プライド

「急に呼び出して、ご免なさいね」
「何時、出て来たの?」
「一昨日よ。おひげなんか生やしているからびっくりしたわ」
「ハハ・・・・」
 薄く短かく刈り込んだ口ひげと、もみあげからの顎ひげを、しみじみ眺めていう。
「大学の先生らしく、貫禄があるけれど、老けて見えるわ」
「そうか? いくつ位に見える?」
 老けているといわれて、満足だ。そのために生やしたひげだ。
「そうね。私達の年齢より、四、五歳は、上に見えるわね」
「四十歳位か?」
 もっと、年嵩に見て欲しい位だ。
「君は、若々しくて、奇麗だよ」
「ありがと。お世辞が上手になったわね。体重が増えて困っているのよ」
 と、ふっくらとした身体を揺する。細かった学生の頃と違って、淡いブルーのワンピースが、品よく似合っている。
「このお店、覚えている?」
 いたずらっぽい目をする。
「ふふ・・・」
 甘酸っぱい記憶が、頭を持ち上げる。あれから、十年余りか! 
 食べているビフテキも、あの時と同じメニューだ。
 この特別室も、余り、変わっていない。老舗のレストランらしく、落ち着いた洋室だ。
 卓上の盛り花は、当時と違うが、彩りの鮮やかな薔薇が活けてある。
 柔らかいクラシックの音色が心地よい。
 店の方は、すっかり、様変わりしている。
 内装が、明るく大衆的だ。
 流れるテンポの速い軽快な曲は、若者向きだ。
 唯、季節が違う。
 珍しく雪の降った、肌寒い日の夕方だった。
 今は丁度、昼食時だ。
 出入りする客は、初夏の装いだ。
 食事が済み、コーヒーを飲む。
「結婚しているの?」
「いや、独りだ」
「そう・・・」
 やはりといいかけて、言葉を飲み込む。
 学生時代は、快活なひとだったのに、元気がない。身の上に何があったのだろうか?
「実はね。高校時代の友達の結婚式に招待されたの」  
 祝辞を頼まれたので、上京したのだという。
「壮観だったわ! 新郎、新婦の後から、高校生の男の子を先頭に、幼稚園の女の子達、五人の子供達が、赤いカーネーションの花を一本ずつ持って続いてね」
 と、おかしそうに笑う。
「あのプライドの高い彼女の結婚相手が、町工場のような小さな会社の、高卒の四十二歳の溶接工なの」
「初め聞いた時、何度も聞き返した位よ。おまけに、五人の子持ちでしょ。ビックリしたわ!」
 友達と高校は同じだが、大学は違っている。
 日頃から、私以上に社会的に活動して、私以上に高収入のあるイケメンでないと、結婚しないと云っていた。
 デパートに輸入雑貨の店を出し、男性並みに活躍している彼女だ。
「理想が高いのはもっともだと、理解していたけれど、現実の結婚相手との、あまりの落差に驚いたのよ」
 又、大きな声で笑う。
「いろいろな形の結婚があっても、不思議ないさ」
 と、軽く受け流す。
 ハンディを超えて、結婚した二人が羨ましい!
 久し振りに逢った、大学の同期生の話を黙って聞く・・・

 仕事の都合で、外食が多いが、その日は珍しく、夕食を自分で作る気になり、住まいのマンションに近いスーパーに寄ったという。
 食料売り場に行くつもりで,衣料コーナーの横を通りかかると、黒いダウンジャケット姿の中年男性が、目に止まった。 
初めは、万引きかと思ったという。
「キョロキョロ、辺りを見回してね。衣料売り場を、うろうろと歩き回っているの」
「でも、よく見ていると、何か捜し物をしているのね」
 好奇心から、
「何をお探しですの?」
 と、声を掛けた。
「子供の・・・女の子の下着を捜しているんですが、どこに置いてあるのか分からなくて・・」
 と、当惑している。
「女の子の? 子供の下着類なら、あそこですよ」
 と、二つ先の売り場を指差す。
「あッ! さっき通ったところだ!」
 と、照れる。
 いろいろと、並べてある台に行き、女の子のパンツを取り上げ、首を傾げて置き、又、違ったのを取り上げる。
 そんなことを二、三回、繰り返しているのを見て、傍に寄って行く。
「おいくつ位のお子さん?」
「四歳と小学一年生です」
「四歳と小学一年生の女の子なら、これ位のサイズね」
 レースのかわい飾りの付いたキャミソールや、パンツを手早く見付けて、手渡す。
「お子さんが気に入ったら、洗い替えを買って上げるといいですよ」
「済みません。有難う!」
 と、嬉しそうにカゴに入れるのを見て
「子供の物など、奥さんに任せておけばいいのに・・・」
 と、つい、余計なことが口から出た。
「家内は、下の子が生まれて間もなく、亡くなりました。それから、自分が子育てと、家事をやっています。ハハ・・・」
 豪快に笑う。少しも暗い感じがしない。
「家内が、安売りのセールで買いためしてあった子供達の下着類が、小さくなったり、古くなったりして、子供が文句をいうのです。男の子達は、自分の好きな物を買ってくるので、助かるのですが、女の子は、まだ、自分が世話をしないと駄目ですのでね」
「奥さんはお亡くなりになったのですか? 悪いことを聞いてご免なさい」
 これが、彼と知り合った、きっかけだったという。
 何時も仕事の帰りに、夕食の材料を買いに、自宅近くのこのスーパーに寄るのだといった。
 がっしりした体格なのに、頼り気ない様子で、子供の下着を捜している相手が妙に気になった。
「遅くなると、値引きがあるので、助かります。何より、食べ盛りの子供達ですからね。質より量の方を喜ぶんですよ。ハハ・・・」 
 と、明るく笑う。
 聞くと、高校生を頭に、男の子が三人と、女の子が二人いるといった。
「随分、頑張ったのね」
 と、大笑いすると、
「自分も家内も子供が好きで、つい、次々と生まれて・・・」
 と、はにかむ。
 仕事を終えて、マンションに帰っても、待つ人がいない。
 遅く帰っても叱る人もいない。
 独り身の気楽さだ。
 時々、スーパーに行くようになる。
 大体、相手が買い物にくる時間帯は分かっている。
「又、逢いましたね」
 と、逢えば、嬉しそうな笑顔をする。
「からあげと、サラダがお安くなっているわ。きっと、お子さん達、喜びますよ」
 と、つい、おっせかいをやく。
 今日は、店の従業員達と、新しい商品を仕入れる話合いで遅くなった。
 何時もなら、外で食事を済ませて、帰宅するのだが、スーパーの駐車場に、彼のワゴン車が置いてあった。
 車を止めて中に入る。
 惣菜コーナーに直行する。
 居た! 何時ものジャケット姿でなく、作業服で、牛肉のパックを両手に持ち、考え込んでいる。
「今晩は!」
 と、声を掛ける。
「あッ! 今晩は。今夜は、カレーにしようと子供達にいってありますのでね」
 といって、両手に持っていた牛肉のパックを二つ共、思い切ったようにカゴに入れる。 
「面倒な仕事が回ってきましてね。子供が待っているので、退社時間に帰りたかったのですが、社長に頼まれると、断れなくなるんですよ。ハハ・・・」 
 と、快活に笑う。
 機械部品メーカーの下請け会社なので、納品期日に間に合わせないと、社長が困るので、つい、残業をするようになるという。
 自分を信頼して、難しい仕事を任せる社長は、母親の無い子供達に、気を配ってくれるので、自分も出来る限り、協力するようにしているといった。
 仕事に対する自信故か、汚れた作業服から、オーラが出ている。
 胸幅の広い逞しい身体、短髪に、太い眉、引き締まった口許、男らしい!
 自分が相手に関心を持ったことが、今、分かる。
 いきなり、カゴから、二つのパックを取り出すと、もとの場所に置く。
 上等の牛肉のパックを、パッパツと五つ、カゴに投げ込む。
「そんなに沢山、駄目です!」
 慌てて止める。
「いいのよ。私がご馳走するわ。今夜、お宅で子供さん達と、すき焼きパーティーをしない? お邪魔していいでしょ?」
「構いませんがー」
 ビックリするが、嬉しそうだ。
 カゴを取り上げると、先になり、すき焼きの材料を揃えて、レジに運ぶ。
 外に出る。
 風が吹いている。
 師走月半ばだ。
 作業服姿が寒そうだ。
 コートの上に掛けていた、グリーン色に花模様のストールを、首に巻き付けてやる。
 顔を赤くする。
 途中で、マンションに、自分の乗用車を置いて、彼のワゴン車に乗り込む。
 マンションより二キロ程先の、住宅街に自宅があった。
 柊の垣根に囲まれた二階建てだ。
 庭が広い。
 玄関に、電灯が点いている。
 女の子達が走ってくる。
「只今、急ぎの仕事があってね。遅くなった」
 父親の後から入って来た見知らぬ女のひとに、子供達は、目を丸くする。
 居間に落ち着く。
「お客さんに、ご挨拶をしなさい」
 父親程、背丈のある一番上の高校生が、
「今晩は!」
 と、頭を下げる。
「おばさん、こんばんは!」
 弟達に続いて
「おばちゃん!」
 と、小さい妹ふたりが擦り寄る。
 おばさん? と呼ばれて驚く。
 生まれて初めて、おばさんといわれたのだ。
 自分はそんなに年取って見えたのか?
 ショックだった。 
顔色の変わったのに、気付いた父親は、
「コラ! 失礼だぞ! おばさんではないだろう? おねえさんとお呼びしなさい」
 と、叱責する。
「ゴメン! おねえさん、いらっしゃい、エへへ・・・」
 男の子達は、なんのてらいもなく、大声を上げて笑う。
 家の中は、母親のいない家庭なのに、割合、整頓されていた。
 居間は広く、片隅に、机と本箱がおいてある。
 機械や溶接の仕事関係の本の他、趣味なのだろうか、拳法の本などが並べてある。
 上の男の子達は、すき焼きを手順よく、父親と一緒に手伝う。
「こんなやわらかい肉、初めてだよ!」
「めっちゃ、うまァ!」
 男の子達は、はしゃぎながら、忙しそうに箸を動かす。
「おねえちゃん、おいしい!」
「おにく! おにく!」
 と、下の女の子は、傍から離れない。
「熱いから、ゆっくり食べるのよ」
 と、いって、口に運んでやる。
 子供達と初体面なのに、何時の間にか母親のような気持ちになっている。
 父親は恐縮する。


 後片付けを、子供達と賑やかに済ませて、父親の運転する車で帰宅する。
 もう遅いからと遠慮するのを、無理に部屋に招く。
「何か食べる?」
「いや、結構です。済みませんでした」
 五パックの牛肉は、ほとんど、子供達が食べた。
 急いで、ご飯を炊く。
「お茶漬けよ」
 たくあんと奈良漬を出し、牛缶をあける。
「すき焼きをして、缶詰をあけるとはね」
「ハハ・・・」 
 顔を見合わせて笑う。
「久し振りだなあ! あつあつのお茶漬けを食べるのはー」
 と、感無量になる。
 食後、くつろぎながら、家庭の事情を聞いたという。
「私のお話、面白くない?」
 頷くだけで、何時迄も黙っている。
 ひげを生やし、老けて見えるせいか、再会のときから憂鬱げだった。
 友達の結婚話などより、昔に返り、ひとときの感傷にひたりかった・・
 だが、目は合わせない。
 何か悩みでもがあるのだろうか? 
「ワイン、飲んでいい?」
「いいよ。君を送るつもりで車で来ているからね。自分は飲まないけれど・・・」
「ありがと。あなたも何か注文したら?」
「そうだね、果物でも貰おうか」
 ワインと、フルーツの盛り合わせが運ばれる。
 あの時も、二人でワインを飲んでいた。
 甘口のワインが苦い。
 二人で過ごした夜が、切なく思い出される・・・
 涙が出そうだ。
「食べる?」
 メロンを、口に入れてくれる。
 優しさは変わらないのに、もう、遠い人だ。

 兄が一人いるが、父親が早く亡くなったので、高校を卒業すると、父のもと勤めていた会社に就職した。
 町工場のような機械部品メーカーの下請け会社だ。
 職人上がりの社長にしっかり、技術を教え込まれる。
 今では、難しい部品を持ち込まれても、納入期日迄には、必ず仕上げるという。
 彼が、仕事の話をすると、パワーを感じる。
 同じ会社の女事務員と結婚した。
 妻も自分も、子供が好きなので、五人も子供が生まれたといった。
「また随分、頑張ったのね」
 と、笑うと、照れる。
「初めは、男の子が三人つつ゜けて生まれたので、もう、いいと思ったんですよ」
 女の子が、欲しいというので、おくれて女の子に恵まれたが、一人では可哀相だといって、二人目の女の子が生まれた。
 妻が仕事をつづけたのと、会社が厚遇してくれているのとで子供達のために、広い庭と部屋数のある家を建てる。
 時々、頭が痛いといっていた妻が、突然、洗濯物を干している途中で倒れた。
 幸い、日曜日で自分が家にいたので、救急車で病院に運んだが、意識は戻らなかった。
 脳内出血だった。
 下の女の子が初誕生日を迎えたばかりで、途方にくれたが、社長や、同僚達が何かと助けてくれるので、仕事と子育てが両立出来るのだという。
「ただ、道場に通う時間が、余りありませんでね」
 溜息をつく。
「道場?」
「高校の時から、拳法をやっているんですよ」
 がっしりした身体は、拳法をしているせいだったのか?
 居間の本箱に、拳法の本が並んであったことを思い出す。
 「今では、六段の資格を持ち、高齢の道場主の代わりを務めていますが、下の女の子二人に手がかかるので、自由に、道場に行く時間がないんですよ」
 と、しょんぼりする。
「お弟子さんは、沢山いらっしゃやるの?」
「五十名近くいます。支部では大きい方です。道場主が人格者なので、慕って入門する者が多いんです」
 以前は、休日や、夜のあいた時間を利用して、子供達も一緒に道場に通っていた。
 上三人の男の子は有段者だ。
「小学一年の女の子も五級の資格を取っています。まだ、幼稚園の末娘の方は、見習いの段階で、稽古をしていますけれどね」
「弟子達と練習をしている時が、一番の息抜きです。ハハ・・・」 
 笑うと、目が細くなる。
 咄嗟に、頭に閃めくー
 このひとと、結婚しよう!
 学歴なんか、どうでもいい。
 金が無くてもいい。
 真面目に、自分の仕事に自信を持ち、心身共に打ち込めるものを持った男!
 今迄、こんな純朴な男性に逢ったことが無い。
「結婚しない?」
 いきなりいう。
「結婚? 誰が?」
「私達よ!」
「冗談をいっている。ハハ・・・」
大声で笑い出す。
「本気よ! 五人の子供のママになって上げる」
 真剣な顔だ。
「あなた程のひとが、自分などと・・・」
 表情が堅くなる。
「お仕事を辞めなさいよ。そのかわり、私が働くわ。店の成績が順調にのびているの。私の方が収入が多いわ。あなたは、家の事をして、好きな拳法をしなさいな」
「・・・・・」
 沈黙がつづく。
「・・・突然、仕事を辞めろといわれても・・・再婚するとなれば、子供達の意見も聞かなくてはなりませんからね」
「会社の方も、社長の了解を貰わないと・・・それに・・・」
 口ごもる。
「それに? まだ、理由があるの?」
「家のローンも、大分残っていますのでね」
「私に、すべてを任せなさいよ。問題は、あなたの気持ちよ。私が好き? 嫌い?}
「嫌いなんて・・・あまり、急な話なのでー」
 と、下を向く。
 気弱な態度が、若者のようだと心中、おかしくなる。

 大学を卒業して、デパートに、海外のブランド品を販売するテナント店に就職した。
 資産家の中年夫婦が、趣味で始めた店だ。自分の好みにこだわるせいか、経営が思わしくない。
 気苦労の多い商売なんかやめて、二人で世界一周の旅行でもして、のんびり暮らしたいと、いい出して、廃業するといった。
 いろいろと助言して、持ちこたえていた店だが、方針をかえれば、将来性があると考えて、テナントの権利を譲り受ける。
 前と同じく、ブランド物も扱うが、年齢に関係なく、幼児からシニア迄、客層を広げた。
 贈答品や、若者向きのプレゼント用や、珍しい日用品など、気軽に外国製を楽しめるように、品数を多くした。
 この方針が当たり、今では、固定客もついている。
 デパートの中の店舗なので、日曜、祭日は休めない。
 むしろ、こういう日こそ、店の売り上げ時だ。
 五人いる従業員は、交代で忙しく働いている。
 自分が休みなしで働けるのも、、健康だからだと思う。
 独身で、派手に暮らしているようでも、健全な生活設計をたてている。
 それなりの貯金も出来、一生、未婚で過ごしても、金さえあれば、有料ホームに入れば、老後は安心だ。
 両親は亡くなったが、住んでいた土地付きの家を処分して、残された弟と、無事に大学を卒業出来た。
 弟は就職すると、まもなく、結婚したので、逢う機会は少なくなったが、正月と盆には、弟の家に行き、両親の墓参りをする。
 自分のことだけ考えていればいい。
 ブランド物を身に付け、はやばや、購入したマンションの部屋には、蘭や薔薇の花を飾り、高級な洋酒やワインを揃えて、誰にも煩わされず、好きなように暮らしている。
 ところが、
「おばさん!」
 と、高校生の男の子等から呼ばれて、三十六歳という年齢を思い知らされる。
 弟と二人で暮らしていたせいか、家庭の温かさを感じることはなかった。
 偶然、スーパーで知り合った中年男性に惹かれたのも、心のどこかに、年齢的な淋しさが芽生えていたのか?
 と、頭脳が分析する。
「おねえちゃん!」
 と、擦り寄り甘える小さな女の子の、可愛いらしいこと。
 男の子達の屈託ない親しさに、頼られる心地よさを味わう。
 過去に、数人の男性とつき合ったが、結婚に踏み込むだけの、充実感はなかった。
 それぞれ、きれいに終わっている。
 自分だけの幸せに満足していた、日常が色褪せた。
 誰にも頼らず、頼られない身軽さが空しく感じる・・・
「結婚しても、子供を作らなくてもいいわ。五人も子供がいるんですもの。今に、ゾロゾロと赤ん坊を生んでくれますからね。それより、扶養家族が出来たんですから、今以上に頑張って働かなくてはね」
 と、微笑む。
「君がそれ程迄に、決心してくれたのなら、自分も覚悟する。決して、失望させないからね」
 妻となる女を、胸に引き寄せ、
「有難う! 本当に有難う!」
 目を潤ませて、強く抱きしめる・・・

「退屈?」
 一杯目のワインは、勢よいよく、飲み干した。
 二杯目は、その儘だ。
「いや、君の友人夫婦を尊敬するよ」
 笑顔だが沈んでいる。
 気付かないふりをして、グラスを口に持ってゆく。
「クライマックスが素敵なの」

 行動が早かった。
 仕事の合間を見付けては、子供達と接触した。
 スーパーで、特安のパンツや下着類を、一ダースも買い込み
「パンツは、毎日替えるのよ」
 と、女の子にいう。
 前日、訪れた時、女の子達の下着が汚れていたのが、目についたからだ。
 男の子三人は、欲しいといっていた、スマートフォンを渡す。 
「約束してね。勉強が第一よ。君の希望の大学は難関で有名よ。しっかり、受験勉強をするのよ。スマホは休憩の時だけにしなさいね」
 長男の高校三年生は、母親が急死したのを残念がって、医学部を受験するといっている。
「君達も、しっかり、勉強しなさいね」 
 と、弟二人にいう。
 次男の高校一年生と、三男の中学二年生も、スマホを貰うと、
「サンキュ!」
 飛び上がって喜ぶー
 父親から、再婚話を聞かされた時、上三人は顔を見合わせた。
 すぐ、三男が
「もう、ごみ出しや、掃除をしなくていいんじゃん」 
 と、意気込む。
「食事の後の片付けも、洗濯物も、干したり、取り込んだりしなくていいんだね」
 と、次男が調子に乗る。
「雑用から開放されるのなら、賛成するよ」
 と、長男がいう。
「家のことは、お父さんが会社を辞めて、全部するからね。三人共、受験勉強をしっかりしなさい」
「生活のことは、心配しなくていい。デパートに、店を出しているので、向こうの方が収入が多いのでね」
 と、苦笑する。
今時の子供は、賢い。
 物事を損得で判断する。
「すげェーママ、大歓迎じゃん!」 

 マンションを手離して、同居する。
 女の子達は、余程、母親のいない生活が淋しかったのか、家にいる時は、
「ママ、ママ」
 といって、傍から離れない。
「こんな可愛い扶養家族が五人も出来たのですからね。一層、張りきらなくてはね」
 と、末娘の頭を撫でる。
「五人でないじゃん。六人だァ!」
 と、いう三男に、
「六人?ダーリンは扶養家族でないわよ。会社から、時々、仕事を頼まれるから、バイト位の収入はあるしね。それに、なんといっても、ダーリンは一家の大黒柱よ。ママの最大の協力者ですからね」
 と、胸を張る。
「ダーリン? エへへ・・」
 次男が、自分の頭をポンと叩いて、大笑いするー
 それから、男の子三人は、
「ママ、ダーリンがお呼びです」
「ダーリン、ママが呼んでいるよ」 
 と、新しい母親と、実の父親をからかう。
 子供達は、素直に育っている。
 余程、前の奥さんは聡明で優しい人だったのだと思う。
 女の子達は、今迄、父親と寝ていたので、今も、夫婦の寝室で眠る。やがて、自分の部屋で寝る時期がくる。
 夜遅く、男の子達の部屋の前を通ると、明かりが点いている。
 まだ、勉強しているのかと、感心してドアを開ける。
 ノックなどしない。親が入るのだ。
 遠慮はしない。
 兄弟は、スマホに夢中になっている。
「約束が違うじゃない?」
「ゴメン!止めるよ」
 慌てて、スマホをめいめいの机の引き出しにしまう。
「誰が勉強するの? 自分でしょ!」
「分かっている。ゴメン!」
「ゴメン!」
「頑張るよ!」
「ファイトよ、ファイト!」
 ビタッと、男の子達と両手を合わせる。
「ハイタッチ!」
 生みの母親の気持ちだ。
 背中が、ぞくぞくする程嬉しい。
「一ぺんに、五人の子持ちになったのですもの、幸せだわ!」            
 ベッドの中で夫にいう。
「有難う、自分もお陰で幸せだよ」
 抱き合って喜ぶ二人のシルエットが、スタンドのほのかな明かりに揺れる・・・

 すがすがしい新緑の映える五月初旬ー
 結婚式を上げる。
 社長が仲人だった。
 機械部品メーカーの下請け会社だ。面倒な部品でも、納入期日迄に仕上げる優秀な溶接工を失うのは、大きな痛手だ。
「難しい部品が君名指しで入った時は、応援に来て欲しい」
 と、社長にいわれて、席は会社に置いたままだ。
「いいひとに出会ったね。新しい出発だ。結婚式を上げたらいい」
 といって、社長は、仲人役を自ら引き受けた。
 披露宴には、兄一家と暮らしている老いた母親も、兄夫婦に支えられて出席した。
 新婦の弟夫婦も、出席している。弟夫婦は、嬉しそうに招待客の間を回って、挨拶をしている。
「圧巻は、披露宴の余興の時よ」
「新郎の拳法のお弟子さん達十人が、向かい合って、合掌して,基本稽古を披露した後ね」
 何時の間にかワインの量が少なくなっている。
 顔が、紅をさしたように赤い。
「新郎が、長男の息子さんと模範試合を終えて、合掌したときよ」
 グラスを置く。
 一息つく。
「突然、ウェイデングドレス姿の花嫁が、立ち上がって『格好いい!』と叫んで、大きな拍手をしたの。そしたら・・・」
「花婿さんが、親指をたてて、『ありがとう!』と、大きな声で答えたの」
 招待客が、一斉に立ち上がった。
「おめでとう!」の大合唱と拍手が、会場いっぱいに広がるー
 五人の子供達が、カーネーションの花を、次々、新しい母親に渡す。
「ママ、おめでとう!」
 念願の大学に入学した長男が、代表して、お辞儀をする。
「有難う。よろしくね」
 一人、一人を抱きしめる。
 新婦は、夫の母親に大きな花束を捧げて、頬ずりする。
「よくぞ、孫達の母親になって下さった・・・もう、思い残す事はない」
「お母さんは、嫁さんの手を握って、おい、おい泣きなさってね。お客さん達も貰い泣きしてね。本当に素晴らしい結婚式だったわ」
「プライドの高いキャリアウーマンの彼女でも、好きになった人には、あんなに、無邪気に可愛い女に変身するのね」
「立派な女性だね。男でも一家を背負うのが大変なのにね」
 と、感心するが、視線は違う方向だ。
 グラスを取る。
「もう、飲むのをやめなさい! 歩けなくなるよ」
 ワイングラスを取り上げる。
「あの時は、あなたも沢山飲んだわね」
 互いに足がふらつく程飲んだ。
 あの夜ー
「・・・・・」 黙って、リンゴをフォークにさして
「食べなさいよ」
 口に入れてくれる。
 自分も一切れ、口許に持ってゆく。
 フルーツ皿の果物は、少しも減っていない。
「相変わらず優しいのね」
 酔った目を向ける。
「思い出しても仕方ないさ」
 リンゴを噛んでいる。
「アバンチュールする?」
 目を見張る。
「結婚しているんだろう?」
「ふふ・・・あなたは、どうして結婚しないの?」
「・・・・・」
 また、無言だ。
 初めて、相手に選んだ人だった。
 大学の卒業記念に、同期生五、六人が集まり、お別れ会をこのレストランで開いた。
 明日から、皆、別々の道を歩む。
 互いに、感傷的になったり、激励し合ったりして散会したが、二人は連れになる。明日は、マンションを引き揚げて、郷里に帰る。
 外は、雪が降っていて、道路が白くなっている。
 首に、マフラを巻いただけの姿を見て、着ている半コートを脱ぎ、肩にかけてくれる。
 タクシーの乗り場迄、寄り添って歩く。
「暫く逢えないと思うわ。寄っていかない?」
 マンションの前迄見送って、再び、タクシーに乗り込もうとするのを呼びとめた。
 いわれるままに、部屋に上がる。
 家具付きのワンルームの片隅に、キャスター付きの大型スーツケースが置いてある。
 階下の自販機の缶コーヒーを、向かい合って飲む。
 彼は、指導教授のすすめで、大学院に進むが、自分は、郷里の東北に帰る。父親が、県知事に立候補したため、選挙運動を手伝うためだ。
 初めは、大学を卒業後も、東京で暮らすつもりだった。
 もしやという未練があったからだが、これから研究に集中するという言葉を聞いて、これ以上、進展がないと悟り、郷里に帰る決心をする。
 学生間で、噂はあった。
「こちらから誘うと、応じてくれるのよ。深く付き合うようになると、食事やお茶を一緒にする時は、今迄、割り勘だったのに、必ず、相手の分を払うのね。約束の時間にはくるし、帰りは、宿舎迄送ってくれるの。全く、ジェントルマンなのよ」
 けれど、深入りする前に
「結婚は、まだ、考えていないけれど、それでいいの?」
 という。
 付き合った数人の女子学生がいった。
「彼が好きで誘ったのだから『いいわよ』といったけれど、抱いてくれても
ムードがないのね」
「遊び友達位に思っているのかと思うと、結婚を心の隅に考えている自分が、なんだか、愛を請う女のように、惨めに思えて、自然と離れてしまうのね」
 別れたあとも、キャンパスで逢えば
「元気そうだね」
 と、笑顔で声を掛けてくれる。
「明るくて、優しいひとだと思っても、心の中に入っていけないのよ」
「付き合うのを止めても、余韻の残るひとなのね。今も好きだけど、結婚出来ないのなら仕方ないわ。でもね。将来、彼が心を開く相手は、どんな女性かなと、やはり気になるわ」 
 交際が終わったあとでも、未知の相手に羨望している。
 三年の時、文学部から理工科に転入したが、教授から前途を期待されていた。
 女子大生ばかりでなく、男の同期生達からも信頼されている。
 そんな彼を、ひそかに慕っていた。
 控え目で、消極的な自分を差別せず、話しかけてくれる彼を、特別に気に掛けてくれるのかと思うようになる。
 彼が一人で歩いていると、傍に寄って行く。
 大胆になる。
 進んで、接近するようになる。
 二人で、映画を見たり、食事をしたりして、よく逢うようになる。
 ただ、それだけだった。
「また、逢おうね」
 と、あっさり、何時も別れる。
 握手もしない。
 澄んだ目で、自分を見詰るだけだ。
 単なる友達に過ぎないのか?
「君が好きだ」
 と、いって欲しい!
「愛している」
 と、いってくれたら、すぐに、胸に飛び込んでゆけるのに・・・
 女は、男から愛しているといわれて、初めて、幸せを感じる。
 どんな好きな相手でも、自分から愛しているというのは嫌だと、潔癖な迄にこだわる自分は、高慢なのか、それとも、女のプライドなのか?
 何度、心の中で問答したことだろう?
「これからは、医療機器の開発に集中するつもりだ。特に、医療ロボットの研究に力を入れたい」 
 と、ふと、もらした言葉に、彼への思いを断ち切った。
 今、目の前に沈黙している彼は、出身大学の准教授だ。
 ワインも飲まず、果物も食べず、二人は、テーブルの上の薔薇を眺めている。
 内気なおとなしい女子大生も、十年経つと、積極的になり、落ち着いた雰囲気が身に付いている。
 卒業記念の別れの会のあと、誘われるまま、部屋に行った。
 あの夜の出来事が甦える。
 理工科に転科して、プライベートな時間は持たなくなったが、彼女とは逢っていた。
 活発な女子大生の中で、おっとりしたおとなしい態度に惹かれていた。
 逢えば、たわいのない話を交わすだけだが、やはり、別れは淋しい・・・
「好きなの!」
 と、いきなり、胸にとび込まれて驚く。
「どうしたの?急に?」
「あなたに『好きだ、愛している』といって欲しかった!」
「片思いは嫌だったから、今迄、何もいえなかったの。でも、もう、逢えなくなるのですもの。このまま、お別れするのは辛いわ」
 胸許に顔を埋めて、泣きじゃくる。
「好きだよ。これから先のことを考えて、いわなかったけれどね」
「有難う。好きだといって下さっただけで、幸せよ。あなたが、理工学部に転入した時から、大学院に進学することが分かっていたから、何もいえなかったの」
 初めてだといった。
 愛しているから悔いはないといった。
「本当に、後悔はしないの?」
「忘れられない思い出になるけれど、決して、後悔はしないわ!」
 と、きっぱり答える。
 罪悪感に囚われながら、倒れてきた身体を抱いた相手は、十年の歳月を経って、傍にいる。
 ワインで上気した顔を、真っ直ぐ、自分に向けている。
「何故、結婚しないの?」
 同じことをいう。
「君は、結婚しているんだろう?」
 問いに答えずにいう。
「帰郷して、すぐ、結婚したわ」
 経済的に恵まれない家庭に育った夫は、隣家に住んでいた関係で、早くから父親が、頭のいいのと真面目な性格を見込んで、大学を卒業させ秘書にした。
 県会議員を務めたあと、県知事に立候補して、見事、現役を破り、父親を当選させたのも、期待通り、彼の手腕があったからだ。
「父は今度は、衆議院の選挙に出るというので、今から、選挙の準備に大変なのよ」
 と、笑う。
「小さい時から、大好きだったといって、父に、大学を卒業して帰って来た私との結婚を懇願してね」
「父はもともと、将来、自分の後継者にするつもりで、信頼しているので、一にも二もなく承知したのよ」
「あなたのことを思うと辛かったけれど、諦めて帰って来たのですもの、女は愛されて結婚するのが、一番、幸福なのだからと、自分にいい聞かせて結婚したの」
「夫は十歳年上で、子供はいないけれど、夫婦としての愛情も生まれて幸せよ」
 と、微かに笑みを浮かべる。
「そりゃ、よかった。君に悪いことをしたと思っていたからね」
 若い身体は生理的に応じられても、心は添えられなかった。
 自分と係わり合いのあった女子大生も、それぞれ、職業人として第一線で活躍している。結婚して、平和な家庭生活をおくっていると、消息は誰からともなく伝わっている。
 羞恥多き青春の日も、人として成熟する過程なら、心痛む思い出も懐かしくこころが鎮まる・・・

 久し振りに逢えば、学生時代を思い出す。
 卒業生に送られる大学からの会報や、同期生達の便りで、博士号を取得したことも、准教授に昇任したことも知っている。
 学究生活は順調なのに、何故、覇気がないのか?
「どうして、結婚しないの?」
 三度聞く。
「・・・相手はいるんだけれどね」
 やっと、重い口を開く。
「じゃ、さっさと結婚しなさいよ。気になるわ」
「なかなか、思うようにいかなくてね」
 と、苦笑する。
「女は、年齢が上だと、どんなに相手を愛していても、結婚を拒むものだろうか?」
 おや?と、目を見る。
「本当に、お互いが好きなら、年など、問題でないと思うけれどね」
 暗い声だ。
「考え方によるわね。愛しているから、年なんか関係ないと結婚する人と、年齢の差に、将来の自分を重ねて、結婚に踏み込めない人もいるでしょうね」
「どうして、年に拘るのかな。好きなら一緒に暮らしたいと、思うはずだろうにね」
 顔をじっと見る。
 大学時代は、イケメンと女子学生に騒がれた人だった。
 紺のスーツーに、グレーの地に小さな水玉模様のネクタイ姿は老けて見える。
 長身であるだけに、痩せているのが目立つ。口ひげを生やした目鼻立ちの整った顔は、眉を寄せて、気難しげだ。
「喉が渇いたわね」
 ブザーを押して、コーラーを頼む。
「聞いていい? 年上のひとと、恋愛しているの?」
「・・・・・」 
 黙ってコーラーを飲んでいる。
「好きなら迷わず、結婚しなさいよ」
「うん・・」
 やっと、返事がかえる。
 彼の心を開く女性は、どんな人だろうと、同期生達が陰でいっていたが、年上の女性が相手だとは、思いも寄らなかった。
 ひげを生やし、地味な服装も、少しでも年齢の差を近付けようとしているのかと、胸にいじらしさが込み上げる。
「年が大分、離れているの?」
「うん・・・」
 重い返事だ。
「周囲から、反対されているのね」
「いや、本人が承知しないんだ」
「・・・・?」
 何故? と、問うことにためらうー
「心配しなくていいからね。なんとかなるさ」
 笑顔を見せる。
「折角逢えたのにね、暗い気持ちにさせてご免!」
「大丈夫よ。結婚生活に満足しているの。ただ・・・」
「あなたも幸せな結婚をして頂きたいわ」
 心から好きだったから、自ら抱かれた人だった。
 遠い人なのに心が騒ぐ。 
 窓の外に、紫陽花の水色の花が、午後の陽差しを浴びている。
 晴天がつづいているせいか、花は萎れて重たげだー
「時間だね。出ようか?」
 予約の二時間は過ぎている。
「友達の結婚話で終わってしまったけれど、久し振りにお逢い出来て嬉しかったわ」
「機会があったら、又、逢おうね」
 十年前と同じ別れの言葉が切ない・・・
「明日、もう一度、友達夫婦に逢ってから、帰郷するけれど、お元気でね。成功を祈っています」
 と、冗談まじりにいって、潤む目をそらす。
「有難う!」
 生真面目に答える。
 若葉のむせるような街路樹の中を車は、ホテルに向かって走る。
 好きだといってくれただけで幸せだった。初めてのひとに選んだことに、今も悔いはない。涙が溢れる・・・幸せになってほしい。初恋のひとー
 後ろを振り向かず、回転ドアに消えた姿を見送って、車に戻る。
 一時の行為に、無垢な身体に触れた自責の念はある。
 しっかりした足取りで、去った後ろ姿に、安堵が広がる・・・

 去年の十二月中旬だった。
 クリスマスが近づいている。
 大学も休講になり、研究室も休みだ。学生五、六人と、一泊二日の小旅行に出掛ける。
 宿泊先は、学生の親が経営している温泉旅館で、割安の料金にしてくれるので、学生達は、よく利用している。
 昨夜は、大きなクリスマスツリーが、早ばやと、赤や青の灯りが点滅している大広間で、カラオケ大会だといって、若い連中は、大騒ぎして賑やかだった。
 引っ張り出されて、何曲か歌わされる。
 疲れたから、朝は呼びにこなくてもいいと、いってあったので、誰も来ない。
 サイドテーブルの上の腕時計を見る。
 八時を過ぎている。
 朝食はバイキングだ。
 茶色のセーターにジーパン姿で、一階に下りて行く。
 入口近くのテーブルに、三十歳半ばの女性がいるのと、窓際に老夫婦が、ゆっくり、お茶を飲んでいる。
 あまり、食欲はなかったが、味噌汁の匂いにひかれて、大半、減った料理の大皿の並んでいる前を通り、大鍋の傍に行く。
 お椀に汁を注ぐ。
 どこに腰掛けようかと、入口近くを通りかかった時、食事が終わったのか、女性が立ち上がった。
 そのはずみに、お椀を持った手が、相手の肩に触れた。
 汁が、女性の手首にこぼれた。
「失礼! 熱かったでしょ」
 慌てて、椀をテーブルに置き、相手の手を取る。
 白い細い右の手首に、うっすらと赤味が広がっている。
「大変だ! 救急箱を持って来て下さい」
 離れたところに、立っている、従業員を呼ぶ・・・
「大丈夫ですわ。火傷をしたわけでありませんのに、ご心配いりません」
 目が合う。
 温かいまなざしだ。
 思わず、笑顔になる。
 これが、あのひととの初めての出会いだった。
 その時は、手首を冷やす程度で済んだ。
 九時過ぎ散会になり、学生達は先に車に、それぞれ分乗して出発した。
 ジャケットを羽織り、少し遅れてロビーに行く。
 あのひとが、中年女性とソファに座っている。
「先程は失礼しました。大丈夫ですか?」
 傍に寄って尋ねる。
「お気になさらないで下さい」
 と、明るい声だ。
 バスを待っているのだという。
 先月、レストランを開店してから、初めての休日で、温泉に一休みに来たのだと、連れの女性がいった。
「お送りしましょうか? 車で来ています」
「まあ! 嬉しい!  お願いしましょうよ」
 すぐ女性がいう。 
 先に食事を済ませて、売店に行っている間に、二人が出会ったいきさつを聞いているので、なんの拘りもない。
「ご迷惑をお掛けするようで、悪いですわ」
 と、あのひとは遠慮する。
「お詫びのしるしです。ハハ・・」
 と、笑って、二人を車に乗せる。
 行く先は、勤め先の大学より、三つ手前のバス停留所前に、最近、開店したレストランだという。
 自分の住居のマンションは、二つ手前にある。
「お友達ですか?」
「高校の同級生なの。やっと、念願のレストランを開店したので、息子さん夫婦が四国に転居するのに、一緒に行くというのを、無理に一ヶ月でもといって、レジを手伝って貰っているのですけれどね」
「どうぞ、これをご縁に、私共の店を利用して頂きたいわ。料理はシェフが、絶対自信があるといっています」
「大学が近いでしょ。学生さん達に来て貰いたいので、お値段もお安くしていますのでね」
 と、なかなかの商売上手だ。
「お友達? 失礼だけど、同じ年?」
 相手がくだけた話かたなので、口が軽くなる。
「同じ年ですわ。このひと、若く見えでしょ。昔から、化粧もしないのに、若々しくて奇麗なの。私なんか、ベタベタ塗って、これだけの器量なのにねハハ・・・」
 少しも、わだかまりがない。
 友達は、五十歳を越して見える。
 息子夫婦がいるという。とてもそんな年齢に見えない。
 細そりした小柄な身体、化粧をしていないのに、白い張りのある整った顔立ちは、品があり、優しい感じがする。
「寄って下さいよ。お茶でもどうぞ・・・」
 と、いう友達に、
「改めて、お邪魔しますよ」
 と、辞退して、二人を店の前に下ろす。
 ドアに、すずらんと金文字で店名が出ている。
「きっと、いらっして下さいね」
 と、いう友達のあとから
「お待ちしています」
 と、じっと見詰る目に
「必ず、来ます」
 と、じっと、見詰め返す・・・
 互いに意識した瞬間だった。
 すぐ行けなかったが、数日後、約束通り、店に行く。
 やがて、頻繁に出入りするようになる。
 あのひとに、逢うのが楽しみだった。
 何故、自分よりはるかに年上の女性に、惹かれたのか?
 研究室で、手掛けていた多用目的のカテーテルが、ようやく開発のめどがついて、気持ちにゆとりが出た時に、あのひとに出会ったのだ。
 旅館で初めて逢った時、あのひとは、既に自分の心の中に刷り込まれていたのだと思う。
 店は繁盛している。
 店の名のすずらんは、名前の終いに、んをつけると、運がいいという縁起からつけたのだという。
 女主人の、気取りのない明るい人柄のせいで、学生達に評判がよく、この頃は、大学の職員達も出入りしている。 
 学部が違うか、教授も来る。
 店内で、ゆっくり、くつろいで話が出来ない。
 外で逢うようになる。
 今日は、遊園地に行く。日曜日のせいか遊園地は、家族連れで賑わっている。
 大きな池に、紫色の花しょうぶの群れが、微風にそよいでいる・・・
 池の傍のべンチに腰掛ける。
 白いブラウスに、小さな花模様の散った黒いスカートに、足首のひきしまった形のいい足に、中ヒールの黒のパンプスを履いている。
 地味な装いで化粧をしていない色白の顔が、若々しく 清楚に見える。
 自分は、ノーネクタイでグレーのスーツの上下を着ている。
 逢う時は、好んで年齢より老けた身なりをする。
 少しでも、自分を年嵩に見せたい。
 目の前を若い二人連れが、手を取り合って通る。
 すぐ後に、若い妻が赤ん坊を抱き、その横に夫が小さな男の子の手を引いて、楽しそうに話をしながら歩いて行く。
 あのひとが、じっと、見ているのに気付く。
 口数が少ないので、何時もこちらから話しかける。
「自分のところに来なさいよ。一緒に暮らしたい」
 逢えば、同じことを繰り返す。
「年をご存じのくせに・・・」
 と、下を向く。
 毎度、同じ動作だ。
「年なんか関係ない! 結婚したい、好きなんだ!」
 両手を取り揺さぶる。
「結婚はタブーよ。こうしてお逢いしている時が、一番幸せなの」
 涙ぐむ。
 大学院迄は、郊外の両親の家から、通っていた。
 今は、大学近くのマンションで、独り暮らしをしている。
 誰にも遠慮なく、二人で暮らせる。
 まだ一度も、部屋に連れて来たことがない。
 来ないのだ。いくら誘っても、又、今度ねと逃げてしまう。
 出会ってから半年余り経つのに、店で逢う以外は、公園をぶらついたり、コンサートに行ったり、食事をしたりして時間を過ごした。
 一緒に暮らしたい!
 結婚話を持ち出すと、涙を浮かべる。
「あなたの傍にいるのは、私でなく、可愛い若い方よ。幸せに暮らして頂きたいの」
「年上の女など選ばずに、世間並みの結婚をして頂きたいの。ご両親を悲しませるようなことはしたくないんです!」
「お父さまやお母さまに、親不孝をなさらないで下さいね」
 と迄いう。
「何をいうです! 親の希望通り、勉強しましたよ。これからは、自分の人生です!」
「子供の生めない私などと、結婚なさったら、どんなにご両親は嘆かれるでしょう」
「親孝行は、別な方法でいくらでも出来ますよ。子供を作るために結婚するんじゃない! 君と共に暮らしたいから、結婚するんです」
「子供が欲しいなら、子供を育てられない人から貰ったらいいんです!」
「血のつながらないと、お父さまやお母さまは、お辛いと思いますわ」
「それなら、姉妹の子供を貰えばいい。姉は、五人も男の子や女の子がいますよ。妹は四人もいるのに、まだ生むといっているから、頼めば、両方が承知してくれますよ」
 自分は、姉と妹の真ん中の唯一の男子だと、あれこれと説得しても、頷かない。
「君は若く見える。自分と結婚しても不自然でないよ」
「若く見えるのと、若いのとは違いますわ。十年、二十年先の自分を思うと悲しい! 惨めな姿をあなたに見せたくないの」
「十年先、二十年先、君が杖をつくようになろうが、車椅子の生活になろうが、自分がきっと世話をする。愛する人と生活を共に出来るなら、どんな苦労もいとわない。傍に、何時も居てくれたら、研究に集中出来る」
 言葉を尽くして、かきくどく。
「私の気持ちが許さないの。厚かましい女になりたくないのです。あなたの将来のために、世間から祝福される結婚をして頂きたいの」
「この世に男と女がいる限り、いろいろな愛があるし、いろいろな形の結婚がある。何故、常識に囚われるのです!」
「あなたの幸せを願う、自分の気持ちを大切にしたいの」
「では、君は、自分の自尊心のために、人の心を傷つけても平気なの?そんなエゴイストだったのか!」
「どうして、私の気持ちを分かって下さらないの。誰よりも、あなたを愛しているのに、初めてお逢いした時から、今迄にない思いを抱いたのに・・・
 声を出して泣く。
 散策の人達が、ベンチの二人の見て通るー
 余り、同居をせまるのは、もの欲し気で嫌だ。少し間を置こうと、思案する。
「涙を拭きなさいよ。自分が泣かしているみたいだ」
 スーツの胸ポケットから、ハンカチを取って、渡す。
「だって、きついことをおっしゃるのですもの・・・」
「ハハ・・・ごめん!」
 泣き顔が笑顔になる。
 無邪気な可愛いひとだ。
 とても、年上だとは思えない。
 青空に白い雲が流れてゆく・・・
 複雑な気持ちで、雲の行く方を眺めるー

 友達のレストランの女主人は、苦労人だった。
 連れ合いは、妻子のある人だったという。長い間、病床の果、亡くなったという。独りで暮らすため、レストランを女手で開業にこぎつけた、気丈夫な女主人だ。
「一生、面倒を見るといって下さっているのよ。決心しなさいよ。先生のような純粋な男性は、めったにいないわよ」
 と、背中を押す。
「他の人と結婚しても、子供が出来れば、夫婦としての特別な愛情が生まれますわ。あなたにふさわしい若い方と結婚して、幸せになって頂きたいの」
 同じことを繰り返して、同居をこばむ。
 愛されてることを信じる。
 今にきっと、自分の誠意が分かってくれると思う。
 当分の間、不本意ながら、結婚話を控えよう・・・・

 この頃、来年、定年を迎える経済学部の教授が、足繫く、すずらんに食事にくる。
 すずらんでは、レジ係のあのひとがお目当てだと噂している。
 大学内では、偏屈で、変わり者で通っていて、学生に人気がない。
 妻は、大分前に亡くなっている。
 子供はいるが、結婚して別居して居り、教授は、広い家で独り暮らしている。
 気になるー
 午後の講義が終わったので、早目にキャンパスを出た。
 外はまだ明るいが、真夏の夕方は、風もなくむし暑いー
 夕食をすずらんで取るつもりで、車で店に行く。
 大きなゴムの木の鉢植えのかげのテーブルに、経済学部の教授がいた。
 あのひとが傍にいる。
 何を話しているのか、あのひとの両手を握り、熱心に喋っている。
 それを見た途端、頭に血がのぼる。
 前後の見境がなくなる。
「失礼します! 一寸、来て下さい!」
 あのひとを立ち上がらせて、手を引っぱり、外に飛び出す。
 店には、数人の客がいた。
 カウンターの中の女主人も、アルバイトの女の子達も、あっけにとられている。
 車に押し込め、真っしぐら、マンションに向かう。
 引き摺るように、部屋に入れる。
 寝室のドアを蹴り上げて開ける。
「誤解なさらないで! 経済学部の先生から、求婚されていたけれど、キッパリお断りしました」
「でも、失礼にならないように、お話だけ聞いていましたの」
 必死になって、いい訳をする。
「ふん! 両手を握らせて、随分、親しそうだったね」
 目は怒りに燃える
「そんな甘い態度を取るから、相手につけ込まれんだ!」
「どんなに、君を愛しているか!今、身体に知らせてやる!」
 荒々しくベッドに押し倒す。
 あのひとは、どんな破廉恥な行為にも、逆らわなかった。
 生涯に、再び、こんな激しい交わりがあるだろうか?
 涙が頬に落ちる・・・
 あのひとも涙を流している・・・

 男の見栄は捨てた。
 事実上の結婚をしたのだ。
 婚姻届を出そう。
 正式に入籍したら、周囲から文句はいわれない。
 自分を高く評価している、理工学部の教授が、研究員として、アメリカの大学に推薦してくれている。
 あのひとを連れて行きたい。
 気持ちは焦るが、今日は、どうしても休めない。
 研究室と企業が連帯して、共同開発をした、医療機器の試作品が出来てくる。
「少し、遅くなると思うけれど、仕事が終わったら、すずらんに直ぐ行くからね。君は先に行って、ママに事情を話していてくれないか?」
 翌朝、あのひとにいって出勤した。
 思いの他、業者とのうち合わせが、早く済み、すずらんに車を走らせる。
 店の外灯は消えていた。
 レストランは、早仕舞をしている。
 薄暗いカウンターの前で、女主人が腰掛けていた。
 あのひとの姿はない。
「実はね、あのひと、四国の息子さんのところに行ってしまったの」
 女主人は、憮然とした表情でいう。
「何故?どうして?自分に断りなしに!」
 絶句する。
 朝、渡米の話をした。
 すぐ、婚姻届を出そうといった。
 あのひとは、頷いたのだ。
 明日から、三日間、休みを取った。
 その間に、今後の生活の方針を二人で考えるつもりだった。
「車でいらっしたのでしょ。お酒は出さないわね。何か作りましょうか?」
「欲しくない・・・済みませんが、ここに居て下さい」
「先生のお気持ちは、分かっていますからね。四国行きを止めたんですよ。でも、おひげを生やして、地味な服装をして、少しでも、年の差を少なく見せようとなさる先生を見るのが辛いというのです」
「・・・・・」
 黙る。
 女主人は、あのひととは性格は、全く正反対だという。
「私は、自分の意思を通すタイプ。あのひとは、常に自分より相手の気持ちを先に考えるひとなのね」
「連れ合いとは、親子程、年が離れていたけれど、家庭を捨てて、身体一つで私のところに来てくれたんです」
 子供は出来なかったという。
「共稼ぎでしたけれど、幸せでしたよ」
「十年程、病床にいて、下の世話迄したけれど、ちっとも、苦労だと思わなかった!」
「有難う、有難う・・・俺は幸せ者だといって、不自由な手で、私の手を握って一緒にあの世に行きたい。と迄、いってくれましたけれどね」
 ママの目に涙が浮かんでいる。
「親子程、年が離れていても、最後に病人になっても、愛し合っているから幸福だというのなら、自分達の場合でも、あのひととの年の開きがあっても、一生、幸福に暮らせると思いますよ」
 精一杯、抗議する。
「男は、年を取っても、その人となりの人格が、顔に出て、余り、容貌は気にならないものですわ」
「女は違うんですよ。若さと美しさが女の生命なんです ハハ・・・」
 女主人は、声をたてて笑った。
「どんなに若く見えても、歳月には勝てないわ。前途ある方が、年上の女などと結婚をする必要はないのよ」
 と、いっていたという。
 どんなに、見目形が衰えても、世話をする立場になっても、愛する気持ちは変わらない。
 一緒に暮らしていることが幸福なのだ。
 男と女が愛し合うのに、理由はいらない。
 出会った時、互いを意識した時、運命の糸は、二人の心を結んだのだ。
「あのひとは、おとなしい、引っ込み思案な性分だけれど、一途なところがあるの」
「私なら好きなら、年なんか関係ないって、割り切りますけれどね」
「若い女性と結婚して、子供が出来たら、夫婦の愛情も生まれるといって、声を出して泣くんですよ」
 先日、再会した大学の同期生もいった。
「夫婦としての特別な愛情も生まれて、幸せよ」
 自分は違う! 初めて心から愛したひとだ。
 貪るように挑んだ、あの皮膚の感覚は忘れない。
「あれこそ、自分達の愛の証ではないか?」
 熱い血が全身を駆け巡る・・・
「先生以上に、あのひとは、辛い気持ちで諦めたんです。分かって上げて下さいな」
 コーヒーを啜りながら、女主人がいう。
「何か、言伝はありませんでしたか?」
「ございましたよ。『エゴイストといわれても、私の気持ちを無駄にしないで、祝福される結婚をして下さい』と、涙をポロポロこぼしながらいいましたよ」
 女主人の言葉に、ハッと気付く。
 自分こそ、あのひとの心を理解してないエゴイストではないか?
 強引に、自分の気持ちを押し付けていたのではないか?
 老けた身なりに固執したのも、年齢に拘ったからだが、あのひとの真意を理解出来なかった。
 自分こそ、エゴの塊だ!
 無断で去ったひとへの怒りが、少しずつ消えてゆく・・・
 幸せを願って身を引いた、心中を思うと、自分勝手な考えが、反省させられる。
 本当に好きなら、本当に愛しているなら、相手の気持ちを尊重するのが、真実の愛だ!
 悔悟の思いが込み上げる。
「あのひとの住所をご存じですか?」
「いいえ、教えてくれなかったんです。暫く、そっとしてほしいといいましてね」
 女主人は、気の毒そうに俯く。
 固く、口止めされているに違いない。
 今、逢えなくても、どこかで、元気で暮らしていてくれたら・・・
 時が、二人の愛を証明する。
「あのひとがいなくても、店に、時々、寄って下さいね」
 ママは、淋しそう いう。
「有難う。お世話になりました。又、寄せて貰います」

 だが、レストランすずらんに行くことはなかった。
 研究室に閉じこもり、仕事に没頭する。
 渡米の日もきまっている。
 食事は、職員食堂で済ませている。
 昼食時、窓際のテーブルに座っていると、目は何時の間にか、すずらんの方を見ている。
 あのひとはいないのに、何故あのレストランが気になるのだろう?
 レジの前に立ち
「いらっしゃいませ。ようこそ・・・」 
 にこやかに、客を迎えている。
 カウンターの椅子に腰掛けている自分の方を見て、微かに首を傾げて、
「待っていて下さいね。すぐ、お傍に行きますから・・・」 
 と、微笑む。
 懐かしい面影が、胸を締め付ける。 
 レストランすずらんに、あのひとは、もういない!
 この手であのひとを、もう一度、抱きしめたい、もう一度、あのひとを抱きしめたい!愛おしいひとよ!

 四国の玄関口の市に来て、一年近く経っている。
 息子夫婦と同居しているが、二人共働いている。子供はいない。
 日中は、家に誰もいない。
 無意味に暮らしたくないと思っていた。
 丁度、来てまもなく、八十数軒ある町内会で、高齢の会長が入院したため、任期途中で辞めることになった。
 臨時の常会が開かれ、選挙で、会長を選ぶことになる。
 住人のほとんどは、子育てが終わり、勤め先を定年退職して、何年も経った人達が多く、足腰が弱くなっている。
 少数の中年は働いている。
 一番若手の息子に、票が集まった。
 息子は、大手スーパーの仕入れ部の責任者で、多忙だ。
 会長の役は、留守番の母親に回ってきた。
 毎日、淋しそうにしている母親を、気にしていた息子は、
「母さん、町内の人達と親しくなるいい機会だよ。引き受けなさいよ」
 と、すぐ、賛成する。
「でも、お母さんは、これからお好きなことをなさりたいでしょうに・・・」
 と、嫁は、姑の気持ちを計りかねて、遠慮がちにいう。
「大丈夫よ。お役に立ちたいわ。喜んでお引き受けさせて頂きますよ」
 集会所の広間の一隅にある、小さな事務室に、自宅から二、三分の道を、毎日通う。
 前回と同じ副会長の二人は、男女共、八十歳近いが、元気で、気儘な一人暮らしなので、朝早くから夕方迄、住人達の話相手や、集会所の雑用を楽しそうに、こなしている。
 町内の見回りや、市への要望や依頼などの仕事は、会長の役目だった。
 出歩くことが多いと、積極的になる。沈みがちだった気持ちも、少しずつやわらぐ・・・

 事務室にいる。
 副会長二人は、珍しく休んでいる。
 ボランティアなので、時間は自由に出来る。
 自分も早く帰るつもりだ。
 窓を開ける。
 副会長達が丹精こめた花壇に、白やピンクのコスモスの花や、赤むらさき色の萩の花の群れが咲き乱れている。
 頬にふれる風は、さわやかな秋の気配がする。
「どうして、いらっしゃるか知ら?」
 心は、忘れることのない面影を追う・・・
 去年の今頃だった。
 すずらんの女主人から、短い手紙がくる。
   先生が突然、店にいらっして、アメリカの大学に行くので、
   挨拶に来たとおっしやってね。
     じっと、あなたのいたレジの方を眺めていらっしゃるの。
     一年の予定だから、帰ったら又、来ますといって、さっ
   と、店を出て行かれたのです。
    余計なことかも知れないけれど、お知らせします。
    先生が帰国なさったら、お便りします。
                       お元気でね
 住所は、こちらに来た時、世話になった礼状に書いた。
 今は、携帯さえ、持っていない。
「私の居所を教えないでね。お幸せな結婚をして頂きたくて、別れる決心をしたんです。これから、静かに独り暮らしたいの」 
 それなのに、友達の女主人は、二人を哀れに思って、消息を伝えてくれた。
 だが友情に甘えて、返事を出さなかった。

 この年になる迄、受け身の愛しか知らなかった。
 亡き夫と結婚したのも、一年の間、花を毎日届けてくれた真心に
「自分のような者に、これ程迄に思ってくれるなら」
 と、素直に、誠意を受けて結婚した。
 夫は、優しく、大切にしてくれる。
 子供も生まれて、結婚生活に不満はなかった。
 夫は、若死にしたが、周囲の助けで息子を育てられた。
 一人娘で、父母は早く泣くなり、息子が家庭を持ち独立すると、自由な独り身になる。
 今迄、いろいろと誘いはあったが、好感を持つ相手でも、結婚したいと思ったことはなかった。
 亡夫もそうだったが、自分に好意を持ってくれた男性は、皆、優しく親切だった。それだけに、ほとんど、自分の考えに、無条件に従がった。 
 内気で、表にたつことの得意でない自分には、男性から頼られることは重荷だった。
 初めて、人を愛することを知る。
 頼り甲斐のある意志の強い男らしさに、傍にいるだけでも、安心が出来た。
 相手は自分より、はるかに年下だった。
 人を想う苦しさ! 切なさ!
 愛する人から、愛される喜び!
 五歳や十歳下なら、決断出来た。
 初めて逢った時、ハイネックのセーターにジーパン姿の若々しかった人が、自分故に、年の違いを少しでも縮めようと、ひげを生やし、地味な服装をするのを見ると、胸が塞がる。
「杖をつくようになっても、車椅子の生活になっても、一生、世話する。一緒に暮らせれば、研究に一層、集中出来る」
 とまでいった。
「男と女がこの世にいる限り、いろいろな愛があり、いろいろな形の結婚がある」
「最後迄、添い遂げられない愛もあるだろうが、自分はちがう! 共に暮らすことが幸せなのだ」
 言葉を尽くしての愛を信じる。
 愛されれば愛される程、輝かしい未来を消してはならない。
 自分にも息子がいる。
 相手の両親の嘆きを思うと、申し訳なく、辛い! 
 何も考えずに、彼の懐に飛び込みたいと、幾度び思ったことか!
 引け目の結婚はしたくなかった。
 女のプライドかも知れない。
 堂々と手を取り合って、並んで歩ける、若い美しい女性こそ、彼にふさわしい結婚相手だ。
 若く見えても、歳月は無情だ。
 晩年の姿を、愛する人に見せたくない。人を愛することを、教えてくれた運命に感謝している。
 同じ年に生まれたかった!
 涙が流れる・・・
「涙を拭きなさいよ。自分が泣かしているみたいだ」
 もう、ハンカチを渡してくれるひとはいない。
 窓を閉める。
 私は生きる。
 思い出と共に強く生きる。
 あなたの手を離さずに、もう一度、あなたと呼びたかった。もう一度、あなたと・・・恋しい・・・恋しいひとを!
                                                        終

 読んで下さって
   有難うございます。
  何故、作中の人物に名前を付けることが少ないのか、それは、私であり、あなただから・・・
  何故、場所を明記することが少ないのか、それは、私の住んでいるところであり、あなたの住むところだからです。
   善を信じます。
   善の中に悪を知る
   悪の中に善は残る
  生きる目的は愛だと思います。
  愛のために、苦しみ嘆き悲しむ。
  愛によって、勇気が涌き力が出て強く生きられる。
  物語の主人公達に、何時も励まされ、そして、慰められるのです。
 

  独りを好みますが、書くことで、
    社会につながる喜びを感じます。
      読んで下さって 
         本当に
           有難うございます。

プライド

プライド

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted