それははじまりに関係するようです。
・これは実際にあったクトゥルフ神話TRPGの後日談を小説として書き起こしたものです。何卒。
これはすべての始まる話。
『それははじまりに過ぎないようです』
世界に死ねと言われたその日の話。
◇
夏の夜は、短いくせにどこまでも深い。夜闇の暗さに手を浸す様に掲げた手の平さえ曖昧で、自分を見失いそうになる。
読季のこはしばらく自分の手をしばらく横になったまま見上げ、ぱたりと手を降ろすと天井を無言のまま見つめた。
武家屋敷のような巨大な和風建築の一室である客間は何処までも暗い。背の低い机や傘を被った電灯の影すら、夜闇に慣れた目で凝視しても見透かすことすらできないのだ。まるで深海を連想させるほど、暗く冷たく凍った部屋。ただふすまの隙間から、細く一条の光が差し込んでいる。そんな部屋の中、丁度手が通る程度の細さに開け放たれたふすまの傍に置いた座椅子にもたれかかるようにしてクラスメートである月見里羽月はじっと外を見ていた。
夜闇に溶けるような群青色の髪と瞳に、輪郭を浮き彫りにしてみせる白地の肌。異性よりかは同性を、先輩よりかは同年代や後輩を惹きつける自信に満ちた整った美貌。それこそこうやって眺めているだけでもすべての要素に置いてある程度目の保養になる凛とした佇まい。それはすべてにおいて彼女に負けているつもりが無いのこだとしても認めざるを得ない事実で。
そこまで考えて、のこは思考を止める。どれだけ考えても今日は空回りするだけだ。
その代わりに。視線一つこちらに寄越してくれない彼女に、一つ言葉を投げた。
「なぁ、羽月」
「うん?」
「もしも、世界の存続のために死ねって言われたら……どうする?」
羽月は驚くほど緩やかな動作で振り返り、夜空色の双眸でのこを見据える。溺れそうなほど深い蒼の瞳。のこは、心の底から羽月の目が苦手だった。全てを見透かされているような、そんな居心地の悪い感触がするのだ。同様に彼女の双子の弟の夕月はもっと苦手だ。
あくまで視線はそらしたまま、問いかけに対するこたえを待つのこに羽月はしばし黙考した末に結論を出す。
「世界だとか、そんな物のために死ねって言われてもそんなのクソ喰らえだな。俺は俺のために生きてるんだ。それを邪魔する権利なんてその他大勢にあってたまるか」
酷く自信ありげに。そのくせ、どこか虚勢を張ったような表情で羽月は笑う。仄白い月明かりに照らされた表情は、影が多すぎて思考の余白が読めなかった。
ごろり、と床を転がってのこは身を起こすと床に座りなおし、再び淡々と問いかける。
「じゃあさ……大切な奴の為に死ねって……言われたら、どうする?」
「……それ、夕月の事でも言いたいのか?」
羽月は数秒じっとのこの表情を覗き込み、再び視線をそらして月を見上げる。広大すぎる日本庭園を望む縁側に面した部屋の扉からは、音一つしない裏庭が一望できた。
嫌に静かな夜だった。星は燃え尽きる寸前の線香花火の様に瞬き、やや欠けた歪な月が暗い街にさらに影を落とす。
きいきいとどこかで何かが軋む音と風の音以外何も聞こえやしない。まるで世界から切り離されたかのような感覚。むしろきっとそうなのだろう。夜に取り残された二人はこの世界で二人きりなのだから。
「俺はあいつが俺の死を望むならいつでも死ねるよ。今までずっとそういう風に生きて来た」
感情を殺して羽月は淡々と謳う。それはもはや呪いだ。怨嗟の言葉とすら言ってもいいだろう。微かに丸く見開かれたのこの感情の奥を覗かないよう、目を反らしたまま羽月は口の端を軽く持ち上げ目を閉じる。脳裏をよぎるのは、当然の様に弟の事だ。
この世でたった一人の血を分けた肉親。同じ顔を持ったたった一人の片割れ。そして。羽月自身の、影。
光が無ければ影は生まれない。影が無ければ光はわからない。もともと羽月と夕月は生まれた時からそう言うものだった。同じ姉弟で。この世で二人きりの家族で、たすけ合うべき存在。そんなもの、ただの幻想だ。
……アナウンスが流れてから弟の姿を見ていないが、生きているのだろうか。いや、まだきっとどこかで生きているのだろう。何故だか知らないが、直感がそう語っていた。色々と欠損して破綻してこそいるが、この程度で死ぬほど脆くはないだろう。そう知っていたはずなのに、目を離せば消えてしまいそうで不安だったあの頃は一体何に取りつかれていたのだろうと自嘲する。
夕月が死のうが何も感じない? それは嘘ではないだろう。
殺したいとすら思ったことがあるのだから。それがきっと罪。
「……私には、そんな勇気、無い」
のこは羽月の横顔から目を反らし、小さくそう呟く。そんな事、割り切れるはずがなかった。
世界の事なんてどうだっていい。ただ、自分が生きていることが罪で、そのせいで失いたくないと思ったものが消えてしまうなら当然のように死ねるつもりだった。だけれど、やはり怖い。死は虚無だ。そこで終焉だ。それ以上に、他人に自分の死を負わせることが嫌だった。
思い出すことは悪夢ばかり。羽月はわかっていない。死がどれだけ人を狂わせるかを。全てを破壊するかを。
それはおそらく、彼女が心の奥底で死を願っているからだろう。その一点においてのこと羽月は永遠に相いれることの無い運命だった。
「じゃあ、逆に質問だ。もしも大切な人に『殺してくれ』、と言われたらお前はどうする?」
羽月はわずかに首を傾げるようにしてのこの方を見る。陰影に沈んだ物憂げな表情。しかしその瞳には一欠けらの光もなく、深海のような色だ。
「……わからない」
のこはしばし迷った末に、そう答える。
そんなもの、わかるわけがない。
ただ。私がもしも『殺してくれ』と言ったなら、あいつは私を殺すだろうか。
いや、殺すだろう。間違いなくだ。だがそれこそ許されない行為だ。自分の死の責任を他人に押し付けて、自死の恐怖から逃げる最低な行為だ。だからこそわからない。私は、それに直面した時に。その責任を負いきれるだろうか。
「俺は殺すよ」
答えを出すことそのものすら躊躇うのこを羽月は凝視したのちに、ぽつりと簡潔に呟いた。それがさも当然のことで、呼吸をするかのように。
「今まで、ずっとそういう風に生きて来た」
言葉を無くして呆然とするのこに語り掛けるように。あるいは自分に言い聞かせて戒めるように、羽月は同じ言葉を繰り返す。
それは至極当たり前のこと。『殺してくれ』なんて懇願されたって、普通のニンゲンは殺せるような神経なんて持ち合わせていない。様々な感情の間で揺れ動き、選択を放棄し逃避する。それが普通で当たり前だ。
でもそれじゃあ懇願したやつがあまりにも救われない。だったら自分がやるしかない。他人に出来ないことをやる。他人が出来ないからやる。他人が決められないなら決めてやる。
その責任も全て負ってやる。後悔するくらいなら選択した俺を恨めばいい。それでみんなが救われると言うのなら、俺はそれでいい。
言葉に出さないまま、全てを語るようにのこをじっと見る。
つまり、羽月が言いたいのはこう言うこと。
“死にたくてもその勇気が無いなら、その瞬間は俺が手を汚してやる”と。
それなら自分自身を憎む必要はない。誰もかれもが被害者で、加害者は一人しか存在しないハッピーエンドだ。
全てを汲んでしまったのこは、細く小さくため息をつく。奇妙な責任感に縛られた、偶像。それが羽月の正体だ。
「……たとえそれで、全部壊れるとしても?」
「悪が一人だけならそれは必要悪だ。むしろこれでハッピーエンドだろう?」
そう言って、彼女は虚無的に笑う。諦観と絶望に何もかもを蝕まれた、凍えるほどに冷たい笑み。
人が人を殺す。殺したヒトは悪になる。殺された人はそいつを憎むかもしれない。けれど死にたいと願っていたなら感謝するのだろう。どちらにせよ、殺されたやつを大切にしていた人は殺したヒトを憎む。殺したいとすら願う。たとえ殺された人が死を望んでいて感謝していても、お構いなしに憎む。喪失感と絶望を怒りに変え、目をそらすように殺意だけで駆動する。人間は、そう言う生き物だ。
殺す。殺し返す。人は死ぬ。殺して、殺されて。そうして人は死んでいく。
そこに積みあがった悪にどんな感情があろうと、絶望からは一歩たりとも抜け出せない。
だが羽月をそれを壊す。お構いなしに根底からひっくり返す。
自分一人憎まれてそれですべてが丸く収まるなら、それで構わないと。
世界中の悪意を集めたって構わないと。
全てを失ってもそれは大したことではないと。
「んなわけあるか。あんたがいなくなったら、」
のこは感情的に言葉を吐き出しかけて、最後の一言を飲み込む。
あんたがいなくなったら、クラスの連中はどうなるんだ。と。
月見里羽月。文武両道、才色兼備。リーダーとしての天性の素質となんでもソツなくこなしてみせる要領の良さ。好かれこそすれ嫌われることの少ない、人が欲しがるものを何もかも手に入れて見せた天才児。
努力だけでここまで這い上がったのこからすれば、才能の二文字で何もかもをたたきつぶす彼女のような人間は大嫌いだった。そう思っていたはずだった。
だが、やはり。どうしようもなくのこが心の奥底で「お人好し」と罵倒しながら、どこかで憎み、どこかで嫉妬しているのに一線を踏み越えられない。羽月はそう言うどうしようもない人間だった。自分に刃物を向けた人間を相手にしても、無邪気に、無防備に歩み寄る。そして相手の底まで覗き込んで、勝手に世話を焼く。どれだけの悪意を向けられようとそれを越える狂気じみた寛容さで全てを飲み干してしまう。
彼女はそんな、どうしようもない人間なのだから。
何を言ったって。何を語ったって。通じない。届かない。
どんな言葉ですら飲み干してしまうから、深奥まで届かないんだ。
「別に。リーダーってのはな、突出してできることが無い人間のやる仕事なんだ。いくらでも代わりはいるさ」
「……あんた、あほか」
さすがにこればかりは、心の奥底からあきれを覚えた。
同時にのこは羽月と言う人間の異常性を本当の意味で理解する。
彼女は何でもよくできる。その反面、心の中では何もできないと思っているのだ。
何でもできると言う事は突出してできることが無いと言う事。平均値は誰よりも高いのに、飛び抜けてできるものが無いせいで彼女は自分が何もできない無価値な人間だと思い込んでいるのだ。
誰よりも才能に恵まれながら、才能を自覚する能力に恵まれなかった。それが彼女の一番の致命的な欠陥だ。
余りの彼女のアホさ具合に、さすがに怒ってやろうとのこは口を開きかけて。
「……俺の居場所なんてさ。どこにも、無い気がするんだ」
羽月は、のこから目をそらすように月を見上げたままそう小さな声で呟いた。
このまま夜闇に呑まれて潰えてしまいそうなほど小さな声。
皮肉なんかじゃない。自虐ですらない。いや、むしろ自虐であった方がどれだけましだったことやら。彼女は、本気で。心の奥底から、自分がこの世界に必要ないと思っているのだ。
「本当に、ばかだろ。あんたは」
心の奥底から吐き出した侮蔑すら、届かない。
のこは一つため息をつくと、抱えた膝に両頬を埋めるように俯く。
蘇るのは思い出したくもないことばかり。全てを押し殺すように、のこは眉間に皺を寄せたままそいつと真っ向から対峙する。
薄く月光に照らされた部屋の隅。拭ってもぬぐいきれない暗闇の中に、少女が一人立っている。弱虫で、臆病で。どうしようもないくらい弱いくせに、世界を見限った顔で何もかもを見下していた愚かな少女が。何もかもを失う現実すら知らずに狭い世界をすべて見尽くしてきたような彼女の嘲笑を、じっと睨み返す。
そう。余りにも、愚かで。弱くて、どうしようもない。でも今の自分は彼女とどう違う? 少し強くなっただけで、周囲を見限ったような風を気取っている態度は何一つ変わっていない。確かに頭はいいかもしれない。戦えるかもしれない。でも、それだけのものを持って一体何ができる?
羽月ほど何でもできるわけじゃない。
九十九ほど人を信じられるわけでもない。
古野ほど心が強いわけでもない。
虚飾で何もかもを塗り潰して、強いふりをして。そんな嘘の積み重ねの結果が、この前の事件だ。
なんて、無様な。
「……じゃあ、さ。私が殺してくれって言ったら、あんたは殺せるのか?」
そして。何も届かなかったからこそ、最後の言葉を口にした。
羽月は驚くほど緩慢な動作で。まるで中身がそっくり機械になってしまったかのような無機質な動作で振り返り、口の端だけを持ち上げて笑う。
「それ、本気か?」
能面のような薄っぺらい笑みを浮かべて、羽月は首をわずかに傾ける。白い顔の奥で闇色の瞳は、光一つ刺さないほど昏い色でのこを見据えていた。それは普段の軽薄で明るい表情からは想像できないほどの凄絶な無感情。暗闇に輪郭すら融かす様に。あるいは機械そのもののように。彼女は絶望的なまでの狂気を持って、のこの言葉に対峙する。
そして。のこは、そんな彼女の様子に抱いた恐怖を振り払うように、ぎこちなく首を縦に振った。
次の瞬間、羽月は獣じみた動きで弾けるようにその場から跳躍し左手だけでのこを地面へと叩き伏せ、スカートの下に隠されていたナイフを右手だけで引き抜くとのこの喉に突きつける。余りの早業に声も出ない。のこは自分の喉に軽く触れるナイフの切っ先と、ガラス玉を思わせるほど感情の亡い羽月の瞳を見比べて虚ろに笑う。
「はは……何だよ、反則だろ……全然見えなかったぞ」
「さぁな……。で、ここで死ぬか?」
ぎり、とのこの襟首を掴んで拘束する左手に力がこもる。純粋な力負けなら負けるはずがないのに振りほどけそうにない。
乾いた笑みが自然と喉の奥から零れた。なんて、滅茶苦茶な。感情だけでどんな力量差もひっくり返す。叩きつぶす。それはある意味、のこが最も欲していたもの。絶望も憤怒も何もかもを暴発させ、何もかもを捻じ曲げる。それはゾッとするほどの執念で。ある意味、呪いとも言えた。
それが絶望の二文字の壁すらも破壊する、彼女の暴力的な才能の正体だ。
「そうして、欲しいなら。お望み通り、今、ここで殺してやる」
一言一言を絞り出すように、羽月は淡々と言葉を紡ぐ。のこは羽月の目を直視したまま視線一つ反らせない。無感情にすべてを押し殺した瞳。光一粒届かないような深い深海の瞳。何故だろう。その無感情な瞳の奥底に、底の知れないほどの悲哀を見た気がして。
ナイフを突きつけられ、命運を羽月に握られたままのこは小さく嘆息した。悲哀とも、憤怒とも。あるいは憐憫とも取れない感情の波にただ下唇を噛んで耐える。それはもしかしたら単なる同情なのかもしれない。
「…………、」
そして、沈黙。
これはすべての始まる話。
それははじまりに関係するようです。
読季のこ:NPC
月見里羽月:NPC
収録日:無し
サムネイルは(c)安野譲 様からお借りしました。