はまたうつむき、何も言葉を返せなかった。
 法廷にしばしの沈黙が流れる。
 ややあって、見かねた原告が口を開いた。
「……えぇと、裁判官、待ってください。さきこちゃん……いや、すみません、さきこ被告は、確かに私の家へ来たこともあるし、私に思わせぶりなこともいっぱい言いましたけど、私に依存していたかというと、それは……」
「いいよ、山下さん。あなたほんとに優しいね」
 原告の話を遮るように、被告が言った。
「ごめんなさい、あたしから本当のことを言います。裁判官さんの言う通りです。あたしは、山下さんに依存していました」
 被告はまた立ち上がって、ゆっくりと話し始める。つい十数分前までの飄々とした態度が嘘のように、触れるだけで涙が溢れそうな表情になっていた。
「初めて山下さんがお店に来たときは、小太りのお兄さんという、それくらいの印象しかありませんでした。緊張してたのか、ほとんど何もしゃべってくれなかったし。リピートしてくれたときも、最初のうちは、なんか変な人に気に入られちゃったなぁとしか、思ってなかったんです。それでも、会うたびに、山下さんが少しずつ心を開いてくれてるのが分かって、無骨だけど純粋なところとか、あたしのために思ってること遠慮無く全部言ってくれるところとか、なんか素敵だなーと思って……、あたしの心は、気付けば山下さんに、頼るようになってしまいました。愚痴もいっぱい言ったし、相談もいっぱいしたし……、彼氏から“お前は俺の重荷でしかない”って言われた日には、泣きながら、山下さんの家にまで行ってしまいました。いっぱい甘えさせてもらって、山下さんの方がいいかもって、言ったこともあるし、本当は、思ったこともあります。だから、騙すつもりはありませんでした。でもやっぱり、結果的にあたしは、こういう答えを選んでしまったので、自分の行動や、言葉は、軽はずみだったところ、たくさんあると思います。そんなこと、本当は自分でも分かってたのに、いざ山下さんに訴えられてみると、自分の無責任さと向き合うのが怖くて……、つい、反発してしまいました。本当にばかで、子どもだったと思います。本当に、本当にごめんなさい……、以上です」
 潤んだ目を右手で拭い、左手でスカートのお尻を押さえながら、被告は席に着く。原告は、拳を強く握りながら、肩を震わせていた。今すぐにでも被告を抱きしめてやりたいのを、ぐっとこらえている様子だった。
「分かりました。さきこ被告、ありがとうございます。では、時間も迫ってきているので、そろそろ判決を出したいと思います。山下原告、さきこ被告、何か言い残したことはありませんか?」
 原告と被告が静かにうなずく。それを確認し、裁判官がまた口を開いた。
「被告は、原告のことを心の支えとしていた面があり、精神的にも肉体的にも原告に依存して、将来への期待を持たせてしまいました。また、それを自覚しながら、今回の裁判において、原告に証拠を出されるまで重要な事実を隠していたことも、判決においては不利に働きます。しかし、故意に原告を騙して搾取していた意図は感じられず、原告が自分の意思で被告の下へ通い、金銭を費やして、対価としてのサービスを受けてきたこともまた事実です。よって判決は、完全に私のさじ加減となり恐縮ですが、罰金請求額300万円の……6分の1である50万円を、被告が原告に支払う、ということにしたいと思います」
 誰もが耳を澄ませて、裁判官の言葉を聞いていた。
「異論はないですね?」
「……ありません」
 被告は答え、涙をこぼすまいとするように天を仰いだ。
「50万か。まぁ、申し分ないかな」
 原告はそう言うと、おもむろに足下へ置いていた鞄へ手を伸ばした。中から何かを取り出し、そのまま被告の方へ歩いてくる。
「……? 山下さん、これは……?」
 原告は、手に持った札束を被告の前に置き、さらにその札束の上へ、祝儀袋を一つ重ねた。
「俺からの結婚祝いです。ここに50万円と、そしてこの祝儀袋の中に5万円、合わせて55万円あります。どうか、受け取ってくだい」
 次から次へと起こる急展開に、被告は手品でも見せつけられているかのごとく呆気にとられた表情になっていたが、やがて、込み上げる感情に押されたかのように口を開いた。
「もう、ばか……、なんなのこれ……」
 被告の目から、たまりかねたように大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。彼女はもう、それをとめようとはしなかった。
「ばか、山下さんのばか。こんなことするんだったら、なんで最初から裁判なんて開いたの……」
「ごめんよ。今までのお金を返してもらうつもりなんて、最初からまったくなかった。でも、騙されて払った気でいるのは、俺も嫌だったからさ。さっきの判決で、50万円は返ってくることになったから、いま改めてその分を、あなたの幸せをお祝いするためのお金として、渡します。さきこちゃん、結婚おめでとう。お元気で、幸せにな。またどっかで偶然会ったら、楽しくお話でもしよう」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 またもや雄叫びをとどろかせ、事務官がその場に泣き崩れた。岩のようにうずくまっておいおい感動の涙を流し続ける事務官の後ろ襟を書記官が掴み、法廷の外へ引きずっていく。
 被告は、その様子を見て少し微笑んでから、原告の方へ向き直った。原告もいよいよ涙を流し、鼻水をすすっていた。
「ありがとう、山下さん。ほんとにありがとう。……こんなこと言っていいのか分からないけど、山下さんがいてくれたから、あたし、幸せになれたと思う。山下さんからたくさんのことをもらったのに、あたしは何もあげられなかったね。ごめんね」
「何を言ってるんだよ。さきこちゃんは俺を男にしてくれたじゃないか。特に、君が家に来てくれた、あの夜のことは忘れない。店でしてもらっていたお決まりの流れとは、何もかもが違っていて、熱く、とろけそうだった。俺はあのとき、やっと真の意味で童貞を捨てたんだと思ったよ」
「ちょっと、もう、ばか。何をこんなとこで、ばか、訴えるよ」
 和やかに話す二人の様子を、裁判官はまたモナリザのような表情で見守っていた。
「被告と原告、良いコンビだよね。あの二人で結婚しちゃえばいいのに、って思うんだけど。駄目なのかな」
「人には人の、事情があるものです」
 議事録をタイピングしながら答える書記官の顔にも、ほんの一瞬だけ頬笑みが差したように見えた。
「ところで書記官は、どのセックスフレンドと結婚するつもりなの?」
「黙秘権を行使させていただきます」
 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリという、けたたましいベルの音が法廷に響いた。
「お、始発の時間だ。では、私は10時からバイトがあるので、帰って仮眠を取ります。あとは書記官、判決通りに手続きを頼みますね。それと、いつもどおり事務官に机の搬入をお願いしといてください」
「あのなぁ、どのタイミングで聞こうかずっと迷っていたんだが……」
 原告が、今にも立ち去ろうとしている裁判官に言う。
「何故そもそも、裁判を深夜にやるんだ? それに、なんで法廷が屋外なんだよ」
 白いベールのような朝の光が静かに差し込む。郊外にある簡易裁判所のすぐ傍を流れる川、その幅の広い川べりは、日中は犬の散歩をする人などで賑わうが、この時間帯はまだ誰も歩いていない。そこに机と椅子を並べて、四方を進入禁止のロープで囲み、無理やり法廷の体裁を作っている。夜間、そこを照らしてくれるのは、一本の街灯の明かりだけだ。
「原告、そりゃあなた、そもそも最低裁判所を開く目的は、上位の裁判所の法廷が埋まっちゃうのを防ぐためなんだから、既存の法廷は使えませんよ。かと言って、日中に外でやると、野次馬がうるさ過ぎますからね」
「じゃあ、せめて夜中の法廷でやるというのは?」
「節電が謳われているこのご時世、それはできません」
 原告の質問に答えながら、裁判官はすでに法服を脱ぎ、TシャツとGパン姿になっていた。
「なんか、納得できるような、全然できないような……」
「納得いただかなくても結構! そういう決まりなんです! 気が向いたら、またいつでも最低裁判所にいらっしゃい。それでは私、ケツカッチンなんで帰りまーす。さようなら!」
 川べりを駅の方面へ向かって、法服を肩にかけた裁判官が走っていく。その姿を原告は難しい顔で眺めていたが、振り向くと被告が笑っていることに気付き、原告もまた頬を緩めた。聞こえるのは、キーボードを小気味よくタイプする音と、どこからか微かに響く、安らかな寝息の音だけだった。
 
 
 

最低裁判所

最低裁判所

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-06

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